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分権真理教?

いや、別に呉智英老師の向こうを張ろうというわけではないのですが、

http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2008/0228/agenda.html

昨日の経済財政諮問会議で「政府機能の見直し」ということで、「国と地方の仕分け」「官と民の仕分け」が議論されたようです。官民の問題は市場化テストとしてここでも何回か取り上げてきましたが、昨日は全国知事会から「国の地方支分部局(出先機関)の見直しの具体的方策(提言)」というのが示されていて、有識者議員もそれをエンドースする文書を出しており、一言コメントしておく必要を感じます。

労働行政関係では、労働基準行政と職業安定行政をまるごと地方に移譲可能だと書いてあるのですが、どこまで本気なのでしょうか。正直いって、をいをい、という感じです。ただ、「をいをい」の中身はだいぶ違います。

労働基準行政を地方に移管するとどういういいことがあるのか、提言の後ろの方の「国の出先機関の廃止等によって地域活性化や行政改善が想定される事例」にも載っていません。多分、どう頭をひねってみても見つからなかったのでしょう。その代わりに、弊害は山のように思い浮かびます。労働基準行政というのは、すべての事業場をある意味で仮想敵として臨検監督し、違反を摘発するわけですから、地方政治レベルでは山のような圧力が予想されます。何でこんな我が県のためになっている大事な会社を詰まらん労基法違反如きで摘発するんだ、という政治的圧力に、県庁の一課長如きがどこまで堪えられるか、ということについて、常識的な感覚を少し働かせれば、どういう事態が現出するか容易に想像できるものだと思うのですが。

これに対して、職業安定行政は、実はそもそも1999年までは県庁の中にあったのです。知事の指揮監督を受ける国家公務員という特殊な形態、地方事務官という仕組みだったのですが、それが地方分権の趣旨に反するということで、国と地方で取り合いした挙げ句、国に一元化されてしまったという経緯があります。その結果、都道府県は国とは別に職業紹介事業ができるという規定が設けられ、まさに二重行政の弊をもたらしてしまいました。私は、職業安定行政の性質からして、地方自治体と切り離して動かすことは適当ではないと思っています。産業振興や福祉、教育といった、他の地方レベルの行政とも密接に連携していく必要がありますし、地方政治レベルの要望に敏感に対応していく必要性も高いと思うからです。しかし、一方で、職業紹介と失業給付は表裏一体でなければモラルハザードを大きくしますし、雇用対策の財源ともなっている雇用保険は多くの大企業が集中する都市部から地方への再配分機能を果たしていて、これを完全に分権化すると地方は雇用対策が困難になるでしょう。カネの面倒は国が見るという仕組みをやめてしまって本当に大丈夫だと、多くの地方の知事さんたちがお考えなのか不思議です。

私は、かつての地方事務官制度は決して悪いものではなかったのではないかと思っているのですが、地方分権というのは地方自治体と国とでどっちが100%とるかとられるかの喧嘩だというようなおかしな分権真理教のせいで、かえって地方自治体から引き離されてしまい、いささか浮いてしまっているように思います。労働基準行政はむしろKYの方がよく、浮いているぐらいでちょうどいいのですが、職業安定行政の場合はちょっとまずいと思います。

まあ、いまさら地方事務官制をそのまま復活するわけにもいかないのでしょうが、国と地方自治体が有機的に組み合わされた二重行政でないいいシステムを作り上げるにはどうしたらいいかという積極的な方向性でものごとを検討してもらいたいものだと感じます。

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学界展望における福井論文の紹介とコメント

一昨日のエントリーで紹介した日本労働研究雑誌2/3月号所収の「学界展望 労働法理論の現在」ですが、そのうち、私が報告を担当したうちの一つである福井・大竹編著の「脱力本」に関する紹介とコメントの部分を載せておきます。

ちなみに、このあと、有田先生、道幸先生、奥田先生からもさまざまなコメントがされていますが、それらは是非雑誌そのものをお買い求めの上お読みください。

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2008/02-03/index.htm

>●福井秀夫/大竹文雄『脱格差社会と雇用法制――法と経済学で考える』

【濱口】  この著作をなぜ取り上げるかといいますと、一つは、特に福井秀夫氏が規制改革会議の労働タスクフォースの主査として、2007年5月に意見書を出して、これがかなり大きな反響を呼んだということで、日本の労働政策決定の中枢に近いところにいて、いろいろな意見を言っている人だということと、それから、これは副題が『法と経済学で考える』となっていて、法と経済学という新しいディシプリンでもって労働法にチャレンジしたものだという触れ込みなのですが、しかし、実は特定の立場に立った法と経済学でもって今の労働法制を非難するものになっていて、これこそが法と経済学だというふうに理解してほんとうにいいのかということについては、かなり疑問があります。

 この本に対しては、『季刊労働者の権利』でも取り上げられましたし、あるいは『労働法律旬報』でも批判が載ったんですが、その中で、経済学から労働法に対する挑戦状だというような記述がありました。しかし、そういうとらえ方はあまり適切でないのではないか。本来、経済学にはもっといろいろな考え方があるはずなのに、特定のイデオロギーのものだけが経済学で、経済学というのはけしからんというふうになってしまうと、いい意味の労働法と経済学のコラボレーションができなくなってしまうのではないか。そういう意味で、この本をきちんと批判的しておくことが必要ではないかということで、この本を取り上げることにしました。

 この本は何人もの人が各章で論文を書いているんですが、中心になっているのは、第1章「解雇規制が助長する格差社会」という福井秀夫氏の論文ですので、ここでも専らそれについて議論したいと思います。この第1章自体、いささか論点が錯綜しているんですが、大きな流れとしては、現在の労働経済学で解雇規制を正当化する議論、これを不完備契約理論といいますが、これに対する批判が中心になっていますので、そこを中心に見ていきたいと思います。

 この不完備契約理論というのは、労働者にとって情報に非対称性がある。つまり、将来起こり得る事態をすべて雇用契約に明記して、その履行を強制するということはそもそもできないという特質があるということから、どうしても雇用契約というのは粗くなってしまう。そうすると、それにつけ込んで、使用者が機会主義的な行動をする危険性というのが出てくる。それを防止するために解雇を規制する必要があるというものです。これに対して福井氏は、同じく長期継続的な契約である借家契約というのを取り上げまして、それと同様、雇用契約だって、かなりの部分を契約に記述することは可能であると言います。また、技能というのは他の使用者のもとでも十分生かせることが多いから、解雇規制が情報の非対称性を改善する効果は乏しいと、その効果を否定します。それに対して、解雇規制を導入してしまうと、逆に使用者側にとっての情報の非対称性が高まるという論点を出します。つまり、採用する前は生産性が高いか低いかわからない。これが情報の非対称性です。ところが、採用後、実は生産性の低い労働者だったということがわかっても、解雇規制があると解雇できないために、採用する前にあらかじめ生産性が高いと見込まれる類型の労働者を採用しようとする。その際、学歴がシグナルとして利用されるので、学歴差別が促進されるんだということを、かなり縷々書いています。

 また不完備契約理論については、これも労働経済学では、転職すると企業内での教育投資の効果が発揮できなくなるような当該企業固有の投資、これを企業特殊的投資というんですが、これがあるから不完備契約になるという理論があるのですが、そんな投資は普遍的ではない。多くは、どの労働者にとっても共通の知識、技能であると言って、その根拠を否定します。また、企業が機会主義的行動をとるという前提に対しても、そんな蓋然性はあまりない、もしその企業が機会主義的な行動をとるのであれば、雇用契約を完備契約、つまり、起こり得ることをすべて書き込んだ契約に近づけるために詳細で客観的な契約条項を規定すればいいんだ、それが大事だという言い方をします。

