フォト
2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ

« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »

2007年4月

2007年4月27日 (金)

公務員法制の方向

マスコミさんは例の人材バンクをめぐる霞ヶ関と永田町の綱引きをおもしろおかしく報じているだけですが、行政改革推進本部専門調査会では公務員の人事管理制度の在り方についてたいへん興味深い議論が行われています。

http://www.gyoukaku.go.jp/senmon/

で、ここにはまだアップされていないのですが、公務労協のHPには4月24日に専門調査会が取りまとめた「議論の整理」が掲載されています。

http://www.komu-rokyo.jp/info/rokyo/2007/2007rokyo_infoNo26.html

労働基本権関係では、

○ 公務員の労働基本権の制約については、国民主権、財政民主主義等を根拠として必要やむをえない限度で制限を加えることに充分合理的な理由があるとした全農林警職法事件最高裁判決があり、判例として定着している。しかし、この判決は、現行制度は憲法違反ではない旨を判断したものである。この間労使関係をめぐる環境も変化している。現時点において改めて、制約理由の意義を捉え直す必要がある。

○ 公務員の勤務条件の基本は国民の代表者により構成される国会が定める法律、予算によるべきであるとの判決の考え方は今日においても妥当であるが、公務員の地位の特殊性、職務の公共性、市場の抑止力については議論が分かれた。

○ このような観点から、公務員制度について、国民の視点にたって改革すべき点が多々ある。労働基本権を含む公務員の労使関係の問題についても、改革の方向で見直すべきである。

とした上で、今後労働基本権を付与した場合の具体的仕組みや諸課題の検討を、シミュレーション検討グループで集中的に行うとしています。具体的には、

・団結権については、制限の必要性、付与した場合の影響等に関し検討する。

・団体交渉権・団体協約締結権については、付与する職員の範囲、協約締結事項の範囲、交渉の当事者、団体協約の効力、交渉不調の場合の調整方法、人事院・人事委員会のあり方など付与した場合の具体的仕組みに関する複数のパターンを検討する。

・争議権については、付与した場合の国民生活への影響等に関し検討する。

ということです。

私としては、さりげなく書かれた「第1周目の議論において十分に検討できなかった公務員の類型化に関する課題については、仮に類型化を行うとすると、職務の性質による類型化とは別に、例えばドイツの官吏と非官吏のように公務員の種類による類型化も可能であり、引き続き検討を行う」というのが大変目を惹きます。

これはつまり、公務従事者の中に公法上の勤務関係である「官吏」と、民法上の雇用契約である「非官吏」を分け、後者は基本的に民間労働法制で規律しようという発想で、戦後フーバーに押しつけられたアメリカ型公務員法制の抜本的見直し(というか戦前型への回帰)になりうる話です。

EU職場のいじめ協約

昨日予告した標記協約が、労使双方のHPに掲載されています。

http://www.etuc.org/a/3584

http://212.3.246.117/docs/1/DPFLHEEABGAHNDBIJDBMKMNPPDB39DBN7N9LI71KM/UNICE/docs/DLS/2007-00696-EN.pdf

http://212.3.246.117/docs/2/DPFLHEEABGAHNDBIJDBMKMNPPDB39DBN739LI71KM/UNICE/docs/DLS/2007-00697-EN.pdf

本協約は企業に対し、職場のハラスメントと暴力が許されないものであることを明確に宣言し、問題が起こった場合にとられるべき手続を示しています。また、適切な措置を決定し、評価し、監視することが使用者の責任であり、労働者及びその代表と協議して行うべきことを明らかにしています。さらに、適当な場合には第三者が暴力事件を取り扱うことを認めています。

これはあくまでも「枠組み協約」ですからかなり抽象的な文言になっていますが、EUレベルでこの問題を正面から取り上げたはじめての法的性格を有する文書ですので、その意義は大きいといえます。

2007年4月26日 (木)

EU労使が職場のハラスメントと暴力防止協約を締結

本日4月26日、EUの労使団体間で続けられていた職場のハラスメントと暴力に関する交渉がまとまり、労働協約に調印することになったようです。

現時点(向こうはまだ朝ですね)ではまだETUCのサイトにもビジネスヨーロッパのサイトにも載っていませんが、明日には協約もサイト上で読めるでしょう。

この職場のハラスメント、暴力、あるいはいじめの問題については、私も結構いろいろなところに書いたり喋ったりしてきましたが、なかなかEUレベルの動きがまとまらないのでどうなっているのかな?と思っていたんですが、まあようやくまとまったということですね。

本件に関するこれまでの文章や発言メモは以下の通りです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/ijime.html

http://homepage3.nifty.com/hamachan/ijimerippou.html

http://homepage3.nifty.com/hamachan/chihoukoumuin.html

http://homepage3.nifty.com/hamachan/jisatsuken.html

2007年4月25日 (水)

そのみちのコラム

『時の法令』という旬刊雑誌に、月1回(つまり雑誌としては隔号)のペースで「そのみちのコラム」というエッセイをかいていくことになりました。

第1回目は4月15日号に掲載された「二つの正義の狭間で」です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hutatsunoseigi.html

以後、各月15日号に掲載されていく予定です。

日本版メイク・ワーク・ペイ?

読売に「労働意欲向上狙い、低所得者の税軽減本格検討へ…諮問会議」という記事が載っています。

http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20070425i301.htm

>政府の経済財政諮問会議(議長・安倍首相)が、低所得者層の家計負担を軽減するために、所得税を直接減額する「税額控除」と社会保障給付を組み合わせた制度導入の本格検討に入ることが明らかになった。

>民間議員が25日の諮問会議に税制改革の「基本哲学」を示して議論を開始する。所得格差の是正とともに、税引き後の手取りを増やして労働意欲を高める狙い。経済同友会も同制度の導入を提言しており、今後の税制改革論議の焦点の一つに浮上しそうだ。

この記事はこれを「負の所得税」と呼んでいますが、この記事からする限り、これは「低所得者の中にはせっかく働いて所得を得ても、税引き後の手取り額が、生活保護など社会保障の額より少なくなる場合があり、「働く意欲が失われる」との指摘が出ている」という事態に対して、「低所得者層の所得税額を軽減(控除)するだけでなく、社会保障に頼らず働いて収入を得た方が手取り額が大きくなるよう、一定の層に社会保障給付を組み合わせる仕組みを中心に検討する見通しだ」ということですから、むしろ日本版メイク・ワーク・ペイ政策と呼んだ方がいいでしょう。少なくとも、働いていてもいなくても一律に経済的メリットが与えられるベーシック・インカムの一種としての「負の所得税」とは別物と考えられます。

少なくとも、そのモデルにしているのがブレア政権が導入した制度なのですから、社会哲学としてはリバタリアン的というよりはむしろコミュニタリアン的なものというべきでしょう。

これもまた、ここ数年来私がEUの雇用戦略の柱として紹介してきたものの一つなんですが、八代先生にこうやってきちんと政策アジェンダに載せていただいて、心から感謝の気持ちでいっぱいです。本当に有り難うございました。

まあ、しかし、こうやって経済財政諮問会議が(今のところ)実にまともな政策を次々に打ち出すものだから、それに引き替え労政審が疲弊しているなどと書かれるわけで、なかなか難しいところではあるのですね、私も立場的に。

(追記)

と読売さんは報じたんですが、実際に経済財政諮問会議に出された「税制改正の基本哲学」は、

http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2007/0425/item2.pdf

>生産活動や就労への意欲を阻害しないよう、“広く薄く”の観点に立って、法人課税や所得課税を設計する

とか、

>受益と負担の双方を含めた制度全体の再設計を通じ、真に必要な人に必要な対応がなされるようにする

>世代を超えた格差の固定化を防ぐよう税制等の設計を行う

といったところがこの記事に対応しているのかなあ、という程度のようですね。

労組と学者のフレクシキュリティ批判

ここ1,2年のEU労働政策でバズワード化しつつある「フレクシキュリティ」ですが、欧州労連(ETUC)がかなり全面的な批判のリーフレットを出しました。

http://www.etuc.org/IMG/icones/pdf-dist.png

もともと、フレクシビリティとセキュリティの両立という政策方向には賛成していたETUCが、ここにきて厳しい批判に踏み切ったのは、現在の欧州委員会の動きをバローゾ委員長率いるネオリベ派首脳部によるものと見切ったということでしょう。

欧州委員会第5総局(の担当官)は、フレクシビリティと言っても、雇用形態を多様化するオランダモデルや労働時間を柔軟化する(ドイツ)モデル、さらには企業内で配置転換する(日本型)モデルにシンパシーを示し、雇用保護規制については緩和に消極的な姿勢を示してきたのですが、首脳部からはそれだけじゃダメだ、もっと雇用を流動化する方向にしろと命じられて、それで出されたのが昨年11月の労働法グリーンペーパーであったと言うところまではここでも紹介してきました。

雇用を保護しつつ労働を柔軟にするという今までの第5総局の路線には(内部にいろいろ不満はあってもそれは抑えて)協調姿勢をとってきたETUCですが、ここにきてバローゾ路線とは対決するぞということのようです。このリーフでは、解雇規制が厳しい国ほど雇用は創出されないなんてウソだ、解雇が制約されている方がイノベーションや企業内のフレクシビリティを生み出し、労使の協調によって生産性の向上が図られるのだ、等々と書いています。

一方、欧州議会の雇用社会問題委員会は3月21日に、労働法に関する公聴会を実施したようで、それに出席した二人の学者のペーパーが、ダブリン財団の背景ペーパーとともにアップされています。

http://www.europarl.europa.eu/meetdocs/2004_2009/documents/dv/657/657769/657769en.pdf

http://www.europarl.europa.eu/meetdocs/2004_2009/documents/dv/657/657704/657704en.pdf

http://www.europarl.europa.eu/meetdocs/2004_2009/documents/dv/flexicurity/flexicurityen.pdf

このうち興味深いのは最初のロンドン大学のバーカッソン教授のペーパーで、こちらもETUCとくつわを並べてかなり痛烈な批判をしています。

2007年4月24日 (火)

草稿の続き

4月6日の草稿の続きです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_22b4.html

3 生涯を通じたワーク・ライフ・バランス
 しかしながら、この問題を雇用保護法制という短期的なスパンの問題だけに切り縮めてはならないだろう。学校を卒業してから引退するまでフルタイムで働き続けることを前提とした男性中心の職業生涯モデルをどう見直していくかという問題意識につなげていく必要がある。
 男性労働者にそのような働き方が可能なのは、女性労働者が異なる働き方のパターンをしているからだ。学校を卒業していったんフルタイム就労しても、結婚し子どもができると育児に専念するかあるいはパートタイム就労という形でキャリアが切れる。その後子どもの手がかからなくなってフルタイム就労する場合もあるが、やがて今後は老親の介護が被さってきて、またもや介護に専念するかパートタイム就労を余儀なくされる。
 企業内であれ企業を超えたものであれ、これからの「エンプロイメント・セキュリティ」は、男女労働者がともに育児期には育児と仕事を両立させることができ、介護期には介護と仕事を両立させることができ、その中でキャリアを展開していけるようなモデルである必要があろう。もとより現在既に育児休業や介護休業といった制度はあり、雇用保険財政から一定の手当も支給される。また育児・介護を行う労働者の時間外労働免除や短時間勤務といった制度もある。しかしながら、それらはもっぱらほとんど女性労働者専用の制度と見なされ、男性の取得率は極めて低水準にとどまっている。そもそも多くの女性は育児・介護期以外でも長時間残業や配転に対応できないために非正規社員にならざるを得ず、その結果これら制度を利用できる立場にいないことが多い。
 これと並んで、変化する経済社会に適応していくための労働者自身による教育訓練-自己投資のための時間的余裕の確保も、生涯を通じたワーク・ライフ・バランスの重要な項目である。「自己啓発」という言葉が喧伝されて久しく、雇用保険財政による教育訓練給付金という制度もあるが、長時間労働に追いまくられる多くの労働者にとっては絵に描いた餅に等しい。経営状況悪化による解雇への規制を一定程度緩和していくのであれば、その事態に対処するための準備を行う機会を労働者側に確保していく必要がある。
 生涯を通じて仕事におけるキャリア形成と自分自身への投資、家族への責任を並行して遂行していけるような男女共通のモデルを確立していくためには、この問題を企業の労務管理とそれへの支援の問題だけにとどめておくことはできないだろう。社会システムとして、そのような職業生涯の在り方が不利にならないような、あるいはむしろ有利になるような仕組みを構築していく必要がある。長期的な観点から社会に有用な活動を可能にするために一時的、部分的に就労から離脱する選択肢を提供する年金保険料や給付などの社会保障の制度設計は、その最も重要な部分となりうると思われる。
 上述のように、従来型福祉国家による労働の脱商品化は新自由主義勢力の攻撃の的となった。確かにそれは失業者や福祉受給者のモラルハザードという弊害を生んだ。それゆえに、新たなソーシャル・ヨーロッパはフル就業を目標として掲げた。しかしながら、それは生涯にわたる仕事と自己投資、家庭責任との間のマクロな時間配分のために、一時的あるいは部分的に「脱商品化」を保障することを否定するものではない。むしろ、社会の長期的な持続可能性を考えれば、男女労働者にともに一時的、部分的な「脱商品化」の可能性を保障することこそが、社会保障制度の最も重要な機能の一つであってもいいはずである。

