モダン屋さんの労働価値説?
少し前の生産性論争(のようなもの)で感じたのは、なんていうか、開発経済さんも情報経済さんも、実体的な生産性というのが厳然としてあって、それに基づいて労働の価値というものが一義的に定まるんだというモダンな世界観をお持ちのようだな、ということでした。
それって、一種の労働価値説(労働にはその生産性に応じて価値が定まっており、それが生産物に転化する、みたいな)なんじゃない?と感じるのは勘違いというものでしょうか。
でも、宇野理論によると、流通過程では価値はお互いの使用価値によって相対的に決まるだけ。これだけの生産性の労働何時間分が投入されているからいくらという風に決まるわけではない。それは古典派の幻想。商人資本が生産過程を掌握し、産業資本として恒常的に労働力を使って生産活動を行うようになって、初めてこれくらいで売れる商品をこれだけ生産するのにこれだけの労働力を何時間分投入しなければいけないということから、労働の価値みたいなものが共同主観的に形成されてくるに過ぎない。それ以前に即自的な労働の価値なんてものはない。
そういうポスモダな発想の方が多分最近は有力で、恐らく歴史的にも正しい。ただ、共同主観的に形成といっても、生産を繰り返す産業資本にとってはそれは客観的に存在し、作用しているのだから、幻想だといってみたって意味はない。しかし、それを過度に実体化して、生産過程なく労務がそのまま最終商品として消費される対人サービスにまで同じように当てはめることができるわけではない、ということではないかと。
前にちらと書いた、生産主義と流通主義の応用編みたいな感じですが。
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もうやめます。許してください
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_1199.html... [続きを読む]
>【商品の比較可能な相対】価値みたいなものが共同主観的に形成されてくるに過ぎない。それ以前に即自的【に比較可能な商品】の価値なんてものはない
>共同主観的に形成といっても、生産を繰り返す産業資本にとってはそれは客観的に存在し、作用している【のだからこそ、その差を把握して商売に結びつけることもできる。】
一般論としては、製造業であろうがサービス業であろうが、共同主観が成立している限りで、『その中ではある』と考えていいと思うのです。ただ、実際問題としてサービス業では成立しにくいんでないの、ということではないでしょうか…
ホア・エグ問題とも少し関係するんでしょうか…
投稿: とま | 2007年3月 8日 (木) 19時50分
ごぶさたしてます。
価値は社会全体の技術体系に依存するので、その意味で各企業、各部門の生産技術の間で相互依存関係がある。濱口さんの共同主観性の近経的対応物って、この相互依存関係だろうと思います。企業は生産規模なり、生産技術なりを所与の価格体系の中で決定し、そのもとで、価値なり、生産性がきまるので、与えられた技術が価値なり、生産性を決めるわけではない。所与の価格体系は企業にとっては自分自身をふくめた相互依存関係のなかで成立するものであるけど、コントロール不能で客観的なもである。一様、宇野派わからんので、濱口さんの議論をこのように解釈しました。
それで、山形さんとか池田さんもふくめて、一種類の技術を仮定して、そのもとで生産性を議論しているとき、上の図式からどのように解釈できるかというと、(1)各部門あるいは各企業で技術が現実に線形でかつ一種類であるならば、そもそも、価値なり労働生産性は即物的に決ってしまう。多分、池田さん、山形さんへの濱口さんの疑念は、このような状況を想定しているのではないかということだと思います。
(2)議論にあらわれている技術は所与の価格体系と対になって選択されている技術であって、(1)のような即物的に生産性が決定する状況を分析しているのではないと解釈することができます。ただ、このケースだと、需要が変動すれば、価格体系も変動し、その結果、選択される生産技術も変化しますので、確かにいわれているように、実体的な生産性というのは想定できなくなります。生産性はその需要、あるいは価格体系との対の中でピンポイントで選択される技術においてしか議論できません。
