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2007年11月10日 (土)

「外部の視点」と漸進改革

きはむさんのブログに、大変哲学的な考察ではありますが、ここでの議論にもつながるような話がありました。

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20071106

>外部の視点を導入することによって、自明のものとされている所与のシステムを対象化し、その特質を描き出すという作業は、それとして重要である。だが、外部の視点を導入しなければ批判なるものは為し得ないと考えるのは間違っている。

具体的に何のことかというと、

>非常に辛いが経済的安定が得られる可能性が高い選択肢Aと、比較的楽だが経済的不安定に陥る可能性が高い選択肢Bとを示し、「Aか、Bか」という二者択一を迫るシステムがあるとしよう。このシステムを批判するためには、わざわざ「二者択一を迫ることがないシステム」などを想定する必要は無い。例えば、「二者択一を迫るにしても、Bを選んだ人がひどい経済的苦境に陥ることがないように、何らかの対策を講じるべきだ」などと言うことができる。

いうまでもなく、長時間のハードな労働を強いられるが雇用は安定し賃金も高い正社員モデルと、労働負荷はそれほど高くないが雇用は不安定で賃金も低い非正社員モデルの「二者択一」が典型的な例です。

>現実を批判するためには「ここではないどこか」のような大げさな表現は不要であり、ただ所与の条件からして採り得る選択肢を並べてみた上で、それらを相対的な評価に付し、最も採るべき選択肢が現行の選択と異なることを示せばよい。実現不可能なことが分かっている何らかの「外部」を現実批判の準拠点に据えようとする態度がいかに問題含みのものであるかについては、「神と正義について」で検討した通りである。

労働問題における「ここではないどこか」や「外部」に当たる議論がどういうものかは、今までの議論の経緯をみればよくわかるところですが、まさにそういう「外部の視点」を安易に持ち出してこれでなければこれっぽっちも改革できないなどと喚くのではなく、「所与の条件からして取り得る選択肢」の中から「相対的な評価」によって「最も採るべき選択肢」を提示していくという、地道ではあるけれども重要な作業こそが、今最も求められていることなのだろうと思います。

私も微力ながら、そういう漸進改革の一翼を担っていきたいと念じています。

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コメント

「ここではないどこか」や「外部」に当たる議論が、必要だという話になっているような…
人生いろいろ、「外部の議論」もいろいろ、ということで、終了。

> 労働政策は今現在の現実と、これから見込まれる将来に向かって立案・実行されなければならないわけですが、それが年長者の経験的知識と食い違ったものとなるのは、むしろ当然のこと
> 政策決定にあたる人たちは、みずからの経験を離れて、現状を客観的に理解して政策の検討にあたる必要がある
> 政策対応がどのような結果をもたらすのかを推測するための材料-典型的には諸外国における先行事例-の正確な情報が提供される必要がある
> 政策決定に資する研究には高い中立性を有するものが必ず必要となる
http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20071109

労務屋さんがいっているのは、今現在自分の前にある目の前の現実だけが現実のすべてではないということであって、「実現不可能なことが分かっている何らかの「外部」を現実批判の準拠点に据えようとする態度」を称揚しているわけではありませんよ。
だからこそ、私も、今現在の自分の身の回りだけでものを考えるのではなく、歴史を知ることの重要性、比較研究の重要性を繰り返し語っているつもりですが。
時間軸、空間軸の中で、広い視野で現実をとらえようとすることと、ピンの先で天使がダンスを踊るような空理空論でもって現実の労働をぶった切ろうとすることとは、全く正反対のことというべきでしょう。

ちょっと、よく分からない。ほぼトートロジーですが

過去(歴史)と同じことが将来に起こることはあり得ないし、ここではないあそこと同じことがここで起こることもあり得ない。しかし、だからと言って、それらが参考にならないと言い切れるものではない。そういうことだと思います(同じではなくても、部分的に類似のことが起こる可能性はあるという意味も含む)

完全な実現化は不可能、部分的・近似的に可能という意味では大して変わらないかと…

いやそんな難しい話ではないのですよ。
時間や空間が違えども、「この世」の人間どもがやってる話を参照基準にするのか、「この世」の外の「外部」という頭の中だけでこしらえ上げた話なのか、というだけのことです。
そして、何よりその前に、現在の現実の姿を正しく的確に掴んでおく必要がある。そこがいい加減なまま、自分の勝手な脳内蜃気楼だけを根拠に勝手なことを吹きまくる手合いが多いだけに、これが一番大事なことで、JILPTの存在意義も、実のところはそこにあります。

きはむさんのとこを見ると、実現不可能なある理想を考えて、そこからの距離でもって、相対的是非を測る規範は不適当であるという話になっているようでしたので。「現実を理想からの距離で測る」という時点で理想は「近似的に実現されている」と考えている訳でしょう
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070123/p1

>現実の姿を正しく的確に掴んでおく必要がある
現実認識がむちゃくちゃで、その測定が著しくナンセンスになってますよ、という批判はありうるでしょうけれど、それは「外部の議論」云々とはあまり関係がないかと
ただ、「現実と言ってもいろいろある」ということが問題にはなりますよね。あの人の言っている現実は、私が問題にしている現実とはあんまり関係がない、ということはありそうですけど

だから、労働なら労働の世界のことをちゃんと理解した上で、理想と現実の距離を測るのならいいのです。というか、そういうときの「理想」というのは、この世の現実の延長線上のより良い理想なんですが。
対象分野のことを理解せずに、というか、理解することを拒否して、天から下る神の声に基づいて、その理想に基づいて地上の現実を裁断するようなのが悪い理想なんです。
私が「外部」という言葉で表現しようとしたのは、そういう趣旨でして、きはむさんのいいたかったこととはいささか違うかも知れませんが、このブログにおける主張としては一貫しているでしょう。

同じ言葉で表現されていても念頭に置いている対象が異なるということでないか。私の問題に彼らのお話はあまり関係がない。向こうは関係があると思っているらしいのが面倒だ、ということではないかと…。
それを外部と言えば外部でしょう。

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