涙もろい隣人に囲まれた社会的孤立
連合総研の「DIO」の巻頭言がなかなか面白いです。
http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no224/siten.htm
>涙の方も同様に文化差が大きいようだ。容易に理解されない日本人の涙の典型例としてよく引き合いに出されるのが、アントワープ大聖堂のルーベンスの絵の前でウルウルしている日本人の姿である。むろん、信仰心からではない。芸術的感動とも違う。多くの場合、「フランダースの犬」の悲劇的結末、村を追われた主人公ネロと愛犬パトラッシュが大聖堂の中で天に召される場面を連想するからなのだ。
私も当地赴任中は、たくさんの日本人を連れて行きました。みんな、「これがあのネロとパトラッシュが最後に見た絵か」と感動の涙・・・。
>この映画の公開をきっかけに、ひとしきり盛り上がったウェブ上の議論を眺めていて、あるベルギー人のコメントが目にとまった。いわく、「ネロの悲劇の背景には工業化初期のフランドル地方における社会的不平等と貧困層での広範な児童労働の存在があった。幸いにして、その後の社会福祉の発展はネロの悲劇を過去のものとした」と。ネロの悲劇をこのような社会的文脈で捉えるとは、いかにも「社会的ヨーロッパ」路線のお膝元らしい。たしかに、同情の涙は、そのままでは悲劇をなくし、幸福を増進するわけではない。それが困窮する仲間への共感に昇華され、共助や公助の社会的制度として具体化するかどうか、それが問題だ。
仮にわれわれ日本人が、ひどく涙もろい隣人に囲まれているとして、はたしてその同情の涙は、心強い仲間の共感や社会的連帯につながっているのだろうか。残念ながら、そうはいえないようだ。
と、こういう風に話をもっていくところが、さすが連合総研ですが。
>昨年11月27日の連合総研設立20周年記念シンポジウム(「福祉ガバナンスの宣言」)の中で、マルガリータ・エステベス・アベ ハーバード大学准教授は、ホームレス状態から脱け出すことは、ロサンゼルスの方が東京よりも容易であるという比較研究の結果を例に、現代日本社会の持つ「冷たさ」の側面を指摘した。今後実証研究を深めるべき重要な問題提起であろう。たしかに、戦後日本社会は「落ちこぼれ」を出さないことに努力を傾注してきた半面で、一度落ちこぼれると容易に抜け出せない傾向を持っていたかもしれない。
これは、私も出席したシンポジウムです。
>アントワープ大聖堂のルーベンスの絵の前で流す涙は、精神的健康維持には役立つかもしれない。けれども、その同情の涙を他者への共感として普遍化し、社会的連帯として組織化することが、日本社会の健康のために、いま求められている(不)。
と締めくくるところはお見事。
で、このシンポジウムにおけるパネルディスカッションの概要も、同誌に掲載されています。
http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no224/houkoku_2_discussion.htm
このうち、私の発言部分だけコピペしておきます。
濱口 今、格差問題というのが大きな課題になっていますが、規制改革を進め構造改革をやるというのは細川内閣、村山内閣の方針であり、その延長線上に小泉改革があるわけなので、皮肉な言い方をすれば連合はこの10年余り、新自由主義的な構造改革を支持し続けてきたとも言えます。それなりの理由があったのだろうと思いますが、日本的システムに出てきた様々な矛盾に対して対案を提示するべきところを、従来のシステムを全部壊すという方向に突っ走ってしまったとのではないでしょうか。私はちょうどその頃、ヨーロッパにいましたが、日本の動きがとても不思議に思われました。というのは、ヨーロッパでも古い型の福祉国家を変えようとしていましたが、福祉国家を担ってきた社民党や労働組合は、全部壊すということはやりませんでした。全部壊そうとしたのはサッチャーだから、それと同じことをやってもしようがないというのは当然ですが、彼らは「自分たちがつくってきた福祉国家の根っこにある連帯の思想は大事だから維持する。しかしそのやり方は間違っていたからそこを変えなければいけない」というような議論を行っていました。
