所得格差がもたらす日本の教育格差
東洋経済TKプラスに、リチャード・カッツ氏の標題のようなエッセイが載っています。真っ正面の正論だと思いますので、以下引用します。
http://www.toyokeizai.net/online/tk/column9/?kiji_no=57
>戦後の日本で最も賞賛に値する成果の一つに、高い社会的流動性を持った能力主義国家の建設がある。貧困層や中間層の子供でも、能力と野心さえあれば社会的に上昇することができた。これは子供たちだけでなく、国家にも大きな恩恵をもたらした。誰もが等しく教育の機会を得ただけでなく、教育に投じられた資源が平等に配分された。その結果、両親の資産や社会的地位によって聡明な子供たちの可能性が制約されるということはなかった。
だが日本は“機会が平等な国”の地位を失おうとしている。私は最近、経済産業省で働く50代の2人の友人と話をする機会があった。彼らはいずれも東京の郊外に生まれ、両親はごく普通の勤労者である。彼らは、自分たちの時代とは状況が変わってしまったと言っていた。多くの省庁で新規に採用された官僚の大半は、両親のいずれかが同じ省庁の官僚の子弟だというのだ。同じような変化がビジネス社会でも浸透しつつある、と彼らは言う。
こうした変化を引き起こしている理由はたくさんあるが、その一つは教育機会の変化である。日本は教育に熱心な国であるにもかかわらず、公的な教育支出は驚くほど少ない。日本の公立学校と大学の学生1人当たりの支出は、OECD21カ国中12位である。OECD加盟国では、大学教育に対する公的資金の平均支出額は民間支出額のほぼ3倍に達している。だが日本では、その関係は逆になっている。私的な支出額は公的な支出額を43%も上回っている。
公的資金の貧弱さと公立学校の教育の質の低下に対する懸念、能力に応じた教育を妨げている偽りの“平等主義”が、中産階級の親に大きな負担をかける結果となっている。子供たちに十分な教育の機会を与えたければ、私立学校に頼らざるをえず、予備校に通うためにおカネを使わなければならない。2005年の時点で高校生の30%が私立高校に通っている。子供の人生は親の資金力によって制約されているのである。
こうした事柄が悪循環を生み出している。子供を私立学校に通学させている納税者は、公立学校のために税金を使うことを嫌っている。その結果、公立学校の教育の質を維持することが難しくなっているのだ。文部科学省によれば、75年から97年まで高校生1人当たりに費やされた公的支出額は3倍に増えているが、それ以降は横ばいのままである。一方で授業料に学習塾などの費用を合わせた「学習費」は年々増加して、04年では私立高校の生徒1人当たりの金額は年間103万5000円。公立高校の同51万6000円と比べ2倍もの開きがある。
その結果、生徒の学力の差が拡大しただけでなく、他の国と比べて平均的な生徒の成績も驚くほど低下してしまった。従来、日本の生徒は教育の達成度でつねに上位にランクされていたことからすれば、これは落胆すべきことである。
・・・つまり、日本の教育格差は他の国よりも拡大しているのだ。納見准教授によれば、拡大のスピードは他の国よりも速くなっているという。
日本が依然として、世界で最も優れた教育を提供している国の一つであることに変わりはないが、最も優れた生徒の割合は減少してきている。子供の潜在能力は、親の所得と社会的な地位によってますます制約されるようになっている。こうした状況は、雇用者が必要とするスキルと、求職者が持っているスキルのミスマッチを引き起こす可能性がある。このような事態は日本の生活水準だけでなく、日本の民主主義の活力にとっても重要な意味を持ってくるはずだ。
まさに、教育訓練によって能力が広がっていく人間という存在を、そこらの動産か不動産と同じように扱おうとする粗野な市場主義が、結果としてどのような帰結をもたらすことになるのかということに対する想像力が問われるわけです。
こういう事態を深刻なことだと感じられるのか、それとも親のカネで得た地位を自分の能力で得たものであるかのように思いこんで「俺こそ成果主義の勝ち組だ!」と考えていられるかというところに、教育問題に限らぬ社会問題に対する感性の差が現れるのでしょうね。
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成果主義でなくて、社会ダーウィン
投稿: toiuyori | 2008年1月22日 (火) 21時08分
こうした「教育」それに、しばしば言及しておられる「住宅」まで含めて国民の生活のあり方を考えるのが、「社会政策」なんでしょうけれど、日本で「社会政策」というと、厚生労働省マター程度に狭義に解釈されがちのような気がします。
投稿: とおりすがり | 2008年1月22日 (火) 22時25分
泣けるほどの正論ですな。
投稿: 感動 | 2008年1月23日 (水) 10時57分
所得格差がもたらす日本の教育格差なんて・・・
昔からありましたよ。それが表面化しただけ。
私は大阪の肉体労働者、零細自営業者が生活する低所得世帯の多い地域に生まれ育った者です。
