学界展望における福井論文の紹介とコメント
一昨日のエントリーで紹介した日本労働研究雑誌2/3月号所収の「学界展望 労働法理論の現在」ですが、そのうち、私が報告を担当したうちの一つである福井・大竹編著の「脱力本」に関する紹介とコメントの部分を載せておきます。
ちなみに、このあと、有田先生、道幸先生、奥田先生からもさまざまなコメントがされていますが、それらは是非雑誌そのものをお買い求めの上お読みください。
http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2008/02-03/index.htm
>●福井秀夫/大竹文雄『脱格差社会と雇用法制――法と経済学で考える』
【濱口】 この著作をなぜ取り上げるかといいますと、一つは、特に福井秀夫氏が規制改革会議の労働タスクフォースの主査として、2007年5月に意見書を出して、これがかなり大きな反響を呼んだということで、日本の労働政策決定の中枢に近いところにいて、いろいろな意見を言っている人だということと、それから、これは副題が『法と経済学で考える』となっていて、法と経済学という新しいディシプリンでもって労働法にチャレンジしたものだという触れ込みなのですが、しかし、実は特定の立場に立った法と経済学でもって今の労働法制を非難するものになっていて、これこそが法と経済学だというふうに理解してほんとうにいいのかということについては、かなり疑問があります。
この本に対しては、『季刊労働者の権利』でも取り上げられましたし、あるいは『労働法律旬報』でも批判が載ったんですが、その中で、経済学から労働法に対する挑戦状だというような記述がありました。しかし、そういうとらえ方はあまり適切でないのではないか。本来、経済学にはもっといろいろな考え方があるはずなのに、特定のイデオロギーのものだけが経済学で、経済学というのはけしからんというふうになってしまうと、いい意味の労働法と経済学のコラボレーションができなくなってしまうのではないか。そういう意味で、この本をきちんと批判的しておくことが必要ではないかということで、この本を取り上げることにしました。
この本は何人もの人が各章で論文を書いているんですが、中心になっているのは、第1章「解雇規制が助長する格差社会」という福井秀夫氏の論文ですので、ここでも専らそれについて議論したいと思います。この第1章自体、いささか論点が錯綜しているんですが、大きな流れとしては、現在の労働経済学で解雇規制を正当化する議論、これを不完備契約理論といいますが、これに対する批判が中心になっていますので、そこを中心に見ていきたいと思います。
この不完備契約理論というのは、労働者にとって情報に非対称性がある。つまり、将来起こり得る事態をすべて雇用契約に明記して、その履行を強制するということはそもそもできないという特質があるということから、どうしても雇用契約というのは粗くなってしまう。そうすると、それにつけ込んで、使用者が機会主義的な行動をする危険性というのが出てくる。それを防止するために解雇を規制する必要があるというものです。これに対して福井氏は、同じく長期継続的な契約である借家契約というのを取り上げまして、それと同様、雇用契約だって、かなりの部分を契約に記述することは可能であると言います。また、技能というのは他の使用者のもとでも十分生かせることが多いから、解雇規制が情報の非対称性を改善する効果は乏しいと、その効果を否定します。それに対して、解雇規制を導入してしまうと、逆に使用者側にとっての情報の非対称性が高まるという論点を出します。つまり、採用する前は生産性が高いか低いかわからない。これが情報の非対称性です。ところが、採用後、実は生産性の低い労働者だったということがわかっても、解雇規制があると解雇できないために、採用する前にあらかじめ生産性が高いと見込まれる類型の労働者を採用しようとする。その際、学歴がシグナルとして利用されるので、学歴差別が促進されるんだということを、かなり縷々書いています。
また不完備契約理論については、これも労働経済学では、転職すると企業内での教育投資の効果が発揮できなくなるような当該企業固有の投資、これを企業特殊的投資というんですが、これがあるから不完備契約になるという理論があるのですが、そんな投資は普遍的ではない。多くは、どの労働者にとっても共通の知識、技能であると言って、その根拠を否定します。また、企業が機会主義的行動をとるという前提に対しても、そんな蓋然性はあまりない、もしその企業が機会主義的な行動をとるのであれば、雇用契約を完備契約、つまり、起こり得ることをすべて書き込んだ契約に近づけるために詳細で客観的な契約条項を規定すればいいんだ、それが大事だという言い方をします。
きょうも取り上げられた内田先生をはじめとする、いわゆる継続的契約論についても、たとえ契約が長期継続的な契約であっても、将来の権利義務関係を完全に予測することは可能だというような前提に立って、したがって解雇規制を強制する理由はないんだということを言っています。