この痴呆日記のかた(私ではないです)が生産関数を所与として、生産量が変化するときのこととして、実質的に同じ問題を丁寧にフォローしておられます。
http://d.hatena.ne.jp/Muichkine/20070215/1171522129
池田さんも山形さんにこのことをぶつけたとしても、(2)のことについては納得されたうえで、ピンポイントで選択されている技術について議論しているんだよとおっしゃるように思います。したがって、少なくとも形式論理として、池田さんや山形さんが流通的あるいは需要の側面を無視しているとはいいにくいと思います。
ただ、モデルとしてはピンポイントで成立している生産技術をあたかも、単一の生産技術として議論することは可能であっても、それをいじっくている間に、単一の技術があるかのうな発想にそまってしまって、へんてこなことを考えるようになることは池田さんや山形さんがどうのというより、私が陥いるパターンの一つです。(ようするにモデルの前提わすれちゃうってことですね。)
第二に、実は重要な生産性なり技術の問題は技術革新とか、人的資源の蓄積なり動学的な問題とかかわるので、その局面では流通の側面と生産の側面の相互作用のようなものを無視することはできなくなるでしょう。
と、前に書いたことの繰り返しみたいですいません。
投稿: osakaeco | 2007年3月11日 (日) 14時04分
なにやらお水商売関係でいろいろと揉めておられたようですが、ひとまず解決されたみたいでなによりです。
こういう自然科学的知識と社会的価値判断が絡む領域というのは、なかなか難しいところがありますね。
ホントはこの手の問題で一番重大なのは、アメリカで流行ってる例の創造科学って奴だと思うのですが、日本の保守派は進化論マンセーだからあんまり関係ないのかしら。
も一つ、私はこの手の議論を聞くとすぐに反デューリングや自然弁証法の心霊学批判を思い出すのですが、心霊学批判が正しいことが、エンゲルス君の「科学的」社会主義を正当化するわけではないわけで。
投稿: hamachan | 2007年3月13日 (火) 09時31分
トラブルのほうは解決しましたけど、はまっちゃいましたね。頭の中は擬似科学問題でいっぱいです。
ちょっと自分の奥さんのシュタイナーがらみで書いたんですけど、創造科学みたいに、科学の対象をあつかっている方法が、科学のように独立でなくて、もっと大きな世界観の一部のときって、どう考えていいかよくわかんないですね。「原理主義者はダーウィンを拒否します」ならとりあえず、彼らの自由でしょうけど。まあ、日本の教育でとりあげようとするのは、そもそもそんなもの受容する土壌ないんで、トンデモでいいですけど。
アンチ・デューリングもってないので、ちょっと検索してみたら、三浦つとむとか、武谷三男とかそのあたりのがぞろぞろでてきました。例によって、教養ないので、新鮮でした。
投稿: osakaeco | 2007年3月14日 (水) 20時23分
私は、理科系の人が疑似科学を叩くのは全然問題ない、というか、むしろ大いに応援したいのです。
問題は、文科系の妙な連中がそれに乗っかって、いかにも自分の言っていることが「科学的」みたいなレトリックを振り回すことですね。
今回の「お水」騒動も、詰まるところそういうことでしょう。自分らのなんら検証もされてない特定のケーザイ教説に反対する輩は「お水」と一緒と言わんばかりのもの言いが反発を買ったということじゃないですか。
ちょっと違う話みたいですが、昔駒場で中沢騒動なるものがあったでしょう。自然科学の人が「なんだこのわけの分からんトンデモは」というのはある意味当然。問題は、これが人文社会系の政治的対立構造に利用されたことでしょう。特に、どこぞで気流が鳴ってた人は、ご自分のトンデモを棚に上げて反対したわけでね。そういううさんくささが、常につきまとうわけですよ。
投稿: hamachan | 2007年3月22日 (木) 10時55分
>自然科学の人が「なんだこのわけの分からんトンデモは」というのはある意味当然。問題は、これが人文社会系の政治的対立構造に利用されたことでしょう。
hamachan先生と私の意識が大きく違うとこは、文系の人達が勝手にやってる分には「どうぞご自由に」と思うんですけど、そこで理系の人が、まんまとお先棒担ぎさせられてしまうのが大変に忍びないんですよ。近親憎悪かな…
