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2007年12月12日 (水)

労使コミュニケーションの新地平

連合総研の報告書『労使コミュニケーションの新地平-日本における労働者参加の現状と可能性』が出されました。

この報告書に、私は二つの論文を書いています。それぞれ、日本の労働法政策、EUの労働法政策というカテゴリーに属するものですが、とりあえずカテゴリーは日本の労働法政策としておきます。

まず、第1部第5章は、日本における労働者参加法制を考えた「労働者参加に向けた法政策の検討」です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/sankachap5.html

労働組合中心型の労働者参加法制を論理的に突きつめて考えるとこういうものになるのではないかという姿を、いささかショッキングな形で打ち出してみました。

これを材料にした座談会の議事録が報告書の最後に付いています。このやりとりのうち私の発言部分をこの下でいくつか引用しておきます。

もう一つは、第2部第6章でEU加盟諸国における労働者参加の制度と実態を解説したものです。フランスについては松村先生の、ドイツについては藤内先生のそれぞれ詳しい解説論文が載っていますが、私のはそれらも含め、全体を概観したものです。これは結構役に立つのではないかと思います。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/sankachap6.html

さて、巻末の座談会ですが、まず山岡委員、西村委員のコメントに応じる形で、

>濱口委員:山岡委員が言われたことについて言うと、本気で非正社員の利害を取り込む気がないのであれば、ある意味話は単純で、しようがないから、組合とは別に労使委員会をつくって、そっちでやりましょうとなる。組合があろうがなかろうが全部そちらでやりましょう、すなわち、日本でデュアル・チャンネルをやると、実はシングルになってしまうのです。組合費を払わずに全部やってくれるところが現にあるのだったら、それとは別に同じレベルで同じことをやるようなところにわざわざ組合費を払う必要はないということになります。外国でデュアルが成り立っているのはレベルが違うからです。同じレベルでデュアルといったら、より有利な方が生き残るに決まっている。どちらが有利かといえば、金を払わなくて会社から便宜供与を幾らでも受けられる組織に決まっているわけです。本当にそれでいいのかという話です。

 一昨年の労働契約法研究会報告がなぜ問題だったかというと、あれはまさにデュアルを提起したわけです。それはやっぱりまずいと。しかし、一体どうするのかということについてのきちんとした細かいところまで見据えた議論がいまだにないので、そこはきちんと議論しないといけません。

やや突き放した言い方をすると、組合にどういうメリットがあるのかといわれれば、死滅していいんだったら勝手に死滅したらいいんじゃないですかという話になるわけです。ただ、組合なき労働者代表一元論でいいかというと、それは武器を持たない代表なんですね。武器を持たない労働者代表だけで日本の労働者の利益代表システムが形成されてしまっていいのかといったら、これは結局戦前に逆戻りする話になるわけです。やはり公共政策としてそれではまずいと考えるのであれば、どんなに論理的には狭い崖っぷちを歩くような議論であってもやっぱりそこを考慮しないとまずいのではないかなと思うわけです。

 西村委員の指摘は実に正しくて、濱口の言っていることは、要は労働組合を強制設立するという話だろうと言われると、実はそうです。そこをそう言いたくないので、いろんなものをかましているだけで、本音をずばっと言うと実はそういうことです。ただ、考えてみると、今、日本にある労働組合のかなりの部分は終戦直後につくられている。これは自発的につくったかといえば、確かにミクロ現象的には自発的につくっていますが、そんなこといったって、戦争中の産業報国会がもともとあって、そこに占領軍・GHQがつくれと言ったから、みんな自発的にという形でつくったわけです。何もないところで、もっと言えば、ヨーロッパやアメリカあたりのように使用者が敵視している中で労働組合をつくったことはないんです。戦前そういう試みはありましたけれども、戦前の組合運動というのは失敗に次ぐ失敗の連続で、恐らく戦前の組合でまともな組合機能を果たしていたのは海員組合ぐらいのものだろうと思います。そういう歴史的なことも考えつつ、論理的につめて、ぎりぎりのところで何が考えられるかというのが、先ほど示したものです。お聞きになって分かるように、論理的に言うと、これ以上進めたら話がおしまいになるところで寸止めにしているようなところがいっぱいあります。しかし、やはりここまで議論をしないと、この話は永遠に前に進まないでしょう。

