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2008年3月17日 (月)

ナショナリティにも労働にも立脚しない普遍的な福祉なんてあるのか

『世界』の4月号に掲載されている田村哲樹氏の「国家への信頼、社会における連帯――「高福祉高負担」の条件 ―― 」という論文が、福祉国家を支える哲学的基盤は何なのかという大問題の所在を極めて明瞭に示しているので、ちょっとコメントしておきます。

http://www.iwanami.co.jp/sekai/index.html

福祉国家を支える「我々意識」や「連帯」が衰退ないし解体しつつあるという認識のもとで、田村氏は4つの対応策を示します。第1は、個人化を所与の前提として個人の選択、ニーズに可能な限り応えていく行政サービス。しかしこれはもはや福祉国家ではないですね。第2は、ナショナリティの再興。第3は労働を共通性とした連帯の再生。第4がより普遍主義的な福祉制度。

そして、ナショナリティには排除がつきまとうから駄目だといい、労働については、男性稼ぎ手モデルではだめだとか、今後十分な雇用機会は供給されないとか、労働できないものを排除するといって批判し、第4の選択肢としてベーシックインカムを持ち出すわけです。

労働中心の福祉への批判については、いろいろと反論したいことはありますが、それよりも何よりも、一体一方でナショナリティを根拠として捨てておいて、何を根拠に「普遍的な福祉」が可能なのか、どこまできちんと考えているのだろうか、という点です。

実を言うと、労働中心主義でも、様々な就労や社会参加をフルに活用して最後になお残る労働に立脚しない福祉というのは残ると思うのですが、ナショナリティという我々意識なしにそんなものが維持可能なのでしょうか。働かない同胞になお福祉が与えられなければならないとしたら、それは「同胞」だから、としか言いようがないのではないでしょうか。ヨーロッパの場合、EU統合の中で狭義のナショナリティを超えて一種の我々意識が形成されていけば、そのレベルの普遍的福祉というのもありうるかも知れません。しかし、それが、アフリカの貧しい人々にも同じように適用されるべきだと、多くのヨーロッパ人が思うようになるとは、正直言って私には思えません。

ベーシックインカムを軽々しく持ち出す人々に対して、私がどうしても拭いきれない疑問は、それが究極的には「同胞」意識にしか立脚できないにもかかわらず、なんだかそれを離れた空中楼閣の如きものとしてそれを描き出している点です。日本人だけでなく、地球人類すべてに等しくベーシックインカムを保障するつもりがあるのかどうか(誰が?)、そのための負担を、そう「高負担」を背負うつもりがあるのか、そこまで言わないと、ナショナリティを排除したなんて軽々しく言わないで欲しいのです。

私は、福祉の根拠としてナショナリティを否定することはできないと思っていますが、しかしそれを過度に強調することは望ましくないと思っています。だから、労働を根拠に据える必要性があるのです。様々な事情に基づいて「いったん労働市場から退出することの保障」も含めたものとして、しかしながら永続的に労働市場の外部に居続けることを保障するすることのないものとして。

(参考)

かつてのエントリーで似たようなことを書いていました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_cda3.html

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コメント

> ナショナリティには排除がつきまとう

福祉には排除がつきまとう。労働だろうが、国家だろうが、ベーシックインカムだろうが、それは変わらない。あえて言えば、ベーシックインカムは簡明だから

この方の議論は「理想の社会」を、外側から考えていらっしゃるような感じですね。
現実に、ある社会でベーシック・インカムを保障するとしたら、ま、当然、お金がいるわけで、そういう普遍的な制度は、税によるか社会成員の拠出金(社会保険料のような)によるかという議論になるのでは。で、自分たちがその税なり、拠出金を払いつつ、その社会の運営に参加する立場にあれば、「条件なしにどんな人にも平等に分けてあげましょう」という博愛の権化みたいな人はそんなに多くないでしょうね。ぶらり庵も「タックスペイヤー」としては、お金の使い道はとても気になります。ワケワカンナイ銀行に注ぎ込まれるよりは、ベーシック・インカムの方がいいかもしれない、とは思いますけど。
ブレア時代のイギリスに仕事で行ったとき、案内してくれた大学職員の方が、福祉で食べていて働かない若者のことを「あいつらのために税金を払っているわけじゃない」といったことを(この場合は、税金ではなくて社会保険料でしょうかね)とても腹立たしそうに言っていたのと、大学の食堂でランチをご一緒したのですが、サンドイッチと一緒にウィスキー、だったのがとっても印象的でした。もっとも、ウィスキーは小さいグラスに少量(でもストレートだったような)で、顔色も変えずに仕事に戻られました。もうじき年金、という女性でしたが。

>「あいつらのために税金を払っているわけじゃない」

まさにそれが、福祉国家が揺らいできた最大の根源なんです。

この点で、ぶらり庵が興味深いと思うのが、フランスの考え方です。
「liberte, egalite, fraternite」というのは、もちろん、フランス革命のスローガン。このうち、「リベルテ」と「エガリテ」は、現在の法制、価値観にそのまま脈々と生きて使われている言葉ですが、「興味深い」のは、「フラテルニテ」が「ソリダリテ solidarite」に変わったのではないかと思われること。これは、労働者だけでなく、さまざまな層、けれども、その「社会の成員」である層をつなぐ言葉ですね。まず、何らかの形でその社会の成員であると認められる人に社会からの連帯の手を差し伸べる、という。もっとも普遍的な「成員資格」が、どうも「家族」であるのでは、と思っていますが、ここらへんもhamachanの考え方をおききしたいところです。
で、関連で、フランス家族政策や、それから、イギリスでの遊び関連社会政策ネタも書きたいところですけど、書くよりも、今日は休日ですので、これからお出かけ!

ぶらり庵が上記の「あいつらの・・・」の発言に遭遇したのは、イギリスはシェフィールド大学、アラン・ウォーカー教授をおたずねした折のことでした。高齢者雇用問題でJILのシンポジウムなどにもおいでになったウォーカー教授をごぞんじの方は多いと思います。EUの社会政策研究者では五指に入るリーダー格の方かと。で、ウォーカー教授にお教えいただいたことはほんといろいろありましたが、研究室が素敵でした。壁にはフェルメールの「青いターバンの少女」の大きな複製。フェルメールがお好きとのことで、近年話題になった映画も「良かったですよ」と言っておられました。それに、お名前の入ったサッカーのユニフォームがこれも壁に!これは、講演先のドイツで記念にもらったもの、ととても楽しそうにしておられました。教授はテニスとウォーキングが主とか。
このあと、デンマークの高齢者NPOエルドラセイエンにもうかがいましたが、広報担当のシニア男性は、奥様が教員で、アイロンかけは自分の担当、けっこう時間がかかるのでワーグナーをかけながらやっています、先日はケーキ作りもしました、とのことでしたが、がっしりした長身の方で、冬の海で泳ぐトレーニング(デンマークで、ですよ!)もしている、と、健康なだけでなく、教養もある中高年男性の見本のような方々でした。ワーク・ライフ・バランスとアクティブ・エイジングと共同参画で、社会政策ネタです!

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