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2007年11月

2007年11月30日 (金)

非常勤保育士雇止め事件判決摘要

昨日紹介した中野区の非常勤保育士雇止め事件判決ですが、JILPTのメールマガジンのお陰で、東京公務公共一般労組のHPに判決要旨が載っていることが判りました。これです。

http://www.yo.rim.or.jp/~kk-ippan/nakano/high%20court/decision_point.html

問題のところの記述は次の通りです。

>(1)私法上の雇用契約においては,期間の定めのある雇用契約が多数回にわたって反復更新された場合,あるいは,期間の定めのない契約と実質的に異ならない状態となった場合,雇用の継続が期待されかつその期待が合理的であると認められるときには,解雇権濫用の法理が類推適用される余地があると解されている(最高裁の東芝柳町工場事件判決及び日立メディコ事件判決)。

  確かに,本件においても,認定した事情を総合すると,一審原告らと一審被告との問の勤務関係においては,上記解雇権濫用法理を類推適用される実態と同様の状態が生じていたと認められ,一審原告らの職務の継続確保が考慮されてしかるべき事態であったとはいえる。

(2)私法上の期間雇用の場合に,期間終了とともに雇用契約が終了しているはずであるのに,判例が雇用の継続があったものと認めている根拠を検討する。最高裁判所は,上記東芝柳町工場事件判決においては,期間の定めの条項の存在にかかわらず,当事者の合理的な意思解釈としては実質的に期間の定めのない契約を締結していたと原審が認定したことを是認した上で,雇止めの意思表示は実質的に解雇の意思表示に当たるから解雇権濫用の法理の類推適用が可能であるとしており,雇用の継続の根拠を当事者双方の意思に求め,他方,日立メディコ事件判決では,従前の労働契約の更新に根拠を求めているものの,契約更新の理由について説明をしているわけではないが,この点は,雇用の更新推定に関する民法629条1項を根拠とするものと解されよう。

  そこで,地方公共団体における非常勤職員について見ると,まず,反復継続して任命されてきた非常勤職員の側では,期間の定めのない就労の意思があったとしても,任命する地方公共団体の側では,非常勤職員については条例による定数化がされないため(地方自治法172条3項),報酬等に関する予算措置もあって任期を1年と限っているのであるから,期間の定めのない任命の意思を考えることができない。また,任命行為は行政行為であって,当事者問の諾成契約のように契約当事者の明示又は黙示の意思表示の合致のみによっては任命の効力は生ぜず,任命権者による告知によって効力を生ずるものであるから,期間の定めのない任命行為を認定することも,当事者双方の意思を推定する規定である民法629条1項を類推適用することも困難であり,任期を1年として任命された地方公共団体における非常勤職員については,上記各判例の法理を適用することができないものといわざるを得ない。

(3)本件においては,一審原告らの主張するように私法上の雇用契約の場合と,公法上の任用関係である場合とで,その実質面で差異がないにもかかわらず,労働者の側にとってその法的な扱いについて差が生じ,公法上の任用関係である場合の労働者が私法上の雇用契約に比して不利となることは確かに不合理であるといえる。しかし,行政処分の画一性・形式性を定めた現在の関係法令を適用する限りは,当事者双方の合理的意思解釈によってその内容を定めることが許されない行政処分にこの考え方を当てはめるのは無理があると考えられ,現行法上は,解雇権濫用法理を類推して,再任用を擬制する余地はないというほかはない。また,一審原告ら非常勤保育土は当然に再任用されるとの結論が採られるとすると,任命権者の任用行為が存在しないにもかかわらず,実質的に任期の定めのない非常勤職員を生み出したり,従前と同一条件による任命がされたのと同様の法律関係を創り出す結果をもたらすこととなる。しかしながら,三権分立の建前から,裁判所は,行政庁に代わって行政行為をすることができず,義務付けの訴えにおいて,行政庁に対して,ある行政行為をなすべきことを命ずることができるにとどまる(行政事件訴訟法3条6項等)のであり,任命権者の任命行為がないにもかかわらず,裁判所の判決により実質的に任命がされたのと同様の法律関係を創り出すことは,法解釈の限界を超えるものというほかない。反復継続して任命されてきた非常勤職員に関する公法上の任用関係においても,実質面に即応した法の整備が必要とされるところである。

「実質面に即応した方の整備が必要とされるところ」と、三権分立のぎりぎりのメッセージと云うところでしょうか。

人工授精中の女性は妊婦か?

欧州司法裁判所から面白いテーマで法務官意見が出ています。

http://curia.europa.eu/jurisp/cgi-bin/form.pl?lang=en&newform=newform&Submit=Submit&alljur=alljur&jurcdj=jurcdj&jurtpi=jurtpi&jurtfp=jurtfp&alldocrec=alldocrec&docj=docj&docor=docor&docop=docop&docav=docav&docsom=docsom&docinf=docinf&alldocnorec=alldocnorec&docnoj=docnoj&docnoor=docnoor&typeord=ALLTYP&allcommjo=allcommjo&affint=affint&affclose=affclose&numaff=&ddatefs=&mdatefs=&ydatefs=&ddatefe=&mdatefe=&ydatefe=&nomusuel=&domaine=PSOC&mots=&resmax=100

これは、人工授精中の女性を解雇したことが男女均等指令における妊婦に対する差別になるかという問題です。

本件では、解雇通告をした段階では、マイールさんの卵細胞は試験管の中にあって、ただいま人工授精中という状態であったようです。まだ受精卵が体内に戻されていない段階では、彼女は妊婦とは言えませんねという結論なんですが、ただこれが将来の妊娠状態を動機とするものであれば、差別になるとしています。

何にせよ、こういう事案も出てくるんですね。

生活保護水準引き下げ

まだ厚労省のHPにはアップされていませんが、生活扶助基準に関する検討会が本日、生活保護の水準の見直しを求める最終報告書をまとめたそうです。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20071130i207.htm?from=main2

>報告書は、生活保護のうち生活費にあたる「生活扶助」の水準が、低所得世帯の一般的な生活費よりも「高め」だと指摘しており、同省は報告書を受け、水準の引き下げ幅などについて検討を開始する。

 報告書では、生活扶助の水準を5年に1度の全国消費実態調査と比較した。その結果、「60歳以上の単身世帯」の場合は生活扶助世帯が月7万1209円であるのに対し、低所得世帯が6万2831円と8000円を超える差があった。また、「夫婦・子一人世帯」でも、生活扶助が月15万408円、低所得世帯が14万8781円と約2000円高かった。

 報告書に関連して、舛添厚生労働相は30日午前の閣議後の記者会見で、「(生活扶助の水準は)若干、引き下げる方向の数字が出ると思う」と述べ、来年度からの引き下げを明言した。

 ただ、具体的な引き下げ幅などは「国民的議論が必要だ。首相も含めて政府と与党などで幅広く議論し、来年度予算編成過程の中で決める」と述べるにとどめた。

 厚労省は今年度予算から、生活保護の一つで、15歳以下の子どもを育てる一人親世帯への「母子加算」の段階的な廃止に着手している。生活扶助基準の見直しが実現すれば、2年連続の制度の見直しとなる。

こういうニュースに対してはすぐに、可哀想な生活保護受給者から給付を削り取るとはなんて無慈悲なんだ、というような脊髄反射的な反応が出てくるわけですが、日本の生活保護の二番目の特色が、その給付水準が相対的に高いことにあることは、社会保障に通じている人々にとっては常識なんですけどね。

問題はそれよりも日本の生活保護の一番目の特色である、受けられるはずの人々の大部分が受けられていないという点にこそあるわけで、法律上の根拠は何もないのに、就労可能年齢層の男性が福祉事務所に行っても、あんた働けるでしょう、で追い返されてしまうことがままあるわけです。その挙げ句飢え死にしたりする人まで出ていたのでは、何のための生活保護制度かということになるわけで、可哀想なのはこっちの方であるわけです。

よほどのことがないと制度が受けられないようにしておいて、一旦受給し始めると未来永劫なまじ働くよりもはるかに高い給付が得られるという事態こそが、ある意味で究極のモラルハザードを作っているわけですから、「入りやすくする」、「出やすくする」といった改革と並んで、過度に高い給付を適正化することもやはり重要な改革であることは間違いありません。

問題は、「入りやすく」「出やすく」の改革の方がどの程度進んでいっているのかなんですけれどもね。このあたりが、先日の連合総研シンポジウムでちょいと喋ったテーマにつながってきます。

派遣料金公開案の源泉

このブログに対するはてぶは、大変参考になるコメントが多く、いつも感服しておりますが、昨日の朝日記事に関するエントリーに対するはてぶコメントで、sarutoruさんが、

>自分の知る限り山崎元氏のJMMへの寄稿が発端ではないか、http://d.hatena.ne.jp/sarutoru/20070906#p1 で書いた「賃金周りに関する情報公開の促進」が実現される方向

と書かれています。

リンク先を見ると、

>山崎氏は、賃金情報公開の一例として、派遣労働者の場合、最終的な雇い主(派遣先)の企業が払う時給と、派遣元の企業が払う時給の公開を義務づけ、派遣労働の当事者が自己の労働の価値を判断できるようにすることを提唱している。これが実現すれば当事者は、派遣先・派遣元のピンハネ度を比較できるし、職務給的な発想で自分の仕事の価値を見つめなおすこともできる。派遣労働者は、格差社会論ではしばしば話題になるものの、非正規雇用者総数からすれば実際は数も少なく、処遇においても相対的に恵まれた層のはずだが、ここを突破口にして賃金の情報公開を進めることができればとても面白い。職務給的発想が広がり、労働移動可能な労働市場が醸成されるきっかけになる。

賃金情報はできるだけ広範囲に公開されるのが望ましいと思うが、かけ声だけではなにも進まないので、派遣業種から手をつけていくのに賛成だ。日本では派遣社員は法定年度での雇い止めを繰り返され、その身分に固定化される傾向があって、世間的には虐げられらた業種の典型のように思われている。最近GIGAZINEが派遣会社叩きのエントリーをアップしていて、まるでお門違いな認識を示していたが、言うまでもなく派遣会社を使う元請け会社こそが処遇格差を伝播させている元凶だ。派遣という雇用形態は、他の諸国では、正規雇用への転換を控えた一時的な雇用形態だとみなされている。正規・非正規間の障壁が低い労働市場では、派遣社員が日本のようにその形態に滞留し、不況期を超えても一方的に増加することはない。山崎氏の提案、「派遣労働者に対して、受入元から幾らの賃金が払われているのかに関しては、直ぐにでも情報公開を義務付けるべきではないでしょうか。」が、労組関係者らも含めて広く知られることを望みたい。

と、いう記述があり、その山崎さんの文章も引用されています。

>もう一つの方法は、間接的に、労働者の賃金に好影響を与えようとする方法です。それは、賃金周りに関する情報公開の促進です。たとえば、業者に派遣される労働者の場合、最終的な雇い主が払う時給と、派遣元の会社が支払う時給との間に、大きな乖離が存在する場合が多く、この情報を全ての当事者に判断材料として公開するように義務付けると、労働者は自分の労働の真の価値に近い数字を知ることが出来、条件の改善要求に対して自信を持つことが出来ますし、雇い主側も労働の真の価格に近い価格を知るので、現在大きく乖離している価格が上下から差を縮める効果が期待できます。

 労働者を集めて派遣するビジネスの主な付加価値は、主として最初の紹介の場面にあるでしょう。派遣会社が、それを果たした後も、「中抜き」による大きな利潤を得続けることが出来ることの理由の一部は、労働需給の当事者同士の情報不足にあるでしょう。情報を公開した上で、それでも当事者達にとって正当だと認識された上で、堂々と「中抜き」を続けるなら、何も問題はありません。公的な介入によって自由な取引を直接制限するのではなく、ただ、判断のための情報を増やすだけです。

 また、正社員の待遇と、非正規雇用の待遇についても、情報公開が進むことが望ましいでしょう。ある意味では、正社員がこれまでの好待遇を既得権的に確保し続けていることが、非正規雇用者の条件の悪化、ひいては正社員への転換を阻害してきました。同じ職場で働く両者が、正しい情報をお互いに知った上で、適正と思う賃金を交渉するようになれば、時間は掛かるかも知れませんが、両者の条件差は縮小に向かうのではないでしょうか。

 賃金情報の公開をどの程度まで行うのが現実的かは判断の難しいところではありますが(会社によっては、直ぐにでもやればいい)、派遣労働者に対して、受入元から幾らの賃金が払われているのかに関しては、直ぐにでも情報公開を義務付けるべきではないでしょうか。

なるほど、確かにここからインスピレーションを得た可能性はありますね。

派遣法改正見送りへ 

昨日に引き続き、朝日が派遣労働で記事を書いています。

http://www.asahi.com/politics/update/1129/TKY200711290365.html

>労働者保護のあり方などをめぐり検討されていた労働者派遣法の改正案について、厚生労働省は29日、来年の通常国会への提出を見送る方向で調整に入った。改正内容を巡って労使の対立が激しいうえ、参院で野党が優位を占める「ねじれ国会」では、与野党対立が必至の改正案を通すのは難しいと判断した。ただ、違法な賃金の天引きなどが横行している日雇い派遣については、指針の改正などで規制を強化する方針だ。

 厚労省は今年9月、労使代表らでつくる労働政策審議会の部会で改正論議を本格化。日雇い派遣を巡っては国会でも規制強化を求める意見が相次ぎ、厚労省は年内に改正案の概要を固め、来年の通常国会への提出を目指していた。

 だが労政審では、「登録型派遣」について労働側が原則禁止を求め、経営側は現状維持を主張。最長3年の派遣期間制限についても、経営側は撤廃や延長を求めるが労働側は反対で、歩み寄りがみられない。

 一方、民主党は大幅な規制強化を盛り込んだ独自の改正案の作成作業を開始。労使の主張を折衷した政府の改正案が野党の厳しい追及にあうのは確実で、「野党と折り合う見込みがない法案は出しにくい」(厚労省幹部)と判断した。

 ただ、日雇い派遣は極端に不安定な働き方で、賃金の違法な天引きや二重派遣など不法行為が相次ぐことから、労使とも規制強化が必要との認識で一致。行政指導の対象となる行為を指針で明文化することなどで、実質的に規制を強化したい考えだ。

 また、派遣会社が派遣先から受け取る派遣料金の情報公開を求める規定も、法改正ではなく指針に盛り込むことを検討。派遣料金を公開して労働者に派遣手数料(マージン)がわかれば、マージンを高くとる会社が選別され、賃金向上につながる効果が期待できる。

 厚労省の調査(05年度)では、派遣料金は労働者1人につき1日(8時間)平均1万5257円。これに対し、派遣労働者の賃金は平均1万518円で、マージン率は31%。

 法改正については、より抜本的な規制強化を実現したい労働側から、強く求める声が高まるのは確実。与党内にも法改正が必要との意見もあり、曲折も予想される。

おやおや、法改正しないようですね。

まあ、規制改革会議が要求しているような規制緩和を主とする改正案であれば、参議院を通る見込みがないのは確かでしょう。

とはいえ、登録型派遣を「禁止」するなんてことが今さらできようはずもないわけで。

そうであれば、派遣法の基本構造自体を、22年前に遡って抜本的に見直すという作業がどうしても必要になるはずですが、これから時期通常国会に提出するという時間的枠組みの中ではとてもそんなことをやっているいとまはないですからね。

2007年11月29日 (木)

派遣料金の公開を要請へ マージン明らかに

朝日の記事です。

http://www.asahi.com/life/update/1129/TKY200711290236.html

>労働者派遣法の見直しを検討している厚生労働省の労働政策審議会(厚労相の諮問機関)の部会は29日、労働者を派遣した際に派遣元が派遣先から受け取っている派遣料金の情報公開を進めることで一致した。厚労省は今後、派遣法に基づく指針を改正し、派遣会社に対して公開を要請する規定を盛り込む方向で検討する。労働者側にとってマージン(派遣手数料)がわかる意義がある。

 労働者派遣をめぐっては、派遣会社が受け取る派遣料金に比べ、労働者の賃金が低すぎるとの批判があり、労働者側はマージン率に上限を設けるなどの規制強化を求めていた。

 審議会は、経営側の抵抗が強いため上限を定めて規制するのは難しいと判断。ただ、派遣料金の公開で労働者側にマージンが分かるようにすることは必要、とする見解で一致した。

 また、この日の審議会では、違法行為が横行している日雇い派遣については、何らかの規制強化が必要との意見でも一致し、厚労省は今後、具体的な規制内容を検討していく方針。

これは面白い方法です。以前から、派遣業者の中間搾取を明らかにしろという声はあって、いや派遣業者は自分で雇っているんだから「中間搾取」というのは概念的にあり得ない、あるのは「中間」じゃない「搾取」だけだ、それは派遣じゃないほかの会社と同じなんだから、それだけ目の仇にするのはいかがなものか、なんて議論はあったわけですが、まあ、そうは言っても、労務の提供を受けているのは派遣先であって、派遣元は送り出しているだけなんですから、社会的実態は限りなく「搾取」ではなくって「中間搾取」に近かったわけで、一体俺一人送り込んで一ヶ月当たりどれだけ儲けているのかを判るようにするというのは、実質的合理性のあることには違いありません。

日雇い派遣については、何らかの規制強化が必要と云うことで一致しても、さてじゃあ何をするのかが難しいところです。私も難しいなあ、といってるだけで役に立たないんですけどね。

こういうのって、ヨーロッパではオンコール・ワークって云われているのに似ているので、そういう枠組みに載せられないかという気もするんですが、なかなか難しいところです。

2008年のEU労働政策

欧州委員会のサイトに、来年2008年の作業計画がアップされています。

http://ec.europa.eu/atwork/programmes/index_en.htm#forward

来年予定されている主な労働社会関係の政策を時期順に並べてみます。

2月 労働時間指令施行状況報告

2月 企業譲渡指令改正に関する労使への第2次協議

3月 テレワーク協約実施状況報告

3月 老人介護と老人虐待に関するCOM

第1四半期 建設現場安全衛生指令実施状況報告

6月 自営業男女均等指令の改正案提案

6月 2007年欧州平等年フォローアップ

第2四半期 海上労働に関する措置の提案

第2四半期 社会アジェンダの中期見直しCOM

第2四半期 海員を労働指令の対象に含める労使への第2次協議

7月 変化の予測と管理に関する労使への第2次協議

7月 労働市場の縁辺にいる人々の雇用に関するCOM

9月 注射針事故による感染に関して指令の改正案提案

9月 欧州における社会正義への新たなコミットメント(社会保護・社会統合OMC深化)COM

9月 労働法現代化グリーンペーパーフォローアップ

9月 父親出産休暇等の提案

第3四半期 ディーセントワークに関するフォローアップ

第3四半期 ILO条約の批准勧告

10月 アクティブ・インクルージョンに関する欧州委勧告

10月 人口高齢化のニーズに対応するCOM

11月 海員を労働指令の対象に含める指令改正

第4四半期 企業譲渡指令の改正案提案

第4四半期 労働関連筋骨格異常に関する労使協議のフォローアップ(既存指令の統合)