投稿: とま | 2007年3月31日 (土) 01時09分
>米国:半数の国民「人類は神が創造した」と考える
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/news/20070402k0000m030009000c.html
>米国人の半数近くは神が人類を創造したと考えている--。米誌ニューズウィークは3月31日、人類の進化に関する米国人の考え方についての世論調査結果を発表した。
>それによると、神が人類を創造したとみなす人は48%。人類は長年かけて進化し、この過程で神の役割はなかったと考える人は13%で、進化の過程を神が導いたと考える人は30%だった。
>また91%が神を信じ、信仰する宗教は全体の82%がキリスト教で、そのほかの宗教の信者は5%だった。
これをインチキ「お水商売」よりも深刻と考えるか、別にいーじゃんと考えるか、ってのもありそうですね。
利己的な遺伝子の人は、これを深刻と考え、真剣に闘っているわけですね。それはそれで、私は大変真摯な姿勢だと思います。
少なくとも、学校で進化論の代わりに創造説を教えなければならないなんて状況がひたひたと押し寄せてきているのであれば、当然の対応でしょう。私は自然科学の人がまじめに闘っている姿には、敬意以外を示す気はありません。それを「お先棒担ぎ」などと侮蔑的に語るつもりも一切ありません。
投稿: hamachan | 2007年4月 4日 (水) 16時14分
うーん…
科学的に間違ったことを「それは科学的に間違っています」と指摘すること。および、それを科学的事実として教えるべきではないと主張すること
そこまでは、何も問題にしてないのです。というか、意味があることだと思います。問題は、そこから先の主張(価値観等)が上の主張と同程度の妥当性を持つかのように語られることを問題にしているのですけど
以上は、「自然科学者」であろうと「人文科学者」であろうと「一般の人達」であろうと同じことなのですが、私の偏向として「自然科学者」の人達の方が気になるということです
投稿: とま | 2007年4月 5日 (木) 00時10分
もしかしたらかなり誤解していたかも知れない部分というのがありまして
そういう語りをする人は大概は、自分自身では、その妥当性の違いを自ら認識しているにも関らず、語りとしては同程度であるかのように主張しているのだ、と私は脳内仮想していたのですが、この認識は結構、違っていて、本気の人も多いのかも知れないということです
とすれば、その本気の方々に対しては、侮蔑的になってしまった部分はある、と思っています
騙すという認識があって言っている人と本気で言っている人の区別が付かない(区別を間違える)、という問題に私は嵌ってしまっていたのですが、この問題はニセ科学批判に付き纏うものだと思います
投稿: とま | 2007年4月 5日 (木) 00時32分
【分かりやすい極端な例】としては:
「Aという主張の科学的な正しさ」と「そのAという主張の科学上の価値の大きさ」は異なります。正しいということを以って「それだけ価値も大きいのだ」といったような語りを問題にしています
投稿: とま | 2007年4月 5日 (木) 00時49分
連投すみません
専門家(及び、ニセ専門家)が上記のような語りで、専門家以外の人たちを騙して。さらに騙されることで得をする人達が騙されて、今度は自らそういう主張をする、という構図はかなり一般的なんじゃないか、と思うんですけれど。
投稿: とま | 2007年4月 5日 (木) 01時09分
せっかくですので、記事の方の感想
>神が人類を創造したとみなす人は48%。人類は長年かけて進化し、この過程で神の役割はなかったと考える人は13%で、進化の過程を神が導いたと考える人は30%だ
私は神と言う言葉に「特定のイメージ」を抱くことができないので、私にとっては「上の3つの命題のいずれも」がナンセンスです。こういう質問が意味を持つものとして成立してしまうこと自体が「ある特定の神のイメージ」が浸透していることの結果であるように見えます。つまり、ある意味、似たもの同士の間での見解の相違ってことだろうな。ちょっと気になるのはこういう傾向はアメリカの中で時間的にどう変化しているんだろうということですが
