労働市場改革専門調査会第2回議事録
経済財政諮問会議に設置された標記専門調査会、通称「八代調査会」と呼ばれて、例の労働ビッグバーーンの中味を検討する悪の巣窟かと恐れられている(!?)ところですが、最近アップされたその議事録を見ると、なんともまともな議論が展開されている、というよりも素晴らしい議論になっているではないですか。立派な方々が立派な議論をしているんですよ、これが。
http://www.keizai-shimon.go.jp/special/work/02/work-s.pdf
この日のプレゼンは、みずほ総研の藤森さんと社研の佐藤先生ですが、いずれも現在の労働市場の課題に真っ向から切り込んでいます。藤森さんは、ブレア政権の「ウェルフェア・トゥ・ワーク」について、佐藤先生は「セーフティネットとしての能力開発と法知識」についてです。このブログでも取り上げてきた関心からすると、佐藤先生のプレゼンがたいへん興味深いものがありました。
まず、「就業安定性が高い人ほど私的セーフティーネットが充実している。逆にいえば、就業安定性が低い人はすべての私的セーフティーネットが低くなる」という傾向があるんですね。ですから、「就業が不安定な人にとっては、公的セーフティーネットの果たす役割が非常に重要であると言える」わけです。
「基本的には、誰にも能力開発の必要性はあるが、やはり失業リスクの高い人にとっては、失業して次に仕事に就けるようにすることを考えれば、能力開発の必要性はほかの人よりも高いだろう。 そのような人が主体的に能力開発に取り組めているかどうか」を見ると、「失業リスクが高い人の方が相対的に能力開発に取り組めていない。能力開発の必要性がある人が能力開発に取り組めていないという状況がある」のです。
それはなぜかというと、「忙しいかどうかは失業リスクによって差はなく、失業リスクが高い人ほど新しい仕事に接する機会がないということなどに違いがある。したがって、例えば企業に勤務していても、様々な理由があるが、企業がその人に余り長く勤めてもらいたくないと思うと新しい仕事を提供しない、あるいは企業内に教育訓練に時間が割けないから教える人がいない、あるいは本人も所得があまり増えないので教育訓練にお金を使えない」ということのようです。
そこで、「この人たちに関してそのような阻害要因を取り除く仕組み、例えば勤務先企業がなかなか新しい仕事を提供してくれない。そこで教えてくれないとすれば、18 ページのように、企業の外での教育訓練の機会の提供が必要になり、金銭的な支援が必要となる」というわけですが、この点については、私はいきなり外部労働市場に行く前に、企業内の能力開発機会の均等という考え方があるべきではないかと思います。同一価値労働同一賃金などとできもしないことをいうよりも、企業がいろんな仕事を経験させることを求めていくべきではなかろうか、と。
次に、「セーフティーネットとしての法的知識」について、「男性、年齢が高い者、高学歴、ホワイトカラー、大企業勤務者ほど知識水準が高い。逆に、年齢が低く、低学歴、ブルーカラー、つまり失業リスクがある可能性が高い人ほど相対的に法知識を持っていないということになる。つまり、法知識を必要とする人が知らない状況があることから、この問題の解決が非常に大事ではないか」と指摘しています。これも大変重要なポイントで、昔終戦直後には労働省に「労働教育課」ってのもあって、労働教育に力を入れていた時期もあったんですが、いまは全く問題意識もなくなってしまっていますが、改めて職業教育とは区別された労働者として生きていく上で必要な知識としての労働教育というものを考えていく必要があるように思います。
面白いのが正社員と非正社員のスキルレベルの話です。「非正社員が就いている仕事は1か月未満でやれるものが多いが、大事なのは、正社員と非正社員を比較してみるとスキルレベルが相当重なっていることである。正社員は非常に難しい仕事をやっているという先入観があるが、非正社員と実は重なっている」んですね。
「正社員に比べて非正社員は、確かに種々の変数をコントロールしても技能水準が低いが、その要因は、勤続年数が正社員より短いことの結果として高い技能を要する仕事に従事していない」のであって、「非正社員の勤続が進めば技能水準の差はなくなる」のです。これはたいへん重要なインプリケーションを持っているように思われます。
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直接、関係ないですが、なかなかいいです。
生産性は誰のものか【あるいは真の成果主義って?】
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50765006.html?1171534444
