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2007年4月 6日 (金)

草稿

ここまであえて言ってみるか。

えい、言ってみよう。

というわけで、草稿段階ですが、ちょっと踏み込んだことを書いてみました。

*************************************

第1節 格差社会と構造改革路線

 2006年はマスコミや政治家が一斉に格差社会を問題にした年だった。皮切りは2005年12月末に毎日新聞で始まった連載記事「縦並び社会」で、「視点:格差社会考」と題する論説記事と併せてこの問題をリードした。世間へのインパクトという点で大きかったのは、NHKが7月に放映した「ワーキングプア-働いても働いても豊かになれない」だろう。政府側でも、「労働経済白書」が所得格差の問題を取り上げ、特に若者における非正規雇用の増大が将来的な格差拡大につながっていきかねないことに警鐘を鳴らした。国外からも、OECDの対日審査報告書が所得不平等と貧困の問題に一節を割いた。構造改革路線に対する熱狂の季節が過ぎ、格差拡大に対する懸念が政治的課題としてクローズアップされてくる中で、安倍政権は「再チャレンジ支援」を掲げ、格差の固定化を防ぐ「成長力底上げ戦略」を進めている。
 これに対し、野党の民主党もようやく格差問題を取り上げ、2007年には最低賃金やパートの差別禁止を盛り込んだ「格差是正緊急措置法案」を国会に提出した。しかし、小泉政権時代に自民党のいわゆる「守旧派」を批判して「もっと構造改革を進めよ!」と主張していたのは外ならぬ民主党であったし、90年代に遡れば、今日の構造改革路線を進めてきたのは細川内閣、村山内閣、橋本内閣と、かつての社会党系や民社党系が何らかの形で関わった政権であった。例えば、1993年の平岩レポート(細川内閣)は「経済的規制は原則自由・例外規制、社会的規制も不断に見直す」と述べているし、1995年の「構造改革のための経済社会計画」(村山内閣)は「自己責任の下、自由な個人・企業の創造力が十分に発揮できるようにすること」「市場メカニズムが十分働くよう、規制緩和を進めること」を唱道している。皮肉な話であるが、連合はこの10年あまり新自由主義的な構造改革路線を支持し続けることによって、格差拡大に手を貸していたと言えなくもない。
 この政治的配置の奇妙さは、この20年間のヨーロッパにおける新自由主義勢力と社会民主主義勢力の動向と対比すると一層際だつ。ヨーロッパでは80年代にイギリスでサッチャー政権が誕生し、自己責任の下に規制緩和を進める新自由主義政策を打ち出していった。これに対し、社会民主主義勢力は当初従来の福祉国家路線を固守しようとしたが、90年代になって新たな路線を打ち出していく。それは旧来の福祉国家のマイナス面を正面から認め、その構造改革の必要性を打ち出しつつ、市場メカニズムにすべてを委ねるのではなく、新たな社会連帯の在り方を模索しようとするものであった。1993年のEU社会政策グリーンペーパーに始まり、イギリスのブレア政権の「第3の道」、ドイツのシュレーダー政権の「新たな中道」などの形をとりつつ進展してきたこの新たな社会民主主義の思想は、2006年12月の総会で採択されたヨーロッパ社会党の10原則に集約され、2007年2月に発表された政策文書「新たなソーシャル・ヨーロッパ」に詳細に解説されている。
 ここではその内容を紹介することはしない*1。ただ、新自由主義の挑戦に対して社会連帯の在り方を組み換えることによって応戦しようと試みてきたヨーロッパ社会民主主義勢力に比べて、保守勢力が作ってきたそれなりに福祉社会的な仕組みを新自由主義的な思想を振りかざして破壊することに手を貸してきた日本の「革新」勢力の政治行動の奇妙さを正面から問い直すことなしに、ただ目の前の格差拡大を非難するだけで新たな政策路線が打ち出せると考えているのであれば、その将来にはあまり期待が持てないであろう。少なくとも、新自由主義的な「労働ビッグバン」に対して労働者の待遇改善を訴える自民党の雇用・生活調査会の活動よりも意味があると言えないであろう。
 本章では、上記「新たなソーシャル・ヨーロッパ」の哲学を意識しつつ、日本社会がこれまで作り上げてきた仕組みのメリット、デメリットを踏まえて、構造改革路線に代わる「新たなソーシャル・ジャパン」を構想するためのスケッチを描いてみたい。