それから、もう一方で、労使の非対等性というのは、これは労働法、労働経済学の出発点からの前提だと思うんですが、これについても、そもそも労働市場というのは需要独占や寡占ではなくて使用者間に競争があるから労使の非対等性はないという論理になっています。
さらに、憲法に基づく生存権から解雇規制を論ずる議論に対しては、そんなものは各企業にやらせるんじゃなくて、国家が失業給付や生活保護で行えばいいというような議論をしています。
具体的な立法論として、これは結構おもしろいところなんですが、金銭解決に対しては極めて否定的でありまして、金銭解決というのは、本来あるべきでない規制を前提としたものなので、ないほうがいいんだけれども、しかし、とりあえず、やるんだったら金銭解決でもやむを得ないと、妥協的改善策としては認めるという議論になっています。
コメントですが、この福井さんという方は、もともと建設行政が専門で、借地借家法の規制緩和に活躍された方です。それはそれでいいんですが、どうもそのために、雇用契約についても、自分の土俵である借地借家契約と同視するような議論を展開する傾向が見られます。確かに借地借家契約も雇用契約と同じように長期継続契約なんですが、しかし、借地借家というのは人間の意思的行為自体を目的とするものではなくて、単に物的設備の貸借にすぎないんです。それに対して、雇用契約というのは、日々の人間の意思的行為そのものが契約の目的になっているわけです。つまり、単に長期継続というだけでなくて、人間が意思的に行う行為を長い将来にわたってことごとく予測し記述することができるという前提に立っているという点において、彼の議論には大きな問題があるだろうと思います。
あるいは、議論の手法にもいくつか大きな問題がありまして、例えば、企業特殊的技能の問題についても、100%他企業に移転できないような、全くその企業でしか使えないような技能というものはないだろう、かなりのものは企業で共有されるという議論でもって、あたかもすべての技能が普遍的で、転職しても全くロスがないということが論証できたという議論を展開しています。
真実はおそらく中間にあって、非常に企業特殊的な熟練から全く普遍的な単純労務までさまざまな技能があるはずですが、100%かゼロかという話で、100%を否定したからゼロだと言わんばかりの、こういうレトリックの使い方というのは問題があるのではないか。
それから、労使の非対等性について、独占や寡占じゃない、競争があるからいいんだというロジックなんですが、これは外部労働市場で移動可能性があれば非対等性があるというロジックです。ここには、企業内部における権力関係という認識が全く欠落しているんじゃないか。経済学でも、例えばハーシュマンの議論では、相手に対して行動を要求する際に、エグジット、退出することによって相手にメッセージを伝えるというやり方とともに、集団内部でボイス、発言することによって変えていくという2つの在り方を論ずる議論というのがちゃんとあるわけなんですが、このボイスという観点が全く抜け落ちている。特に労働関係の場合には、集団内部に非対称性があるわけですから、ボイスをいかに集団的にやっていくかというのが中心的な課題になるはずなんですが、そういう観点が全く欠落しているというところにも大きな問題があります。
それから、やや論点は変わるんですが、生存権は国がやればいいという議論は、まさに旧来の福祉国家の発想で、ヨーロッパの場合、国が福祉の面倒を見すぎたために、今、むしろ「福祉から就労へ」とか「メイク・ワーク・ペイ」という議論になってきているのに、今から全部福祉で面倒を見るつもりだろうか。おそらくそんなことをする気は全くないはずですが、しかし、レトリックとしては、生活保護で面倒を見ればいいというようなことを言っているというところも大きな問題だろうと思います。
それから、特に実証性ということでいうと、解雇規制があるから学歴差別の原因になるというような議論をするのであれば、例えば、世界で最も解雇規制が緩い随意雇用原則をとっているアメリカでは最も学歴による差別が少なくて、ヨーロッパは解雇規制が厳しいところも緩いところもありますが、それと学歴差別の程度というのはおおむね比例しているとか、少なくとも、どこまできちんとやるかは別として、そういうことを実証しなきゃいけないなと思わなければいけないのではないかと思うんですが、そういうことはない。レトリックだけで、解雇規制があるから学歴差別になっているのがよくないという議論に終始していています。
総じて、こういうロジックが「法と経済学」だとなってしまうと、経済学的な発想で労働法を論じていくという、本来、豊穣な可能性があるものを、かえって閉ざしてしまう可能性があるので、大変問題ではないか。そういう意味では、むしろ望ましい経済学からの労働法の分析の例として、矢野誠編著の『法と経済学』に入っている樋口美雄先生と山川隆一先生の「労働法」の章が、労働法規制があることによってどういうメリットがあるのか、また同時にどういう問題点があるのかを指摘していて、非常にバランスのとれたものだと思います。
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