フォト
2025年3月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ

« 今後の労働時間規制の在り方 | トップページ | マクドナルド店長は管理監督者ではない »

2008年1月28日 (月)

野村正實先生の自叙伝的書評

野村正實先生のHPに、超特大級の書評、400字詰めで100枚という長大な書評が掲載されました。書評されているのは天野郁夫さんの「学歴主義の社会史」ですが、この書評の読みどころは何よりも、天野著書で描かれた丹波篠山との対比として、遠州横須賀の少年時代を描いた自叙伝的部分にあります。

http://www.econ.tohoku.ac.jp/~nomura/Amano%20Credentialism.pdf

>遠州横須賀において、1960年代前半に、「学力社会」が成立していた。しかし、学歴主義は制度化されていなかった。学歴主義が制度化されているならば、人々は、高い学歴が高い社会的地位をもたらすものと認識し、できるだけ高い学歴を取得しようとするはずである。 私は沼津高専と掛川西高の両方に合格した。掛川西高はいわゆる進学校であり、大学にリンクしている。沼津高専は五年制の教育機関であり、修業年限としては高校をへて短期大学を卒業した場合と同じになる。四年制大学と比べて明らかに不利である。また、高専は新設されたばかりの学校であり、伝統ある大学とは比較にならない。つまり、学歴主義が制度化されていたならば、私は掛川西高に進学し、「いい大学」に入学したいと思ったであろう。また、学歴主義が制度化されていたならば、教師は私に、掛川西高への進学を勧めたであろう。とにもかくにもトップの成績であったのだから、教師が私に、掛川西高に行って勉強すれば「いい大学」に進学できるぞ、がんばれ、と言ってもいいはずである。しかし、現実には、教師、親、友人のだれ一人として私に掛川西高への進学を勧めなかった。そして私自身も、沼津高専に行くことを当然だと思っていた。

>私が学歴主義的な発想にはじめて触れたのは、沼津高専1年生の時である。数学の教師が、授業中に、「私があなたがたに大学受験を指導すれば、あなたがた全員を東大に合格させることができるのですがね」と発言した。高い学力を持った生徒がこんな高専などという学校にいるのはじつに残念である、というニュアンスが露骨に出ていた。私はこの発言に強い違和感を持ち、その後もずっと記憶することになった。大学に行く気がないから高専生になったのに、なぜ大学進学のことを話題にするのだろう、と思ったのである。高専を中退した後で、私はこの数学教師の発言を思いだして、彼がああいう発言をしたのは、彼にとってはごく自然な発想であった、と思うようになった。彼は沼津高専に来るまでは、静岡県で1、2を争う進学高校の教師であった。彼にとって、学歴社会の存在は自明のことであった。彼の目から見て、高専生は、本来ならば学歴社会において高い地位を獲得できるはずの学力を持っていながら、そうした学歴社会からはみ出てしまったかわいそうな存在と見えたのであろう。

>学歴主義の観点からみれば、高専はじつに中途半端な学校であり、高い学力を持った生徒がいくべき学校ではない。高い学力を持った生徒が高専に入学したことは、沼津高専の数学教師が明言したように、道を誤っている。しかし、学歴主義が未成立で、「手に職」意識が強い田舎町においては、高専という中途半端な学校こそが、すばらしい学校に見えた。工業高校よりも立派な「手に職」が身につき、しかも4年制大学卒と同じ待遇というのであるから、「手に職」派にとっては、それこそ最高の学校であった。私の沼津高専合格は、私と私の周囲みんなをとても幸せな気分にしたのである。

>私が高専を中退した年は、当然、中学校時代の同級生が大学に合格した年でもある。遠州横須賀としては異例のことに、東京大学法学部や京都大学工学部への合格者が出た。このことは大学とは縁の薄い田舎町でも大きな話題になった。そして、東大法学部に受かった同級生は、その昔、私と同じく横須賀小学校6年4組の生徒であった。まだ私のことを頭のいい子だと記憶している大人たちも多く、このことと考え合わせて、かつての6年4組の紛争は次のように解釈されるようになった。「6年4組ん衆はものすごく頭がよかっただもんで、あんなことをやっただよ。頭がよくなきゃ、あんな大変なことなんかできゃあせんだに」。(revisionism!)