第4四半期 労働者への情報提供と協議を統合する立法案

非常勤保育士の雇止め事件

昨日、中野区の保育士の雇止め事件の高裁判決が出ました。

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20071129k0000m040084000c.html

>東京都中野区が区立保育園の非常勤保育士28人全員を一方的に解雇したのは違法として、元非常勤保育士の女性4人が区に計1100万円の賠償などを求めた訴訟で、東京高裁は28日、1審・東京地裁判決(06年6月)を変更、賠償額を160万円から750万円に増額した。南敏文裁判長は判決で「区の対応は解雇権の乱用と言えるほど違法性が強く、勤務継続への期待権を侵害した」と述べた。

 同区は非常勤保育士について1年ごとに任命していたが、任期切れを理由に解雇した。これは地方自治法などに根拠があるため、高裁も1審に続き解雇は容認した。一方で南裁判長は「実質は変わらないのに(安易な解雇はできない)民間の雇用契約より非常勤公務員が不利になるのは不合理。実情に即した法整備が必要」と見直しを迫った。

 4人は1年ごとに更新を重ね12~9年間勤務。しかし区が03年度末で、財政危機などを理由に非常勤保育士を廃止したため全員解雇された。

 判決は▽解雇後に慢性的な人手不足となりパートを多数募集した▽財政危機の根拠は乏しく廃止の必要はなかった--と指摘。「当初は長期勤務を求めながら、解雇回避の努力を怠り『任期切れで縁が切れるから放置すればよい』との認識だったとさえ言える」と区の対応を厳しく批判、1年分の報酬に相当する賠償を命じた。【北村和巳】

 ▽田中大輔・中野区長の話 判決内容を十分検討し、対応を決めたい。

つうか、「解雇」じゃないんですけどね。いや、公務員だから「免職」じゃないっていうか。「免職」じゃないから、何にもしなくても(何にもしないから)自動的に切れちゃったから、こういう処理にならざるを得ないのであって。

民間の有期契約だったら、「解雇」じゃなくても、解雇権濫用法理の類推適用とかいうワザがあって、自動的に切れちゃったと云いながらいや切れてないという裏技があり得るんですが、なまじ公務員だからそうならないというところが制度の狭間というわけです。

現時点ではまだ高裁の判決文はアップされていませんが、もとの地裁判決はこれです。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20070518155039.pdf

この手の奴は、大体期待権の侵害による損害賠償と云うことで方向が出てきているように思われますが、やっぱり、高裁判決が云うように、正規職員だったら民間よりも公務員の方が安定しているのに、非正規になったら民間よりも公務員の方が不安定というのは、いかにも不合理ではあります。

ここをどう考えるかなんですが、私はやっぱり、公務員は一番上から一番下まで、みーーんなおんなじ公務員で変わりなし、という戦後アメリカから導入された仕組みを見直すしかないのではないかと考えています。

戦前の公務法制が、官吏の下の雇員、傭人は私法上の雇傭契約だったということは、このブログでも何回かお話ししてきましたが、それは逆に行きすぎた身分差別だと思いますが、末端のところまで一般職の公務員でござい、というのはいかにも現実と乖離していると思われます。

実は、かつて1955年に公務員制度調査会が提出した答申では、単純労務職員及び臨時職員は私法上の雇傭契約とし、公務員法を適用しないという考え方を示していました。これは田中二郎氏が中心になってまとめたものです。

この時の問題意識はもっぱら集団的労使関係の在り方だったのですが、現在の非常勤公務員の問題を解決するには、彼らを公務員法から外して、私法上の有期雇用契約にして、一般労働法制で対応するのが一番いいのではないかというのが、私の考えです。

2007年11月28日 (水)

労働契約法、改正最賃法成立

というわけで、守屋夫妻が逮捕された日に、ようやく標記法案が成立の運びになりました。

http://www.asahi.com/politics/update/1128/TKY200711280184.html

なったんですが、「改正最低賃金法が成立 ワーキングプア解消狙う」という見出しはいささか言い過ぎ。「労働者が健康で文化的な最低限度の生活を営むことができるよう、生活保護に係る施策との整合性に配慮する」といっても、生活保護の方は家族がたくさんいれば増えていくし、いろいろと付加的な扶助も付くわけで、そこは交換の正義と配分の正義という「二つの正義」のぶつかるところなわけで。

この点について、昨日の連合総研20周年記念シンポジウムでは、2ラウンド目の発言のところで喋りました。雇用保険制度と最低賃金制度から生活保護制度の在り方について見直し論を提起するとともに、日本の社会保障システムにおいて今まで欠落していた領域である社会政策としての教育政策や住宅政策に触れてみたのです。パネリストに主に生活保障について論じる人がいなくなってしまったこともあって、私が労働方面から越境攻撃して論じてみたのですが、さていかがなものだったのでしょうか。

労働契約法については、「会社やりたい放題法案」などといういささかデマゴギー的な風説を流布する向きもあったようですが、まあ、確かに、現在の判例法理がどうなっているかということを抜きにして、言葉の表面だけ捉えたような議論を展開するとそういう風になってしまうわけですが、逆に、まさに現行判例法理の枠内から一歩も出ないものになってしまったところに問題点があるわけであって、この就業規則法制を集団的労使関係法の考え方の上に再構築していく作業こそがこれから求められているわけなんですけれどもね。

村上正邦氏の社稷の哲学

41zjxmevkwl_ss400_ ちょっと前に出た本ですが、魚住昭さんが聞き書きでまとめた「証言村上正邦 我、国に裏切られようとも」(講談社)は、ウヨクとサヨク、ソーシャルとリベラルのこんがらがった関係を考える上でとてもいい本です。

昨年から今年にかけて『世界』に連載されたものですが、はじめにのところで、魚住さんが村上氏のインタビューをしようと考えたきっかけがこう述べられています。

>日本会議って何だろう。日本の右派勢力とは何だろう。そんな疑問に突き当たっていたとき、私は外務省の元主任分析官である佐藤優さんから興味深い話を聞いた。

 佐藤さんの話によると、村上正邦さんは九州の筑豊炭田で貧しい鉱夫の子として生まれ、青年時代には炭鉱で労働運動のリーダーをしていた。幼い頃は朝鮮半島から強制連行され、虐待されている人たちの姿も目撃し、心を痛めたことがあるという。

 私はこの話を聞いて、村上さんのインタビューを思い立った。左翼になってもおかしくない経歴を持つ村上さんが、なぜ右派の代表的政治家になったのか、その経緯をじっくり聞いてみたいと思ったのである。

村上氏は宮沢内閣で労働大臣を務めますが、その時、連合の山岸会長は、「こういう右翼的な大臣を任命する内閣とは話をしない」と云って懇談会を拒否したそうです。そこで、村上大臣は、

>お茶の水の連合本部へ乗り込んだんですよ。アポなしで。

「連合会長はいるか」

って言うと、連合の職員たちは慌てていたけど、結局「どうぞ、どうぞ」と会長室へ通された。山岸さんは私の顔を見るなり、

「いや、大臣。あなたから出向いてこられるとは思いもよりませんでした。大体、あなたは右翼だから」

って(笑い)。私はこう言ったんです。

「今の自民党の中で働く人の気持ちは私が一番知っている。あなたたちの話をよく聞きながら労働行政を進めていくから」

すると山岸さんは、

「俺が過去に気の合った労働大臣は藤尾正行だったけど、あれも右翼だった。俺は、先生とは気が合いそうだ」

この気の合いようの裏側にあるのは、

>でもね、今の自公連立政権、今の二世三世の議員たちのやることを見ていると、彼らの手で憲法改正なんかやって欲しくないですね。彼らは自民党の世襲制度の中から出てきた議員たちですから、一般庶民の生活も知らなければ苦労も判らない。彼らは親の財産をそのまま受け継いで努力も何もしない。彼らは政治を支配している限り、日本の国は堕落してしまう。

>政治家としての私自身の責任も感じながら言うのですが、今こそ庶民が立ち上がらなければならない。声を上げなければならない。

という認識でしょう。そして、その根底にある哲学は、

>私が求めてやまぬ真実の日本国とは、万邦無比の邦、これを社稷と言ってもいい。つまり日本古来の共同体なんです。

>相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきもののない、そのような邦を、この日本に実現するために、私は政治に命を懸けてきたんです。

というものであるわけです。

貧困をイデオロギー問題として捉えた日本の不幸

ダイヤモンド誌のコラムですが、実にいいことを云っているので、紹介します。筆者は辻広雅文氏。

http://diamond.jp/series/tsujihiro/10004/

>人には、見たくないものは見えない。見ようと努力しなければ、見えてこない。

 政府、というより私たち日本人全員が、戦後の困窮期を抜け、高度経済成長を経て、豊かな社会実現した自負からか、もはや貧困はないものとしたのである。

 もはや遠い日本の昔か、アジア、アフリカなどの遠い地域にしか存在しないのだと思い込んだのである。

 だが、それは見たくないものを見ないようにしただけのことだった。

>何より、共和党のブッシュ大統領であれ、労働党のブレア前首相であれ、先進諸国の指導者たちは、貧困は撲滅すべき対象だと明言する。

 貧困は右も左もイデオロギーを超えて解決すべき問題だという認識が、国際常識なのである。

 それが、日本にはない。近年の歴代首相が貧困撲滅を公式非公式の場で発言したなど、聞いたことがない。

 なぜだろう。おそらくは、日本において貧困問題が、イデオロギー問題として捉えられてきたからだ。共産党だけが指摘、救済を叫んできたために、左翼的言説を嫌う右派、中道派が避けてしまったのである。

これはある意味で正鵠を射ていると思われます。ただ、それでは左翼側はほかの何よりもまして貧困問題に熱心に取り組んできたのかというとそういうわけでもなかったようにも思われます。それよりも反戦平和とか人権侵害とかの方に熱中してきたのではないでしょうか。

一方で、左翼は嫌だなという側は、貧困問題なんか取り上げたら左翼と間違われるから、下手にそんなものには触りたくないと敬遠してきた。その結果、誰も彼らのことを真剣に考えなくなってしまった。そして、

>今年1月、「論座」(朝日新聞社)に「丸山真男をひっぱたきたい~希望は、戦争~」という31歳フリーターの投稿論文が載った。

 自分たちフリーターには守るべきものなどないもない。それなら、戦争を起こして守るべきものを持つ人々がそれらを失うことで平等になりたい、溜飲を下げたい、という内容だった。

 彼らをあってはならない状態に放置すれば、社会はいずれ分裂、不安定化する。多大な社会コストになって跳ね返ってくる。

最後の台詞がなかなかいいです。

>貧困層の再発見は、貧困層のためだけではない。

2007年11月27日 (火)

与野党「協調」法案、今週は成立ラッシュ

与野党「協調」法案・・・とまで云われると、野党としては忸怩たるものがあるかもしれませんが・・・

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20071126ia24.htm

>与野党の足並みがそろった法案は多くが週内に成立し、ねじれ国会初の「法案成立ラッシュ」となる見通しだ。

>特に弱者救済に重点を置く法案が多い厚生労働関係ではその傾向が強い。27日の参院厚生労働委員会では、衆院から送られた最低賃金法改正案など5法案が一挙に可決され、28日の参院本会議で成立する公算が大きい。

最賃法も契約法も、ようやく成立に漕ぎ着けて、まずは担当の皆様ご苦労様でした(おっと、まだ過去形で喋ってはいけませんでしたか)、というところですか。

今後は、衆議院で修正された「就業の実態に応じて、均衡を考慮しつつ」というのと、「仕事と生活の調和にも配慮しつつ」というのの中味をどう具体化していくかが、審議会における労使の焦点になっていくことになります。

話がねじれにねじれた労働時間法制の話は、選挙が済んで落ち着いてから、みんなの頭を切り換えて再出発でしょうか。

裸の女王様

って、変な想像してはいけませんよ。

産経新聞のコラムです。

【断 潮匡人】裸の女王様

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071125/acd0711250255001-n1.htm

>11月12日放送の「1000人に聞く ハケンの本音」は異色出色の「NHKスペシャル」だった。ただひとりの出演者を除いて…。

 そのひとりとは奥谷禮子社長。「労働者派遣法の緩和が格差を」生んだと主張する加藤紘一著『強いリベラル』が糾弾した派遣会社代表にして「2回結婚していますが、子供は好きじゃないから作らなかった」と放言する経済同友会幹事である(『正論』9月号拙稿)。

 結婚出産同様、職業でも「選択の自由」を追求する彼女は当夜も「自由にできる時間を作れるんですよ」等々、派遣の長所を強弁。ドラマ「ハケンの品格」の脚本家・中園ミホさんが「いま私、ここの間に深くて大きい川が流れているような気がしたんですけど」と異を唱え、司会の桂文珍師匠が苦笑する一幕も。

 だが、意に介さぬ奥谷社長は「サラリーマンになって、どっかの企業に入るというよりも、むしろこれから職人になっていくみたいな時代に入っていく」と持論を展開。再び中園さんが「みんな奥谷さんみたいにタフでパワフルだったらいいんですけどね、私もシナリオライターって派遣みたいなもんですけど」と。社会学者の橋爪大三郎教授も「派遣の人から見ると正社員があまりに恵まれている。これは不公平じゃないか」と「ハケンの本音」を代弁。

 脚本家同様、派遣社員同然の稼業の私も、強い違和感を覚えた。派遣する側と、される側の溝は深くて大きい。「ハケンの本音」も彼岸の財界人には届かないと見える。

 終始タフでパワフルな派遣の女王様を拝見し、アンデルセン童話「裸の王様」を思いだした。

いやあ、この番組は私も何か参考になるかと思ってみましたけれど・・・。コメントする気が起きなくて・・・。

実は最近、だいぶ前の「奥谷禮子氏の愉快な発言実録版」のアクセスがやたらに増えているんですね。

「裸の女王様」ってはやりそう。

2007年11月26日 (月)

マッチポンプ

お前が言うか、お前が・・・。

>取引先や社員重視……経産省が日本的経営を再評価へ

http://job.yomiuri.co.jp/news/jo_ne_07112207.cfm

>経済産業省は22日、日本経団連などと連携し、「日本的経営」の良さを見直すための研究を始めることを明らかにした。日本的経営は、長期的な視点に立ち、取引先や従業員などを株主以上に大切にすることなどが特徴とされる。

 省内に研究会を設けて来夏までに報告書をまとめ、M&A(企業の合併・買収)の増加や終身雇用の崩壊などで揺らいでいる日本企業の自信回復につなげる狙いだ。

 研究会は、国内外の著名企業に聞き取り調査を行う。手始めに今月末、トヨタ自動車、キヤノン、武田薬品工業などの経営幹部と一緒に訪米し、化学大手のデュポン、医薬・日用品大手のジョンソン・エンド・ジョンソンなど長い歴史を持つ米国企業の経営層と意見交換する。

 米国企業は、株主の利益を重視して短期的な利益を追求しているとみられている。研究会は、長い歴史を持つ企業は米国でも長期的な視点で経営していることを確認したい意向だ。

 日本的経営は経済成長の原動力になったとして、1980年代に国際的に高く評価された。しかし、90年代の不況でリストラを行う企業が増え、終身雇用などの日本的な雇用慣行が重視されなくなった。

「されなくなった」って、他人事みたいにいうなよな、って。

逆に、80年代みたいに、なんでもかんでも日本的経営が良かったなんて莫迦なことを言い出すんじゃないよ、って。

はっきり言って、経済産業省は自分らのよく判っていない分野に一知半解で首を突っ込みすぎるから、こういうその時の「空気」に流されただけの薄っぺらな議論をやらかす傾向がある。やってもいいけど、1年くらい徹底的に歴史的かつ国際的によおく勉強した上でやってもらいたい。ちょい秀才が一夜漬けででっちあげていいものではない。

まあ、ちょい凡才は、怖くて人様の土俵にうかつに手を出さないけれども。

平家さんとの派遣問答

休みの間に平家さんのエントリーがたくさん立てられました。

http://takamasa.at.webry.info/200711/article_13.html「派遣労働者、請負労働者の使用者」について

http://takamasa.at.webry.info/200711/article_14.html派遣労働者の職種

http://takamasa.at.webry.info/200711/article_15.html派遣労働者 男と女

ただ、後ろの方になると、ちょっと私の申し上げていた趣旨とずれてきているような。

私はあくまでも、常用型派遣と登録型派遣の違いという点に問題意識をおいて、それらの具体的なイメージとして「技術系に多い」とか「事務系に多い」と述べただけであって、別段、技術系だからどうこう、事務系だからどうこうと述べたわけではありません。

事務系でも、「その派遣会社の正社員であるわけですから、その会社の技術水準を信頼して派遣を受け入れているものと考えて、事前面接なしで」ということは十分あり得るわけです。それは、まさに常用型派遣なのです。

ましてや、男と女がどうこうというようなことはなんら考えていません。ですから、

>大きく分類すれば、技術系、生産、労務に多い男性の場合には、派遣先は個人にこだわらず、その派遣会社の選択眼、調達能力を信頼して派遣を受け入れているものと考て、事前面接なしで派遣先に使用者責任なしとし、事務系の多い女性の場合は、派遣の依頼をする際に、人柄とか(気配りのできる人がいい、明るい人がいい)、容姿(容姿ランクは、Aとか、スリーサイズとか)、独身かそうでないかとかの希望をそれとなく伝えて、それに合わせて派遣元が雇い入れるわけですから、その人に着目しているものと考えて、事前面接ありで派遣先にも使用者責任ありとするのが、すっきりする。

というふうに「デフォルメ」されると困ります。

問題は、登録型というのは注文を受けてからそれに応じて労働者を雇い入れるものであり、法的構成を抜きにして社会的実態をいえば職業紹介事業にほかならないという点にあるのです。

これに対して、常用型というのは、社会的実態をいえば、いってみれば営利出向事業とでもいうべきものでしょう。

そういう社会的実態の違いが、労働者派遣法という法的システムにおいてはきちんと反映されておらず、どちらかというと常用型であることを前提として作り上げられた様々な法的構成が、登録型にそのまま適用されてしまっているところに問題の根源があるのではないかと思っているわけです。

経緯的に言いますと、労働者派遣を認めるときの政策決定過程では、最初は常用型だけを認めて登録型は認めないという制度設計が打ち出されていたのですが、それでは現実の派遣事業が対象にならないじゃないかということで、やっぱり登録型も認めるという風に変わっていったという経緯があります。

現実に営業している登録型を禁止するなんてことができない以上、政治的にはやむを得ない経緯だったと思いますが、そのために、常用型とは異なる登録型固有の問題点があまりきちんと議論されることがなく、常用型を前提にした制度設計があまり修正されないまま、派遣元責任に偏った形で労働者派遣法が立法されてしまったという点に、この問題のボタンの掛け違いがあるという風に、現段階で私は考えています。

2007年11月24日 (土)

日雇い派遣の政治経済学

今月号の『電機連合NAVI』に、小林良暢さんが標記のような小論を寄せていて、なかなかぴりりと効いています。

>「日雇い派遣」について「罪悪論」が多く、「ワーキング・プアの元凶」の如くいわれているが、10万人から20万人といわれる「日雇い派遣」のすべてが社会的に問題視されている状況にあるわけではなかろう。

