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教育学者の反省

『思想』に教育学者の広田照幸さんが「教育学の混迷」という短文を書いておられます。

http://www.iwanami.co.jp/shiso/0995/kotoba.html

これは、ある意味で隣接分野である労働問題の視点から教育学者たちを見ていて痛感していたことをズバリ書かれているので、大変面白く感じました。

>ここで論じたいのは、今の教育学が全体として、冷戦期に背負い込んでしまった学問的負債の清算に苦しんでいるという点である。

>重要なポイントの一つは、1950年代以降、教育学の主流の研究者が野党的な政治的ポジションに「隔離」されていったことである。

まあ、しかし、それは他の分野でも似たようなこと。特に労働関係はその傾向が強かった。

>もう一つのポイントは、にもかかわらず、教育学が、政治からも経済からも距離をおいた地点に学問的な基盤を据えようとした点である。

>経済発展に向けた教育計画の立案と政策化が進む1960年代には、教育学の主流は、「能力主義」を批判し「差別・選別教育」を指弾する形で、政策批判を展開した。そこでの論理は、「本来の教育は経済にはなじまない」というものだった。

>政治的な色合いを表面から消し、経済と教育との関わりを拒否する形で、教育学の中心的な理論は組み立てられることになったのである。教育学固有の理論から基盤とする価値を導出し、そこから現実の教育政策や教育制度を批判する、というやり方である。

そうそう、そこが一番教育学者といわれる人達の議論に違和感を感じるところであったわけです。教育とは経済社会が求める職業人を適切な形で供給する営みであるにもかかわらず、その適切さあるいは不適切さに正面から向かい合うことから逃げてしまった。

>しかしながら、教育学の理論的基盤が、他の学問分野から自律した地点に形成されたこと、あるべき教育を語る足場を政治や経済から距離をとった地点に据えたことの代償も、また大きかった。

>第二に、教育学の実証的な分析能力が十分発展しない弊害ももたらした。「教育固有の価値」という足場に依拠すれば、教育政策や経済システムとの関係を批判することはたやすかった。思考を停止したまま、「子ども自身の声に耳を傾けない教育政策」「発達を歪める学歴競争」などと、現実の問題をいくらでも批判できたため、制度構築や政策提言につながるような、きちんとした実証的な現状分析が甘くなってしまったのである。

そうそう、なんだか凄い空中楼閣の議論で、とても入り込めない感じ・・・。ある意味、教育基本法論議って教育勅語を議論しているみたいな異次元感覚。

で、それをこのブログで前からちらちら書いてることとつなげて言えば、教育学ってやたら空疎なリベラル派で、子どもの個人としての人権にはやたらに敏感だけど、彼らが社会の中でどう位置づけられているか、位置づけられていくのかといったソーシャルな問題意識が欠落してしまっていたということになるのでしょう。

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