原文はもっと細部にわたって遠州横須賀における人々の意識構造を描き出しています。そして、

>以上のような私の個人的体験から、私は、1960年代前半において遠州横須賀には学歴主義が未成立であったことを確信している。そして、1960年代前半における学歴主義の未成立は、遠州横須賀に限られたことではなく、広く全国的に見られる、と思っている。そのことを裏づける文献も存在する、と考えている。

>この書評において私が主張しようとしたことは、次の点に尽きる。丹波篠山は産業化の波に乗り遅れた小さな田舎町であるにもかかわらず、「昭和初期」という早期に学歴主義が成立した。本書の著者たちは、この事実を、学歴主義の波が、丹波篠山のような田舎町にもようやく押し寄せた、と理解した。しかし、その理解は誤っている。丹波篠山のような郡部の田舎町に、早期に学歴主義が成立した、と理解し、その上で、なぜ丹波篠山に早期に学歴主義が成立したのか、問うべきであった。

>工業学校が典型的に示しているように、高等教育とリンクしていない中等学校は、「地位表示的」、「地位形成的」という二分法では説明されえない。私自身の経験からいっても、そうした学校は、「地位」と関係しているのではなく、「手に職」をつけることを主たる目的としている。「手に職」という考えは、生活を成り立たせることを最優先の課題としている。生活がなり立てばよいのであるから、会社に長期勤続することも、会社を頻繁に変わることも、さらには自営でも、かまわない。何らかの形でつねに社会的に需要される技能を身につけ、生活を成立させる。これが「手に職」の思想である。「地位」の形成や表示ではない。

>戦前の実業学校は、少なくとも研究の進んでいる工業学校を見る限り、「手に職」思想のための学校であった。義務教育以上の学歴を求めたといっても、中学校→高等教育という学歴主義とは明確に異なるものであった。戦後の学制改革にともなって、「手に職」派は、工業高校などの職業高校に進学するようになった。高校への進学率が高まるにつれて、高校進学の動機は、学歴主義志向、「手に職」派、そして、とりあえずは高校へ進学させておこうという「とりあえず」派となった。「とりあえず」派は職業高校にも進学したが、ある時期までは「手に職」派が職業高校の主力であった。私が中学生時代の1960年代前半は、私の身の回りでも、「手に職」派が工業高校、商業高校、農業高校に進学した。「手に職」派が職業高校の主力となっていた限りでは、職業高校は地域社会において高く評価されていた。 しかし次第に、職業高校の主力が「手に職」派ではなくなってきた。その時期は、1960年代後半から70年代前半である。次のような証言が、そのことを物語っている。

>私の中学校時代は1960年代前半であった。「手に職」派が職業高校に進学するほぼ最後の世代であった。思い返せば、「手に職」派が職業高校に進学しなくなるであろう兆候は、すでに存在していた。遠州横須賀でも、「学力社会」が成立していた。「学力の高い」生徒は、他になんの取り柄がなくても、きわめて高い人物評価評価を得ることができた。「学力社会」は、やがて、高等教育と接続するであろう。私は「手に職」派であった。だから大学進学は考えなかった。しかし、私は工業高校を受験しなかった。成績の上位者は進学高校を受験するという大須賀中学校の慣例にしたがったとはいえ、私の心のどこかに、工業高校では物足りないという気持ちもあった。 1962年に設立された5年制の工業高等専門学校(高専)は、いずれの高専においても、設立当初数年間は競争倍率が10倍を超えていた。このことは、「手に職」派が大学に進学する直前の時期であったがゆえに、引き起こされたのではないか。工業高校よりも上であり、しかも大学ではない高等教育機関は、私のような、試験成績がよく、かつ大学に進学を考えなかった最後の「手に職」派にとって、いわば理想的ともいえる学校であった。きわめて皮肉なことである。高専は、なんの理念も理想もなく、ご都合主義的に設立された。その高専が、私のような「手に職」派にとって理想的な学校に見えたからである。もし高専などという学校が設立されなかったならば、初期の高専生の大半は進学高校に進学したであろう。そして大学に進学する「手に職」派の最初の世代となったであろう。