>日雇い派遣の仕事は、引っ越しと倉庫内での商品の仕分け・袋詰め・ラベル付けなどの軽作業がメインで、もともとは学生アルバイト、今はフリーターである。

>日雇い派遣大手のフルキャストが業務停止命令を受けたが、春の引っ越しシーズンでなかったからいいようなもので、日雇い派遣がなくなったら、日通や0123アート引越センターは引っ越し作業ができなくなる。

こういう視点も、もちろん必要なのです。

そこで、小林さんが主張するのは、何でも禁止せよというようなやり方ではなく、

>日雇い派遣で働く人にとって必要なことは、日雇いをなくすことではなくて、一に交通費支給、二に待機手当の支払い、そして時給アップ、雇用保険支給と健康保険の加入で、国会ではこれらをいかに拡充するかといった日雇い派遣のためになる論議をしてもらいたい。

雇用保険加入については、このブログでも何回か取り上げましたが、制度設計をきちんと考え直す必要があるのでしょうね。

2007年11月23日 (金)

市場万能社会を超えて―福祉ガバナンスの宣言

再度告知いたします。

来週火曜日、連合総研設立20周年記念シンポジウムのご案内です。

連合のシンクタンクとして設立された財団法人・連合総合生活開発研究所は、この12月1日に20周年を迎えます。これを記念して、“市場万能社会を超えて-福祉ガバナンスの宣言”をテーマにシンポジウムを開催いたします。

 連合総研は、2006年1月に「現代福祉国家への新しい道」研究委員会を立ち上げ、現代福祉国家再構築の視点から、市場万能社会を超える新しい理念・デザインについての研究を行い、このほど『福祉ガバナンス宣言~市場と国家を超えて~』(日本経済評論社・11月上旬発刊予定)をまとめました。このシンポジウムでは、パネルディスカッションや特別講演を通じて、市場主義や20世紀型福祉国家とも異なる新しい福祉ガバナンスのあり方について広く議論を深めていきたいと思います。ふるってご参加いただきますようお願い申し上げます。

  と き    2007年11月27日(火) 13:00~17:30
  
  ところ   東京・九段「ホテルグランドパレス」 2階・ダイアモンドルーム
          ※ 地下鉄『九段下駅』東西線 7番口 (富士見口) より徒歩1分、
            地下鉄『九段下駅』半蔵門線・都営新宿線 3a番口 より徒歩3分、
            JR・地下鉄『飯田橋駅』 より徒歩7分

  参加対象 連合・労働組合関係者、研究者・研究機関、政党・議会・マスコミ関係者、市民など

  参加費   無料
          ※ お申し込みは、「参加者登録用紙」(ここをクリック)を
            11月9日(金)までにFAXしてください。
  
   ・担当:連合総研 佐川、会田(TEL:03-5210-0851、FAX:03-5210-0852)


プログラム

  12:00~      受付

  13:00~13:05  主催者代表挨拶

  13:10~16:25  パネルディスカッション「福祉ガバナンスの宣言」
             コーディネーター/パネリスト
                  宮本太郎 北海道大学大学院教授
             パネリスト
                  高橋伸彰 立命館大学教授
                  濱口桂一郎 政策研究大学院大学教授
                  広井良典 千葉大学教授
                  マルガリータ・エステベス・アベ ハーバード大学准教授

            (16:25~16:40 休憩)
  16:40~17:30  特別講演 「市場万能社会を超えて」
                  神野 直彦 東京大学大学院教授

  
パネリストのプロフィール

宮本 太郎(みやもと・たろう)
北海道大学大学院法学研究科教授
連合総研「現代福祉国家への新しい道-日本における総合戦略」研究委員会委員
1988年中央大学大学院法学研究科博士課程修了後、立命館大学教授を経て2002年より現職。
[専門]比較政治、福祉政策論
[主な著書]『比較福祉政治』(編著、早稲田大学出版部、2006年)、『福祉国家という戦略』(法律文化社、1999年)など

高橋 伸彰(たかはし・のぶあき)
立命館大学国際関係学部長・国際関係研究科長
1976年早稲田大学政治経済学部卒業後、日本経済研究センター、通産省、米国ブルッキングス研究所等の研究員を経て、1999年より立命館大学国際関係学部教授、2007年より現職。
[専門]日本経済論、経済政策
[主な著書]『優しい経済学-ゼロ成長を豊かに生きる』(ちくま新書、2003年)、『グローバル化と日本の課題』(岩波書店、2005年)など

濱口 桂一郎(はまぐち・けいいちろう)
政策研究大学院大学教授
連合総研「現代福祉国家への新しい道-日本における総合戦略」研究委員会委員
1983年東京大学法学部卒業後、労働省勤務を経て、2005年より現職。
[専門]労働法政策
[主な著書]『労働法政策』(ミネルヴァ書房、2004年)、『EU労働法政策形成過程の分析』(1)・(2)(東京大学比較法政国際センター、2005年)など

広井 良典(ひろい・よしのり)
千葉大学法経学部教授
連合総研「現代福祉国家への新しい道-日本における総合戦略」研究委員会委員
1986年東京大学大学院修士課程修了後、厚生省勤務を経て、1996年より千葉大学助教授、2003年より現職。
[専門]社会保障、公共政策
[主な著書]『生命の政治学』(岩波書店、2003年)、『持続可能な福祉社会』(ちくま新書、2006年)など

Margarita Estevez-Abe マルガリータ・エステベス・アベ
ハーバード大学政治学部准教授
1999年ハーバード大学博士号取得、ミネソタ大学助教授を経て、2001年より現職。
[専門]日本の政治経済、比較政治経済。
[主な著書]『Negotiating Welfare Reforms:Actors and Institutions in Japan(福祉改革の政治過程)』in Steinmo and Rothstein編、Institutionalism and Welfare Reforms(Palgrave,2002)、『Welfare and Capitalism in Postwar Japan (戦後日本の福祉と資本主義)』 (Cambridge University Press, 近刊) など

神野 直彦(じんの・なおひこ)
東京大学大学院経済学研究科教授
連合総研「現代福祉国家への新しい道-日本における総合戦略」研究委員会委員
1981年東京大学大学院経済学研究科博士課程修了後、日産自動車(株)勤務を経て、1996年より現職。
[専門]財政学・地方財政
[主な著書]『システム改革の政治経済学』(岩波書店、1998年)、『地域再生の経済学』(中央公論社、2002年)など

2007年11月22日 (木)

地方分権を疑え

地方分権改革推進委員会が、11月1日に中間的とりまとめを発表しています。

http://www.cao.go.jp/bunken-kaikaku/iinkai/torimatome/071116torimatome1.pdf

その中で、無料職業紹介について、

>無料職業紹介事業については、ILO第88 号条約の当該条項を「職業安定組織は、国の機関の指揮監督の下にある職業安定機関の全国的体系で構成される」と訳していることを根拠に、同事業は国が行うべきものとの説明がなされている。しかしながら同条項の訳は、昭和23 年の同条約の採択時のものであり、こうした半世紀以上前の訳に依拠すべきではない。また、ハローワークについて市場化テストの実施が予定されているが、無料職業紹介事業を都道府県に移譲することについて、所管省は、国の機関の全国ネットワークにより全国斉一的に実施することが最も効率的としている。しかし、既に同事業を実施している都道府県は多いこともあり、ハローワークを移譲して国の一定の関与のもとに整備したネットワークにより、地方の雇用・労働情勢を熟知した都道府県が効率的に実施すべきである。

と述べています。

ある意味でもっともなところもあるのです。ここには書かれていませんが、雇用政策は地域の産業政策、福祉政策、教育政策と密接な関連があるものですから、それらを所管する地方自治体内部で取り扱った方が効率的な面があるのです。

一方で、雇用政策は全国的な広がりがありますし、なにより職業紹介は雇用保険の失業給付と裏腹の関係にあり、この両者を切り離すことはできません。雇用保険はナショナルレベルで運営すべきものですから、職業紹介を国から切り離すこともできません。

そういう条件の下で、国と地方自治体をそれなりにうまく組み合わせた仕組みが地方事務官制度であったと、私は思っているのですが、まさに地方分権の趣旨に反するということで廃止され、国と地方のどっちに行くべきかで議論した挙げ句、国に一元化されてしまったわけです。

それが最も適切な解決法であったとは私には思えません。地方事務官制度がいい仕組みであったかどうかは議論があるでしょう。もっと別の、国の費用負担と枠組み設定と、地方自治体の具体的な業務運営を組み合わせる仕組みがあれば、そうする道もあり得るでしょう。問題は、国と地方を切り離してしまうことが地方分権の趣旨であるという発想なのではないかと思うのです。

興味深いことに、同じ中間的とりまとめの生活保護のところでは、

>地域における保護の実情を踏まえ、被保護者のために何がよいのかという観点に立って、現行の給付内容を国が責任を持つべき部分と地方が責任を持つべき部分とに分けて考えるべきではないか。その際、例えば就労可能な者については、有期保護設定の考え方も取り入れるなど、自立・就労に向けて地方自治体が主体となった自立支援の取組みを推進すべきではないか。

と述べています。実は、私はこの考え方におおむね賛成なのですが、しかし、まさか、「国が責任を持つべき部分」と「地方が責任を持つべき部分」をきれいに分断して、組織から何からまったく没交渉にして、てんでんばらばらにやれなんてことを考えているのではないと思います。そうでしょ。

国が全国斉一的に基準を設定し、財政的に責任を持たなければならないところと、地方がそれぞれに取り組んでいくべきところが、有機的に結合するような仕組みが必要なはずです。

そういうのが地方分権の趣旨に反するというような固定的な発想ではなく、むしろ新たな地方分権の形だという方向に、頭の向きを変えていく必要があるのではないかと、私は感じています。

労働の擁護

一昨日のテーマに関連して、小泉義之さんが、「Critical Life (期限付き)」というブログで、「労働の擁護」というエントリーを書かれていることに気がつきました。

http://d.hatena.ne.jp/desdel/20071105

>いま労働を擁護することは難しい。立場を異にする人でさえ、労働をネガティヴに捉える労働観を共有しているからである。共に“労働は義務である、労働は退屈である、労働は疲労の源である、労働は不自由である”と考えた上で、一方は“にもかかわらず、為さねばならぬ”と語り、他方は“だからこそ、別の道を歩まねばならぬ”と語っている。共に、労働は生きる上での宿命的な労苦であるとするキリスト教的原罪観の一種を受け継いでいるのである。となると、取りうる道は二つしかない。労働に外在的な目的を設定して労働を手段として受け入れる道(国富のため、企業のため、効率的生産のため、家族のため、老後の備えのため、大人になるため、社会化するため、自立するため、等々)と、労働に代えて別のコンセプトを持ち出してそれが労働を呑み込んで僅少化すればいいだろうなと願望する道(自由時間、余暇、怠惰、プラクシス、活動、欲望、贈与、コミュニケーション、パフォーマンス、ギョーカイ、知識・文化・情報、精神労働、非物質的労働、等々)である。

 しかし、この構図はよくない。一つには、労働そのものと労働編成そのものを変えていく展望を直接的に切り開かないからである。特に後者の道は一見よさそうに見えるものの、現在の労苦に満ちた労働(編成)の只中に別のコンセプトを実現する潜在性を見出そうとしない点で、強く言えば、プチ特権階級的で反労働者的だからである。例えば、嫌がられる労働そのものに喜びが内在していることを見ずして、また、不公正な労働編成の只中に新編成の萌芽を見ずして、どうして展望が開かれるだろうか。後者の道は、労働概念を蒸発させようと目論んでいるのかもしれないが、それだけでは労働の現実を蒸発させることはできないのだから、詰まるところ、労働を労働そのものとして考えることを回避していることになる。それは、強く言えば、新知識階級・新プチブルのイデオロギーである。

私はそこまでは言いませんが、まあでもそういうことなんですよ。

>労働(者)の擁護が難しいのは承知している。誰だって旧来の労働観を信ずる気にはなれない(二回半捻った上で些かの苦渋をもって指摘せざるをえないが、『工場日記』はやはり戦時体制下での(悪しき意味での)奴隷道徳である)。世の中には、経済・経営・社会政策・社会福祉の辛気臭い論議だけが蔓延している。しかも、私の感触では、労働(運動)を考えるに際して、実践的障害だけでなく、実に多くの認識論的障害が存在している。思想的には、それらを一つ一つ解きほぐして乗り越えていく必要がある。迂遠な作業だ。だからこそ、労働(経済)問題を専門とする多くの方々に願いたい。各種の「原因」で倒産したり傾いたりする企業にしても、労働者の立場に立った別の再建計画を捻り出せるし捻り出すべきではないのか。マックの時給を数百円でも上げる方策を捻り出すべきではないのか。過労死の労災認定も結構だが、それ以前に企業の生産性向上と労働者の自由・余暇を両立させる新制度を命がけで考え出すべきではないのか。憂き世離れしたスコラ談義は得意なようだが、どうして(お望みなら、経営者側も政府も呑めるような)具体的な処方箋を一つも書けないのか。高々一つの企業について(お望みなら)経営者と労働者が一緒になって立て直すプランすらどうして書けないのか。他方、オルタの掛け声は聞き飽きた。セーフティネット概念をめぐる訓詁などどうでもよい。現状の労働政策(社会的包摂スローガンを含め)が19世紀のそれと大して変わりないことなど自明であって、そんなことを詮議してどうなるのか。あえて、こう言っておく。専門家は、周縁労働者や産業〈予備軍〉に同情を寄せて良心を示す暇があるなら、企業〈本丸〉と労働者〈本隊〉のためにこそ闘うべきである。諸君が赴くべきは、場末やストリートや第三世界ではなく、丸の内ビル街であり、郊外の運輸・流通・情報の拠点であり、海岸沿いの工場群であり、ゼネコンであり、官公庁である。

これを偽悪的発言と捉えてはならない。むしろまっとうすぎるくらいまっとうな考え方ではないか。

2007年11月21日 (水)

野村正實大著増刷

このブログで何回か取り上げた野村正實先生の大著『日本的雇用慣行』が、売れ行き好調で増刷されるそうです

http://www.econ.tohoku.ac.jp/~nomura/impression.htm#071120

>なお、雑文のついでに記しておくと、今年8月に刊行した『日本的雇用--全体像構築の試み--』(ミネルヴァ書房)は、売れ行きが好調なようで、2刷を印刷する準備に入った、との連絡を担当編集者から受けた。『週刊東洋経済』2007年9月29日号の「注目の1冊」コーナーで奥村宏氏が私の本を取り上げて下さったことが1つの理由であることは間違いない。しかし『週刊東洋経済』の主たる読者はサラリーマンであり、5,000円の専門書はサラリーマンが気楽に買って購読するようなものではないであろう。どのような人達が購入してくださっているのであろうか。
 本の「あとがき」に書いたように、草稿段階で兵藤さんからコメントをいただいた。私は、「いったい、この本はどのような読者層を念頭に置いて書かれているのか」と質問された。本は、一般読者にとっても(多分)面白いであろうような記述もあれば、狭い専門家のみの関心を引きそうな部分もある。それを気にかけての質問であった。私は正直に、特定の読者層を想定してはいません、と答えた。読者層を想定することなく、今の段階で私の言いたいことを書いておこう、というのが私の執筆姿勢であった。独り善がりな姿勢と批判されても、甘受しようと思っていた。それにもかかわらず、とりあえずは売れ行きが好調であるとのことなので、どのような読者層にアピールしたのか、私は知りたいと思っている。

「本ブログを読みに来られるような、問題意識のある方々ですよ!!(イナゴさんを除く)」

と言えたらいいな、と・・・。

まあ、それはともかく、これだけ雇用をめぐる状況が大きく動いていると、あれだけ分厚くても、ちゃんと読む人は読むんですね。とりあえず、増刷おめでとうございます。

ちなみに、本ブログでの記事は、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_54ee.html

なお、次回の更新時には、天野郁夫氏の『学歴主義の社会史』の書評が載るそうなので、期待して待っていましょう。

2007年11月20日 (火)

労働中心ではない連帯?

『生活経済政策』の11月号が、「今『連帯』とは」という小特集をやっていて、田村哲樹さんの「溶解する社会に、いかなる連帯か」と、田中拓道さんの「現代フランスにおける連帯の再生論」が載っています。

http://www.seikatsuken.or.jp/

そのうち、田村哲樹さんの論文の中に「労働中心でない連帯へ」という一節があって、労働中心の福祉社会とかいってる私としては気になります。

>今日の労働市場に見られるのは、一部の正規雇用と多数の非正規雇用とを組み合わせる雇用戦略、経済成長が)正規)雇用拡大をもたらすとは限らない状況、「ワーキングプア」層の出現、女性や外国人労働者の増加などである。

>このような状況で問われているのは、労働を中心とした連帯の可能性そのものである。果たして、今もなお労働が広範な人々の共通性の核心を構成すると言えるのだろうか。

>「労働」を連帯の旗印に掲げるのことは、むしろ、分断と排除をもたらしかねないのである。

私はここは断固として否定したい。フルタイム男性労働者をモデルとした連帯がもはや通用しがたいというのはその通りでしょう。しかし、様々な働き方の中に、働いて社会に参加しているという共通性を連帯の中核として確立することが不可能とは思えない。というか、それを捨ててはほかに連帯の核となるものはないと思います。田村さんはこういう。

>人々の共通性を、「(フルタイムで)労働すること」ではなく「市民であること」に求めることで、連帯の非人称の度合いは高まるであろう。

>但し、余暇を持つ市民であるためには、一定の生活保障も必要である。ここで、ベーシック・インカムを「市民としての連帯形成」のための制度として位置づけることが可能である。

「共に働いて社会に参加している(いた)(いくであろう)」という契機を失った「市民性」っていったい何なの?働いている側が、それを対等な市民として認める保証はどこにあるの?「俺たちに寄食するどうしようもない連中」との間に、どういう連帯感情があり得るのか。ハーバーマスの本の上ではなく、現実の社会の中で示して貰わなければ。

ネオリベ系のベーシック・インカム論はこの問題ははなから存在しません。どうせ働いて貰ったって生産性が低くて足手まといになるような連中は、何もわざわざ無理して働いて貰わなくたっていいんですよ。居たって邪魔なんだからさあ。捨て扶持やるからここにいないでくれるかな。あんたが飢え死にしないで居られるくらいのカネは(仕方がないから)やるからさあ。という、大変心のこもった暖かいセーフティネット論であるわけで。

だけど、田村さんのイメージの中にあるのは、そういう冷酷無情なミニマム連帯ではなく、労働を中心とするよりももっとつながりの深い連帯感覚のはずなんですね。

それが、労働ではなく余暇を中心とする形で可能であると、本当に言えるのでしょうか、というところが問題なわけです。

キャリアコンサルタントの技能検定

16日、「キャリア・コンサルタント制度のあり方に関する検討会」の報告書が発表されました。

http://www.mhlw.go.jp/houdou/2007/11/dl/h1116-2a.pdf

キャリアコンサルタントは、「平成14年から5年間で5万人を目標として各養成機関等で養成が進められ、平成18年度末の養成数は約4万3000人となり、数量的には所期の目標を概ね達成したところ」ですが、その実態は、

