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2007年8月29日 (水)

昭和8年の三菱航空機名古屋製作所争議

リベサヨな歴史家からは日本がファシズムに塗りつぶされていた時代だと片付けられている昭和8年に、今日の労働問題からしても大変興味深い事件が発生しています。

矢次一夫氏の『労働争議秘録』(日本工業新聞社)から、それを紹介しておきます。

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この三菱航空機名古屋製作所は、約2000人の職工に加え、約4000人の「人夫」を使っていましたが、その仕事は職工と同じで、会社と雇傭関係なく、大西組という人夫供給業者と関係を有するのみとされていました。

この「人夫」名義の臨時工は就職に際し、こういう誓約書を差し出していました。

>誓約書

一、三菱航空機株式会社に対しては雇用関係全然なきこと。

一、使用の期間は全然定めなきにつき何時使用止さるるも不服なきこと。

一、会社にて不要となりたる時は即日使用止せらるること。

一、使用止せられたる際退職手当等一切なきこと。

一、会社の規則及大西組の規約に違反したる者は即日使用止せらるること。

一、会社及び大西組の名を汚したる者は即日使用止せらるること。

一、作業上の機密を漏洩しその他会社及び大西組の不利益を図りたる者は即日使用止せらるること。

以上の各項は何等不服なく従事可致候

大西惣吉殿

ところが、会社がこの人夫名義の臨時工200人あまりを解雇し、誓約書通り手当は一線も払わないといったので、彼らが怒って争議団を結成し、ビラを配布したり会社球団演説会を開催したりしています。その会社への公開状は以下の通り。

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>公開状

三菱不当解雇反対闘争同盟代表 山本梅一

三菱航空機製作所長 後藤直太殿

 貴下は三菱航空機製作所の所長として顕揚なる地位と責任とを有する人です。私どもの以下質問するところに対し良心と責任を持って応えてください。

一、我々昨年及び一昨年貴社が東京、横浜、大阪、広島、佐世保等に派遣出張せしめたる社員福井技師、堀技師、坪井銘之助、遠藤満吉、鎌田忠治等に勧誘され、貴社工場に優良なる条件をもって三年四年間雇用せらるべきことを約束し、その為現在の職場を離れ、郷里を捨てて貴社に来た者です。然るに一度着名して入社せんとするや、突如として大西組なるものが現れ、会社の職工人夫はすべて大西組の供給になっているから、ここで働きたければ、この契約書に調印せよと強要され、我々は一人も承知したのではないが、既に在来の職を捨て、卿を離れ遠く来て帰るに旅費なく、泣く泣くこの不法きわまる契約書に記名調印したことは事実です。然しその後の作業の実際は、大西組と何らの関係なく、会社の工場で会社の機械で会社役員の指揮の下で、会社の仕事をやっていたのですから、かの不法不合理極まる一片の契約書は既に反古に帰し、三菱航空機の職工として採用されたことに相違なき者として、極力忠実に働いてきました。

 然るに貴社はあくまで我々に不当なる差別待遇をなし、工場法の一切の保護規定より除外し、健康保険に加入させず、突如として抜き打ち的解雇を申し渡し、而も臨時職工なりと称して、一銭の予告手当、帰国旅費をも支払わず、然も我々に対しては「よく働いてくれてご苦労であったが、会社の仕事が中絶したから」と申し渡しておきながら、偶々社会の問題となるや「彼らは不良職工である、懲罰解雇に付した」と、何等の罪なき我々数百人を傷つける公表を為して顧みないのです。

 後藤所長足下、足下は之等の経過の一切を顧みて、果たして心中疚しきところなく、恥じるところなきを得るのですか、足下の為したるところは、明白に労働者募集取締令の第三条、第四条に違反し、工場法第二十七条及び健康保険法に違反する不法非道の行為たることは、一言議論の余地ない問題であると信じますが、貴下は果たして如何に答えられるのですか・・・。