 きょうも取り上げられた内田先生をはじめとする、いわゆる継続的契約論についても、たとえ契約が長期継続的な契約であっても、将来の権利義務関係を完全に予測することは可能だというような前提に立って、したがって解雇規制を強制する理由はないんだということを言っています。

 それから、もう一方で、労使の非対等性というのは、これは労働法、労働経済学の出発点からの前提だと思うんですが、これについても、そもそも労働市場というのは需要独占や寡占ではなくて使用者間に競争があるから労使の非対等性はないという論理になっています。

 さらに、憲法に基づく生存権から解雇規制を論ずる議論に対しては、そんなものは各企業にやらせるんじゃなくて、国家が失業給付や生活保護で行えばいいというような議論をしています。

 具体的な立法論として、これは結構おもしろいところなんですが、金銭解決に対しては極めて否定的でありまして、金銭解決というのは、本来あるべきでない規制を前提としたものなので、ないほうがいいんだけれども、しかし、とりあえず、やるんだったら金銭解決でもやむを得ないと、妥協的改善策としては認めるという議論になっています。

 コメントですが、この福井さんという方は、もともと建設行政が専門で、借地借家法の規制緩和に活躍された方です。それはそれでいいんですが、どうもそのために、雇用契約についても、自分の土俵である借地借家契約と同視するような議論を展開する傾向が見られます。確かに借地借家契約も雇用契約と同じように長期継続契約なんですが、しかし、借地借家というのは人間の意思的行為自体を目的とするものではなくて、単に物的設備の貸借にすぎないんです。それに対して、雇用契約というのは、日々の人間の意思的行為そのものが契約の目的になっているわけです。つまり、単に長期継続というだけでなくて、人間が意思的に行う行為を長い将来にわたってことごとく予測し記述することができるという前提に立っているという点において、彼の議論には大きな問題があるだろうと思います。

 あるいは、議論の手法にもいくつか大きな問題がありまして、例えば、企業特殊的技能の問題についても、100%他企業に移転できないような、全くその企業でしか使えないような技能というものはないだろう、かなりのものは企業で共有されるという議論でもって、あたかもすべての技能が普遍的で、転職しても全くロスがないということが論証できたという議論を展開しています。

 真実はおそらく中間にあって、非常に企業特殊的な熟練から全く普遍的な単純労務までさまざまな技能があるはずですが、100%かゼロかという話で、100%を否定したからゼロだと言わんばかりの、こういうレトリックの使い方というのは問題があるのではないか。

 それから、労使の非対等性について、独占や寡占じゃない、競争があるからいいんだというロジックなんですが、これは外部労働市場で移動可能性があれば非対等性があるというロジックです。ここには、企業内部における権力関係という認識が全く欠落しているんじゃないか。経済学でも、例えばハーシュマンの議論では、相手に対して行動を要求する際に、エグジット、退出することによって相手にメッセージを伝えるというやり方とともに、集団内部でボイス、発言することによって変えていくという2つの在り方を論ずる議論というのがちゃんとあるわけなんですが、このボイスという観点が全く抜け落ちている。特に労働関係の場合には、集団内部に非対称性があるわけですから、ボイスをいかに集団的にやっていくかというのが中心的な課題になるはずなんですが、そういう観点が全く欠落しているというところにも大きな問題があります。

 それから、やや論点は変わるんですが、生存権は国がやればいいという議論は、まさに旧来の福祉国家の発想で、ヨーロッパの場合、国が福祉の面倒を見すぎたために、今、むしろ「福祉から就労へ」とか「メイク・ワーク・ペイ」という議論になってきているのに、今から全部福祉で面倒を見るつもりだろうか。おそらくそんなことをする気は全くないはずですが、しかし、レトリックとしては、生活保護で面倒を見ればいいというようなことを言っているというところも大きな問題だろうと思います。

 それから、特に実証性ということでいうと、解雇規制があるから学歴差別の原因になるというような議論をするのであれば、例えば、世界で最も解雇規制が緩い随意雇用原則をとっているアメリカでは最も学歴による差別が少なくて、ヨーロッパは解雇規制が厳しいところも緩いところもありますが、それと学歴差別の程度というのはおおむね比例しているとか、少なくとも、どこまできちんとやるかは別として、そういうことを実証しなきゃいけないなと思わなければいけないのではないかと思うんですが、そういうことはない。レトリックだけで、解雇規制があるから学歴差別になっているのがよくないという議論に終始していています。

 総じて、こういうロジックが「法と経済学」だとなってしまうと、経済学的な発想で労働法を論じていくという、本来、豊穣な可能性があるものを、かえって閉ざしてしまう可能性があるので、大変問題ではないか。そういう意味では、むしろ望ましい経済学からの労働法の分析の例として、矢野誠編著の『法と経済学』に入っている樋口美雄先生と山川隆一先生の「労働法」の章が、労働法規制があることによってどういうメリットがあるのか、また同時にどういう問題点があるのかを指摘していて、非常にバランスのとれたものだと思います。


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プリンスホテルvs日教組問題の文脈

この問題、その後もいろいろと火花を散らせているようですが、どうも世間は日教組を左翼思想を世に広めるための政治思想団体であるかのように考えて、集会結社の自由だなんだという方向でばかり議論されているようで、正直いって私には大変違和感があります。

http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080226AT1G2604426022008.html

http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080226AT1G2604H26022008.html

裁判所の命令を聞かないのは法治国家に反するだとか、旅館業法違反だとか、そういう議論もそれなりにもっともではあるけれども、なんだか個人の思想信条の自由の延長線上でのみこの問題を議論していくと、結局憲法学者が大好きな立憲主義の枠組みの中の議論になっていってしまって、個人の自由を守るために国家権力を動員するという話にしかならない。

いやもちろん、そういう枠組みも大事だし、憲法学者や法哲学者にとってはそれが飯の種だからそういう議論でいいのですが、そうじゃない視角があんまり見えないというのは問題だと思いますね。

逆に、労働組合の団結権の問題だと(連合のボイコットはまさにそういう考え方の上に成り立っているわけですが)考えれば、これは少数者の弱々しい権利を国家権力にお願いして守ってもらうような話ではなく、国家権力に頼らず多数者の力で労働者の権利を侵害する企業に対して言うことを聞かせるという話であるはずです。多数者がボイコットするから効き目があるのであって、少数者であることに自己満足している集団がボイコットしてみたところで、蛙の面にションベンでしかない。そういう集団ほど、自分たちの力不足を補うために国家権力に頼りたがるのですがね。

これを言い換えれば、労働者の団結は多数者であることが唯一の武器なのですから、労働者の労働者としての利益と直接関係がないような政治思想運動には距離を置いた方がいいということでもあります。様々な政治的立場の労働組合が、教育労働者の団結への攻撃には共通してボイコットするというのが労働者の連帯というものでしょう。余計な話ですが、日本の労働運動は平和運動とかなんとかに余計な精力を使いすぎてきた嫌いがあるのは否めません。

労働運動の歴史からすれば、あまり司法権力に頼る方向ではなく、まさに「団結は力なり」を自分たちの力で示していくことこそが本筋だと思います。

(追記)

よく判らないのは、プリンスホテルがケシカランと言っている人々が、もしホテル側が最初から「いやあ、日教組さんは右翼を連れていらっしゃるからお断りさせていただきます」と言っていたら、それはしょうがないと考えるのかと言うことです。法律的には、それは私的自治の世界ですから、一方が嫌だというものを強制することはできません。

初めから契約していない相手に、会議を開かせろ、宿泊させろという裁判を起こすこともできないでしょう。法治国家云々と言ってみたって、一回目のうっかりして日教組と契約してしまったときだけは通用するにしても、それに懲りた二回目以降は通用しませんね。

しかし、そうやって排除されてしまって手も足も出ないという情況が、労働組合の団結権にとってはもっとも望ましくないことなのですから、必要なのはそういう風にさせないことでしょう。それはもはや法治国家だとか旅館業法だとかといった話ではないはずです。

初めから「労働組合はお断り」というようなホテルこそ、労働組合の総力を挙げて(国家権力に頼ることなく)ボイコットしないといけないわけでしょう。それはもう、(暴力ではないが)実力行使の世界です。そういう感覚がなくなってしまうことの方が、逆に心配なんですが。

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hamachan=八代尚宏?