最後のパラグラフは、野村先生の思いがよく示されています。

>この書評の冒頭において、私が個人的経験をくわしく述べるのは、本書の執筆者たちが個人の聞き書きを積極的に利用しているので、私の体験もまたなにがしかの価値を持っていると考えたからである、と書いておいた。じつをいえば、私が自分の体験をくわしく書いておこうと思った理由は、それだけではない。繰り返し述べているように、私は、大学に進学しない「手に職」派の最後の世代であった。教育社会学による学歴主義研究は、不当にも、大学に進学しない「手に職」派に関心を払わなかった。私のような「手に職」派は、郡部にも、地方都市にも、そして大都市であっても下町に存在していた。私は、こうした「手に職」派の存在した事実を広く知らしめる義務があるように思った。さらに、初期高専生の気持を書き留めておくことも、歴史の証言ではないかと思った。 ずいぶんと長い書評になってしまった。私は、教育社会学が「手に職」派を学歴主義研究のなかに正当に位置づけることを強く望んでいる。

本田由紀先生のいう「教育の職業的レリバンス」がいつの時代にどのように失われていったかを、細かい襞に分け入るように描き出した素晴らしい(書評という形をとった)文章だと思います。ちなみに、この中で、

>丹波篠山にかんするプロジェクト・メンバーは、天野郁夫を代表者として、吉田文、志水宏吉、広田照幸、濱名篤、越智康詞、園田英弘、森重雄、沖津由紀であった。これだけのすぐれたメンバーを集めながら、なぜ理解を誤ってしまったのであろうか。

というのがいささか皮肉になっています。

« 今後の労働時間規制の在り方 | トップページ | マクドナルド店長は管理監督者ではない »

コメント

高度成長期以降、学校も大きく変わりましたね、特に大学進学率の上昇(受験の変貌)に伴って、高校、そこから波及で中学までふくめて、学校の格付けがすごく変わりました。わたしの通った学校(東京)は私立のキリスト教女子校で、優等生ではないわたしを母が公立には向かないと思ってちょっと独自性のある、そして高校受験しなくていい学校に通わせてくれただけなのですが、女子大学進学率の上昇に伴って、当時、女子校としては格付けの高かった、大学のついた学校があれよあれよと言う間に転落、大学を持っていない学校が「ご三家」とかになってしまいました。
自慢で言うつもりは全くないんですが、わたしの行った学校がその一つなのです。で、私立の教員は動きませんから、教員は昔ながらの人がけっこう多い。今や有名校になってしまった学校で仕事を続けている友人は(これを出したかったので)、昔の卒業生で当時の学校の気風を愛している人たちはかえって子どもを公立に入れている(ぶらり庵もです)こととか、小学校のときに無理して(低学年くらいから塾でつめこんで)それほど力はないのに伸びきったゴムのような状態で合格して入ってきてついてゆけなくなった子は、今さら地元の公立に行くことなどできず、気の毒、とか、いろいろな裏話をしてくれます。
岡本薫先生の言うとおり(「日本を滅ぼす教育論議」)、ほとんどの親は政府と違って「フィンランドのようになれ」とか思ってないでしょうけど、わたしは思ってます。
ニート・フリーター増の近年、労働の側から教育を見る人は増えているのに、教育プロパーの人って教育のことしか考えてない(あれ、これってトトロジーか)ことが多いような気がしますが。宮本みち子先生も教育の学界本流の方ではないですよね。

「手に職」派って、ギルドってこと?

連投、ほんとごめんなさい。でも、思い浮かんだときに書かなきゃ忘れちゃうんですもん。
自分は専門学校出だけど、独学で学び、帝大教授の弟、芸大教授の妹(本邦初の音楽留学生だったと思う)よりも、日本の大知識人、うーん、知識だけじゃカバーできないからほんとは明治日本を代表するユマニストと言いたいところですが、になったのが幸田露伴ですよね。
やっぱり、明治維新からが日本近現代史だと思うな。
ついでに、露伴の東京論とか首都論とか面白いですよ。さて、いくらなんでもこれにて失礼。

いや、学の蘊奥を極めるアカデミックなキョーイクしか目に入っていない「教育プロパー」じゃなくって、まさに社会システムの中の教育を見据えているのが、ここで書評の対象になっている天野郁夫さんやその弟子筋の広田さんとか本田由紀さん(上記書評では「沖津由紀」になってます)とかであるわけで、まあ、そうでなかったらそもそも労働研究者の野村さんが書評しようとは思わないでしょう。そういうちゃんとした視座をもった研究者の方々にして、なおかつ・・・・・・というのが、この自叙伝的書評の味噌なんだろうと思います。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 野村正實先生の自叙伝的書評:

« 今後の労働時間規制の在り方 | トップページ | マクドナルド店長は管理監督者ではない »