一方、監督官庁たる愛知県知事に対しても、こういう申請書を出しています。

>申請書

 名古屋市南区西築地六号地所在三菱航空機株式会社名古屋製作所は、常時推定六千人以上の職工を使用致居候所、この過半数推定四千人以上の者は最短三ヶ月以上一年乃至二年の長期にわたり契約して、もっぱら同社の業務に従事致居候に拘わらず、同社専属人夫請負者大西組なるものより、不当なる強制手段により記名調印せしめられたる契約書により、全然事実と相違する臨時日雇いとして待遇せられ、工場法、健康保険法等の適用より除外され居り、負傷疾病の際も適当の診療を得る能わず、解雇退職の際も予告手当等一切支給為さず、却って右大西惣吉は、右職工の募集雇い入れ作業等に何等の関係なきに拘わらず、ただ単に右一片の契約書により、名義上雇用主たる如く仮装したるのみにて、一ヶ月少なくとも三千円以上の不正利得を占得致居候間、会社及び大西惣吉の右の如き行為は明白に工場法施行令、健康保険法並びに労働者募集取締令に違反するものに有之、尚且刑法第二百四十六条の二項に該当の犯罪を構成し居る疑いあるものと存候につき、何卒同会社の違法行為に対し、厳重御処分相成ると共に、今後速やかに右の如き違法極まる臨時日雇い職工と称する如き制度を撤廃し、健康保険法その他関係法規の保護を普からしめる様、厳重御命令相成度此段申請候也。

これに対しては、各労働団体が一斉に応援に駆けつけ、社会大衆党の幹部が指導するだけでなく、県庁側が会社側に対して大変厳しい姿勢をとり、愛知県警察部長名で所長に対し、就業規則に関する照会を行うなどしています。その背後には、協調会から内務省社会局に移り、この時名古屋地方職業紹介所長であった糸井謹治氏がいたということです。

また、これは失笑ものですが、争議が勃発して真っ先に会社にやってきた大阪朝日新聞の記者が、応接間に通されて三時間以上待たされて、受付に聞いたら「先ほど外出しました」、天下の大新聞の記者たるものに待ちぼうけを食わすとは不都合だとカンカンになり、地元の新愛知の記者も門前払い、そこで記者団の会合で三菱ケシカランとなり、以後会社には寄りつかず、もっぱら組合と県庁のみ訪ねて記事を書く、県の若い役人は大いに公憤を発しているというわけで、その結果新聞記事が労働組合の機関誌の如くなったとかいう裏話もあるようです。

結局、会社側が全面降伏します。

争議団の解決報告書は、

>解決報告書

 去る八月三十日、天下の大財閥三菱に向かって決死の戦いを宣したる我が闘争同盟は、以来茲に一週間、正義を愛し弱者に味方せらるる全名古屋市民諸君の熱烈火の如き盛んなる御声援の下に、文字通り身命を擲って戦い続けてきました。幸いにして厳正公明なる県警察当局は、微力なる我等の主張をも容認せられて終始適切有効なる処置を進められ、各新聞社亦絶大なる世論の支持応援を与えられ、特に在名労働組合に至りては、終始大挙動員せられて、絶大なる応援闘争に進出せらるるあり、為にさしも日本ブルジョアジーの王者三菱も遂に従来の非道を悟りたるか、一昨日以来県当局を仲介とする交渉は急速に進展し、我等が闘争の中心題目たりし、(1)日雇い制度の撤廃、(2)大西組契約書破棄、(3)全職工健康保険加入の三項は、同夜十一時に至り全部無条件承認の旨通達せられ、翌四日早朝工場内にも公表せられ、我等は凱歌の第一声を挙ぐるを得ました。次いで被解雇者たる我々争議団員直接の問題たる、(4)不当解雇手続是正、(5)争議費用、帰国旅費、特別退職手当支給の二項目につき四五日折衝を続けましたが、五日夜十二時に至り、之亦要求全部会社の承認を得るに至り、茲に本同盟の主張全部一点の欠くる所なく貫徹するを得て我が国労働運動史上にも比類稀なる成果を収めて、最後の凱歌を挙げ得たるは歓喜に堪えざる所であります。・・・

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日本の近代史を考える上で大変重要なのは、それまで争議のたびに悲惨な負け方を繰り返していた労働組合側が、この(リベサヨさんのいうところの)ファッショな時代になると、そう簡単に負けなくなって、いやむしろこの事件のように勝つようになるということです。ここのところを抜きにして、百万言費やしてみたところで、昭和史の本質が分かったとは言ってはいけないんですよ。

 ちなみに、同じ愛知県では昭和12年(昭和史の決定的瞬間の年ですね)に、愛知時計電機の極めて興味深い争議が起きています。これについても、そのうち紹介したいと思います。

それはともかく、70年以上も昔の事件とはいいながら、実に今日のありように似たところもこれあり、こういうのをきちんと学んでおくことこそが「歴史に学ぶ」ということでなければならないと思うわけです。

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