労務屋さんが、『東洋経済』の「雇用漂流」特集の福井秀夫 vs hamachanを取り上げて論評されています。

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20080220

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20080221

私の発言のうち、整理解雇法理を見直すべしというところにいささか意外の感を抱かれたようで、

>hamachan先生と解雇規制緩和という組み合わせにちょっと意外感があり、具体的にはどういうことをお考えなのだろうとhamachan先生のブログをサルベージしてみましたが、なにしろ膨大かつ充実したブログなので発見できませんでした。ただ、この文脈から読めば、解雇回避努力の一部、つまり正社員の解雇を回避するために有期契約社員の雇い止めや派遣の打ち切りを先行させなさい、という部分を見直すべきだ、ということだと思われます。

で、実はこれは規制緩和論者、たとえば八代尚宏先生の主張と同じなんですね。

と述べられています。やたらに量ばかり多いブログで済みません。

こういう感想は、実は昨年11月の連合総研20周年シンポでも会場からいただきまして、お前のいっていることは労働ビッグバンと同じじゃないか、と。

ネット上でも、hidamari2679さんの「風のかたちⅡ」というブログで、

http://ameblo.jp/hidamari2679/entry-10043928066.html

>特に濱ちゃん先生の「整理解雇法理の見直し」のくだりは、道理に暗いひだまりワン公にはドッキリものと思えた。福井君はともかく、「カナダ型」とかおっしゃっている八代先生と一瞬かぶって見えた

こういう感想は、ある面で正しいのです。実際、八代先生の本拠の労働市場改革専門調査会に呼ばれていったときに、こういうふうに喋っています。

http://www.keizai-shimon.go.jp/special/work/15/work-s.pdf

>今日の議論とどこまでつながるかわからないが、解雇ルールを論じるときには、2つの次元に区別した方がいいだろうと思う。

1つ目は、一般的に雇用契約が成立している中で、使用者側が、ある労働者について、とにかく気に入らないから首にするという行為、これは両者の力関係に差があり、一種の権力的な行為になってしまわざるを得ないが、それを認めるのかどうかという問題である。

2つ目は、企業が市場の中で運営している中で、どうしても労働力の投入量を削減せざるを得ないときに、整理解雇するのは良くないので、日ごろから時間外労働に従事させて、不況になったらそれを減らしなさい、あるいはどこか遠くに配転して賄いなさい、あるいはパート・アルバイトを解雇して、正社員の雇用は何が何でも守りなさいというような、いわゆる「整理解雇法理」に結集しているようなものの考え方である。この二つの次元を分けて考える必要があると思っている。

前者について、およそ雇用契約関係という、単純なものの売り買いでない人間関係の中で、権力的に私の言うことを聞かないからお前は首だというものを全く野放図に認めている国はヨーロッパでは1つもなく、アメリカという特異な例があるだけである。解雇規制が非常に緩いと言われている、例えばデンマークモデルと言われるデンマークでも、そういう公序良俗に反するような解雇についてはきちんと規制されている。そういう次元の解雇規制、解雇ルールの問題と、整理解雇を過度に規制することによって、時間外労働、配転、非正規労働者などに様々な無理を生じさせているような解雇規制とは分けて議論する必要がある。

そういう意味から、これは基本的には労働契約法の中でも議論されたが、今の整理解雇法理をそのままの形で法制化するのは、やはり抜本的に考えた直した方がいいはずだと思っている。

ただ、逆に言うと、一般的な解雇規制については、今の解雇権濫用法理のようなあいまいな形ではなく、正当な理由がなければ解雇してはならないと、きちんと書いた方がいいのではないかと思っている。

ここのところをもっと詳しく展開してみたのが、昨年夏に『季刊労働者の権利』に書いたものです。上のhidamari2679さんは、これを読まれて上の感想を漏らされたわけですが。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roubenflexicurity.html

最初のところは福井秀夫氏の批判、本体部分はEU諸国の解雇法制の解説(この部分はあまりほかになく役に立つはずです)、そして最後のところが日本の解雇規制の見直し論です。

(1) 権利濫用法理からの脱却

(2) 金銭解決の検討の必要性

(3) 整理解雇法理の見直しの必要性

と、いずれも同誌の購読者であると想定される労働弁護士の皆様には大変刺激的なものになっています。

で、最初に戻りますが、これは「八代尚宏先生の主張と同じなんですね」と言われれば、その限りではその通りだとお答えすることになりましょう。労働者の側にとって弊害をもたらしているような規制は緩和すべきだという点では、意見に違いはありません。

ただ、だからといって「すべての規制は定義上労働者のためになるように見えて必ず労働者に不利益をもたらすものである」とは私は考えていないというだけです。そして、何が利益で、何が弊害かという判断基準自体、社会の変化、時代の流れの中で変化してくるものだという、まあある種歴史主義的な発想(と言っていいのかどうか分かりませんが)が、私の基本にあるので、70年代にはそれなりに社会的妥当性があった整理解雇法理も、今の時代には見直さないといけないでしょう、と考えているわけです。

その意味においては、

hamachan≒八代尚宏

という等式は別に間違っておりません。ただ、その緩和の代わりに、どういう点で労働者保護のための規制を強化すべきかという点についてまで意見が一致するという保障はありません。

(追記)

平家さんにも、「労働・社会問題」ブログで当該記事を取り上げていただいています。

http://takamasa.at.webry.info/200802/article_12.html

こちらは、主として福井秀夫氏の議論について、経済学的な立場から吟味しているもので、大変参考になります。(左にトラバが来ています)

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福井秀夫氏の反・反論

さて、規制改革会議のHPに「『規制改革会議「第2次答申」(労働分野の問題意識)に対する厚生労働省の考え方』に対する規制改革会議の見解」というのが載っています。

http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/publication/2007/0222_02/item08022202_01.pdf

>厚生労働省は『規制改革会議「第2次答申」(医療分野及び労働分野の問題意識)に対する厚生労働省の考え方』(以下『厚生労働省の考え方』という)において、「契約内容を当事者たる労働者と使用者の「自由な意思」のみにゆだねることは適切でなく、一定の規制を行うこと自体は労働市場の基本的性格から必要不可欠である。」としているが、労働契約について、当会議が単に労働者と使用者の「自由な意思」のみにゆだねるべきであるなどと主張した事実はない。「労働市場における規制については、労働者の保護に十分配慮しつつも、当事者の意思を最大限尊重する観点から見直すべき」と主張しているのである。
したがって、労働者の保護に必要な法的な手当を行うべきことは当然である。

ほほう、「当会議が単に労働者と使用者の「自由な意思」のみにゆだねるべきであるなどと主張した事実はない」んですかあ。限りなくそれに近いことを主張しておられたようにお見受けしますが、まあ御本人がそうでないと仰るんですからそうでないんでしょうねえ。なにしろ「労働者の保護に必要な法的な手当を行うべきことは当然である」と、はっきり仰られたのですから、今後その言葉に則った言動をされることを切に期待いたします。