第4節 ステークホールダー社会の再確立

 最後に、労働政策であれ、社会保障政策であれ、男女労働者の運命に関わる政治的決定が彼らの代表のいないところで決められるということはあってはならない。内閣府の経済財政諮問会議は、民間委員として経営者2名、学者2名を有するだけである。そこにはそれによって最も大きな影響を被る人々の代表はない。ILOの三者構成原則が改めて確認される必要がある。上で述べたような「生涯を通じたいい仕事」への政策シフトも、労使間の議論を通じて進められなければならない。
 とはいえ、労働組合が大企業の男性正社員の利益代表に過ぎないと見なされるならば、その正統性に疑問符が付けられる。中小企業労働者の、女性労働者の、そして何より多くの非正規労働者たちの利益を代表しているのは労働組合なのか。連合は本当にステークホールダーたちの代表なのか。連合はこれに明確にイエスと答えなければならない立場にある。現状に安住しているわけにはいかないのだ。

2007年4月22日 (日)

川喜多先生の名台詞

電機連合NAVIという雑誌の4月号に、川喜多喬先生の講演録が載っています。「人材こそが日本の誇り-育成に投資を惜しむな」という題で、いつもの川喜多節が炸裂していますが、大変まっとうなことをまっとうに主張されていて、電機連合の中だけで読まれるのはもったいないので、いくつか引用しておきます。

まず、「景気と雇用の粗野な連動でよいのか」ということで、
>単純に景気しだいで採用数を変動させるのは人間中心にモノを考えていない行動ではないか

>モノを考える経営者であれば、世の中の景気が良くなってきたら、人を採るのを少し控える。世の中の景気が悪いときでも、できるだけ人を採用し企業内の世代によるでこぼこをなくして雇用を保持する、このように考えるべきだと思うが、最近流行の「市場の論理」信奉だけでいくと、数量調整を平気でやってしまう。

>「知識労働者」が机上で先が読めると思うのが間違いで、例えば東京大学の経済学部を出て、ノーベル経済学賞モノの経済モデルを作り、世界最新鋭のコンピュータを使って計算すれば景気予測ができるかといえばできないであろう。

>アメリカ型経営がそうだが、学校秀才が、本社という組織の中枢にこもってコンピュータを前にして数字だけで現場を想像すれば世の中が見えるということではない。数字に出ない世の中が現に動いているのが現場であり、そこでは数多く人々の生きた知恵が働いているからである。

>いわゆる学校秀才型の経営者は、本社の建物の中で数字を通しのみ人をくくって考え、「世界中の最適なところでモノを調達し、世界中で最適なところで人を働かせればいい」と無邪気に考えがちであり、これはまことに恐ろしいことである。

>かつてモノつくりの現場では、たたき上げの人たちを工場長にしてきた。今でもトヨタでは、工場の課長の半数は現場たたき上げである。トヨタの工場がなぜ強いかというと、課長が全て2人ずついるからである。1人は技術系で、もう1人が現場たたき上げである。

>ところが現場たたき上げの人たちが課長になれないような社会、つまりアメリカ流の、外から学校秀才がMBAなどと称して上に横はいりする社会を作ると、現場の知恵が見えていない者が指揮棒を振ることになる。

2007年4月20日 (金)

若者初回契約ロワイヤル版

昨年ドビルパン首相がCPE、若者向けの初めの2年間は解雇できる雇用契約を導入しようとして失敗したことは記憶に新しいところですが、社会党の大統領候補ロワイヤル女史が似たような提案をして左翼陣営から砲火を浴びているようです。

http://www.ft.com/cms/s/dc1047e0-e41a-11db-bf06-000b5df10621,dwp_uuid=e17a8288-890f-11db-a876-0000779e2340.html

こっちは「最初の機会契約」(contrat premiere chance)という名前で、職業資格を持たない若者を1年間の有期契約で雇った中小企業に社会保険料や賃金に補助金を出して、1年経ったら常用雇用に移行という案ですが、共産党の候補や学生組合からドビルパンのCPEの左翼版だと非難されて、試用期間は3ヶ月だとか言い訳に努めているようですね。

まあしかし、そういう仕掛けを作らないと無技能の若者が雇われないという実態は厳然としてそこにあるわけで、反対してればいいってものでもなかろうと思うのですが、なかなか難しいものです。

麻酔科医師の過労死判決

去る3月30日の大阪地裁判決、大阪府立病院事件の判決文が最高裁のHPに載っていることに気がつきました。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20070416181038.pdf

どういう事件かというと、新聞記事はこちら。

http://www.sankei-kansai.com/01_syakai/sya033104.htm

興味深いのは勤務実態の判断のところです。超過勤務報告書は信用できないと言っているんですね。

>夜間勤務等命令簿は超勤報告書に基づいて作成された資料であるが,超過勤務に対する手当に充てる財源の制約から,適宜,実態と異なる記載がされていたと認められるので,その信用性は低く,到底Eの時間外労働時間を推認する資料たり得ない。

>超勤報告書とは,麻酔科に在籍する医師及び技師の超過勤務についての事務局への報告書であり,各麻酔科医がG医師に時間外勤務として申告した時間数を基礎として作成されていた。各麻酔科医は,麻酔を施術している時間や診療している時間以外の府立病院内にいる時間を超過勤務として申告することに抵抗があったことや,上記のとおり財源からの制約があったことなどから,実際に超過勤務していた時間に比して過少申告する傾向があった。例えば,麻酔台帳に基づいて作成されたF部長作成の発症前の勤務状況に関する事項と題する書面によると,平成8年2月27日は午前12時から午後9時20分までEが緊急麻酔を施術したとされているが,超勤報告書上は1時間の超過勤務とされており,実態に合致しないし,麻酔科においては毎朝午前8時から1時間の時間外勤務が行われていたにもかかわらず,超勤報告書にはゼロと記載されている日が少なくなく,また,各医師の超過勤務時間の数値が一致している日が多いなど,超勤報告書には不自然な部分が多い。
以上からすると,超勤報告書は麻酔科医の時間外労働時間をおよそ正確に反映しているとは認められず,その信用性は低く,Eの時間外労働時間を推認する証拠としては採用できない。

ここには、財源の制約から超過勤務手当を申告しづらいというゼニカネの問題が、実際の超過勤務を水面下に隠してしまって結果的に医師の健康を危険にさらすまでにいたってしまうという問題点が出ています。残業代のピンハネとか何とか詰まらんこと言って人が死んでしまってはどうしようもないはずですが。

もう一つ、極めて興味深いのは宿日直についての判断です。

>前記のとおりEが死亡する直前3か月においてEは12回の宿直6回の日直を担当しているが,そのうち麻酔が必要とされる緊急手術が行われたのは,12回の宿直中5回(平成7年12月3日,同22日,平成8年1月3日同19日同年2月17日6回の日直中3回平, , ), (成8年1月27日,同2月10日,同17日)で,およそ2回に1回弱の割合である(日直,宿直を連続して行っている日に午前9時及び午後5時45分をまたいで行われた手術については,日直,宿直それぞれで1回と数えた。また,緊急手術の麻酔以外に,宿日直の主な業務と。)して,ICUにおける患者の集中治療,院内患者の突発的な生命の危機の際の救命処置があり(甲18・275頁,特別の緊急事態でない場)合であっても,看護師が医師の判断を尋ねるべく,宿直,日直医師へ連絡をとることが多く,宿直の際に連続して睡眠をとることは難しかった(I医師・19頁。宿直の際の睡眠時間について,I医師は「1日あ)たり4時間とか,あと2時間,2時間,2時間という感じもとれるかもしれませんけれど,それは日によって違います(I医師・12頁) 。」と証言し,F部長は「3,4時間は。徹夜のときももちろんあるわけですけれども,そうでなければ3,4時間ぐらいはあると思います(F 。」部長・33頁)と証言している。
以上からすると,宿直時には徹夜になることもあり睡眠時間は平均すると概ね4時間程度しかとることができず,日直についても,通常の平日の勤務と同程度の負担があったものと認めるのが相当である。重症当直については,そもそも患者の容態が重篤である等の理由によって,正規の勤務時間を超えて深夜に及ぶ経過観察や診療に従事する場, , 合をいうのであり一般にそのまま泊まり込んで担当患者の急変に備え必要に応じて当直医の支援にあたるものである以上,宿直と同様の負担があるものと認めるのが相当である(甲18・236頁。)そして,前記のように負担の大きな宿日直,重症当直を,Eは平成7
年4月から死亡する直前月の平成8年2月まで,月平均で日直を1.9回,宿直,重症当直を7.5回行っていた。

「宿直時には徹夜になることもあり睡眠時間は平均すると概ね4時間程度」というのはひどい状態ですね。ところが、日直の時間は労働時間にカウントされていますが、宿直の方はカウントされていないように読めます。

>以上から,Eが出勤した日の労働時間は午前8時から午後9時までの13時間から休憩時間45分を控除した12時間15分と認め,日直の労働時間は午前9時から午後5時45分までの8時間45分から休憩時間45分を控除した8時間と認めた上,1週間あたり40時間を超える部分を時間外労働と認める。

宿直時間については、

>前記のとおり,Eの時間外労働時間は長時間に及び,平成7年9月から平成8年2月までの1か月あたりの時間外労働時間は,いずれも88時間を超え,量的な負荷は大きく,また,本件業務の主たるものは人の生命や身体の安全に直結するものであり,質的な負荷もまた,極めて大きいものであったというべきである。
さらに,前記のとおり,平成7年4月から平成8年2月までの間,1か月平均で1.9回の日直,7.5回の宿直及び重症当直を担当しており,特に宿直及び重症当直においては,その負荷は肉体的にも精神的にも大きかったというのが相当である。

という記述からすると、時間外労働の外枠として考慮しているようです。このあたりについては、そういう判断でいいのか疑問が残るところでしょう。

東京新聞のまともな社説

久しぶりに新聞の社説を褒めることができます。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2007041802009634.html

「ハローワーク 安全網を誰が担うのか」

例の民間議員の提案について、まずはハローワークの現状に対して軽くジャブ。

>非効率な役所仕事を減らし民間に任せるという方向は理解できる。

>職員の不祥事や横柄な態度などハローワークに対して抜本改革を求める声は今も強い。市場化テストで競争の風にさらす意味もあろう。

しかし、それだけで話を分かってしまわないのが論説委員の最低要件でしょう。

>だが生存権と勤労権にかかわる問題は慎重さを要する。とくに障害者、母子家庭の母親、生活保護受給者など就職が簡単でない社会的弱者への配慮を忘れてはならない。

>ハローワークに来る求職者の約三割が中高年などの失業者で、これに障害者たちを合わせると七割が社会的弱者である。職業紹介を民間委託した場合、こうした人たちが公平・公正に扱われるのか不安が残る。

>民間企業は利益追求に走りがちだ。規制緩和では偽装請負や実体のない大学の出現など不祥事が後を絶たない。委託業者がハローワークの情報を流用したり弱者に対して差別的な扱いをしたら、安全網でなくなる。不正防止策の確立が課題だ。

実際、市場化テストに手を挙げている某企業は、弱者は相手にしたくないと明言しているわけです。

そのあとにILO条約の話がきますが、ハローワーク関係者(とくに組合だよ!)が耳をかっぽじってよく聞くべきは、

>もちろんILO条約は公務員の雇用維持のためにあるわけではない。営業時間延長や休日営業などハローワークも大胆に変わるべきだ。失業者たちが安心して立ち寄れる場所。その原点を忘れてはいけない。

というところでしょう。

2007年4月19日 (木)

発癌物質・催奇性物質及び生殖毒性物質への曝露規制第2次協議

欧州委員会が標記安全衛生関係指令の改正について、労使団体に対する第2次協議を行ったようです。

http://ec.europa.eu/employment_social/social_dialogue/docs/carcinogens2_en.pdf

第1次協議が2004年の4月ですから、3年ぶりですね。こんな技術的な話で何で3年間も必要だったのか、よくわかりませんが。

2007年4月18日 (水)

日本経団連の「官民協力による若年者雇用対策」意見書

日本経団連が昨日、「官民協力による若年者雇用対策の充実について-労働市場のマッチング機能強化に向けて-」と題する意見書を発表しました。

http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2007/030.pdf

いろんなことが書いてありまして、かなりの部分はその通りという感じです。

まずもって企業自身が、新卒採用に偏る採用などの見直し 、年齢などに偏重した処遇制度の見直し、いわゆる正社員への登用の仕組みの整備をせよ、またトライアル雇用制度や実践型人材養成システムを活用し、ジョブ・カード制度に協力しよう、そして、学校教育から労働市場への移行をサポートするため、インターンシップや職業観醸成プログラムに積極的に協力するとともに、教職員の民間企業研修にも協力しよう、というわけです。

政府に対しては労働市場のマッチング機能を高めるため、ハローワークの見直し、機能強化を図れというわけで、具体的には、

>ハローワークは、無料かつ全国的な職業紹介組織を維持しつつも、現在問題となっている「就職氷河期」にやむを得ずフリーターとなった年長フリーターなどに対象者を特化したサービスも提供するよう、そのあり方(立地・サービス内容など)を見直すべきである。もちろん、今後も環境変化を踏まえた対象者の一層の絞込みやサービスの重点化が必要である。

