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2008年2月21日 (木)

学校選択制は、「ダメな学校」を構造的に作り出す

(最近これを紹介することが多いですが、別に日経BPの回し者じゃありません)日経ビジネスオンラインで広田照幸氏のインタビュー記事が載っていて、私も前に本ブログ上で何回か書いたフリードマン信者大好きの教育バウチャー制について、教育専門家の立場から的確な批判を加えています。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080215/147257/

>バウチャー推進論者は、教育バウチャー制度によって「教育がよくなる」と連呼しているのですが、私には、どうも納得ができません。どうしてあんなにラフで楽観的に導入推進を主張できるのですかね。

>いま推進論者が提案している形のバウチャー制度を日本で実施したら、どうしてそれが毒薬にならず良薬になるのかについては、ほとんど説明されていないのです。「これさえ飲めばガンが治りますよ」という、怪しいセールストークを聞かされているような気分です。

>「最悪のシナリオ」というのは、ニュージーランドのように、学校間の格差が拡大していき、バウチャーが実質的に富裕層への補助金になってしまう、というものです。

 というのも、いままでの議論をみるかぎり、私学にどう手をつけるのかが全然議論されていないし、競争状態を作り出すための条件、すなわち公立学校のカリキュラム編成などに自由度をどう与えていくかという議論もなされていません。

 つまり、公立学校が私立学校と対等な条件で競争できるようにするにはどうすればいいのかという議論が、まったく欠けているのです。私学を経営している人にとっては、触れてほしくない論点かもしれません。

 具体的にはこういうことです。私学の自由度(特に授業料徴収の自由、選抜の自由)が保持されたまま制度が運用されたら、私立の学校は競争条件に変化がないまま、今までよりもはるかに多額の補助金を「児童・生徒の数」に比例して受け取るようになってしまいます。

 そして教育予算は大枠がかぎられていますから、結果的に、公立学校への財政配分は低下します。私学に食われてしまうからです。また、赤林氏がいうように、選抜の自由が保持されたままでは、バウチャーは私立に子どもを通わせたい教育熱心な富裕層への補助金にしかなりません。

 同時に、公立学校は人気校・不人気校に分化していきます。学校選択制をやってきている品川区でも、そういうふうになっていますけれども、生徒が集まらない不人気校には予算をカットする、というふうになると、その流れに拍車がかかります。「うちの子の学校は少人数でいいわぁ」なんて、呑気なことを言っていられなくなってしまいます。

推進論者が抱いてきた願望と違って、生徒の問題行動の総量は減らないで、ひょっとしたら増えるかもしれない。しかも、「問題集中校」みたいな形で、特定の公立学校は、今以上に大変な状態になっていくんじゃないでしょうか。

>冒頭に紹介した教育再生会議の報告でも、バウチャー制度は学校選択制とセットで提案されています。単なる個人への補助金交付ではなく、保護者と子どもに学校を選ばせる。ユーザーである保護者や子どもは「教育の質」を判断して学校を選ぶようになるから、学校間でよりよい教育を提供すべく競争が起こり、結果として教育全体のパフォーマンスも向上する、という論理構成です。

 一見すると、もっともな議論に見えますが、ここには「情報の不完全性」あるいは「情報アクセスの不完全性」という問題がするっと抜け落ちているように思います。

>、「宣伝」にせよ「評判」にせよ「評価」にせよ、情報や情報アクセスには、つねに不完全性がつきまとわざるをえません。「教育の質」が情報化されることにさまざまな困難があるし、仮に十分な情報が提示されたとしても、選択の際に使われるとはかぎらない、ということです。

 だから、各学校が教育の改善や工夫をしたからといって、それがストレートに保護者に伝わり、地域の評判も上がって、入学者が増加する、という具合にはいかないと思います。

 むしろ、各学校でやれる工夫の幅が小さい中で、一元的な尺度で学校の評判が決まっていき、ひとたび悪評に見舞われた学校は、教師たちのさまざまな努力や工夫にもかかわらず、ずるずると入学する生徒は減っていく、というふうなことが起きてしまうはずです。

 これを極端な悲観論のように思われる方もいるでしょう。でも、たとえば学校選択制をいち早く導入した東京都品川区の公立小中学校の選択動向を見ると、そうなっています。入学者数が減った後に巻き返しができた学校はごくわずかで、ほとんどは増加と減少の二極化傾向にあります(小林哲夫「親子の本音が招く人気校への雪崩現象」『中央公論』2006年11月号)。

 たんなる学校選択だけでもそうなのだから、予算のカットと連動したら、ますますいったん「不人気校」のラベルを貼られると、脱出が困難になってしまいます。

>経済学者の小塩隆士氏も、学校選択においては初期条件がかなり重要なポイントになると述べています。格差がゼロという状態はありえないから、親は「あの学校は学級崩壊が多いからやめよう」とか「進学率が高いからここにしよう」とか、限られた情報で学校を選択する。その結果、「いい学校」はますますよくなり、「悪い学校」はますます悪くなる、と(『教育を経済学で考える』)。

