というわけで、ちらちらとニュー規制改革会議さんの暴走ぶりを眺めてきましたが、新聞記事という間接的な形ではなかなかニュアンスがつかめないなあ、ともどかしい思いを抱いておられた方も多いのではないかと思います。そこで、規制改革会議さんより出血大サービス、答申にとても入れられないような凄すぎる記述も全部まとめて大公開していただけることになりました。
昨日、規制改革会議再チャレンジワーキンググループ労働タスクフォースの名前で、「脱格差と活力をもたらす労働市場へ-労働法制の抜本的見直しを」という意見書が発表されたようです。「脱力をもたらす」と読んではいけませんよ。たとえ読んで脱力したとしてもね。
http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/publication/2007/0521/item070521_01.pdf
ちなみに、「再チャレンジワーキンググループ労働タスクフォース」の主査は、福井秀夫氏です。
http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/about/list/wg.html
この意見書の凄いところは、労働に関わりのある人々全てを敵に回そうとしているらしいことです。
>行政庁、労働法・労働経済研究者などには、このような意味でのごく初歩の公共政策に関する原理すら理解しない議論を開陳する向きも多い。当会議としては、理論的根拠のあいまいな議論で労働政策が決せられることに対しては、重大な危惧を表明せざるを得ないと考えている。
まあ、行政庁が何にもわかっとらんでアフォなことしとるというのは聞き飽きた悪口ですから今さら何にも感じませんし、労働法学者が硬直的でアフォの塊というのもまあよく聞かされる話ですから、ふむふむというところですが、そうですか、遂に労働経済学者の皆さんにも宣戦布告ですか。樋口先生や清家先生のように労働関係をうまく回すのに市場原理をいかに活用していくかを一生懸命考えておられる方々も「初歩の公共政策に関する原理すら理解しない議論を開陳する向き」だというわけですな。
東大法学部卒業の行政法専攻の元建設官僚ドノがそこまで言うと。
せっかくですから、いくつかコメントしておきましょうか。
>労働者保護の色彩が強い現在の労働法制は、逆に、企業の正規雇用を敬遠させ、派遣・請負等非正規雇用の増大、さらには、より保護の弱い非正規社員、なかでもパートタイム労働者等の雇用の増大につながっているとの指摘がある。
いうところの「労働者保護」が何を指しているのか判然としませんが、労働者が人たるに値する最低限度の労働条件を確保するために、労働時間や賃金その他の労働条件についての最低基準を設定することを指しているのであれば、これはアングロサクソン諸国をも含め、いかなる先進諸国においても最低要件として確保されていることです。これを廃棄せよとの主張であるとすれば(後述の個別課題における記述からすると、そうである可能性も高いように考えられますが)、日本国政府の一機関たる規制改革会議として発出すること自体が国際的な糾弾の対象ともなるべき驚くべき主張であるといわざるを得ません。
それに対し、「解雇規制を中心として裁判例の積み重ねで厳しい要件が課され」ている点を指しているのであれば、「労働者保護の色彩の強い現在の労働法制」という表現は極めて不適切でしょう。仮にこれを「判例法理」と解したとしても、それを「労働者保護の色彩の強い」とはいいがたいと思います。現在最高裁の判例で確認され、労働基準法において規定されている解雇権濫用法理は、アメリカを除くいかなる先進国にも共通して立法化されている不公正解雇の禁止に相当するものであり、使用者の恣意的な解雇を制約すること自体は国際的に見てもなんら過剰な規制といいうるものではありません。
>一部に残存する神話のように、労働者の権利を強めれば、その労働者の保護が図られるという考え方は誤っている。
これはおよそ社会科学に関わるものとしては信じがたいような無謀な見解ですね。ある特定の状況において、ある特定の権利を強化することが却ってそのものの利益にならないという逆説的な結果をもたらす「ことがあり得る」という命題であれば、社会科学においていくつかその例を示すことができるでしょうが、かくの如き一般命題を提示することができると考えているのであれば、およそ全ての労働者保護規制はことごとく労働者の利益に反すると考えていることになります。ここで挙げられている例で言えば、
>不用意に最低賃金を引き上げることは、その賃金に見合う生産性を発揮できない労働者の失業をもたらし、そのような人々の生活をかえって困窮させることにつながる。
今どきこんな単純素朴な議論を展開していると、OECDに行っても仲間はずれにされますよ。少なくとも、サッチャー時代に最低賃金を廃止し、ブレア政権下でこれを復活したイギリスの例においては、これが労働者の生産性向上に寄与し、少なくとも失業の増大につながってはいません。
また、現在日本で問題となっているのは生活保護水準との逆転現象であり、これは、働かなくても高い給付が貰えるのに、働くと低い賃金しか稼げない状況においては、労働者において敢えて働かないというモラルハザードが生じるのではないかという社会科学的見地からの懸念から論じられているのであって、国民経済全体における人的資源の効率的活用という観点を抜きにして論ずることは無謀でしょう。
>過度に女性労働者の権利を強化すると、かえって最初から雇用を手控える結果となるなどの副作用を生じる可能性もある。
これがかつての深夜業規制や時間外規制のようなものを念頭においているのであれば、男性労働者との均等待遇との関係において一定の正当性を有していると言えるでしょう。それ故に、累次の男女雇用機会均等法改正において、女性保護規定の緩和が図られてきたわけです。しかしながら、それはあくまでも女性労働者の機会均等の促進という政策目標のためであって、機会均等の権利強化は格段に図られてきているのです。機会均等面において「過度に女性労働者の権利を強化すると、かえって最初から雇用を手控えさせる結果となる」などという馬鹿げたことは、これまでの規制改革会議も含めていかなる者からも発せられたことはないと思いますが、敢えてそれを言うわけですか。是非内閣府内部できっちりと調整してきてくださいね。
>正規職員の解雇を厳しく規制することは、非正規雇用へのシフトを企業に誘発発し、労働者の地位を全体としてより脆弱なものとする結果を導く。
この論点は、今日OECDの雇用戦略やEUのフレクシキュリティの議論においても論じられている点であり、上記とは異なり一定の論拠は存すると考えられます。ただし、上で見たように不公正解雇の禁止は先進国でほぼ共通の世界標準であり、問題は特に経済状況等による企業変動時等にどの程度まで雇用維持を要求するかのレベルにあると考えられます。この点については、今後労働契約法制の検討において、金銭解決の導入も含めて検討されるべきものでしょう。
>真の労働者の保護は、「権利の強化」によるものではなく、むしろ、望まない契約を押し付けられることがなく、知ることのできない隠された事情のない契約を、自らの自由な意思で選び取れるようにする環境を整備すること、すなわち、労働契約に関する情報の非対称を解消することこそ、本質的な課題というべきである。市場の失敗としての情報の非対称に関する必要にして十分な介入の限度を超えて労働市場に対して法や判例が介入することには根拠がなく、画一的な数量規制、強行規定による自由な意思の合致による契約への介入など真に労働者の保護とならない規制を撤廃することこそ、労働市場の流動化、脱格差社会、生産性向上などのすべてに通じる根源的な政策課題なのである。
これが上でいうところの「ごく初歩の公共政策に関する原理」なんだから笑っちゃいます。
ここには労働経済学や組織の経済学などの研究の蓄積による労働契約の特殊性-不完備契約理論についての考慮が全く見当たらないという点で真に驚くべきものと言えます。この文言からは、労働契約における唯一の問題は情報の非対称性であり、それは情報提供によって解決可能であって、それ以外に本質的な問題はないと考えているかの如くです。人間の主体的意思的行動自体が契約の目的であるため、すべてをあらかじめ契約で定めることが不可能であるということがなんら意識されていないということは、規制改革会議が想定する労働とは完全な単純労働のみであるということのようにも受け取れます。だとすれば、その見解はもっぱら単純労働者についてのみなされるべきでしょう。
こういう考え方は、この意見書を書いた福井氏の文章(『脱格差社会と雇用法制』所収)にも現れています。そこでは、不完備契約理論に対して、
>転職すれば教育訓練の効果が発揮できなくなるような、当該企業に固有の有益性しか発揮しない投資が現実に普遍的であるとはいえず
>他企業に一切移転することが可能でないような技術があるとしても、それは極めて限定的な領域にとどまる
などと、極限的な例を挙げて論駁したつもりになっています。そんな極端な投資や技術はないでしょうが、逆に転職しても100%ロスのない人的投資や技術があるかといえば、それも非現実的でしょう。真理はその中間にあり、ゼロでも百でもない転職ロスを極小化するためにいかなる制度設計が望ましいかが問題になるのではないでしょうか。
人間の意思的行動に基づく労働サービスそのものを契約対象とすることから、どんなに細かく定めても完備契約にはなり得ないというのが労働契約の特質であり、それをあえて規定しようとするとそのコストは天文学的なものとならざるを得ないがゆえに、労働契約規制は内容ではなく枠組みを定めることにとどまらざるを得ない、というのがまさに労働経済学や組織の経済学の教えてくれるところだと私は理解しています。
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