金銭解決すらケシカランといわんばかりの口ぶりであった解雇規制についても、

>厚生労働省は『厚生労働省の考え方』において、「契約の内容を使用者と労働者との「自由な意思」のみにゆだねることは適切ではなく、最低限かつ合理的な範囲において規制を行うことは必要であり、専ら情報の非対称性を解消することで必要な労働者保護が図られるとの見解は不適切である。」としているが、当会議において、厚生労働省が主張するように、雇用契約の内容を単に「『自由な意思』のみにゆだねる」べきであるなどと主張した事実はない。むしろ、「労働市場における規制については、労働者の保護に十分配慮しつつも、当事者の意思を最大限尊重する観点から見直すべき」と主張したのである。規制の見直しによって生じうる問題点について、必要な法的手当てを行うべきことは当然である。

そういうことであるならば、日本語は通じるようですよ、厚生労働省の皆さん。

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今度はフィンランドで

最近、フィンランドモデルとか言って、教育関係者に異常な注目を集めているフィンランドですが、労働関係ではスウェーデンやデンマークと同様の、労働組合の圧倒的な組織率によって労働市場を支配し、公的規制が少ないという北欧モデルの一つです。

それゆえに、EU統合で貧しい中東欧諸国の労働者がやってくると、なかなか難しいことになるという点も共通です。

今度はフィンランドでラヴァル事件みたいなのが発生したようです。今回はポーランドの建設会社。

http://www.eurofound.europa.eu/eiro/2008/01/articles/fi0801039i.htm

>A Finnish construction company has called a halt to work carried out by a Polish subcontractor at the building site of the Helsinki Music Centre, after articles in the press stated that Polish construction workers had been paid less than €2 an hour at the site. The representative trade union in the construction sector had already protested against the Polish building company Ekomel operating as a subcontractor at Finnish building sites.

ラヴァル事件で欧州司法裁判所が労働側に厳しい判決を下したこともあり、EUにとって望ましいモデルであるはずの北欧モデルが、EUの人の自由移動によって崩されていくという大変皮肉な事態が進行していくわけで、悩ましい話なんですね。

こうなってくると、労使の自治に委ねて国家規制をできるだけやらないという北欧モデルから、労使に自治能力がないものだから国家権力がやたらにしゃしゃり出るというフランスモデルに近づいていくしかなくなって、EU全体としては大変困ったことになるわけなんですが・・・。

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学界展望:労働法理論の現在

日本労働研究雑誌の2/3月号に、「学界展望:労働法理論の現在──2005~07年の業績を通じて」というかなり長い座談会形式の論文批評が載っています。

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2008/02-03/index.htm

出席者は、有田 謙司(専修大学法学部教授)、奥田 香子(京都府立大学福祉社会学部准教授)、道幸 哲也(北海道大学大学院法学研究科教授)、濱口桂一郎(政策研究大学院大学教授)です。

取り上げた論文は以下の通りです。

荒木尚志「労働立法における努力義務規定の機能-日本型ソフトローアプローチ」

鎌田耕一「安全配慮義務の履行請求」

川田知子「有期労働契約に関する一考察-有期労働契約の法的性質と労働契約法制における位置づけ」

内田貴「制度的契約と関係的契約-企業年金契約を素材として」

柳家孝安「雇用・就業形態の多様化と人的適用対象の在り方」

鎌田耕一「労働基準法上の労働者概念について」

毛塚勝利「労働契約変更法理再論-労働契約法整備に向けての立法的提言」

道幸哲也「労働契約法制と労働組合-どうなる労使自治」

福井秀夫・大竹文雄編著『脱格差社会と雇用法制ー法と経済学で考える』

なお、私たちも全然知らなかったのですが、同じ号に、福井・大竹編著の経済学者による書評論文が載っています。

書評論文

雇用法制を巡って 福井秀夫・大竹文雄 編著『脱格差社会と雇用法制──法と経済学で考える』

江口 匡太(筑波大学システム情報工学研究科准教授)

神林  龍(一橋大学経済研究所准教授)

読み比べてみるのも一興でしょう。

さらに、同号には、大竹先生と一緒に解雇規制分析をされた奥平さんの論文も載っています。

論文(投稿)

整理解雇判決が労働市場に与える影響

奥平 寛子(大阪大学大学院経済学研究科博士課程)

これは是非お買い求めいただく値打ちの高い雑誌だと思いますよ。

ちなみに、巻頭エッセイは仁田道夫先生が労働法教育について書かれています。

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2008/02-03/pdf/001.pdf

>90%以上の人が学校を出れば働くのだから, 労働法を高校の必修科目にしたらどうかとも思うが,自分の経験に照らしても, 学校で学んだことは忘れやすい。とくに, 労働法のように, 自分が働く立場になってみると切実だが, それまでは, なんだかよくわからないというような科目は, 学校で教えてもなかなか身につかない。だいたい, 普通の市民は, ごく常識的なことを除いて, あまり法律を知らないものである。法律を知らなくても,普段の生活には困らないのだ。いざ必要になれば,専門家に相談すればよいとも思っている。しかし,労働組合を結成する権利を国民が知らないというのは, 少々問題ではないか。

>話は飛ぶが, マンションの管理組合理事を務めると, 防火管理者というものを置かなければならないことを知る。住民の中には仕事にからんで防火管理者の資格をもっている人が一人くらいいるから, その人にお願いすることになるが, 特定の人に負担をかけるのを避けようとすれば, 選ばれた理事の一人が消防署にいって防火管理者の研修を受け, 資格を取得しなくてはならない。防火は確かに大事だが, 労働法上の権利侵害を防ぐことも, 同様に大事だろう。どの事業所にも一人くらいは「労働法管理者」を置くべきではないか。会社の人事・総務担当は確かにそういう知識をもっているが, 彼らの立場は, 従業員側ではなく, 会社側である。
労働組合がない場合, 従業員側「労働法管理者」に最もふさわしいのは, 過半数代表であろう。私は, かねて, 過半数代表者に研修を義務づけるべきだと考え, 主張してきた。声が小さいので, 世間には, ほとんど知られていないが。法律上, 過半数代表者にはいろいろな役割が負わされている。その役割を遂行するためには, 常識や, 職場の事情を知っていることだけでなく, 最低限の労働法知識が必要とされる。労働基準法を全然知らないのに三六協定にサインしてよいはずがない。消防法を全然知らないで「防火管理者」になれないのと同じことではないか。全国に従業者10 人以上の事業所が120 万くらいあり, 少なく見積もっても80 万人くらいは過半数代表者が選ばれているだろう。この全員に研修をほどこそうとすると,最初は膨大な作業になるが, だんだん「労働法管理者」有資格者が増えていくから, それほどの負荷ではなくなるだろう。行政がサービスを提供し,講師は労使団体から出してもらえばよい。夢物語だろうか。

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天工銭を空しうする勿れ、時に判例なきにしもあらず

下記エントリーの参考として、戦前の大審院判例を引用しておきます。大審院刑事部昭和8年4月14日判決(刑集12巻6号445頁)です。

これは、民法上の「組合」のケースですが、労務提供者を組合員として事業を行っていた被告が工場法違反として有罪となった事件です。

>本件組合に於いて被告人の個人経営の当時職工30余名と共にその共同事業として浴布製造を目的とする組合を設立すると同時に該組合の事業遂行のため被告人が其の業務執行代表者となり総事業の執行監督利益分配並びに組合員の加入脱退除名に関する全般の事務を司り自余の組合員はすべて被告人の指揮監督の下に組合の工場に於いて工業的作業の労働に従事して労務に応じ月給日給及び製品出来高等の標準により毎月その報酬を受けこれを各人生活の資となし因って以て右組合員たると同時に一面組合に従属して傭使せられおる事実を看取しうべし。然りしこうして工場法にいわゆる職工とは工業主に対し従属的関係に於いて有償に工業的作業に従事する工場労働者を言うものと解すべきを以て如上被告人以外の組合員が各自組合の一員たると同時に一面組合の職工に該当することもちろんなり

