フォト
2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ

« 個人の平等から、世帯の平等へ | トップページ | 高学歴ワーキングプア »

2007年10月17日 (水)

権丈先生 in 社会政策学会

去る日曜に、社会政策学会において、権丈先生が民主党批判を炸裂させていたようです。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/sssp2007.pdf

学会のHPに載っている報告要旨が既に相当程度炸裂していましたが、

http://wwwsoc.nii.ac.jp/sssp/115taikai_program.pdf

>2004年の参院選来、年金が政争の具となって3年がすぎた。その間、年金不信は国民にしっかりと浸透したようである。その一方で、年金を政争の具として政府に揺さぶりをかけてくる民主党は年金改革の具体像を示そうとせず、逃げに逃げを打って自らの年金案が国民の批判に晒されることを避け続けてきた。2004年「年金選挙」での勝利以降、2005年の郵政民営化選挙時は民主党の「年金選挙」は大敗したが、今日、一応の成功を見せている。
報告では、先ず、民主党がここ3年ほど、年金を政争の具としていかに卑怯で姑息な政治戦略をとってきたか、その結果、年金内外の重要な政治案件をいかに締め出し、そのことがこの国の行く末にいかなる影響を与えつつあるかという、この国の野党としての彼らの罪について論じる。のみならず、健全な政治を育むべき、かつ育むことのできる位置にあるメディアが、この国で果たしてきた役割についても触れたい。

こちらの詳細版ではさらに批判の矢が鋭くなっています。内容的には、権丈先生が今まで勿凝学問シリーズで書かれてきたことの総まとめみたいな感じです。

社会保障財源を租税で租税でという議論の落とし穴をユーモラスに風刺した次の文章などは、是非「普通の経済学者」の方々に熟読玩味していただきたいところです。

>社会保障制度の財源として租税に頼るということは、長期的にみれば(動態的にみれば)、財源調達力が弱い財源に頼ることになり、結果、制度の安定性が落ちることを意味する。
われわれが社会保障制度によって生活の基礎的部分に必要となる資源を、社会から優先的に確保したいと考えたとする。この時、その制度を構築し、守っていくために、厚生労働省に頼るのがよいか、それとも財務省に頼るのが安心できるのか、いずれに頼るのがましなのか――社会保障制度設計における社会保険と租税の選択というのは、そういう側面をもつ問題なのである。厚労省も財務省も、ともに自省の省益を守るのに必死で、国民の生活など考えていないのかもしれない。しかしながら、かりにそうであっても、安心した生活ができるために社会保障の安定した給付を実現したいと望む人たちが制度設計の際に重視すべき視点は、彼らのエゴにもとづく彼らのビヘイビアーが、いかにわれわれ国民、生活者の希望に調和するビヘイビアーなのかを見極めようとする視点である(こうした視点は、動機が利己的であっても結果が予定調和になる可能性を説いた経済学の祖、アダム・スミスの視点を真似ているだけであり、決して、厚労省や財務省が省益を守るのに必死であると言っているわけではないことに注意されたい・・・)。ところがほとんどの人には、図8における第Ⅳ象限が念頭になく、結果、制度の普遍性と財源調達力(制度の安定性)がトレードオフになっているという、制度選択の制約条件がみえていない。よって、租税に頼ればなんとかなる、憲法25 条があるのだから社会保障財源は租税たるべしという論がいたずらに導かれているように見受けられる。
この意味でわたくしは、租税に頼る、つまり財務省が制度の有り様に口出しできるスキを大きくすればするほど、その社会保障制度は、強い給付抑制圧力のもとに置かれることになり、制度が不安定になるとみている。もっとも、こうした読みは、社会保障制度に関する歴史的な知識、および国際的な知識に基づいて形成されるものであり、そうした知識の濃淡によって、読みそのものが異なってくる。わたくしの経験では、社会保障に関する歴史的国際的な知識が薄い人ほど、社会保険と租税が同じものにみえる傾向があるようにうかがえ、それは普通の経済学者に特に顕著にみられる傾向である。

ちなみに、最後のところにシンポジウムの最後の発言が出ていますが、これはどう解釈すべきなのでしょうか。

>朝9 時半から夕方4 時半までという信じられないほどに長いシンポジウム。
最後に、シンポジウムで司会の労をとって下さった玉井先生が、わたくしの「次の選挙も、その次の選挙も、民主党が政権をとって彼らのいい加減さが暴露されるまで、年金選挙がつづきます。そうすると、他の重要な、医療とか介護の問題は、永遠に争点になることはできません」の言葉について、出席者にこのことをよくご理解下さいと念を押して下さいました。わたくしも、「みなさまに、この点をご理解いただけるだけで、東京から来たかいがあります」と結び、終了。

« 個人の平等から、世帯の平等へ | トップページ | 高学歴ワーキングプア »

コメント

普通の経済屋さんは分離させようとするんでしょう。

>財源調達力が弱い財源に頼ることになり

弱くて結構。それは「あくまで基礎部分に過ぎない」のだから、それ以上の部分は…

それなりに首尾一貫している。

何を以って安心と感ずるかは一様ではない。その共通部分を取って基礎的部分とするのであるから、多くの人(すべての人でないけれど)にとって基礎的部分で不足なのは自明である。しかし、仮定によって、その足りない部分には共通性がない。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 権丈先生 in 社会政策学会:

« 個人の平等から、世帯の平等へ | トップページ | 高学歴ワーキングプア »