と提起しています。また、

>在学中の学生に加え、中途退学・早期離職・新卒採用市場でマッチングしなかった者など、その意欲と能力を十分に発揮できていない若年者などへの支援拠点を用意し、学校から労働市場への円滑な移行をサポートすべきである。現在、政府はさまざまな求職活動支援施策や職業訓練施策を提供しているが、そのさらなる有効活用に向け、ハローワークを中心に若年層のさまざまなニーズに対して、ワンストップで支援ができる拠点を整備すべきである。

とも主張しています。まさに適切な指摘であって、対象を絞ったワンストップ化が重要な課題だと思います。

>学校における職業紹介などとハローワークを有機的に結びつけ、学生がハローワークを積極的に活用することを促進していくべきである。

というのも、まさにその通りでしょう。

その後に、(御手洗会長の名前が入った形で経済財政諮問会議の民間議員の意見が出されている以上、当然ではありますが)「民間開放の拡大」というのが出てきます。もっとも、「国が維持すべき最低限の職業紹介機能の効率化を図りながら、職業紹介事業の民間開放を一層進めていくべきである。労働市場のマッチング機能を高めるため、民間のカバーする範囲を拡大し、官民が相互に補完しあうきめ細かいサービスの提供体制が構築されれば、若年者雇用対策にも資することとなる」というのは大変もっともな意見です。

ただその後に、「求職者の希望により有料の民間職業紹介機関を利用し、再就職した際に、求職者が負担する職業紹介手数料に再就職手当を充てる仕組みなども検討すべきである」なんてのが出てくるのは、いささか有料職業紹介業者の個別利害に引き寄せられすぎている感があります。

後の方に出てきますが、「現在は年収700 万円以上の職業紹介に限って求職者から手数料を徴収することができるが、求職者の立場に立てば、手数料を負担してでも有益な求人についての職業紹介を受けたいというニーズもあろう。民間職業紹介のさらなる利用を促進するために、求職者手数料の徴収が可能な範囲についてはさらなる見直しを検討するとともに、一律に年収のみを基準として求職者の手数料負担の可否を決める仕組みは見直すべきである」という意見も出しているんですね。私はこちらはそうだろうなと思います。求職者が身銭を切ってでもいい就職をしたいというのを、ダメだという必要はなかろう、まあ経団連は年収400万でホワエグだと言っていたこともあるので、700万は高すぎだろうということになるんでしょうけど。

いずれにしても、本人が払いたいといってるのをダメだということはなかろうという話と、本人が払えなくても有料職業紹介業者が手数料を国から貰いたいという話とが共存しているのはいささか身勝手な感があります。まあこれはご愛敬ですか。

実は、ハローワーク側がもっと深刻に受け止めるべき指摘がそのすぐ後にきます。

>ハローワークはサービス提供機関であることを念頭に置き、求職者などがより利用しやすい環境を整え、その取組みの周知を徹底していく必要がある。たとえば、インターネットの利用や携帯電話向け求人情報提供サービスを拡充することのほか、在職者に対する職業相談、職業紹介を行うためにも、ニーズがある地域については、日曜日や平日夜間のサービス提供を拡充すべきである。

そういえば、経済財政諮問会議でも、休日開庁がけんもほろろに断られた云々という発言がありました。現在一部の職安では夜間土曜の開庁をやってはいますが、やはりそこがお役所仕事、民間ならもっと長時間年中無休でやってるぞ、と言う声が出てくるわけです。それにきちんと応えられなければ、求人開拓やりたくない民間業者にすら負けますぞ、という話ですね。

あと、訓練の話とかもいろいろありますが、興味深いのは最後のこれです。

>政府が、失業等給付を除くほとんどの雇用対策の財源を一般会計予算によらず、雇用保険二事業の保険料に依存している現状は適切でない。事業主の相互扶助である雇用保険二事業の無原則な拡大は行うべきではなく、事業を絶えず精査し、事業主拠出の雇用保険料で負担することが説明できない施策については、一般会計による負担も検討していくべきである。

これは全く賛成ですので、ひよわな労働官僚が大蔵省相手に大幅な一般会計予算を要求していけるよう、経済財政諮問会議でも応援方宜しくお願いしますね・・・なんて言うと叱られるかな?

2007年4月17日 (火)

ETUCの労働法グリーンペーパーへのポジション決議

去る3月20,21日にETUCの執行委員会が採択した労働法グリーンペーパーに対するポジション文書が公開されました。

http://www.etuc.org/a/3557

http://www.etuc.org/IMG/pdf/Annex04-04-07.pdf

ネオリベラルっぽいフレクシキュリティに対する批判も激しいですが、私が個人的に大変興味を惹かれたのは、そもそも協議の仕方が間違ってるという批判です。

このグリーンペーパーは、広く一般に対する協議という形をとっていて、EU条約で規定された労使団体に対する協議という形をとっていません。

労働法の話をするのに、労使団体をさしおいて(と言うかそれを単なるワンノブゼムにして)一般に協議するとは何ごとか、というのがETUCの怒りなわけです。

条約上の労使への協議というシステムは、三者構成原則をEUの立法過程の中に現実化したものですが、確かに広く一般に協議というやり方では、皆様のご意見を聞きましたということにしかならない危険性があります。

しかもその内容が、正規労働者の雇用保護が過剰だから非正規労働者の雇用が不安定になるんだ、その辺をもっと柔軟化しろという労働側から見ればとんでもないものを含んでいるだけに、差別禁止問題のようなやはり労使への協議が召し上げられてしまった領域以上に腹が立つわけでしょう。

というか、差別禁止で労使に協議しないことに対しては、使用者側がけしからんと怒りをぶつけているのに労働側は黙っていて、こなた労働法グリーンペーパーについては、労働側が手続論をふりかざしているのに使用者側は中味についてしか文句を言わないという奇妙な(いやよくわかる)対照性を示しています。

この問題は、実は現在の日本においても、経済財政諮問会議の労働ビッグバンと三者構成原則に基づく労政審という形で、大変アクチュアルな問題なんですね。

いやあ、ありとあらゆるところで日本とヨーロッパが同時代的であることに感心します。

2007年4月16日 (月)

ソクハイに労組

朝日の記事ですが、

http://www.asahi.com/business/update/0414/TKY200704140221.html

>バイク便大手「ソクハイ」(本社・東京都品川区)で働くバイク便や自転車便スタッフが、労働組合「ソクハイユニオン」を結成した。「実態は労働者なのに契約が個人事業主扱いなのはおかしい」として、雇用契約への切り替えや社会保険料の負担などを会社側に求めている。上部団体の連合によると、バイク便業界での大規模な組合結成は初めてという。

>同ユニオンは今年1月に結成。組合員数は非公表だが、上山大輔執行委員長によるとスタッフの過半数が所属している。同社のホームページではスタッフは700人弱。

 同ユニオンによると、スタッフは、「個人請負契約」を会社側と結んでいるが、実際は労>時間が管理され、移動経路も具体的に指示されるという。労災保険に入っていないため、配送中に事故にあっても治療費などは自己負担となる。

>自転車便スタッフの一人でもある上山執行委員長は「自分の裁量で仕事をとるのは難しい。閑散期の保障もないので、完全歩合制でなく最低保障をつけて欲しい」と訴える。

>ソクハイ総務部は「折衝中のため、現在はコメントを控えている」と話している。

これが他のガテン系とかなんとかの非正規労組と違うのは、彼らが契約上雇用契約ではなく個人請負契約になっているというところです。これが相当に問題を孕んでいることは、阿部さんの本を読んでも分かりますが、これが労働委員会に行って労働者性の判断というようなことになってくると、労働法学的にもたいへん興味深い事態となります。

この問題は、昨年萌えたいわゆる偽装請負とは別の(そっちはどのみち労務供給請負であることにはかわりはない)、より言葉の正確な意味での「偽装請負」問題、つまり雇用なのか請負なのかという問題なんですね。強い関心を持って見守っていきたいですね。

2007年4月15日 (日)

労使関係の将来像に関する素案的メモ

 労働分野の規制緩和として八代尚宏氏が論じていることには、大きく分けて3つの論点がある。第1は実定法によって具体的に雇用労働条件を規制する問題、第2は雇用労働条件をミクロレベルで設定するための集団的労使関係の枠組みの問題、第3は政治的意思決定プロセスとしての三者構成原則(とりわけ組織率の低い労働組合のみが労働者の代表として参画していること)の問題である。

 労働関係の実定法規制には、安全衛生など絶対的な最低基準を設定して権力によって守らせるべきものと、賃金水準など規制内容は集団的労使関係に委ね、その交渉・協議枠組みを法定するべきものがある。ただ、現実には両者の区分けは難しく、強行的規制とされているものが本来労使に委ねるべきものではないかという議論は常にあり得る。八代氏が指摘するホワイトカラーエグゼンプションなどは、この観点から論じられるべきものであろう。
 この関係で両義的なのが解雇規制である。これ自体は絶対的な最低基準ではあり得ない。しかし、解雇が自由ということは、他のいかなる雇用条件の要求をも空洞化させる危険性があることからすると、他とは異なった取扱いが必要となる面がある(後に再論)。
 八代氏ら規制改革派は、基本的に労働者側の戦術としては(ハーシュマンのいう)「発言(voice)」ではなく「退出(exit)」のみを有効と認める立場のようであるが、これは労働市場を常に売り手市場にしていくことを前提とするものであって、いわゆる「守旧派」ならともかく「構造改革派」の立場とは矛盾するはずであろう。労働市場が常に絶対的売り手市場でないことを前提とするならば、「転職の自由」を保障するだけでは足らず、何らかの「発言」のメカニズムが不可欠であり、そこから上で(ミクロ的に)労使に委ねるという場合の「労」の中味が問題となる。
 これは現在労働契約法制(とりわけ労働条件の不利益変更)をめぐって過半数組合と労使委員会ないし過半数代表者の問題として論じられている点であるが、結論から言えば、労働組合そのものを単なる任意的結社ではなく公的性格を有する労働者代表機関としていく方向が望ましいと考える。多数に上る非組合員を代表し得ない労働組合にも、使用者の関与する非組合的代表にも、基準設定を委ねられるべき正統性が欠けるからである。(この関係で、スウェーデンの労使関係モデルが参照されるべきである。)

 マクロレベルの意思決定プロセスにおける三者構成原則も、基本的には同じ観点から論じられるべきである。「転職の自由」だけで労働者の利益が守られるのであれば、産業革命期から守られてきたはずである。そうではないからこそ、何らかの「発言」のメカニズムが工夫されてきたのではないか。ベルサイユ条約に由来する政労使三者構成原則は、労働法政策という公共的意思決定メカニズムに明確に労働者の「発言」を組み込むシステムとして先進世界共通のルールとして確立してきたし、特にEUではそれが憲法レベルの規範として明記されるにいたっている。
 問題は、八代氏が鬼の首を取ったようにいう「労働者の2割に満たない労働組合」が労働者の代表となっている事態をどう考えるかである。このことを「発言」メカニズムを縮減する正当化根拠にしないためには、その他の(主として非正規労働者からなる)労働者の意見をくみ上げるシステムの確立が必要である。これは、中長期的には上記のような労働組合の公的機関化によって対応すべきではあるが、当面の対策としては、例えば審議会委員としてあえて非正規労働者枠をいくつか設け、多様な利益を代表しているということを明示するというやり方が考えられよう(これが各産別にとって難しいことは踏まえて上で)。

 ややグローバルな観点から見ると、ミクロレベルの規制緩和とマクロレベルの三者構成原則の強化とが今日の流れであると言える。日本の規制緩和派が見落としているのは外ならぬこの点である。
 上述の解雇規制の緩和は、今日のヨーロッパ社会においても鋭く議論されている点であり、フランスの初回雇用契約をめぐる騒動はそれを象徴している。ここで注目すべきは、同契約を提案したドビルパン首相は、OECDの雇用戦略の方向性に則り、デンマークモデルに倣おうとして提案したということである。デンマークは、解雇規制が極めて緩やかであるが、失業給付が寛大で積極的労働市場政策がとられており、失業率は低い。OECDはこの点を捉えてデンマークの「ゴールデン・トライアングル」と呼んでいるが、デンマークの最大の特徴は労働組合の組織率が8割以上と極めて高く、しかも労働に関する実定法はほとんどなく、大部分はナショナルレベルの労働協約によって設定されているという点である。失業給付もいわゆるゲントシステムで、労働組合員の共済制度という面がある。つまり、デンマークという国自体が一つのグループ企業のようなものであり、そのグループの労使間でものごとを決めているから、個別企業レベルで解雇が自由であっても、失業給付が寛大であっても、それがモラル・ハザードを産み出すことなく、社会全体がうまく回っていると言えよう。
 ここで解雇規制の緩和について一定の方向性を示すつもりはないが、仮に非正規労働者の利益のために解雇規制の緩和が必要であるという論理を提示するのであれば、それが社会的排除や価値剥奪に結びつかないための条件として、マクロレベルの三者構成原則の強化を併せて求めるのでなければ、筋が通らないと思われる。
 ミクロでも規制を緩和し、マクロでも労働者の「発言」を削減するという道は、労働者に唯一可能な選択肢として「退出」しか与えない。経済財政諮問会議委員たる八代氏は、それが今後永遠に可能なように、未来永劫赤字財政を一切無視して膨大な景気刺激策をとり続けるおつもりなのであろうか。