投稿: とま | 2007年2月15日 (木) 19時21分
異分野の仲間とできるかどうかわからないような夢を語るのも「非効率」。
友人の名誉を守るため運動するのも「非効率」。
いろんな仲間とジャムセッションに興じるのも「非効率」。
家族でゆっくり食卓を囲むのも「非効率」。
寝たきりのおばあちゃんを介護するのも「非効率」。
こういうのは極端な話かもしれませんが、山形さんの「動員」は結局「短期の効率」しか求めていないようにも見えます。
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20070215#p1
投稿: 関連 | 2007年2月16日 (金) 00時40分
とまさんという方から上のコメントで紹介のあったリンク先の生産性をめぐる「論争」(みたいなもの)を読むと、皆さん生産性という概念をどのように理解しているのかなあ?という疑問が湧きます。労働実務家の立場からすると、生産性って言葉にはいろんな意味があって、一番ポピュラーで多分このリンク先の論争でも意識されているであろう労働生産性にしたって、物的生産性を議論しているのか、価値生産性を議論しているのかで、全然違ってくるわけです。ていうか、多分皆さん、ケーザイ学の教科書的に、貨幣ヴェール説で、どっちでも同じだと思っているのかも知れないけれど。
もともと製造業をモデルに物的生産性で考えていたわけだけど、ロットで計ってたんでは自動車と電機の比較もできないし、技術進歩でたくさん作れるようになったというだけじゃなくて性能が上がったというのも計りたいから、結局値段で計ることになったわけですね。価値生産性という奴です。
価値生産性というのは値段で計るわけだから、値段が上がれば生産性が上がったことになるわけです。売れなきゃいつまでも高い値段を付けていられないから、まあ生産性を計るのにおおむね間違いではない、と製造業であればいえるでしょう。だけど、サービス業というのは労働供給即商品で加工過程はないわけだから、床屋さんでもメイドさんでもいいけど、労働市場で調達可能な給料を賄うためにサービス価格が上がれば生産性が上がったことになるわけですよ。日本国内で生身でサービスを提供する労働者の限界生産性は、途上国で同じサービスを提供する人のそれより高いということになるわけです。
どうもここんところが誤解されているような気がします。日本と途上国で同じ水準のサービスをしているんであれば、同じ生産性だという物的生産性概念で議論しているから混乱しているんではないのでしょうか。
投稿: hamachan | 2007年2月16日 (金) 09時53分
多分、山形さんは『個別に見ると、物的生産性と価値生産性には全く対応がないこと。でも、平均的にみると、平均的な物的生産性と平均的な価値生産性は対応していて、平均的な物的生産性の上昇は、直接的には主に製造業が担っている。』ということが言いたいんでないでしょうか。
投稿: とま | 2007年2月16日 (金) 11時50分
ていうか、そもそもサービス業の物的生産性って何で計るの?という大問題があるわけですよ。
価値生産性で考えればそこはスルーできるけど、逆に高い金出して買う客がいる限り生産性は高いと言わざるを得ない。
生身のカラダが必要なサービス業である限り、そもそも場所的なサービス提供者調達可能性抜きに生産性を議論できないはずです。
ここが、例えばインドのソフトウェア技術者にネットで仕事をやらせるというようなアタマの中味だけ持ってくれば済むサービス業と違うところでしょう。それはむしろ製造業に近いと思います。
そういうサービス業については生産性向上という議論は意味があると思うけれども、生身のカラダのサービス業にどれくらい意味があるかってことです(もっとも、技術進歩で、生身のカラダを持って行かなくてもそういうサービスが可能になることがないとは言えませんけど)。
投稿: hamachan | 2007年2月16日 (金) 13時42分
>そもそもサービス業の物的生産性って何で計るの?という大問題があるわけですよ
>生身のカラダが必要なサービス業である限り、そもそも場所的なサービス提供者調達可能性抜きに生産性を議論できない
それはそうなんですけども、
>日本と途上国で同じ水準のサービスをしているんであれば、同じ生産性だという物的生産性概念
も傍らにはある訳です。つまり『フィクションとして場所を入れ替えて見る』と同じだ、という。もともと社会科学というのはこういうフィクションの上で論理形成をするところがあると思うんですけど。
投稿: とま | 2007年2月16日 (金) 14時34分
一方で
>そういうサービス業については生産性向上という議論は意味があると思うけれども、生身のカラダのサービス業にどれくらい意味があるかってことです
