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2007年12月25日 (火)

規制改革会議第2次答申

さて、本日規制改革会議が第2次答申を出しました。今度は、ちゃんと「労働分野」も入っています。

http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/publication/2007/1225/item071225_02.pdf

今度は、労働分野は「機会均等の実現」という大項目の中に並んでいます。冒頭部分は、いかにこの「機会の均等」が大事であるかを縷々述べています。

>では、格差社会の論点は何か。「格差」は、「公正」や「正義」など価値判断や主観に依存する概念と密接な関係があるため、格差の是正には、さまざまな対策がありうる。法的な意味での格差は、憲法十四条の「法の下の平等」や二五条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」としての「生存権」に関係する。「平等」には、「機会の平等」と「結果の平等」の二つの概念が含まれる。前者はすべての国民に平等なチャンスが与えられることであり、後者は国民の能力や成果にこだわらず同じ結果が与えられることであるが、これには注意が必要である。「結果の平等」を重視しすぎると、懸命に働いても働かなくても、また成果の大小にかかわらず同水準の生活が保障されるため、勤労インセンティブの低下、自己研鑽投資の減少、技術やアイディアにおける創造性を発揮しようする意欲の減退といった副作用をもたらす。むしろ、「機会の平等」のもと、がんばっている人が報われる社会になっていなければ、個々人の能力は十分発揮されなくなり、社会全体が豊かになるチャンスは失われる。無論、機会の平等だけを貫くことは一部の階層にとっては、耐え難い「格差」を放置することになり、社会の安定が損なわれ、場合により犯罪などの社会コストを増大させることから政府が一定のセーフティネットを社会に備えておくことは必要である。

最後のところでバランスをとっているのですが、その「一定のセーフティネット」が生活保護のようにただお金を配るというものではかえって社会にモラルハザードをもたらすというパラドックス、そこまでいかずに労働の世界にいるものにこそある程度の結果の平等(というかそれより下には落ちないという最低水準)を保障することで社会全体の健全さが維持されうるというパラドックスにあと一歩のところで気がついていただきたかったという感があります。

「暴走」として批判を浴びた例の一節も、基本的にはそのまま残っています。

>一部に残存する神話のように、労働者の権利を強めるほど、労働者の保護が図られるという安易な考え方は正しくない。場合によっては、既に権利を持っている人は幸せになるが、今後そのような権利が与えられにくくなるため、これまでよりも不幸になる人が出てくることにも注意が必要である。無配慮に最低賃金を引き上げることは、その賃金に見合う生産性を発揮できない労働者の失業をもたらし、同時に中小企業経営を破綻に追い込み、結果として雇用機会を喪失することになる。過度に女性労働者の権利を強化すると、かえって最初から雇用を手控える結果になるなどの副作用を生じる可能性もある。正規社員の解雇を厳しく規制することは、労働者の使用者に対する「発言」の担保になるどころか、非正規雇用へのシフトを企業に誘発し、労働者の地位を全体としてより脆弱なものとする結果を導く。一定期間派遣労働を継続したら雇用の申し込みを使用者に義務付けることは、正規雇用を増やすどころか、派遣労働者の期限前の派遣取り止めを誘発し、派遣労働者の地位を危うくする。

ただ、さすがに批判を受けて表現を少し付け足したところもあります。

>長時間労働に問題があるからといって、画一的に労働時間の上限を規制することは、自由な意思で適正で十分な対価給付を得て働く労働者の利益と、そのような労働によって生産効率を高めることができる使用者の利益の双方を増進する機会を無理やりに放棄させる。長時間労働による疾病等を防ぐための労働基準法上の労働時間規制は当然必要だが、これをいわゆるワークライフバランスの観点から設定される労働時間規制とは区別して議論する必要がある。

どこにどういう問題があるか、そしてその問題に対しては規制緩和ではなく規制強化こそが必要であるという点についてはある程度ご理解が進んだようです。

また、

>また、解雇規制の緩和をめぐって、外部労働市場を十分に整備することで「退出」さえ確保されれば良いとの考えは誤りとする声もあるが、転職が容易となることで労働条件が改善され、結果として転職する必要がなくなる側面があることを見落としてはならない。