2007年4月13日 (金)

民主党の雇用3法案

私は別に民主党の悪口を言うのが目的ではないんですよ。

http://www.dpj.or.jp/news/dpjnews.cgi?indication=dp&num=9871

http://www.dpj.or.jp/news/files/kihonhouan2(2).pdf (雇用基本法案)

http://www.dpj.or.jp/news/files/nenrei3(2).pdf (労働者の募集及び採用における年齢に係る均等な機会の確保に関する法律案)

http://www.dpj.or.jp/news/files/jyakunen5(2).pdf (若年者の職業の安定を図るための特別措置等に関する法律案)

それにしても、雇用基本法案は要するに雇用対策法の改正じゃないですか。政府の改正法案が雇用対策基本計画の規定を削除しているので、その分を別に雇用基本法にして。ていうか、雇用対策法ってのは、もともと「雇用基本法」にしようとして、そういう名前が通らなかったから「雇用対策法」で我慢したという経緯があるわけで、いやそれを今回雇用基本法に改名するんだというのであれば、それはそれで結構なんですが、雇用基本法とは別に雇用対策法を残すというのがよく分からない。何ですか、職業転換給付金の根拠法として残すんですかねえ。あんまり意味があるとは・・・。

若年者法案は、ある意味でいかにも雇用対策で役人が考えついた法案という感じが横溢していて、なかなかいいですねえ。若年者等職業カウンセラーとか、法律が無くてもやれることをあれこれ法律上に規定して、最後の決め手が委託募集の特例というところが、いかにも職業安定局が作りましたという感じで渋いです。

いやからかっているんじゃなくて、私も若年者雇用対策の根拠法は(なくても予算措置でやれるけれども、積極的にアピールするためには)あった方がいいと思っていますので、実は賛成です。

ただですねえ。若年者の定義が遂に「十五歳以上四十歳未満の者(十五歳に達する日以後の最初の三月三十一日までの間にある者を除く。)」となってしまいました。人生の半分に達するまでは若年者なんですねえ。

日経病の病原体?

権丈先生の「勿凝学問」シリーズ、ますます快調で第75巻、日経新聞の社説を完膚無きまでに叩いていて、ふむふむ、ここにも日経病があったか、という感じですが、読んでいくうちに見たことのある名前にぶつかりました。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare75.pdf

>今日はひとつ、新聞の読み方を解説しようと思う。題材は、日経新聞――この新聞、ちょいとおもしろいよ。新聞の顔とも言える、社説に嘘八百のトンデモナイ記事を載せるところでもある。

>ここ数年の日経の年金記事のおそらくそのほとんどを大林尚氏という記者が書いているのだろうけど、彼は新聞記者でありながら取材をすることもなく事実を見ないままに社是に合わせた記事をかく癖があるようなのである。彼の文章を見ているとかなり頻繁にそうした特徴がうかがえる。

大林尚氏・・・、最近どこかで見た記憶が・・・と思ったら、去る日曜日の「けいざい解読」に「テストが嫌いな官僚たち」というトンデモ記事を書いていた編集委員さんでした。

ネット上には載っていないので、リンクを張れないのですが、こういうことを平気で言える方です。

>求職者と企業との間を取り持つ仕事に民の創意工夫をもっともっと早くから生かしていれば、フリーター・ニート問題がこんなに深刻にならなかった可能性もあろう。労働官僚は省益を守って国益を損なったと言えないか。

写真についたキャプションはなんと「職安の職業紹介業務は官が独占している」です。

ちゃんと分かっている人には、いかにトンデモであるかが分かるのですが、1999年の職業安定法改正によって、民間企業は原則として自由に職業紹介事業を行えます。できないのは建設業と港湾運送だけです。この点については、私は個人的には緩和してもいいのではないかと思っていますが、いずれにしても、それ以外のいかなる職業についても、「職業紹介業務は官が独占している」などという台詞はウソです。

まあ、そこは分かっているものだから、「職安の」という形容詞をつけているのでしょうね。そりゃそうでしょう。都バスの運送業務は都が独占しています。だけど、都バス以外のバス事業は民間会社がやってます。ウソは言っていないよ、と言い訳できるようにして、あたかも職安が「職業紹介業務を独占」しているかのごとく無知な読者をたぶらかそうという手練手管です。

1999年に規制緩和がされたのですから、バブル崩壊のずっと前です。フリーター・ニート問題が深刻になるずっとずっと前です。そのときから、「求職者と企業との間を取り持つ仕事に民の創意工夫をもっともっと早くから生か」すことは十分可能だったんですよ。民間職業紹介事業の皆様がその気にさえなればね。(コメント欄でご指摘がありました。怒りの余り、時間軸の感覚がいささかねじれたようです。職業紹介の規制緩和がされたのは今から8年前で、バブルの崩壊後です。そろそろフリーター・ニート問題が意識され始めた頃ですね。まあ、8年もあれば民間業者による実績が出ていても悪くはない期間ではありますが。)

要するに、民間営利事業の皆様は「その気にならなかった」わけです。そりゃそうです。フリーターだのニートだの、コストばっかりかかって、全然儲けにならないでしょうから、規制緩和されて自由にやれるようになったからといって、やらなければならない理由はありません。やりたいところだけやって、やりたくないところはやらないというが、自由市場経済のいいところですからね。

その「やりたくないところ」もやっているハローワークを俺によこせ、ただし、求人開拓しなくちゃいけないようなのはいやだ、障害者だの、生活保護だの、就職困難者だのといった甘くないところはいやだから、外に放り出すぞ、というのがこれに手を挙げている会社のご意向なのですから、そこのところは(価値判断をどうするかは別にして)正しく伝えるのでなければ、まさに嘘八百を塗り固めたでっち上げ報道といわなければなりませんね。

いよぎんスタッフサービス事件または大蔵省のトンデモ指導

本日の労働判例研究会で報告したもののメモです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/iyobank.html

この事件は大変有名で、既にさまざまな評釈がされていますが、大蔵省のトンデモ認識とそれに基づくトンデモ指導の問題点を指摘したのはこれが初めてではないでしょうか。

こういう判決がそのまま生き残っていくと世の中のためにならないので、是非最高裁は適切な判断をしていただきたいですね。

ネオリベの日経、リベサヨの毎日

日経病のついでに毎日病にも触れておきましょうか。

http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/archive/news/2007/04/20070409ddm005070020000c.html

「社説:職安市場化テスト 首相の指導力も問われる」と、基本的な方向性は日経病の方と同じなんですが、その理屈の付け方がいかにもリベサヨなんですねえ。

>公共職業紹介については、国際労働機関(ILO)88号条約で、国が無料の公共職業安定組織を設置・運用し、職員は公務員とすると定めている。厚労省は、この条約を盾にとって、この10年間、公共職業紹介の民間開放を拒否してきた。

>この10年間とは何か。企業が雇用、債務、設備の三つの過剰を抱えてリストラに取り組まざるを得ない時代だった。正規社員が大幅に削減され、新卒者は就職氷河期に苦しみ、失業率は高い水準で推移した。流動化した就職市場に対応するため、公共職業紹介にも新たな取り組みが要請されていた。

>その時に厚労省は、ILO88号条約をハローワーク職員の雇用を守る保障と解釈し、かたくなに民間開放を拒んだ。それでいてハローワークには、職員が企業を回って職を掘り起こす意欲も能力も乏しかった。

>結果として、リストラに遭った人々や若者は、フリーターやアルバイト、人材派遣や契約社員などの不安定な仕事につかざるを得なくなった。

うーーーむ、求人開拓なんてめんどくさいのは入札しない民間企業は、この手の発想の中では可哀想な非正規労働者を救う白馬の騎士になっちゃうんですねえ。

>ハローワークへの市場化テスト導入に抵抗を続ける厚労省の姿勢は、国民のニーズよりも公務員としての既得権益を優先させるエゴイズムとして、厳しく批判されるべきだ。

この手の発想には、国家権力がすべての悪の源泉であるという新左翼的リベラリズムが顕著に窺えますが、それが国家民営化論とかアナルコ・キャピタリズムとか言ってるうちに、(ご自分の気持ちはともかく)事実上ネオリベ別働隊になっていくというのが、この失われた十数年の思想史的帰結であったわけで、ネオリベむき出しの日経病よりも、こういうリベサヨ的感覚こそが団塊の世代を中心とする反権力感覚にマッチして、政治の底流をなしてきたのではないかと思うわけです。毎日病はそれを非常にくっきりと浮き彫りにしてくれていて、大変わかりやすいですね。

2007年4月12日 (木)

ハローワーク等分科会

本日、公共サービス改革法(いわゆる市場化テスト法)に基づく官民競争入札等監理委員会の公共サービス改革小委員会ハローワーク等分科会が開催されたようです。

http://www5.cao.go.jp/kanmin/kaisai/bukai/hellowork/2007/412/412.html

ここには議事次第と資料が載っているだけなので、どういう議論になったのか分かりませんが、実態を見ない空疎な議論にならないことを祈りたいと思います。

大体、「市場化」すべきかどうかは別にして、「公共サービス改革」が必要であることは誰もが一致するところなのですし、ILOも、労使団体や非政府組織が労働行政の一部を担うことを認めているのですから、甘いクリームを舐めたいという特定企業の意向をいかに実現するかではなく、公務員の官僚主義ではなかなか手が届かないところにいかに民間人の社会への貢献意欲を活用するかといった観点からの議論に進んでいって貰いたいと思います。

2007年4月11日 (水)

日経病

先週、「頭の空っぽな日経の記者並みの「どんな民でも民は即ち善」という発想では困るわけです」と書いたときには、まさかそれを一字一句証明するようなコラムを書いてくれるとは想像もしておりませんでしたよ、はい。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_e43f.html

ところが、そのすぐ後の日経のコラムに、署名入りの「3度目の正直なるか、ハローワークが問う改革姿勢」が出てくるのですから、呆れてものもいえません。

http://www.nikkei.co.jp/seiji/column.html

このコラムの凄いところは、「官業の民間開放の切り札とされる「市場化テスト」導入が足踏みしている。権限縮小を嫌う厚生労働省が、ハローワーク(公共職業紹介所)の中核業務である職業紹介へのテスト適用に激しく抵抗」といったそのすぐ後に「すでに民間開放が決まった他の業務では、民間企業が1社も手を挙げないため、官が民と競うことなく引き続き事業運営を担うという事態も発生した」と書いて、ご自分の矛盾に気がついていないことです。

あまつさえ、「ところが、現実は課題が山積している。例えば雇用情勢の厳しい地方で企業から求人を募る「求人開拓事業」。4月からの導入に向けて3月に入札を実施したが、全5地域のうち3地域で落札業者が決まらず不調に終わった。このうち2地域では応札企業が現れず、もう1つの地域は2社が名乗りを上げたものの、応札価格が上限となる予定価格を超えたため落札できなかった。結局、3地域では官が継続して事業を運営することになった」と、問題点が受託する側の民間企業にあることを正直に書いていながら、それが民間企業側の問題であるということを全然認識していなさそうであるところですね。

東京23区内の甘いクリームは舐めたいけれども、しんどいばっかりで実入りの少ない苦いところはやだ、ってな我が儘をなぜ厚生労働省は認めないのか、と居丈高に書き連ね、あげくに「職業紹介の市場化テストが3度目の正直で適用されるかどうかは「民間活力の活用」を掲げた安倍改革の先行きにとっても試金石となりそうだ」では、本当に活力のある民間が泣きませんかね。

ILOの三者構成原則

1 ILO自体の三者構成原則

 ILOは第一次大戦直後にベルサイユ条約によって設立されたもっとも古い国際機関の一つであるとともに、政府代表だけでなく使用者団体及び労働組合の代表がその意思決定機関に正式に参画する今なお唯一の国際機関である。

(1) ILO憲章

・加盟国の代表者の会合は、必要に応じて随時に、且つ、少なくとも毎年1回開催する。総会は、各加盟国の4人の代表者で構成する。そのうちの2人は政府代表とし、他の2人は各加盟国の使用者及び労働者をそれぞれ代表する代表とする。(第3条第1項)
・加盟国は、各自の国に使用者又は労働者をそれぞれ最もよく代表する産業上の団体がある場合には、それらの団体と合意して選んだ民間の代表及び顧問を指名することを約束する。(同第5項)
・理事会は、次の56人で構成する。政府を代表する28人、使用者を代表する14人、及び労働者を代表する14人(第7条第1項)
・使用者を代表する者及び労働者を代表する者は、総会における使用者代表及び労働者代表がそれぞれ選挙しなければならない(同第4項)

(2) フィラデルフィア宣言

・総会は、この機関の基礎となっている根本原則、特に次のことを再確認する。
(a)労働は、商品ではない。
(b)表現及び結社の自由は、不断の進歩のために欠くことはできない。
(c)一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である。
(d)欠乏に対する戦いは、各国内における不屈の勇気をもって、且つ、労働者及び使用者の代表者が、政府の代表者と同等の地位において、一般の福祉を増進するために自由な討議及び民主的な決定にともに参加する継続的且つ協調的な国際的努力によって、遂行することを要する。

