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2008年1月23日 (水)

リベラルな人々のポピュリズム

きはむさんのところに、読みようによって色々と面白い読み方のできそうなエントリーがありました。

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20080122

>私には今の日本社会はポピュリズム的な原理によって動かされている部分が大きいように思えるからだ。ポピュリズム的現象というものが、全体性を失いつつある社会において疑似的な連帯感を湧出させる契機にほかならないというのは、鵜飼健史の(オリジナルとは言い切れないとしても)卓見である*4。社会がポピュリズムによって動くということは、全体社会の代表でもない奴が、「何だかそれらしい」風情で現れ・振る舞うがゆえに、全体社会の代表みたいな顔をして世の中を動かせる地位を手に入れるということだが、そこでの「全体社会」=「私たちみんな」には必ず共通の敵がいて、それが今日では官僚だったりする。

>見方によっては、現状はぐんぐん直接制の統治に近づいて行こうとしているとも言える。国民代表に許すフリーハンドの範囲を狭めていくという意味で、だ。本来なら、ある国家の統治を担うということは、私たち一般庶民にはうかがい知れない様なシンボーエンリョなどに基づいて、あまり公にはできないことや法の枠を少うし跳び越えるようなことをすることもあって「然るべき」なのだが、国家権力をひたむきに民主化していくということは、そういった逸脱を許そうとしないことである。同じことを、ナシオン主権からプープル主権への転換が進んでいると表現してもよい。とにかく「私たち」日本民衆は、国家権力を思うさまにコントロールしたがっている。「私たち」の一体性や、その意思=「民意」の在りかなどが明らかならぬままに。何はともあれ、日本国家の舵取りを「私たち」の手に取り戻さなければいけないのだ、との漠とした昂ぶりとともに。

>さて、こういった国家観は社会契約説的なそれに由来するだろう。日本では中高生の社会科で何はともあれ一応は社会契約説を叩き込まれることになっているので、何だかんだ言っても皆、国家は私たち国民のためにあるものだと思い込んでいるんだな(社会契約説的なバージョンの道具的国家観)。そうすると、国家そのものが持っている自律性なり独立性なりといったものへの意識は希薄にならざるを得ない。「イデオロギーに囚われている」右翼や左翼には、良くも悪くも国家をそれ以上のものとして観念する想像力が保たれているんだけれども、「良心的な」リベラルさん達には国家固有の原理というものは案外見えにくかったりする。

>その一つというのは、国家が提供するような公共サービスというものを市場的契約関係によるサービス供給と同一地平で捉えるような態度が広く浸透したら世の中どうなるかということで、これも過去に書いたことに基づく*8。その内容について自らが同意したサービスを、自らが払ったコストに見合っただけの範囲で提供してもらう。コストを払っていないサービスは提供されないし、自らが享受することのないサービスのコストを払う必要は無い。こういった市場的な交換原理が全面化した社会では、いわゆる「社会的なもの」、つまり連帯原理は消滅する。と、そう書いた。しかし、それはロック的な意味での社会契約をとことん具現化したものなんだよ、とも書いた。すなわち、対等に尊重されるべき個々の人格の、自発的な「同意」こそが全ての基礎に据えられるべきである、とそういうことで、この原理に反対する人はリベラルじゃない。もちろん、リベラルさんだって、社会的なものには多少の気を払うのが普通だ(むしろ単に「リベラル」と呼ばれるようなタイプのリベラルさんはそれに専念しているように見えるぐらいだ)。でも、ちょっと普通じゃないぐらいにリベラルたろうとすると(つまりリバータリーアーンに変身するということだが)、強制的に社会的な連帯を担保しようとするよりも、個人の「同意」というものを徹頭徹尾尊重する方が優先されるべきだという考えに行き着く(はずだ)。

>肝心なのはここからで、そういうふうに個人の「同意」を何より尊重して、社会的なものを消滅させてでも公共サービスを市場的な水準での契約関係に還元しようとする立場というのは、プープル主権の徹底とも読み替え可能なんだな。つまり、ここでポピュリズムの進展と繋がるわけだ。プープル主権の徹底と言うのは、具体的な「人民」じゃない曖昧な「国民」とか、人民の「同意」によらない国家(国民代表)の差配(それこそ社会的連帯の強行的実現としての所得再分配などのような、ね)をできる限り排して、具体的な「民意」――理想的には直接的な契約締結の意思のような具体性を備えたそれ――に基づいて政治を動かしていくべきだと考える姿勢を指してのこと。もし、ここに解りやすい具体的な問題点を見出すとすれば、政治的無能力者の排除のことが挙げられる。つまり、具体的な「同意」が必要なら、その意思を示す能力を持たない者は、統治なり社会構成なりに関与しようがない。そして実際、社会的なるものが消滅した社会で第一の犠牲になるのはそういった類の人々なのである。恐ろしいことに、極めて具体的な水準で社会契約説――デモクラシーの理想を象徴するとされる神話――に従った社会構成を為そうとすると、常に必ずある一定範囲の人々の滅殺が確定する。全く、上手くいかないものだ。

これは、政治思想史とかいろいろな観点から論じるべき話題なんだと思いますが、とりあえずそういう「個人の同意を何より尊重」して「人民の同意によらない国家の差配」を否定しようとする「リベラル」な発想は、そういう個人の同意に基づかない国家の行為を求めるような連中を「衆愚」「ポピュリズム」と侮蔑の眼差しで見ているのでしょうが、実のところはそれゆえに彼ら自身が限りなくポピュリズムに陥っていくというパラドックスが生ずるというというところが、まさに理性の狡知の逆襲という感じではあります。

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コメント

連続投稿、すみません。ポピュリズム、現時点では、日本やアメリカよりも、フランスかと思います。あの国がなぜサルコジのポピュリズムに踊らされることになったのか、考えています。

> 「衆愚」「ポピュリズム」と侮蔑の眼差しで見ている

それはどうかなあ。

> 彼ら自身が限りなくポピュリズム

結構、自覚的な場合もあると思うよ。

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