占領がなくても戦後改革はおこなわれた!
岩波新書の新刊です。雨宮昭一氏の『占領と改革』。シリーズ日本近現代史の一冊ですが。
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/
岩波HPの新刊案内が見事に紹介していますので、それを引用しますね。
>これまで戦後改革を語る時、新憲法制定、財閥解体、農地改革、女性参政権、教育の民主化など一連の戦後改革は連合国総司令部(GHQ)の占領政策によるものといわれてきました。私自身も教科書などでそのように習いましたし、疑いもなくそう思っていました。しかし、雨宮先生は、GHQの占領政策は戦後改革を促進はしたが、その原点は戦時中の総力戦体制の時代に培われていたといわれるのです。本当でしょうか。
日本近現代史研究をふりかえってみると、研究状況はそのような流れになってきているようです。早くも1960年代には大正デモクラシーを戦後改革の先駆とみる見方が出はじめ、日本人自らによる改革の底流があったことを示しました。さらに80年代後半に入ると、敗戦前の総力戦体制の時代の政治や社会の中にこそ戦後改革への道が準備されていたことを主張する研究が登場してきました。雨宮先生の主著『戦時戦後体制論』(1997)は、その成果の一つといわれています。このような考え方はまだ一般にはあまり浸透していませんが、研究レヴェルでは一つのパラダイム転換をおこしたものといわれているようです。
本書はそのような斬新な視角から、占領と改革の時代にかんする最新の研究成果をふまえて、戦後改革がどのようにおこなわれたのか、その実態を描きだしています。戦後とは何だったのかを考えなおすには格好の一冊。
私が最近労働分野であれこれ書いていることも、そういう意味ではこの「一つのパラダイム転換」の一環ということになるんでしょうね。
ただ、労働問題の研究者の端くれとして一言だけいっておきたいのは、日本史学とか思想史学という枠組みの中では、ようやく「80年代後半に入ると、敗戦前の総力戦体制の時代の政治や社会の中にこそ戦後改革への道が準備されていたことを主張する研究が登場してき」たのかも知れませんが、労働研究の世界では既に60年代からそういう認識は提起されていたということです。
世間で総力戦体制論が流行っているようだから労働分野でもしてみんとてするなり、て話ではなく、むしろ労働研究の世界でこそ他に先んじて「GHQの占領政策は戦後改革を促進はしたが、その原点は戦時中の総力戦体制の時代に培われていた」という認識が存在していたんですよ。ということを言いたかっただけなんですが。
著者からのメッセージは次の通りです。
>第二次世界大戦後の日本における占領と改革の時代は、60年も前のことではあるが、それをどう評価するかは、いまきわめて切実な問題である。憲法の改正問題、年功序列と長期雇用などの日本的経営から正社員とフリーターに二分化する労働のあり方への転換、政治における一党優位体制から連立政権体制への転換等々、いま問われている問題の前提が占領と改革の時代にあり、現在の転換の方向を考えるときの不可欠な材料になりうるからである。
第二次世界大戦の敗戦と占領と改革の時代について、これまでの研究では、占領と改革に肯定的であれ否定的であれ、被占領国の下層の人々までが支持する成功した占領として語られているといってよいだろう。それは、ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』という書名に端的に象徴されている。
肯定的な論者は、戦後改革の内容と方向を基本的に支持しつつ、その不徹底を指摘し、徹底化を主張する。否定的な論者は、占領改革が本当は有条件降伏であったにもかかわらず、徹底的な検閲と強制によって改革がおこなわれたこと、その改革を元に戻してはじめて、戦後が終わると主張する。否定的な方も、無条件降伏による改革が成功したことを前提にしている点で、肯定する側と共通性をもっている。本書では、占領と改革の時代についてそのような語り方で本当によいのかを改めて考えてみようと思う。
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「占領」は外国人によるものですから、「外国からの介入」に対する反発の視点がどうも入るような気がします。日本近代史のターニングポイントは、敗戦→占領、のひとつ前に、内戦→明治維新、というのがありますよね。このときにも、占領ではないけれど、法体系、制度、教育、等々にかなり西欧からの輸入がありました。日本近代史については、明治維新と占領とを、同じ「西洋崇拝」でも「国粋主義」でもない視点で通して見ないとならないだろうと思いますけれどね。かつ、現在のグローバリゼーションまで見通す視点で。
投稿: とおりすがり | 2008年1月24日 (木) 21時12分