ILOのフィラデルフィア宣言に「労働は商品ではない」という言葉がありますが、2つの意味があります。1つは、労働は商品ではないのだから資本の論理で弄ばれるものになってはいけない。だから、労働者保護法制や完全雇用政策によってちゃんと使われるようにしなければいけないという考え方です。もう1つは、商品ではないんだから売らなくてお金が国から貰えるようにするというものです。両者は矛盾するわけではなく、後者がないと前者の保障もきちんと担保できないわけですが、後者が強調され過ぎると、働かなくもいいじゃないかという話になります。
ヨーロッパで新自由主義的な考え方が非常に強くなっていった1つの原因は、後者の労働力の脱商品化という意味付けにありました。皆が「働けるのに怠けているヤツに、何でオレたちの税金が使われるのか。けしからん」と思うようになり、90年代のヨーロッパでは「第3の道」に転換し、福祉ではなく仕事を通じて社会に参加していくことが大事ということで、そのためにいろいろな公的な支援をしていったわけです。
日本もそういうことをやってきており、ある意味では「第3の道」でした。ただし、対象は世帯主の成人男性で、時間外労働や配転については受け入れざるをえないが雇用は手厚く保障されてきました。ところが、90年代にそれがだんだん崩れてきて、こぼれ落ちる人がどんどん出てきました。こうした中で、1999年に政府は「生産性の低い人には厳しくすべきだが、こぼれ落ちた人にセーフティネットで保護していく」という方針を打ち出しましたが、セーフティネットを張りめぐらすという方向にはいきませんでした。
今後向かうべき方向は、日本型雇用の良いところをきちんと残しながら、つまり仕事を通じてスキルと処遇が上がっていき、加えてワーク・ライフ・バランスもとれた「いい仕事」を多くの人々が生涯にわたって確保していけるシステムを実現していくことだと思います。
濱口 労働が商品として売られなくても済むような生活保障システムは、日本にもあり、雇用保険の失業給付や生活保護というのがそれです。しかし、失業給付は給付期間が大変短くしかも制度の対象がかなり狭い。最後のセーフティネットの生活保護は、身ぐるみはがれないとなかなか適用してくれないので、生活保護も受けられず生活保障もない多くの方々が残ってしまいます。ここをどうするかが大きな課題です。
基本的には、ヨーロッパで大きな流れになっている「ウエルフェア・トゥ・ワーク」、福祉でずっと食べていくということではなくて、働ける人はできるだけ仕事を通じて社会に参加していくという方向であり、そのためにすべての人が働いて社会に参加できるような仕組みをつくっていき、そのための公的負担をしていくことがふさわしいと思います。生活保護は、本人だけでなく家族、子の教育費、住宅費も全部面倒をみていますが、生活保護を脱却して働き始めると、本人分だけの非常に安い給料しか払われません。この部分を手だてする仕組みは日本にありません。正社員は会社がその部分をみるという雇用システムだったからです。このような仕組みからこぼれ落ちると全部なくなってしまうという現状をどうするのか、そこのところに、これからの日本の福祉ガバナンスの1つの方向性があるのではないかと思います。
濱口 職場のコミュニティ、職場の連帯と言ったときに、労働組合は同じ職場にいるパート労働者のことまで考えて議論をしているのでしょうか。遠くにあるコミュニティの話をしていては身近にいる仲間の不利益の問題などが抜け落ちてしまいます。いま必要なのは、空洞化しつつある職場のコミュニティ、連帯感をもう一度、1人ひとりを組み込むような形でつくり出していくだと思います。まさに職場に根ざしたコミュニティを再建するところから、マクロな場における労働組合の発言が高まっていくのであり、その取り組みは第一歩だと思います。
« 丸尾拓養氏のマクド判決批評 | トップページ | 逆フォーディズム »
「さみしい」(社会的孤立)を感じている「子ども」が、OECD諸国の中では、日本が「飛びぬけて」多い、というレポート「An Overview of Child Well-being in Rich Countries」をご紹介しましょう。
http://www.unicef-irc.org/publications/pdf/rc7_eng.pdf
ユニセフが昨年発表したものです。子ども達の置かれている状況についての興味深い統計満載ですが、「社会的孤立を感じている度」は、このレポートの38ページの表。けっこう衝撃的ですよ。
日本の「少子化対策」、子どもを産む層や、その他成人国民へのアンケート・統計っていっぱいありますが、子どもがどう感じているかを含めて子どもの状況全般についてのまとまった統計ってないような。
投稿: ぶらり庵 | 2008年2月 8日 (金) 03時27分