これも雑件ですが、突っ込むと日本の労働法政策ともつながってくるんですけどね。
http://www.asahi.com/international/update/0824/TKY200708240002.html
いやあ、云ってくれました。
>日本の軍国主義者・・・は、人類のあり方への無慈悲な考えに突き動かされていた。イデオロギーを他者に強いるのを防ごうと立ちはだかった米国民を殺害した。
>第2次大戦に着手した時、極東の民主主義国は二つしかなかった。オーストラリアとニュージーランドだ。日本の文化は民主主義とは両立しないと言われた。日本人自身も民主化するとは思っていなかった。
>結局、日本の女性は参政権を得た。日本の防衛大臣は女性だ。先月の参院選では女性の当選が過去最高になった。
>国家宗教の神道が狂信的すぎ、天皇に根ざしていることから、民主化は成功しないという批判があった。だが、日本は宗教、文化的伝統を保ちつつ、世界最高の自由社会の一つとなった。日本は米国の敵から、最も強力な同盟国に変わった。
こういう台詞を日本国内で戦後60年間吐き続けてきたのは、ブッシュ大統領の盟友の側ではなく、その反対側の人たちであったと云うところが、日米関係の歴史の皮肉という奴なんでせうねえ。
朝日新聞自ら指摘するように、「戦前の日本を国際テロ組織アルカイダになぞらえ」るような「粗雑な歴史観を露呈」しているわけですが、その台詞はほとんどそのままリベサヨな皆さんに降りかかってくるというわけで。「大正デモクラシーを経て普通選挙が実施されていた史実は完全に無視され、戦前の日本は民主主義ではなかった、という前提」で近代日本を語られたんじゃかないませんや、まったく。
ま、ここくらいまでは、ちょいとモノの分かったブロガーなら書いてるでしょうけど、その先があります。じゃ、なぜその日本が戦争に突入していったのか。多くの一見穏当な歴史観はそこで間違う。戦前の日本は立派にリベラルだったのに、軍国主義に席捲されたとか、そういう類のね。
戦前の日本が過剰にリベラルだったから、それに対するソーシャルな対抗運動が「革新派」として拡大していったからなんでね。まさに、ポランニーの云う「社会の自己防衛運動」。戦前の二大政党制の下では、本来そっちを取り込むべき立場にあった民政党は、確かに社会政策を重視し、労働組合法の制定に努力したりしたけれども、同時に古典派経済学の教義に忠実に従うあまりに金解禁を断行し、多くの労働者農民を不況の苦痛に曝すことを敢えて行うほどリベラルでありすぎたわけで。どっちにも期待できない労働者たちは国家主義運動に期待を寄せるしかなくなったわけで。
この辺、二大政党制に舞い上がりかけている民主党さんによーく歴史を勉強し直して貰わなければならないところでっせ。
夏休みの課題図書を増やすのは心苦しいのですけど、
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061577/
坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』ちくま新書
この中味を簡単に喋ったものが、連合総研のDIOに載っていますので、そっちをリンクしておきます。
http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no156/leadersseminar.htm
(追記)著者と書名を書くのを忘れていました。
ちくま新書は玉石混淆ですが、これはもっとも読むに値する名著です。
せっかくなので、決定的瞬間、つまり広田弘毅内閣が退陣して、宇垣一成内閣が流産するあたりの記述をいくつか引用しておきます。
>「平和」と「反ファッショ」を掲げる「人民戦線派」は宇垣内閣の成立を期待し、「戦争」と「社会主義」を求める「広義国防派」は、宇垣内閣反対、林銑十郎内閣支持の立場
>筆者が近年、「平和」と「改革」の背反性という難問に直面しているからである。仮に「ファシズム」という便利な概念が存在しなかったとすれば、昭和12年1月の日本で、社会大衆党と既成政党のどちらをとるかは、大問題であったはずである。
>さらに、「戦争」と「平和」の問題に目をつぶれば、陸軍と結んでも資本家に打撃を与えようとする社会大衆党の立場は、十分に社会主義的であった。労働組合法はもちろん退職手当の法的保障にすら応じない資本家側の全国産業団体連合会の立場を、民政党も政友会も衆議院で忠実に代弁していたのである。
>そのような政友会と民政党が、「ファシズム」と「戦争」に反対するために宇垣一成内閣を支持しようと呼びかけても、社会主義者は簡単にはその呼びかけには乗れなかったのである。
>戦後の歴史学にあっては、一方の極に「平和と反ファシズムと資本主義」があり、他方の極には「戦争とファシズム」があったことが前提とされてきた。この図式を「ファシズム」抜きに歴史的事実に即して描き直せば、一方の極には「平和と資本主義」が、他方の極には「戦争と社会主義」があったことになる。宇垣一成内閣構想は前者を代表し、林銑十郎内閣構想は後者の支持を得ていたのである。
>社会大衆党の改革要求、資本主義批判を「ファシズム」の側に組み込んでしまっては、当時の日本の政治社会を理解できないのである。
(再追記)
ついでに、戦後歴史学では反戦平和の闘士としてもてはやされている斉藤隆夫、帝国議会で軍部を痛烈に批判した粛軍演説ですが、彼はその冒頭こういういい方をしているんですね。
>一体近頃の日本は革新論及び革新運動の流行時代であります。
>しからば進んで何を革新せんとするのであるか、どういう革新を行わんとするのであるかといえばほとんど茫漠として捕捉することはできない。
>畢竟するに、生存競争の落伍者、政界の失意者ないし一知半解の学者等の唱えるところの改造論に耳を傾ける何ものもないのであります。
「生存競争の落伍者」ごときのいうことに耳を傾けることなんぞできるか!
とまで罵られて、反ファシズムのため連帯しませうと云えるほど、日本の社会主義者たちは心広くはなかったわけです。
赤木君ではないが、「ひっぱたきたい」と思ったであろうことは想像に難くありません。
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