濱口氏:つまり、多分NPOの中にどこまで入るかという議論だと思うんですが、ヨーロッパでソーシャルエコノミーというときに、あれは、アソシエーションとコーポラティブとミューチャーティブと3つあって、実は、あとのふたつっていうのはみなさまのためにやっているんじゃなくて要は自分たちのためなんですね。それは、利潤を追求するということが目的じゃない、というだけであって、要は自分たちのためにやるということがひとつの事業としてやっているわけです。だから、まあ、そういう意味では変な話、どんな条件であろうが、それを人に使われるんじゃなくて、自分たちで事業を共同してやっていくということの、ある意味では“対価”だと思うんです。
つまり、ボランティア的な話っていうことで、今、出たように、「受け取らない部分は寄付だ」というは、ちょっと聞くと美しいんですが、それって、例えば新興宗教の論理と何が違うんだろうか、と。
ちょっと突き詰めていくと、ディーセントワークっていう議論、つまり、労働者がまっとうな働き方をしていくという話と根っこのところで違う議論なのかな、と……。それがこの一番最初の、「新たな社会連帯」ということで、それがつながっていくのかも知れませんが、そこのところをどういう風に接合させるかというのは多分すごい難しい問題なんだろうなというふうに思うんですね。
労働組合というのも実はボランティアでもなんでもなくて実は自分たちのための活動なんですよね。で、隅では多分、協同組合とか、基本的には同じで、それが特定の局面で活動しているのが労働組合なんですが、広い意味での市場メカニズムの中で利潤追求ではない活動ということで、多分、ある程度整理できると思うのです。でも、ボランタリーな活動というのはさらにそこの土俵をさらに越える話なんですね。ボランタリーな話とディーセントワークっていうは、どういうふうに話をつなげるかというのは、正直言ってちょっと私自身なかなかよくわからないところがあります。そこはむしろ、どう考えるのかな、というのが……
濱口氏:まさに、いろいろ概念が、広かったり狭かったりしているんで、私もどこでどう……非常につかみ所がない議論だと思うのですが。
例えば、いわば外側の、別にボランタリーな話ではなくて、まさに自分たちの共同の利益を追求する組織なんだと、ある意味割り切ってやっていく議論というのは、それもまさに国でもなければ、営利企業でもない、という意味では第3の領域であるのは確かなんです。ただ、逆に言うとそれというのは、市場の中で、勝ち抜いていかなくてはいけない、という意識を持って、実は、営利企業並みに、あるいは、営利企業以上にバリバリとやっちゃう可能性もあるし、実は、多分今、生協とか何とかというのは、むしろそういう状況なんだろうと思うんですね。県の境を越えて、どんどんやっている。しかし、だとすると、それは、例えば、ダイエーとか西友と何が違うのか、という話になってくるわけです。
じゃあ、労働関係から言うと、ある意味話はすごく簡単で、要するに、共同利益の組織だからといって、別に特別でも何でもないわけで、そこも同じようにディーセントな働き方が出来るようなものでなければいけませんね、ということで、逆に言えばすっきりするし、それを実現するためのメカニズムがより民主的なメカニズムとしてあるかどうかという議論になって行くんだと思います。やっぱり、コアな部分。市民活動一般じゃなくて、非常にボランタリーな、ある意味で、それによって自分たちが利益を得るんじゃなくて、“世のため人のため”的なところのある活動というのと、雇用労働者としてのディーセントな条件をいかに守っていくのかというのは、なかなか難しい話になっていくという……
濱口氏:いや、そうなんですが……ちょっと、意味合いが少し違うかなと……
濱口氏:いや、むしろその点についていうと、私の認識ではディーセントワークというのは、──基本的にはILOのソマビアが言い出して、ずっと使われている言葉なんですが──むしろ、ターゲットは、特に先進国というよりも途上国のインフォーマルセクターの、ディーセントでない働き方というと頃を射程に入れるための概念なのかな、と。そういう意味では、確かに狭い意味でも雇用労働に限られたものではなくてもっと広い意味だと思うのですが、インプリケーションとして、むしろここで言われているのは、コミュニティーワーク的なものを、ポジティブにとらえて言っている言葉なのかな、というところが、ちょっと……なんというか、若干、ちょっとアレかもしれません……。まあ、ディーセントワークという言葉自体いろいろなところで使われているのアレなんですけど……