2 加盟国の三者協議

(1) ILO基準(144号条約・152号勧告)

 ILOの制定する国際労働基準に関する国内三者協議体制を要求したもの。

・批准加盟国は、[ILOに対する回答や報告の提出、条約や勧告の権限ある機関への提出、未批准条約の実施のための措置の検討等]について、政府、使用者及び労働者の代表者の間で効果的な協議を行うことを確保する手続を運用することを約束する。(第2条第1項)

(2) 労働行政(150号条約・158号勧告)

 労働行政一般について三者間の協議体制を要求したもの。

・この条約の適用上、・・・「労働行政制度」とは、労働行政について責任を負い又は労働行政に従事するすべての行政機関、並びにそのような機関の活動を調整し、使用者、労働者及びそれぞれの団体との協議並びにこれらの者及び団体の参加を確保するための制度的枠組みをいう。(第1条第b号)
・批准加盟国は、国内法令又は国内慣行に従い、労働行政の一定の活動を非政府団体、特に使用者団体及び労働者団体、又は、適当な場合には、使用者及び労働者の代表者に委任し又は委託することができる。(第2条)
・批准加盟国は、その国内労働政策の分野における特定の活動を、国内法令又は国内慣行に従い使用者団体と労働者団体との間の直接的交渉によって規制される事項とすることができる。(第3条)
・批准加盟国は、労働行政制度内において公の機関と最も代表的な使用者団体及び労働者団体又は、適当な場合には、使用者及び労働者の代表者との間の協議、協力及び交渉を確保するため、国内事情に適する措置をとる。(第5条第1項)

労働政治の構造変化

大原社会問題研究所雑誌の3月号に、五十嵐仁さんの「労働政治の構造変化と労働組合の対応」という文章が載っています。

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/580/580-05.pdf

この方は、左派系の政治学者で、冒頭部分で久米郁男さんの『労働政治』を批判していますが、最近の動きが反映されていないといった点を別にすれば、いささかイデオロギー的な非難が目につき、「ちょっとね」という感じです。

それはともかく、90年代以降の労働政治の構造変化という論点は、私にとっても大変関心のあるテーマですので、若干のコメントをしたいと思います。

彼が言う構造変化とは、

①90年代中葉以降におけるアメリカからの対日圧力の包括化,

②96年からのネオ・リベラリズム(デュアリズム)政策の本格化と労働政策分野における戦略的政策形成システムの導入,

③労働政策分野における政策形成パターンの分化,

④連合における戦略と行動の変化

なのですが、いずれも突っ込みどころが満載です。

①はこのブログをお読みの皆さんには今さら言うまでもないでしょう。非常にマクロな観点で言えば、アメリカ型の株主資本主義の圧力が日本やヨーロッパにかかってきていることは確かですし、それが政策変化の一つの原動力となっていることは確かですが、この文章で取り上げられている年次改革要望書や日米規制改革イニシアティブに書かれている個々の改革要求をアメリカによる「横からの入力」と解釈するのは、あまりにもナイーブというものです。少なくとも専門家が見れば、どこの国の人間が書いた要求かは見え見えなのですから。

②は、「96年」という数字があまりにも意図的で、「をいをい」です。五十嵐さん曰く、

>このような「横からの入力」の包括化・恒常化に屈する形で,96年から新自由主義的政策が採用され,ネオ・リベラリズム(デュアリズム)もまた本格化してきたことが確認できる。96年1月に発足した橋本政権は10月総選挙後に5大改革を提示し,後にこれは6大改革となった(33)。これが一つの指標であり,同時に,労働分野における規制緩和の促進についても本格的に取り組まれるようになる。

ふーーーん、橋本内閣からネオリベ政策が始まったんですかあ。

その前の村山内閣は社会主義的だったんですかあ。

与党(自民・社会・さきがけ)の組み合わせには何の変わりもないんですけどねえ。

そして、何より五十嵐さん自身がそのすぐ後ろで書いておられるように、

>これらの動きに呼応する形で,95年3月に「規制緩和5か年計画」が発表され(41),12月には「行政改革委員会規制緩和小委員会」の報告が出された。そこで取り上げられたのは,労働者派遣,職業紹介,女子保護規定,裁量労働,有期雇用,持株会社などの問題で,有料職業紹介と派遣事業については「不適切なものを列挙」し,その他は原則自由とする「ネガティブリスト」方式を支持する内容となっていた(42)。

これは社会党首班の村山内閣なんですよ。

さらに言えば、規制緩和政策を大きく政策課題に載せたのは、その前の細川内閣の時ですからね。

こういうあたりを正直に書かないと、あまりにも党派性が浮き彫りになってかえってまずいと思うんですがね。

③についても、「特定の分野の労働政策形成における主要な舞台は大きく変化した。厚生労働省から,内閣府の下に設置された戦略的会議に主導権が移ったのである」「こうして,トップダウンによる政策形成システムが成立した結果,三者構成原則は無視され,特定分野についての労働政策形成の場から労働代表は完全に排除されてしまった」という認識は基本的には間違っていませんが、その原動力が何であったかについての政治学的説明が根本的に欠落しています。

この十年あまりのマスコミの論調を追いかけてみるだけで分かるはずです。特定の省庁の特定の審議会に巣食う業界や利害関係者と官僚たちの密室の談合で政策が決められるのがけしからん、もっと透明な政治過程が必要だ、と、利害関係者よりも理論で割り切る学者先生の議論を有り難がって、それを政治改革だ行政改革だともてはやしてきたのは、短慮なマスコミやそれに乗っかって薄っぺらな(少なくとも当該分野の専門的知見に基づいてではないという意味で)評論を量産してきた政治学者の先生方だったんではないんでせうかねえ、と皮肉の一つや二つ言いたくなるのですが、そういう観点はすっぽり抜け落ちているわけです。

労使が入った三者構成の労働政策審議会が、利害関係者の利害調整に基づくものであるが故に、理論を振り回す学者先生や浮き上がった一部経営者の好き勝手な議論でやってる規制改革会議よりもけしからんのだ、という雰囲気を社会全体に振りまいてきたのは一体誰だったのか、学者業界の中で真剣な反省をしていただく必要があるんではないかと、これは本気で考えておりますよ。

これが④につながります。ここに書いてあるように、連合自身、初期には規制緩和マンセーだったわけです。それが労働分野に及んでくるに従い、態度を変えたという記述はその通りです。しかし、それをなんだか、間違っていた連合が悔い改めて正しい全労連に近づいてきた、みたいな書き方になってるんですねえ。これは、労働問題を巡る社会的対立構造を全く無視したトンデモな議論だと思います。

大変ねじれているんですが、80年代の中曽根改革は日本型雇用システムやその与党である後に連合に流れ込む主流派労組を味方につけて反体制的だった官公労を叩くというやり方をとったわけで、それ故に連合は行革賛成であり、そのコロラリーとして規制緩和賛成だったわけです。この段階では、政治的配置状況からすれば、規制緩和は日本型雇用システムを壊すどころか、むしろそれを強化する立場に立つものと認識されていたのです。

逆にこの頃の反体制的な労働運動、おそらく五十嵐さんと仲のよい人々は、日本型雇用システムを個人の自由や自己決定の権利を抑圧するけしからぬものとして非難していたのです。「社畜」という罵言もありましたな。彼らにとって、「団結」とは労働者みんなが集団の力でなにかを実現することではなく、ごく少数の誓約集団が周りからの圧迫に屈せず、法統を護持することであったようであります。36協定などという集団的規制は個人の権利を害するからけしからん。クビを覚悟で残業を拒否できる自立した労働者がえらいわけです。つまり、大変アイロニカルなんですが、集団主義的な日本型雇用システムに対して、自立した個人の自己決定を主張することが中心でした。これが、90年代になって時代の気分に広がっていくんですね。「個の自立」というのが経営者や政府がもてはやすスローガンになっていきます。自己決定の強調と集団的規制の緩和とは同じことですから、実はこれは規制緩和のロジックを純粋な形で準備していたのと同じです。

ここが日本の90年代のネオリベ化の最大のアイロニーなんです。サヨクが一番ネオリベだったのですよ。ここのところを直視しないいかなる議論も空疎なものでしかありません。五十嵐さんの議論はそれを党派的に正当化しようとしているだけさらに悪質ではありますが。

2007年4月 9日 (月)

ある老社会学者のエッセイ

これは雑件です。「日本の労働法政策」に関するエントリーではありません。

加藤秀俊さんという高名な社会学者の方が、猪瀬直樹ブログにこんなエッセイを寄せています。

http://www.inose.gr.jp/mailmaga/mailshousai/2007/070329.html

ホワイトカラーエグゼンプションをネタに書いてはいますが、もちろん、労働問題については何の知識もないまま、大学の先生というご自分の大変狭い経験のみに基づいてあれこれもっともらしいことを書き並べた、まあよくあるタイプの典型的なヨタエッセイではあるのですが、こういうのが偉い先生のご発言として有り難がられるのが、まあ現代日本の知的風景というものなのでしょうね。

相当のご高齢である加藤さんご自身の無知を咎め立てするつもりはあまりありません。むしろ、こういうヨタを政治的に使うある種の人々のやり口が、いかにも典型的だなあ、というのが率直な感想です。

少なくとも、八代先生も、今回の専門委員会報告書に見られるように、この問題については大変的確なご認識をされるに至っているわけで、もはやこういう無知蒙昧を振り回すメリットなどどこにもないのですがね。

6日の経済財政諮問会議結果

桜金造氏も外山浩一氏も含め、都知事選結果は無視して、6日の経済財政諮問会議の結果について書いておきたいと思います。そっちの方が遥かに重要ですから。

http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2007/0406/report.html

これは大田大臣の会議レポートです。労働市場改革については、あまりにも労働者より(!?)の八代委員会報告に対して、

>ワークライフバランス憲章を踏まえて大きな国民運動にするために働き方を変える行動指針をつくるべきだという民間議員の提案に対し、そういうことをやると日本はキリギリスの国になる。働きたい人は働いて、休みたい人は休むのがいいわけで、働かないことがいいことだというのは自由主義に反する。そういう国家に日本をするのか。国家の方向として、週休2日とか有給休暇100%とか、そういうことを決めることには反対。日本が衰退する方向に向かうのではないか

という批判が出たようです。

いやいや、働かないのがいいなんて言ってないわけですよ。働けるのに働いていない、あるいは不十分にしか働いていない人々をもっと積極的に働かせましょうというのが就業率向上なんであって、働いている人の働きすぎを何とかしましょうというのがワークライフバランスなんであってね。

で、安倍首相から

>長時間労働を前提に経済が成り立つというのはおかしい。家族と時間を過ごすということも大事。

>ワークライフバランスを実現させるのは少子化対策の観点からも重要なテーマであり、安倍内閣として本格的に取り組みたい。

>民間議員から提案のあった働き方を変える行動指針というのは、政府部内で十分に連携して取りまとめていきたい。

と発言があったということで、記者会見によると、

http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2007/0406/interview.html

(問)民間議員ペーパーの中には、その行動指針について就業率の向上とか時短ですね、数値目標を明確に掲げてあるんですけれども、これは今日の第1次報告に書かれている数値目標のことを指していると思うんですが、そうした行動指針にはこうした数値目標が、つまりこの1次報告に記されています数値目標を盛り込んでいくということでも合意が得られたということでよろしいでしょうか。

(答)そこまでの合意は得られておりません。つまり、行動指針の策定に向けて取り組んでいくということは了解されております・・・

(問)ですけれども、行動指針を策定するということでは合意を得たと。ただし、今日示されましたこの第1次報告に載っている各数値目標ですね、これを行動指針に載せるかどうかということは、今日はまだペンディングという、そういうとらえ方でよろしいでしょうか。

(答)格別の反対はありませんでしたが、それについて本当によろしいですかという議論をしたわけではありません。ただ、やはり行動指針ですので、何らかの目標は必要だというふうに考えます。

ということで、数値目標まで合意されたということではないようです。まだ議事録が出ていませんので、出た段階でもう一度検討してみたいと思います。

も一つのテーマが、このブログでも何回か取り上げてきたハローワークの民間開放の話です。

八代さん等の提案に対して柳澤厚労相が反論し、それに対して、

>提案しているのはハローワークの機能を壊すのではなく、高めること。

>フリーターなど、マッチングが難しい職業紹介が増えており、なぜ官でなければできないのか。

>人間的な信頼関係は、民でもつくれるはず。

>官のハローワークはきめの細かいサービスを提供しているという説明があったが、それは証明されていない。それを証明するのが市場化テスト。官民競争入札は、どちらのサービスの質が高いかを判定するので、もし民よりすぐれているのならば、それは市場化テストにかけて証明するべき。