というのは実は、製造業でも労働者は生身の体でやっている訳です。こっちの方向で論を進めると、製造業の『労働者の生産性向上』というのもあまり意味がなくて、むしろ意味があるのは『(労働による)資本の効率性向上』(分かりやすい例としては技術革新)ということになるんだと思います。
これは、あっちで池田氏が言ってるTFP、ってのに当たるんでないかと思うんですが。
投稿: とま | 2007年2月16日 (金) 14時56分
いやいや、製造業だろうが何だろうが、労働は生身の人間がやってるわけです。しかし、労働の結果はモノとして労働力とは切り離して売買されるから、単一のマーケットでついた値段で価値生産性を計れば、それが物的生産性の大体の指標になりうるわけでしょう。インドのソフトウェアサービスもそうですね。
しかし、生身のカラダ抜きにやれないサービスの場合、生身のサービス提供者がいるところでついた値段しか拠り所がないでしょうということを言いたいわけで。カラダをおいといてサービスの結果だけ持っていけないでしょう。
いくらフィクションといったって、フィリピン人の看護婦がフィリピンにいるままで日本の患者の面倒を見られない以上、場所の入れ替えに意味があるとは思えません。ただ、サービス業がより知的精神的なものになればなるほど、こういう場所的制約は薄れては行くでしょうね。医者の診断なんてのは、そうなっていく可能性はあるかも知れません。そのことは否定していませんよ。
投稿: hamachan | 2007年2月16日 (金) 16時15分
言っていることは大体、分かっているつもりでは
あるのですけど。
>労働の結果はモノとして労働力とは切り離して
>売買されるから、単一のマーケットでついた値
>段で価値生産性を計れば、それが物的生産性の
>大体の指標になりうるわけでしょう
でも、一つの製品の加工から販売の間には、いろ
いろなタイプの労働者が関っているので、やはり
何らかのフィクションに基づかないと切り分けら
れないことが多いような気がします。(ところが
一方で、企業としての生産性なんていうとむしろ
株式価値みたいなものの方に注目が集まることが
多いような気がします)
>いくらフィクションといったって、フィリピン
>人の看護婦がフィリピンにいるままで日本の患
>者の面倒を見られない以上、場所の入れ替えに
>意味があるとは思えません。
すみません、そっちの入れ替えではなく『フィリ
ピンのウェイトレスさんを日本につれてくると…
日本語の問題があるから少しあれだけど…』とか
考えながら「でもあんまり変わらないじゃん」と
考えているだと思います。
投稿: とま | 2007年2月16日 (金) 17時15分
フィリピン人のウェイトレスさんを日本に連れてきてサービスして貰うためには、(合法的な外国人労働としてという前提での話ですが)日本の家に住み、日本の食事を食べ、日本の生活費をかけて労働力を再生産しなければならないのですから、フィリピンでかかる費用ではすまないですよ。パスポートを取り上げてタコ部屋に押し込めて働かせることを前提にしてはいけません。
もちろん、際限なくフィリピンの若い女性が悉く日本にやってくるまで行けば、長期的にはウェイトレスのサービス価格がフィリピンと同じまで行くかも知れないけれど、それはウェイトレスの価値生産性が下がったというしかないわけです。以前と同じことをしていてもね。しかしそれはあまりに非現実的な想定でしょう。
要するに、生産性という概念は比較活用できる概念としては価値生産性、つまり最終的についた値段で判断するしかないでしょう、ということであって。
投稿: hamachan | 2007年2月16日 (金) 17時45分
>日本の家に住み、日本の食事を食べ、日本の生活
>費をかけて労働力を再生産しなければならないの
>ですから、フィリピンでかかる費用ではすまない
>ですよ。
もちろん、そうです。そういうことを無視する、と
いうのも、フィクションということで
このフィクションを元に短期的な政策を打つとおか
しなことになる訳で、こういったことが気になるの
は実務家としては当然だと思うのですが。(一般に
自分がどういうフィクションの元で考えているかに
自覚的な方がいいような気はしますけど)
確かに「労働者の物的生産性」というのはあんまり
適当な感じはしませんね。「企業体の物的生産性」
くらいが適当な気がします。そもそも、山形さんも
「製造業の労働者の物的生産性」の話をした訳では
なく、「製造業の物的生産性」あるいは「国の物的
生産性」くらいの話かもしれません
投稿: とま | 2007年2月16日 (金) 18時30分
「社会の生産性」を考えようとすると、家政婦を雇うか、それとも主婦のシャドウ・ワークか、で価値生産性も全く変わってしまう。ま、GDPの限界ですが…