濱口氏:確かに、結構、日本は寄付文化が足りないから、というのは結構昔から言われるのですが……。ただ、対談ですので、あえて、話を面白くするために言うんですけれども、寄付が盛んな国、というのはアメリカで、何で、アメリカは寄付が盛んなのかというと、市場でたくさん儲けた大金持ちがいて、そういう人がビル・ゲイツだの、なんだのみたいに、ボカスカボカスカ寄付したり、あるいは、ジョージ・ソロスみたいに……。
それは確かに美しいのかもしれないけれども、実は日本でそれをやった人っていうのは笹川良一であって、そういう、“ソロス・笹川良一”型の寄付で大々的に慈善をやるっていう社会のモデルって、本当にいいモデルなんだろうか、という疑問も、正直言ってないわけではないんですね。
それで、うまく回ればそこで働いている人たちの仕事振りも確かにそれはディーセントになって、下手にマーケットでヒーヒー言っている人よりもすごくいい、ディーセントな働き方になるかも知れないけれども、それを社会全体として、“こっちでいっぱい稼いだお金がそっちになだれ込む”というような仕組みは、それが社会連帯なんだろうか……。まあ、確かにひとつの社会連帯なんでしょうが、その社会連帯のあり方を日本が目指すのかなぁ、という、ちょっと、素朴な疑問もあります。
それからさっき言った、フルタイムの人、パートの人、有償ボランティアの人、無償ボランティアの人、など、要は、就業形態が多様化しているということですね。これを、普通の営利企業で就業形態が多様化しているといった時に、たしかに企業側は「これはみなさんがそれぞれにボランタリーにいろんな働き方をお選びになった結果、こういう風になっております」という言い方をしますけれども、「なに言ってやがるんだ。お前ら金をケチるためにやっているんだろ」という話にどちらかというと行くんです。
だけど、特に、介護みたいに公的部門も民間営利部門も、そして、この市民部門も、みんなそれぞれ、実は物理的に言うと、同じことをやっているという中にそれを置いてみると、──すごくいやらしい言い方をすると──民間企業では要するに労働法の規制がゆるいとは言いながら、まだあるのでそこまでは出来ない、というのをこの市民事業だから、有償ボランティアだ、無償ボランティアだと言って、よりチープな労働力を利用できているんじゃないか。営利部門はそれが出来ないから、コムスンみたいにインチキをしなくてはいけないんだ、という、──すごく皮肉な言い方ですけどね──実はそういう面も……。
だとすると、これは実は……たしかに世の中には絶対に民間営利企業が入っていかないようなジャンルの活動というのは確かにあって、それは、誰かがやっぱりやらなくてはいけない。そこはある種の、燃えるような使命感とすべての時間をそれに費やす切々たる気持ちとか何とか、そういうものが必要になってくる領域は確かにあるとは思うんです。が、NPOがいいものだ、ということで、実は民間営利企業と同じような領域にうかつに入っていくと、民間営利企業をやっていたら、「なにいってるんだ」というような話を、非常に美しくやってしまうような話になっている念があるのかな、と思えます。
実は最近読んだ本で、介護の現場での若者の労働者のことを書いた、新書版の本で、その中に、パートの中年女性について書いてあって──その人たちにパートなので、一応労働者なんですけれども──しかし、要は、家計補助的な働き方で、本人たちはかなり、社会貢献的な気持ちでパートで働いている。ところがそこで働いている若い人たちは、そういう非常に低い賃金水準でやらざるを得ないので、なかなか生活が立たない。まあ、広い意味での、今の若者の裨益問題の一環としての問題提起なんですが。民間の部門で言えばいわば「企業の営利追及のためにこんな問題が起こっているじゃないか」という、問題の立て方になる問題が、なまじ、NPOというかたちをとっているために美しくされてしまっている面が結構あっているような気がしています。
