プロセス的権利としての団結権
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20061115/p1#seemore
稲葉先生の憲法学のお勉強ノート、
ではあるのですが、労働関係者の目からすると、ここに出てくる人々の目には入っていないらしいある条項が気になります。
恐らくあっさり単純に非プロセス的権利でかつ非切り札的権利に分類されてしまうであろう、第28条です。
>勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。
それがどうしたの?と多くの人は言うでしょう。
実際、今の時期、これが直接役に立つのは、リストラされそうになった管理職氏があわてて合同労組に駆け込んで、団体交渉という名の個別交渉をするときぐらいでしょうから。
しかし、ある意味ではこれは政治的意思決定の仕組みを構築する規定でもあるのです。政治は大文字のいわゆる政治やさんのやる政治だけではありません。社会の至る所に政治はあります。少なくとも現代政治学はそういう政治観を持っています。
ところが、憲法学やその理論的根拠となるような法哲学の世界では、政治は依然として大文字の政治だけのようです。シビック・レパブリカニズムのいう「参加」はあくまでも大政治への参加であって、日常身の回りの政治への参加ではない。いや、ある意味では常に参加しているのだが、その参加の仕方の民主性とか立憲制という議論にはなっていかないのですね。
まあ、憲法でもこの20条台の後半あたりは、憲法学者があんまりまじめにやらないところですから、そういう視点が見落とされてしまうのも仕方がない面もありますし、日本以上にアメリカも労働組合の力がなくなっていますから、アメリカの動向に敏感な憲法学でそんなものが夾雑物扱いされるのもやむを得ない面もありますが、ヨーロッパだと少しその辺の感覚が違うような気がします。少なくとも、ここ数年来EU憲法条約の動きを追いかけただけでも、その違いは感じられます。
そんな話をして何の意味があるのかとご不審ですか。いや大変あるのですよ。労働契約法制や労働時間法制をめぐる問題の恐らく一番根っこのところを手探りすれば、そういう問題が出てくるはずなのです。
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そこで「制度保障」ですよ!! というのは軽薄なんでしょうね。
投稿: いなば | 2006年11月15日 (水) 16時23分
私の関心は「産業民主制」とか「産業立憲」(いずれも現在の日本では死語に近いですが)と呼ばれてきた分野を、労使関係論的にだけでなく憲法学的に論じることができるのではないか、というところにあります。持ち駒が大変少ないのでなかなか展開できないのですが。
投稿: hamachan | 2006年11月15日 (水) 17時42分
も少し問題意識を進めると、中間集団の民主的・立憲的コントロールというより一般的な視座が開けるのではなかろうか、という思いがあります。
中間集団は、一方では冷酷で無慈悲な外部から成員を守ってくれるシェルターであり得ると同時に、それ自体が成員を苦しめ、追いつめる原因ともなりうるという性格を持っています。
誰かさんのように単純に中間集団全体主義を糾弾していればいいわけでもないし、そのパターナリズムに安住していいわけでもない。
そして、実はこの性格は近代国家とも共通するものです。「中間」集団という言い方は、国家と個人の中間という含意ですが、それこそグローバルに生きるユダヤ人から見れば、イスラエル国家はシェルターであり、抑圧装置でもあるわけで。
とすると、国家の国民保護機能を維持しつつそれを民主化・立憲化しようとしてきた憲法学の努力は、他の中間集団論にも一定の修正を加えつつアナロガスに準用しうる面があるのではないか、という問題意識です。
で、とりあえず職場というところに着目すると、第28条がとっかかりになりそうだということなので、これはもっと拡大的に議論しうるし、すべきものだろうと思っています。
「いじめ」論は、こういう次元から議論してみる必要があるはずなのですよ。
投稿: hamachan | 2006年11月16日 (木) 16時53分
内藤先生、ここ見てるかな…
投稿: フマ | 2006年11月16日 (木) 19時55分
問題意識はとても面白いと思うんですけど、気になるのは中間集団っていろいろありますから、集団ごとに適切な運営の仕方はありはしないかとか。法律でどうこうとなるとある中間集団は有利になり、ある集団は不利になるとか、そういうことが気になる訳ですね。国家自体が中間集団である以上、そんなこと言ってもねー、ってのはありますが
投稿: フマ | 2006年11月16日 (木) 20時14分
稲葉先生があげていた、何だかヘンテコリンな中間集団の一例w
2006-11-14
■[メモ]大学教員は牛、事務官は飼育者
http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20061101/p2
投稿: フマ | 2006年11月16日 (木) 21時02分
お久しぶりです。
この問題に関して、多少ですが、つい最近考えていたので少し。
論理としては僕も、濱口さんの見解に賛成なのですし、そう「あるべき」だと考えているのですが、現実にそれで上手くいくのかどうかに疑問があります。
例えば、職場の教育に関してですが、特にブルーカラー従事者についてのOJTに関しては、人権的な発想では教育しきれない面も大きいとは思います。教育される側にそうした意欲、あるいは姿勢があれば良いのですが、それがいつもそうだとは限らないのではないかと。