第2節 仕事を中心に据えた福祉社会

1 二つの脱商品化
 新たなソーシャル・ヨーロッパの哲学の中心に位置するとともに、これまでの日本社会の在り方において半ば無意識のうちに前提とされていたのが、「仕事を中心に据えた福祉社会」という理念である。ヨーロッパでは、これは旧来の福祉国家の在り方に対する痛切な反省の念とともに語られる。
 福祉国家は「労働の脱商品化」を進めてきたといわれる。「労働は商品ではない」というILOのフィラデルフィア宣言に見られるように、これは戦後福祉国家の基軸の一つであった。しかし、それをどの次元で捉えるかによって、①資本の論理にもてあそばれる商品ではなく、生産の論理に基づいて活用される社会的有用財として位置づけるべきとする考え方と、②商品として売られなくても生きていけるよう、労働の対価としての報酬ではない所得保障を整備すべきとの考え方がありうる。前者からは労働者保護法制や完全雇用政策が導かれ、後者からは失業給付や生活保護などの福祉政策が導かれる。もちろん、後者は、不本意な商品化-多くの場合、労働条件が過酷低劣であって、社会全体の立場からも望ましくないもの-を避けるための手段であって、生産に必要な有用財としての労働を否定するものではない。しかし、商品として売られなくても生きていけるということは、有用財として活用されなくても生きていけること-つまり働かない自由をも意味する。ヨーロッパの福祉国家を揺るがしてゆく大きな要因はこのモラルハザードであった。
 新自由主義者の攻撃は、まずはこの「国の福祉に寄生する弱者もどきの連中」に向けられた。「働けるのに働かない怠け者を養うために我々の税金が使われている」というわけだ。しかし、実は70年代以降ヨーロッパで失業者や福祉受給者が増えたのは、それを受け皿にして企業がリストラを進めたからという面が大きい。ややパラドクシカルだが、新自由主義者が推進する労働の商品化は、そこからこぼれ落ちた者の脱商品化を保障する福祉国家によって支えられていたとも言える。
 これに対し、「新たなソーシャル・ヨーロッパ」は、誰もが仕事を通じて社会に参加できる社会を目指す。生産性の高い者だけが働き、低い者はそのおこぼれに与るというような社会は否定する。それは、そんな社会が経済的に持続可能でないということに加えて、仕事には単に所得を得るという以上の意味があると考えるからだ。それは個人の尊厳であり、社会的な認知であり、人々とのつながりでもある。「貧困」だけが問題なのであれば、所得保障を与えればよいということになろう。しかし、「社会的排除」-社会の中に居場所がなく、除け者にされていること-こそが問題だとすれば、仕事という形で社会の中に居場所を与えることが社会政策の目的でなければならない。この「仕事を中心に据えた福祉社会」こそが、新たなソーシャル・ヨーロッパの基軸なのである。
 これは逆に言えば、働かない自由は認めないということだ。英ブレア政権のニューディール政策や、独シュレーダー政権の労働市場改革が、「福祉から仕事へ」を掲げ、就労や教育訓練を拒否する者には給付を与えないという姿勢を打ち出しているのは、働ける者はみんな働くことができる社会-これが「フル就業」だ-を目指しているからである。しかし、この第二の脱商品化を否定する政策はややもすればアメリカ型の「ワークフェア」-どんな低劣な条件の仕事でも受け入れて働くべきだという第一の脱商品化を否定する考え方-に近づきかねない。それは、社会の中にワーキングプアを大量に生み出すことになろう。仕事さえあれば福祉社会になるわけではない。それはいい仕事、まっとうな仕事でなければならない。
 この「仕事を中心に据えた福祉社会」という観点から見て、これまで合格点に達していたのは北欧諸国であった。「働かざる者食うべからず」という強い勤労倫理に支えられ、連帯的賃金政策による高い労働条件と積極的労働市場政策による就労促進を組み合わせて、高い就業率を達成してきた。