これ、なかなか難しいんですが、ひとつの決着は、民間と競合するようなところに何でもかんでも入っていかずに、本来的なところだけでやったほうがいいな、というのもひとつの考え方でしょうし、もうひとつは、NPOであろうがなんであろうが、そこで働く人たちに対する社会的責任というのは同じであるはずだから、──CSR(Corporate Social Responsibility)という言葉がありますが、「C」は「Corporate」ですが──別に会社だけじゃなくて、およそ、NPOであろうがなんであろうが、そこで働く人に対するCorporate Social Responsibilityというのはあるはずで、それはむしろそちらでイコールフッティングをしていくという方向もひとつのものかもしれない。
ただ、その議論を突き詰めていくと、いったい、こういうボランタリーな活動というのが出発点にあるはずなので、それはいったいなんなんだ、というところで、多分引っかかってくるものがあるんだと思うんですね。だから、非常に私も、スパッと切れないし、そもそもスパッと切れる話ではないと思うんです。「第3の仕組み」、「第3のシステム」「第3の領域」というのはすごくわかりやすくて美しい、いい言葉なんだけれども、「第3の領域だ」と言ってしまうことによって、実は、それは本当は「第3」ではなくて、「第2」であったり、「第1」であることもありえる。そうであれば、「こういう問題点もあるじゃないか」というものがかえって見えなくしてしまう。とすると、広く「第3の領域」っていう風にいってしまうことに対して、むしろ「いいんでしょうか」というふうな、ある種ブレーキをかけるようなことも必要なのかな、という感じも持っております。
濱口氏:はい。おっしゃることは多分、すごくわかります。例えば自己実現とか自己決定というものを、近代社会の中で一番体現しているのはなにかというと実は、市場の競争で勝ち抜いた企業家なんですよね。多分、まさに、折口さんとか何とかが一番、自己実現して自己決定しているだろうと思うんです。
いわゆる、NPOなどの市民活動の中で、そういう側面が一番強いのは、今言われた、環境NGOだとか、人権関係だとかなんですね。また、あるいは、福祉の中でもいわゆる、障害者のための権利を擁護するためのいろんな運動をやっているとか、ある種、運動体的なところ。こういうものは、まさに、活動自体がボランタリーな活動そのものであるし、そもそも、そんなことに、ADQが口を突っ込んでくるはずはありえないし、ある意味、活動そのものが、社会の中に自分たちが正しいと思うものを実現していくという意味での、自己実現そのものだろうと思うんですね。
ところが、そこがだんだんひろがっていって、例えば、転じて、高齢者を介護をするとか、お世話するとかいう話になってくると、それを自己実現とか──そういう面があるのは確かなんですが──実はそれが自己実現であることが労働者としては、極めて、ディーセントでない働き方の状態を、人に対してだけでなく自分自身に対してもジャスティファイしてしまうようなメカニズムが働いてしまうのではないかと思うんです。それで、さっきから同じところの周りをグルグル回っている感じがするのですが、そこのところをどこで線を引いて仕分けをするべきなのか、というのが、この問題のある意味、永遠の課題なのかなと思います。
寄付の話にしても、多分、まさに環境団体や人権団体とか、そういう一種のアドヴォカシー的な団体であれば、まさにそういうものだろうと思うんですね。そもそも企業がそういうところにガバッとお金を出すはずもないし、それこそ、心あるひとりひとりから少しずつでもお金を出してもらって、それを基に活動していくというのが基本的なパターンだと思うんです。これは楕円のひとつの中心であることは確かなんですが、やはり、この辺というのは限りなく、マーケットメカニズムの中で行なわれていることと重なっているんですね。
突き詰めると、例えばコムスンで働いているケアワーカーと、NPOで働いてるケアワーカーと、物理的には同じことをやっているわけで、多分、もっと言うと、介護を必要なお年寄りのために一生懸命にやるというその思いについ
ても、実は、ほとんど差はないはずだと思うんですね。しかし、そこを利用して、ディーセントでない働き方がまかり通ってしまうのならば、やはりそれは、社会の仕組みとしてサスティナブルではないのです。ですから、そこは逆にいうと、“市民活動”とか、“市民社会”というかたちで、大きく括ってしまっていいのかな、という疑問がどうしてもそこでぬぐえないところがあります。