>① キャリア・コンサルタントの能力水準にバラツキが大きく、養成機関による養成を修了した者であっても、自ら「力量不足」を感じていたり、指導者やクライアントから、「説教調で意見を押しつけられる」、「クライアントやキャリア・コンサルティングに偏った固定観念を持っている」、「話を聞くだけに終始する」等の指摘がなされることも少なくない。

② 専門職としての使命感や倫理性を十分備えるに至っておらず、制度的にも、これを担保する仕組みが十分には整備されていない。

③ 専門性についてこれを自覚し、自ら研鑽し高めようとする意識が希薄な者も多く、また、これを高めるための指導を受ける機会や環境が十分には整えられていない。

と、「キャリア・コンサルタントの現状と専門職としてのあり方との間に、未だ大きな乖離がある」のが実情のようです。

そこで、

>キャリア・コンサルティングを社会的に機能させる方策として、一人前のキャリア・コンサルタントとしての能力要件と評価の仕組みを明確化し、水準の向上を図るとともに、試験の統一化によって、キャリア・コンサルタント制度を分かりやすいものとし、認知度の向上を図っていく必要がある。

という観点から、技能検定方式を提唱しています。

あとはキャリアコンサルタントに求められる基本的能力、分野別に求められる能力などが列記されていますが、更なる課題というところに興味深い記述があります。

>労働市場インフラとして、キャリア・コンサルタント制度を確立するためには、専門職としてのキャリア・コンサルタント制度の確立が不可欠である。そのためには、上記の2級レベルにとどまらず、1級レベルの養成や大学・大学院における専門性の高いキャリア・コンサルタントの養成なども望まれる。

キャリアの問題は労務屋さんの入っているキャリアデザイン学会とかもあるように、大変学際的というか、いろんな分野が絡み合っているところですから、心理学的側面に偏らず、広く法学、経済学、経営学、社会学なども学んで欲しいと思います。

平家さんへの再々答弁

平家さんから更に突っ込んだ再々質問をいただきました。

http://takamasa.at.webry.info/200711/article_10.html

まず、、

>登録型派遣の場合はすべて「派遣の依頼を受けてからそれに合わせて派遣元が雇い入れるわけですから、その人に着目しているものと考え」られるかという問題が残ります。

>派遣元の都合で労働者を入れ替えてもらっても、派遣先としては一向に構わないといケースです。この場合は原則、事前面接なしということになります。

>これは必ずしも日雇い派遣でなくとも、週雇い派遣でも、旬雇い派遣でも、月雇い派遣でもあり得る話です。

という論点について。

そこは仰るとおりでなのですが、期間のような外形的な基準で区分しておかないと、使用者側の内面的意思がどうだったかなんてことで判断するようにしたくはないわけです。

日雇い派遣といったのは、その人に着目していないもっとも典型的な例だと考えたからですが、確かに週雇いでも旬雇いでもあまり変わりはなかろう、といわれればそういうふうにも感じられますが、一方で、登録型派遣の場合1ヶ月契約ということにしておいてそれを次々に更新していくということも結構普通に行われていますから、それらも原則事前面接なしですねとやってしまうと、今の現実とかけ離れた姿と変わらなくなってしまいます。

ここはなかなか悩ましいところで、正直言ってバサリと斬るのは難しいのですが、まあ、問題意識を共有しているということが確認できたということで、もう少し引き続き考えていきたいと思います。

もう一つの論点、

>派遣業も労務供給業も使用者業務の代理業であると捉えて、使用者業務の代理は認めるけれども、使用者責任の回避は認めないというのが基本的なアイディアです。

>1 原則として派遣先、発注者が使用者責任を負う。
>2 ただし、派遣元、労務供給業者(代理業者)が使用者責任を果たす限りにおいて派遣先、発注元は使用者責任を免除される。

>この仕組みの下では、代理業者との契約で代理業者が担うこととされた使用者責任を代理業者が果たさなければ、派遣先、発注者が労働者に対して使用者の義務を果たした上で、代理業者に求償することになるでしょう。

考えていることはおおむねよく似ているように思われますが、「使用者業務」とか「使用者責任」という言葉の使い方において、いささかの齟齬があるような気がします。

雇用契約は労務の提供と報酬の支払いの交換契約とされていますが、派遣というのは労務の提供を受ける使用者と報酬を支払う使用者が分裂しているわけです。

労務の提供を受けているのは派遣先である以上、労務提供にかかわる使用者責任は全て一義的に派遣先にあると考えなければおかしいでしょう。現行法は、指揮命令は派遣先なのに、36協定は派遣元で結べとか、安全衛生は派遣先がやるのに、事故が起こったら補償は派遣元の責任といった風に、そこが歪んでいると思います。この部分については、派遣先職場にいない派遣元使用者に責任だけ押しつけること自体が無意味ではないかと思います、

一方、報酬の支払いの使用者責任は一義的には派遣元にある(少なくとも契約上は)わけですが、労務を提供したにもかかわらず派遣元が払わない場合に、派遣先に補充的な責任を認める必要があるように思います。ここはまさに平家さんの言う「代理業者との契約で代理業者が担うこととされた使用者責任を代理業者が果たさなければ、派遣先、発注者が労働者に対して使用者の義務を果たした上で、代理業者に求償する」という形が適切なように思われます。ここは、適切に報酬を支払っている限り、使用者機能のアウトソーシング自体を問題にする必要はあまりないでしょう。

実はここまでは、常用型でも登録型でもあまり違いがありません。

両者で位相が大きく異なってくる問題は継続性の問題です。期間の定めのある派遣労働契約を更新して長期間継続就労している状態において、それを継続しなくしたときに、誰がその期待権に対して補償すべきなのか。常用型であれば、そもそも派遣元の常用労働者なのですからこの問題は生じません。登録型固有の問題です。

これは、いよぎんスタッフサービス事件など、最近の派遣関連事件における重要なテーマでもあるわけですが、「派遣なんだからそんな期待権はそもそもありえねえ」というのはあまりにもひどいとして、じゃあどう考えるのがいいのか、現行法を前提にした解釈論としては派遣元との雇用契約が期間の定めなきものと実質的に変わらなくなったとするのがもっとも妥当なように見えますが、しかし、実質的に使用し続けていたのは派遣先であるわけで、どうも気持ちが悪い。ここにおける使用者責任を一義的に派遣先にあると考えるべきなのではないか、というのが、使用者責任論のコアのところです。

私は、更新を繰り返した後の派遣止めについて、派遣先に法定の金銭補償を義務づけてはどうかという風に考えていますが、ここはいろいろな考え方のあるところでしょう。

2007年11月19日 (月)

徳育の教科化 現在“補習中”

産経に「教育再生会議vs中教審 綱引」と題して、標記のような記事が載っています。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071119-00000034-san-pol

>学校での「徳育」の教科化をめぐって、政府の教育再生会議(野依良治座長)と文部科学相の諮問機関である中央教育審議会(中教審)が激しい綱引きを演じている。中教審が結論を先送りしているのに対し、6月に教科化を提言した再生会議側は来年1月予定の最終報告とりまとめに向け、教科化を一層強く打ち出して巻き返しをはかる構えだが、着地点は見えていない。

>肝心なのは徳育で何を教えるかだが、第2次報告は「ふるさと、日本、世界の偉人伝や古典などを通じ、他者や自然を尊ぶこと、芸術・文化・スポーツ活動を通じた感動などに十分配慮したものが使用されるようにする」と指摘している。

私は、知育、体育と並んで、子供たちが学校を卒業したあと入っていく実社会でより良く生きていくために、社会人として職業人として求められる人格的な部分も含めた何らかの教育というのは、決して無用ではないと思いますし、それを「徳育」と呼びたいなら、呼んで悪いこともなかろうとは思いますが、少なくともこの教育再生会議の皆様方の頭の中にあるのは「ふるさと、日本、世界の偉人伝や古典などを通じ、他者や自然を尊ぶこと、芸術・文化・スポーツ活動を通じた感動」とかいうものであって、そこには圧倒的大部分の子供たちが入っていく職業の世界というのはなさそうですね。多分、「仕事の場の連帯」なんてのは、いうところの「徳育」とは縁のないものと思われているんでしょう。

悲鳴あげる“名ばかり”管理職

本日夜7時半からのNHK「クローズアップ現代」で、標記のような番組が放送されるようです。

http://www.nhk.or.jp/gendai/

>十分な権限を与えられず自分の勤務時間すら決められないにもかかわらず「管理職」として扱われる"名ばかりの管理職"。過酷な長時間労働を強いられながら残業代も支給されない…そんな20~30代の若手社員が増えている。背景にあるのは人件費を抑制しようとする企業の姿勢だ。パートや派遣など非正規労働者の割合が増える中で、一握りの正社員が入社数年で管理職に任命され、限界を超えて働かされるケースが少なくないという。そうした人たちが過労で心身の健康を損なう被害も相次いでいる。景気回復のかげで若い管理職が使い捨てられる労働現場の厳しい実態を取材し、改善に向けた対策を探る。

実は、ホワイトカラーエグゼンプションの問題と裏腹にあるのが、この問題だったんですね。労働基準法上、労働時間規制が適用除外される管理監督者については、裁量労働制のような何の手続も要せず、「こいつは管理職だ」といえば、「恐れながら・・・」と訴えでなければ、その限りではまかり通ってしまうという、まことにおかしな状況があって、それを少しはまともにしようという意図も、ホワエグを唱道した議論の中にはあったことは確かなんですが、残業代ピンハネ論でどっかにすっ飛ばされてしまったというわけです。

この「名ばかり」管理職の最大の問題は、残業代がどうこうよりも何よりも、「限界を超えて働かされる」という点、残業代を計算するために管理職以外には一応チェックしなければいけない労働時間の実態がまるで野放図になってしまう点にあるわけです

ここにこそ、規制の手を入れなければならないと、私は主張してきているわけですが、さて、番組ではどういう取り上げ方になるのでしょうか。

アンペイドワークも労働問題!

その同じ日の厚生労働委員会で、自民党の川条志嘉議員が、なかなかに凄いことを仰っています。

>○川条委員 先ほども述べましたように、この労働法制の改正というのは、マクロな視点から見たら、小泉改革の先に明るい未来が見えるという国家像を実現させるための法整備の一環として行われているものと思っております。この位置づけから見ると、人口減少社会にまずしなければいけないことは、一つは少子化対策、労働力不足に対応して、二つ目、男女共同参画、これを進める必要があります。

 その際、家庭外の仕事については労働三法で守られているが、家庭内の労働の位置づけについては規定すらない。これが問題なんです。いわゆる主婦の仕事である家事、育児、介護といった、家庭内の、お金では評価されないアンペイドワークと呼ばれる仕事についても労働問題の一環として抜本的に見直す必要があります

 それで、第二回世界女性会議採択文書の中の有名な言葉、これは、婦人は世界の人口の五〇%、公的労働の三分の一を占めて、全労働時間の三分の二を占めているにもかかわらず、世界の所得の十分の一しか受け取っておらず、世界の生産の一%しか所有していない、この言葉は典型的なものです。

 日本でもいろいろな統計がありますが、有業女性の家事、育児の時間は三時間弱、専業主婦だったら八時間、一方で、男性は三十分弱という数字が出ています。男性と同じように働く女性がふえた近年の状況下で、女性が仕事を、結婚とか妊娠とか出産などによってやめる大きな原因になっていて、そのことが晩婚化、未婚化を進める大きな要因になっています。

 九七年、経済企画庁がアンペイドワークを貨幣評価して、約百十六兆、対GDP比二三%、その八五%を女性が担っているという試算も出ています。かつては家内労働として完結し、その中で道徳的に評価されていたものが、貨幣経済と近代資本主義の中で評価が抜け落ちてしまっているのがこのアンペイドワークと言われている仕事だと思っています。

 一例ですが、同じ掃除も、家の中ではアンペイドワーク、家の外では掃除担当という仕事になります。料理も子育ても介護も、家庭外では調理師、保育士、介護士として評価されるわけです。独身の男性だって、クリーニングや外食など、お金を出してサービスを買ったり、みずから行っているわけです。長時間労働の帰宅の後、育児は不可能という男性のために、ワークライフバランスなどという言葉で、ゆとりをという議論をするよりも先に、何時に帰宅しても育児は必要不可欠という現実の生活を踏まえて、アンペイドワークを評価することによって抜本的解決を図るべきだと私は考えています。

 その点で、民主党案については非常に生ぬるいと思っています。労働三法や育児・介護休業法などを初め、人口減少時代に対応した効果的な施策を打ち出すためにも、仕事と生活を分けて、生活の中にアンペイドワークを位置づけるのではなく、生活を維持するために必要な、貨幣では評価されていないワークという概念を導入して、その評価を年金や社会保障制度の中で考えていく必要があると、これは私、個人的に思っています。制度ができていないものについて担当者はもちろんおられませんので、答弁は求めません。しかし、制度のないところにこそ救いを求めている人がいるということを念頭に置いて、今後の課題としていただきたいと思います。・・・・・・・

是非、民主党案のように生ぬるくない、抜本的解決のための法案を与党内で検討していただければ、と。

最賃と家族の生計費

衆議院の議事録に11月2日の厚生労働委員会のがアップされていますが、その中で、民主党の最賃法改正案の「家族の生計費」について与党側から質問がされています。

http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index_kaigiroku.htm

>○井上(信)委員 ちょっと時間もございませんので、続きまして、最低賃金法の一部を改正する法案につきまして質問をさせていただきたいと思います。

 最近の我が国の働く人々を取り巻く状況を見ますと、パートタイム労働者、派遣労働者などを含めて、非正規雇用が増大する中で、就業形態の多様化が進展をしております。働き方のいかんにかかわらず、働く人々が安心、納得して働くことのできる環境づくりはますます重要だと考えております。

 格差社会ということが言われておりますけれども、ネットカフェ難民の増加など、働いても、自分の住む場所があるという普通の生活さえできない人々が生まれているというのは、我が国の大きな問題だと考えております。特に賃金は、労働条件の中でも最も基本的な事項であり、働く人々の安心、納得のためには、セーフティーネットとしての最低賃金制度は極めて重要なものと考えております。

 そのような経済環境のもと、最低賃金制度については、賃金の低廉な労働者の労働条件の下支えとして十全に機能するよう整備することが重要な課題となっております。このため、最低賃金制度について、社会経済情勢の変化に対応し、必要な見直しを行うということは大変重要なことだと思っております。ですから、政府と民主党がそれぞれ最低賃金法の一部を改正する法案を提出したということは、極めて意義のあることだと思っております。

 特に、政府案におきましては、第九条第三項で、「労働者の生計費を考慮するに当たつては、生活保護に係る施策との整合性に配慮するものとする。」としております。最低賃金が生活保護費よりも低いというのはおかしいと考えますし、働くよりも生活保護を受ける方がいいというモラルハザードを起こす危険もあり、早急に是正すべきであります。

 しかし、他方で、民主党案を見ますと、働く人たちにとりまして本当にためになる法案なのかにつきまして、強い疑念を感じるところであります。労働者の賃金など、条件のハードルを上げれば上げるほど企業は新規雇用を手控えること、想像にかたくありません。これが真に労働者にとりまして望ましい状況だとは到底考えられません。また、企業経営者の立場に立ってみましても、一段と厳しい経営環境で企業経営を強いられてしまい、それによって企業が倒産してしまったら働いている労働者は路頭に迷うことになり、元も子もない状況に陥ってしまいます。現在のグローバル経済の中でも日本企業の国際競争力もそがれることになってしまいます。

 そういう意味で、民主党案が本当に国民の利益になる法案なのかにつきまして大変疑念を感じますし、この法律案が実現可能だとは残念ながら到底考えることができません。

 そして、個別の論点でありますけれども、最低賃金の考慮要素として、民主党案によりますと第三条、労働者及びその家族の生計費のみが取り上げられております。なぜ家族の生計費まで基準としているのでしょうか。一体どんな家族を想定しているのか。家族の世帯構成というものは千差万別であって、一律に最低基準を設定することにはなじまないというふうに思います。仮に何らかのモデル世帯を想定して家族の生計費まで考慮した水準に最低賃金が決定された場合には、例えば家族のいない若者などの単身者に対する水準としては高くなり過ぎてしまいますけれども、その辺のところをどのように考えておられるのか。

 とにかく、労働者及びその家族の生計費のみを考慮要素として考えていることについて、御説明をいただきたいと思います。

細川議員 最低賃金のもとで働いても、手元に残る賃金がなぜ生活保護よりも低い現状にあるのか。なぜこれがこれまで放置されてきたのか。ワーキングプアといった深刻な社会問題が起こっているにもかかわらず、最低賃金が上がるのはこれまで一円とか二円の攻防が全国で繰り広げられてまいりました。私どもは、こういうところに素朴な疑問を感じているところでございます。

 現行の最低賃金法に基づいて決定される最低賃金額は、労働者の生計費に加え、類似の労働者の賃金、通常の事業の支払い能力も考慮するとされておりますが、これを考慮することによって、特に労働者の生計費の高い都市部におきましては、生計費を下回る最低賃金額の設定を許容するような、そういう状況にも至っておりまして、労働者の最低限度の生活水準を保障するものではないということは否定できないところでございます。これでは、労働者が結婚をして、子供を育てようとしても到底できるものではない

 そこで、民主党案では、最低賃金額の決定をする際の考慮基準として、労働者及びその家族の生計費というものを基本とすることといたしました。そこで、労働者が安心して結婚をし、子供を育てることができるということを前提といたしておりますので、労働者一人当たりに子供一人ということを想定いたしまして、このような家族の食料費、住居費、光熱水道費、被服費、保健医療費、交通・通信、教養娯楽、その他交際費等を合わせた結果、全国最低賃金は八百円、それから地域最低賃金は千円を目指すというような、そういう結論に至っているところでございます。

茂木委員長 独身者が高くなり過ぎちゃうんじゃないの

細川議員 独身者でも、その独身者が結婚をするということができないようでは、それはだめな社会じゃないでしょうか。やはり、独身者が働いて、その得た賃金で結婚する、そして将来は子供を産めるような、そんな賃金でないと、日本というのはかえっておかしい社会だというふうに思います

井上(信)委員 独身者の方々に子供を産んでもらうということは大変大切なことだと私も思っております。しかし、これは最低賃金の話でありますから、本当に最後のセーフティーネットだという最低賃金の趣旨を全く誤解していると言わざるを得ないと思います。・・・・・

実は大変本質的な議論をしているわけでありまして、年功制というのは、、まさに、独身者(であろうと思われる年代層)には独り分の安月給を払い、既婚者で子供を抱えている者(であろうと思われる年代層)には家族を養えるだけのけっこう高めの給料を払うという仕組みであったわけです。

その部分を、企業の賃金体系によって対応するのか、それとも公的な社会手当でもって対応するのか、という問題がこの裏側にあるわけですね。八代先生の調査会で喋った話ともつながってくるわけです。

不安定雇用という虚像

4326653310社研の佐藤博樹先生とリクルートワークス研究所におられた小泉静子さんの共著『不安定雇用という虚像』をいただきました。

けっこう、挑発的な題名ですが、内容は佐藤先生の篤実で穏和な性格と同様、きちんとしたデータに基づく手堅い研究です。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4326653310.html