2 日本型「仕事を中心に据えた福祉社会」の行方
 ある意味でこれまでの日本社会も、違ったやり方でではあるが、仕事を通じて社会の中に居場所を与え、働いている限りはそれなりの保護を与えつつ、働かない自由は事実上認めないような福祉の厳しい運用により、高い就業率を達成してきたといえるのではなかろうか。さまざまな産業政策や公共事業によって会社が潰れないようにし、その中で広範な労務指揮権と引き替えに世帯主たる成人男性に手厚い雇用保障を与え、労働者の生涯にわたる生活が保障されてきた。その周縁には相当数の非正規労働者がいたが、パート主婦は正社員である夫の妻として社会の主流に位置していたのだし、アルバイト学生にとっての雑役仕事は正社員として就職する前の一エピソードに過ぎなかった。
 英米で新自由主義が猛威を振るっているときには、日本はこの独自の「仕事を中心に据えた福祉社会」の優位性を誇っていた。ところが、ヨーロッパ社会民主主義勢力が痛切な反省の中から新たなソーシャル・ヨーロッパの哲学を創り出そうとしていた90年代に、日本社会は逆に構造改革の名の下にあらぬ方向に漂いだした。それをもっとも明確に表現しているのは、1999年の経済戦略会議答申(小渕内閣)であろう。後に経済財政担当相になった竹中平蔵氏が起草した同答申は、日本型雇用慣行のような「過度な規制・保護をベースにした行き過ぎた平等社会に決別し、個々人の自己責任と自助努力をベースとし」、「倒産したり、失業した人たちに対して、相応のセーフティ・ネットを用意」せよと主張する。労働の商品化とそこからこぼれ落ちた者の脱商品化の組み合わせという、否定すべきではあるがそれなりにソフトな政策であった。
 ところが、構造改革の進む中で実際に進行したのは、こぼれ落ちた者にも働かない自由は認めず、飢え死にしたくなければどんな低劣な条件であっても受け入れて働けというハードな政策、働くアンダークラスを創出するワーキングプア戦略であった。これは意図的というよりも、日本社会がなお強烈に「働かざる者食うべからず」の勤労倫理を有しているが故に、そのような資源分配を国民が認めなかったという面が強いように思われる。その結果、いわゆる就職氷河期に正社員として会社に潜り込めなかった世代は、パート主婦やアルバイト学生並みの待遇で、しかも彼らのような別途の社会的な居場所を与えられないまま、労働社会の周縁に追いやられた。また、パート主婦といえども、不況の中で正社員の夫が失業したり、離婚等でシングルマザーになったりした場合、低賃金は直ちにその世帯の低所得として跳ね返ってくる。
 しかし今必要なのは、竹中流の「セーフティ・ネット」ではなかろう。「仕事を中心に据えた」社会という日本の在り方はなお維持すべき値打ちがある。いや、福祉受給者に悩むヨーロッパから見れば貴重な含み資産とも言える。重要なのは、その仕事をいい仕事、まっとうな仕事に変えていくことであり、日本型の「仕事を中心に据えた福祉社会」を再構築することであるはずだ。
 その際、変革すべき点は大胆に変革しなければならないだろう。社会的なコストの大きい産業政策と公共事業による雇用機会の維持創出に代えて、それ自体社会に対する就業促進効果の高い教育訓練や福祉医療といった公益サービスにおける働く場が中心に据えられるべきであろう。また、成人男子労働者を前提とした配転や時間外労働における広範な労務指揮権と企業内の手厚い雇用保障の組み合わせから、仕事と家庭の両立が図れるような働き方と企業を超えた働く場の保障の組み合わせへのシフトも図っていかなければならない。これは次節の論点でもある。

