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2007年11月 1日 (木)

民主主義とは多数の専制である

赤木さんの本に関して当ブログにトラバいただいたきはむさんのブログのちょっと前のところに、興味深い記事が載っていました。

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20071018

>「民主主義=多数決」という考えを捨て去らねばならない。なぜなら、民主主義の本質とは「議論を尽くす」ことであるから。 …①

このネタでエントリ書くのもいい加減しつこいのだが、それでも民主主義理論は私のライフワークの一つだというアイデンティティがあるので一応書いておこう。

これまで私は、上記のような型にはまった主張を幾度となく目にしてきた。今改めて目にして型どおりのウンザリ感とともに抱かれる疑問は、彼らはなぜ「イコール」と「本質」という二つの言葉を使い分けるのだろうか、ということである。

ほとんどの「議論を尽くす」派は、多数決の必要性を否定するまでには至らない。「議論を尽くす」べきだと言いつつ、多数決無しで民主主義(民主政)が成り立つとも思っていない。彼らは、「民主主義=議論を尽くすこと」と言い切るまでの踏ん切りがつかないのだ。そう言ってしまえば、「それでは民主主義は何も決定できませんね」と言い返されるのが目に見えているからである。彼らが民主主義の「本質」云々といった、それだけでは若干意味不明の主張に落ち着くのはそのせいだろう(そこまで詰めて考えているとも思わないが)。

「民主主義=議論を尽くすこと+多数決」と主張されるなら、どれほど理解し易いだろう。けれども、このような明快な主張を採る者は少ないように思う。なぜか。私には理解しかねるが、「議論を尽くす」派にとって多数決というものは、とにかく民主主義にとってできるだけ遠ざけるべき「何か不純なもの」として捉えられており、たとえ限定的な形でも民主主義と等号で結ばれる位置に置かれることには抵抗感があるのかもしれない。

だが、過去に指摘したように、「ある価値理念にとって本質的なのは、それが必然的に否定するものと正当化するものが何であるのか、という一点である」*1。仮にある人物が自らの信じる正義に従って行動した場合に、ある局面において暴力行使が避け難いことを認め、暴力行使を「止むを得ない」ものとして容認するのであれば、それは自らの正義に基づいて暴力行使を正当化したことにほかならないだろう。この時に彼が自らの正義と暴力行使との必然的な結び付きを否定するとしたら、私はそれを欺瞞だと断ずることにいささかのためらいも覚えない*2

同様に、民主主義に従って政治的決定を行おうとした場合に、ある局面において多数決が避け難いことを認め、多数決を何にせよ「止むを得ない」ものとして容認するのであれば、それは民主主義の理念から多数決を正当化したことにほかならない以上、そこで民主主義と多数決との必然的な結び付きを否定するのは恥ずべき欺瞞である。

民主主義が最終的にせよ何にせよ多数決を「止むを得ない」ものとして正当化するのなら、それはそういう理念なのである。いかなる主張をするにせよ、まずはその点を認めてから出発して欲しい。

このへんにも、リベラルな民主主義観が影を落としている気がします。

社会民主主義というのは、もちろん物理的暴力ではなく議会制民主主義を通じてソーシャルな社会を実現していこうという思想ですが、その民主主義というのは、いうまでもなく俺たち多数を占める労働者の多数の専制でやつら少数派に過ぎない資本家を押さえつけて、「金をくれ!」「仕事をくれ!」を正々堂々と実現しようということなのですから、民主主義と多数決が必然的に結びつくのは当たり前。

もちろん、ここからはマイノリティでしかあり得ない人々の権利はこぼれ落ちてしまうわけで、だからこそ民主主義とは区別された意味でのリベラリズムには一定の意義が存するわけですが、しかしそこから何ごとも少数派の利益を優先するのが正しいことであるかのような過剰リベラルが瀰漫すると、話がおかしくなっていくのです。

