« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »

公務員制度の総合的な改革に関する懇談会報告書案

新聞等でも報道されていますが、報告書案が官邸HPにアップされています。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumuinkaikaku/forum/h200131/pdf/siryou2.pdf

概要の方を引用しておきますと、

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumuinkaikaku/forum/h200131/pdf/siryou3.pdf

1.議院内閣制にふさわしい公務員の役割

(1)内閣中核体制の確立

○大臣等の政務を補佐する「政務専門官」の創設。

○各府省の立場を超えて、内閣の国家的重要政策の企画立案を行う「国家戦略スタッフ」の創設。

○公務員と政治家との厳格な接触ルールを確立し、政官の接触を集中管理。

(2)大臣人事権の確立

○指定職以上の幹部任用に際しての内閣総理大臣認可の導入。

(3)内閣一元管理

○縦割り行政の弊害を除去し、各府省横断的な人材の育成・活用を行うため、内閣一元管理システムを導入。

2.多様な能力、技術、経験を持つ人材の採用、育成、登用 (

1)学業終了時点での採用

○採用試験に基づき幹部候補を固定化している「キャリア・システム」を廃止。

○現行のⅠ・Ⅱ・Ⅲ種試験等を廃止し、一般職試験(院卒、大卒、高卒)、専門職試験(院卒、大卒、高卒)、総合職試験(院卒、大卒)を創設。

○総合職試験合格者からは、内閣人事庁が一括で採用し、各府省に配属。

(2)中途採用

○他の職業からの中途採用を積極的に行っていくため、中途採用試験(一般職、専門職、総合職)を導入。

(3)公務員育成の目標

○個々の職員が自発的に能力向上に取り組む公務員像を確立し、国際社会の中で活躍できる広い視野と深い教養、公務以外の分野でも活躍できる高い能力を有する人材の育成を目指す。

(4)幹部職員の育成と選抜の制度

○高い能力と倫理観を備えた幹部職員を確保するため、幹部候補を総合的計画的に育成する「幹部候補育成課程(仮称)」を導入。 ・幹部候補育成課程への選抜は、採用後2年程度の働きぶりを評価して行う。(一般職、専門職試験採用者からも選抜)。 ・絞り込みと補充による出入りのある育成課程とする。 ・内閣人事庁は、統一的な基準作成や運用管理を行う。

○本省管理職以上への能力本位で多様な人材登用。 ・本省管理職以上への公募拡大(数値目標を設定し、その比率を段階的に拡大)。 ・内閣人事庁による人事の調整、指定職以上の適格性審査。 ・将来的に、本省管理職以上に占める総合職試験採用者で幹部候補育成課程を修了した者の割合が、半分になることを目指す。

○高度な専門的知識・技能・経験を持つ専門職を育成・確保する。

○国家戦略スタッフは、内閣総理大臣の判断で、公務内外から公募により登用する。

3.公務員の倫理の確立と評価の適正化

(1)公務員共同体化の回避(「ゼッケンを外す」)

(2)職業倫理の確立(公正な人事評価システムと信賞必罰の原則徹底)

(3)評価と賞罰

○人事評価において、国民本位の評価視点を取り入れ、「全体の奉仕者」としての意識を涵養。あわせて評価者の資質向上を図る。

○評価は、採用年次にとらわれず、相対評価により行う。

○組織目標とリンクした目標管理を行い、組織目標から個人の目標を導き出す。

○評価の納得性を高めるため、評価結果を開示し、フィードバックを確実に行う。

(4)守秘義務違反の捜査および誤報に関する罰則の強化

4.国際競争力のある人材の確保と育成

○国際対応に重点を置いた採用と人材育成プログラムの創設。

○幹部候補育成課程では、海外勤務を一度は経験させる。

5.官民交流の促進

○官民の交流を促進するため、官民人事交流法を抜本的に見直し、「官民人材交流法」(仮称)を制定する。

○幹部候補育成課程においても、最低一回は民間企業等で勤務する。

6.働きに応じた処遇(ワーク・ライフ・バランス)

(1)公務効率向上意識の導入

○ビジネス・プロセス・リエンジニアリングの導入による勤務時間適正化や「業務簡素化計画」の作成と実施。

(2)給与体系の抜本的改革

○役職手当の導入や給与への勤務評価の反映徹底(メリハリのきいた処遇)。

(3)就職金および退職金の改革

○国家戦略スタッフや特定専門職への採用の際の就職金(支度金)制度の創設。

○公金で賄われている機関への再就職は、再就職先での退職金辞退・削減を条件化(渡り天下り防止)。

(4)定年・退職

○60歳定年まで勤められることを原則として、能力・実績により処遇される環境を構築する。

○60歳以降については、当面は、再雇用制度の拡充により雇用機会を確保する。

○一定年齢で年功昇給が停止する給与システム、役職定年や職種別定年延長の検討。

7.国家公務員の人事管理に関する責任体制の確立

(1)内閣人事庁(仮称)の創設

○内閣一元管理の実施機関、国家公務員の人事管理について政府を代表して説明責任を負う機関として、国務大臣を長とする「内閣人事庁(仮称)」を設ける。

○総務省人事・恩給局や人事院の中央人事行政に関する部門等の関連機能を内閣人事庁に統合。

(2)労働基本権等

○労働基本権の付与については、専門調査会の報告を尊重。あわせて、国における使用者機関のあり方について検討。

※改革の推進 平成21年の通常国会に内閣人事庁を設立するための法律案提出。改革の実施に必要な関係法案について、平成23年の通常国会に提出し、遅くとも5年以内に改革を実施。

一点だけ指摘しておきますと、(4)定年・退職のところで、

>② 60歳以降については、民間における高齢者雇用の取り組み状況や国家公務員の早期退職慣行の状況を踏まえれば、現状において、国家公務員について一律に年金受給開始年齢まで定年延長をすることは困難であり、当面は、再雇用制度の拡充により雇用機会を確保する。

と書かれていますが、高齢者雇用安定法の2004年改正によって、民間企業は既に年金支給開始年齢までの継続雇用義務を課せられています。

もちろん、それには労使協定によって穴を開けることはできるわけですが、原則は年金支給開始年齢までの雇用継続となっているのであって、希望者全員ではない特例的再雇用制度となっている公務員の方がそっちに到達できていないのだということは、関係者の方々は頭の中に置いておかれても罰は当たらないと思いますよ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

日雇い失業保険制度の創設

さて、今からちょうど60年近く前、1949年に日雇い失業保険制度が創設されています。1947年の失業保険制度創設の2年後です。

で、その経緯をいろいろと調べているんですが、この改正の解説書に、おもしろい記述があったので、引用しておきます。この本は、労働省職業安定局長斉藤邦吉序、労働省失業保険課長亀井光著『改正失業保険法の解説』日本労働通信社、です。