>非正社員急増に伴い不安定、低賃金かつ能力開発の機会も乏しい等、否定面ばかりが強調されていないか。
働き手から見た多様な働き方の実態に迫る。

はじめに 非正社員は不安定雇用か―実像を理解するために
第1章 短時間だが職場の主力を担う人々―主婦パート(パートはどんな人たちか;どこからパートへきたのか ほか)
第2章 正社員なみに働く人々―フリーター(フリーターはどんな人たちか;どこからフリーターへきたのか ほか)
第3章 定着した新しい働き方―派遣スタッフ(派遣はどんな人たちか;どこから派遣へきたのか ほか)
結章 増大する非正社員と人材活用上の課題(非正社員の実像;企業の人材活用策の変化とその背景 ほか)

という内容ですが、著者たちの問題意識をよく示しているのははじめにの一節なので、その部分を引用します。

>急増した非正社員については、正社員の雇用機会はないために、やむなく非自発的に非正社員の働き方を選択したものが多く、また不安定且つ低賃金の雇用であり、能力開発の機会も乏しく、働く人々にとっては望ましくない働き方であるとの意見も多い。とりわけ若年のフリーターに関しては、キャリアの初期段階で能力開発機会を欠いた雇用につくことで、将来のキャリア形成に大きなマイナスの影響を及ぼすことが危惧されている。社会的な「格差」拡大の主因が非正社員の増大にあるとの主張もある。こうした結果、望ましくない非正社員の働き方を削減し、非正社員が正社員に転換できるように支援することが社会的な課題として指摘されている。

このあたりは、私もある意味でそういうことを言ってきました。

>然し、、正社員と非正社員の働き方を比較すると、雇用機会の安定性、賃金水準、能力開発機会の質などに関して両者で重なる部分が少なくないことが明らかにされている。正社員であっても雇用が不安定で、賃金水準が低く、能力開発機会が乏しい働き方があり、他方、非正社員であっても雇用が安定し、賃金水準が高く、能力開発機会が豊富な働き方があるのである。更に、非正社員の全てが正社員の雇用機会がないために、やむなく非正社員の働き方を選択したわけではなく、自発的に選択したものも多いことが知られている。正社員の中に非正社員の働き方を希望する者もいる。また、職業生活の領域別に満足度を比較すると、正社員に比べ非正社員の方が満足度が高い領域やほぼ同水準となる領域も少なくない。例えば、労働時間や出勤時刻などの勤務体制、さらには仕事の内容・やりがいなどがこうした領域に該当する。

この「明らかにされている」のもJILPTの調査結果に基づくものですが、それはともかく、いわゆる正社員のイメージというのは、大企業の正社員のイメージであって、中小零細企業に行けば行くほど、実は両者の違いは小さくなっていくわけですし、労働時間のように非正社員の働き方の方がいいという領域があることも確かなんですね。

>上記の結果は、非正社員の働き方を選択した人の中には、正社員とは異なる働き方を非正社員の働き方に求めて積極的に選択した者が含まれている可能性を示唆する。仕事に対する志向或いは働くことに求める報酬の内容や優先順位が、正社員と非正社員で異なるのである。つまり、正社員として働いている人の志向や正社員の働き方を基準として非正社員の働き方を評価するのではなく、それぞれを異なる働き方と位置づけて、非正社員の働き方に関しては、それらに従事している人々の志向に即してその働き方の特徴や課題などと明らかにすることが重要となる。この視点からすると、非正社員の働き方の問題点をその働き方に即して理解すると共に、その改善もその働き方の特長を生かす形で行うことが必要なのである。

この考え方は、それ自体としてはまったくまっとうであって、私もその通りだと思います。ただ、下手な使い方をされてしまうと、「だから非正社員は好きでやってんだから、待遇改善なんかする必要ねえんだよなあ」というのにつながりかねないので、そこは注意が必要です。

これは、実は「正社員」「非正社員」という言葉のコノテーションの問題という面もありまして、正社員を例えばトヨタに代表されるような典型的な大企業正社員モデルで考えると、議論がつながらないのですが、それなりに不安定でそれなりに安月給な多様な正社員モデルで考えれば、つながってくる面もあると思うのです。久本憲夫先生の言う「正社員ルネサンス」と、実は裏腹の話であるようにも思われます。

この「それなりに不安定でそれなりに安月給」だけれども、今の非正社員に比べれば「それなりに安定しているしそれなりの給料もある」ような正社員モデルをむしろ今後のモデルとして考えていった方がいいのではないのでしょうかというのが、この下のエントリーで紹介している『福祉ガバナンス宣言』所収論文で述べていることでもあるんですね。

2007年11月16日 (金)

福祉ガバナンス宣言

9784818819689 前から何回かこのブログ上でも宣伝していましたが、日本経済評論社から『福祉ガバナンス宣言-市場と国家を越えて』が出版されました。

http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-8188-1968-9.html

脱「格差・貧困社会」に向けた、日本の戦略とは?!
日本が本当の福祉社会になりうるか、今こそ勝負の時!
従来の福祉国家を超えた「第四の道」としての新しい21世紀型福祉ガバナンスを提示する。

総 論 新しい服しガバナンスへ……………………宮本太郎
第1章 生涯を通じたいい仕事………………………濱口桂一郎
第2章 不平等を通じたいい仕事……………………白波瀬佐和子
第3章 新たな時代の社会保障・入り用政策を構想する…広井良典
第4章 就労を中心にした所得保障制度……………駒村康平
第5章 社会的公正と基本的生活保障………………後藤玲子
第6章 女性環境の整備と福祉………………………斉藤弥生
第7章 東アジアから見た日本の福祉ガバナンス……武川正吾
第8章 福祉多元主義の時代…………………………坪郷 實
第9章 社会連帯の構造と排除………………………久塚純一
第10章 マクロ経済発展と福祉………………………神野直彦
終 章 生活様式の変容と福祉ガバナンス…………岡澤憲芙

と、コピペしたところで、ちょっと待った。この目次はなんじゃい。「服しガバナンス」や「入り用政策」はまだミスタイプで済むけど、「不平等を通じたいい仕事」はあまりにもひどいんじゃないの?これでは、白波瀬さんがまるでどこぞのカルト集団御用達のキチガイ経済学からやってきたイナゴみたいじゃないですか。

もちろん、正しくは、

総 論 新しい福祉ガバナンスへ……………………宮本太郎
第1章 生涯を通じたいい仕事………………………濱口桂一郎
第2章 不平等
感の高まり……………………………白波瀬佐和子
第3章 新たな時代の社会保障・
医療政策を構想する…広井良典
第4章 就労を中心にした所得保障制度……………駒村康平
第5章 社会的公正と基本的生活保障………………後藤玲子
第6章 女性環境の整備と福祉………………………斉藤弥生
第7章 東アジアから見た日本の福祉ガバナンス……武川正吾
第8章 福祉多元主義の時代…………………………坪郷 實
第9章 社会連帯の
創造と排除………………………久塚純一
第10章 マクロ
経済発展と福祉……………………神野直彦
終 章 生活様式の変容と福祉ガバナンス…………岡澤憲芙

で、実はこの本の売りは、執筆者がそれぞれ書いた各章の記述に加え、6つの対談が挟み込まれているところです。

現代福祉国家の新しい道とは何か・・・・・・・・宮本太郎×佐川英美
若者はどこまで支援されるべきか・・・・・・白波瀬佐和子×久塚純一
ミニマム保障は強めるべきか・・・・・・・・・・・・後藤玲子×駒村康平
北欧はモデルか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・斉藤弥生×武川正吾
NPOは雇用の受け皿になるか・・・・・・・・・・・坪郷實×濱口桂一郎
成長なき福祉は可能か・・・・・・・・・・・・・・・・・神野直彦×広井良典

というわけで、実は、個人的に一番面白かったのは、後藤さんと駒村さんの対談です。就労に基づく所得保障という考え方と、ベーシック・インカムをめぐって、読んでるだけでワクワクしますよ。

2007年11月15日 (木)

JILPT廃止反対要望書

玄田有史先生のブログで、「JILPT廃止反対要望書への賛同署名及び転送のお願い」がされています。

http://www.genda-radio.com/2007/11/jilpt.html

要望文は以下の通りです。

>厚生労働大臣 舛添要一殿

要望文

 独立行政法人労働政策研究・研修機構(以下「機構」)の廃止を検討していることが、いくつかのマスコミで報道されています。 労働をめぐる問題が重要度を増し、社会的関心を集めている現在、我が国で唯一の労働政策を専門とした調査研究機関である機構を廃止することは、日本の労働問題を正確に把握し、政策面で適切に対応する上で多大な不利益をもたらすと考えます。

 機構の廃止は、労働政策の立案や評価に欠かせない、公的かつ中立的な立場からの内外労働情勢の把握を困難にすることにつながります。さらに機構の廃止は、学術研究の成果を踏まえた上で労働政策を論じる学問的観点の重要性を蔑ろにする傾向を生むことが懸念されます。

 機構は、民間シンクタンクと異なる基礎的かつ継続的な調査機関であり、また大学等とも異なる実践的な政策の立案と評価を主眼とした研究機関です。その特有な機能は、労働政策の当面の課題についてのみならず中長期的課題に取り組むために必要なものです。

 機構が、我が国の労働政策の立案及びその効果的かつ効率的な推進に寄与し、もって労働者の福祉の増進と経済の発展に資することを目的とした独立の調査研究機関として、その機能をいっそう向上させつつ、存続することを強く求めます。

2007年11月13日

独立行政法人労働政策研究・研修機構の存続を求める研究者の会

呼びかけ人の方々は以下の通りです。

仁田道夫(東京大学社会科学研究所教授)、佐藤博樹(東京大学社会科学研究所教授)、玄田有史(東京大学社会科学研究所教授)、清家篤(慶應義塾大学商学部教授)、中村圭介(東京大学社会科学研究所教授)、山川隆一(慶應義塾大学法科大学院教)、守島基博(一橋大学大学院商学研究科教授)、荒木尚志(東京大学大学院法学政治学研究科教授)、大竹文雄(大阪大学社会経済研究所教授)、中村二朗(日本大学大学院総合科学研究科教授)、石田浩(東京大学社会科学研究所教授)、藤村博之(法政大学経営学大学院教授)、ロナルド・ドーア(ロンドン大学経済パーフォーマンス研究所名誉研究員)、島田晴雄(千葉商科大学学長)、佐藤厚(同志社大学大学院総合政策科学研究科教授)、諏訪康雄(法政大学大学院政策科学研究科教授)、尾高煌之助(一橋大学・法政大学名誉教授)、武石恵美子(法政大学キャリアデザイン学部教授)、大沢真知子(日本女子大学人間社会学部教授)、末廣啓子(宇都宮大学キャリア教育・就職支援センター教授)、石田光男(同志社大学社会学部教授)、トーマス・コーハン(マサチューセッツ工科大学スローン経営大学院教授)、樋口美雄(慶應義塾大学商学部教授)、荻野勝彦(トヨタ自動車(株)人事部担当部長)、メアリー・ブリントン(ハーヴァード大学ライシャワー研究所教授)、今野浩一郎(学習院大学経済学部教授)、脇坂明(学習院大学経済学部教授)、太田聰一(慶應義塾大学経済学部教授)、永瀬伸子(お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科教授)、中田喜文(同志社大学技術・企業・国際競争力センター教授)、大橋勇雄(一橋大学大学院経済学研究科教授)、小池和男(法政大学名誉教授)、猪木武徳(国際日本文化研究センター教授)、三谷直紀(神戸大学大学院経済学研究科教授)、ダニエル・フット(東京大学大学院法学政治学研究科教授)、佐藤嘉倫(東北大学大学院文学研究科教授)、耳塚寛明(お茶ノの水女子大学人間文化創成科学研究科教授)、冨田安信(同志社大学社会学部教授)、藤田英典(国際基督教大学大学院教育学研究科教授)、白波瀬佐和子(東京大学大学院人文社会系研究科准教授)、広田照幸(日本大学文理学部教授)、岩村正彦(東京大学大学院法学政治学研究科教授)、サンフォード・ジャコビー(UCLAアンダーソンマネージメントスクール教授)、苅谷剛彦(東京大学大学院教育学研究科教授)、篠塚英子(お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科教授)

「研究者の会」とありますが、玄田先生も「署名は、狭く研究者のみに限定せず、要望の趣旨にご賛同いただけるすべての方々にお願い出来ましたら、ありがたく思います」とおっしゃっていますし、そもそも労働研究というのは、象牙の塔にこもって空理空論を並べ立てることとは違い、現実の労働問題に取り組んでいる人々こそがまさに研究の主体でもあるわけですから、幅広く実務家の方々も署名していただければと思います。「労務屋@保守オヤジ」こと荻野勝彦さんも呼びかけ人になっていることですし。

署名フォームはこれです。

https://fs222.formasp.jp/q427/form1/

労働市場改革専門調査会の資料

昨日の労働市場改革専門調査会の資料が内閣府にアップされています。

http://www.keizai-shimon.go.jp/special/work/15/agenda.html

私のは、昨日のエントリーでアップしたものとまったく同じです。

これと併せて、小林良暢委員の資料もアップされています。

委員の方々とのやり取りはそのうちアップされる議事録に載るはずですが、過半数組合の合意の効果、解雇ルールとの関係、年金制度との関係、親子の年齢差の拡大による生活費問題、生活給と専業主婦モデルの関係などなど、たいへん興味深いテーマが満載です。

2007年11月14日 (水)

朝日新聞版「構造改革ってなあに?」

今朝の朝日新聞の文化面に、

「江田三郎没後30年 社会民主主義を再評価の動き」

という記事が載っていました。本ブログで昨年イナゴさんがたくさん寄ってきた「構造改革ってなあに?」と同じ様なテーマをわかりやすく説明していましたので、リンクを張っておきます。

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200711140055.html

> 「構造改革」といえば小泉元首相。しかし半世紀前、新自由主義的な「構造改革」とは正反対の意味でこの言葉を唱えた政治家がいた。没後30年を迎えた社会党書記長・江田三郎(1907~77)。西欧で有力だった社会民主主義の政治を目指し、頓挫した。なぜ日本で社会民主主義は育たなかったのか。格差拡大が言われる中、平等への思想として、改めて見つめ直す動きがある。

・・・・・・

>今、日本の思想・言論界では左派的な理念を語る際に、しばしば「リベラル」という言葉が注目される。「社会民主主義」は忘れられてしまったかのようだ。

 これに対し、市野川容孝・東京大准教授(社会学)はこの言葉にある「社会」の含意を見直そうとする。「社会的」とは、人間が生み出す格差、不平等を是正する、福祉国家に通じる営みだったというのだ。

 市野川さんは、「リベラル」は多様性を認めようとする概念で、平等への志向性がやや低いと感じている。「歴史的に見たら、平等と固く結びついている『社会』を使うべきだ」と格差是正の理念としての「社会」を重視する。

 新自由主義の対抗軸となるのは、社会民主主義か、リベラルか、それともほかの何かか。江田は死の直前に出した著書『新しい政治をめざして』で「社会民主主義も固定したものではなく、私のいう終着駅のない改革の思想」と述べた。

ちなみに、本ブログにおける「構造改革ってなあに?」はこれです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_b2d6.html

年齢の壁について

本日、経済財政諮問会議労働市場改革専門調査会の第15回会合があり、不肖わたくしが報告をして参りました。

現時点ではまだ内閣府のHPに掲載されていませんが、私の報告メモはこれです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/yashiroken.html

大体こういう風なことを30分くらい喋って、その後、八代先生をはじめとする委員の方々と40分くらいやり取りをしました。

やり取りの中味は、そのうち内閣府のHPにアップされるでしょうから、それまでお待ちくださいね。

働くための学習

31972987 長らく職業訓練に関わってこられた田中萬年さんの好著。

http://www.gakubunsha.com/cgi-local/search.cgi?id=book&isbn=978-4-7620-1727-8

21世紀のグローバル化する世界のなかで、明治期と同じ教育が果たして望ましいのであろうか。「教育基本法」ではなく「学習基本法」を制定することの大切さを説き、混迷する教育問題の根源を明らかにする。

永六輔氏が「『教育』という言葉が良くないですね。これでは何ともなりません。」と述べたのはなぜか。
「教育を受ける権利」とはどのような意味なのか。
「教育」の言葉に疑問を持つことにより、戦後教育改革の問題が新たな展開を見せる。
今日の教育問題の根源を独自の思考から解明し、教育の未来を示す。

目次は

第1部 キョウイクを探求する世界の動向(世界の人材教育とキョウイク
国際的規程における労働権と教育権)
第2部 教育問題の基本的課題(職業的自立観を否定する「教育を受ける権利」
労働を目的としない「勤労の尊重」観
実学軽視の「教育内教育」観)
第3部 改革の視座と方略(教育改革論の系譜と労働・職業論
鈴木安蔵の労働権と「教育」の回避
"働くための学習"を支援する「エルゴナジー」)

そういう言葉は出てきませんが、本田由紀さんの強調する「職業的レリバンス」が全編を通した最大テーマです。

2007年11月13日 (火)

権丈先生の価値判断

毎度おなじみの権丈先生の勿凝学問シリーズ116です。今回のお題は、

「事実は価値判断とは独立に存在し得ない- 「人間は自分がみたいという現実しかみない」というカエサルの言葉の科学方法論的意味合い」

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare116.pdf

この中で大変面白いのが、このグラフを見ての反応の違い。

Kenjoh01_3

>八代先生が編集した本『新市場創造への総合戦略(規制改革で経済活性化を)』の中にある、「所得と医療サービス支出の日米比較」をみせる。医療費を私的に負担するのと公的(租税社会保険料)に負担するのでは、いったい何が違うのか?

問題は、この図から、いかなる事実を読み取るかである。 まずは、この図を作成した鈴木氏が読み取った事実を紹介する。

•「家計と所得の医療サービス支出の関係をみると、わが国では所得と支出額はほぼ無相関であり、低所得者世帯も高所得者世帯も医療サービス支出額はほぼ同じである。このことから、高所得者の医療ニーズが満たされていない可能性が大きい。一方、アメリカでは所得と医療サービスの相関は高い。所得に応じて国民は多様な医療サービスを購入していることを示唆する」

>しかし、わたくしがこの図をみると、次のような事実が読み取られることになる。

•「このことから、皆保険下の日本では医療の平等消費が実現されているのに、国民全般を対象とした医療保障制度をもたないアメリカでは、医療が階層消費化している

つまり、

>事実とは、ニュースとは、事件とは・・・これらは、どうしても論者の価値判断とは独立に存在し得ないのである。Do you understand?