彼らは我が組合の組合員ですから工場法の適用はないんですよというやり口はだめだよ、と戦前の大審院は明確に言ってました。

この判決を受けて、同年5月24日、内務省社会局労働部から次のような通達が出されています。昭和8年発労第52号です。

>近時工場法の適用を免れんがために職工間接雇用の方法により或いは職工をして社員若しくは組合員たらしむる等工場経営の組織形態を変更して工業主と職工との間に使用関係なしとなすもの之有候処、工場法に所謂職工とは工業主に対し従属的関係に於いて有償に工業的作業に従事する労働者を言う義に之有り、如上の場合に於いても法規適用の対象たる工業主及び職工間の使用関係を否定するを得ず、従って当然工場法を適用すべき次第に之有り候条、御了知相成りたく候。追って右の解釈は従来より当局のとり来たるところに候所、先般個人経営工場を組合組織に改めたる実際の事例に関し大審院は右解釈と同様の解釈に基づく判決をなしここに之が確定を見るに至り候条念のため

お前の持ち出す判例や通達はいつも戦前のモノばっかりじゃないかと言われそうですが、そっちの方が役に立つモノばっかりなんだから仕方がないんですよ。

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労働者協同組合について

新雇用戦略へのぶらり庵さんのコメントで、労働者協同組合に関する記事がリファーされていました。

日本労働者協同組合連合会のホームページはこれですね。

http://www.roukyou.gr.jp/

議員連盟立ち上げについては、ここに詳しく書かれているようです。

http://www.roukyou.gr.jp/17_topics/2008_01_2.htm

欧州諸国にはこういう労働力出資型の協同組合という法制度がありますし、社会的に一定の役割を果たしているのは確かなので、法制化を超党派で支援するというのは結構なことだとは思うのですが、それが労働者にとって利益になるものだとばかり強調するのはいかがなものかという疑問もないではありません。とりわけ、前連合会長という立場の方が肩入れすることの問題点ということにもちょっと意識を持っておいていただきたいという気がします。

端的に言うと、労働者協同組合における労務提供者は労働法上の労働者ではないということに(とりあえずは)なるので、労働法上の労働者保護の対象外ということに(とりあえずは)なります。この事業に関わるみんなが、社会を良くすることを目的に熱っぽく活動しているという前提であれば、それで構わないのですが、この枠組みを悪用しようとする悪い奴がいると、なかなかモラルハザードを防ぎきれないという面もあるということです。

いや、うちは労働者協同組合でして、みんな働いているのは労働者ではありませんので、といういいわけで、低劣な労働条件を認めてしまう危険性がないとは言えない仕組みだということも、念頭においておく必要はあろうということです。

それこそ最近の医師や教師の労働条件をめぐる問題を考えると、どんな立派な仕事か知らんが、労働者としての権利をどないしてくれるンやというところを没却してしまいかねない議論には、少しばかり冷ややかに見る訓練も必要なのではないか、というきがしているものですから。

この辺の危惧、『福祉ガバナンス宣言』に掲載された坪郷さんとの対談でも、かなり失礼なぐらいに強調しておいたのですが。

ちなみに、この対談のナマ録を昨年9月にこのブログに載せてありますので、参考までに。いささか冗長ですが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_e58b.html

>それからさっき言った、フルタイムの人、パートの人、有償ボランティアの人、無償ボランティアの人、など、要は、就業形態が多様化しているということですね。これを、普通の営利企業で就業形態が多様化しているといった時に、たしかに企業側は「これはみなさんがそれぞれにボランタリーにいろんな働き方をお選びになった結果、こういう風になっております」という言い方をしますけれども、「なに言ってやがるんだ。お前ら金をケチるためにやっているんだろ」という話にどちらかというと行くんです。

だけど、特に、介護みたいに公的部門も民間営利部門も、そして、この市民部門も、みんなそれぞれ、実は物理的に言うと、同じことをやっているという中にそれを置いてみると、──すごくいやらしい言い方をすると──民間企業では要するに労働法の規制がゆるいとは言いながら、まだあるのでそこまでは出来ない、というのをこの市民事業だから、有償ボランティアだ、無償ボランティアだと言って、よりチープな労働力を利用できているんじゃないか。営利部門はそれが出来ないから、コムスンみたいにインチキをしなくてはいけないんだ、という、──すごく皮肉な言い方ですけどね──実はそういう面も……。

>ところが、そこがだんだんひろがっていって、例えば、転じて、高齢者を介護をするとか、お世話するとかいう話になってくると、それを自己実現とか──そういう面があるのは確かなんですが──実はそれが自己実現であることが労働者としては、極めて、ディーセントでない働き方の状態を、人に対してだけでなく自分自身に対してもジャスティファイしてしまうようなメカニズムが働いてしまうのではないかと思うんです。それで、さっきから同じところの周りをグルグル回っている感じがするのですが、そこのところをどこで線を引いて仕分けをするべきなのか、というのが、この問題のある意味、永遠の課題なのかなと思います。

(追記)

この問題について、「いちヘルパーの小規模な日常」の杉田俊介氏がなかなか鋭い嗅覚を示しています。

http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20080220/p2

>法制化の可能性は五分五分、と言われていたけど、ちょっと変な流れになってきた。協同組合は伝統的に失業者対策/失業者の自主的雇用創出の面をもつので、おかしな話ではないのだけれども、少しきな臭くもある。

 協同組合の法制化もまた、「行政からの補助金など、公的支援に頼らない点も特徴だ」「地方自治体の行政サービスを民営化する際の委託先などになることも想定されている」など、社会的企業やらワークフェアやらの流れに沿って、下請け産業・孫請け産業の水際へと押し流されていく危うさもありそう。まあ、阪神淡路大震災の「後押し」もあって特定非営利活動促進法(NPO法人法)ができたみたいに、歴史の後押しは常に必要であるわけだし、行政・企業の思惑と草の根の動きが必ずしも一致するわけでもないわけで。

 ちなみに、これも歴史的に、労働組合運動と協同組合とは相性が悪いので(労働者が協同組合を自主的に運営してしまえば、使用者と労働者の対立=敵対性が見失われるため)、今後、反貧困の流れの中で、どの辺に接点が見出せるのか見出せないのか。

なお、時事通信と読売新聞の記事も引用されています。

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人生と暮らしと労働

斬り込み隊長氏が、人間という非合理な生き物の行う生活と労働という現象について、一歩深い感想を。

http://kirik.tea-nifty.com/diary/2008/02/post_8dbe.html

>それ以上に、私よりも先に結婚をし、子どもを持ち、充実した家庭生活を送っている人を無条件に尊敬できるようになりました。前は、社員が子どもの養育費を理由に給料アップを求めてきたら激怒していたんですが、なるほど人生と暮らしと労働というのは本来切り離してはならないものだったのだなあという。

理屈だけで割り切れるようでそう簡単に割り切れないのが労働というものでして・・・。とはいえそこを、ある程度のところでわざと割り切りながらやらないと進まないという面もあるのですが・・・。まあ、すべてについて言えることですが。

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辻広雅文氏の誤解を招きやすい正論

ダイヤモンドオンラインのコラムで辻広雅文氏が書いた「正社員のクビを切れる改革は本当にタブーなのか?」は、「轟々たる批判、非難が寄せられた」そうで、それに対する再反論がさらに掲載されています。

http://diamond.jp/series/tsujihiro/10011/

http://diamond.jp/series/tsujihiro/10013/

辻広氏自身にもきちんと区別がついていないかに見受けられるところもあるのですが、解雇規制ということの概念規定がいささか不用意であるために、いたずらに批判を招いているふしがあるように思われます。辻広氏の言う「正社員のクビを切れる」というのは、社長とセックスするのが君の仕事だと言ったのに言うことを聞かないから「クビを切れる」ということでもなければ、求人広告に月給30万円だと書いてあったのに、実際は10万円だったので、こんなのおかしいじゃないですかと苦情を言ったら「クビを切れる」ということでもないはずです。