これについては『(製造業の?)物的生産性』で考えた方がいいというのもあるかもしれません
投稿: とも | 2007年2月16日 (金) 23時21分
あと、実質GDPが、とか、実質賃金が、とか言いだすと、もろに物的生産的なもの(物価=「同じ物」がいくらで買えるの?)が出てきちゃう。名目だけでやってれば『価値生産性オンリー』でいけるんですが…
投稿: とま | 2007年2月17日 (土) 10時54分
今度はこんなのが…。
>ことプログラマーに関しては、例のホワイトカラーエクゼンプションを適用するべきだと思う。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50766218.html
>社員を正社員と非正規雇用に分け、正社員に特権的な地位を与えるのです。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070216/1171627060
投稿: とま | 2007年2月17日 (土) 11時17分
いやいや、労働生産性としての物的生産性の話なのですから、労働者(正確には組織体としての労働者集団ですが)の生産性ですよ。企業の資本生産性の話ではなかったはず。
製造業やそれに類する産業の場合、労務サービスと生産された商品は切り離されて取引されますから、国際的にその品質に応じて値段が付いて、それに基づいて価値生産性を測れば、それが物的生産性の指標になるわけでしょう。
ところが、労務サービス即商品である場合、当該労務サービスを提供する人とそれを消費する人が同じ空間にいなければならないので、当該労務サービスを消費できる人が物的生産性の高い人やその関係者であってサービスに高い値段を付けられるならば、当該労務サービスの価値生産性は高くなり、当該労務サービスを消費できる人が物的生産性の低い人やその関係者であってサービスに高い価格をつけられないならば、当該労務サービスの価値生産性は低くなると言うことです。
そして、労務サービスの場合、この価値生産性以外に、ナマの(貨幣価値を抜きにした)物的生産性をあれこれ論ずる意味はないのです。おなじ行為をしているじゃないかというのは、その行為を消費する人が同じである可能性がない限り意味がない。
そういう話を不用意な設定で議論しようとするから、某開発経済実務家の方も、某テレビ局出身情報経済専門家の方も、へんちくりんな方向に迷走していくんだと思うのですよ。
投稿: hamachan | 2007年2月18日 (日) 11時37分
>労働生産性としての物的生産性の話なのですから、
>労働者(正確には組織体としての労働者集団ですが)の生産性ですよ。
>企業の資本生産性の話ではなかったはず。
確かにそうなのかもしれませんけど、『私自身』はあれを「労働生産性としての物的生産性」としてはあんまり読んでいないのです。
>>これは、「工場労働者」の生産性と言うより、「工場」の生産性の違いなんですよ。
>>ようするに、山形氏は、経済学で言うところの「資本の生産性」と「労働の生産性」を分けて説明してないために、
>>話がおかしくなってしまっているんですね。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070213
------
>当該労務サービスを提供する人とそれを消費する人が同じ空間にいなければならない
ですので、空間を変えるに当たっての障壁、というか『コスト』を考えなければ現実的ではないですよね。
>日本の家に住み、日本の食事を食べ、日本の生活
>費をかけて労働力を再生産しなければならないの
>ですから、フィリピンでかかる費用ではすまない
似たようなコメントが情報経済さんの方にもありますね。
>>Unknown (一研究者)
>>金持ちのメイドの方が貧乏人のメイドより賃金が高いのに、主人以外の第三者(例えば通行人)の生産性は関係ないのです。
>>もちろん、実際は社会との関連はその職業によって異なり、例えばタクシー運転手など不特定多数相手のサービス業では、「全ての職業の平均的な生産性」というものを持ち出しても大きな違和感はないでしょう。
>>ですが、例えば鉱山労働者などは、「全ての職業の平均的な生産性」が上がったからと言ってその恩恵をあまり被らないでしょう。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/470cbdc39360f5b3c77d0372e3ddcb6e
まあ、大局的結論なんてものは平均的には当たってるかもしれんけど個別に見たらハズレも多いでしょうと考えてればそんなに大過ないんでないかと。