>日雇労働者に対する失業保険の適用については、失業保険法制定の当初から大きな課題として論議されてきたのであるが、その実態を把握することが困難であったのと、雇用される事業主、労働に従事する場所又は賃金が日々異なるのをその本質とする日雇労働者に対し、失業保険法を適用することについて技術的な困難問題が多々あったために、その適用が今日まで遅れてきたのである。しかしながら、失業の危険は、常用労働者よりむしろ日雇労働者の方がより大であり、より切実であるのであって、この意味からいえば、失業保険法は、常用労働者よりも日雇労働者に対し、先に適用されるべきであったのである。又失業保険法を日雇労働者に適用することは、職業安定法第44条の規定による労働者供給事業の禁止に伴っていわゆる労働ボスの排除を徹底的に行うについても、かねて強い要請がなされていたのである。何故ならば、労働ボスに使用されていた日雇労働者は、仕事にあぶれた場合、労働ボスによってその生活の保障を受けていたのであって、労働ボスの排除によって、それから解放された日雇労働者は、自由な労働者となり、賃金の搾取を受けることはないが、その反面失業時において生活の保障を受けることができなくなるのであるから、日雇労働者が失業した場合に、その生活の最低保障をなす措置がなければ労働ボスの排除を徹底的に行うことも困難であるからである。従って、今回の改正によって、遅ればせながら、日雇労働者に対する失業保険制度が確立されたことは、失業保険制度の一大飛躍であり、これによって、我が国の失業保険制度は、一応整備されるに至ったということができるのである。

ええ、面白いのは、これまで(つまり60年前のときまで)は「仕事にあぶれた場合、労働ボスによってその生活の保障を受けていた」のが、労働者供給事業(つまり、今の労働者派遣事業ですな)が全面的に禁止されたので、「失業時において生活の保障を受けることができなくなる」ので、「失業保険法を日雇労働者に適用する」必要が高まったという説明です。

昔の労働ボスというのは偉かったんですねえ。日雇労働者があぶれたら、ちゃあんと生活の面倒を見ていたんですから。そのかわり「事実上の支配関係」という奴で縛り上げていたわけですが、少なくとも、その遥か後輩に当たる今日のフルキャストやグッドウィルよりは温情溢れる存在であったようであります。まあ、こんなこと書いていると、またぞろパターナリズムとかいわれるんでしょうけど。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

格差社会における雇用政策と生活保障

『世界の労働』2008年1月号に掲載した「格差社会における雇用政策と生活保障」です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/seroukakusa.html

雇用保険と最低賃金と生活保護という三題噺を、わたくしなりに一つの形に作ってみました。

実は、厚労省の旧厚生組と旧労働組でやってる勉強会がありまして、そこで提起してみたアイディアを文章化してみたものです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

民主党が日雇い派遣禁止法案を提出?

読売の記事ですが、

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080130-OYT1T00833.htm

>日雇い派遣大手「グッドウィル」(東京都港区)などで違法派遣が繰り返されていた問題で、民主党は30日、日雇い派遣の原則禁止などを盛り込んだ労働者派遣法改正案を今国会に提出する方針を明らかにした。

 同法改正を検討していた厚生労働省は昨年12月、「労使の隔たりが大きい」として、今国会への提出見送りを決めたが、働いても生活費がまかなえない「ワーキングプア」の温床ともされる日雇い派遣については早急な改善が必要だとして、議員立法で提案することにしたという。

 派遣労働者らで作る労働組合などがこの日、都内で開いた集会で、民主党の細川律夫衆院議員が明らかにした。細川議員によると、法案に盛り込まれる主な内容は、〈1〉日雇い派遣の原則禁止〈2〉派遣元と派遣先の双方に共同雇用責任を持たせる〈3〉派遣料金の上限規制――など。党内で詰めの作業を進め、他の野党の意見も聞いた上で、今国会に提案したいとしている。

だそうです。まあ、ガソリン税をこの世の一大事みたいに騒ぎ立てているのよりはずっとまともな感性だとは思いますが、一応議院法制局で議論するんでしょうから、なぜ1ヶ月の登録型派遣は良くって、1日の登録型派遣は(禁止しなければならないくらい)悪いのかについて、じっくりと考えを詰めておいた方がいいとは思います。

いや、別にからかっているんじゃなくって、私もここ数ヶ月、その問題を折に触れ考えてきているんですが、何とかならないかなあとは思うんですが、少なくとも内閣法制局を通過できるような理屈が思いつかないのですよ。このブログでも何回も書きましたけれども、直用の日雇いは良くって、それが派遣になったら(禁止しなければならないくらい)悪くなると言えるのか。

直用の日雇いも、登録型派遣も、それだけでは禁止しなければならないくらいの悪さではないけれども、両方を組み合わせると、合わせ技一本で禁止しなければならないくらいの悪さになるんですというのかなあ、と思いつつも、そういう理屈では法制局参事官に「莫迦者」といわれてお仕舞いのような。

本当に、単発で土日とかに日雇い派遣で働いているような人は、別にそれほど悪いわけでもないという気もします。

むしろ、例えば平均して週に4日以上日雇い派遣就労している場合には、間に非就労日があっても、登録元の常用派遣とみなす、といったやり方は考えられないのだろうか、とか。これは直用日雇いでは不可能で、派遣という形だからこそできることでもあります。

その次の「派遣元と派遣先の双方に共同雇用責任を持たせる」というのは、これまでの日本の派遣法の考え方を根っこからひっくり返すものですが、私はむしろ積極的に評価したいと思います。派遣が悪いと言いつのるよりも、派遣が悪くないような仕組みにしていくことの方が重要で、派遣先の使用者責任を法律上にきちんと位置づけるというのは、そのための一歩になるのではないかと思います。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

「働く」ワーキンググループの報告私案

労働政策は厚労省だけでやってるんじゃなく、内閣府の経済財政諮問会議や規制改革会議も(その中身の評価は別として)政府の労働政策を大きく左右しているということはご案内のとおりでありますが、その内閣府の国民生活局という消費者問題とかを扱っている部局が労働問題を取り上げているということは、案外知られていないのではないかと思います。

国民生活審議会の、総合企画部会の、生活安心プロジェクトの中に、「働く」ワーキンググループというのができて、昨年12月からいろいろと検討しているんですね。

http://www5.cao.go.jp/seikatsu/shingikai/kikaku/21th/hataraku/hataraku-index.html

既に3回開催されて、直近の1月16日には、樋口美雄先生による報告私案までが提示されています。

えっと、その前にどういう人々がやってるかというと、

http://www5.cao.go.jp/seikatsu/shingikai/kikaku/21th/hataraku/071205shiryo01.pdf

主査   樋口 美雄  慶應義塾大学商学部教授
副主査  川崎 あや     横浜市市民活動支援センター事務局次長
委員      岩田喜美枝    株式会社資生堂取締役執行役員常務
            岡本 直美      NHK関連労働組合連合会議長
            小林いずみ     メリルリンチ日本証券株式会社代表取締役社長
            佐々木かをり   株式会社イー・ウーマン代表取締役社長、株式会社ユニカルインターナショナル代表取締役社長
            早瀬  昇       社会福祉法人大阪ボランティア協会常務理事・事務局長

穏当な人選ですね。

で、樋口先生の報告私案ですが、

http://www5.cao.go.jp/seikatsu/shingikai/kikaku/21th/hataraku/080116shiryo06.pdf

>雇用は最大の福祉であり、安心して意欲と能力を発揮できる就業環境の提供は生活者の福祉向上にとって不可欠であるとの視点から、国は地方自治体や企業、NPOと協力・連携し、国民に対し、「働く人を大切にする」社会環境を保障しなければならない。

生活者とはまず何よりも働く人(あるいは働こうとする人、働きたい人)なんですよ。「どの業種でもサービス残業当たり前のご時勢に」などとほざいて消費者主権を狂ったように振り回す人じゃないんですよ。

緊急の具体的課題として、「就職困難者一人一人に対するサポート体制」が挙げられています。

>障害者や母子家庭の母、ホームレス等、就職困難者一人一人に対し、訓練から、職業紹介、就職に至るまできめ細かく支援する体制(一人別のサポート体制)が十分に整備されている状況にはない。これまでの行政の取組は受身の姿勢に止まっており、相談窓口に来た人へのサポートは行うが、自ら積極的に出向いてサポートすることには限界があったところである。このため、就職困難者一人一人に対する一人別のサポート体制が、労働・福祉分野の行政及びNPO等の民間団体により、一体的に講じられるようにすることが最重要な課題の一つである。