第3節 いい仕事の社会に向けて

1 技能が向上する仕事
 いい仕事とはどんな仕事だろうか。逆に悪い仕事とはどんな仕事だろうか。「仕事の質」について分析したEU雇用白書2001年版の区分をもとに考えてみよう。
 一番悪いのはどん詰まり(デッドエンド)の仕事だ。先行きの見通しのない短期雇用や派遣労働、偽装請負などがこれに属する。現在のワーキングプアたちが陥っているのはこの暗闇の世界であろう。ヨーロッパでは、せっかく苦労して就職させてもそれがどん詰まりの仕事であればまたすぐに福祉の世界に舞い戻ってくるという形でこれが問題になる。日本では戻るべき福祉の門戸はほとんど開かれていないために、彼らは常に最末端の仕事を移り行かざるを得ない。こうしてワーキングプアはワーキングプアのまま年を重ねていく。だがそれは問題の先送りに過ぎない。家族を形成できないまま、彼らが不安定な生活を送ってやがて老齢に達したとき、社会はその持続可能性を失うことになる。
 その次に来るのが、ある程度の安定性はあるが低賃金で将来昇給する見通しもあまりないような仕事-つまり技能の向上に伴う賃金の上昇があまり見込めないような仕事である。これはどん詰まりの仕事から移行する際には重要な役割を果たす。少なくともそこにはなにがしかの「安心」がある。社会から排除されているわけではない。しかし、彼らは社会の「下流」に固定化されてしまいがちだ。ヨーロッパでは手厚い福祉から低賃金雇用に移行する際の困難さから、さまざまな在職給付によって「メイク・ワーク・ペイ」(働く方が得になるようにする)政策がとられている。
 その上にまっとう(ディーセント)な仕事が来る。雇用はかなり安定しているし、社内訓練で技能を上げて昇給していく見通しもある。これとその上のいい(グッド)仕事の違いは、主として仕事の満足度だ。いずれも、人的資本に投資することによって生産性を向上させ、それに伴って賃金も上昇していくというモデルである。
 「新たなソーシャル・ヨーロッパ」は教育訓練を最重要視し、人的資本に投資することを通じて、万人にいい仕事を提供することを目指す。アメリカでいうところの「ハイロード・アプローチ」だ。そして、この点でも日本の旧来の「仕事を中心に据えた」社会の在り方には改めて評価すべき点が多い。OJTを中心とした社内訓練によって正社員の技能を向上させ、長期的な雇用を確保してきたこのモデルを、できるだけ広範な労働者に適用していくことが今日の課題であろう。非正規労働者の均等待遇が論じられる際には賃金等の労働条件が中心になりがちだが、最も重要なのは教育訓練機会の均等ではなかろうか。公的教育訓練機関と社内教育訓練との連携によって、彼らにも正社員並みの人的資本の蓄積を図っていくことが、長期的に彼らを社会に統合していく道であるはずだ。