濱口氏:私は、ある意味で、それはすごくシンプルで、労働組合が労働組合である以上、それは職場に根ざした協同性でしかありえないだろうと思います。
実は今の問題は職場に根ざした共同性といいながら同じ職場で働いている人と、実は、そもそも協同の手が伸びていない、連帯していない、そこに居るのにいわば見えない人のようになっていることはおかしいんじゃないの?というところから、協同性をいわばもう一度再構築することしかありえないだろうと思うんです。また、逆に、人間というのは目の前に居るものすら見えないような人間が、見えない人間のことまで協同性を伸ばすということが、そもそも出来るのかな?と思うんですね。私は、人間というのはそんな大層なものではないし、そういうことが出来る人間というのは数少ないかもしれない。そしてもっと恐ろしいのはそれが出来ない人間が出来ると思い込んで、マクロな協同性を振り回すのは実はすごく恐ろしいことで、多分、そこからある種のナショナリズムとか、ショーミニズムとかっていうのは生まれてくるはずだと思うんですね。だから、あまりそういうことをしない方がいいんじゃないかなと……。自分の周りから少しずつやっていく、というのが人間の身の丈にあった連帯であろうと、基本的には思っています。
濱口氏:いや、すごく主要な議論だと思うんですが──どういったらいいでしょう──労働組合というのが企業の社会的責任──ここで言う社会的責任というは、中に対するものではなくて、もっぱら、考えているのは、外に対するものですよね?──それを追求する主たる主体であるべきだ、というのは、議論としては美しいし、もっともかもしれないんですが、本当にそうなの?っていうところがあって……。
つまり、それはある意味で、労働組合って、最初やりましたよね?自分たちの利益のためなんですね。で、今、問題になっているのは、“自分たち”っていうのはどこまでなの?っていう話だと思うんですが。その労働組合が、自分たちの利益ということを越えて、──もちろんそれを踏まえてそれをさらに越えてという議論というのはあると思うのですが──下手すると自分たちの利益にはマイナスになるかもしれないことについて、ある種の、アドヴォカシーグループと同じような行動をとるべきだ、という風にいえるのか、誰が言うんだろう、という、実は根本的な疑問があります。
労働組合というのは基本的には自分たちの利益を守るために集まって、組合費を出し合って活動してるものなので、やはりそこと対立するような外部利益というか、パブリック・インタレストと言ってもいいんですが、そちらを優先させるような行動をモラルとして要求すべきものなのか、ということには、実は、いささか疑問を持っております。
これはあんまり、露骨に表立って言うと、「お前は、組合というのは、そういう非倫理的な存在でいいというのか」という感じになっちゃうんですけれども。逆にそこまで要求してしまうと、話がきれいごとで終わってしまわないか。そして一番恐ろしいのが、“自分たちの利益”という、本来守るべきもののところに問題があるにも関わらず、そこを、ややないがしろにして、その向けにきれいな美しいところだけ、「こんなことやっていますよ」と、世間様に向かって宣伝して、なんか、大変すばらしいことをやっているかのように演じてみせて話が終わる、というようなことで、それでいいんだろうかと。「労働組合はこんなすばらしいボランティア活動をしています」というような、そんなことばかり、宣伝文句にでてくるような団体でいいのか、というと、それは根っこが違うんじゃないか、というふうに、私は正直、気分的にはそう思います。
むしろ組合にとっての、追求すべき企業の社会的責任というのは、まずは中の話だろうということは基本的にはあるんですよね。
濱口氏:これは、まさにそうだと思います。が、それはむしろ、天下り的に正しい理念があって、というよりは、それはある意味で言うと、自分たちの働いているということの中身を充実させるということなんですよね。自分たちが働いている中身が、こういう意味があるものなんだ、ということ。単なる賃金とか労働条件とかいうことだけではなくて、意味がある作業に従事しているんだということで、実はそれもやっぱり、自分たちのためなんだと。つまり、要するに広い意味の「自分ため」だということがやっぱり労働組合の根拠であって、“人様のためです”というようなものを、逆にぽーんと飛んだ議論にならない方がいいのかな、という気はします。