また、今までの労働法では救いきれない人々として、

>NPO活動で就労する者(「有償ボランティア」を含む)、ディペンデント・コントラクター、ダブルジョブホルダー等新たな働き方の増加により、既存の制度や法律の保護から漏れる者が生じている現状から、これに対する保護措置の検討が必要である。

こういう目配りもきちんとされています。

>なお、立場(バーゲニング・ポジション)の弱い労働者は苦情や相談を訴えることには困難を伴うところであり、企業内外で苦情・相談を受け付け、適切に処理する仕組みが整備されることが望まれる。

>働く人の安心を確保するための施策の的確な実施、更なる推進を図る上で、定員や予算の制約、地方公共団体における労働行政の機能低下等が課題となっている。

>未組織労働者や非正規労働者、失業者等を含む生活者の意見を幅広く吸い上げる取組が今後とも求められる。

こういう提起をするというところに、内閣府という組織の存在意義があるんだろうと思います。

>就職困難者に対する一人別の支援、雇用以外の新たな働き方への対応、働く場の創出、労働関係法令遵守、キャリア教育、ワークライフバランスなど、府省庁間の連携や内閣府の総合調整機能の強化が必要な課題が増加している。

正しい方向に進んでいくのである限り、「内閣府の総合調整機能の強化」は望ましいことであって、別に厚労省がケツの穴の狭いことをいう必要はないでしょう。

このあとの方に、「労働関係法令遵守、働くことに関する教育の充実等」として、こういうことが述べられています。心の底から賛成です。

>労働関係法令遵守は経営課題としても最重要な課題であり、労働行政のみならず産業振興行政・中小企業行政においても企業の健全な存続・発展を図る上で避けて通ることのできない課題である。また、我が国における労働関係法令遵守水準の低さは、学校教育段階で働くことの権利と義務を含めて的確な教育が行われていないことも大きな原因としてあげることができるところであり、これは若年者の職業意識の形成が十分に行われていないことにもつながっている。
このため、内閣府、厚生労働省、経済産業省、文部科学省等関係府省庁の連携の下に、学校教育段階から社会人に出てからの教育を含め、労働関係法令遵守や働くことに関する教育の充実等のための取組を進めることが必要である。
特に、企業経営者への労働関係法令の周知徹底を図ることは緊急性を要する。都道府県の段階においても、これら各行政に係る官民の関係機関の緊密な連携の下に継続的な取組が進むような方策を検討する必要がある。

これもまた大変重要です。

>就職困難者一人一人に対する一人別のサポート体制や地域における相談機能の強化については、通常の行政手段(受け身の姿勢の行政や、働く人の自助努力に大きく委ねる方法)に比し格段に人の手間と予算が必要となるところである。このため、こうした取組を推進するためには、職員の専門性の向上や官民の連携強化を図りつつ、地域の労働行政に対する支援を含め、予算や定員を確保するための特別措置を講ずることが適当である。

カネやヒトが要るのですよ。もちろんムダはなくさなければなりません。しかし、そればっかり喚くことが「生活者」の立場ではないのです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

生活者本位の消費者主権?

天漢日乗さんのブログに、北見赤十字病院内科医大量退職問題についての地元掲示板への書き込みが載っていまして、

http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2008/01/post_1377.html

いやはや、生活者本位の消費者主権というものを、こういう風にはき違え極めるとここまで行くんだなというのがよおく判ります。

>職場放棄するようなクズ医者しか供給してこない大学が悪い。人格高潔な使命感あふれる良医をきちんと供給する義務を放棄した大学に全責任がある。今回、話題に上がっているクズ医者を北見市民は決して許さない。お前らは末代まで恨まれる。お前らに対する憎悪の念は筆舌に尽くしがたい。
 新しい医者はまもなく来るだろう。だが、油断は禁物だ。新しい医者がどんなクズかわからないからだ。我々は新しい医者を徹底的に監視し、真贋を見極めるつもりだ。仮に、我々の要望に応えられないクズ医者だったら、我々なりの対策をとるつもりだ。お気楽な気持ちで北見に来られては迷惑だ。
北見で働くに値する医者には北見の医療を支える犠牲的精神が必要不可欠だ。北見市民に対する尊敬の念を持たない尊大な医者も迷惑だ。北見市民は患者様であり、医者は単なる奉仕者であるという基本的な理解が求められる。

>北見で働かして欲しいなら、きちんと地元の人に挨拶して己の分限を弁えて欲しい。自分が仕事をもらう立場であり、雇用主は地元住民であることを理解できることが必要。北見の人々に生かされていること、自分が余所者であり、新参者であることが理解できること。つまり、地元の人々の意向が最優先されること、余所者のくせに自己主張をしないこと。このような最低限度のモラルが求められる。いままでの医者はこの程度すら出来なかった。

>北見日赤病院のひどさは本当に市民でないとわからない。私はいったん今いる医者を全員首にして、改めて新たに私たち市民の目線で雇った医者で新北見日赤病院を立ち上げるべきだと考えています。今残っている医者を一刻も早く首にすればむしろしがらみのない施設として医者も雇いやすくなる。会社と同じです

>北見在住の市民です。医師の顔色ばかりをうかがう行政側の対応に呆れ果てています。平均年収の3倍を貰っておきながらまだ給料アップを要求したり、どの業種でもサービス残業当たり前のご時勢に自分の休みばかり主張する医者連中の幼児性にはうんざりです。医者は世間知らずとは思っていましたがここまでとは思いませんでした。あえて言いますが、幼児の甘えに対しては毅然とした対応が必要だと思います。一つ我儘を聞き入れたら必ず次の要求が出てきます。一度医者も叱り飛ばして世間の厳しさを教育してあげたほうが彼らの為でもあると思います。

こういう「市民」さまが、労働市場の消費者主権を振り回すことを正義だなんだと褒めそやしてきたわけですよ、リベラルサヨクな皆様は・・・。

医者はexitという選択肢が容易に取り得る数少ない職業の一つなんですが。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

労働者派遣システムを再考する

『賃金事情』という雑誌の巻頭エッセイ「パースペクティブ」という欄に、「日本の雇用システム」というテーマで連載することになりました。労務屋さんこと荻野勝彦さんの後釜ということになります。

とりあえず第1回は今話題の労働者派遣問題を取り上げてみました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/chinjihaken.html

(追記)

労務屋さんのトラバをいただいてからというのも何ですが、本号はまだ一般に刊行されておりませんので、リンク先はしばらく削除いたします。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

労働立法プロセスと三者構成原則

日本労働研究雑誌の2008年特別号に、2007年労働政策研究会議報告の論文が載っておりまして、私の標題論文も掲載されております。

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2008/special/index.htm

内容はこれです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/jilzoukan.html

日本における三者構成原則の展開 、EUにおける労使立法システムの展開 、先進社会共通の課題としての「労働法の再編」 、労働法の再編と三者構成原則の未来 、と、広範な範囲を簡潔にまとめていますので、いささか意を尽くせていないところもありますが、まあお読みいただければ、と。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

EUの時間外労働

『電機連合NAVI』の1/2月合併号に掲載された「EUの時間外労働」をアップしておきます。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/euovertime.html

| | コメント (3) | トラックバック (0)

