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2008年1月16日 (水)

現代の理論

明石書店から出ている『現代の理論』2008年春号が刊行されたので、2007年秋号に掲載されていた拙稿「非正規雇用のもう一つ別の救い方」 をアップしておきます。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/sukuikata.html

『世界』論文とかなり重なりますが、やや詳し目に書いているところもあり、ご一読いただければ。

ちなみに、最初の節のところは、判っている人には今さら耳タコですが、世の中には判っていない人、判ろうとする気のない人が一杯いることでもありますので、ちょいと引用しておきますね。

>日本でも戦前や戦後のある時期に至るまでは、臨時工と呼ばれる低賃金かつ有期契約の労働者層が多かった。彼らは本工の雇用バッファーとして不況になると雇い止めされ、好況になると再び採用される柔軟な縁辺労働力であった。彼らの待遇は不当なものとして学界や労働運動の関心を惹いた。ところが1950年代後半以降の高度経済成長の中で、労働市場の急激な逼迫に押される形で臨時工の本工登用が急速に進み、この言葉は死語となっていった。しかし、柔軟な縁辺労働力への需要がなくなったわけではない。高度成長期にこれに応える形で急速に拡大していったのが、主として家事に従事していながら家計補助的に就労する主婦労働力としてのパートタイマーであり、主として学校に通って勉強しながら小遣い稼ぎ的に就労する学生労働力としてのアルバイトであった。

 興味深いのは、パートやアルバイトの存在はかつての臨時工のような社会問題とならなかったことである。これは、パートの主婦にせよアルバイト学生にせよ、確かに就労の場所では正社員とは明確に区別された低賃金かつ有期契約の縁辺労働力であるに違いないが、そのことが彼らの社会的な位置づけを決めるものではなかったからであろう。パート主婦はパート労働者として社会の縁辺にいるのではなく、正社員である夫の妻として社会の主流に位置していたのであるし、アルバイト学生にとっての雑役就労は正社員として就職する前の一エピソードに過ぎない。

 この「アルバイト」就労が学校卒業後の時期にはみ出していったのが「フリーター」である。しかし、そのいきさつがバブル期の売り手市場の中であえて正社員として就職することなく、アルバイトで生活していくという新たなライフスタイルとして(一部就職情報誌業界の思惑もあり)もてはやされて拡大していったこともあり、若者の意識の問題として取り上げられるばかりで、かつての臨時工問題と同様の深刻な社会問題としての議論はほとんど見られなかった。

 1990年代半ば以来の不況の中で、企業は新卒採用を急激に絞り込み、多くの若者が就職できないままフリーターとして労働市場にさまよい出るという事態が進行した。地域によっては、高卒正社員就職の機会がほとんど失われてしまったところすらある。フリーター化は、彼らにとっては他に選択肢のないやむを得ない進路であった。ところが、彼らを見る社会の目は依然としてバブル期の「夢見るフリーター」像のままで、フリーター対策も精神論が優勢であった。この認識構図が変わったのは、ほんのここ数年に過ぎない。

さて、その新刊の『現代の理論』新春号ですが、「日本国家の品格を問う」というのが特集で、いろいろ載っていますが、

後藤和智「さらば宮台真司」が、「俗流化」「ニセ科学」を経て「結語ー葬送」に至るという大変刺激的な論考です。

あと、能川元一「ネット右翼の道徳概念システム」も結構おもしろかったですね。分析には異論のある人も多いでしょうが。

特集以外では、高木郁郎先生が「労働教育の推進を提言する」を書かれています。こういう声がもっと高まっていくといいですね。

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コメント

宮台なんていう「誰も科学として見てはいないようなもの」をあえて「ニセ科学」に結びつけるところが、「ニセ科学」という言葉の使われ方を逆に示していていいですねえ。

新・後藤和智事務所 ~若者報道から見た日本~: (宮台真司への)絶望から始めよう――「現代の理論」発刊に寄せて
http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2008/01/post_fe9b.html
> 『終わりなき日常を生きろ』で採り上げられている事例も、実のところ実証性というものはなく、ただ自分の身の回りのインタヴューくらいでいろいろと妄想を構築している
> 宮台の言説は実証性をかなぐり捨て、若年層に対する突飛なイメージをひたすら煽り続けるようなもの
> 宮台の言説がいかに実証性に欠けているものであるか、ということを証明している
> 宮台はこのようなことを示すデータを一つも示していない
> 「人間力」などという(客観的な評価が不可能故に判断基準にするには極めて問題の多い)言葉を安易に用いている
> 言説のレヴェルはたかが知れている
> 宮台のいっていることはいわゆる「ニセ科学」に他ならない
> 「ニセ科学」というと自然科学系のものを我々は想起しがちだが、宮台のような社会科学系のものにも注意を支払う必要がある
> 嗤うべきところは他にも多数ある
> 宮台こそが若年層に対する不安を煽り続け、そして統計やデータ、及び科学的な検証によらない青少年言説を発信し続けてきた

塩川伸明「読書ノート」
ソーカル、ブリクモン『知の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/sokal.htm
> 著者たちは次のようにいうのだが、これはいかにも安易な印象を受ける。
> 
>「二つのタイプの難しさを見分けるために役立つ判断基準はいくつかあるようにみえる。第一に、もし難しさが本物ならば、その理論がどのような現象を扱っていて、主要な結果が何であって、それを支える最良の論拠は何かといった点を、ある程度初等的なレベルでわかりやすい言葉を使って説明できるのが普通である。〔中略〕。第二に、難しさが本物ならば、そのテーマについてより深い知識を身につけるためのはっきりとした道が――長い道のりかもしれないが――用意されている」(二四七‐二四八頁)。
> 
> 前の方の文章の末尾にある「普通である」という言葉はくせ者である。あるいは、自然科学では――そしてまた社会科学でも、一部の分野で「科学化」が進んでいる場合には――それが「普通」なのかもしれない。つまり、ディシプリンが確立していて、クーン流にいえば「通常科学」の土俵の上で「パズル解き」がなされているときには、その「パズル」がいくら難問であっても、そのテーマ・論点・結果・論拠等々については共通了解があり、それを明確に説明することが可能だろう。だが、ディシプリンそのものが未確立だったり、動揺したりしている場合(同じことだが、パラダイムが未確立だったり、動揺したりしている場合)、「どのような現象を扱って」いるのかということを明らかにすること自体が難しい――何をとりあげ、それをどのような現象と捉えるかということ自体が争点であり、論争当事者間で共通了解がないために、言葉もなかなか通じない――ということが珍しくない。第二の、「そのテーマについてより深い知識を身につけるためのはっきりとした道が用意されている」というのも、既に確立した学問分野において、「初等編」「中等編」「高等編」といった教科書があるような場合には当てはまるが、その分野そのものが開拓途上の場合には、そうした「道」は決して「用意されて」などいない。むしろ、「道なき道」を自ら切り拓きながら――ということは、どこかで泥沼に足を取られて、完全に方向を見失ってしまうという危険性をも敢えて冒しながら――進むほかないという場合もあるのである。

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