ということですね。

最後のところの台詞が本質を鋭く剔っています。

>講義では、いつも4月のはじめに、事実と価値判断を峻別せよ、事実関係を問う実証分析(positive analysis)と価値判断を内在する規範分析(normative analysis)は別次元の思考が司る別世界のものであり3、決して混在してはいけないと教える。そしてその後いつも付け加えることは、次の言葉である。 「でもまぁ、今言ったことは初級の科学方法論であってね、実は、中級、上級の世界になると事実と価値判断は独立に存在し得ないし、実証分析を行う際の問は、その人が持つ価値観に強く依存することになるんだよね。でも、それはあくまでも中級、上級の世界の話だから、まず君たちは、事実と価値判断を峻別し、実証分析と規範分析の違いを教科書レベルの知識としてしっかりと理解しておいてくれ。30過ぎても“経済学は価値独立な実証科学で云々”と言っているひとは、まぁ、社会科学にはあんまりむかないだろうな・・・」。

権丈先生の判断基準からすると、到底社会科学にむいているとは言い難いような初等ケーザイ学教科書嫁の手合いが、我こそは社会科学の先兵なりみたいな思いこみで知らない分野に猪突猛進してくるという事態が、一番悲劇的且つ喜劇的であるわけなんですが・・・。

で、じつは、この権丈先生の最後のところの台詞が、痴呆でいいもんの大坂先生のわたくしへのカメレスに対する超カメ再レスになるわけです。

http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20071011/p1

>「てめーら、経済学嫁とかいってるけど、おめーらの規範どうりには、おめーら自身の論争自体すすんどらんじゃねーか。ばか」

と、単純に言っていいわけではないわけで、それこそ初等段階の人には、「事実と価値判断を峻別せよ」ということをきちんと教えなければならないし、世間の圧倒的大部分のそのことがわかっとらんで両者を何の反省意識もなくごちゃごちゃにして議論しているようなのに対しては、まずは「事実と価値判断を峻別せよ」と言わなくちゃいけないのですけれどもね。

平家さんへの再答弁

下のわたくしのお答えに対して、平家さんから趣旨をご了解いただいた旨と、なお残る疑問がある旨、再質問をいただきました。

http://takamasa.at.webry.info/200711/article_6.html

>事前面接を解禁すると言うことは、事前面接を義務づけると言うことではありません。現行の派遣法制どおり、事前面接を行わない派遣先もいるでしょう。それこそ取り替え可能な労働者でいいという場合もあるでしょうし、有能な派遣元を十分信頼しているというケースもあるでしょう。

このようなケースがあっても、「改正は、労働者派遣全体に対して直接雇用への前段階的性格=一種の試用期間的性格を付与することになる。」と言えるのでしょうか?法的フィクションの理解が足りないのかもしれませんが。

事前面接を解禁すべしという立法論に対する批判的応答としては、「ということは、直接雇用するつもりがあるってことだよね」という切り返しは有効かも知れないけれど、「いやうちは事前面接なんかしないよ、直接雇用するつもりなんかないからね」という派遣先には有効じゃないでしょうというご批判です。平家さんは、

>もっとも、事前面接をしたかどうか(存在)で、使用者であるかどうかの判断が変わるとすると、おそらく、使用者責任から逃れたい事業主は、いまと同じように事前面接の抜け道を探すことになるでしょう。これも困るのですが。

と、事前面接の有無で事後的に使用者責任の有無が決まるようなイメージで理解されたようです。

しかし、最終的には裁判所で事前面接の有無について事実問題として決着がつかない限り使用者責任の帰趨が判らないというのでは、これは法的安定性を害します。

予め、派遣を類型化し、事前面接ありで使用者責任を原則的に負うべきものと、そうでないものに分けて、反証されない限り、そういう契約であったと推定されるような仕組みにしておく必要があるでしょう。

大きく分類すれば、技術系に多いいわゆる常用型派遣の場合は、その派遣会社の正社員であるわけですから、その会社の技術水準を信頼して派遣を受け入れているものと考えて、事前面接なしで派遣先に使用者責任なしとし、事務系に多いいわゆる通常の登録型派遣の場合は、派遣の依頼を受けてからそれに合わせて派遣元が雇い入れるわけですから、その人に着目しているものと考えて、事前面接ありで派遣先にも使用者責任ありとするのが、すっきりするように思われます。

私は、登録型派遣というのは使用者責任のアウトソーシング業であると捉えて、その限界をきちんと定めておくという風に考えればいいのではないかと思っています。

問題は日雇い派遣をどう位置づけるべきかなんですね。

2007年11月12日 (月)

平家さんの疑問に答えて

私の『世界』論文に、平家さんから疑問が呈されました。

http://takamasa.at.webry.info/200711/article_5.html

この論点は、実は労働者派遣という形態を事実叙述的に考えるのか、規範的に考えるのかという、ザインとゾレンの二つの議論が絡まり合う部分でして、私の文章がいささか言葉足らずというところもあるのですが、平家さんの疑問はその二つの次元の違いを無視するところから発しているという面があります。

>また、派遣労働者の事前面接の解禁を巡って、次のような推測を述べられている。

     紹介予定派遣でなくとも事前面接をするのは、その時点で紹介を具体的に予定していなくても、将来的に円滑な直接雇用を図るつもりがあるからであろう。

これはどうだろうか?このような例もあるとは思う。しかし、単に職場に変な人、こちらの希望するような人が来て、「ミスマッチやトラブル」が起こると困るからというケースも多いのではないか。

要するに納品された商品が注文したとおりのものかを確認する(検品)を行おうとしているに過ぎないケースも多いのではないだろうか?検品は短期しか使わない商品に対しても行われている。

直接雇用の意図が全くなくても事前面接は行われうるし、打ち合わせなどと称して事実上行われているのではないか。

もしそうであれば、事前面接の解禁という改正が、「派遣労働者全体に対して直接雇用への前段階的性格を付与することになる。」という濱口先生の主張は成立しない。

何を言いたいかおわかりですね。

私は、事実認識として上でいう「次のような推測」を述べているわけではありません。事実認識として、私が本気でそういう「推測」を述べているのだとしたら、事実認識の次元で、そうじゃないでしょうという反論は意味をなします。

しかしながら、これは「法的な規範としての労働者派遣法の世界においては、そういうことでなければならないはずだけれども、そういうことなんだよねえええ・・・」と、嫌がらせ的に言ってるのです。

なぜか。

これは、平家さんであればおそらくご理解されているはずだと思うのですが、労働者派遣というシステムの根本の考え方の整理から発します。

現在の日本の法制の上では、労働者派遣というのは、山田花子という固有名詞を持った労働者を固有名詞を持った労働者として、派遣先で就労させることではありません。いやもちろん、どんな労働者も固有名詞を持っています。このことの意味は、一人一人異なる労働サービスのうちの特定の一人の労働サービスを提供することは労働者派遣ではないという意味です。特定物債権ではないのです。

労働者派遣の目的物は、固有名詞の入らない抽象的な職種別の労働サービスです。種類債権なのです。

ファイリングという職種に属する労働サービスを一人分提供してくれという注文に対し、まさにそういうサービスそれ自体を提供するのが派遣会社です。

それが山田花子であるか、奥谷禮子であるかは、労働者派遣法上は、区別してはならないのです。

奥谷禮子はいやだから山田花子にしてくれ、といってはいけないのです。

もしそんなことをいったらどうなるか。

労働者派遣ではなくなるのです。

職業紹介になってしまいます。

ということは、派遣先は使用者になってしまいます。

派遣先は、特定の固有名詞を持った労働者とはなんらつながりを持たず、抽象的な職種労働力の提供を受けるだけであるから、使用者ではないということになっているのです。

これが派遣法の建前です。

もちろん、これは法的フィクションです。

実体論的にいえば、派遣先はまがうことなき使用者です。そして、使用者でありながら使用者責任を押しつける相手として派遣元を利用しているわけです。法的観点抜きに実態分析をすれば、おそらくそういうことになるのでしょう。

実体としては事前面接は日常茶飯事になっています。

だれもが、派遣先が本当の使用者であり、しかしながら使用者責任を負わないんだと思って行動しています。

しかし、ここでは徹頭徹尾、法的規範論の水準で議論しています。

実体がこうだからといって、だから事前面接を解禁しませうという議論は、このような法的規範構造の中におくと、どうなるかという話をしているのです。

現行法上、派遣でありながら事前面接が許されているのは紹介予定派遣だけです。

なぜか。

派遣先が紹介先であり、使用者として使用者責任を負うことが予定されているからです。だから、単なる種類債権ではなく、特定物債権として、特定の労働者の提供を受けることが可能なのです。

事前面接解禁論というのは、全ての労働者派遣を種類債権ではなく、特定物債権にしてもいいではないかという議論ですね。

だとすると、それは使用者責任を負いますよという話でなければ、少なくとも現行派遣法上は、矛盾を生じるでしょうといっているわけです。

これは法的規範論のレベルでの、(ブルセラさん風にいえば)if-then文であるわけですが、さてそれを実態論のレベルに引き写すとどうなるか。

現実の労働者派遣は、法的フィクションとは違って、派遣先が使用者であり、派遣元はその使用者責任を引き受けるだけの存在に過ぎないのだから、その実態に合わせた形で法構造を組み直すべきではないか、という議論になります。

戦前の労務供給システムの法的規範は、供給先が使用者であるという形で形成されていたという歴史的事実の提示は、それを補強するためのものです。

実は、私の議論は、この二つの水準の議論を二重に提示する形になっています。紙数が足らなかったため、いささか意を尽くせていないところがありますが、そういう趣旨でご理解いただきたいと思います。

2007年11月10日 (土)

正義の味方続々

モリタク先生に引き続いて、日本総研の山田久氏、三菱総研の木村文勝氏、そして我らが労務屋@保守オヤジこと荻野勝彦氏の3氏が、JILPTを廃止しようという悪逆非道のたくらみに対して、日本の労働研究のメッカを守るべく立ち上がりました。

http://www.jil.go.jp/seisaku/index.htm

労務屋さんのブログでもこれに言及されています。

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20071109

>よく読むと、基本的にはほとんどが「労働政策研究の重要性」を述べていて、「JILPTの重要性」には必ずしもなっていないのですが・・・

というのは、JILPT研究員の皆さんへの叱咤激励と受け取るべきでしょう。

半月前にこのブログで書いたように、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/jilpt_08e5.html

>労働問題の研究は、労働という現象に対する的確なセンスを必要とします。それが欠如した人間が、判ったつもりで自分のパラダイムをそのまま労働に当てはめて適当に論ずると、労働を知らない人間には一見まともな議論に見えるけれども、労働を知っている人間にはとても話にならないトンデモ議論になってしまうのです。

ただでさえ、労働を知らない人間の薄っぺらな空理空論がまかり通る今日であるだけに、現実の労働の姿を着実に明らかにしていくJILPTの活動の重要性はますます高まっていくはずです。

「外部の視点」と漸進改革

きはむさんのブログに、大変哲学的な考察ではありますが、ここでの議論にもつながるような話がありました。

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20071106

>外部の視点を導入することによって、自明のものとされている所与のシステムを対象化し、その特質を描き出すという作業は、それとして重要である。だが、外部の視点を導入しなければ批判なるものは為し得ないと考えるのは間違っている。

具体的に何のことかというと、

>非常に辛いが経済的安定が得られる可能性が高い選択肢Aと、比較的楽だが経済的不安定に陥る可能性が高い選択肢Bとを示し、「Aか、Bか」という二者択一を迫るシステムがあるとしよう。このシステムを批判するためには、わざわざ「二者択一を迫ることがないシステム」などを想定する必要は無い。例えば、「二者択一を迫るにしても、Bを選んだ人がひどい経済的苦境に陥ることがないように、何らかの対策を講じるべきだ」などと言うことができる。

いうまでもなく、長時間のハードな労働を強いられるが雇用は安定し賃金も高い正社員モデルと、労働負荷はそれほど高くないが雇用は不安定で賃金も低い非正社員モデルの「二者択一」が典型的な例です。

>現実を批判するためには「ここではないどこか」のような大げさな表現は不要であり、ただ所与の条件からして採り得る選択肢を並べてみた上で、それらを相対的な評価に付し、最も採るべき選択肢が現行の選択と異なることを示せばよい。実現不可能なことが分かっている何らかの「外部」を現実批判の準拠点に据えようとする態度がいかに問題含みのものであるかについては、「神と正義について」で検討した通りである。

労働問題における「ここではないどこか」や「外部」に当たる議論がどういうものかは、今までの議論の経緯をみればよくわかるところですが、まさにそういう「外部の視点」を安易に持ち出してこれでなければこれっぽっちも改革できないなどと喚くのではなく、「所与の条件からして取り得る選択肢」の中から「相対的な評価」によって「最も採るべき選択肢」を提示していくという、地道ではあるけれども重要な作業こそが、今最も求められていることなのだろうと思います。

私も微力ながら、そういう漸進改革の一翼を担っていきたいと念じています。

2007年11月 9日 (金)

労働契約法案・最低賃金法改正案への修正

JILPTのサイトに標記修正の要綱と条文が載っています。

http://www.jil.go.jp/kokunai/mm/siryo/pdf/20071109b.pdf

http://www.jil.go.jp/kokunai/mm/siryo/pdf/20071109a.pdf

最低賃金法は、要するに「労働者が健康で文化的な最低限度の生活を営むことができるよう」という一句を挿入したということであるわけです。

もとの改正案の趣旨もそういうことであるわけですから、それをより明確化したということなわけですが、民主党の対案とは思想が異なっています。

民主党の対案といっても、全国一律最低賃金とかいうトンデモな話の方ではなく、この規定の発想です。

http://www.dpj.or.jp/news/files/chinginhou.pdf

>第三条 第九条第一項に規定する全国最低賃金及び第十条の四第一項に規定する地域最低賃金は、労働者及びその家族の生計費を基本として定められなければならない。

つまり、労働者本人だけではなく、その家族も生活できるだけの賃金を最低賃金にせよという思想ですね。

これは、そもそも最低賃金とはなんぞやという大問題なんですね。家族が多けりゃ最低賃金も生活保護額のように上がっていくというのか。そうすると、単身者と大家族持ちの最低賃金はかけ離れるということか、女房が専業主婦か共稼ぎかによって最低賃金が異なっていいのか、と山のように論点は出てきます。

それではそもそも労務の対価としての賃金とは言えないのではないか、というのが一番本質を衝いているように見えて、実は「そうだよ、そもそも日本の賃金制度は厳密な意味での労務の対価ではないではないか」という話につながって、ますます話を混迷させるわけです。

が、まあ、それはやめたということのようです。

労働ビッグバンを解読する

『世界』の12月号が出ましたので、11月号に掲載した「労働ビッグバンを解読する」をHPにアップしておきます。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/bigbang.html

今話題の小沢一郎氏の勇ましい「今こそ国際安全保障の原則確立を」が載った号であったため、日ごろ『世界』を読んでいない人からも、「hamachanのやつ読んだよ」と声をかけられることもあり、たまたまでしょうけど、同じ号に掲載していただいたことに感謝申し上げます。>岩波書店編集部様

結局、ここで言いたかったことは、

>ここで必要なのは、規制緩和を主張する連中のいうことだから全部間違っているに違いないとか、構造改革はいいことだからその主張は全部正しいに違いないといった、党派的思考停止に陥らないことである。その議論を丁寧に腑分けし、是は是、非は非として、あるべき労働法制を探っていく主体性が求められる。

>八代氏のいう労働ビッグバンは福井氏の「初歩の公共政策原理」とは異なり、真剣な検討に値すると思われる。党派的思考停止に陥ってはならない。

ということなんですね。

お前はいつから八代尚宏の手先になったんだと言われるかも知れませんが、別に手先にはなっておりません。変なことを言ってるときは変なこと言ってるとちゃんと批判しております。

2007年11月 8日 (木)

ワーキングプア・ネットカフェ難民…貧困拡大 見えぬ実態

昨日の読売の記事です。この問題についてよくまとまっています。

http://www.yomiuri.co.jp/iryou/kyousei/security/20071107-OYT8T00205.htm

>貧困対策が遅れている第一の理由は、貧困状態にある層を把握する手段がないことだ。欧米諸国では、独自の貧困基準を設けている。例えば、欧州連合(EU)は、その国の平均的な所得の60%以下を貧困ラインとして設定し、随時公表。貧困対策の基礎資料にしている。しかし、日本は明確な貧困基準が設定されていない。

 駒村教授は「具体的なデータをもとに、人生のどの段階で貧困に陥りやすいのか、何が貧困の原因になるのかを調べ、対策を講じるべきだ」と話す。

 貧困対策として我が国では生活保護制度があるが、その限界を指摘する声も根強い。生活保護は、働ける現役層への適用が厳しい。実際には、リストラなどで離職したり、転職を繰り返したりして、生活苦に陥るケースも少なくないが、働けることを理由に、生活保護が適用されないケースが目立つからだ。

 省ごとの縦割り対策への批判も多い。例えば、福祉事務所とハローワークなどとの連携は十分ではなく、非効率だ。一体的な体制が整っていれば、生活保護の受給や職業紹介など、その人の状況に合わせた適切な支援が可能になる。

>貧困対策の最大の課題は、生活保護世帯の外側に存在する、保護ぎりぎりの層への支援が欠如していることだ。岩田正美・日本女子大教授(社会福祉学)は「貧困の背景には、本来の社会的なネットワークからはずれてしまう社会的な排除がある。目に見えない貧困層を支援するには、きめ細かい対策を講じ、排除防止を目指すべきだ」と論じる。

 社会的排除とは、企業、学校、家族などとのつながりが薄く、社会から孤立しがちな状態を指し、欧州では貧困対策の根本問題として位置付けられている。日本で新たな貧困層としてクローズアップされている、ワーキングプアの若者の場合、低収入で、企業などの住宅補助もないため、アパートも借りられないケースも。社会保険にも未加入で、最悪の場合、医療機関での受診もできない。

最後のところでは、EUの社会的排除対策の動きを紹介しています。

この辺について、より詳しい話は、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/exclusion.html

で書いております。

労働組合こそ教育を語れ

IMFJC(金属労協)の機関誌『IMFJC』に、読売新聞の徳永さんという方が標題の文章を寄稿しています。教育再生会議つながりというわけではないのですが、なかなか面白いので、ご紹介しておきます。こういう「フツー」の感覚で教育を語る人が少ないのが問題なんですよね。

http://www.imf-jc.or.jp/public/kikanshi2/07natsu/pdf/32-33.pdf

>先の統一地方選で、まだ20代の候補者が、学校の先生の「あたりはずれをなくす」と公約に掲げていた。これを目にしたとき、あんたはいったいどれほどの人物なのか、とあきれてしまった。ただ有権者受けだけを狙って掲げたのだろうと思った。

何より、スイカでも買うかのように、人間について、しかも学校の先生に対して「あたりはずれ」と言う神経を疑う。こうした発言がどれほど先生を貶(おとし)めていることか。失礼だが、私自身の尺度で見れば、国会議員にだって「あたりはずれ」がある。文部科学省の官僚にも「あたりはずれ」はある。どんな組織にも「あたりはずれ」は付き物だろう。それが人間の社会というものだ。何ごとも完璧を求めすぎると、過激な政策に走りかねない。一定の人間にレッテルをはり、そうした人たちを排除する恐怖社会になりかねない。

この候補者に限らず、先生に対して最近、「あたりはずれ」という言い方が広くされているような気もする。人々から謙虚さという美徳が失われてしまったかのようだ。教育問題は私の担当外だが、教育再生会議や文部科学省の教育改革論議にも、そんな印象を持った。
再生会議は改革と称して、様々なことを提言した。授業時間10%増の実現という項目がある。再生会議のメンバーはみんな、子供のころ、学校の勉強がよほど好きだったんだろう。そうでなければ、現場の意見もよく聞かず、こんなことを簡単に言い出すわけがない。