もちろん、インチキなひき肉を出したり、変な腐った牛肉を出したり、そもそもそんなことをして給料をもらっていいのか、という、それはそのこと自体が仕事の質をおとしているわけですからそれは……。ナンですが……。なんていうんだろう、いわゆる、環境NGOがいろいろいうのとはおのずから違うのではないか、と思うんです。まあ、客観的にいえば同じようなことかもしれないんですが、根拠付けのところはやはりそう理解したほうがいいと思うし、むしろその方が組合員ひとりひとりが本気で、「これは自分たちにとって大事なことなんだ」と思える話なんじゃないかと思うんです。
逆に、組合の活動で、──まあ、あんまりいうとアレなんですが──“地球環境”とか、ポーンとだして、「それってなに?」って組合員が思っている状態がいいんだろうか?ということを、逆にちょっと感じるんですね。これは、ある意味からいうと、ニュアンス的なところかも知れませんが。
あとね、組合とNPOの話というと、私ちょっと面白いなと思ったものが、──この『自治研』にもちょっと書いているんですが──EUが”サービス指令案”というのをだして、これをめぐって大騒ぎになったんですが。
要はこの、“サービス指令案”というのは、「原産国原則」で、例えばイギリスだとか、東欧のようなところで、あるサービス企業が出来たら、そこの許可を得ているんだから、EU内のどこに売っても、改めて許可だのナンだのとせずに自由に活動できますよ、と。これに対して組合は「そんなことしたら自分たちの雇用労働条件に悪影響がある」という観点から反対したんです。もうひとつ、その“サービス指令案”に対して抵抗した勢力というのが、いわゆる、大陸諸国の──まあ、だいたい、ソーシャルエコノミーに属するんだろうと思うんですが──福祉とか、教育とか、医療とか、そういうものを提供している団体とか人々が、要するに他の国から営利主義のサービス業がどんどん入ってくることに関して、おかしい、と言ったんですね。
ある意味で、サービス支配に対するかたちで組合と、広い意味でのNPOというかソーシャルエコノミーの人たちが共闘して、かなり修正を勝ち取るというような事態の推移になったのです。面白いな、と思ったのは、ということはヨーロッパのそういうソーシャルエコノミーで、福祉とか医療とか教育とかのサービスを提供しているところというのは、決して、組合と共闘してやっているわけですから、日本で今問題になっているような低い労働条件で、ぎりぎりやっているということではなくて──まあ、多分、カトリックの傘下というか、そういう文化的な特徴もあって、教会からいっぱいお金が来る、ということもあって。だから教会を通じた寄付というのがすごく大きいというのが、一番大きなアレだと思うんですが──決して、ディーセントじゃない働き方になっているわけではなくて、下手に営利企業がやってきたら、ディーセントじゃなくなる恐れがあるということですね。むしろ、自分たちの、ディーセントな働き方でそういう福祉や医療や教育を提供するという仕組みでこそ、いい質の高いサービスを提供できるんだというロジックで、そのふたつが共闘していたというのは、非常に私にとって印象的で、これは今の日本だとなかなかそうはならないのかな、と思われます。
ただ、こうなると、先ほど○○先生が言われたような、寄付文化というような、そもそも日本にはこういうようなカトリックのカルチャーもないし、「誰がそんな金出すんだ?」という話になって、なかなか難しくて。ヨーロッパだとこういった福祉とかのプロバイダーとして、宗教的な基盤を持ったソーシャルエコノミーという非常に分厚いものがあるということに対して、日本はそれがないというのが、一番大きな違いなのかもしれない。だとするとこれは、NPO法ひとつでどうにかなるような話では、もしかしたらないのかな、という……。これは感想なんですけれども。そんな感じを持ってます。
濱口氏:職業訓練的なことがどれくらい本当に役立っているかということについては、まあいろんな議論があって、ちょっと、判断はなかなか難しいところがあるはあると思うんですが、ただ、ある種の失業対策的な役割をかなり果たしているのは間違いないと思うんですね。