「議論を尽くす」中で少数派の利益を一定程度配慮する、その上で多数決で決める、それが正当である、というところを譲ったら、もはやそれは民主主義ではないはず。

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コメント

多数決自体はいいんですが、参政権の問題とか国境の問題とかに任意性が現れますね。要するに【参政権を持った人達の中での多数】を意味する訳で

株式会社(=市場原理?)も原則的に株主による多数決です。多数決原理自体はどちらも踏襲している訳で

上の任意性に対する部分が異なっているということでしょうね

あと、数だけで言えば「従業員よりも株主の方が数が多い」ということもよくあると思いますが。従業員数より経営陣数の方が多い、ということはあまりないでしょうけど

赤木さんから見れば、ある種の従業員こそが選ばれた少数派である(≒ユニオンショップ的なるもの?)と見えるのはまあ当然だ、と思いますね。つまり、彼が殴りたいのは…

参政権は、まさにだから普通選挙制が労働運動の要求であったわけです。
坂野さんが紹介する昭和初期の政治の動きは、それが普通選挙制の下で無産政党が議会に進出し始めた時期であったということが最も重要なポイントでしょう。
国境と言うよりも国籍の問題は、現時点の国際社会を前提とするかぎり、そこに線を引いて差別的取扱いをすることが正当と見なされる領域です。ただ、日本の在日問題のように、歴史的に決着をつけるべくしてつけ切れていないことにより、これが疑問であるかの如く見なされる部分もありますが、原則は国民主権原則に基づく国民自決でしょう。
株式会社はまたまったく原理が違います。これはヒトの平等ではなく株式ひと株の平等という原理に立脚しているのですから、それを民主主義とのアナロジーで語ることは大変ミスリーディングです。たった一人の大株主の意見が群小の小株主どもを全部合わせたよりも優先するというのがその原理ですから。
そして、それゆえに、従業員の数と株主の数を比べることには何の意味もありません。
労働の民主主義は労働者の頭数を数えることに立脚しますが、資本の「民主主義」(?)は株主の頭数ではなく、株式の株数に立脚しているのですから。


最後に大事なことを。
「ある種の従業員」は、これまで圧倒的に多数派であったから(多数でなければそもそもユニオンショップもできない)、少数者を軽視することができたのです。ところがその少数者が増大して、「ある種の従業員」だけでは多数を維持できないかも知れない、という事態になってきたことが、その多数派の方向転換の元になっているのです。
もし、正社員がはじめから「選ばれた少数派」であったと理解しているのであれば、その認識は歴史的に全く間違っています。

>もし、正社員がはじめから「選ばれた少数派」であったと理解しているのであれば、その認識は歴史的に全く間違っています

いやいや。「会社の従業員の中での多数」を言っているのではなくて、そもそも「会社の中での従業員たることが選ばれてのことだ」ということです

「従業員として選ばれるという前提」のある物を民主主義だと言うならば、株式会社の多数決も民主主義になります

赤木さんが殴りたいと言ったのは、金持ちのボンボン(プチブル)ではないし、東大のポスドク(インテリ貧民)でもなく、東大の教授会構成員です

ソーシャルという労働運動から【全ての人を労働者として受け入れよ】という部分を除いてしまったなら、良い悪いは別として、もはやソーシャルとは言えない訳で

>ところがその少数者が増大して、「ある種の従業員」だけでは多数を維持できないかも知れない、という事態になってきたことが、その多数派の方向転換の元になっている

まさに、そこに任意性が現れている訳で、頭数として数えるのか、数えないのか。週8時間の年棒40万と週80年棒800の扱いをどうするか…

それなら、はじめから東大教授を殴りたいといえばいいわけで、東大教授を普通の組合員たち安定労働者層の代表というのはあまりにもかけ離れているでしょう。

大事なことは、90年代のデフレ不況の中で、遅ればせのネオリベ旋風が吹きまくり、そのあおりを食らって多くの若者が就職できないという事態になるまでは、

>そもそも「会社の中での従業員たることが選ばれてのことだ」

などという状況ではなかったということです。少なくとも1950年代以降はね。
別にエリートでも何でもないごく普通の若者たちがごく普通に正社員として就職していたのであってね。

そういう中を過ごしてきた中年の労働者たちが、自分の経験を元にものを考えるのは、知性を売り物にしている商売の人でないかぎり、やむを得ない面はあろうと思いますよ。
彼らにとっては、非正規とはおかあちゃんの片手間パートか学生の暇つぶしアルバイトだったんであってね。そこの認識のずれをきちんと摘示したのがJILPTの研究員たちであったわけで。

その意味で、まさに今転換しつつあるのが、

>【全ての人を労働者として受け入れよ】

というところなのです。

普通の安定労働者は、マスコミや論壇でお為ごかしたことを言ったりはしませんから。

>> そもそも「会社の中での従業員たることが選ばれてのことだ」

>などという状況ではなかった

それはいいのですが、それはむしろ特殊事情ではないか、と思うわけです。海外のことは分かりませんが、イタリアとかフランスではどうなのか…。

実際問題としては、任意性の話で、かねてより懸案の主婦(主夫)や学生のパートと若年フリーターをどう切り分けて後者のみを労働者とするか、という問題が出てきますね。勤労学生や複数の職場を持つフリーターもいますし。そういった中間的な人や複数的な人が出ないように、そういったあり方を不利にするような仕組を私はあまり政策的に支持しません。正社員からあぶれただけではなく、さらに正社員ではないために政策的にも冷遇されたと考えるのは当然と思います。

失業が問題になるということは、

「会社の中での従業員たることが選ばれてのことだ」

ということですから。当たり前ですけれども

高度成長期には日本もヨーロッパも同じです。
別れるのは、70年代の石油ショックのあと。
ここでヨーロッパは既に大量の若年失業者を出したのですが、日本は学卒一括採用制のお陰で、この問題が90年代初頭まで顕在化しなかった。
それを「特殊事情」といえば言えましょうが。
ただ、少なくとも「会社の中での従業員たることが選ばれてのことだ」というのが、日本であれヨーロッパであれ現実化したわけではないですね。
その表現は、社会のメンバーの大多数がそこから排除されていて、ごく一部だけがその特権を享受しているかのように聞こえます。
ある種のベーシック・インカム論者にはそういう発想があるのでしょうが、社会的に必要な雇用機会という観点から見れば、そんな莫迦なことはあり得ない。
問題は、これまではあまり問題にならなかった労働者間の生涯にわたる均衡をどう計るかということなので、それはそれとして対処すればいいことです。