再生会議のメンバーには、1日7時間の授業を1か月ほど体験した上で提言してほしかった。さらに、講師として1日7時間授業を担当してもらう。小学校の先生並みに複数科目を教えるとなれば、授業の事前準備で寝る暇がないかもしれない。
全国に大号令をかける提言だ。そのくらい真剣に考えるべきだろう。
メンバーは、将来それが悪政だったと分かった場合でも、結果責任は負わない。被害を受けるのは子供で、責任は先生が問われる。

>誠に失礼だが、教育再生会議のメンバーや文科省の官僚、大学の教育学の教授などより、家庭や社会の歪みを一手に引き受け、ネコの目のように変わる文科省の方針に耐えつつ、黙々と教育現場で奮闘している先生を尊いと思う。子供たちに慕われ、子供たちに信頼されている先生にこそ頭が下がる。私も常に心しなければいけないことだが、弾のとんでこない銃後の批評者より、戦場に立ち続ける人を尊敬する

この6月の株主総会では外資系投資ファンドによる株主提案が相次いだ。その多くは増配の要求だった。日本の経営者を無能扱いするようなファンドもあったが、そんなファンドの代表者が、経営者として大きな実績を残した人物だとは聞かない。
理不尽な増配要求がまかり通るようになると、会社の従業員は、投資ファンドに利益を捧げるために働く奴隷のような立場になりかねない。全従業員に利益を十分に還元していってこそ、企業の長期的存続も可能となる。企業の20年、30年先を見据えるという考え方は、投資ファンドにはない。
この構図は教育問題と似ている。教育再生会議や文科省は投資ファンドのようだ。学校の先生が会社の経営者であり、会社と従業員が児童・生徒だ。
正しい教育、正しい経営をしてほしいというのではない。間違った教育、間違った経営をされたら取り返しがつかない

日本経済を支える民間企業の労働組合員が、教育問題で発言しないのはおかしい。もの作りの現場もあれば研究開発の現場もある。そうした現場で多大な貢献をしてきた人たちは、どのような初等中等教育が望ましいと思っているのか。政府はこのような人たちの意見こそ重視すべきである。ここは謙虚にならず、労働組合には津々浦々に響き渡るような声で見解を述べてほしい。
ステレオタイプの思考を脱し、時には共感できる経営者と連携する柔軟さも必要だ。常に世相をみつめ、少しでも世相を明るく、活気のあるものとしていく。労働組合は、その大きな役割を担っている。

工職身分差別撤廃のマクロ経済環境

大内兵衛著作集第6巻に「日本サラリーマンの運命」という小論が収録されています。1947年6月に書かれたものですが、おそらく書いた本人が思っている以上に興味深いものになっています。

>私は、ここではいわゆる勤労階級の一種である「頭の労働者」、インテリゲンチャ、日本の通俗語でいうサラリーマンのことについて一言しようと考えている。この種に属する勤労階級は、工場労働者よりも、戦争とインフレーションの影響をより強く受けているということ、そのうちでも高級なもの、すなわちより高い知的教養を持ったものが極めて強い影響を受けているということを極めて具体的に示してみたい。

>過去の日本では、こういう高級な地位の人々のサーヴィスの価格は、その生産費又は再生産費の何倍も何十倍もであった。従って彼らの生活なるものも又、必要最低生活費の何倍かの費用をもってなされていたものなのである。それが、急激に切り下げられて、彼らのサラリーが労働者の賃金よりも低くなる。しかもその労働者にしても戦前の生活費の三分の一以下で生活しなくてはならぬということになると、サラリーマンの運命の悲劇は、勤労者一般の問題の内で特に惨めな痛々しい面である。

で、具体的にどうなったのかというと、

>昭和12年に入社する大学卒業者は中学卒業者の倍、女学校卒業者の三倍半の月給が貰えたのに、今日では、彼は前者に比して僅かに二割しか余計に貰えない。後者に対しても僅かに五割増である。

>今日は教育の程度によってその収入の差は非常に小さくなっていることが明らかである。

ここでこの特権階級的マルクス主義経済学者はこう述べます。

>インフレーションとは、勤労階級の犠牲において少数の資本家が富む過程である。が、この過程において一番ひどい目に遭うのは、勤労階級の一種たるサラリーマンである。

インフレでひどい目に遭うのはもちろん金利生活者です。日銭を稼いでいる方がいい目を見ます。

>インテリのこの急激な没落、そのあまりにも甚だしい「平等化」は、社会層の構造変化としていろいろの問題を提出するであろう。蓋しこれは従来の教養ある中堅階層の地盤の地滑りであり、一切の文化の背骨の破砕であるからである。

>いうまでもないが、右の統計的事実はインフレ下の特殊なる事情ではある。しかし目下の情勢においてはインフレはもっともっと進行し、その停止までの期間は相当長く、たとえそれが停止して安定の時代が来ても、一旦下がったサラリーがそう高くなること、少なくとも工場労働者の賃金に比して高い地位に昇ること、特にその上級のそれが彼らの何倍かに上るようになることは、なかなか考えられない。

もちろん、大内兵衛氏は立派な「左翼」ですから、

>私はそのことが、日本デモクラシーにとって必ずしも悪いことのみを約束するものとは思わない。

とはいうのですが、東京大学経済学部教授としてインテリたちを世に送り出す立場として、

>いかなるインテレクチュアルな職業も、概して人間の生活に対する生活費を与えない社会において、文化などというものが栄えるとは考えない。と同時に、文化なきデモクラシーなどというものも可能だとも私は考えない。私は、戦争とインフレーションの社会的意義の一断面が、ここに露呈していると考える。

「ここに露呈している」のは、戦争とインフレの社会的意義だけではなく、大内兵衛というマルクス主義経済学者の階級的立ち位置そのものでもあるように思われます。

私は、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hrm.html

の中で、戦時中の統制から戦争直後の労働運動によって、工員と呼ばれたブルーカラーと、職員と呼ばれたホワイトカラーの身分差別が縮小していったことを様々な観点から説明していますが、その視角はもっぱらミクロな職場と国や労働運動といった政策主体に当てられていて、インフレーションというマクロ経済環境がいかにその「大転換」を促進したかという側面については触れていませんでした。

この大内氏の小論は、このあたりの関係を非常に良く照らし出しているように思われます。

労働契約法案修正事項

昨日の読売の記事は、全くの間違いではなかったようです。全くの間違いではないというのは、確かに労働契約法案の期間の定めのある労働契約の条項に若干の修正がされているからです。その修正というのは、

>第四章 期間の定めのある労働契約

第十七条 使用者は、期間の定めのある労働契約について、やむを得ない事由がないときは、その契約期間が満了するまでの間において、労働者を解雇することができない。

>第四章 期間の定めのある労働契約

第十七条 使用者は、期間の定めのある労働契約について、やむを得ない事由がある場合でなければ、その契約期間が満了するまでの間において、労働者を解雇することができない。

と修正しているんですね。

一体法令用語としてこの二つにどういう違いがあるものなのか、この修正を担当した衆議院法制局の方に是非伺いたいところであります。

実は、それよりも実体的な修正事項があります。ひとつめは、これはほとんど目につかないところですが、第7条で、

>使用者が合理的な労働条件が定められている就業規則を労働者に周知させた場合には、労働契約の内容は、その就業規則で定める労働条件によるものとする。

>使用者が合理的な労働条件が定められている就業規則を労働者に周知させていた場合には、労働契約の内容は、その就業規則で定める労働条件によるものとする。

と修正しています。予め事前に周知させていた場合でなければダメだよ、あとから周知させたんじゃダメだよいうことですね。

それから、第14条(出向)の第2項を削除しています。

>前項の「出向」とは、使用者が、その使用する労働者との間の労働契約に基づく関係を継続すること、第三者が当該労働者を使用すること及び当該第三者が当該労働者に対して負うこととなる義務の範囲について定める契約(以下この項において「出向契約」という。)を第三者との間で締結し、労働者が、当該出向契約に基づき、当該使用者との間の労働契約に基づく関係を継続しつつ、当該第三者との間の労働契約に基づく関係の下に、当該第三者に使用されて労働に従事することをいう。

という出向の定義規定が落ちたわけです。これはどうも労働者派遣との関係を考慮したもののようですね。

その他にもいくつか細かい修正があります。

2007年11月 7日 (水)

最賃法・契約法修正成立へ

各紙とも報じています。まず朝日ですが、

http://www.asahi.com/life/update/1105/TKY200711050328.html

>今国会で審議中の最低賃金法改正案をめぐる与党と民主党の修正協議が5日、まとまった。民主が、労働者の生活を守る安全網という最低賃金の目的をより明確に書き込むよう求め、与党も応じた。同時に修正協議をしてきた労働契約法案も大筋で合意しており、両修正案は7日の衆院厚生労働委員会で可決される予定。政府・与党は1カ月程度の会期延長方針を固めており、今国会で成立する見通しだ。

 最賃法の修正協議では、民主党が対案の目玉とした「全国一律の最低賃金制度の創設」を断念。かわりに、最低賃金の基準を「労働者と家族の生計費」に求めた対案の基本原則を政府案に反映させるよう求めた。最終的には、最低賃金を決めるときに考慮する要素として、「労働者が健康で文化的な最低限度の生活を営めるようにする」との趣旨を政府案に明記することで折り合った。

 雇用の基本ルールを定める労働契約法案では、労働契約の原則として、パートや派遣といった就業形態にかかわらず「待遇について均衡が図られるようにする」との趣旨を政府案に加えることで合意した。民主は対案では「均等待遇の確保」を求めていたが、自民が「使用者側の反発が強い」と難色を示し、「均等」より弱い「均衡」の表現で一致した。また、ワーク・ライフ・バランスの実現に向け、「仕事と生活の調和の確保」の文言も加えることにした。

 労働基準法改正案は、月80時間超の残業の割増賃金を現行の25%以上から50%以上に引き上げる政府案に対し、民主がすべての残業を対象とするよう要求。調整が難航している。

これが、ほぼ正しい状況説明でしょう。

労働契約法の方は特に、今回を逃したら立法のチャンスはなかなかめぐってこないでしょうから、骨と皮だけであっても、こういう形でちゃんと法律の形にしておくことが重要です。

読売が変な記事を書いています。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20071106i217.htm

最賃法のところははいいんですが、

>労働契約法案の修正は、有期雇用の労働者を契約期間中に解雇する場合は、「やむを得ない事由がある場合でなければ」解雇できないと修正したことが柱だ。使用者側が解雇の理由を説明する必要がある。

をいをい、それは政府原案に最初から書いてあるよ。

http://www.shugiin.go.jp/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g16605080.htm

>第四章 期間の定めのある労働契約

第十七条 使用者は、期間の定めのある労働契約について、やむを得ない事由がないときは、その契約期間が満了するまでの間において、労働者を解雇することができない。

ナベツネさんも、政局を動かすのもいいけれど、読売新聞の労働記事の質の向上にも配慮いただければ・・・。

司法研修所で講演

昨日、司法研修所で講演してきました。内容は、労働政策の基軸の話で、いままであちこちで話してきたのと同じなので省略しますが、講演のあとの雑談で、昨年は講師に大竹文雄先生を呼んだのだが・・・という話が大変興味深いものでした。

大竹先生、例の福井秀夫先生と一緒に出した脱力じゃなかった脱格差本の解雇規制が雇用に与える影響の「実証分析」を披露して、自信たっぷりに解雇規制の問題点を指摘したところ、並みいる裁判官たちから猛然と反発が噴出してけっこう凄かったそうです。

まあ、法律専門家の目から見たら、「季刊労働者の権利」で労働弁護団の方が批判していたように、「粗雑、無謀、安易な分析手法」ということになるのでしょうね。

ただ、逆に言うと、法律専門家の眼差しはあまりにも個別労働者にも見向きすぎていて、「木を見て森を見ず」に陥っている危険性もあるわけです。

まあ、大竹先生の分析(あるいは理論経済学者の分析手法一般)は「森を見て木を見ず」というよりも、「現実の木も森も見えておらず、地図上の森の記号を見ているだけ」という嫌いがなきにしもあらずなので、法律家からはとても我慢できないところがあるのは確かなのですが、とはいえ、現実の木は一本だけでそそり立っているわけではなく、森という生態系の中で、森を構成する木々の一本として存在しているわけなのですから、森の状況を抜きにして、一本の木の権利のみを抽象的に取り出すこともまた、現実の木の扱い方としていささか問題があるのも事実なのですね。

その意味では、森を森総体として見つつ、その中で個々の木の有り様を見る視角が必要なわけで、政策論的発想というのは、そういう意味で法解釈学的発想をいささかなりとも中和する効果があるのではないかと思っています。

2007年11月 6日 (火)

少年家庭省

冗談でしょ、といいたいところですが

「少年家庭省」創設提言へ・教育再生会議

http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20071106AT3S0501E05112007.html

教育再生会議(野依良治座長)は5日、子供や家庭が抱える問題を総合的に支援する体制を整えるため、少年家庭省(仮称)の創設を提言する方向で検討に入った。児童虐待、いじめといった子供が抱える問題の多様化を踏まえ、各省庁に分散する子供、家庭向けの機能を統合。一元的に指導・情報提供できる組織が必要と判断した。

 再生会議は6日の合同分科会で、問題を抱える子供や家庭に対する関係省庁の連携策を議論。年末にまとめる第三次報告に新組織創設の提言などを盛り込む方向だ。

 現行の子供や家庭の問題に関する機関では、法務省が所管する少年鑑別所、厚生労働省が所管する児童相談所、文部科学省が所管する教育委員会などがあるが、連携不足が問題となっていた。再生会議では縦割り解消に向けた少年家庭省のほか、子供の権利保護や紛争解決のための少年家庭審判所(仮称)の創設検討も打ち出す。

またこういう、思いつきの横割り官庁構想を・・・。

そういうのはいくら作ってもホッチキスの売り上げを伸ばすだけなんですが・・・。

まあ、この再生会議の人たちの頭の中にある「子供や家庭が抱える問題」というのは、どうも「心の闇」とかいうシリーズのようで、その中には社会的病理とか労働問題というのはなさそうですが。

知識階級供給過剰

昭和6年4月22日という昭和初期のドツボの時代に、政府の失業防止委員会がこういう決議をしていたというのも興味深いところです。

平成の今日にどういうインプリケーションがあるかというようなことは、読者それぞれにお考えいただければ・・・。

(以下、カタカナをひらがなに直しておきます)

知識階級ノ失業ニ関スル決議

我が国現下の知識階級失業問題は一般知的労働者の失業問題の外中等程度以上の学校卒業生の未就職問題を併せ包含しその国家社会に及ぼす思想的影響極めて大なるものあり。これが解決は国家緊要の一案件たり而してこれが原因は一面財界の不況に基づく就労機会の欠乏と他面我が国における中等程度以上の教育に対する国家の制度並びに一般国民の態度が時世に適合せざるものあるに起因するところ少なからず。ゆえに我が国知識階級失業問題に関する対策は一にしてとどまらずと雖もこれが根本的解決をなさんと欲せば一には産業各方面の振興を図りて労働需要の増進を促すとともに進んで教育制度の改革を断行し教育観念の是正を企図し以て知識階級供給過剰の源を塞がざるべからず。

第一、教育制度の改革並びに教育観念の是正に関するもの

学校の種類、数、配置及び学校教育の内容を社会の需要に適合せしめ以て教育の実際化を図るとともに、一面学校卒業に付随せる特権中時世に適合せざるものを廃止し各学校が徒に他の上級学校の準備機関たるにとどまるの弊を矯め、以て高等教育機関に対する過当の集中を抑制し、他面学校卒業生及びその父兄をして知識階級に伴う伝統的特権意識に煩わされることなく広大なる分野に職業を求むるの態度を持たしむること。

第二、産業の振興なかんずく国産奨励に関するもの(略)

いやあ、戦前から日本の教育ってのは職業レリバンスがなかったわけですね。「知識階級供給過剰」ってのはいささかひどい言い方だと思われるかも知れませんが、いやもちろん深くて豊富な知識を持った労働者が増えるのはいいんですが。

2007年11月 5日 (月)

教員採用試験、合格点に男女差

琉球新報の興味深い記事

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-28596-storytopic-1.html

>2008年度の県内公立学校教員候補者選考試験の採点ミス問題を受け、県教育委員会が初めて公表した教科ごとの合格点一覧で、小学校など3教科で男女の合格点に差をつけていることが分かった。「小学校」では女性の合格点は249点だが、男性は232点で女性の方が17点高く設定されている。県教委は「男女の(ニーズの)バランス」などを理由に挙げるが、受験者や関係者からは「同じ扱いにすべきだ」と疑問や戸惑いの声も上がっている。
 「小学校」以外では、中学校保健体育の合格点は男性219点、女性198点で男性が21点高い。高校保健体育は男性219点、女性226点で女性が7点高い。
 県教育委員会は、小学校や中・高保健体育は「知識だけでなく、男女の特性が必要な職場」と説明。その上で「その年度に退職した男女の割合や学校現場のバランスを考慮して選考している」と述べ、男女とも最終合格者数の1・3倍の受験者が一次試験を合格するとした。
 合格した男性より点数が高い女性が不合格になったり、その逆の現象も起きており、受験者からは不公平感を訴える声も出ている。「小学校」を受験した女性(30)は「男性が必要なのも分かるが、同じ気持ちで頑張っているので同じようにみてほしい。教育現場では性差より熱意が大切ではないか」と疑問を投げ掛けた。
 男女雇用機会均等法第5条では、筆記試験や面接試験の合格基準を男女で異なるものとするなど、募集や採用で性別を理由とする差別を禁止している。しかし、地方公務員などは、地方公務員法第13条で「平等取扱の原則」が規定されているため、均等法5条は適用除外となっている。

これはどうみても差別的取扱いでしょう。いやもちろん、中学校や高校の保健体育なんかは、性別が真正職業資格というのはありだろうとは思いますけど、それ以外で男女に正当なニーズの差があると言えるのかどうか。

うむ、しかし、最大の問題は、こういう差別は男女雇用機会均等法には反するけれども、地方公務員法第13条には違反しないと解されているらしいことですね。だとすると、公務員法に平等取扱い原則が規定されているから均等法を公務員に適用しなくてもいいという論拠が崩れてしまうわけで、その影響は大きいのではないでしょうか。

ITフリーターの採用増

読売の記事ですが、

http://job.yomiuri.co.jp/news/special/ne_sp_07110501.cfm

>アルバイトで生計を立てている「フリーター」の職業訓練を支援する制度「日本版デュアルシステム」を活用し、フリーターを社員に採用するIT(情報技術)企業が増えている。IT業界は、景気回復に伴って企業からのソフト開発の受注が増加しており、フリーターを登用することで、慢性的な人材不足を解消する狙いがあるようだ。

こういう形でフリーターが労働社会の主流に包摂されていくというのがもっともフィージブルな姿なのでしょう。

学者の議論からすると、

>玉川大学の坂野慎二・准教授(教育学)は日本版デュアルシステムの効果について、「フリーターなどに就職する機会を提供する点で、一定の評価はできる」としながらも、「社会で通用する実践的な能力が身についているかは疑問が残る」という。