10年前の当時ですら家族が家に居ても冷蔵庫の電気以外を全て消すほど生活を切り詰めている家庭もありました。また(その地域では)並みの所得水準の家庭でも上や下のきょうだいと受験が重なると子供に充分な教育費をかけられませんでした。いずれも良い学習塾に行きたくても行けない家庭です。良い学習塾に行って満足な高校受験対策ができるかどうかは家庭の経済力によって左右されます。
そして難関と言われている高校は”公立の中学校の授業では触れない内容から入試問題を出題”します。
良い学習塾に行ける子供だけが有力大学への進学率が高い難関高校の受験を事実上”許可”されます。
難関高校、名門高校に行って落ちこぼれて有力大学に行けないというのは自己責任ですが、経済的事情から満足な高校受験対策ができず難関高校に行けなかった子供が有力大学に行くのは至難の業です。
高等学校必履修科目未履修問題が表面化していくらかマシになりましたが、中堅以下の高校では有力大学の受験に合格する水準の学力が身につく授業を実施しない学校が多々あります。
難関国立大学はセンター試験で7科目の受験を課す所が殆どですが、例えば私のいた高校(中堅以下の高校)では漢文、数学ⅡBの授業がありませんでした。世界史の授業も教科書の途中で終わった記憶があります。受験対策の授業もありません。
一方、難関高校に行った裕福な子供は難関国立大学の必要な科目を全て履修するだけでなくセンター試験や二次試験対策まで高校で受けられるそうです。
中堅以下の高校に行った子供が難関高校に行った子供と伍するには予備校や通信教育を使って学力を補うしかありません。ここでも頭をもたげてくるのが”家庭の経済力”の問題です。タダで予備校や通信教育が利用できるわけはありません。
家庭に経済力がない場合は子供は膨大な時間をかけて”虚数って何?”という教科書の初歩レベルの理解から”どうしたら入試問題が解けるようになるのか”といった受験対策まで全て自分でしなければなりません。難関高校に行った子供、予備校や通信教育で学力を補える子供が1ヶ月でできる事を自力で数ヶ月かけてしなければならないのです。ここまでくると難関国立大学はおろか、有名私立大学に現役で合格するのも至難の業です。
自分でアルバイトして稼いだお金で予備校なり通信教育なり利用できるだろう、勉強は効率よくやればいいという声もあるでしょう。ですが現実は残酷なものでアルバイトしながら効率よく勉強する学生は、アルバイトに時間を割かず予備校や通信教育を使って効率よく勉強している同年代には学力面で絶対に勝てないのです。
つらつらと現実を書いてきましたが、いま社会で教育政策を論じている人たちの多くは
”高校受験の時にいい塾に行けて難関高校に入り、高校で充分な大学受験対策をして難関大学に入った子供たち”
あるいは”予備校や通信教育を使って充分な大学受験対策をして難関大学に入った子供たち”の成れの果てでしょう。
親が失業したり、離婚したり、事業に失敗して借金を抱え込んだりで経済力がなくなった家庭の子供たちの気持ちなどわからないでしょう。自分の責任じゃないのにスタートラインに立てなかった者の気持ちなど。
私の場合は親が失業して多重債務を抱えたのですが、その中でも子供にいい教育を受けさせてやりたいと死にそうになりながら教育費を工面してきました。私自身もアルバイトをしながら親の期待に答えようと勉強してきました。
それでも世間でいうところのマーチ(立教大学、明治大学など)レベルの大学が限界でした。
勝ち組と言われる人たちと言うのは東大を始めとする旧帝国大学レベルの大学を出ていますが、そういう人たちは多くが(私から見れば)物凄く裕福な家庭に育った人たちです。親が公務員であったり東証一部上場企業勤務であったりなどというのは当たり前のような感じです。私がそのような人たちの中に入ると今流行の「KY」という言葉で排除されるのでしょう。
私は結婚はするかもしれませんが、子供を産むつもりはありません。経済力のない家庭に生まれた者がいくら努力しても這い上がれない社会で子供を産んでも、死ぬまで井戸の底から空を見上げるような人生しか与えてあげられないと経験的に理解しているからです。
投稿: 負け組 | 2008年1月23日 (水) 17時05分
負け組さま、そう捨てたものでもないですよ。東大を出て厚生労働省に入った「勝ち組」の方たちが、特にヨーロッパでの政策形成、市民のアンガジュマン(もうとっくに忘れ去られている言葉でしょうけど)を見て、何かしら還元できることを、と考えられているようであること(hamachanさんがこの公開ブログを開設されていることや、炭谷茂さんのことなど)、大阪の西成で働いている弁護士さん(「世界」1月号に記事あり)をみると、そういう動きがもっとみなに知られるといいのに、と思います。日本のメディアはそういうものを報道しなさ過ぎます。日本にだって、マザー・テレサやアベ・ピエールのような人たち、それに、そこまで偉くなくても、何かしらをしようとする人たちはたくさんいるんですよ。そういうところに希望をつないで「連帯」してゆくしか、道はないと思いますけれど。
投稿: とおりすがり | 2008年1月23日 (水) 21時19分