一応、私は仮に自分は自然科学側の人間だと自己規定しているのですが、宗教が科学(科学教育を含む)を脅かすなら、それは困った事態だと思います。ただ、宗教の中での争いに関しては勝手にやってて下さいと思うし、「それは科学とは別の話じゃん」と強く言いたい
投稿: とま | 2007年4月 5日 (木) 02時10分
個別事例でしかありませんが…
April 10, 2007 @16:51:53
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1175880798#CID1176191513
April 10, 2007 @16:46:10
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1175880798#CID1176191170
投稿: とま | 2007年4月10日 (火) 17時18分
とまさんの趣旨がイマイチよく分かりませんが、インフルエンザとタミフルという疫学上の問題に関していえば、マスコミだけで活躍しているような人ではなく専門分野で専門家からきちんと評価されている方のご意見を聞いた方が適切であるのは明らかだと思いますよ。
自然科学においては、よほど最先端の分野にいかなければ、エセ科学とまともな科学とは適切に区別できるはずだと思いますが。私は左巻さんの本がその通りだと思いますね。
そうではない分野において、いかにもそうであるかのように言葉巧みに操って、(必ずしも専門分野で専門家からきちんと評価されているとは言い難いような人が)特定の考え方を売りつけることがいかがなものかということなのであって、お水商売の仲間に入れられるのは大変心外です。
投稿: hamachan | 2007年4月11日 (水) 14時21分
こんなのあったよということなので、もともと趣旨はあんまり明確でないんですが、はい。
>マスコミだけで活躍しているような人ではなく専門分野で専門家からきちんと評価されている方のご意見を聞いた方が適切である
どういう状況をお考えなのか、分かりませんが、バラエティ番組であれば、極端ではあっても面白い意見が集中的に取り上げられるのは当然だと私は思います。一方、真面目な検証番組なら、そうではなくて、そういう(適切な?)ご意見を主に取り上げるべきだ、という意見には私も同意します。
>自然科学においては、よほど最先端の分野にいかなければ、エセ科学とまともな科学とは適切に区別できるはずだと思います
水伝が科学的に間違いである、というようなレベルの話であれば、私もそう思います。
ところで、疫学が自然科学なのか、どうかは微妙なのかも知れませんが、稲葉先生の情報から推察すると、「どうやら、疫学の専門家のお一人であろう」と思われる先生が「一部の方がトンデモと評しているらしいマスコミでご活躍の浜先生」につき次のようなことをお書きになっています
>浜先生の文章を読みました。11月1日改訂ということで、私たちと交信する前の文章のようですね。でも正直、結構良いですね。うっかり説や単なる手抜き説を取る私から見ると(実はこれは深刻な事態)、経済利害による陰謀説をとる浜先生の場合、力が入っている感じがしますが。私などは遠慮がちに言う、このデータがいかに影響を過小評価してしまう失敗をしている(浜先生に言わせると工夫)かもきっちり論じられています。多くの人は、影響を過大評価するバイアスばかりを気にしますが、実際は過小評価するバイアスの方が強力で、過小評価と過大評価の両方を検討することが忘れられがちですので、注意を喚起する意味でも良いと思います。
>投稿 zusammen | 2007.04.11 11:05
http://ttchopper.blog.ocn.ne.jp/leviathan/2007/04/post_ffc6.html#comment-5529639
疫学という世界では、別分野の専門家の一部からトンデモと評される方(この場合、浜先生)であっても、疫学の専門家の中には彼の発言を評価をする人(この場合、津田先生?)もいるように思います。
さて、だからと言って、疫学という分野そのものが、水商売のお仲間だ、と私が思っているのでしょうか?もちろん、そんなことはありません。それ以上に白黒つけがたい世界であるポモさん達についてさえ、私は擁護的ですから、疫学がトンデモなんて思いません。むしろ、私自身は『真偽』については白黒つけやすい世界の住人であるが故、「白黒つけがたい他の分野についてトンデモ視をするような偏向」に遭遇すると、ついつい私は近親憎悪を強く喚起されて口出ししたくなる、ということであるようです。これが私を『ニセ科学批判と言われるのものの一部』に対して口出しをした理由ではなかろうか、と自己分析をしています。
