フォト
2023年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ

« 知的誠実さについて | トップページ | 人生と暮らしと労働 »

2008年2月22日 (金)

辻広雅文氏の誤解を招きやすい正論

ダイヤモンドオンラインのコラムで辻広雅文氏が書いた「正社員のクビを切れる改革は本当にタブーなのか?」は、「轟々たる批判、非難が寄せられた」そうで、それに対する再反論がさらに掲載されています。

http://diamond.jp/series/tsujihiro/10011/

http://diamond.jp/series/tsujihiro/10013/

辻広氏自身にもきちんと区別がついていないかに見受けられるところもあるのですが、解雇規制ということの概念規定がいささか不用意であるために、いたずらに批判を招いているふしがあるように思われます。辻広氏の言う「正社員のクビを切れる」というのは、社長とセックスするのが君の仕事だと言ったのに言うことを聞かないから「クビを切れる」ということでもなければ、求人広告に月給30万円だと書いてあったのに、実際は10万円だったので、こんなのおかしいじゃないですかと苦情を言ったら「クビを切れる」ということでもないはずです。

「はず」というのは、辻広氏は明示的にそういうのを除くと明記してはいないからですが、まあ、そういう場合でもクビを切れるようにしておかないと、そういう目にあった労働者の既得権を保護したりすれば、当の労働者を過酷な地位に追いやり、若い既得権のない人々を不幸にする、これはニュートンの力学法則のようなものだ!とまで仰るつもりはないだろう、と推測するわけです。

実際、辻広氏は

>日本では正社員の整理解雇は、ほぼ不可能だ。社員保護の判例が最高裁判決まで積み重なり、いわゆる「整理解雇の四条件」が厳格基準となり、ありていに言えば、倒産寸前に追い詰められなければ、解雇など許されない。であれば、労働法制を大転換し、「正社員の整理解雇を容易にする改革」が不可欠となろう。

と、述べているので(労働法を学んだ人ならすぐ気がつくでしょうが、この表現には事実に反する誇大な表現があるのですが、それはとりあえず措くとして)、ここでいう「クビが切れる」というのはあくまでも、労働力の絶対量を減らさなければならないときに、どういう形で減らすかという規範の問題に限られているはずです。

とすれば、それがまさに正規労働者と非正規労働者の雇用保障の格差問題であることも見やすい道理ですし、今までの整理解雇法理が正規労働者の雇用保障の代償として非正規労働者には(上記のような人権侵害的な場合であっても)ほとんど雇用保護を与えてこなかったことをどう考えるかという課題への一つの回答として、ある意味で極めてリーズナブルなものであることも了解されるでしょう。

さらに、辻広氏は最近の水町勇一郎先生の議論を引きながら、

>価値観が多様化、多元化し、なおかつ、産業別あるいは企業ごとに、経営事情、労働状況がそれぞれに異なるようになった今、国が法律で金太郎飴的に縛ってももはやうまくいかない。それなら、欧州ではソーシャルダイアログ、米国では構造的アプローチと呼ぶ、労使の対話、集団的コミュニケーションによって、個別に労働ルールを決めたほうがいい。労働法制は、その対話を促進するような内容に変えていくべきだ――そういう考え方に変化してきているのだという。

>例えば、国は、「合理的理由がない限り、処遇差別をしてはならない」という平等原則だけを掲げる。労使対話には、正社員だけでなく非正社員、派遣、業務請負に至るすべての雇用者が参加し、平等とは何かを徹底的に議論し、ルールを作成し、運用に関与する。

 その集団対話のなかで、あまりに強い正社員の法的保護、既得権が浮かび上がり、どうにかして派遣や業務請負との差別的格差を解消して、同一労働同一賃金などの「公正」を実現しようとするプログラムが組み立てられていく。例えば、あくまで正社員の雇用を維持し、非正社員を不況時の人員調整弁に使おうとするなら、正社員の雇用条件を下げ、一方、不安定な立場の非正社員には優遇措置を行う、といった工夫はできるだろう。

 さらに踏み込んで、正社員の雇用調整が容易になり、逆に、非正社員が正社員になりやすくなるという改革もありえる。正社員の雇用調整が不可能であるのは、裁判所が判例を積み重ねて、いわゆる「整理解雇の四要件」を越えられぬ壁としたからだ。つまり、国が決めている。それでは、時代環境にも個別事情にもついていけない。労使が考え抜いて、ルール、運用を工夫し、納得したら、柔軟な雇用調整を許容すればいい

という風に議論を進めていきます。労働問題を個別関係の中に閉じこめるのではなく、集団的な枠組みで解決を図っていこうというのは、まさに私も強調していることであり、そしてそのためにこそ、正規労働者も非正規労働者も、パートも派遣も請負も、その職場で働くすべての労働者が参加する集団的枠組みを構築していかなければならないという話につながるのですね。

