雨宮処凜さんについて
先日対談した雨宮処凜さんについてオーマイニュースでこういう批判が書かれているようです。
http://www.ohmynews.co.jp/news/20071220/18764
>雨宮処凛の「転向」が批判されない理由
>いまでこそ「プレカリアートのマリア」だとか「ワープアのミューズ」だとか「ネットカフェ難民の女神」だとか呼称され、停滞気味だった左派の救世主的存在になっているけれども、以前は、維新赤誠塾なる民族派パンクバンドをやっていたバリバリの右翼だった。
つまり、転向者なのだ。
よくある左から右へ、ではなく、右から左へ、ではあるが、転向は転向だ。一昔前なら、「転向」といえば、物書き生命を左右しかねないほどの重大問題だったはずだが、こと雨宮に関しては、そのことであまり批判を受けていないようだ。なぜなのだろう?
私は、右翼時代の雨宮さんについては全然知らないのですが、この批評者が使っている「右翼」「左翼」という言葉が一次元的すぎてものごとを適確につかまえられていないだけなのではないかと思います。
雨宮さんが「右翼」だったといっても、それは別に、労働者をみんなフリーターにして権利を剥奪してしまえば世の中は住みよくなるなどとほざいていたわけではないでしょう。
格差のどこが悪い、貧乏人は飢えて死ねばいいじゃん、とうそぶいていたわけではないでしょう。
そういうネオリベ右翼では全然なかったはずです。
むしろ、彼女が右翼に入ったきっかけは、
http://www.magazine9.jp/interv/karin/index.html
>それと、「こんな何もない世の中、戦争くらい起こってくれないともう生きていられない」みたいな思いがすごくあって。戦争じゃなくてもいいんだけど、とにかく何か大きいことが起こってめちゃくちゃになってほしいと。
>そんなときに、知り合いに右翼団体の集会に連れて行かれたんですよ。そこで「こんな物質主義と拝金主義の社会は間違っている、こんな社会で生きていきやすいほうが狂っている」みたいなことを言われて、ガツンと衝撃を受けた。それで入会を決めたんです。その意味ではオウムでも右翼でも、どっちでもよかったのかもしれません。
ということのようですから、まことにソーシャルな志向ではあったようで、その意味では全然転向はしていないんですね。
昭和初期についてこのブログで何回も書いてきたように、リベラルな左翼が役に立たなければ、労働者はソーシャルな右翼に頼るしかないのは自然なことであって。
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