投稿: とま | 2007年2月18日 (日) 12時43分
>国際的にその品質に応じて値段が付いて、それに基づいて価値生産性を測れば、それが物的生産性の指標になる
>おなじ行為をしているじゃないかというのは、その行為を消費する人が同じである可能性がない限り意味がない
結局のところ、「同じものだ!」と言っても流動性の問題があって、流動性が高ければほぼ同じ値段がつくけれど、そうでなければ値段が乖離することは当然であって、流動性がないところでは「同じものだ!」と言うのにどれほど意味があるのか、ということですよね。
むしろ、経済の人は思考が逆で「同じものが違う値段だな。ふむふむ、流動性が低いわけだが、その要因はこの場合、具体的にはなんだろうか」と考えるような気がしますね。だから、「その要因を考える」というところに繋がってくので、彼らにとっては意味があるのではなかろうかと。しかし、一方で「同じものだから、同じ値段がつくはずだ!」とか、思ってしまうとそれは誤解なわけです。
投稿: とま | 2007年2月18日 (日) 13時53分
上のプログラマー話。
まあ、弾子飼氏も、分裂勘違い君も、基本的な労働法や労務管理の知識なしに喋っているから、部分的におっと思わせるような鋭い指摘があっても、全体としてはトンデモ系になってしまっているんですね。
労働時間制度と賃金制度に関するもっとも基本的なテキストでもちらっとながめてから書けばいいのに・・・、と思いますよ、ホントに。
投稿: hamachan | 2007年2月19日 (月) 12時06分
>労働時間制度と賃金制度に関するもっとも基本的なテキストでもちらっとながめてから書けば
いや、それは無理でしょう。むしろ、普通(?)の人達がどう考えて、何を望んでいるのか、眺めるためのものではないんでしょうか?(もちろん私にとっては違うんですけど)
投稿: とま | 2007年2月19日 (月) 17時01分
何か、山形さんがアメ公の御大にメール打ったみたいです…
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20070219/p1
投稿: とま | 2007年2月19日 (月) 20時15分
まあ、製造業の高い物的生産性が国内で提供されるサービスにも均霑して高い価値生産性を示すという点は正しいわけですから。
問題は、それを、誰がどうやって計ればいいのか分からない、単位も不明なサービスの物的生産性という「本質」をまず設定して、それは本当は低いんだけれども、製造業の高い物的生産性と「平均」されて、本当の水準よりも高く「現象」するんだというような説明をしなければならない理由が明らかでないということですから。
それに、サービスの価値生産性が高いのは、製造業の物的生産性が高い国だけじゃなくって、石油がドバドバ噴き出て、寝そべっていてもカネが流れ込んでくる国もそうなわけで、その場合、原油が噴き出すという「高い生産性」と平均されるという説明になるのでしょうかね。
いずれにしても、サービスの生産性を高めるのはそれがどの国で提供されるかということであって、誰が提供するかではありません。フィリピン人メイドがフィリピンで提供するサービスは生産性が低く、ヨーロッパやアラブ産油国で提供するサービスは生産性が高いわけです。そこも、何となく誤解されている点のような気がします。
投稿: hamachan | 2007年2月20日 (火) 09時11分
>原油が噴き出すという「高い生産性」と平均されるという説明になるのでしょうかね。
それはそうだと思いますけど
>>これは、「工場労働者」の生産性と言うより、「工場」の生産性の違いなんですよ。
>>ようするに、山形氏は、経済学で言うところの「資本の生産性」と「労働の生産性」を分けて説明してないために、
>>話がおかしくなってしまっているんですね。
------
言葉を変えると大体、同じような気が…
>それは本当は【大体同じな】んだけれども、製造業の物的生産性と「平均」されて、【同じものの賃金が違って】「現象」するんだ
>サービスの【賃金】を高めるのはそれがどの国で提供されるかということであって、誰が提供するかではありません。フィリピン人メイドがフィリピンで提供するサービスは【賃金】が低く、ヨーロッパやアラブ産油国で提供するサービス【賃金】が高いわけです。
投稿: とね | 2007年2月20日 (火) 16時33分
大体、もともと「生産性」という言葉は、工場の中で生産性向上運動というような極めてミクロなレベルで使われていた言葉です。そういうミクロなレベルでは大変有意味な言葉ではあった。
だけど、それをマクロな国民経済に不用意に持ち込むと、今回の山形さんや池田さんのようなお馬鹿な騒ぎを引き起こす原因になる。マクロ経済において意味を持つ「生産性」とは値段で計った価値生産性以外にはあり得ない。