2 生活と両立できる仕事
 ここからは、旧来の日本型の仕組みに別れを告げなければならない。あるいは、今までの「いい仕事」と異なる「いい仕事」のモデルを作り上げなければならない。
 今までの「いい仕事」とは、専業主婦を持った成人男子労働者を前提として、長時間にわたる時間外労働や遠隔地への配転を広範囲に認めながら、経営状況の悪化した時でも(非正社員の雇用を犠牲にしつつ)正社員の雇用だけは守ってくれるというモデルであった。長期的な雇用の安定が人的資本形成に重要であることからすれば、これが効果的な雇用システムであったことは確かである。そして、妻が専業主婦であることを前提とすれば長時間残業や遠距離配転も十分対応可能な事態であるし、非正社員が家計補助的なパート主婦やアルバイト学生であることを前提とすれば、そんな者は切り捨てて家計を支える正社員の雇用確保に集中することは社会的にも適切な解答であっただろう。
 しかし、いまやそのようなモデルは「いい仕事」とは言えなくなりつつある。共働き夫婦にとっては、雇用の安定の代償として長時間残業や配転を受け入れることは難しい。特に幼い子どもがいれば不可能に近いだろう。そこで生活を両立できるように妻はやむを得ずパートタイムで働かざるを得なくなる。また、正社員の雇用を守るために非正社員をバッファーとして用いるやり方にも疑問が呈されてくる。正社員の雇用保護の裏側で切り捨てられるのが、パートで働くその妻たちであったり、フリーターとして働くその子どもたちであったりするような在り方が本当に「いい仕事」なのかという疑問だ。
 近年政府や経済界も含めてワーク・ライフ・バランスという言葉が流行しているが、今や「生活と両立できる仕事」でなければ「いい仕事」ではないという価値転換が求められているのであろう。そして、これはその反面として、非正社員をバッファーとした正社員の過度の雇用保護を緩和するという決断をも同時に意味することになる。もちろん、正当な理由がなければ解雇できないというのは(アメリカという異常な例を除き)先進国の共通原則だ。さもなければ、使用者のいかなる命令にも逆らうことは不可能になる。しかし、経営状況が悪化したときの人員削減(整理解雇)については、今まで過度に守られてきた正社員たちがある程度の規制緩和を受け入れるのでなければ、みんなが「生活と両立できる仕事」を享受するという仕組みに移行することは困難だ。
 言うまでもなく、そういう仕事は決してどん詰まりの仕事や低賃金の仕事であってはならない。「労働ビッグバン」という名の下に、アメリカ型の「ローロード・アプローチ」を全面展開するような事態は絶対に避けなければならない。これからの「いい仕事」も、雇用はそれなりに安定し、社内訓練で技能を上げていくようなまっとうな仕事でなければならない。しかし、その先で何をより重要と考えるかで、旧来の「いい仕事」と別れることになる。生活を犠牲にした雇用の絶対的な安定よりも、経営状況が厳しくなればクビになるかも知れないが、夫婦がともに家庭責任を果たせるような仕組みの方が「いい仕事」だという価値基準への転換が求められるのである。
 日本のように生活との両立を犠牲にした在り方ではなかったが、ドイツを始めとする大陸欧州諸国のいわゆる男性稼ぎ手モデルの社会も、今までの雇用保障の緩和が大きな論点になってきている。フレクシキュリティと呼ばれるデンマーク型の労働市場が注目を集めているのもその一環だ。「新たなソーシャル・ヨーロッパ」はここであえて一歩を踏み出している。雇用保障された上層と不安定な下層に二極化した労働市場のままでいいのか、これまでの「ジョブ・セキュリティ」から企業を超えた「エンプロイメント・セキュリティ」に移行すべきではないか、と提唱しているのである。ここでいう「エンプロイメント・セキュリティ」は、手厚い失業給付、個人向けの積極的労働市場サービス、そしてインフォーマルな技能の認定からなるという。企業は変わっても、労働者のそれまでのキャリアがつながっていくような仕組みが想定されているわけだ。
 フレクシキュリティについては、なおヨーロッパレベルでもさまざまな議論がある。手厚い失業給付を過度に強調すると、旧来の福祉国家のモラルハザードとどう違うのか、「仕事を中心に据えた」社会に逆行するのではないかという疑問が湧いてこよう。企業内で労働時間等の柔軟性を高めつつ雇用を維持する(ある意味で日本的な)フレクシキュリティを唱える声もある。ヨーロッパ社会民主主義勢力も悩んでいる点なのだ。

第4節

*1欧州社会党10原則の邦訳は、http://takamasa.at.webry.info/200702/article_2.htmlにある。

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