「はず」というのは、辻広氏は明示的にそういうのを除くと明記してはいないからですが、まあ、そういう場合でもクビを切れるようにしておかないと、そういう目にあった労働者の既得権を保護したりすれば、当の労働者を過酷な地位に追いやり、若い既得権のない人々を不幸にする、これはニュートンの力学法則のようなものだ!とまで仰るつもりはないだろう、と推測するわけです。

実際、辻広氏は

>日本では正社員の整理解雇は、ほぼ不可能だ。社員保護の判例が最高裁判決まで積み重なり、いわゆる「整理解雇の四条件」が厳格基準となり、ありていに言えば、倒産寸前に追い詰められなければ、解雇など許されない。であれば、労働法制を大転換し、「正社員の整理解雇を容易にする改革」が不可欠となろう。

と、述べているので(労働法を学んだ人ならすぐ気がつくでしょうが、この表現には事実に反する誇大な表現があるのですが、それはとりあえず措くとして)、ここでいう「クビが切れる」というのはあくまでも、労働力の絶対量を減らさなければならないときに、どういう形で減らすかという規範の問題に限られているはずです。

とすれば、それがまさに正規労働者と非正規労働者の雇用保障の格差問題であることも見やすい道理ですし、今までの整理解雇法理が正規労働者の雇用保障の代償として非正規労働者には(上記のような人権侵害的な場合であっても)ほとんど雇用保護を与えてこなかったことをどう考えるかという課題への一つの回答として、ある意味で極めてリーズナブルなものであることも了解されるでしょう。

さらに、辻広氏は最近の水町勇一郎先生の議論を引きながら、

>価値観が多様化、多元化し、なおかつ、産業別あるいは企業ごとに、経営事情、労働状況がそれぞれに異なるようになった今、国が法律で金太郎飴的に縛ってももはやうまくいかない。それなら、欧州ではソーシャルダイアログ、米国では構造的アプローチと呼ぶ、労使の対話、集団的コミュニケーションによって、個別に労働ルールを決めたほうがいい。労働法制は、その対話を促進するような内容に変えていくべきだ――そういう考え方に変化してきているのだという。

>例えば、国は、「合理的理由がない限り、処遇差別をしてはならない」という平等原則だけを掲げる。労使対話には、正社員だけでなく非正社員、派遣、業務請負に至るすべての雇用者が参加し、平等とは何かを徹底的に議論し、ルールを作成し、運用に関与する。

 その集団対話のなかで、あまりに強い正社員の法的保護、既得権が浮かび上がり、どうにかして派遣や業務請負との差別的格差を解消して、同一労働同一賃金などの「公正」を実現しようとするプログラムが組み立てられていく。例えば、あくまで正社員の雇用を維持し、非正社員を不況時の人員調整弁に使おうとするなら、正社員の雇用条件を下げ、一方、不安定な立場の非正社員には優遇措置を行う、といった工夫はできるだろう。

 さらに踏み込んで、正社員の雇用調整が容易になり、逆に、非正社員が正社員になりやすくなるという改革もありえる。正社員の雇用調整が不可能であるのは、裁判所が判例を積み重ねて、いわゆる「整理解雇の四要件」を越えられぬ壁としたからだ。つまり、国が決めている。それでは、時代環境にも個別事情にもついていけない。労使が考え抜いて、ルール、運用を工夫し、納得したら、柔軟な雇用調整を許容すればいい

という風に議論を進めていきます。労働問題を個別関係の中に閉じこめるのではなく、集団的な枠組みで解決を図っていこうというのは、まさに私も強調していることであり、そしてそのためにこそ、正規労働者も非正規労働者も、パートも派遣も請負も、その職場で働くすべての労働者が参加する集団的枠組みを構築していかなければならないという話につながるのですね。

もちろん、すべてを集団的な枠組みに委ねられるわけではありません。上で例示したような経営上の必要性のない恣意的な「クビ」は、健康を危うくするような長時間労働と同様、「政府が作る画一的な規定」が必要な領域でしょう。

しかし、労働力の絶対量を減らさなければならないときに、それをどういう形でやるべきかは、それに直接利害が関わるすべての人が関わる形でなされるべきだというのは、民主制原理から考えてももっともまともな判断だと思います。

かつてのように正社員はみんな女房子供を養わなければならない成人男性で、非正規は旦那に養われている主婦パートか親がかりの学生アルバイトなんだから、当然後者のクビを切って前者の雇用を守るべし、という風には言えなくなってきた時代であればこそ、その間の利害調整(利益と不利益の分配)は、それぞれの状況に対応できる形で分権的に行われる必要が高まってきているわけです。

個別労働者の権利ばかりに関心が逝っていた近年の風潮に対して、集団的労使関係的発想を再度再建する必要性ということでもあります。

ま、それを「正社員のクビを切れる改革」というような不正確な上に不必要に刺激的な言い方で打ち出す必要はないのではないかとは思いますがね。

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知的誠実さについて

大原社会問題研究所雑誌の2月号に、五十嵐仁氏の「政策形成過程の変容と労働の規制緩和」という短い報告が載っています。

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/591/591-14.pdf

私が近年取り上げている問題領域と大幅に重なるのですが、次のような記述を見ると、基本的なスタンスとして知的誠実さが欠けているとしか思えません。

>現在に至る政策転換は90年代初頭に始まる。その背景となったのは「バブル経済」の破綻と湾岸戦争の勃発である。これによって,日本的経営と軽武装国家としてのあり方が否定され,「ワシントン・コンセンサス」に基づく新自由主義による市場原理主義と規制緩和路線が強まり,「東アジア戦略報告」によって安保体制が再定義され,軍事的国際貢献論の具体化が進む。
その「改革」メニューと舞台装置がそろうのは橋本内閣の時代であった。
これは小渕・森内閣で紆余曲折を経るが,小泉首相の登場で頂点に達する。小泉首相は小選挙区制導入(政治改革)や省庁再編(行政改革)によって強化された官邸の力や首相の権限を最大限に利用し,トップ・ダウン型の政策形成を採用した。安倍首相は基本的にはこれを引き継ぎつつも部分的な修正を図り,参院選惨敗後に登場した福田首相はさらなる修正を図ろうとしている。

なぜかここに出てくる内閣名は、橋本、小渕、森、小泉、安倍、福田といった自民党首班のものばかりです。

しかし、いうまでもなく、こういう動きの出発点は五十嵐氏が「現在に至る政策転換は90年代初頭に始まる」というように、その前の内閣の時代です。

市場主義的な構造改革路線を政策の中心に置いて走り出したのは、細川、羽田、そして何より村山といった非自民党首班内閣の時代であったことを、そして、「リベラル」なサヨクの皆さんがそれを熱狂的に支持したことを、文章の上だけで隠してみたってしょうがないでしょうに。

五十嵐氏の議論の作法については、前にもこのブログで取り上げましたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_e7f8.html(労働政治の構造変化)

>ふーーーん、橋本内閣からネオリベ政策が始まったんですかあ。

>その前の村山内閣は社会主義的だったんですかあ。

>ここが日本の90年代のネオリベ化の最大のアイロニーなんです。サヨクが一番ネオリベだったのですよ。ここのところを直視しないいかなる議論も空疎なものでしかありません。五十嵐さんの議論はそれを党派的に正当化しようとしているだけさらに悪質ではありますが。