とすれば、その価値生産性とは財やサービスを売って得られた所得水準そのものなので、ほとんどトートロジーの世界になるわけです。というか、トートロジーとしてのみ意味がある。そこに個々のサービスの(値段とは切り離された本質的な)物的生産性が高いだの低いだのという無意味な議論を持ち込むと、見ての通りの空騒ぎしか残らない。
投稿: hamachan | 2007年2月21日 (水) 11時12分
>マクロ経済において意味を持つ「生産性」とは値段で計った価値生産性以外にはあり得ない。
ところが、それでいくと、例えば所得のときでも実質所得を考えることはできなくて『名目所得』しか使えなくなる。というか、そもそも物価というのが『同じものが違った値段で現象する』という認識が底に張り付いていて、それをなくして、『値段が違ったら違うもの』では、物価は不変になってしまう
そういうわけで、『物価』という概念自体に怪しさがあるわけで。というか(ミクロのものであろうとも)大方の会計概念には…
投稿: とま | 2007年2月21日 (水) 11時59分
いや、実質所得に意味があるのは、モノで考えているからでしょう。モノであれば、時間空間を超えて流通しますから、特定の時空間における値段のむこうに実質価値を想定しうるし、それとの比較で単なる値段の上昇という概念も意味がある。
逆に言えば、サービスの値段が上がったときに、それが「サービスの物的生産性が向上したからそれにともなって値段が上がった」と考えるのか、「サービス自体はなんら変わっていないのに、ただ値段が上昇した」と考えるのか、最終的な決め手はないのではないでしょうか。
このあたり、例の生産性上昇率格差インフレの議論の根っこにある議論ですよね。
投稿: hamachan | 2007年2月21日 (水) 13時53分
まあ、結局のところ、あれがミスリーディングになったのは、日本とフィリピンの床屋さんの賃金の比較の話にしてしまったので混乱したんです。もっと単純に『発達した製造技術と工場を持つ』現代の床屋さんと昔の床屋さんの実質賃金の比較にすればそれで終わりなんですよね。
>サービスの値段が上がったときに、それが「サービスの物的生産性が向上したからそれにともなって値段が上がった」と考えるのか、「サービス自体はなんら変わっていないのに、ただ値段が上昇した」と考えるのか、最終的な決め手はないのではないでしょうか。
ところが、実際にはモノの方も、なかなか難しくて、パソコンとかバージョンアップしてしまうし、極端な例だとボルドーは去年と今年を一緒にはできないし、あるいは年数が経つと個々の保管状態が、とか、あるいは、これは噂ですが、マクドナルドは来店者が少ない店舗は冷めた状態で出てくるとか(ビッグマック指数…)、そんなこんなな訳ですが。じゃあってもって貴金属との相対価値で実質価値を計る(重金主義?)と生活実感から離れるし。生活実感に合わせよう、とすると、サービスも価値の一つで、もっと言うと市場化されてない主婦の家事労働も価値だし。もうどうしようもなくなるんで、どっかで諦めて分析しましょ、というのが実状では…
投稿: 経済屋ではないのです | 2007年2月21日 (水) 22時22分
なんだか、池田さんのブログからやたらにたくさん人が飛んできてるなあ、と思ったら、コピペされているんですね。「とま」さんこと「ふま」さんの仕業でしょ。
こっちは人をむやみに怒らせないようにひっそりと関係ないエントリーのコメント欄に細々と書いているので、特定の人格攻撃に当たるかのように読める一節をあんまりあちこちにコピペするのは避けていただければと思います。
私にとってはあくまでも専門領域外のことについての自分なりの頭の整理に過ぎないので。
投稿: hamachan | 2007年2月23日 (金) 09時15分
賃金(労働の価格)だけに限った話でないでしょう。そういった問題を、強引に仮説を導入して解決されたことにする、と言えば実態に近いと思う。
>自動車1台といった場合、T型フォードから最新鋭の自動車まで様々なものが考えられるし、ましてパソコン1台となれば、10 年前のパソコンと現在のパソコンの性能は全く違う
>とりわけサービスの品質調整は殊の外難しい
>資本財の中には、殆どがオーダーメイドで作られており、そもそも同一の財が存在しない
>デパートのポイント制クレジット・カードなどは、過去1 年間にそれぞれの顧客がどういう商品をどれだけ買ったかに依存して割引が行われる
http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20071009#c1192026552
投稿: 要するに、 | 2007年10月11日 (木) 23時26分