 そうであるならば、大前提(1)を改める必要があります。「親や子どもは『教育の質』を厳密に判断しない」と考えないといけません。

 学校選択制やバウチャー制の導入論者は、この点を決定的に無視しています。彼らは、親や子どもが完全情報のもとで、消費者として合理的な選択をする、というモデルで学校改革を考えています。でも、実際にそうはならないのです。

 「学校がもっと情報発信を」とか、「評価結果の公表を」といったふうに、学校選択制やバウチャー制の導入論者は主張します。でも、それは、完全情報のもとでの合理的な選択を保障することにはなりません。多くの人は単純な序列や風評・イメージで学校を選択し、不人気校はその結果、いくら努力しても浮き上がれないという泥沼に落ち込むでしょう。

 学校間のゼロサム・ゲームで、予算の取り合い競争させるようなしくみは、長期的には、公教育一般への信頼性を揺るがせてしまう、と思います。「ダメな学校」をいつも構造的に作り出すしくみだからです。

 そうではなく、「どこの学校に行ってもちゃんとした教育が受けられる」という安心感を与えるだけの公教育の充実こそが、長期的に好ましい戦略だと思います。問題を抱えた子どもが多くいる学校には教員を加配するなど、プラス・アルファの発想で、公教育をトータルに底上げしていく施策こそが必要なのです。

単純素朴な初等ケーザイガク教科書嫁派がうかつに労働という高等生物たる人間の絡み合いの世界に手を突っ込んだときに起こる愚かな現象と、ほとんどパラレルな事態が教育の分野でも起こることを、説得的に説明されています。どちらも人材養成と活用という同じ課題をもった領域ですから、当然といえば当然でしょう。

まあ、公立学校にカネを流すなんて無駄遣いはやめて、金持ちの子供だけがもっともっと国から金を貰えるようになればいいじゃんか、と本音では思っている人が、アフォなB級国民をだまくらかすためにケーザイガクを操っているだけなら、それこそイデオロギー暴露だけで済む話なのですが、世の中そう単純な構造になっていない。唱道者の少なからざる部分は、多分本気でカルトなケーザイガクを信じ込んで、本気でバウチャーにしたら世の中がよくなると思いこんでいるから話はややこしいのです。人間はなぜエセ科学に引き込まれるのか、というテーマともつながる大きな問題なのでしょう。

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コメント

バウチャーが毒薬になる可能性は大いにありますね。
相対的に見れば「ダメな学校」を作る制度であることに関しては、間違いないといってもいいです。

授業料徴収の自由は前提条件としてなければ、金持ちに追い銭になってしまいますね。バウチャーと現金の併用を禁止しなかったら、問題にならないほど不公平な制度になります。勝ち負け学校以上にしっかりと論議すべきところをはっきり意識させていただけてありがたい。

非常に長い引用ですね。引用元の記事も読ませていただきましたが、私学の市場拡大、新規参入について触れていないことと(現場の目としては必要ないかもしれません)、現状での公教育格差への問題意識が読み取れないのは残念なことです。選択の自由のないところで負け組に入れられたら、引っ越しのできる金持ちの有利ですからね。

保護者の判断が必ずしも合理的でないというのは当り前の命題ですが、公立学校で平等に教育が受けられるなんて欺瞞です。高等生物たる人間の絡み合いの世界でそれが実現されるわけがない。その上、保護者から判断を取り上げるということが許されるのか?典型的なパターナリズムです。だから悪い、とは言いません。アフォなB級国民から子供をさらって適切に教育するシステムがあればそれもいいでしょうが。バウチャー制度とは別に、選択の剥奪は意識されるべき問題だと思います。

カルトの独り言が長くなってしまいました。失礼。

イデオロギーだ、というのは全くその通りなんだろうけれども

>金持ちの子供だけがもっともっと国から金を貰えるようになればいいじゃんか

とは限らないでしょうね。

経済学(?)の部分はニセ科学かもしれんけど、イデオロギーはニセ科学とは違うでしょうね。

このところ、毎年、OECD調査が発表されるたびに、フィンランドの教育、とかが話題になりますが、そういうところから、何か学ぼうということは、文科省の中では話にならないのですかね。
個々の親は「フィンランドのような教育制度にしてほしい」とか思ってない、「うちの子をとりあえず、どこに入れるか」しか興味がない、のは、岡本薫先生のご指摘のとおりですが。

> 実質的に富裕層への補助金になってしまう

高校以上は既に学校選択制ですが、それがメンバーシップ型社会と組み合わさり、
「俺は他の連中よりも優秀だ」という無限定な序列化の道具になっている訳です。
私立、公立、国立に大きな違いはあまりなさそうです。

> 維新が胸を張る「高校の授業料無償化」
> 弱肉強食を加速
https://www.dailyshincho.jp/article/2025/03180601/

高等教育ならば何でも無償化が良いのか、ということなんでしょうね。
公益性に応じて補助率が定まる、と言う方が一貫性はあると思います。
私的教育が弱肉強食を加速するものであるのは当然であって、問題は、
税金が弱肉強食を加速して良いのですか?、ということだと思います。
ここに人文系の人が乱入をすると「人文学を修めて教養を深めることは
職業教育なんぞよりも公益性があるのだ」と騒ぎ立てる訳ですけれど。

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