こういう頭隠して尻隠さず的党派性は相変わらずですね。

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過労になると脳下垂体細胞が次々と死滅

ちょっと前の朝日の記事ですが、労働時間規制(残業代ではなくって)がなぜ必要なのかについての科学的根拠付けの一つとして。

http://www.asahi.com/science/update/0215/TKY200802150139.html

>極度の過労によって、脳の中心部にある内分泌器官、脳下垂体の細胞が次々と死滅していることを、大阪市立大の研究チームがラットによる実験でつかんだ。これまでは過労は生体の機能が落ちるだけとみられていたが、実際は生命維持の中心器官の一つが破壊されていることを初めて立証した。熊本市で15日から始まった日本疲労学会で報告した。

 厚生労働省によると06年度の脳・心疾患で死亡した「過労死者」は147人。研究チームは過労を早く見つける「過労マーカー」の開発に役立つと期待している。

 大阪市立大の木山博資(ひろし)教授(解剖学)らは、ラットの飼育箱の底に1センチ強の深さに水を張り、5日間観察した。ラットは体が水にぬれるのをとても嫌う性質があり、立ったまま数分うとうとする程度しか眠れなくなる。徹夜で働く人間と、ほぼ同じ状態だ。

 このような状態のラットの脳下垂体を調べると、5日目に細胞が死滅し始め、下垂体の中葉と呼ばれる部分がスポンジ状になっていた。

 下垂体中葉には、脳の神経核A14という部分から神経伝達物質ドーパミンが供給されている。疲労がつのるにつれて、A14のドーパミン生産能力が減り、下垂体の死滅細胞が増えていた。

 実験後、飼育箱から水を抜くと、ラットはすぐに睡眠をとり、半日後には活動を再開した。しかし、下垂体が元の状態に戻るには数日間かかった。早めの休養が重要であることを示している。

まあ、こういう記事を書いてる新聞記者の皆さんが、実は一番脳下垂体細胞が死滅するような働き方をしていたりして・・・。

http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080220/p4#seemore

>それと、マスゴミの中の人たちがマジで1年365日「24時間オンコールが義務」と考えている可能性は高いと思う。だってブンヤもTV屋もしばしば自分たちが無茶苦茶な生活をしているわけで、建前では「ワークライフバランス」「過労死を防げ」とか言っていても、本音ではそんなの全然信じてないもんね。挙げ句は『働きマン』だの作って自分たちの激務を自慢しているわけでしょ?

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学校選択制は、「ダメな学校」を構造的に作り出す

(最近これを紹介することが多いですが、別に日経BPの回し者じゃありません)日経ビジネスオンラインで広田照幸氏のインタビュー記事が載っていて、私も前に本ブログ上で何回か書いたフリードマン信者大好きの教育バウチャー制について、教育専門家の立場から的確な批判を加えています。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080215/147257/

>バウチャー推進論者は、教育バウチャー制度によって「教育がよくなる」と連呼しているのですが、私には、どうも納得ができません。どうしてあんなにラフで楽観的に導入推進を主張できるのですかね。

>いま推進論者が提案している形のバウチャー制度を日本で実施したら、どうしてそれが毒薬にならず良薬になるのかについては、ほとんど説明されていないのです。「これさえ飲めばガンが治りますよ」という、怪しいセールストークを聞かされているような気分です。

>「最悪のシナリオ」というのは、ニュージーランドのように、学校間の格差が拡大していき、バウチャーが実質的に富裕層への補助金になってしまう、というものです。

 というのも、いままでの議論をみるかぎり、私学にどう手をつけるのかが全然議論されていないし、競争状態を作り出すための条件、すなわち公立学校のカリキュラム編成などに自由度をどう与えていくかという議論もなされていません。

 つまり、公立学校が私立学校と対等な条件で競争できるようにするにはどうすればいいのかという議論が、まったく欠けているのです。私学を経営している人にとっては、触れてほしくない論点かもしれません。

 具体的にはこういうことです。私学の自由度(特に授業料徴収の自由、選抜の自由)が保持されたまま制度が運用されたら、私立の学校は競争条件に変化がないまま、今までよりもはるかに多額の補助金を「児童・生徒の数」に比例して受け取るようになってしまいます。

 そして教育予算は大枠がかぎられていますから、結果的に、公立学校への財政配分は低下します。私学に食われてしまうからです。また、赤林氏がいうように、選抜の自由が保持されたままでは、バウチャーは私立に子どもを通わせたい教育熱心な富裕層への補助金にしかなりません。

 同時に、公立学校は人気校・不人気校に分化していきます。学校選択制をやってきている品川区でも、そういうふうになっていますけれども、生徒が集まらない不人気校には予算をカットする、というふうになると、その流れに拍車がかかります。「うちの子の学校は少人数でいいわぁ」なんて、呑気なことを言っていられなくなってしまいます。

推進論者が抱いてきた願望と違って、生徒の問題行動の総量は減らないで、ひょっとしたら増えるかもしれない。しかも、「問題集中校」みたいな形で、特定の公立学校は、今以上に大変な状態になっていくんじゃないでしょうか。

>冒頭に紹介した教育再生会議の報告でも、バウチャー制度は学校選択制とセットで提案されています。単なる個人への補助金交付ではなく、保護者と子どもに学校を選ばせる。ユーザーである保護者や子どもは「教育の質」を判断して学校を選ぶようになるから、学校間でよりよい教育を提供すべく競争が起こり、結果として教育全体のパフォーマンスも向上する、という論理構成です。

 一見すると、もっともな議論に見えますが、ここには「情報の不完全性」あるいは「情報アクセスの不完全性」という問題がするっと抜け落ちているように思います。

>、「宣伝」にせよ「評判」にせよ「評価」にせよ、情報や情報アクセスには、つねに不完全性がつきまとわざるをえません。「教育の質」が情報化されることにさまざまな困難があるし、仮に十分な情報が提示されたとしても、選択の際に使われるとはかぎらない、ということです。

 だから、各学校が教育の改善や工夫をしたからといって、それがストレートに保護者に伝わり、地域の評判も上がって、入学者が増加する、という具合にはいかないと思います。

 むしろ、各学校でやれる工夫の幅が小さい中で、一元的な尺度で学校の評判が決まっていき、ひとたび悪評に見舞われた学校は、教師たちのさまざまな努力や工夫にもかかわらず、ずるずると入学する生徒は減っていく、というふうなことが起きてしまうはずです。

 これを極端な悲観論のように思われる方もいるでしょう。でも、たとえば学校選択制をいち早く導入した東京都品川区の公立小中学校の選択動向を見ると、そうなっています。入学者数が減った後に巻き返しができた学校はごくわずかで、ほとんどは増加と減少の二極化傾向にあります(小林哲夫「親子の本音が招く人気校への雪崩現象」『中央公論』2006年11月号)。

 たんなる学校選択だけでもそうなのだから、予算のカットと連動したら、ますますいったん「不人気校」のラベルを貼られると、脱出が困難になってしまいます。

>経済学者の小塩隆士氏も、学校選択においては初期条件がかなり重要なポイントになると述べています。格差がゼロという状態はありえないから、親は「あの学校は学級崩壊が多いからやめよう」とか「進学率が高いからここにしよう」とか、限られた情報で学校を選択する。その結果、「いい学校」はますますよくなり、「悪い学校」はますます悪くなる、と(『教育を経済学で考える』)。

 そうであるならば、大前提(1)を改める必要があります。「親や子どもは『教育の質』を厳密に判断しない」と考えないといけません。

 学校選択制やバウチャー制の導入論者は、この点を決定的に無視しています。彼らは、親や子どもが完全情報のもとで、消費者として合理的な選択をする、というモデルで学校改革を考えています。でも、実際にそうはならないのです。