また、こういうキツイ作業の職場の場合は、「いじめ」とは言わないまでも、やはり文句や不満が出てくるのが実態ではあります。さらに、ダメな人間にはキツイというか庇われないというか、それでもこうした文句や不満を認めないと全体の士気や能率そのものが下がる可能性もあります。もっともキツイ仕事の反射的な効果として、仕事への誇りが高まるという事もあります(ただ、その分の給料の高さが前提となっているとも思いますが)。しかしだからと言って「いじめ」が許される訳ではないのですが。そうしたグレーゾーン的なもののバランスをどう調整するのか、法律を制定するとしてどこまで法律で縛るのか、さらにはフマさんの指摘通りに、中間集団そのものの多様性という事もあります。
ここからはまさしくドツボの議論になりそうなので敢えて仔細にはコメントしませんが(もし意味が通じなければ、僕の書き方が悪いという事で御寛容いただければ幸いです)、憲法的な発想に立つ場合は、その成員に「個人主義」的な素養が要求される一方で、日本人にそれを求められるのかという点は実は曖昧なのではないか、という問題があると考えています。少なくとも、日本的経営や日本的資本主義という言葉が象徴するように、(乱暴な言い方になるのですが)人権の発祥たる西欧のそれら(経営のあり方や個人の意識)とは差異があるのではないかと考えています。
濱口さんの「労働法政策」を読んで日本の労働政策を勉強しているのですが、なんとなく歴史的にみて、日本人が労働者の権利だのそういう事を考えるのは苦手というか発想がないというか、そういう印象を受けます。個人的には、丁稚の世界のように思えるし、だからある意味で人として認められていないというか、人権なんて関係ないというか、給料は安くていいというか、そう考える人が多いように思えてしまうのです。
それで、労働者側にも問題があるが、経営者側にも問題があるとは思うのです。ただ、経営者側のフォローをしますと、結局、経営上の責任を取るのは経営者の側なので、その分の本来的な職務に要求される以上の責任を負っているように思います。特に中小企業です。労働者の失敗も、その負担は経営者の処に回る、という事です。この段落は、僕の家がそうだったという事だし、他の中小企業の経営者の方(多少程度のものですが)に聞いてみたところ、このような印象を持ったという事です。それで、なんとなくの印象ですが(まだ労働法は勉強をしていません、すいません)、濱口さんが「非切り札的」とコメントされるのは、こういう事情が大きいのかなあ、とは思います。
最後に、この議論はなんら専門的、体系的に学んでいない素人の議論ですので、的が外れていたら申し訳なく思います。
投稿: ss | 2006年11月17日 (金) 02時56分
いえいえ、このエントリーで書いていることは全然専門とか体系とか関係なく、思いつくままに書いているだけなので、全くご遠慮なく噛み付いてください。
何でこんなことを思っているのかというと、例えば少し前にここで取り上げた鹿児島の音楽教師が校長にいじめられて自殺したと言う話、「自由な社会」とか持ち上げる人は、すぐにこれこそ「中間集団全体主義の弊害だ、そんなの潰してリベラルにいこう」とか言いたがるわけだけれども、別のフェイズでは、国語がうまく教えられない音楽の先生をかばって、いや彼女も頑張っているんだからとか、そういう弱いものを守るメカニズムもあるわけですよ、中間集団には。それを簡単に投げ捨てていいのか、ということなんですね。
これは国家も含めてあらゆる中間集団に内在する二面性なのであって、それを全体主義だと言って否定してしまったら、それこそグローバルマーケットに全員を投げ出して、さあみんな自分の力で頑張ってね、という話になってしまう。
福祉国家の圧迫性という議論も昔からありますが、ではそんな息の詰まる仕組みは廃棄すればいいのかというとそうはいかない。社会権的シチズンシップをどう考えるべきかという話ともつながる。きれいきれいなリベリベ論は、学者先生の議論としては美しげに見えるけれど、それがもたらすシビアな帰結を一般国民が受け入れられるとは絶対に思えない。
碌でもなくてもメンバーを守るという中間集団の論理をひとまず維持した上で、それをいかに透明なもののしていくかという課題を考えていく上で、現代福祉国家における民主制と立憲制という憲法学の議論が役に立つのではないかという問題関心なので、なにも欧米流の個人主義を前提にしようというわけでもなければ、人権意識がなくちゃだめだとか偉そうな議論を展開する気もないのです。むしろ逆なんですよ。
福祉国家というある意味で究極のパターナリズムを前提にしながらその中で民主制や立憲制を考えることができる以上、企業や学校といった組織を基本的にパターナリスティックに構築しつつその中で民主制や立憲制を考えていくことができるはずではないかという話なので、どちらかというとリベラルな人々の偉そうな説教とは反対の方向でものごとを考えてみたいのです。
投稿: hamachan | 2006年11月17日 (金) 17時12分
ひきこもり(=中間集団に属せない?)問題の
上山和樹さんが割と拘っているようだったので、
それで私もちょっとだけ気にはなっています。
≪中間集団≫
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050203#p3
中間集団と党派性
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20060710#p1
「規範との付き合いかた」
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20060708#p1
投稿: フマ | 2006年11月17日 (金) 20時02分
ルノーで従業員連続自殺 「ゴーン改革」引き金か
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070223-00000028-san-int
投稿: あらま… | 2007年2月23日 (金) 19時34分