もちろん、その点、つまりハーシュマンが『方法としての自己破壊』の中で東ドイツを例に挙げて述べた、「退出」の確保が「発言」を可能にする、という面を見落としてはなりません。私もその点は繰り返し述べております。しかし、その両者は「声もあるが」という逆接の接続助詞でつながなければならないものではないのではないでしょうか。「退出」は自由にできるが「発言」はできないような組織は、やはり不健全だと思いますよ。そして、「発言」を保障するための一定限度の身分保障というのは、いかなる組織においてもやはり必要となるのです。それが過度の既得権に転化しているかどうかが問題なのではないでしょうか。

このあとのところで、法と経済学の有用性を力説しています。

>労働政策を議論する上で、留意しなければならないのが「法と経済学」の視点である。「法と経済学」とは、法や判例が社会経済的に及ぼす影響を客観的に分析する学問分野であるが、これにより、法解釈に対しても立法論に対しても、新たな知見を付与することができる。

私もまったくその通りだと思います。ただ、「法と経済学」にもいろいろと流派があるようで、福井秀夫先生の法と経済学が唯一絶対というわけではないでしょう。この辺は、来年2/3月号に経掲載予定の日本労働研究雑誌の学界展望で喋ったことですが、もっと様々な法と経済学のアプローチが妍を競うようになることが望ましいと思います。

各論として、解雇権濫用法理の見直し、労働者派遣法の見直し、労働政策の立案について、の3つが挙げられています。私も見直しが必要だと思う点では人後に落ちないつもりですが、具体的な記述はいささか全て緩和せよという方向に偏り、こういう方向に新たな規制を強化すべきではないかというご提案が乏しいのが難点のように思われます。

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コメント

[労働の世界にいるものにこそある程度の結果の平等(というかそれより下には落ちないという最低水準)を保障することで社会全体の健全さが維持されうるというパラドックスにあと一歩のところで気がついていただきたかったという感があります]
バカの一つ覚えのように「機会均等」を唱えている某氏こそ思考停止でしょう。景気は必ず循環するもので、その時代のうねりの中で、不利益を被る世代が必ずいるのです。私は氷河期世代どまんなかですが、私と同じように大学の受験機会があり、同じように就職活動の機会があった知り合いがいまだにフリーターをして、這い上がれないでいます。「機会均等」の思想を徹底させるならば、彼は永遠にフリーターでいいはずです。
「失敗しても何度でもやり直せる社会を」という考えかたは、一見機会均等の思想にみえますが、実は「誰もが家庭をもち、子育てができるあたりまえの生活水準を保てたらいいね。」という結果の平等の思想です。
全ての労働者をフリーターにしよう。と言うのであれば、そこに至るための具体的道筋を示してほしい。全ての労働者が、完全な、完璧な、純粋な機会均等が保障されるユートピアへの道筋をちゃんと示して。

濱口先生のご意見を見ていると、スティグリッツ氏の見解と非常に似ているという印象を受けます。濱口先生ご自身もスティグリッツ氏の見解はご存知だと思うのですが、議論の共通性に関してはいかが思われますでしょうか。

傍目から見ておりますと、労働実務家の方々とスティグリッツ氏は十分に折り合っていける、つまり法学と経済学の対立ということではないように思うのですが、いかがでしょうか。

スティグリッツ氏ももちろんそうなんでしょうが、むしろ多くの労働経済学者の方々と労働法学者や労働実務家は日常的に十分折り合っているのであって、労働問題を知らない一部の経済学者や経済学者もどきさんが、妙なことを騒いでいるだけというのが私の印象です。
池田氏に書いてもいないことを捏造された小野旭先生を始め、雇用政策研究会に名を連ねておられる樋口美雄先生や清家篤先生など、労働の現場にきちんと目配りしつつ経済理論を踏まえた政策提言をされる人格高潔な方々が多く、労働問題ほど学問のディシプリンを超えた共同が盛んな分野はあまりないのではないかとすら思っています。
年明けにも有斐閣からまともな法と経済学による労働分析の本が出る予定と聞いておりますので、そのあたりも参考になるかも知れません。

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