 「学校がもっと情報発信を」とか、「評価結果の公表を」といったふうに、学校選択制やバウチャー制の導入論者は主張します。でも、それは、完全情報のもとでの合理的な選択を保障することにはなりません。多くの人は単純な序列や風評・イメージで学校を選択し、不人気校はその結果、いくら努力しても浮き上がれないという泥沼に落ち込むでしょう。

 学校間のゼロサム・ゲームで、予算の取り合い競争させるようなしくみは、長期的には、公教育一般への信頼性を揺るがせてしまう、と思います。「ダメな学校」をいつも構造的に作り出すしくみだからです。

 そうではなく、「どこの学校に行ってもちゃんとした教育が受けられる」という安心感を与えるだけの公教育の充実こそが、長期的に好ましい戦略だと思います。問題を抱えた子どもが多くいる学校には教員を加配するなど、プラス・アルファの発想で、公教育をトータルに底上げしていく施策こそが必要なのです。

単純素朴な初等ケーザイガク教科書嫁派がうかつに労働という高等生物たる人間の絡み合いの世界に手を突っ込んだときに起こる愚かな現象と、ほとんどパラレルな事態が教育の分野でも起こることを、説得的に説明されています。どちらも人材養成と活用という同じ課題をもった領域ですから、当然といえば当然でしょう。

まあ、公立学校にカネを流すなんて無駄遣いはやめて、金持ちの子供だけがもっともっと国から金を貰えるようになればいいじゃんか、と本音では思っている人が、アフォなB級国民をだまくらかすためにケーザイガクを操っているだけなら、それこそイデオロギー暴露だけで済む話なのですが、世の中そう単純な構造になっていない。唱道者の少なからざる部分は、多分本気でカルトなケーザイガクを信じ込んで、本気でバウチャーにしたら世の中がよくなると思いこんでいるから話はややこしいのです。人間はなぜエセ科学に引き込まれるのか、というテーマともつながる大きな問題なのでしょう。

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出向名目の違法人材派遣

読売ですが、記事を読んで一瞬なんだかよく判らなくなりました。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080221-OYT1T00102.htm?from=main3

>学校法人「大阪初芝学園」(本部・堺市)で、前理事長が社長を務めていたうどん店などの外食チェーン「グルメ杵屋」(本社・大阪市)の社員を教員として出向させており、この雇用形態が、出向を名目とした違法な人材派遣にあたるとして、大阪労働局が学園と同社を職業安定法違反で是正指導していたことがわかった。

はあ?うどん屋の店員を教員にしてたって?

よく読むと、

>学園と同社によると、新採用の教員は学園が常勤講師として1年間雇用。2年目にグルメ杵屋の正社員となり、学園に出向する形で5年間教員を務める。7年目以降は、出向期間を更新して学園での勤務を続けるか、自主退職かのどちらかとなっている。同社に戻って働くことはないという。

 同社の椋本彦之前社長が学園理事長を兼務していた2000年度から始め、07年度現在、出向教員は96人おり、全教員の4分の1を占める。給与はいずれも学園が払っているという。

 厚生労働省などによると、出向はグループ会社内や研修目的などの場合に認められる。学園と同社には資本関係はなく、出向を終えて同社に戻った例はないことから、同労働局は実態は労働者供給事業にあたると判断したとみられる。

つまり、はじめから初芝学園で教えるために雇っている人を、籍だけうどん屋さんに置かせて、出向でございますという形にしていたということですね。いろいろと知恵を働かせるもんです。

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グッドウィルが労災隠し

朝日の記事で、

http://www.asahi.com/national/update/0220/TKY200802200433.html

>日雇い派遣大手グッドウィルが、昨年12月に宮崎県都城市で起きた労災事故を労働基準監督署に適切に報告しない「労災隠し」をしていたことがわかった。事故にあった派遣労働者の男性(29)は指の骨が折れる大けがだったが、会社側から労災を隠すよう強要されたと訴えており、都城労基署が調査を始めた。

 男性は昨年12月17日、日本通運の作業現場に派遣され、荷下ろしでコンテナの扉を閉める際に左手薬指を金具に挟み、病院で骨折と診断された。男性によると、グッドウィルの従業員に「労災は使わせない。仕事はできるだろう」といわれ、無理に働かされたという。

 2月にけがが悪化し働けなくなったため、都城労基署に申告した。労働安全衛生法では、労災事故は定期的またはすみやかに届け出る必要があり、意図的に報告しなければ50万円以下の罰金。グッドウィルは今月18日に労基署に報告したが、男性は「会社側は労災隠しの事実を認めようとしない」として労基署に刑事処罰を求めるという。

 グッドウィルでは昨年2月、東京都内での違法派遣で労災事故があり、労基署への報告も不適切だったと発覚。全事業所が2カ月間の事業停止命令を受けた。同社は「今回の労災事故対応については明らかに不適切で反省している」として、関係者を処分する方針だ。

 派遣先の日本通運も「安全管理の責任者が現場におらず、グッドウィルから報告もなかったため労災に気づかなかった」と認めている。

まあ、グッドウィルという名前のバッドウィルな会社ですし、「労災は使わせない。仕事はできるだろう」てのはいかにもひどい話ですから、GW社が批判されるのは当然なんですが、日本通運の「労災に気づかなかった」てのも、(新聞記者はあまり気がついていないみたいですけど)考えてみればとんでもない話なんです。

なぜなら、派遣法上、現場の安全衛生責任は派遣先にあるのであって、派遣元にあるのではない。本件がどんな作業なのか詳細は分かりませんが、コンテナからの荷下ろしの現場に日本通運の人がいなかったわけがない(もしいなかったのなら、それはもはや派遣ではない)。

この辺、やはり派遣先のモラルハザードをきちんと指摘しておかないと、叩かれてる「善意」な会社だから、そっちを叩いておけばいいやろ、というだけでは問題の本質から逸れてしまいます。

そして、ここらあたりにも、安全衛生責任と労災補償責任を派遣先と派遣元に分断してしまった派遣法の立法的問題が顔を覗かせているように思われます。派遣という就労形態において、使用者としての責任をきちんと果たさせるようにするためには、どういう仕組みが必要なのかという議論にこそ、この事件がつながっていくといいんですけれどもね。

世間では、野党だけでなく与党の一部からも、とにかく目につく日雇い派遣を禁止するといった、はっきり言ってポピュリズム的な議論ばかりが出てきて、そういう地道ではあっても本当に意味のある話になっていかない嫌いがあります。困ったもんです

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ねじれ国会よりも年金論議のねじれ現象の方がおもしろいよな

例によって、権丈先生の権丈節ですが、特に連合さんはじっくり読む必要があると思いますよ。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare136.pdf

>ねじれ国会は最近のことですけど、ねじれ年金論議はかなり昔からのことです。
連合が経済界の味方をしてしまっているし、自民党が経済界にとって最も辛い選択肢側にいるわけですから。

>わたくしは、今日の年金論争は、「経済界対生活者=労働」という構図でとらえるのが、かなり都合が良いだろうと思っている。生活者=労働の老後の所得を安定させるためには、この国で租税に依存するのはかなり危なっかしい、しかも生活者=労働の生活に安心をもたらすためには、年金もさることながら医療介護というような現物給付の充実がこの国ではどう考えても急務である。よって、生活者=労働の側に立てば、朝日新聞が言うような「(基礎)年金は税と保険料を合わせて」という解に到達するのは自然の理。同様に、年金制度設計上の善し悪しを生活者=労働に有利となるか不利となるかで判断する年金研究の専門家たちも、「(基礎)年金は税と保険料を合わせて」という解に到達しているのも自然の理。ところが、この立場は、朝日新聞的には困ったことに(笑)政府与党の立場であり、連合や野党は、おかしなことに、経済界よりの「基礎年金は税で」という解がお好きなようで!?

Kenjoh

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日雇いは三日やったら・・・

やめられない・・・というこ