投稿: とま | 2007年4月11日 (水) 20時12分
リフレ虫さん達についても、白黒をつけがたいことについて、『リフレに疑問を提起する奴は黒。つまり、トンデモだ』みたいなレトリックが非常に問題と私は思っていた訳ですけど
投稿: とま | 2007年4月11日 (水) 20時35分
どうもすみません
>自然科学においては、よほど最先端の分野にいかなければ、エセ科学とまともな科学とは適切に区別できるはずだと思います
この点については、私自身の科学観もありますので、少し補足を。例えば、私は「地球の周りを太陽が回転している」という取り扱いが非科学的であるとは思いません。ただ、『ある種の考察に行なう場合』には、それよりも圧倒的に「地球は楕円軌道の上を回転している」という取り扱いの方が適切だ、とは思います。つまり、このような問題でさえ『その文脈における』有効性が決め手になる、と私は思っているのですが。一律には白黒つけられるものでもないよな、と思う訳ですね。私自身の考えは以下のようなものに近いです
>対象の挙動を理解するために簡単化して捉えたり、実験・観測誤差を認識することそのものがすでに自然現象という事実と自然科学というモデル/知識体系の間に溝があることを示しています。精度と手間には一般にトレードオフがあり段階的であって1か0かではないと思います。
>by 神戸隆行 at 2007/03/15 3:25:04
>物理学者
>(略)
>には思考に当たって知識としての信頼度や予測精度、あるいは計算量(運用コスト)の異なる複数のモデル・知識体系を並行的に複数運用管理する強い実際的な必要性があります。
>モデル化の視点や表現技法などは多様でありえますしそれに伴い予測や説明の精度、計算や記憶のコストはバリエーションがあります。
>似非科学の本質的な問題は
>(略)
>予測・説明精度ををごまかす意図的な欺瞞やひどい勘違いが含まれることにあります。
>by 神戸隆行 at 2007/03/15 3:49:37
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=4411
投稿: とま | 2007年4月11日 (水) 21時23分
度々の補足ですが
>「地球の周りを太陽が回転している」という取り扱いが非科学的であるとは思いません。ただ、『ある種の考察に行なう場合』には、それよりも圧倒的に「地球は楕円軌道の上を回転している」という取り扱いの方が適切だ、とは思います。つまり、このような問題でさえ『その文脈における』有効性が決め手になる
つまり、白黒がつけられるためには『文脈の特定』が前提条件になると考えているのですが、自然科学者の極一部(及び、その信奉者?)は「文脈の特定をする困難さ」を低く見積もりがちだと思っています。
例えば、数学では少なくとも専門家同士では、文脈を特定するのが現実的に容易な場合が多いです。でも、これは数学において顕著なことであり、他の分野でも同様に容易であるとは私は思いません。
>著者たちは次のようにいうのだが、これはいかにも安易な印象を受ける。
>『難しさが本物ならば、その理論がどのような現象を扱っていて、主要な結果が何であって、それを支える最良の論拠は何かといった点を、ある程度初等的なレベルでわかりやすい言葉を使って説明できるのが普通である。』(「知」の欺瞞より)
>文章の末尾にある「普通である」という言葉はくせ者である。
>ディシプリンそのものが未確立だったり、動揺したりしている場合(同じことだが、パラダイムが未確立だったり、動揺したりしている場合)、「どのような現象を扱って」いるのかということを明らかにすること自体が難しい――何をとりあげ、それをどのような現象と捉えるかということ自体が争点であり、論争当事者間で共通了解がないために、言葉もなかなか通じない――ということが珍しくない
塩川伸明先生-読書ノート-
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/sokal.htm
