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2007年10月16日 (火)

個人の平等から、世帯の平等へ

丸山真男をひっぱたきたい赤木智弘さんがもうすぐ本を出されるそうで、その目次がここに載っているのですが、

http://d.hatena.ne.jp/t-akagi/20070924

「第2章 私は主夫になりたい」の中の「個人の平等から、世帯の平等へ」という節題に、おやと思いました。もちろん(まだ出ていないので)中味は読んでいませんので、どういうことを書いているかは判りませんが、私が理解するかぎり、この「世帯の平等」こそが、1930年代からの「社会主義の時代」に確立し、1990年代に「企業主義の時代」が終わるまでの60年近くの間の日本社会の正義であったものなのです。

世帯の平等が最も崇高なものとして追求される社会においては、個人の平等は二次的な重要性しか持ち得ません。亭主が正社員としてそれなりの給料を貰っているのに、その女房に高い給料を払ってやる必要なんてないだろうという守旧派的オヤジ思想は、まさに赤木さんのような存在を出すべきではないという社会的正義観念に立脚していたわけです。

逆に言うと、個人の平等を何よりも崇高な理想として追求するということは、亭主も女房もその子供たちも高学歴で高収入で世帯全体の所得はやたらに高いセレブ一家がある一方、亭主も女房もその子供たちも非正規労働で低収入で貧困家庭となる・・・ということを正義として称揚するということになるわけです。

先日の労働法学会で議論になった最低賃金やら雇用保険やらの問題も、実はここに通底しています。社会全体として「世帯の平等」が優先されている中においては、家計補助的労働への報酬は高くない方が望ましかったわけです。そういう主婦パートや学生アルバイトを前提とした最低賃金額が、その賃金で生活を成り立たせるのには到底及ばないのはある意味で当然であるわけですが、そしてそれが今まさに個人の平等という形で適用されてきてしまっているところに問題の根源があるわけですが、ではどうしますか、個人の平等を貫いて格差社会で行きますか、というスフィンクスの問いが待っているわけです。

赤木さんは(目次上)主夫になりたいと仰っているわけですが、それはまさに「個人の平等」の社会の生きにくさを物語っているのでしょうね。

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コメント

右派でも左派でもなく、「八代支持」みたいなんですけど

> 格差問題の是正を主張する人たちは、高齢者が家族を養えるだけの豊かな生活水準を要求する一方で、我々若者向けには、せいぜい行政による職業訓練ぐらいしか要求しない。弱者であるはずなのに、彼らが目標とする救済レベルには大きな格差が存在するように思える。
> 不況直後、「ワークシェアリング」などという言葉はあったが、いまだにそれが達成される兆しがないのは、誰も仕事を若者に譲らないし、譲らせようともしないからだ。若者に仕事を譲ろうとすれば、誰かの生活レベルを下げなければならないのだが、それは非常な困難を伴う。持ち家で仲良く暮らしている家族に、「家を売ってください。離婚してください」とは言えないだろう。一方で最初からシングルでアパート暮らしの若者に、結婚して家を買えるだけの賃金を与えないことは非常に簡単だし、良心もさほど痛まない。だから社会は、それを許容する。
> 結局、社会はリストラにおびえる中高年に同情を寄せる一方で、就職がかなわず、低賃金労働に押し込められたフリーターのことなど見向きもしなかった。最初から就職していないのだから、その状態のままであることは問題と考えられなかったのだ。
(赤木智弘)「丸山眞男」をひっぱたきたい
http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama.html

> 私は平和への執着こそが、我々弱者を貶める原因ではないかと「論座」1月号で書いた。このときの「平和」という言葉は、単なる戦争の対義語ではなく、いわゆる「平和な家庭」などというときの平和、すなわち「好ましい安定性」という広い意味で使っている。
> いくら右派が責任を持つフリをしたとしても、しょせんは左派と同じ穴のムジナだからだ。左派が我々に不利益を押しつけるのと同じように、右派はナショナリズムをもって、マイノリティーに不利益を押しつける。
> 結局、自分以外の他者に不利益を押しつけようとする卑劣な姿勢は、右左両派ともに同じである。いわばどちらも、特定の誰かの平和を維持するために、別の誰かに不平等を押しつける「平和・不平等」の考え方に立脚しているといえる。
(赤木智弘)けっきょく、「自己責任」 ですか
http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama2.html

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