>高度成長期には日本もヨーロッパも同じです

むしろ【高度成長期】の特殊性のように思うのです。

>社会のメンバーの大多数がそこから排除されていて、ごく一部だけがその特権を享受しているかのように聞こえます

それは資本についても同じでないでしょうか。資産が相対的に少ないのではなくて、「全くの無産」という家計は少ないでしょう

相対的に労働時間が短い人や待遇が悪い人はいても、全く労働できない人は少ないと言うならば、その通りです

>労働の民主主義は労働者の頭数を数えることに立脚しますが、資本の「民主主義」(?)は株主の頭数ではなく、株式の株数に立脚している

>まさに、そこに任意性が現れている訳で、頭数として数えるのか、数えないのか。週8時間の年棒40万と週80年棒800の扱いをどうするか…

>まさに、そこに任意性が現れている訳で、頭数として数えるのか、数えないのか。週8時間の年棒40万と週80年棒800の扱いをどうするか…

だから、

>労働の民主主義は労働者の頭数を数えることに立脚しますが、資本の「民主主義」(?)は株主の頭数ではなく、株式の株数に立脚しているのですから。

といってるでしょう。

どこの世界に、組合員の投票権を年俸額で決めてる組合がありますか。
組合員である限り、一票は一票。
働く権利を株として購入するなどという世界ではないのですから。

いや、組合自体は全く構わないんです。自発的結社の一形態ですから。そもそも組合の加入条件は様々ですので。最初から『誰でも平等に加入できるという話でない』です。まさに加入形態が様々であることを想定できてないことが池田氏への批判でもあった訳です。

しかし【過半数代表】云々という話と絡んでくると、任意性の問題が現れる訳で。

極端な2例を考えますけど:

正規の雇用者『のみ』、かつ、その『全員』からなる組合を過半数代表とするのか?

非正規雇用者『のみ』、しかしながら雇用者の半数を含む組合を過半数の代表とするのか?

前者なら正規の雇用者の意向が強く反映されることになるし、後者なら大して働いてない数だけは多い人の意向が反映されることになります。どちらとも、一長一短で一律にこのやり方(頭数の数え方)が良い、ということにならない。

一人が一票だというのは構わない訳ですが、そもそも【この人を一人として数えるのか?】というところに任意性があって、全員が平等なんてことはあり得ない訳です。参政権にしても年齢で区切っていますから、厳密には平等でないけれども、まあ、誰でも年は取りますから一応、平等と思えないこともないという話と思いますけど。

極端なことを言えば、「月に1時間でも働いていれば一人として数える」という話になれば経営者があえてそういう人を一時的に雇って就業規則を変更する、ということも考えられなくもない訳です。やはり、どこかで線を引かざるを得ないことになるかと思います。

>組合員である限り、一票は一票。
>働く権利を株として購入するなどという世界ではないのですから。

いや、

組合であること=従業員であること

ではないですし。そのことは良く分かっていらっしゃるでしょう。できるだけ「=」が良いのだという価値判断は結構ですが。

現実が価値判断と異なっているからこそ、いろいろと考えて提案しているのだと思うのですが。

従業員のうちで一定の組合費(?)を支払っている人だけを一人と数えるという方法もあるかもしれませんけど、その場合はまさに買うことになりますけれど。

いや、法律上の建前では、労働組合というのはまさに自発的結社であるから、そのメンバーシップをどこに線を引くかは任されているわけで、その意味ではギルド的組合も充分存在しうる。
ところが、公的な労働者代表制であればそれはできない。いわれるとおり、あまりに労働時間が短い場合はどこかで線引きするということはあり得るけれども。
問題は、日本の企業別組合というのは、ヨーロッパにおける労働者代表制の機能的等価物に限りなく近いという点です。ここを問題視して御用組合などと批判する人もいるけれども、労働者代表制が従業員の立場から企業の労務管理機能を補完するというのはむしろ当然の現象です。
このあたりについては、少し前のエントリーで紹介した連合総研から近々出る報告書の中でかなり詳しく論じているので、それを読んでいただきたいのですが、日本の労働現場の感覚を生かしながら状況の変化に対応していこうとするのであれば(私はそういう立場ですが、もちろん世の中には「現場の感覚を生かしながら」ということ自体に拒否反応を示す人もいるでしょうが)
従業員であること=組合員であること
という世界をできるだけ維持すべきだと思っています。

よく分かっているはずなのに、どうしてそういう言い方をするのかな…、という疑問でした。私の個人的なバイアスですが、ソーシャルな意図を持つ公的規制は結局のところは、

より大きな不平等を解消するために、別口で「小さな不平等」を必要悪として押し付ける。

ことになる訳ですが、それが「The 平等」みたいな感じになってくると非常に気になってしまうのです。そして「小さな不平等」であったものが、状況が変化すると「小さい」という前提が怪しくなることもあります。

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