人間にとって“やることがない”ということは、社会的な存在感、存在意義が奪われているということですから、ある意味で、NPOが社会の中の低レベルなところから、いろんな作業を削りだしてきて、それを、うまくあてがって、社会的な存在意義のある、何かしら有用性のある仕事をするというかたちで、社会の中に居場所を与えるという機能は、これは、まさに──ここにも書いてあるんですが──ヨーロッパでのこういうソーシャルエコノミーの非常に大きな役割だといわれているし、それは確かにそうなんだろうと思います。
日本では、昔は、国がやる失対事業というのがありました。それは結局、国だから全然、ただ、しがみつくだけになっちゃって、うまくいかなくなる。多分、緊急雇用対策事業というのは、何がしかそういう意味を込めて、行なえたものだとは思うのですが、ある意味、それにしては、志がいささか低いかたちで行なわれてしまって、正直、なんだかよくわかんない形になったんだと思うんです。
そこのところは、雇用対策のあり方として、もう少し大きく打ち出すことはありうるだろうと思うし、職業訓練効果がどれだけあるか、といいうのはヨーロッパでもいろいろ疑問になるところではあるのです。が、少なくともそこで毎日仕事をすると、それが身につくわけだし、いわば、社会性が身につく形でさらにそこから次の仕事、というふうなステップアップの意味は間違いなく指摘されているので、そこは私は、雇用対策の観点からはもっと強調されていいことだろうと思っています。
濱口氏:まあ、これは“仕事”というのをどこまでの広がりのある言葉と理解するか、ということ思うんですが、私、この問題を考えるのに一番いいのが多分、障害者の世界だろうな、と思っています。
変な話なんですが、今、厚生労働省というのはひとつになったんですが、昔は、労働省の障害者雇用対策というのは、あくまでも、民間企業に雇用率を設定して、民間企業に就職してもらって、そこで働かせることだと言うことだったんですね。そのためには、いろんな設備を、ああしたりこうしたり、というのもあるんですが、基本的には民間企業で働くのが仕事だとしていました。ところが、障害者にはいろんな障害があって、とてもやっぱりそこまで行かないというものもあるわけですね。で、実態はどういうものが進んでいたかというと、親とか、地域の人たちが、小規模作業所というのを作って、もともとは非常にボランタリーなかたちで、親たちがお金を出し合ってそんなのを作っていました。それに対して、逆に、最初は地域レベルで、そして、しまいには厚生省が、「まあ、しょうがないな」というかたちで補助金を出して、だんだん、そういったものが構築されて行ったのですね。旧労働省からいうと、あれは労働政策ではないんですね。だけど実は、あそこでやっているのは、まさに障害者が自分たちも自分たちのできる能力の範囲で何がしか社会に貢献するような仕事をしたい、という意味のはずで、それが、労働省の制作の範囲内に入らなかったので、その外側で少しずつ動き出して……ということだったんだと思うんです。
ですが、やっぱり、ここで必要なのは、仕事というのは、やっぱり、そういった小規模作業所とかそういったところでやっているようなことまで含めたもので考えないといけないはずだともいます。そこで線引いちゃって、要は、マーケットに載らないのは仕事じゃない、というふうにやってしまうと、仕事を中心といいながら、実は、多くの人を仕事から排除して、「仕事中心の社会にお前ら乗らないからダメだよ」と言っているような話になっちゃうんですね。ということは、逆にいうと、仕事中心の社会というものを維持するためには、それ自体が実は、相当の社会的移転を必要とするはずなんですね。
これは、障害者のところはそうなんですが、実は、そのほかのいろんな高齢者にしろ、あるいは、子どもを持った母親であれナンであれ、いろんなかたちで何がしかの社会的な移転がないと、マーケットフェイスの仕事がしにくい人たちを考えた場合、──あまりここではこういう議論を突っ込んだかたちにしていないんですが──むしろ、それを広い意味での社会保障制度というならば、そういう社会保障制度によって、裏打ちされた仕事を中心とした社会でなければいけないはずだろうと思うのです。この、仕事を中心にすえた福祉社会というのは、文脈的には、「仕事をしないのはけしからん」みたいな話から来ている話ではあるんですが、逆に「福祉社会だからこそ、仕事を中心にすえた社会でありうるんだ」という、そういう意味もあるんじゃないかな、と思っています。