>どんなふうにしたら、民間の活力を入れられるのかということを工夫すべき。

>貴重な公務員が窓口業務をやるのではなくて、民にできることは民に任せるべき。

といった意見があったと書かれています。繰り返しになりますが、めんどくさい求人開拓には応募しようとせず、就職困難者は外して受託したいというような「民間」の活力が、ほんとうに労働市場の改善になるのかというのが問題の本質でしょう。「民間」というと、営利紹介や派遣事業だけが民間のようですが、志のあるシビルのパワーをどう活用するかというのも、「官」に対する「民」の重要な要素であるという認識を持つ必要があると思います。

>ILO条約のいわば神学論争ではなくて、利用者にとってどういう運用が望ましいのかという視点が大事。民間が労働者のために情報を提供したり、サービスを提供することが重要。通常、民間の方がいいサービスを提供するではないか。

前半はまさにその通りですが、後半の「通常、民間の方がいいサービスを提供する」という判断自体、誰を念頭において考えているのか、営利企業が舐めたい労働者層だけを想定しているのか、それとも舐めたくない就職困難層を想定しているのかが問題でしょう。

上澄みのクリームだけを舐めようというんじゃないというのであれば、

>東京23区内に19のハローワークとその出張所があるが、そのうち数カ所のハローワークについて市場化テストを実施する。

などといいところだけやろうとするんじゃなくて、青森県や高知県のはじっこのハローワークでこそやってみるべきじゃないでしょうか。

ちなみに、どなたの発言か分かりませんが、

>ハローワークはもっと機動的にあるべきだと、かねがね思っていた。失業率5%だったときに、日曜日でもハローワークは開くべきだということを提案したら、けんもほろろにILO88号条約があるからだめだということを言われた。何のためにハローワークがあるのかということを考えて、民間の参入というのもやるべきではないか。

そんな莫迦なことを口走った人間がいるとは思えませんが、いずれにせよ悪い意味での公務員根性が柔軟性を制約しているのは確かでしょう。このあたりは、某組合方面でもよく認識していただきたいところではありますな。前車の轍とか他山の石とか、拳々服膺すべき諺は山のようにありますぞ。

2007年4月 6日 (金)

草稿

ここまであえて言ってみるか。

えい、言ってみよう。

というわけで、草稿段階ですが、ちょっと踏み込んだことを書いてみました。

*************************************

第1節 格差社会と構造改革路線

 2006年はマスコミや政治家が一斉に格差社会を問題にした年だった。皮切りは2005年12月末に毎日新聞で始まった連載記事「縦並び社会」で、「視点:格差社会考」と題する論説記事と併せてこの問題をリードした。世間へのインパクトという点で大きかったのは、NHKが7月に放映した「ワーキングプア-働いても働いても豊かになれない」だろう。政府側でも、「労働経済白書」が所得格差の問題を取り上げ、特に若者における非正規雇用の増大が将来的な格差拡大につながっていきかねないことに警鐘を鳴らした。国外からも、OECDの対日審査報告書が所得不平等と貧困の問題に一節を割いた。構造改革路線に対する熱狂の季節が過ぎ、格差拡大に対する懸念が政治的課題としてクローズアップされてくる中で、安倍政権は「再チャレンジ支援」を掲げ、格差の固定化を防ぐ「成長力底上げ戦略」を進めている。
 これに対し、野党の民主党もようやく格差問題を取り上げ、2007年には最低賃金やパートの差別禁止を盛り込んだ「格差是正緊急措置法案」を国会に提出した。しかし、小泉政権時代に自民党のいわゆる「守旧派」を批判して「もっと構造改革を進めよ!」と主張していたのは外ならぬ民主党であったし、90年代に遡れば、今日の構造改革路線を進めてきたのは細川内閣、村山内閣、橋本内閣と、かつての社会党系や民社党系が何らかの形で関わった政権であった。例えば、1993年の平岩レポート(細川内閣)は「経済的規制は原則自由・例外規制、社会的規制も不断に見直す」と述べているし、1995年の「構造改革のための経済社会計画」(村山内閣)は「自己責任の下、自由な個人・企業の創造力が十分に発揮できるようにすること」「市場メカニズムが十分働くよう、規制緩和を進めること」を唱道している。皮肉な話であるが、連合はこの10年あまり新自由主義的な構造改革路線を支持し続けることによって、格差拡大に手を貸していたと言えなくもない。
 この政治的配置の奇妙さは、この20年間のヨーロッパにおける新自由主義勢力と社会民主主義勢力の動向と対比すると一層際だつ。ヨーロッパでは80年代にイギリスでサッチャー政権が誕生し、自己責任の下に規制緩和を進める新自由主義政策を打ち出していった。これに対し、社会民主主義勢力は当初従来の福祉国家路線を固守しようとしたが、90年代になって新たな路線を打ち出していく。それは旧来の福祉国家のマイナス面を正面から認め、その構造改革の必要性を打ち出しつつ、市場メカニズムにすべてを委ねるのではなく、新たな社会連帯の在り方を模索しようとするものであった。1993年のEU社会政策グリーンペーパーに始まり、イギリスのブレア政権の「第3の道」、ドイツのシュレーダー政権の「新たな中道」などの形をとりつつ進展してきたこの新たな社会民主主義の思想は、2006年12月の総会で採択されたヨーロッパ社会党の10原則に集約され、2007年2月に発表された政策文書「新たなソーシャル・ヨーロッパ」に詳細に解説されている。
 ここではその内容を紹介することはしない*1。ただ、新自由主義の挑戦に対して社会連帯の在り方を組み換えることによって応戦しようと試みてきたヨーロッパ社会民主主義勢力に比べて、保守勢力が作ってきたそれなりに福祉社会的な仕組みを新自由主義的な思想を振りかざして破壊することに手を貸してきた日本の「革新」勢力の政治行動の奇妙さを正面から問い直すことなしに、ただ目の前の格差拡大を非難するだけで新たな政策路線が打ち出せると考えているのであれば、その将来にはあまり期待が持てないであろう。少なくとも、新自由主義的な「労働ビッグバン」に対して労働者の待遇改善を訴える自民党の雇用・生活調査会の活動よりも意味があると言えないであろう。
 本章では、上記「新たなソーシャル・ヨーロッパ」の哲学を意識しつつ、日本社会がこれまで作り上げてきた仕組みのメリット、デメリットを踏まえて、構造改革路線に代わる「新たなソーシャル・ジャパン」を構想するためのスケッチを描いてみたい。

第2節 仕事を中心に据えた福祉社会

1 二つの脱商品化
 新たなソーシャル・ヨーロッパの哲学の中心に位置するとともに、これまでの日本社会の在り方において半ば無意識のうちに前提とされていたのが、「仕事を中心に据えた福祉社会」という理念である。ヨーロッパでは、これは旧来の福祉国家の在り方に対する痛切な反省の念とともに語られる。
 福祉国家は「労働の脱商品化」を進めてきたといわれる。「労働は商品ではない」というILOのフィラデルフィア宣言に見られるように、これは戦後福祉国家の基軸の一つであった。しかし、それをどの次元で捉えるかによって、①資本の論理にもてあそばれる商品ではなく、生産の論理に基づいて活用される社会的有用財として位置づけるべきとする考え方と、②商品として売られなくても生きていけるよう、労働の対価としての報酬ではない所得保障を整備すべきとの考え方がありうる。前者からは労働者保護法制や完全雇用政策が導かれ、後者からは失業給付や生活保護などの福祉政策が導かれる。もちろん、後者は、不本意な商品化-多くの場合、労働条件が過酷低劣であって、社会全体の立場からも望ましくないもの-を避けるための手段であって、生産に必要な有用財としての労働を否定するものではない。しかし、商品として売られなくても生きていけるということは、有用財として活用されなくても生きていけること-つまり働かない自由をも意味する。ヨーロッパの福祉国家を揺るがしてゆく大きな要因はこのモラルハザードであった。
 新自由主義者の攻撃は、まずはこの「国の福祉に寄生する弱者もどきの連中」に向けられた。「働けるのに働かない怠け者を養うために我々の税金が使われている」というわけだ。しかし、実は70年代以降ヨーロッパで失業者や福祉受給者が増えたのは、それを受け皿にして企業がリストラを進めたからという面が大きい。ややパラドクシカルだが、新自由主義者が推進する労働の商品化は、そこからこぼれ落ちた者の脱商品化を保障する福祉国家によって支えられていたとも言える。
 これに対し、「新たなソーシャル・ヨーロッパ」は、誰もが仕事を通じて社会に参加できる社会を目指す。生産性の高い者だけが働き、低い者はそのおこぼれに与るというような社会は否定する。それは、そんな社会が経済的に持続可能でないということに加えて、仕事には単に所得を得るという以上の意味があると考えるからだ。それは個人の尊厳であり、社会的な認知であり、人々とのつながりでもある。「貧困」だけが問題なのであれば、所得保障を与えればよいということになろう。しかし、「社会的排除」-社会の中に居場所がなく、除け者にされていること-こそが問題だとすれば、仕事という形で社会の中に居場所を与えることが社会政策の目的でなければならない。この「仕事を中心に据えた福祉社会」こそが、新たなソーシャル・ヨーロッパの基軸なのである。
 これは逆に言えば、働かない自由は認めないということだ。英ブレア政権のニューディール政策や、独シュレーダー政権の労働市場改革が、「福祉から仕事へ」を掲げ、就労や教育訓練を拒否する者には給付を与えないという姿勢を打ち出しているのは、働ける者はみんな働くことができる社会-これが「フル就業」だ-を目指しているからである。しかし、この第二の脱商品化を否定する政策はややもすればアメリカ型の「ワークフェア」-どんな低劣な条件の仕事でも受け入れて働くべきだという第一の脱商品化を否定する考え方-に近づきかねない。それは、社会の中にワーキングプアを大量に生み出すことになろう。仕事さえあれば福祉社会になるわけではない。それはいい仕事、まっとうな仕事でなければならない。
 この「仕事を中心に据えた福祉社会」という観点から見て、これまで合格点に達していたのは北欧諸国であった。「働かざる者食うべからず」という強い勤労倫理に支えられ、連帯的賃金政策による高い労働条件と積極的労働市場政策による就労促進を組み合わせて、高い就業率を達成してきた。

2 日本型「仕事を中心に据えた福祉社会」の行方
 ある意味でこれまでの日本社会も、違ったやり方でではあるが、仕事を通じて社会の中に居場所を与え、働いている限りはそれなりの保護を与えつつ、働かない自由は事実上認めないような福祉の厳しい運用により、高い就業率を達成してきたといえるのではなかろうか。さまざまな産業政策や公共事業によって会社が潰れないようにし、その中で広範な労務指揮権と引き替えに世帯主たる成人男性に手厚い雇用保障を与え、労働者の生涯にわたる生活が保障されてきた。その周縁には相当数の非正規労働者がいたが、パート主婦は正社員である夫の妻として社会の主流に位置していたのだし、アルバイト学生にとっての雑役仕事は正社員として就職する前の一エピソードに過ぎなかった。
 英米で新自由主義が猛威を振るっているときには、日本はこの独自の「仕事を中心に据えた福祉社会」の優位性を誇っていた。ところが、ヨーロッパ社会民主主義勢力が痛切な反省の中から新たなソーシャル・ヨーロッパの哲学を創り出そうとしていた90年代に、日本社会は逆に構造改革の名の下にあらぬ方向に漂いだした。それをもっとも明確に表現しているのは、1999年の経済戦略会議答申(小渕内閣)であろう。後に経済財政担当相になった竹中平蔵氏が起草した同答申は、日本型雇用慣行のような「過度な規制・保護をベースにした行き過ぎた平等社会に決別し、個々人の自己責任と自助努力をベースとし」、「倒産したり、失業した人たちに対して、相応のセーフティ・ネットを用意」せよと主張する。労働の商品化とそこからこぼれ落ちた者の脱商品化の組み合わせという、否定すべきではあるがそれなりにソフトな政策であった。
 ところが、構造改革の進む中で実際に進行したのは、こぼれ落ちた者にも働かない自由は認めず、飢え死にしたくなければどんな低劣な条件であっても受け入れて働けというハードな政策、働くアンダークラスを創出するワーキングプア戦略であった。これは意図的というよりも、日本社会がなお強烈に「働かざる者食うべからず」の勤労倫理を有しているが故に、そのような資源分配を国民が認めなかったという面が強いように思われる。その結果、いわゆる就職氷河期に正社員として会社に潜り込めなかった世代は、パート主婦やアルバイト学生並みの待遇で、しかも彼らのような別途の社会的な居場所を与えられないまま、労働社会の周縁に追いやられた。また、パート主婦といえども、不況の中で正社員の夫が失業したり、離婚等でシングルマザーになったりした場合、低賃金は直ちにその世帯の低所得として跳ね返ってくる。
 しかし今必要なのは、竹中流の「セーフティ・ネット」ではなかろう。「仕事を中心に据えた」社会という日本の在り方はなお維持すべき値打ちがある。いや、福祉受給者に悩むヨーロッパから見れば貴重な含み資産とも言える。重要なのは、その仕事をいい仕事、まっとうな仕事に変えていくことであり、日本型の「仕事を中心に据えた福祉社会」を再構築することであるはずだ。
 その際、変革すべき点は大胆に変革しなければならないだろう。社会的なコストの大きい産業政策と公共事業による雇用機会の維持創出に代えて、それ自体社会に対する就業促進効果の高い教育訓練や福祉医療といった公益サービスにおける働く場が中心に据えられるべきであろう。また、成人男子労働者を前提とした配転や時間外労働における広範な労務指揮権と企業内の手厚い雇用保障の組み合わせから、仕事と家庭の両立が図れるような働き方と企業を超えた働く場の保障の組み合わせへのシフトも図っていかなければならない。これは次節の論点でもある。