もちろん、すべてを集団的な枠組みに委ねられるわけではありません。上で例示したような経営上の必要性のない恣意的な「クビ」は、健康を危うくするような長時間労働と同様、「政府が作る画一的な規定」が必要な領域でしょう。

しかし、労働力の絶対量を減らさなければならないときに、それをどういう形でやるべきかは、それに直接利害が関わるすべての人が関わる形でなされるべきだというのは、民主制原理から考えてももっともまともな判断だと思います。

かつてのように正社員はみんな女房子供を養わなければならない成人男性で、非正規は旦那に養われている主婦パートか親がかりの学生アルバイトなんだから、当然後者のクビを切って前者の雇用を守るべし、という風には言えなくなってきた時代であればこそ、その間の利害調整(利益と不利益の分配)は、それぞれの状況に対応できる形で分権的に行われる必要が高まってきているわけです。

個別労働者の権利ばかりに関心が逝っていた近年の風潮に対して、集団的労使関係的発想を再度再建する必要性ということでもあります。

ま、それを「正社員のクビを切れる改革」というような不正確な上に不必要に刺激的な言い方で打ち出す必要はないのではないかとは思いますがね。

« 知的誠実さについて | トップページ | 人生と暮らしと労働 »

コメント

日本の労働組合の弱いところは、ほぼ労働条件についてしか交渉のできないところではないでしょうか。人事について交渉できない。個々には差があるかもしれませんが、集団的な賃金水準は交渉でき、また、かなり力のある組合なら、その賃金水準のもとになる評価基準も交渉できるのかもしれません。成果主義を導入する組織なら、この交渉力は大切ですね。
でも、問題は、その先、そういう「評価基準」にのっとって、誰を登用する、ということについての交渉力を持つかどうかなのではないか、と思います。これが、「人事は人事権者の専権で、組合の関与するところではない」と使用者側につっぱねられているケースが多い(あるいは、すでに、そういうものとして、組合はかかわらない)のでは。
ぶらり庵は、組合論には(も)全然詳しくないのですが、「誰を登用するか」について、少なくとも、組合が、推薦・同意・拒否、などの力を持てれば、組織の中の労使関係、組合の力、ひいては人間関係などがかなり「改善」されるように思います。
「人事権者の専権」だけでは、評価基準についてどんなに立派な作文があっても、結局、人事権者のお気に入りを登用するだけ、という構造は変わらないでしょう。ここで「登用」というのは、まずは、正社員の中での管理職への登用を考えていますが、これを、例えば、非正規社員の正社員への転換も含めて考えられれば、労働組合の役割は格段に大きくなると思うのですが。
hamachanにおたずねしたいのですが、ヨーロッパでも、そういう「人事権」に組合は噛まないのでしょうか。それから、日本国内の組合では、「人事権」についての状況ってどうなのでしょう、かつ、どのように考えられているのでしょう。

まず、もっとも基本的な事項として、欧州の労働組合は企業内組合ではなく、主として産業別レベルで組織される団体ですから、企業を超えた労働条件規制がその任務であって、企業人事への関与はそもそも対象ではありません。
それに対して、企業内に法律にもとづいて設置される労働者代表制は、各国によっていろいろですが、人事の基本的な枠組みに対する関与や共同決定が定められています。採用、配置転換、査定等々の一般原則ですね。
で、日本の特徴は、欧州であれば企業内労働者代表制に当たるような組織が労働組合として労働条件交渉に当たっているという点です。そして、労働組合法という法律は、労働組合を企業内労働者代表としてではなく、「労働組合」として規定している、つまり、企業内代表としての権限は、組合が事実上獲得する以外には、法律で担保されているわけではない、といういささか皮肉な状態であるわけです。
この「事実上獲得」が最大限に拡大したのが終戦直後の時期で、採用から解雇まで、人事はことごとく労働組合の承認がなければ動かせませんでした。その後経営側が力を回復して(熾烈な闘争をくぐり抜けて)、人事権は経営側の権限という風になっていったわけです。
ただ、では日本の企業内組合は人事に噛まないのかと言えば、労使協調的な枠組みの中で一定の関与はしているので、むしろそういうのがそもそもない欧州の労働組合に比べればそっちが日本の特徴だと思います。ただし、それは(欧州の企業内代表制のような)法律の担保はないので、労使対立状態になったら逆に武器はなくなります。不当労働行為制度というのは、そういうのにはほとんど役に立ちません。

この辺をどう考えるかというのが、ここ2年ほどの私のテーマの一つでもあるわけで、ちょっと思い切った議論として、こんなのも書いてみたりしましたが、なかなかむづかしいところなんです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/sankachap5.html

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 辻広雅文氏の誤解を招きやすい正論:

« 知的誠実さについて | トップページ | 人生と暮らしと労働 »