それが一番典型的にあるのは、障害者の世界だけれども、実は、多くの人は何がしか、いろんな意味で働く上での障害というか、バリアがあるはずで、そのバリアをひとりひとり、多かれ少なかれのバリアを取り外すという意味が、むしろ福祉社会にはあるのだろうと、いうふうに、とりあえずは今、整理しております。ただ、そうするとその先に、まったく動けないような障害者は、お前はどう考えるんだ、というような話に多分なると思って、まあ、そこまで行くと、ちょっと違う原理になるのかもしれないんですが。まあ、ただ、何がしかの活動が出来る人、というところまで、出来るだけその枠は広げて考えるべきだと思いますし、そういう意味で、“仕事”を中心とすると考えるのですね。
だから、この“仕事”というのは社会的に意味のある活動という意味でとらわれて、何がしか活動ができる人には、そういった社会的な活動をするチャンスを与える、という意味でとらえれば、スタッドもそこまでの話としては、自分的には収まりがつくのかな、という風に思っているんです。
濱口氏:まさに、今、○○先生が言われた点もあると思うんですが、まずは、労働時間の問題。これは、本来、「生活時間」。「ワークライフ」の「ライフ」というのは、それも、ある意味で、働く上から見て、バリアとして障害として機能しなくてはいけないのですが、要するに、普通の特に男性労働者の場合にはまったくそういう風に機能していなくて、そういう障害はなくてあたり前、とみなされているわけですね。さっきの障害者の話にひきつけて言うと、障害者には働く上で障害がある、高齢者にも働く上に障害がある。そんなことを言うのなら、そうだない人たちだって、やっぱり、家庭生活というのがあるんだから障害があって当たり前。子どもがあれば、もっと障害があるのは当たり前。──それは「障害」という言い方は本当はいけないのかもしれませんが──つまり、責任を持っているわけだから、すべての時間を仕事に費やせるわけは当然ないわけで、そこはやはり、働く時間にはきちんとした制限がないと、その人間の十全な人間としての生活は出来ないんだ、ということを前提にいろんなメカニズムが回らないといけないはずですね。
“ワーク・ライフ・バランス”という掛け声は、政府の中枢から何回も何回も言われている割に、その手の議論が、育児休養はどうとか、介護休養はどうとか、そういう特別の話にばかり集中して、日常的に、例えば毎日家族で夕食を囲むような生活が出来るような状況になっているのかどうか、という話というのはあまり行かないんですね。そこは、今のワーク・ライフ・バランス論にある種のバイアスがあるんだろうと思います。
要するに、子どもを持った母親が働ける働き方というのをスタンダードにおいて考えないと、多分、本当はいけないはずなんだろうなと思うんです。それこそ、障害者、高齢者が働けるような職場でないと、いい職場ではない、というのと同じような意味でね。やっぱり、そこが、さっきの話から言うと“ディーセント”な働き方、“ディーセントで尚且つ、領域を超えたいい仕事”ということになるはずです。
ここで言いたかったのは、今までの日本の場合、特にまあ、組合もたくさん働いてたくさん稼げるようにするという、どちらかというと、そういう運動のパターンであったわけですが、そこは、明快に変えていかなくてはいけないだろうという話だろうと思うんです。
逆に言うと、そこで、正規社員であることを前提として、なにがあっても首は切られないという、そういう伝統的な正社員モデルというものに対して、ある種の修正は必要だろうと思うんですね。でもここは非常にすごく微妙で難しい議論で、ちょっと、針の置き方をひとつ間違えると、“ビッグバン”の議論になっちゃうんですが。“ビッグバン”にならない、なってはいけないんだけれども、だからといって今までのものでは多分、いけないはずだろうと思うんです。そこのバランスのとり方というのはすごく難しいと思うんですが、的確なところに針を置かないと、やっぱり、今の日本の組合は、今までの中年の男ばかりが自分たちの働き方中心にやっている組合だろうというところからなかなか脱却できないんだろうな、という気がします。