第3節 いい仕事の社会に向けて

1 技能が向上する仕事
 いい仕事とはどんな仕事だろうか。逆に悪い仕事とはどんな仕事だろうか。「仕事の質」について分析したEU雇用白書2001年版の区分をもとに考えてみよう。
 一番悪いのはどん詰まり(デッドエンド)の仕事だ。先行きの見通しのない短期雇用や派遣労働、偽装請負などがこれに属する。現在のワーキングプアたちが陥っているのはこの暗闇の世界であろう。ヨーロッパでは、せっかく苦労して就職させてもそれがどん詰まりの仕事であればまたすぐに福祉の世界に舞い戻ってくるという形でこれが問題になる。日本では戻るべき福祉の門戸はほとんど開かれていないために、彼らは常に最末端の仕事を移り行かざるを得ない。こうしてワーキングプアはワーキングプアのまま年を重ねていく。だがそれは問題の先送りに過ぎない。家族を形成できないまま、彼らが不安定な生活を送ってやがて老齢に達したとき、社会はその持続可能性を失うことになる。
 その次に来るのが、ある程度の安定性はあるが低賃金で将来昇給する見通しもあまりないような仕事-つまり技能の向上に伴う賃金の上昇があまり見込めないような仕事である。これはどん詰まりの仕事から移行する際には重要な役割を果たす。少なくともそこにはなにがしかの「安心」がある。社会から排除されているわけではない。しかし、彼らは社会の「下流」に固定化されてしまいがちだ。ヨーロッパでは手厚い福祉から低賃金雇用に移行する際の困難さから、さまざまな在職給付によって「メイク・ワーク・ペイ」(働く方が得になるようにする)政策がとられている。
 その上にまっとう(ディーセント)な仕事が来る。雇用はかなり安定しているし、社内訓練で技能を上げて昇給していく見通しもある。これとその上のいい(グッド)仕事の違いは、主として仕事の満足度だ。いずれも、人的資本に投資することによって生産性を向上させ、それに伴って賃金も上昇していくというモデルである。
 「新たなソーシャル・ヨーロッパ」は教育訓練を最重要視し、人的資本に投資することを通じて、万人にいい仕事を提供することを目指す。アメリカでいうところの「ハイロード・アプローチ」だ。そして、この点でも日本の旧来の「仕事を中心に据えた」社会の在り方には改めて評価すべき点が多い。OJTを中心とした社内訓練によって正社員の技能を向上させ、長期的な雇用を確保してきたこのモデルを、できるだけ広範な労働者に適用していくことが今日の課題であろう。非正規労働者の均等待遇が論じられる際には賃金等の労働条件が中心になりがちだが、最も重要なのは教育訓練機会の均等ではなかろうか。公的教育訓練機関と社内教育訓練との連携によって、彼らにも正社員並みの人的資本の蓄積を図っていくことが、長期的に彼らを社会に統合していく道であるはずだ。

2 生活と両立できる仕事
 ここからは、旧来の日本型の仕組みに別れを告げなければならない。あるいは、今までの「いい仕事」と異なる「いい仕事」のモデルを作り上げなければならない。
 今までの「いい仕事」とは、専業主婦を持った成人男子労働者を前提として、長時間にわたる時間外労働や遠隔地への配転を広範囲に認めながら、経営状況の悪化した時でも(非正社員の雇用を犠牲にしつつ)正社員の雇用だけは守ってくれるというモデルであった。長期的な雇用の安定が人的資本形成に重要であることからすれば、これが効果的な雇用システムであったことは確かである。そして、妻が専業主婦であることを前提とすれば長時間残業や遠距離配転も十分対応可能な事態であるし、非正社員が家計補助的なパート主婦やアルバイト学生であることを前提とすれば、そんな者は切り捨てて家計を支える正社員の雇用確保に集中することは社会的にも適切な解答であっただろう。
 しかし、いまやそのようなモデルは「いい仕事」とは言えなくなりつつある。共働き夫婦にとっては、雇用の安定の代償として長時間残業や配転を受け入れることは難しい。特に幼い子どもがいれば不可能に近いだろう。そこで生活を両立できるように妻はやむを得ずパートタイムで働かざるを得なくなる。また、正社員の雇用を守るために非正社員をバッファーとして用いるやり方にも疑問が呈されてくる。正社員の雇用保護の裏側で切り捨てられるのが、パートで働くその妻たちであったり、フリーターとして働くその子どもたちであったりするような在り方が本当に「いい仕事」なのかという疑問だ。
 近年政府や経済界も含めてワーク・ライフ・バランスという言葉が流行しているが、今や「生活と両立できる仕事」でなければ「いい仕事」ではないという価値転換が求められているのであろう。そして、これはその反面として、非正社員をバッファーとした正社員の過度の雇用保護を緩和するという決断をも同時に意味することになる。もちろん、正当な理由がなければ解雇できないというのは(アメリカという異常な例を除き)先進国の共通原則だ。さもなければ、使用者のいかなる命令にも逆らうことは不可能になる。しかし、経営状況が悪化したときの人員削減(整理解雇)については、今まで過度に守られてきた正社員たちがある程度の規制緩和を受け入れるのでなければ、みんなが「生活と両立できる仕事」を享受するという仕組みに移行することは困難だ。
 言うまでもなく、そういう仕事は決してどん詰まりの仕事や低賃金の仕事であってはならない。「労働ビッグバン」という名の下に、アメリカ型の「ローロード・アプローチ」を全面展開するような事態は絶対に避けなければならない。これからの「いい仕事」も、雇用はそれなりに安定し、社内訓練で技能を上げていくようなまっとうな仕事でなければならない。しかし、その先で何をより重要と考えるかで、旧来の「いい仕事」と別れることになる。生活を犠牲にした雇用の絶対的な安定よりも、経営状況が厳しくなればクビになるかも知れないが、夫婦がともに家庭責任を果たせるような仕組みの方が「いい仕事」だという価値基準への転換が求められるのである。
 日本のように生活との両立を犠牲にした在り方ではなかったが、ドイツを始めとする大陸欧州諸国のいわゆる男性稼ぎ手モデルの社会も、今までの雇用保障の緩和が大きな論点になってきている。フレクシキュリティと呼ばれるデンマーク型の労働市場が注目を集めているのもその一環だ。「新たなソーシャル・ヨーロッパ」はここであえて一歩を踏み出している。雇用保障された上層と不安定な下層に二極化した労働市場のままでいいのか、これまでの「ジョブ・セキュリティ」から企業を超えた「エンプロイメント・セキュリティ」に移行すべきではないか、と提唱しているのである。ここでいう「エンプロイメント・セキュリティ」は、手厚い失業給付、個人向けの積極的労働市場サービス、そしてインフォーマルな技能の認定からなるという。企業は変わっても、労働者のそれまでのキャリアがつながっていくような仕組みが想定されているわけだ。
 フレクシキュリティについては、なおヨーロッパレベルでもさまざまな議論がある。手厚い失業給付を過度に強調すると、旧来の福祉国家のモラルハザードとどう違うのか、「仕事を中心に据えた」社会に逆行するのではないかという疑問が湧いてこよう。企業内で労働時間等の柔軟性を高めつつ雇用を維持する(ある意味で日本的な)フレクシキュリティを唱える声もある。ヨーロッパ社会民主主義勢力も悩んでいる点なのだ。

第4節

*1欧州社会党10原則の邦訳は、http://takamasa.at.webry.info/200702/article_2.htmlにある。

若者とスピリチュアリティ

連合総研のDIO4月号に、広井良典先生の「若者はなぜ今、スピリチュアルな世界にかうのか」というエッセイが載っています。

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no215/kikou.htm

同じ研究会でご一緒しているからというわけでもないのですが、この「スピリチュアル」とかいういささか怪しげな世界が流行る社会的背景をなかなか上手に説明されていると思います。(個人的には、広井先生ご自身もその世界に入り込みつつあるようでいささか心配ではありますが)

最近話題の「お水商売」とも関わるわけですが、自然科学系の人はまさに自分の土俵で変な奴ときちんと闘わなければいけないのですが、人文系の人はそれに一票投じてるだけでお役目を果たしたなどと思って貰っては困るわけで、自分のお得意のところできちんと分析をし、対策を示さなければなんのために・・・ということになるわけで。

ハローワーク市場化テスト

その同じ日経に、「ハローワーク民間開放へ、都内で市場化テスト」という記事も出ています。

http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20070406AT3S0501I05042007.html

>6日の経済財政諮問会議で民間議員が提案するハローワーク(公共職業安定所)事業の民間開放の具体策が明らかになった。まず東京都内にある19のハローワークのうち数カ所を対象に市場化テストを実施し、民間企業に運営を任せる。民間の創意工夫で職業紹介の実績や効率を高めるのが狙い。所管する厚生労働省に「政策論として議論すべきだ」と実行を強く迫っている。

>提案は民間委託したハローワークも引き続き政府の監督下に置いて他のハローワークとの連携を維持し、求職・求人情報に関する守秘義務を設けることも盛り込んだ。

うーむ、なんだか。

まさに「政策論として議論すべき」だと思うのですが、求人開拓や就職困難者の対応まで全部含めて「民間企業に運営を任せる」のですよね。上澄みだけ舐めるのではないんですよね。既に手を挙げている某人材派遣会社の見解を見ると心配になるわけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/cat874905/index.html

「民間の創意工夫」は大事ですが、こういう仕事は儲けたい一心だけでできるものではないので、ヨーロッパなんかでもさまざまなNPOなどのような「志」のある社会的企業が活躍している領域なので、その辺どう意識しておられるのか心配になるわけです。

この公共職業サービスの問題については、八代先生がかつて勤務していたOECDの雇用見通し2005年版が1章を割いて取り上げていて、特にその219頁以降で準市場組織という形で論じているので、その辺をきちんと踏まえた上で進めていただきたいわけですよ。頭の空っぽな日経の記者並みの「どんな民でも民は即ち善」という発想では困るわけです。一方で、悪い意味での公務員根性を叩き直すためのショック療法という面もないわけではないので、こういう議論をすること自体には意味があると思いますが。

就業率に数値目標

今朝の日経がでかでかと書いています。

http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20070406AT3S0501T05042007.html

ネット上にはこれっぽっちですが、紙の方にはかなり詳しくでています。

今日の経済財政諮問界に提示するということですが、10年後すなわち2017年時点で達成すべき数値目標として次のものが挙げられています。

>15-34歳の既卒の男性:89%→93%

>15-34歳の既卒の未婚女性の就業率:85%→88%

>25-44歳の既婚女性の就業率:57%→71%

>60-64歳の高齢者の就業率:53%→66%

>65-69歳の高齢者の就業率:35%→47%

これは、EUの雇用戦略で打ち出された就業率目標と全く同じ発想ですね。この十年間、私がさまざまな機会に宣伝してきたものが、八代先生のご努力でこういう形にまで進められたことについては、心から敬意を表したいと思います。

EUと違うのは、十代後半から三十代前半までのいわゆるフリーター・ニート世代について特別の数値目標を設定しているところですね。ここはむしろ、日本の現状を踏まえての適切な対応でしょう。

こういう風にモア・ジョブを打ち出すと、次に来るのはベター・ジョブというわけですが、ここでは非正規労働者の労働条件の問題は出てきていません。もっぱら正規労働者の労働時間の短縮が目標に上がっています。

>残業時間の半減によりフルタイム労働者の年間実労働時間を1810時間に1割短縮する

>年休取得率を100%にする

>ワークライフバランス憲章を策定

残業時間の半減というのを、具体的にどういう風にするのかは出てきませんが、まあ意欲は買えます。

(追加)

内閣府HPに、本日の労働市場改革専門調査会の資料として既にアップされています。

http://www.keizai-shimon.go.jp/special/work/07/item1.pdf

今日の経済財諮問会議に出されるということですから、来週早々にはその状況もわかるでしょう。

2007年4月 5日 (木)

入試問題になったようです

「エコノミスト」誌2月20日号に掲載された拙論「正しい適用除外制度を歪めてしまったのは誰だ」が、京都産業大学の大学入試問題に使われたようですね。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/economistwhitecollar.html

問題Ⅰ 文章1,文章2,文章3は、労働時間規制に関する記事である。

設問1 文章3の要旨を簡潔にまとめよ。

設問2 3つの文章を参考にした上で、労働時間規制についてのあなたの考えを述べよ。

で、文章1というのは朝日新聞の社説です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_6467.html

のリンク先ですが、既に切れています。要は残業代を上げろという社説です。

文章2というのは、なんとなんと、あの奥谷禮子さんの、かの有名なる東洋経済の記事です。

http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/7083bfc68b2bb9410489113caf638085

