貧乏物語
河上肇の『貧乏物語』といえば、むかしは若者の必読書100選なんかにもよく入っていたものですが、ここ数十年くらいははとんと忘れ去られて、岩波文庫でも新刊されていないようです。
しかし、昨今のワーキング・プア問題への関心の高まりの中で、これは改めて読まれる値打ちのある書物だと思います。
青空文庫では残念ながら現在入力中ということのようですが、
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person250.html#sakuhin_list_1
ネット上を見回すと、すでにeテキストになっていました。
http://homepage1.nifty.com/kybs/datastk/binbo11.html
http://www.ksky.ne.jp/~hatsu/hajime/binbo/binbo.htm
まずは格調高い「序」を、
>人はパンのみにて生くものにあらず、されどまたパンなくして人は生くものにあらずというが、この物語の全体を貫く著者の精神の一である。思うに経済問題が真に人生問題の一部となり、また経済学が真に学ぶに足るの学問となるも、、全くこれがためであろう。昔は孔子のいわく、富にして求むべくんば執鞭《しつべん》の士といえども吾《われ》またこれを為《な》さん、もし求むべからずんばわが好むところに従わんと。古《いにしえ》の儒者これを読んで、富にして求めうべきものならば賤役《せんえき》といえどもこれをなさん、しかれども富は求めて得《う》べからず、ゆえにわが好むところに従いて古人の道を楽しまんと解せるがごときは、おそらく孔子の真意を得たるものにあらざらん。孔子また言わずや、朝《あした》に道を聞かば夕べに死すとも可なりと。言うこころは、人生唯一の目的は道を聞くにある、もし人生の目的が富を求むるにあるならば、決して自分の好悪をもってこれを避くるものにあらず、たといいかようの賤役なりともこれに従事して人生の目的を遂ぐべけれども、いやしくもしからざる以上、わが好むところに従わんというにある。もし余にして、かく解釈することにおいてはなはだしき誤解をなしおるにあらざる以上、余はこの物語において、まさに孔子の立場を奉じて富を論じ貧を論ぜしつもりである。一部の経済学者は、いわゆる物質文明の進歩――富の増殖――のみをもって文明の尺度となすの傾きあれども、余はできうるだけ多数の人が道を聞くに至る事をもってのみ、真実の意味における文明の進歩と信ずる。しかも一経済学者たる自己現在の境遇に安んじ、日々富を論じてあえて倦《う》むことなきゆえんのものは、かつて孟子《もうし》の言えるがごとく、恒産《こうさん》なくして恒心《こうしん》あるはただ士のみよくするをなす、民のごときはすなわち恒産なくんば因《よ》って恒心なく、いやしくも恒心なくんば放辟邪侈《ほうへきじゃし》、ますます道に遠ざかるを免れざる至るを信ずるがためのみである。ラスキンの有名なる句に There is no wealth, but life (富何者ぞただ生活あるのみ)とこいうことがあるが、富なるものは人生の目的――道を聞くという人生唯一の目的、ただその目的を達するための手段としてのみ意義あるに過ぎない。しかして余が人類社会より貧乏を退治せんことを希望するも、ただその貧乏なるものがかくのごとく人の道を聞くの妨げとなるがためのみである。読者もしこの物語の著者を解して、飽食暖衣をもって人生の理想となすものとされずんば幸いである。
著者経済生活の理想化を説くや、高く向上の一路をさすに似たりといえども、彼あによくその説くところを自ら行ない得たりと言わんや。ただ平生の志を言うのみ。しかも読者もしその人をもってその言を捨てずんば、著者の本懐これに過ぐるはあらざるべし。
本文の開口一番がこれ、
>驚くべきは現時の文明国における多数人の貧乏である。