濱口氏:おっしゃる通りだし、“未組織の組織化”という形でそれを提起されてしまうとなかなか、これは難しいんですが、とりあえず話をすごくミクロなところにおいて考えると、同じ職場にパートをされている中年の女性たちが居て、みんな子どもを抱えているからパートで働くしかないですね、と。で、それは全然違う人なんだから別ですよ、というところで、今まで来ているわけで、多分、それを見直すということも、その場からしか始まらないんじゃなかろうか、と思うんです。要するに、その人たちも、まずは同じ組合員として入れて、共通の基準て何なんだろう、ということを考えるところからしか始まらないんじゃ……。つまり、どこか遠くに居て、見えないところの人の議論をしたって、人間てそんなのは出来ないだろうと思うんですよ。やっぱり、そこからなんじゃないかな。それで、議論を始めてどうなるかというもの、わからないんですが、でも、そこからしか議論は始まらないのではないかな、と思うんですね。
実は、マクロな話も実はそれの積み重ねなんじゃないのかな、という気がします。これは実は職場によって、すごく進んでいるところもあればそうでないところもあるし、そんな簡単な話ではないということはもちろんではあるんですけれども。
やっぱり、もともと、組合というのは、足元の自分たちの利益から出発しているもので、そこからしか出発し得ないとすると、同じ職場で働いているパートの人たちは、子どもたちを抱えていて、5時になったら帰らなくてはいけないんだ、と。それを、「彼女らは、そういう不完全な働き方しか出来ないんだから、時給800円で当たり前だよな」という話で進んできているわけですよね。ところが、例えばその人が、急に奥さんが、ぽんと居なくなって、子どもを抱えるともっと大変な状態になるわけですよね?だから、やっぱりそこからやるしかないのかなと思います。
“寄って立つ社会連帯”という言葉にきちんと対応したものではないんですが……。“社会連帯”と言ったって、要は“人とのつながり”ということですよね、大和言葉に崩すと。人とのつながりって、結局、具体的なところで、実は、顔の見える人との間でしかないのではなかろうか。そこにないものを非常に上のレベルで、なんか、理屈で作っても多分それは上でくるくる回っているだけで、下まで行かないだろうと思うんですね。もちろん、下でそういう議論をするためには、ちゃんと上から、きちんとしたある種のリーダーシップというのも必要で、もちろんそれは両方必要なんですが、下でそういう話が全然ない状態で、上だけの議論で、進む話では多分ないだろうと思います。
濱口氏:いや、だから、つまり……何を……ちょっとわからないのは……。
あるところで働いているとして、まあNPOと言ってもそこでも労務を提供するようなものというのは、なかなか実際にはとても無理でしょうから、ある種のアドヴォカシー的な活動ということになるのだろうと思うし、ある意味では個人レベルで言えば、それなりにやっている人はいるだろうと思うんですね。それは本人にとっては非常にパブリックな話であって、それを、職業生活に対するプライベートライフと言ったら怒るかもしれないけれども、それはしかし、職場から言えばプライベートであるという、ただそれだけの話なんだと思うんです。で、プライベートであろうが、パブリックであろうが、仕事の職場で要求されることでないことと、きちんと両立できるような仕組みにすべきだ、という意味では、多分同じ話だと思います。
その中身が何であるのか。それは“自分の子ども”というプライベートな話なのか、“自分の子どもを含む地域の子どもたち”というパブリックなものなのか、“自分の親”というプライベートな話なのか、“自分の親を含む地域の高齢者”というパブリックな話なのか、ということは、それは、いわば、その人が、どういう活動をするか、という話なのであって、両立論から言うと、多分本質ではない、と私は思います。
濱口氏:うんうん。とりあえず“両立論”としてはそういう話だろうと思うんです。で、その先で、今言われた、組合の活動とのつながりみたいなことで言うと、これは要は組合が、自分たちの利益という観点から、それは有用であるという外側の活動にいろいろ手を出して、それを一生懸命になると言うのは、それが組合員の利益になる限りにおいては、重要な活動でしょう。逆に、そうでないならば、組合員から見ると「何を余計なことをしているんだ」ということになり兼ねないはなしですよね。
やっぱり、つきかえるとそれは、NPO活動というような性格のものではなくて、やっぱり、足元の組合員というか、働く人々の利益になるかどうかということが究極的な判断基準になる話だと思います。だから、逆にいうと、“両立する”云々の話ではなくて、そもそも、根っこは一緒じゃないかと……
最近のコメント