投稿: とま | 2007年4月11日 (水) 22時40分
要するに、私は
>そうではない分野において、いかにもそうであるかのように言葉巧みに操って、(必ずしも専門分野で専門家からきちんと評価されているとは言い難いような人が)特定の考え方を売りつけることがいかがなものか
これを一般化して
・そうではない主張を、いかにもそうであるかのように言葉巧みに操って、特定の考えを売りつけることが
問題であると捉えているのです。まず第一に、同一の分野に関する主張(考え)であっても妥当性の程度は様々です。(もちろん、分野ごとの傾向があることを否定しません。)次に、「専門家集団から評価されている人」なら、このことは問題でないということにはなりませんし。
専門の中で認められている主張であっても、その妥当性の程度は様々です。ちょっと極端ではあるけれども一つの意見として認められるというレベルもあれば、「ほとんど間違いなく成立する」と認められるというレベルまである。
投稿: 要するに… | 2007年4月12日 (木) 08時36分
うーん、うーん、うーん…
>迷わずタミフル処方してもらいます
>「既存の経済学的常識とは異なる説」を提示されることはちっともめずらしくありません
http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20070326#c1174906641
>厚生労働省の見解がトンデモさんで左右されるんですか?悪夢ですな
http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20070326/1174881583#c1174912704
>日銀の見解はとっくの昔にトンデモさんで左右されてるので、別にこの国では珍しい悪夢ではないかと
http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20070326#c1174914882
まあ、リフレさん達のブログのコメント欄でのことなんで、これ自体が問題って訳では全くないんですけど
投稿: 報告 | 2007年4月12日 (木) 13時46分
私の立場(労働政策)からすれば、リフレ虫さんは別に有害でもないので(政策論としてはむしろ賛成)、歴史に無知なくせに生意気なことを書く莫迦をたしなめる以外に、特にとやかく口を出す気はありません。
むしろ、大変有害なのは、「法と経済学」などと称しながら、実のところは組織の経済理論の成果なぞ歯牙にもかけず、「大学一年生向け初等ミクロ経済学教科書嫁」でしかないような理屈で、解雇規制や最低賃金問題に知った風なことを口走り、それが一国の政策決定に影響を与えていくという事態の方で、私としては百万倍深刻に受け止めています。
トンデモといえば、そっちの方が遥かにトンデモ経済学なんですよ。実務的にはね。ネットで跳ねてるイナゴさんだけ見ていたら間違います。
というわけですから、お水やらタミフルやらのヨタ話はこの辺で打ち止めにします。
エンゲルス君の科学的社会主義を暴くのに、心霊学を持ち出す必要はないでしょう。
投稿: hamachan | 2007年4月12日 (木) 14時59分
>それが一国の政策決定に影響を与えていくという事態の方で、私としては百万倍深刻に受け止めています
専門家としては、それはそうでしょう。
私の振る舞いは、あまり深刻ではないものをとやかく言われるのが嫌い、という極めて個人的な動機にしかもともと過ぎない訳です。あるいは、科学的な権威がそのために使われるのは嫌い、という専門家としてでなくて、個人的な動機ですね。
投稿: とま | 2007年4月12日 (木) 16時02分
すみません。ちょっと気になった点が。
>それが一国の政策決定に影響を与えていくという事態の方で、私としては百万倍深刻に受け止めています
>ネットで跳ねてるイナゴさんだけ見ていたら間違います
イナゴさんの動向は、専らヨタ話に関係しているのであって、政策決定にはあまり関係してないというのは同意します。そうだとすれば間違えるということにも繋がっていかない(単に無関係)とは思うのですが。私は何か勘違いをしているのかなあ…
(政策決定ではなく、私を含めた素人さんのメディアリテラシーとかに関係はするかな、とは思いますが)
投稿: とま | 2007年4月12日 (木) 20時05分