に全文が載っています。

そして、その後に私の文章が続くわけですね。

ふむふむ。朝日新聞と奥谷禮子氏とhamachanを読み比べて論評せよという、実に味わいのある問題ですなあ。

自由法曹団の労働契約法案批判

自由法曹団の「労働契約法案に盛り込まれた就業規則による労働条件変更をどうみるか」という文書が公開されています。

http://www.jlaf.jp/jlaf_file/070330syuugyou.pdf

連合の強い要求を受けて、「使用者は、労働者と合意することなく、就業規則を変更することにより、労働者の不利益に労働契約の内容である労働条件を変更することはできない」という大原則を書いた上で、「ただし、・・・」という規定ぶりになった、例の就業規則不利益変更のところに対して厳しく批判しています。

>しかし、もともと、契約は両当事者の合意によって成立し、その内容である契約条件は両当事者の合意によって定められこれを相手方の同意なく一方的に変更することができない、というのが近代契約法の大原則である。

>これに対して、9条に但し書きを設けつつ、10条において使用者が就業規則の変更によって一方的に労働条件を変更できることを明文化することは、この現行法上当然のことに対する例外を、立法により新たに付加することにほかならない。

>形式上は例外のかたちをとるこの部分こそが事実上大きな意味を持つこととなる。そして、この例外は、最高裁の判例法理に不充分ながら一応沿ったものといえるが、契約原理や労使対等決定原則との関係では説明できない最高裁の判例法理を立法によって押しつけようとするものである。しかも、その判例法理は労働者を必ずしも保護するものではない。

そんなことはわかっているわけです。それを言えば、民法の大原則は、雇用契約はいつでも解約できるのであって、解雇権濫用法理というのは、法理論的にはあくまでも例外に過ぎない。

しかし「形式上は例外の形をとるこの部分こそが事実上大きな意味を持つ」のであって、本来解雇は自由のはずじゃないかなどという規制改革会議の見解が正しいわけではない。自由法曹団の皆様方に対して言うべきことも、論理形式的には規制改革会議の皆様に対して言うべきことと全く変わらない。

形式的には例外であるけれども実質的には原則であるところの労働ルールをどのように評価するかということに尽きる。

どっちの皆様も同じだけれども、こっちではこっちの論理、あっちではあっちの論理というのは、党派の論理であって、知的誠実さとは別のものでしょう。

2007年4月 4日 (水)

読売のフリーター記事

読売の2回連載記事

http://job.yomiuri.co.jp/news/jo_ne_07040321.cfm

http://job.yomiuri.co.jp/news/jo_ne_07040421.cfm

それほど大した記事でもありませんが、漫画喫茶で眠る日雇い派遣の若者と、ガテン系労組やNPOの話題を取り上げています。

も少し突っ込んでもいいんじゃないという気もしますが、まあこんなところでしょう。

ポルトガルの公務員法改革

EIROの記事から興味深いものを・・・。

http://eurofound.europa.eu/eiro/2007/02/articles/pt0702049i.html

これは、ポルトガルの話題なんですが、なんだか今の日本にも通じるものがあるような感じで、紹介しておきますね。

ポルトガルの労働法でももちろん解雇には正当な理由が必要なんですが、その水準が民間労働者と公務員では天地ほど違うようです。

民間労働者の場合、労働法典によって解雇の正当な理由として、攻撃的行動や犯罪とならんで、例えば上司に敬意を払わないとか、欠勤、生産性が異常に落ちる、繰り返し労働義務を無視する、安全衛生規則を無視する、他の労働者と繰り返し諍いをする、他の労働者の権利を軽視する、会社の営業上の利益を甚だしく害する云々・・・といった事項が列記されていて、これらに該当すれば解雇が正当なものとなるのです。

もちろん、使用者がこういう理由を述べても、それが正当かどうかは裁判所が判断するわけです。本当は政治的、イデオロギー的、人種的または宗教的理由で解雇したと判断されれば解雇は違法です。ここまではなるほどですが。

ところが、「任用」行為によって公法上の雇用関係が創設される公務員は違うんですねえ。よっぽどの場合でなければ強制退職されることはないということになっているようです。攻撃的行動、犯罪、著しい不従順、収賄といったことがなければ強制退職とはならないらしい。

今年の1月、ポルトガル政府は労働義務違反に基づく強制退職を可能にする案を提示したということで、要するに民間労働者並みの雇用保護にしようということのようです。

特にコメントはしませんが、ってか、ほとんどしてるのと同じですが、最近のいろんな報道に照らして、考えさせるところがありますね。

2007年4月 2日 (月)

ハローワークとILO条約に関する懇談会報告書

日経が「ハローワーク、民間開放は可能・経財相懇が報告書」と報じています。

http://www.nikkei.co.jp/news/main/20070330AT3S3001W30032007.html

おや、たしか吾郷先生と逢見さんは反対と主張していたはずだったが・・・、と思いながら読んでいくと、

>報告書では5人の委員のうち厚労省とほぼ同意見だった連合出身の委員を除き、4人が「民間委託そのものは条約違反ではない」との見解で一致した。

とありまして、一応賛成反対列記のようです。それにしても、吾郷先生は賛成に回ったのかなと思って、実物を見てみると、

http://www5.cao.go.jp/koukyo/ilo/files/report1.pdf

この記事はいささかミスリード気味であることが分かりました。いや、ミスリードといえば、見出し自体が大変ミスリードですが。

最後のところに、小寺先生(国際法)、花見先生(労働法)、山本先生(国際法)の3人の賛成意見と並んで、吾郷先生(国際労働法)と逢見さん(連合)の意見が併記されていて、そもそも「ハローワーク、民間開放は可能」などという報告書にはどうみてもなっていないはずですが、まあ日経の記者が勝手に書いたのではなく、内閣府がそういうミスリードをするようなレクチャーをしたということなんでしょうね。

問題は吾郷先生の意見ですが、こういう風になっています。

>条約は、国の責任の下で、労使双方が適正に利用出来る無料の職業紹介機関のネットワークを整備し維持することを求めている。
また条約は、ネットワークを監督する国の機関の職員のみならず、ネットワークを構成する職業紹介機関で職業紹介業務に従事する職員についても、条約上の公務員であることを求めている。
条約上の職業紹介機関をそのまま民間事業者に委託した場合には、条約上の公務員以外の者が職業紹介業務に従事することとなるため、条約違反となる。
ただし、
① 民間事業者に委託した職業紹介機関を条約が義務づけるネットワークから切り離した上で、
② 残余の職業紹介機関(引き続き条約上の公務員によって職業紹介業務が実施される職業紹介機関)が、条約が義務づけるネットワークを構成し、かつ
③ 政府が、第4条又は第5条に基づく労使との協議を踏まえ、残余の職業紹介機関が第3条が求める数及び配置を満たすと判断する
場合には、条約違反とはならない。
このような解釈に立つと、民間議員提案については、一部のハローワークのすべての業務又はその職業紹介業務を民間に包括的に委託した場合において、上記の①~③のすべての条件を満たす場合には、条約違反とならない。
他方で、①~③のいずれかの条件を欠く場合には条約違反となる。特に③については、4条又は5条に基づく労使との協議を踏まえた政府の判断の結果次第では、現行のハローワークをすべてそのまま維持することが義務付けられる結果となることもある。

つまり、①②③のすべての条件を満たさない限りダメだといっているわけで、それを賛成論に分類して5分の4が賛成だというのはいかにもマスメディア操作向けだなあという感じですね。こんな記者発表して、吾郷先生から怒られたらどう言い訳するんでしょうか。まあ、トップがそう結論を決めているから、全部それに合わせるのが役人道というものなのかも知れませんが。

個人的には、ILO88号条約云々よりも、先日もここに書いたように求人開拓一つやりたがらないような民間営利企業にハローワークを渡して、本当に底辺の人々のためのセーフティネットになるのかどうか、大変心配です。そっちこそ最大の問題であって、条約でいう公務員でなければならないのがどこまでかとかいうのは、本当は本質的な問題ではないんじゃないかと思いますね。

儲けるために上澄みを舐めていたいところは上澄みだけ舐めていればいいので、丸ごととってしまおうなんて考えない方がいい。一方で、ヨーロッパなんかでも福祉事務所と職業安定所を統合したり、就労支援をさまざまなNPOに委託したりして多様化は進んでいるので、必ずしも今までのハローワークの仕組みを維持しなければならないわけでもないでしょう。重要なのは、自力ではなかなかはい上がれないような人々に対する労働市場のセーフティネット機能をどのように仕組むべきかで、職員が身分の保障された公務員でなければ云々というのは、世の中の流れからするといささか外れたところで議論している感もあります。というか、私は公務員である必要は別にないんじゃないのと思っているわけですが、そもそも公益サービスであるという前提を揺るがしてはいけないと思うのです。

もちろん、それは問題設定がそうなっているからそういう議論になってしまったわけで、議事録を見ると、政策論をやろうとした委員に対して、法律論だけやってくれというような言い方をしているんですね。そうすればこういう詰まらない話にしかならないのは分かり切ったことでしょう。

国交省がキャリア速成指南書

読売がたいへん興味深い記事を載せています。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070402it01.htm

「将来の幹部候補生として国家公務員1種で採用したキャリア官僚育成のため、国土交通省は1日付で入省した新人職員から、実践的なマニュアルを使って研修をすることを決めた」という記事です。

>法令や予算案の作り方から国会内での手続きなど役人のノウハウを具体的に指導することで、「入省3~4年で一人前にする」ことを目指しており、中央省庁では異例の試み。政府が掲げる公務員の能力実績主義を見据え、同省は早期育成で若手登用を進めて、優秀な人材が「能力を発揮できない」として民間に流出する傾向に歯止めをかけたい考えだ。

 マニュアルで指導するのは、省内での予算案の立案や税制見直しの協議など、具体的な手順が中心。耐震強度偽装事件を例に、1級建築士の資格制度見直しなど同省が実際に行った施策について、業界団体や学界との意見集約、政府・与党との調整、野党への建築士法改正の法案説明の経緯も盛り込んだ実践的な内容になる。

 中央省庁では、キャリア官僚の仕事を体系的にまとめたマニュアルはなく、個別に仕事をしながら教育する「職場内訓練」(OJT)が基本。国交省では、主に入省5年目以下の係長クラスが仕事を教えてきた。

 しかし、国家公務員の定数削減で各省庁では採用が減少。国交省はこの10年余りで、係長クラスを配属できない部門が増え、入省1~2年目のキャリア官僚が、指導なしに法令作成などの実務を担当させられるケースが起きていた。

 このため、国交省はOJTだけでは職員を育成できないと判断。キャリア官僚の増員が見込めない中で、質を維持するためには、OJTに代わる効率的な人材育成策が必要として検討を進めていた。

 国交省では、若手キャリアの早期育成で、入省後の早い時期から責任ある仕事を任せられるようになり、早い時期から競わせることで、これまでの横並びの昇任昇給を基本とする年功序列制度も順次見直し、能力実績主義導入の布石にもしたい考えだ。

 新たなマニュアルは、4月中旬から始まる新人研修のうち、事務、技術系キャリア約30人らを対象とした研修で使用する。

確かに、「入省1~2年目のキャリア官僚が、指導なしに法令作成などの実務を担当させられるケースが起きていた」というのは、他省庁でも似たような状況でしょうから、こういう暗黙知のOJTから明示的な訓練システムへの移行というのは不可避なのかも知れませんね。

しかし、そうすると、それを省庁入省後にやらなければならない理由はなくなって、たとえば公共政策大学院で教えるなどということになってくると、これはいよいよ教育訓練の外部化の進行になります。いろんな意味でたいへん興味深い話でもあり、今後の動きが注目されます。

労働市場改革のあまりにもまっとうな報告案

経済財政諮問会議に設置された労働市場改革専門調査会の「第1次報告骨子案」というのがアップされています。

http://www.keizai-shimon.go.jp/special/work/06/item1.pdf

2枚ピラの簡単なものですが、想像を絶するまともさです・・・、という言い方は大変失礼かも知れませんが、ここに至る規制改革会議や経済財政諮問会議の議論の経緯からすると、こんなまっとうな議論だけでいいのですか?と聞きたくなるところもないわけではありません。

まあ、今回は「働き手の視点から日本の働き方の現状を検討し、10年後に目指すべき労働市場の姿を描くととともに、若年、女性、高齢者の就業率向上、労働時間の短縮、ワークライフバランスの実現に焦点を絞ってとりまとめる」とことですので、別の視点から別のことに焦点を絞った第2次、第3次の報告というのが続くことになるんでしょうね。

とにかく、「目指すべき労働市場の姿」としては、

・生涯を通じて多様な働き方が選択可能

・合理的根拠のない賃金差が解消

・多様な働き方に共通した基本原則

・働き方に中立的な税制・社会保障制度

・職業紹介・職業訓練の充実

・就労機会提供型のセーフティーネット

・透明性の高い労働条件

・国と地方の連携

というのですから、概ね文句はありませんし、具体的な施策として提示されているのは、

1. 就業率の向上と労働時間の短縮

(1)若年者の就業率向上

①政策提言

②数値目標

(2)女性の就業率向上

①政策提言

②数値目標

(3)高齢者の就業率向上

①政策提言

②数値目標

(4)労働時間の短縮

①政策提言

②数値目標

2. ワークライフバランス実現への本格的な取組み

というのですから、これは私に書かせてもほとんど同じになりますね。全く問題意識が同じではないですか・・・。

« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »