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2007年2月27日 (火)

負け太り

権丈先生の最新エッセイですが、

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare68.pdf

この中に、辛辣に現実を言い当てた一文があったので、思わずコピペ。

>「焼け太り」に類する言葉として、わたくしは「負け太り」という言葉をしばしば使っている。論者が間違えたことを言っているために専門家の間での論争では簡単に勝負がつくのであるが、論点の専門性ゆえに世間はそのことがわからず、間違えた論者は注目を浴び、功成り名を遂げて、世俗的には成功者となる。自然科学の世界ではいざ知らず、社会科学の世界では、「負け太り」の例は枚挙にいとまがない。

いやあ、まったく。

何の話かというと、こういう続きです。

>「抜本改革だ抜本改革だ!」と連呼する、九官鳥か?と見まがうようなやたら目立つことを言っている人が採用されやすくなり、地味に良質な研究をしている人は競争面でものすごく不利な立場に立たされるという構造的な問題がある。 この種の構造的問題は、メディアや政界をはじめいろいろな世界で共通することだとは思う。そして研究者・メディア・政治家が強固な「抜本改革トライアングル」を形成して互いに互いを利用し合いながらスパイラル的にこの構造問題は増幅されているようにみえたりもする・・・。彼ら「抜本改革トライアングル」はほとんどの場合おかしなことを言っているのであるが、素人目にはなかなかそのあたりが見破られない――しかもほんの少しでも研究領域がずれると隣接領域の研究者にも同様に見破られない。

まったくね、抜本改革トライアングルか、言い得て妙。

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コメント

内田樹や宮台真司のような人々の著作やジャーナリストが書いた経済本のようなものは学術的にはなんでもないでしょうが、そういったものが事情を知らない人々の間で学術的価値を持つかのように流通してゆくのに歯止めがないのは困ったものです。こうした例からしても権丈先生の言うことはもっともなんですが、どうしてそうした「負け太り」が現れてくるのかというところまで考える必要がありますよね。
日本の社会科学は学術としての自律性が低いように思われますが、自律性を保てるほどの研究者の層がない、というだけではなくて、本の販売の再販規制と関連した学術出版のあり方にも問題があるように思われます。再販規制によって多様な出版物が流通できて、千部程度刷る学術書も出版できる、といった主張がある一方で社会科学の学術出版と商業出版の間の線引きが非常に曖昧になっています。この曖昧さのおかげで日本の社会科学はかなりの部分で出版社の「下部構造」になっているように思われます。たとえば社会科学では単著がいくつ、共著がいくつといった形式で業績の目安とする仕方がありますが、これにしても再販規制の存在がなければありえないものです。権丈先生の「負け太り」の話にしても、こうした構造が温床と思われます。最近では新書のようなもので「単著」を増やそうとする人々が目につきます。
再販規制が撤廃されれば、欧米のように学術出版と商業出版がはっきりと分離して、「負け太り」のようなものを抑止する効果があるんじゃないでしょうか。

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