草稿の続き
4月6日の草稿の続きです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_22b4.html
3 生涯を通じたワーク・ライフ・バランス
しかしながら、この問題を雇用保護法制という短期的なスパンの問題だけに切り縮めてはならないだろう。学校を卒業してから引退するまでフルタイムで働き続けることを前提とした男性中心の職業生涯モデルをどう見直していくかという問題意識につなげていく必要がある。
男性労働者にそのような働き方が可能なのは、女性労働者が異なる働き方のパターンをしているからだ。学校を卒業していったんフルタイム就労しても、結婚し子どもができると育児に専念するかあるいはパートタイム就労という形でキャリアが切れる。その後子どもの手がかからなくなってフルタイム就労する場合もあるが、やがて今後は老親の介護が被さってきて、またもや介護に専念するかパートタイム就労を余儀なくされる。
企業内であれ企業を超えたものであれ、これからの「エンプロイメント・セキュリティ」は、男女労働者がともに育児期には育児と仕事を両立させることができ、介護期には介護と仕事を両立させることができ、その中でキャリアを展開していけるようなモデルである必要があろう。もとより現在既に育児休業や介護休業といった制度はあり、雇用保険財政から一定の手当も支給される。また育児・介護を行う労働者の時間外労働免除や短時間勤務といった制度もある。しかしながら、それらはもっぱらほとんど女性労働者専用の制度と見なされ、男性の取得率は極めて低水準にとどまっている。そもそも多くの女性は育児・介護期以外でも長時間残業や配転に対応できないために非正規社員にならざるを得ず、その結果これら制度を利用できる立場にいないことが多い。
これと並んで、変化する経済社会に適応していくための労働者自身による教育訓練-自己投資のための時間的余裕の確保も、生涯を通じたワーク・ライフ・バランスの重要な項目である。「自己啓発」という言葉が喧伝されて久しく、雇用保険財政による教育訓練給付金という制度もあるが、長時間労働に追いまくられる多くの労働者にとっては絵に描いた餅に等しい。経営状況悪化による解雇への規制を一定程度緩和していくのであれば、その事態に対処するための準備を行う機会を労働者側に確保していく必要がある。
生涯を通じて仕事におけるキャリア形成と自分自身への投資、家族への責任を並行して遂行していけるような男女共通のモデルを確立していくためには、この問題を企業の労務管理とそれへの支援の問題だけにとどめておくことはできないだろう。社会システムとして、そのような職業生涯の在り方が不利にならないような、あるいはむしろ有利になるような仕組みを構築していく必要がある。長期的な観点から社会に有用な活動を可能にするために一時的、部分的に就労から離脱する選択肢を提供する年金保険料や給付などの社会保障の制度設計は、その最も重要な部分となりうると思われる。
上述のように、従来型福祉国家による労働の脱商品化は新自由主義勢力の攻撃の的となった。確かにそれは失業者や福祉受給者のモラルハザードという弊害を生んだ。それゆえに、新たなソーシャル・ヨーロッパはフル就業を目標として掲げた。しかしながら、それは生涯にわたる仕事と自己投資、家庭責任との間のマクロな時間配分のために、一時的あるいは部分的に「脱商品化」を保障することを否定するものではない。むしろ、社会の長期的な持続可能性を考えれば、男女労働者にともに一時的、部分的な「脱商品化」の可能性を保障することこそが、社会保障制度の最も重要な機能の一つであってもいいはずである。
第4節 ステークホールダー社会の再確立
最後に、労働政策であれ、社会保障政策であれ、男女労働者の運命に関わる政治的決定が彼らの代表のいないところで決められるということはあってはならない。内閣府の経済財政諮問会議は、民間委員として経営者2名、学者2名を有するだけである。そこにはそれによって最も大きな影響を被る人々の代表はない。ILOの三者構成原則が改めて確認される必要がある。上で述べたような「生涯を通じたいい仕事」への政策シフトも、労使間の議論を通じて進められなければならない。
とはいえ、労働組合が大企業の男性正社員の利益代表に過ぎないと見なされるならば、その正統性に疑問符が付けられる。中小企業労働者の、女性労働者の、そして何より多くの非正規労働者たちの利益を代表しているのは労働組合なのか。連合は本当にステークホールダーたちの代表なのか。連合はこれに明確にイエスと答えなければならない立場にある。現状に安住しているわけにはいかないのだ。
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労政審における労働組合の「正統性」の他に、厚生労働官僚のための「お墨付き機関」といった批判にも応えていかなければならないと思います。先週金曜日(2007年4月20日)の日経新聞の連載「雇用ルールを問う」では、「時代遅れ 労政審の疲弊」という見出しが躍っています。
こうした部分についても、既にどこかでコメントされていると推測するのですが。掲載場所を教えてください。
投稿: 匠 | 2007年4月25日 (水) 10時05分
別に厚労省の権益が問題ではないので、労政審であろうが内閣府の機関であろうが、労働者の利益代表が入るか入らないかが問題なのです。
日経新聞や経済財政諮問会議の民間委員は、voiceなど要らない、exitさえあれば世の中はうまく回るのだと考えているのでしょうが、そういうものではないと私は思います。
ただ、ここでも「疲弊」と言われているように、確かに現在の労働者の利益代表がどこまで様々な労働者の利益を代表し得ているのか、というのは大きな問題です。そして、本当はvoiceを大事だと必ずしも考えていないような人に、「お前のvoiceは本当の労働者のvoiceじゃないんじゃねえのか」と突っ込まれて、うんうんうなっているというのが、まあ現在の状況といえましょう。
この問題はここのところずっと考え続けている問題ですが、とりあえずは
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_57fd.html
で思いつきを書いているのでご参照下さい。
投稿: hamachan | 2007年4月25日 (水) 10時28分
>別に厚労省の権益が問題ではないので、労政審であろうが内閣府の機関であろうが、労働者の利益代表が入るか入らないかが問題なのです。
なるほど問題の本質がわかりました。浅薄な理解に陥らぬよう精進します。
そういえば今年2月の労働開発研究会のセミナーで、三者構成原則の拠って来るところを伺ってましたね。失礼しました。
投稿: 匠 | 2007年4月25日 (水) 17時27分