マクドナルド店長は管理監督者ではない

日経に早速出ています。

http://www.nikkei.co.jp/news/main/20080128AT1G2800O28012008.html

>日本マクドナルドが店長を管理職として扱い、残業代を支払わないのは違法だとして、埼玉県内の店長、高野広志さん(46)が未払い残業代など計約1350万円の支払いを求めた訴訟の判決で、東京地裁(斎藤巌裁判官)は28日、「店長の職務内容から管理職とはいえない」と述べ、同社に約755万円の支払いを命じた。

 マクドナルドには約1680人の店長がいるほか、他の外食チェーン店でも店長を管理職としている企業は多い。労働基準法で定めた労働時間や残業代などの規制適用外となる管理監督者の認定を厳格にとらえた判決は、こうした企業に影響を与えそうだ。

 訴訟では、店長の高野さんが管理職として経営者と一体的な立場にあり、出退勤の自由や賃金などで一般労働者に比べて優遇されているか否かが争点になった。 (10:43)

細かい判示などは判決がどこかに公開されてから見ていきたいと思いますが、とにかく労働基準法の「管理監督者」の解釈は、世間で謂う「管理職」よりも遥かに狭いものだという認識がこれで少しは世間に広まることになるでしょうか。

(追記)

水口さんの「夜明け前」ブログに、この判決文がPDFで載っています。

http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/2008/01/post_aa0f.html

http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/files/mcdonald.pdf

スキャンしたものなのでコピペできませんが、興味のある方はリンク先へどうぞ。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

野村正實先生の自叙伝的書評

野村正實先生のHPに、超特大級の書評、400字詰めで100枚という長大な書評が掲載されました。書評されているのは天野郁夫さんの「学歴主義の社会史」ですが、この書評の読みどころは何よりも、天野著書で描かれた丹波篠山との対比として、遠州横須賀の少年時代を描いた自叙伝的部分にあります。

http://www.econ.tohoku.ac.jp/~nomura/Amano%20Credentialism.pdf

>遠州横須賀において、1960年代前半に、「学力社会」が成立していた。しかし、学歴主義は制度化されていなかった。学歴主義が制度化されているならば、人々は、高い学歴が高い社会的地位をもたらすものと認識し、できるだけ高い学歴を取得しようとするはずである。 私は沼津高専と掛川西高の両方に合格した。掛川西高はいわゆる進学校であり、大学にリンクしている。沼津高専は五年制の教育機関であり、修業年限としては高校をへて短期大学を卒業した場合と同じになる。四年制大学と比べて明らかに不利である。また、高専は新設されたばかりの学校であり、伝統ある大学とは比較にならない。つまり、学歴主義が制度化されていたならば、私は掛川西高に進学し、「いい大学」に入学したいと思ったであろう。また、学歴主義が制度化されていたならば、教師は私に、掛川西高への進学を勧めたであろう。とにもかくにもトップの成績であったのだから、教師が私に、掛川西高に行って勉強すれば「いい大学」に進学できるぞ、がんばれ、と言ってもいいはずである。しかし、現実には、教師、親、友人のだれ一人として私に掛川西高への進学を勧めなかった。そして私自身も、沼津高専に行くことを当然だと思っていた。

>私が学歴主義的な発想にはじめて触れたのは、沼津高専1年生の時である。数学の教師が、授業中に、「私があなたがたに大学受験を指導すれば、あなたがた全員を東大に合格させることができるのですがね」と発言した。高い学力を持った生徒がこんな高専などという学校にいるのはじつに残念である、というニュアンスが露骨に出ていた。私はこの発言に強い違和感を持ち、その後もずっと記憶することになった。大学に行く気がないから高専生になったのに、なぜ大学進学のことを話題にするのだろう、と思ったのである。高専を中退した後で、私はこの数学教師の発言を思いだして、彼がああいう発言をしたのは、彼にとってはごく自然な発想であった、と思うようになった。彼は沼津高専に来るまでは、静岡県で1、2を争う進学高校の教師であった。彼にとって、学歴社会の存在は自明のことであった。彼の目から見て、高専生は、本来ならば学歴社会において高い地位を獲得できるはずの学力を持っていながら、そうした学歴社会からはみ出てしまったかわいそうな存在と見えたのであろう。

>学歴主義の観点からみれば、高専はじつに中途半端な学校であり、高い学力を持った生徒がいくべき学校ではない。高い学力を持った生徒が高専に入学したことは、沼津高専の数学教師が明言したように、道を誤っている。しかし、学歴主義が未成立で、「手に職」意識が強い田舎町においては、高専という中途半端な学校こそが、すばらしい学校に見えた。工業高校よりも立派な「手に職」が身につき、しかも4年制大学卒と同じ待遇というのであるから、「手に職」派にとっては、それこそ最高の学校であった。私の沼津高専合格は、私と私の周囲みんなをとても幸せな気分にしたのである。

>私が高専を中退した年は、当然、中学校時代の同級生が大学に合格した年でもある。遠州横須賀としては異例のことに、東京大学法学部や京都大学工学部への合格者が出た。このことは大学とは縁の薄い田舎町でも大きな話題になった。そして、東大法学部に受かった同級生は、その昔、私と同じく横須賀小学校6年4組の生徒であった。まだ私のことを頭のいい子だと記憶している大人たちも多く、このことと考え合わせて、かつての6年4組の紛争は次のように解釈されるようになった。「6年4組ん衆はものすごく頭がよかっただもんで、あんなことをやっただよ。頭がよくなきゃ、あんな大変なことなんかできゃあせんだに」。(revisionism!)

原文はもっと細部にわたって遠州横須賀における人々の意識構造を描き出しています。そして、

>以上のような私の個人的体験から、私は、1960年代前半において遠州横須賀には学歴主義が未成立であったことを確信している。そして、1960年代前半における学歴主義の未成立は、遠州横須賀に限られたことではなく、広く全国的に見られる、と思っている。そのことを裏づける文献も存在する、と考えている。

>この書評において私が主張しようとしたことは、次の点に尽きる。丹波篠山は産業化の波に乗り遅れた小さな田舎町であるにもかかわらず、「昭和初期」という早期に学歴主義が成立した。本書の著者たちは、この事実を、学歴主義の波が、丹波篠山のような田舎町にもようやく押し寄せた、と理解した。しかし、その理解は誤っている。丹波篠山のような郡部の田舎町に、早期に学歴主義が成立した、と理解し、その上で、なぜ丹波篠山に早期に学歴主義が成立したのか、問うべきであった。

>工業学校が典型的に示しているように、高等教育とリンクしていない中等学校は、「地位表示的」、「地位形成的」という二分法では説明されえない。私自身の経験からいっても、そうした学校は、「地位」と関係しているのではなく、「手に職」をつけることを主たる目的としている。「手に職」という考えは、生活を成り立たせることを最優先の課題としている。生活がなり立てばよいのであるから、会社に長期勤続することも、会社を頻繁に変わることも、さらには自営でも、かまわない。何らかの形でつねに社会的に需要される技能を身につけ、生活を成立させる。これが「手に職」の思想である。「地位」の形成や表示ではない。

>戦前の実業学校は、少なくとも研究の進んでいる工業学校を見る限り、「手に職」思想のための学校であった。義務教育以上の学歴を求めたといっても、中学校→高等教育という学歴主義とは明確に異なるものであった。戦後の学制改革にともなって、「手に職」派は、工業高校などの職業高校に進学するようになった。高校への進学率が高まるにつれて、高校進学の動機は、学歴主義志向、「手に職」派、そして、とりあえずは高校へ進学させておこうという「とりあえず」派となった。「とりあえず」派は職業高校にも進学したが、ある時期までは「手に職」派が職業高校の主力であった。私が中学生時代の1960年代前半は、私の身の回りでも、「手に職」派が工業高校、商業高校、農業高校に進学した。「手に職」派が職業高校の主力となっていた限りでは、職業高校は地域社会において高く評価されていた。 しかし次第に、職業高校の主力が「手に職」派ではなくなってきた。その時期は、1960年代後半から70年代前半である。次のような証言が、そのことを物語っている。

>私の中学校時代は1960年代前半であった。「手に職」派が職業高校に進学するほぼ最後の世代であった。思い返せば、「手に職」派が職業高校に進学しなくなるであろう兆候は、すでに存在していた。遠州横須賀でも、「学力社会」が成立していた。「学力の高い」生徒は、他になんの取り柄がなくても、きわめて高い人物評価評価を得ることができた。「学力社会」は、やがて、高等教育と接続するであろう。私は「手に職」派であった。だから大学進学は考えなかった。しかし、私は工業高校を受験しなかった。成績の上位者は進学高校を受験するという大須賀中学校の慣例にしたがったとはいえ、私の心のどこかに、工業高校では物足りないという気持ちもあった。 1962年に設立された5年制の工業高等専門学校(高専)は、いずれの高専においても、設立当初数年間は競争倍率が10倍を超えていた。このことは、「手に職」派が大学に進学する直前の時期であったがゆえに、引き起こされたのではないか。工業高校よりも上であり、しかも大学ではない高等教育機関は、私のような、試験成績がよく、かつ大学に進学を考えなかった最後の「手に職」派にとって、いわば理想的ともいえる学校であった。きわめて皮肉なことである。高専は、なんの理念も理想もなく、ご都合主義的に設立された。その高専が、私のような「手に職」派にとって理想的な学校に見えたからである。もし高専などという学校が設立されなかったならば、初期の高専生の大半は進学高校に進学したであろう。そして大学に進学する「手に職」派の最初の世代となったであろう。

最後のパラグラフは、野村先生の思いがよく示されています。

>この書評の冒頭において、私が個人的経験をくわしく述べるのは、本書の執筆者たちが個人の聞き書きを積極的に利用しているので、私の体験もまたなにがしかの価値を持っていると考えたからである、と書いておいた。じつをいえば、私が自分の体験をくわしく書いておこうと思った理由は、それだけではない。繰り返し述べているように、私は、大学に進学しない「手に職」派の最後の世代であった。教育社会学による学歴主義研究は、不当にも、大学に進学しない「手に職」派に関心を払わなかった。私のような「手に職」派は、郡部にも、地方都市にも、そして大都市であっても下町に存在していた。私は、こうした「手に職」派の存在した事実を広く知らしめる義務があるように思った。さらに、初期高専生の気持を書き留めておくことも、歴史の証言ではないかと思った。 ずいぶんと長い書評になってしまった。私は、教育社会学が「手に職」派を学歴主義研究のなかに正当に位置づけることを強く望んでいる。

本田由紀先生のいう「教育の職業的レリバンス」がいつの時代にどのように失われていったかを、細かい襞に分け入るように描き出した素晴らしい(書評という形をとった)文章だと思います。ちなみに、この中で、

>丹波篠山にかんするプロジェクト・メンバーは、天野郁夫を代表者として、吉田文、志水宏吉、広田照幸、濱名篤、越智康詞、園田英弘、森重雄、沖津由紀であった。これだけのすぐれたメンバーを集めながら、なぜ理解を誤ってしまったのであろうか。

というのがいささか皮肉になっています。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

今後の労働時間規制の在り方

先週金曜日の講演メモです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/jeckouen.html

中味はこれまでブログ上で各雑誌等で述べたきたことですが、はじめの方で現行労働時間法制についてちょっと違った観点から解説しているところがいささか面白いかも知れません。

特に、管理監督者に関するところは、意外にきちんとした議論がされていないのではないかという印象を持っています。これは、管理職は組合に入れないという扱いと相俟って、組合組織率の低下の一つの原因となっているという側面も重要です。

>(5) 管理監督者  

 さて、こういう奇妙な労働時間規制についても、もともと適用除外の規定はありました。そのうち、今回のホワイトカラー・エグゼンプションと大変関係が深いのが、第41条第2号に規定される「管理監督者」です。厚生労働省労働基準局のコンメンタールによれば、「これらの者は事業経営の管理者的立場にある者又はこれと一体をなす者」で、「一般的には、部長、工場長等労働条件の決定その他労務管理について経営者と一体的な立場にある者」(労働基準法の解釈通達)だとされています。
 え?ホント?と思った方、いい勘をしています。そう、この「管理監督者」は世間で言う「管理職」とは違う概念なのです。ところが、マスコミはこれを管理職とごっちゃにして報道してしまうのですね。もっとも、後に述べるようにそれには理由があるのですが、まずはこの「管理監督者」というものがいかなるものであり、いかなるものでないのかを、通達の文言を引きながら詳しく見ておきましょう。
 まず「企業が人事管理上あるいは営業政策上の必要等から任命する職制上の役付者であれば全てが管理監督者として例外的取扱いが認められるわけでは」ありません。「一般に、企業においては、職務の内容と権限等に応じた地位(職位)と、経験、能力等に基づく格付(資格)とによって人事管理が行われている場合があるが、管理監督者の範囲を決めるに当たっては、かかる資格及び職位の名称にとらわれることなく、職務内容、責任と権限、勤務態様に着目する必要が」あります。「管理監督者であるかの判定に当たっては、上記のほか、賃金等の待遇面についても無視し得ない」とはいうものの、「一般労働者に比べ優遇措置が講じられているからといって、実態のない役付者が管理監督者に含まれるものでは」ありません。
 これが大原則なのですが、とはいえ一方で「法制定当時には、あまり見られなかったいわゆるスタッフ職が、本社の企画、調査等の部門に多く配置されており、これらスタッフの企業内における処遇の程度によっては、管理監督者と同様に取扱い、法の規制外においても、これらの者の地位からして特に労働者の保護に欠ける恐れがないと考えられ」るので、一定範囲の者については管理監督者に含めて考えてもよいという基準も示しています。
 厳密に考えれば、これは労働基準法の文言に反します。彼らスタッフ職の人々は、部下を管理しているわけでもなければ監督しているわけでもありません。どう考えても管理監督者ではあり得ない人々を管理監督者に含めてもかまわないとしているのは、それが企業の人事管理の実態に即しているからだというほかに説明のしようがありません。日本の企業では特に高度成長期以来、従業員を職務遂行能力によって序列化した職能資格制度を設け、これに基づいて人事管理を行うことが一般化しました。この制度においては、高い職能資格に対応する管理監督的職務と同じく高い職能資格に対応するスタッフ的職務とで、同じような賃金等の処遇が行われます。この場合に、管理監督者になった高給労働者には労働基準法に基づいて時間外手当を払わないが、管理監督者になっていないスタッフ的職務の高給労働者には時間外手当を払わなければならないということになると、かえって労働者間の公平感を損なうことになります。
 その意味で、このスタッフ職を管理監督者として認めるという解釈は、時間外手当の支給基準という観点から見れば、まことに妥当な結論であるわけです。同期入社の従業員の間で、同じ職能資格で同じくらいの給料を貰っていながら、一方には時間外手当が付いて、一方には時間外手当が付かないというのは、いかにもまずいだろう、というのは、この本をお読みのサラリーマンの方々にとってはよく理解できるところだろうと思います。
 ところが、ここで適用除外されているのは会社の人事管理上もっともな時間外手当の支給についてだけではありません。労働時間規制そのものも一緒に適用除外されてしまっているのです。労働基準法の精神からすればどう考えても正当化しがたいにもかかわらず、それがなんの問題もなく今まで受け取られてきたのはなぜでしょうか。一つには、管理職レベルの高給を貰っているスタッフ職が実際にはかなりヒマであって、労働時間規制を必要とするような状況におかれることがなかったからというのがいかにもありそうです。職能資格制度が実際には年功的な運用をされていることが多かった時期には、特にそういう傾向があったのでしょう。
 ところが、1990年代以来、企業の人事管理は大きな変化を被ってきました。その中で、組織のスリム化を目指し、管理職レベルに昇進する従業員を絞り込んでいくという傾向が見られます。これまでであれば管理職クラスのスタッフ職として処遇するという形で対応していた人々が、必ずしもそうではなく、管理職の一歩手前にとどまってしまうという事態が進んできているようです。この人々に対しては、もはや先ほどの解釈通達に基づいて管理監督者に含めて取り扱うというわけにはいきません。時間外手当を払わなければなりません。さもないと、サービス残業ということになってしまいます。ホワイトカラー・エグゼンプションの議論が1990年代から急速に盛り上がっていった背景にあるのは、実のところこうした企業の人事管理の変化なのではなかろうかと、私は考えています。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

分煙要求で解雇

これは興味深い事例です。

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/72372.html

>職場の分煙対策を要望したことで不当に解雇されたとして、砂川市の男性(34)が二十四日、勤務していた建設資材製造会社「道央建鉄」(滝川)を相手取り、解雇の無効確認と給与の支払いを求める訴えを札幌地裁岩見沢支部に起こした。NPO法人日本禁煙学会(東京)によると、職場での受動喫煙をめぐり非喫煙者側が解雇されるのは極めて珍しく、こうした解雇処分の違法性を問う訴訟は、受動喫煙防止を盛り込んだ健康増進法の施行(二○○三年)後、全国で初めて。

 訴状によると、男性は○七年一月、道央建鉄に入社。当時、勤務していた同社の事務所では、従業員の半数以上が自席で喫煙していた。男性は入社直後から頭痛や吐き気、不整脈などの症状に悩まされ、同五月には「急性受動喫煙症」と診断された。

 男性は診断結果を上司に提出し、分煙対策を要望したが、会社側は「喫煙しないとうちの社員は仕事にならない」「たばこが苦手なら他の仕事を探した方がいい」などとして応じなかった。

 男性の相談を受けた滝川労基署は同八月、同社の実態を調査し、同社は受動喫煙に関して改善を指導されたという。その直後、会社側は男性に退職か配置転換を受け入れるよう命じ、男性がどちらも拒否すると、「やむを得ない理由がある」として解雇された。

 男性の代理人の黒木俊郎弁護士(札幌)は「解雇の実質的な理由は労基署への相談であり、解雇は労働基準法違反」とし、男性は「上司から『たばこを我慢できないのはおまえが悪い』などと煙たがられ、納得できなかった。泣き寝入りせずに戦いたい」と話す。

 一方、道央建鉄の西田洋一社長は「私を含め社員の大半が喫煙者で、完全な分煙対策には費用もかかる。社会の流れに逆らっているのは承知しているが、男性と会社の双方のために解雇した」としている。

煙草を吸ってる側が、吸わない側を「煙たがる」とはこれいかに、なんて冗談を言いたいわけではなくって、ゴホンゴホン、すいません。

労基署への相談が理由だとすると簡単な話になっちゃいますが、非喫煙者が分煙を要求したことを理由とする解雇という観点からはたいへん興味深い事案です。労働者の大半が喫煙者であるような中小企業で、その喫煙労働者の権利をどう考えるかという観点も忘れてはいけないですし。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

山口二郎氏の反省

『情況』という新左翼っぽい雑誌があります。1/2月合併号が「特集:新自由主義」ということで、ハーヴェイの本の書評特集をしていたので買ったんですが、はじめの方に金子勝氏とか山口二郎氏のインタビューが載っていて、特に後者はかなり率直な「反省の弁」という感じになっていたので、紹介しておきます。

>90年代に改革を論じた多くの人が、「市場化を進めていったとき、市民化の足場が掘り崩される」ということを、あまり判っていなかった。今でこそワーキングプアとか格差とかいわれているけれど、当時の改革論議では、規制緩和を徹底したときに何が起こるかという心配をしている人なんて、ほとんどいなかった。その理由としては、「生活者の政治」という構えでものを考えるときに、実は「生活する一番の土台のところを崩される」ということについての警戒というか、予見というのが、できていなかったのだと思います。「生活者を基盤とした政治」とか、今でも簡単に言う人がいますけど、そんなに単純に主張できる者ではなかったということです。

>さっきも言いましたが、生産拠点と生活拠点とを対立させて捉えるというのはやはり間違っている。私たちはみんな労働力を売って、生活の糧を得ているわけですよね。ところが労働市場というのは、私たちが供給者であって、企業が主権者なわけですよ。消費者主権が労働市場においても徹底されるとどういうことになるかというと、雇う側が労働者に好き放題無理難題をふっかけてきて、賃金のダンピングはするわセクハラはするわ、という話になってくるわけですよね。ですから市場化のベクトルあるいは消費者主権という原理で社会のシステムを再編していくというのは、私たち自身にとっても不利益が生ずる側面もあるわけです。結局、消費者主権の論理みたいなものを、脳天気に言いすぎた。消費者主権というものは一つの原理ですから、それが原理主義的に徹底されていくと、私たち自身が労働を売るときにね、同じ原理が適用されてブーメランのように跳ね返ってきているわけです。

>私たちはある意味で生産に参加することで生きているわけですから、その部分では、過当競争を防ぐための生産者カルテル、みたいな発想も必要になってくるわけですよね。ですから、労働組合の役割というものが、市民・生活者の論理と対峙する、という考え方は間違っていると思いますよ。生産と消費がトータルにあって人間生活がなりたつわけですから、その点で90年代の「生活者起点の政治」という議論はとても偏っていたというか、結果的に市場化の方にすくい取られていってしまった、という後悔がありますね。

 今頃あんたが後悔しても遅いわ、なんて突っ込みは入れません。この文章自体がまさにそれを懺悔しているわけで、人間というものは、どんなに優秀な人間であっても、時代の知的ファッションに乗ってしまうというポピュリズムから自由ではいられない存在なのですから。

まあ、でも90年代のそういう風潮に乗せられて、いまだに生産の場に根ざした連帯を敵視し、それこそが進歩だと信じ込んで、地獄への道をグッドウィルで敷き詰めようとする人々が絶えないんですからね。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

占領がなくても戦後改革はおこなわれた!