>今余もいささか心にいたむ事あってこの物語を公にする次第なれども、論ずるところ同じからざるがゆえに、貧乏人を分かつこともまたおのずから異なる。すなわち余はかりに貧乏人を三通りに分かつ。第一の意味の貧乏人は、金持ちに対していうところの貧乏人である。しかしてかくのごとくこれを比較的の意味に用い、金持ちに対して貧乏人という言葉を使うならば、貧富の差が絶対的になくならぬ限り、いかなる時いかなる国にも、一方には必ず富める者があり、他方にはまた必ず貧しき者があるということになる。たとえば久原《くはら》に比ぶれば渋沢《しぶさわ》は貧乏人であり、渋沢に比ぶれば河上《かわかみ》は貧乏人であるというの類である。しかし私が、欧米諸国にたくさんの貧乏人がいるというのは、かかる意味の貧乏人をさすのではない。
格差があるのは当たり前だ、それをどうこう言うのはねたみ根性だというのは、こういう「貧乏人」の話でしょう。
>思うにわれわれ人間にとってたいせつなものはおよそ三ある。その一は肉体《ボデイ》であり、その二は知能《マインド》であり、その三は霊魂《スピリット》である。しかして人間の理想的生活といえば、ひっきょうこれら三のものをば健全に維持し発育させて行くことにほかならぬ。たとえばからだはいかに丈夫でも、あたまが鈍くては困る。またからだもよし、あたまもよいが、人格がいかにも劣等だというのでも困る。されば肉体《ボデイ》と知能《マインド》と霊魂《スピリット》、これら三のものの自然的発達をば維持して行くがため、言い換うれば人々の天分に応じてこれら三のものをばのびるところまでのびさして行くがため、必要なだけの物資を得ておらぬ者があれば、それらの者はすべてこれを貧乏人と称すべきである。しかし知能《マインド》とか霊魂《スピリット》とかいうものは、すべて無形のもので、からだのように物さしで長さを計ったり、衡《はかり》で目方を量ったりすることのできぬものであるから、実際に当たって貧民の調査などする場合には、便宜のため貧乏の標準を大いに下げて、ただ肉体のことにみを眼中に置き、この肉体の自然的発達を維持するに足るだけの物をかりにわれわれの生存に必要な物と見なし、それだけの物を持たぬ者を貧乏人として行くのであって、それが私の言う第三の意味の貧乏人である。
ネット上にも、知能の貧乏な人や霊魂の貧乏な人はいっぱいいるようですが・・・。
>故啄木《たくぼく》氏は はたらけど
はたらけどなおわが生活《くらし》楽にならざり
じっと手を見る
と歌ったが、今日の文明国にかくのごとき一生を終わる者のいかに多きかは、以上数回にわたって私のすでに略述したところである。今私はこれをもってこの二十世紀における社会の大病だと信ずる。しかしてそのしかるゆえんを論証するは、以下さらに数回にわたるべき私の仕事である。
貧乏がふしあわせだという事は、ほとんど説明の必要もあるまいと考えらるるが、不思議にも古来学者の間には、貧乏人も金持ちもその幸福にはさしたる相違の無いものであるという説が行なわれておる。
確かに、そういう不思議な説を唱える人は後を絶ちません。
>思うに貧乏の人の心身に及ぼす影響については、古来いろいろの誤解がある。たとえば艱難《かんなん》なんじを玉にすとか、富める人の天国に行くは駱駝《らくだ》の針の穴を通るより難《かた》しとかいうことなどあるがために、ややもすれば人は貧乏の方がかえって利益だというふうに考えらるる傾きがある。・・・・・・しかし過分に富裕なのがふしあわせだからといって、過分に貧乏なのがしあわせだとは言えぬ。繰り返して言うが、私のこの物語に貧乏というのは、身心の健全なる発達を維持するのに必要な物資さえ得あたわぬことなのだから、少なくとも私の言うごとき意味の貧乏なるものは、その観念自身からして、必ずわれわれの身心の健全なる発達を妨ぐべきものなので、それが利益となるべきはずはあり得ないのである。
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