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2008年3月 1日 (土)

五十嵐仁さんへの応答

私が本ブログ上で何回か批判した政治学者の五十嵐仁さんが、ご自分のブログ上で反論を書かれています。

http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2008-02-28

本論に入る前に、五十嵐さんが極めて冷静かつ温厚な態度で反論されていることに敬意を表したいと思います。そんなことは当たり前と言えば当たり前なのですが、自分の書いたことが批判されると逆上して、議論の中身はどこへやら、もっぱら人格攻撃と罵倒、さらには人格攻撃ですらない属性攻撃に終始するといった香ばしい方々もいらっしゃることですから。五十嵐さんの対応はたいへん真っ当で、真正面から私の批判に対して事実を摘示する形で反論されています。

五十嵐さんは、

>「市場主義的な構造改革路線を政策の中心に置いて走り出したのは、細川、羽田、そして何より村山といった非自民党首班内閣の時代であったこと」を隠すつもりは全くないということです。

>実は、この月例研究会では、濱口さんが指摘されるような内容についても報告しております。

と述べ、その報告会におけるペーパーを引用しておられます。そこでは、宮沢、細川、村山各内閣において、生活大国から規制緩和へ徐々に重点が移っていったことが書かれており、事実五十嵐さんは月例研究会ではそのように語られたのでしょう。

実のところ、昨年のエントリーで批判した『大原社研雑誌』のやや長めの論文では、こういった時期についての上述のような記述はなく、まさに橋本内閣から規制緩和路線が始まるような記述になっていたものですから、今回の短い報告文でもそうだと即断してしまったのですが、少なくとも今回の月例研究会の報告については、そうではなかったようです。したがって、そこを隠している云々といった私の批判は当を得ていないものというべきであり、撤回させていただくとともに、それを「知的誠実さ」の欠如と表現した点についてはお詫びしたいと思います。以上が第一点です。

第二のこの時期の内閣を熱狂的に支持したか否か云々については、おそらく五十嵐さん自身は「それまでの自民党内閣よりはましだが支持するわけではない」という立場(リベラルでないサヨク)なのでしょうし、おそらくその点では他の政治学者の方々を念頭に置いた表現を適用するのはいささか適切ではなかったと言うべきだったと思います。ただ、問題はむしろその先にあります。

上述の点とも関わるのですが、実のところ、宮沢内閣から細川内閣を経て村山内閣へと連なる政策路線には、その当時の社会状況からして、確かに積極的に評価されるべき要素があったのであり、それゆえに当時多くの学者やマスコミが支持したわけです。それは、それまでの企業中心社会の在り方にいくつかの矛盾が生じ、それを修正しなければならない状況が生じていたことを反映していました。当時、それをもっとも明確な形で定式化したものとして、例えば大澤真理さんの『企業中心社会を超えて』などが挙げられるでしょう。そこに示された批判は、それ自体としてはもっともなものが多かったことは確かです。

しかしながら、そのある面で正当な批判は、同時にそれまでの企業中心社会のもっていたそれなりの社会性、連帯性、福祉性を否定するという側面も有していました。そして、続く橋本内閣以降ではその側面が次第に前面に出るようになり、小泉内閣でその頂点に達するわけです。ここで重要なのは、この両面性をきちんと認識することであって、誰がどの内閣を支持したかしなかったかといったようなことではないのではないかと思います。

これは、やや抽象的に言うと、政策批判における過度の政治主義の弊害と言うことになるのではないかと思います。政治は友敵の区別から始まりますから、批判するなら全面的に批判した方がかっこいいし、見栄えもします。支持するなら全面支持、批判するなら全面批判、中途半端なことを言っていると、こいつはどっちつかずのいい加減な奴だということになる。しかし、世の中の物事は、そうすっぱりと割り切れるようなことはほとんどありません。企業中心主義には、確かに当時批判されたような弊害があったかも知れませんが、同時に多くの国民にそれなりにまともな生活を保障し、ワーキングプアというような状態にまで追いつめないという面もあったわけです。しかし、そういう言い方は、政治の場ではあまり見栄えがしません。

逆に、事態がここまで進んだ段階で、規制緩和路線を諸悪の根源のように批判するのは、ある意味でたやすいことではありますが、その出発点にあった(はずの)当時の生活者優先という問題意識自体が(短慮であったとはいえても)邪悪な意図であったとはいえないことも、また、当時のその主唱者たちの発言に照らして明らかであろうと思います。

政治的にかっこいい議論を追求することが、確かに批判されるべき面を有するがそれなりに有用なシステムに対して、想定以上の破壊的効果を及ぼすことがあり得るというパラドックスを、残念ながら90年代の日本人はあまり理解していなかったのではないかというのが、私の基本的な問題意識にあります。この批判を五十嵐さんに向かって投げかけるのは、あるいはむしろ適切ではなかったのかもしれません。

ただ、その時々の政治的な流行に乗って、確かにそれなりに正しい議論を展開するだけでは、言論の責任をまっとうすることはできないのではないか、それなりの正しい議論の裏側の、確かにそれなりに問題はあるけれどもやはりそれなりに有用な物事にもきちんと目線を配るという配慮がなければ、90年代のこのあやまち、確かにそれなりに正しかった生活者優先、企業中心社会を変えようという議論が、気がついたら規制緩和万歳に至りついていたというこのパラドックスを再び別の形で繰り返すことになりかねないのではないか、という私の思いが、「知的誠実さ」というややもすれば人格批判にもなりかねない言葉を用いたことの背後にあることを、同時にご理解いただければ有り難いと思います。

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コメント

>一方的に“殴りかかった”のは濱口さんであり、私はやむを得ず、面倒くさいけれど防戦に立ち上がったというのが、この再反論であるという事情をご理解いただきたいと思います。
>もし、最初の時に濱口さんの思いこみを正していれば、今回のような再批判はあり得なかったはずです。そうすれば、濱口さんにとっても、このような私に対する人格批判によって「恥の上塗り」をすることは避けられたかもしれません。

>それに、中曽根内閣以降の政治過程における私のスタンスを理解していただくうえでも有益でしょう。また、労働の規制緩和がどう進んできたかということについても、理解を深めることになるでしょうから……。
>ということですが、残念ながら、今日は予告だけにせざるをえません。現在、拙著『労働政策』の著者校正と『日本労働年鑑』の編集を行っていて時間がないからです。

3月1日(土) 濱口桂一郎氏への再反論-その1:五十嵐仁の転成仁語:So-net blog
http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2008-03-01

『日本労働年鑑』とは、法政大学大原社研の年鑑ですね。政治学の方も編集に携わっていらっしゃるのか、と、全く見当違いな感想ですが。
この、毎年きちんきちんと出る年鑑、作文をするときに、注に引くようなことはあまりないですが、概観したい、とか、ある年の状況を確認するとか、いろいろけっこう便利に使わせて頂いています。

リベサヨ批判を振りかざしたら相手はガチリベだったという話もありそう。

> [労働][政治][思想][左翼]リベサヨ批判を振りかざしたら相手はガチサヨだったという話
ブックマークしたユーザー kyo_ju

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