S1048 岩波新書の新刊です。雨宮昭一氏の『占領と改革』。シリーズ日本近現代史の一冊ですが。

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/

岩波HPの新刊案内が見事に紹介していますので、それを引用しますね。

>これまで戦後改革を語る時、新憲法制定、財閥解体、農地改革、女性参政権、教育の民主化など一連の戦後改革は連合国総司令部(GHQ)の占領政策によるものといわれてきました。私自身も教科書などでそのように習いましたし、疑いもなくそう思っていました。しかし、雨宮先生は、GHQの占領政策は戦後改革を促進はしたが、その原点は戦時中の総力戦体制の時代に培われていたといわれるのです。本当でしょうか。

 日本近現代史研究をふりかえってみると、研究状況はそのような流れになってきているようです。早くも1960年代には大正デモクラシーを戦後改革の先駆とみる見方が出はじめ、日本人自らによる改革の底流があったことを示しました。さらに80年代後半に入ると、敗戦前の総力戦体制の時代の政治や社会の中にこそ戦後改革への道が準備されていたことを主張する研究が登場してきました。雨宮先生の主著『戦時戦後体制論』(1997)は、その成果の一つといわれています。このような考え方はまだ一般にはあまり浸透していませんが、研究レヴェルでは一つのパラダイム転換をおこしたものといわれているようです。

 本書はそのような斬新な視角から、占領と改革の時代にかんする最新の研究成果をふまえて、戦後改革がどのようにおこなわれたのか、その実態を描きだしています。戦後とは何だったのかを考えなおすには格好の一冊

私が最近労働分野であれこれ書いていることも、そういう意味ではこの「一つのパラダイム転換」の一環ということになるんでしょうね。

ただ、労働問題の研究者の端くれとして一言だけいっておきたいのは、日本史学とか思想史学という枠組みの中では、ようやく「80年代後半に入ると、敗戦前の総力戦体制の時代の政治や社会の中にこそ戦後改革への道が準備されていたことを主張する研究が登場してき」たのかも知れませんが、労働研究の世界では既に60年代からそういう認識は提起されていたということです。

世間で総力戦体制論が流行っているようだから労働分野でもしてみんとてするなり、て話ではなく、むしろ労働研究の世界でこそ他に先んじて「GHQの占領政策は戦後改革を促進はしたが、その原点は戦時中の総力戦体制の時代に培われていた」という認識が存在していたんですよ。ということを言いたかっただけなんですが。

著者からのメッセージは次の通りです。

>第二次世界大戦後の日本における占領と改革の時代は、60年も前のことではあるが、それをどう評価するかは、いまきわめて切実な問題である。憲法の改正問題、年功序列と長期雇用などの日本的経営から正社員とフリーターに二分化する労働のあり方への転換、政治における一党優位体制から連立政権体制への転換等々、いま問われている問題の前提が占領と改革の時代にあり、現在の転換の方向を考えるときの不可欠な材料になりうるからである。

 第二次世界大戦の敗戦と占領と改革の時代について、これまでの研究では、占領と改革に肯定的であれ否定的であれ、被占領国の下層の人々までが支持する成功した占領として語られているといってよいだろう。それは、ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』という書名に端的に象徴されている。

 肯定的な論者は、戦後改革の内容と方向を基本的に支持しつつ、その不徹底を指摘し、徹底化を主張する。否定的な論者は、占領改革が本当は有条件降伏であったにもかかわらず、徹底的な検閲と強制によって改革がおこなわれたこと、その改革を元に戻してはじめて、戦後が終わると主張する。否定的な方も、無条件降伏による改革が成功したことを前提にしている点で、肯定する側と共通性をもっている。本書では、占領と改革の時代についてそのような語り方で本当によいのかを改めて考えてみようと思う。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

エコなだけではソーシャルじゃない

新聞各紙とも結構大きく報道しているとおり、EUの欧州委員会が温室効果ガス削減に向けた数値目標を提案したようです。

http://www.asahi.com/international/update/0123/TKY200801230343.html

>欧州連合(EU)の行政機関の欧州委員会は23日、温室効果ガスを2020年までに90年比で20%減らす目標達成のため、二酸化炭素(CO2)排出量取引の強化とともに、取引対象外の分野についても温室効果ガス削減の国別数値目標を加盟各国と欧州議会に提案した。05年に比べ平均10%減らす。北海道洞爺湖サミットを控え、数値目標設定に消極的な日本や米国に圧力をかけ、世界の環境政策で主導権を確かにする狙いがある。

 EUは電力や鉄鋼などの産業分野でCO2排出量取引を行っているが、今回の国別数値目標は運輸やサービス、農業など排出量取引制度に加わらない分野が対象。域内排出量の約6割を占める。1人当たりの国内総生産(GDP)などを基準に、20年までに05年比でどれだけ減らすかを加盟27カ国ごとに算出した。

 所得が高いルクセンブルクやデンマークが20%、英国が16%、フランスとドイツがそれぞれ14%の削減を義務づけられる。一方、所得が低いブルガリアは20%の増加を認める。EU平均では10%削減を達成する。

 正式決定には、加盟27カ国による閣僚理事会と欧州議会の承認が必要。欧州委は年内の承認に向け加盟国と調整する。

ほうほう、エコじゃのお、クリーンじゃのお、大変結構なことじゃのお。ところで、なんで労働法政策のブログで取り上げるんじゃの?

それは欧州労連が即日声明を発表したからです。そりゃ大賛成だといっとるんじゃろうて?いやいや、とんでもない。本音は反対です。

http://www.etuc.org/a/4504

ええと、現時点ではまだ英語版は載ってなくて仏語版だけですが、おって英語版もアップされる予定です。

>la Commission fait des propositions importantes mais nous avons aussi besoin de garantir l’emploi en Europe dans un contexte mondialisé.

つまり、環境も大事かも知れないが、俺たちの仕事も大事だぞ、ちゃんと雇用を保障しろよ。

ったく、労働組合というのはエコじゃない保守オヤジの塊りだなあ、と思ったあなた。それはそもそもそういうものです。

>La Confédération européenne des syndicats (CES) considère que ce paquet est un pas significatif, cependant, elle insiste sur le fait que les questions sociales et les questions liées à l’emploi doivent être prises en compte notamment dans un contexte mondialisé. L’importance des enjeux économiques et sociaux et la communautarisation croissante de la politique climatique de l‘Union impliquent l’ouverture d’une véritable négociation sociale sur les futurs plans « climat » de l’Europe.

エコなだけではソーシャルじゃない。クリーンなだけでは喰っていけない。まあ、そういう話ですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

モラルハザード異聞

大竹先生のブログ経由で、この間の大学入試センター試験の現代社会の問題を見ました。

http://nyushi.yomiuri.co.jp/nyushi/center/08/1/exam/540/27.htm

>下線部eは「モラルハザード」の論理を示しているが、その事例に関する記述として適当でないものを次の1~4のうちから一つ選べ。

>1失業保険の充実が、かえって失業者の経済的自立を鈍らせてしまい、失業給付の増大と労働意欲の減退とを招いてしまう。

>2医療保険の充実が、かえって人々の医療機関への過度な依存を招くことになり、自助に基づく疾病予防や健康管理がおろそかになってしまう。

>3金融システム不安から国民を守るための公的資金の投入によって、かえって金融機関は経営者責任が曖昧なまま、ずさんな融資を続けてしまう。

>4企業による合理化計画の推進が、かえって人員削減を招くことになり、失業者を増やしてしまう。

もちろん、「適当でない」のは4になるわけですが、この問題はちょっと問題ありじゃないの?と感じてしまいました。2の設例です。

1の失業保険の例はまさにもっとも典型的なモラルハザードです。私のジュリストでの解説文でもそういう説明を書いています。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/juristkoyouhoken.html

ただ、失業保険というセーフ的ネットがそれ自体モラルハザードから逃れられないのは、ここにも書いたように、雇用保険制度における保険事故たる「失業」には、労働の意思と能力という主観的要件が含まれていることが大きく、給付を受けるために自らの意図によって「失業」するという事態を本質的に排除できないからです。