>そのため、「今のような受け入れ企業のニーズに応じた研修プログラムではなく、研修を受ける業界全体に共通するプログラムを組んだ方が、他の会社に採用される可能性も広がる」と、なお改善すべき点があると指摘している。

ということになりがちなんですが、逆に「受け入れ企業のニーズに応じた研修プログラム」だから、受け入れているという面があるわけで、「業界全体に共通するプログラム」にとどめてしまうと、今度はその人を採用しようという意欲が減退する効果をもたらすでしょう。

これは一種の試用期間なのであって、現在日本においては教育訓練というのは基本的にオンザジョブでしかありえないという現実を踏まえた制度なわけです。

(追記)

労務屋さんが同じトピックを取り上げていますが、

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20071105

上の教育学者のコメントに食いついて、

>現実を無視して理念ばかりを振り回す教育学者では、政策決定の場面でプレゼンスを発揮しえないのも致し方ないのではないでしょうか。以前のエントリでも書きましたが、教育関係の懇談会やらなんやらが教育学者ではなく専門外の有識者を多数起用せざるを得ないのもそこに一因があるのでは。もちろん、それでいいとも思えませんので、日の丸がヘチマとか侵略戦争が滑った転んだとかに血道を上げているような教育学者(藤岡信勝みたいなのも含めて)ではない、現実的で建設的な議論のできる優れた教育学者が増えてほしいものです。まあ、この記事のコメントからここまで話を広げるのは、これはさすがに話を大きくしすぎかもしれませんが。

私はそこまでは言っていませんが・・・。

NOVA商法

NOVAの破綻が様々な波紋を呼んでいます。

その中で、「NOVAとの派遣契約を解除 大阪市教委」

http://www.asahi.com/special/071027/OSK200711010029.html

>会社更生法適用を申請した英会話学校大手NOVA(大阪市)から英語講師の派遣を受けていた大阪市教委は1日、NOVAとの契約を解除したと発表した。

という記事があったんですが、NOVAは労働者派遣法に基づき労働者派遣事業を行っていたんでしょうか。寡聞にしてそういうことは聴いたことがありませんが。

おそらく、この「派遣」は広辞苑的意味における派遣であって、NOVAと大阪市教委の間の契約は労働者派遣契約ではなく業務委託契約なんだと思います。そして、大阪市教委は直接NOVAの英語教師を指揮命令したりせず、それゆえ「偽装請負」でもなかったと思われます。

しかし、だとすると、

>一方、外国人講師の一部が加入する労働組合「ゼネラルユニオン」(同市)のメンバーが1日午前、大阪市役所前で講師らの救済措置を求める集会を開き、講師を直接雇用して英語の授業を再開することや市民税の減免などを市側に要望した。

というのは特段法律上の根拠のないただの「要望」ということですね。

しかしだとすると、

http://www.asahi.com/special/071027/TKY200711020496.html

>経営破綻(はたん)した英会話学校大手のNOVA(大阪市)から学校に外国人講師の派遣を受けていた自治体で、派遣契約を解除する動きがあるため、厚生労働省は、少なくとも派遣契約の残りの期間は講師と直接契約を結んで雇うよう、派遣を受けていた11自治体に文書で要請した。

というのがよく判りません。記事は「派遣契約」と堂々と書いているのですが、ほんとに労働者派遣法に基づく労働者派遣契約とは考えられないし、厚労省が文書で要請する根拠はなんなのでしょう。一般的雇用対策?

>厚労省は要請文書で、外国人講師の雇用不安や失業を「強く懸念する」と強調。学校で講師が不足する可能性にも触れつつ、これまで派遣されていた講師と直接雇用契約を結ぶなど、「特段の配慮」を求めている。

というところからすると、失業問題と捉えての要請のようです。

ただ、問題の根本はNOVA商法にあるような気がしますが。

2007年11月 4日 (日)

「食の安全」で本来考えるべきこと

私の見る限り、この問題に関するもっとも的確な発言でしょう。

http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/memo/2007/11/tbs_ce4d.html後藤和智の雑記帳

>そもそも「食の安全」が脅かされていると言われる昨今の「事件」においていったい何人の人が死んだのだろうか。こういうことを考えるのは極めて愚かなことはわかっているけれども、このような「事件」が騒がしく取り沙汰されることによって、他に採り上げられるべき問題が隠蔽されてしまう。というよりも、今この状態で集団食中毒なんて起こったら、果たしてどのような反応をマスコミはしてしまうのだろう。

>我が国においては食品の安全管理はかなり徹底されており、渡辺正が言っているとおり「普通に生活している分には何の問題もない」。さらに言うと、これらの「事件」は、ただ単に賞味・消費期限の表示が偽装されていただけで、製造工程で異常なまでの菌が入っていたなどの、真に危険視すべき情報は(少なくとも報道に依拠する限りでは)ない。

>「食の安全」で本来考えられて然るべきことは健康とリスクの観点であり、「日本人の感性が衰退した」などという反証不可能かつ左翼くずれ高齢者層の「癒し」にしかならないことを述べるのは論外もいいところだ。

新左翼

このブログにトラバしていただいている「シャ ノワール カフェ別館 あるいは黒猫房主の寄り道」の中に、こういう記述がありました。

http://d.hatena.ne.jp/kuronekobousyu/20071101

>hamachanこと濱口氏は「オールド左翼」と「リベラル左派」の違いについては言及されているが、「ニュー左翼」と「リベラル左翼」の相違への言及がないが、その辺はどうなんでしょうか?

>このhamachanさんの「左翼」定義は、正しいのだろうか? 「新左翼」に関する言及がないので、留保をしておきますが……。

とても今、新左翼の全体像について論ずるだけの準備も素養もないのですが、直感的には、新左翼とリベサヨとは根底において通底しているように感じられます。

>新左翼および全共闘のOB・OGだちがその過激さを喪失して久しいが、

といっても、その「過激さ」は初めから既に「ソーシャル」なものではなかったのではないか、と思われるのです。

2007年11月 2日 (金)

アメリカ型市場社会とは何か:日本への示唆

DIOに、ハーバード大学のマルガリータ・エステベス・アベさんが「アメリカ型市場社会とは何か:日本への示唆」という小文を寄せています。

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no221/kikou.htm

>市場と市場社会は同一ではない。市場社会には、市場の原理とはまた別の原理が存在する。経済原理としての競争がそのまま社会の公正の原理とは限らないからだ。例えば、競争に敗れた企業が淘汰されるのと、能力がない労働者が淘汰されるのは話が違う。人間はその生存の為の糧を必要とし、労働市場から淘汰された結果、食うに困り死に至る可能性があるからである。これを「社会的な効率」と考えるか否かは、当該社会が正義と公正をどのように規定しているのかにかかっている。

>ヨーロッパでのアメリカ批判の多くは、市場での競争の結果を是認するあまり、蓄財に成功した者に甘く、市場で不利な者に冷たい、というところに向けられている。これは、一所懸命働く労働者よりも株主と経営者を優遇する米企業への反感であり、と同時に貧富の格差に無頓着なアメリカ社会とその政治への反感だ。

>アメリカでは、他の先進国と比べた場合に労働者層が一層不利になる三つの要因が重なり、社会内の格差のさらなる拡大をもたらした。一つは、アメリカ製造業の市場での失敗が脱産業化のペースを速めたこと。二つ目は、人的資源の底上げを担う公的教育の欠如。三つ目は、勤労者層の為の公的健康保険の不在だ。アメリカ製造業の失敗は、低学歴層むけの安定かつ高質の雇用の急激な減少を意味した。さらに公的教育の失敗は学歴(能力)格差を広げ、より希少な高学歴層の市場価値を高めた。民間健康保険への依存は国内の大企業の人件費を早いピッチで増大させ、アウトソーシングなどへのインセンティブを強めた。

>紙面の関係上、深く論じることはできないが、これら三つの要因は貧富の格差が政治的にどう扱われるかにも大きな影響を与えた。アメリカの経験はグローバル化した市場の必然ではないにも関わらず、他の先進国に現存する社会的公正についての合意を脅かす危険性を孕んでいる。なぜなら、他国の高学歴層(そして高学歴を手中にできる恵まれた社会階層)は、自国の労働市場をグローバルな競争に晒し、公的教育への投資を低めた方が、自分たちの(そしてその子供たちの)の所得が絶対的にも相対的にも上昇することを認識し、それを目的に自国の「アメリカ化」を推進するかも知れないからだ。

>何でも市場化し、利潤動機を社会の公正の原理としているようなアメリカにでさえ、その「市場社会」を支える強固な社会規範という基盤があることは忘れてはならない。・・・その巨大な非営利民間セクターに見られるように、アメリカの市場社会は利潤動機だけで成りたっているのではない。

>欧州先進国では、アメリカの非営利の部分は、公的部門が担当している。社会の公正は、T.H.マーシャルが論じた市民の社会権として政治の場で達成され、その福祉国家の基幹となっている。これは宗教的ではない世俗的なしかし強固な規範に支えられている。規範に基づく社会権の存在は、市場化が「政府による市民の社会的尊厳の保護」と共存する形で進む可能性が高い。利潤追求とは異なる規範の強さが「ヨーロッパ的な市場社会」の将来を左右するだろう。

>日本はどうだろうか?社会的規範を巡る政治的な対立がないまま今日にいたった日本では、企業や家族のみが社会的基盤を構成し、「内輪」の人間だけが公正の原理の対象のように見受けられる。家族や企業の福祉機能の低下が避けられない今、新しい公正の原理への社会的合意の形成が急がれる。これを無くしては、恐らく日本はアメリカ以上に住みにくい国になるだろう。

この手の問題、一見経済学という価値中立的な基準に基づいて分析しているように見えて、その実は「他国の高学歴層(そして高学歴を手中にできる恵まれた社会階層)は、自国の労働市場をグローバルな競争に晒し、公的教育への投資を低めた方が、自分たちの(そしてその子供たちの)の所得が絶対的にも相対的にも上昇する」という階級的利害でものを喋っているのではないかと疑ってみる必要はあるでしょう。

彼女は、11月27日の連合総研設立20 周年記念シンポジウムに、パネリストとして出席する一人です。話がどういう方向に行くか、興味深いところですね。

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no221/annai.pdf

ワークショップ「新しい労働ルールのグランド

同じくDIOの最新号に、10月5日に開かれた標記報告会の模様が掲載されています。

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no221/houkoku_3.pdf

中味は記事に書いてあるとおりです。

2頁目の写真にパネラーが4人並んでいますが、向かって一番左のちょいと頭の禿げかけた何か喋ってるみたいに見えるおっさんがhamachanです。

福祉ガバナンス宣言-市場と国家を超えて

近く(11月初旬ということです)、日本経済評論社から、、岡澤憲芙・連合総研編『福祉ガバナンス宣言̶市場と国家を超えて』という本が出版されます。

連合総研のDIOの最新号に、その各章の中味の概要が載っていますので、ご紹介します。

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no221/houkoku_2.pdf

最初に宮本太郎さんの総論があって、その後、私を含む10人の各論が続き、最後に岡澤憲芙さんのまとめがあるという構成です。

総論 新しい福祉ガバナンスへ̶もう一つの選択肢( 執筆:宮本太郎・北海道大学大学院教授)

第1 章 生涯を通じたいい仕事̶福祉社会のコア( 執筆:濱口桂一郎・政策研究大学院大学教授)

第2 章 不平等感の高まり̶人々の意識の背後にあるもの( 執筆:白波瀬佐和子・東京大学大学院准教授)

第3 章 新たな時代の社会保障・医療政策を構想する( 執筆:広井良典・千葉大学教授)

第4 章 就労を中心にした所得保障制度( 執筆:駒村康平・慶応義塾大学教授)

第5 章 社会的公正と基本的生活保障( 執筆:後藤玲子・立命館大学大学院教授)

第6 章 女性環境の整備と福祉̶ワーク・ライフ・バランスの視点から(執筆:斉藤弥生・大阪大学大学院准教授)

第7 章 東アジアから見た日本の福祉ガバナンス( 執筆:武川正吾・東京大学大学院教授)

第8 章 福祉多元主義の時代̶新しい公共空間を求めて(執筆:坪郷實・早稲田大学教授)

第9 章 社会連帯の創造と排除(執筆:久塚純一・早稲田大学教授)

第10章 マクロの経済発展と福祉( 執筆:神野直彦・東京大学大学院教授)

終章 生活様式の変容と福祉ガバナンス̶ダイバーシティ・ウエルフェア・マネジメント(執筆:岡澤憲芙・早稲田大学教授)

どれも大変面白いですよ、と宣伝しておいて、ここでは私の書いた第1章の要約を。

>福祉社会とは貧しい人々にお金を与えることではない。社会の中に居場所のない人々に、仕事という形で居場所を与えることである。仕事さえあれば福祉社会になるわけではない。それはいい仕事、まっとうな仕事でなければならない。先行きの見通しのないどん詰まりの仕事や、低賃金で昇給の見通しもない仕事を与えるだけでは福祉社会と言えない。教育訓練を通じて技能を向上させ、賃金も上昇していくようなまっとうな仕事によってこそ、人々を社会に統合していくことができる。
これまでの日本的な「いい仕事」-専業主婦を持った男性労働者を前提にして、時間外労働や遠隔地配転を認めながら、経営危機でも正社員の雇用だけは守るというモデル-には別れを告げるべきだ。共働き夫婦が二人とも正社員として生活と両立させて働いていける仕事が「いい仕事」でなければならない。

詳しくは同書をお買い求め頂ければ、と。

労働者代表としての過半数組合

財団法人日本労働研究所が出している『日労研資料』の11月号に、「労働者代表としての過半数組合」という小文を寄せました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/nichiroukenkumiai.html

このテーマについては、ちらちらと書いてきていますが、今月出される予定の連合総研の報告書の中でかなり全面的に議論を展開しております。かなりの程度、コントロバーシャルな議論です。

2007年11月 1日 (木)

民間の失業者対策

昨日付のフィナンシャル・タイムズが、

Private sector plays growing role with unemployed

http://www.ft.com/cms/s/0/7969d75a-8753-11dc-a3ff-0000779fd2ac.html?nclick_check=1

という記事を載せています。

「民間セクダーが失業者にますます大きな役割を果たしている」って、どういうことでしょうか。

公的機関など全部潰して、みんな民間営利企業に委ねれば、あら不思議失業者はみんな居なくなりましたとさ、というネオリベ御伽噺?いやいや。

長期失業者のような困難ケースを民間企業に委ねたらうまくいっているという話です。

>「長期失業者にとっては、問題は仕事を見つけることじゃない」「多くがヤク漬け、アルコール漬けで、家族やカネの問題を抱えている」「彼らを仕事にもっていくにはこれらの問題にまず取り組まなきゃいけない」

フランスの政府職員曰く、「民間企業には、公的セクターができないような慢性的失業者へのサポートを与えることができるという認識がある」

「2年も3年も失業している人に必要なのは彼/彼女を信じる誰かなのです」

いわゆるソーシャル・エンタープライズってやつですね。下手な役人よりも、よっぽど「公共性」に富んでいるかもしれません。

こういう観点からのハローワークの見直し論議であれば、それは大いに歓迎なのですがね。

民主主義とは多数の専制である

赤木さんの本に関して当ブログにトラバいただいたきはむさんのブログのちょっと前のところに、興味深い記事が載っていました。

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20071018

>「民主主義=多数決」という考えを捨て去らねばならない。なぜなら、民主主義の本質とは「議論を尽くす」ことであるから。 …①

このネタでエントリ書くのもいい加減しつこいのだが、それでも民主主義理論は私のライフワークの一つだというアイデンティティがあるので一応書いておこう。

これまで私は、上記のような型にはまった主張を幾度となく目にしてきた。今改めて目にして型どおりのウンザリ感とともに抱かれる疑問は、彼らはなぜ「イコール」と「本質」という二つの言葉を使い分けるのだろうか、ということである。

ほとんどの「議論を尽くす」派は、多数決の必要性を否定するまでには至らない。「議論を尽くす」べきだと言いつつ、多数決無しで民主主義(民主政)が成り立つとも思っていない。彼らは、「民主主義=議論を尽くすこと」と言い切るまでの踏ん切りがつかないのだ。そう言ってしまえば、「それでは民主主義は何も決定できませんね」と言い返されるのが目に見えているからである。彼らが民主主義の「本質」云々といった、それだけでは若干意味不明の主張に落ち着くのはそのせいだろう(そこまで詰めて考えているとも思わないが)。

「民主主義=議論を尽くすこと+多数決」と主張されるなら、どれほど理解し易いだろう。けれども、このような明快な主張を採る者は少ないように思う。なぜか。私には理解しかねるが、「議論を尽くす」派にとって多数決というものは、とにかく民主主義にとってできるだけ遠ざけるべき「何か不純なもの」として捉えられており、たとえ限定的な形でも民主主義と等号で結ばれる位置に置かれることには抵抗感があるのかもしれない。

だが、過去に指摘したように、「ある価値理念にとって本質的なのは、それが必然的に否定するものと正当化するものが何であるのか、という一点である」*1。仮にある人物が自らの信じる正義に従って行動した場合に、ある局面において暴力行使が避け難いことを認め、暴力行使を「止むを得ない」ものとして容認するのであれば、それは自らの正義に基づいて暴力行使を正当化したことにほかならないだろう。この時に彼が自らの正義と暴力行使との必然的な結び付きを否定するとしたら、私はそれを欺瞞だと断ずることにいささかのためらいも覚えない*2

同様に、民主主義に従って政治的決定を行おうとした場合に、ある局面において多数決が避け難いことを認め、多数決を何にせよ「止むを得ない」ものとして容認するのであれば、それは民主主義の理念から多数決を正当化したことにほかならない以上、そこで民主主義と多数決との必然的な結び付きを否定するのは恥ずべき欺瞞である。

民主主義が最終的にせよ何にせよ多数決を「止むを得ない」ものとして正当化するのなら、それはそういう理念なのである。いかなる主張をするにせよ、まずはその点を認めてから出発して欲しい。

このへんにも、リベラルな民主主義観が影を落としている気がします。

社会民主主義というのは、もちろん物理的暴力ではなく議会制民主主義を通じてソーシャルな社会を実現していこうという思想ですが、その民主主義というのは、いうまでもなく俺たち多数を占める労働者の多数の専制でやつら少数派に過ぎない資本家を押さえつけて、「金をくれ!」「仕事をくれ!」を正々堂々と実現しようということなのですから、民主主義と多数決が必然的に結びつくのは当たり前。

もちろん、ここからはマイノリティでしかあり得ない人々の権利はこぼれ落ちてしまうわけで、だからこそ民主主義とは区別された意味でのリベラリズムには一定の意義が存するわけですが、しかしそこから何ごとも少数派の利益を優先するのが正しいことであるかのような過剰リベラルが瀰漫すると、話がおかしくなっていくのです。

「議論を尽くす」中で少数派の利益を一定程度配慮する、その上で多数決で決める、それが正当である、というところを譲ったら、もはやそれは民主主義ではないはず。

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