その後、研究会委員メンバー全員による討議のなかで、こんな発言をしています。

>濱口委員:修正シングル方式というのは、「組合のヒヨコ」をつくるという話です。組合のヒヨコに対して組合の機能をするなというのかという話ですね。ドイツは最も典型的なデュアル・システムなので割とそういう発想になりやすいと思いますが、シングルだとそこはなかなか切り分けられないだろうと思います。つまり未組織の企業で、組合ではない労働者代表組織に、ついでに給料を一緒に決めましょうということまで認めてしまったら、組合になるインセンティブがなくなり、永遠にヒヨコのままでいるという話になるのです。労働者代表組織で全部できるのであれば、わざわざ組合費払って組合員になるインセンティブはないわけです。しかし、やろうと思ったらやれるのに、そこだけやっちゃいけないというのは、ものすごく人工的な仕組みです。しかも、例えばリストラに係わる不利益変更には、労働条件、賃金をどうするかという問題が全部関係してくるわけで、実態としてそれらをどうやって切り分けられるのかという問題があります。これは、修正シングル方式を本気で考えていくと理論的にはあり得るかもしれないけれども、実際にそういう制度設計はできるのかどうかということです。しかし、おそらくそれはできないでしょう。両者を切り分けることは難しいんじゃないかというのが今の段階での率直な印象です。

>濱口委員:それは、今までの過半数代表制がどちらかというとやや周辺的な領域で使われていたからです。三六協定だっていい加減なんです。この三六協定は一体誰が結んだんだ、インチキじゃないか、これは無効であるという闘争を大々的にやれば、あっちでもこっちでも山のように問題が出てくるはずなんです。労働契約法研究会で提起されたような、よりクリティカルな領域にこれを導入するということは、それを使ってこの過半数代表はインチキであるという議論を提起する運動、あるいはそこに対して外から組合が手を突っ込んでいくきっかけになる可能性もあります。しかし下手すると、そっちがどんどん動いていって、組合死滅モデルの方に行く可能性もあるわけです。今あるものを使うといっても、今あるものはまだ弱い。もっと使えるようにそれを強くするというと、下手するとそれで話が終わってしまうという、実にこれはパラドックスなんです。そのパラドックスがあるがゆえに、連合も労使委員会制に対してはかなり強硬に反対せざるを得なかったということだと思います。

>濱口委員:形式論的にはできるかもしれません。しかし、選挙しました、その場で挙手しましたといっても、これが職制のにらんでいるところでやられることもあるわけです。三六協定は本当に重要なものだと私も思いますし、であればあるほど、それが職場の労働者の本当の意見を反映したものであるようなものにしていかなければならないのです。本当の意味での実効化は、多分組合でないとできないのではないか。あるいは組合が援助している代表組織でないとだめだろうと思います。ドイツのデュアルというのは、何だかんだ言いながら、組合ではなくてきれいに分かれていると言いながら、組合が支援をしている部分もあるのです。そうであることが最低限必要なのではと思います。今の過半数代表制のシステムの下での実効化ということは、一体どこまでを目指しているかにもよりますが、監督署の窓口でチェックするというような次元でできるものではないという感じがします。

>濱口委員:労働者代表委員会に対して援助連携を行う主体を、産業別組織やナショナルセンターとしたのは、「どんな組織でもいいんだよ」という案を出すと、とんでもないという話になるからです。そこで、理論的には一貫していないのかもしれませんが、実現性という意味から部分的にはいろいろと配慮して書いています。
 いずれにしても、とにかく重要なのは、実はドイツだって、最も典型的なデュアルだって、本質的に言えば、企業の金を使って組合がリードして物事をやっていくという仕組みなんですね。それは修正デュアル、デュアルとシングルが両方入ったとかいろんなところになればなるほどもっと露骨にそうなるのです。事実上、会社の金で組合が活動しているようなメカニズムが結構ヨーロッパには多いのです。私が1つ主張したいのは、日本の、特に1949年の労働組合法というのはアメリカ的な発想でつくっていて、組合が企業の金を使って活動することは全部駄目なんだという思想で半世紀来ているのですが、これをちょっと考え直したらいいのではないかと思います。終戦直後にできた末弘巌太郎がつくった労働組合法のときは、当時の労働組合は会社から金ふんだくって課長まで全部組合員にして好き放題なことをやっていた。それに戻ればいいわけではないのですが、それは全否定するべきものなのか、ということをちょっと考え直してもいいという気はします。

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