それに対して疾病保険制度における保険事故たる「疾病」の場合、もちろんまったくそういうこと(つまり疾病保険の給付を受ける目的でわざと病気にかかる)がないのかと言えばないわけではないでしょうが、「自助に基づく疾病予防や健康管理」でもって病気をコントロールできるものであるかのようにいうのはいささかいかがなものかと思わざるを得ません(病院に行く必要がない程度の軽い病気でも病院に行くことをモラルハザードと呼ぶならばそれはありえますが、それは保険給付の対象疾病をどう設定するかの問題でしょう)。公的疾病保険のないアメリカでは、みんなモラルハザードに悩まされることなく、「自助に基づく疾病予防や健康管理」でもって誰もが健康に過ごせているというのなら大変素晴らしいことではあるんでしょうけどね。

なんだか一定の政策方向をさりげなく押しつけようとしているように見えないこともないですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

リベラルな人々のポピュリズム

きはむさんのところに、読みようによって色々と面白い読み方のできそうなエントリーがありました。

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20080122

>私には今の日本社会はポピュリズム的な原理によって動かされている部分が大きいように思えるからだ。ポピュリズム的現象というものが、全体性を失いつつある社会において疑似的な連帯感を湧出させる契機にほかならないというのは、鵜飼健史の(オリジナルとは言い切れないとしても)卓見である*4。社会がポピュリズムによって動くということは、全体社会の代表でもない奴が、「何だかそれらしい」風情で現れ・振る舞うがゆえに、全体社会の代表みたいな顔をして世の中を動かせる地位を手に入れるということだが、そこでの「全体社会」=「私たちみんな」には必ず共通の敵がいて、それが今日では官僚だったりする。

>見方によっては、現状はぐんぐん直接制の統治に近づいて行こうとしているとも言える。国民代表に許すフリーハンドの範囲を狭めていくという意味で、だ。本来なら、ある国家の統治を担うということは、私たち一般庶民にはうかがい知れない様なシンボーエンリョなどに基づいて、あまり公にはできないことや法の枠を少うし跳び越えるようなことをすることもあって「然るべき」なのだが、国家権力をひたむきに民主化していくということは、そういった逸脱を許そうとしないことである。同じことを、ナシオン主権からプープル主権への転換が進んでいると表現してもよい。とにかく「私たち」日本民衆は、国家権力を思うさまにコントロールしたがっている。「私たち」の一体性や、その意思=「民意」の在りかなどが明らかならぬままに。何はともあれ、日本国家の舵取りを「私たち」の手に取り戻さなければいけないのだ、との漠とした昂ぶりとともに。

>さて、こういった国家観は社会契約説的なそれに由来するだろう。日本では中高生の社会科で何はともあれ一応は社会契約説を叩き込まれることになっているので、何だかんだ言っても皆、国家は私たち国民のためにあるものだと思い込んでいるんだな(社会契約説的なバージョンの道具的国家観)。そうすると、国家そのものが持っている自律性なり独立性なりといったものへの意識は希薄にならざるを得ない。「イデオロギーに囚われている」右翼や左翼には、良くも悪くも国家をそれ以上のものとして観念する想像力が保たれているんだけれども、「良心的な」リベラルさん達には国家固有の原理というものは案外見えにくかったりする。

>その一つというのは、国家が提供するような公共サービスというものを市場的契約関係によるサービス供給と同一地平で捉えるような態度が広く浸透したら世の中どうなるかということで、これも過去に書いたことに基づく*8。その内容について自らが同意したサービスを、自らが払ったコストに見合っただけの範囲で提供してもらう。コストを払っていないサービスは提供されないし、自らが享受することのないサービスのコストを払う必要は無い。こういった市場的な交換原理が全面化した社会では、いわゆる「社会的なもの」、つまり連帯原理は消滅する。と、そう書いた。しかし、それはロック的な意味での社会契約をとことん具現化したものなんだよ、とも書いた。すなわち、対等に尊重されるべき個々の人格の、自発的な「同意」こそが全ての基礎に据えられるべきである、とそういうことで、この原理に反対する人はリベラルじゃない。もちろん、リベラルさんだって、社会的なものには多少の気を払うのが普通だ(むしろ単に「リベラル」と呼ばれるようなタイプのリベラルさんはそれに専念しているように見えるぐらいだ)。でも、ちょっと普通じゃないぐらいにリベラルたろうとすると(つまりリバータリーアーンに変身するということだが)、強制的に社会的な連帯を担保しようとするよりも、個人の「同意」というものを徹頭徹尾尊重する方が優先されるべきだという考えに行き着く(はずだ)。

>肝心なのはここからで、そういうふうに個人の「同意」を何より尊重して、社会的なものを消滅させてでも公共サービスを市場的な水準での契約関係に還元しようとする立場というのは、プープル主権の徹底とも読み替え可能なんだな。つまり、ここでポピュリズムの進展と繋がるわけだ。プープル主権の徹底と言うのは、具体的な「人民」じゃない曖昧な「国民」とか、人民の「同意」によらない国家(国民代表)の差配(それこそ社会的連帯の強行的実現としての所得再分配などのような、ね)をできる限り排して、具体的な「民意」――理想的には直接的な契約締結の意思のような具体性を備えたそれ――に基づいて政治を動かしていくべきだと考える姿勢を指してのこと。もし、ここに解りやすい具体的な問題点を見出すとすれば、政治的無能力者の排除のことが挙げられる。つまり、具体的な「同意」が必要なら、その意思を示す能力を持たない者は、統治なり社会構成なりに関与しようがない。そして実際、社会的なるものが消滅した社会で第一の犠牲になるのはそういった類の人々なのである。恐ろしいことに、極めて具体的な水準で社会契約説――デモクラシーの理想を象徴するとされる神話――に従った社会構成を為そうとすると、常に必ずある一定範囲の人々の滅殺が確定する。全く、上手くいかないものだ。

これは、政治思想史とかいろいろな観点から論じるべき話題なんだと思いますが、とりあえずそういう「個人の同意を何より尊重」して「人民の同意によらない国家の差配」を否定しようとする「リベラル」な発想は、そういう個人の同意に基づかない国家の行為を求めるような連中を「衆愚」「ポピュリズム」と侮蔑の眼差しで見ているのでしょうが、実のところはそれゆえに彼ら自身が限りなくポピュリズムに陥っていくというパラドックスが生ずるというというところが、まさに理性の狡知の逆襲という感じではあります。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

OECD対日勧告へ

日経BIZPLUSに、「OECD、日本に生産性向上・雇用改革を勧告へ」という記事が出ています。

http://bizplus.nikkei.co.jp/genre/jinji/index.cfm?i=2008012205519b4

>経済協力開発機構(OECD)は21日開いた経済開発検討委員会(EDRC)で、日本経済の動向や構造改革について討議した。中期的な成長力を高める方策として、サービス産業の生産性向上や雇用制度の改革が必要との指摘が相次いだ。3月に公表する対日経済審査報告書で規制緩和や女性の就業促進を急ぐよう勧告に盛り込む。

「雇用制度の改革」という言葉と「規制緩和」という言葉だけを紙面からスキャンすると、例によって例の如き雇用規制を緩和せよと言う話かいな、と思われるかも知れませんが(そう読めるような紙面になっていますが)、OECDが雇用制度改革として求めているのは、

>雇用では女性の就業促進と出生率向上を両立させるための制度整備や、非正規労働者の技能訓練拡充が重要だとの指摘が出た。

ということであったようです。

日本政府の片隅になお残存するネオリベ派の生き残りよりも、かつて市場主義の巣窟として猛威を振るったOECDの方が遥かに事態を率直に見ているようでありますな。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

<