関与権としての労働基本権
先月15日のエントリーで憲法学お勉強ノートに引っかけて「プロセス的権利としての団結権」という話を書きましたが、労働法学の中の人はご承知のように、こういう発想は既にあります。もっとも典型的なのは西谷敏先生の議論でしょう、主著『労働組合法第2版』(有斐閣)の表現を引用すると、
>憲法学における伝統的見解は、基本的人権を自由権的基本権と生存権的基本権に分類し、労働基本権を「社会権」あるいは「社会国家的基本権」ととらえ、自由権との異質性を強調する見解が憲法学の有力な流れをなしている。
>しかしながら、労働基本権は、その確立の歴史から明らかなとおり、何よりも国家権力からの自由を中核に持つべき権利である。・・・・・伝統的な労働基本権理解に対するこのような反省から、近年では労働基本権の自由権的性格を強調する見解が、憲法学においても、労働法学においても次第に有力になりつつある。
>労働基本権のうち、自由権を越える部分は、時に労働基本権の生存権的側面と性格づけられるが、必ずしも適切ではない。確かに、労働条件等の決定への関与を通じて労働者の生存権が実現されることが期待されるのは当然であり、その意味で労働基本権は生存権理念と深い関係にあることは疑いない。しかし、ここでは労働者の経済的地位の向上や生存権の実現という結果が保障の対象になっているのではない。むしろ、この権利は、労働諸条件を決定する過程への実質的関与そのものに力点のある権利、いわば関与権として把握されるべきものである。換言すれば、憲法は、労働者が自己の労働諸条件決定過程から排除され、それが使用者やその他第三者によって一方的に決定されるという事態を正義に反すると見て、労働者団結に対して国家からの自由を保障するにとどまらず、さらに彼らの実質的関与を積極的に保障しようとしたのである。・・・
結果の保障ではなく、決定過程への関与の保障こそが枢要であるというこの考え方は、今日ますます重要になっているように思われます。西谷先生のこのテキストは言うまでもなく『労働組合法』ですので、ここでの自らの労働条件決定過程への関与の保障も当然労働組合を通じたものが念頭に置かれているわけですが、それでは労働組合のない職場で働く人々にとっては決定過程への関与の保障はなくてもいいのか、というのが次に出てくる問いであるわけです。
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