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2006年11月 6日 (月)

現代の国家は厚労行政と文科行政でなりたっているんだよ

もう、ほとんど権丈先生が「勿凝学問」をご自分のHPにアップされるたびに紹介しているような感じですが、それだけ皆様にも読んで欲しいと言うことで・・・。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare50.pdf

>今は昔、時の首相が「民間でできることは民間に」と絶叫すれば、大衆がシビレきってしまう不思議な時代があったそうである。その熱狂の渦中、次のような反時代的な文章を書く大戯けもいた・・・

という例によって皮肉満載の権丈節で始まるこの文章は、ここ2ヶ月ほどの講義の内容だそうで、こういうまともな講義を聴ける学生さんはホントにシアワセですね。

>現代国家は、基本的に年金給付、医療給付をはじめとした社会保障給付、それに公的教育給付を行うために存在しているようなものである。・・・

現代(公共)経済学の政治的バイアス
• 現代国家は、貢献原則にもとづく市場の分配を必要原則にもとづいて修正する再分配政策が、小さな政府では過半、大きな政府では大半を占める。にもかかわらず、古典的な公共財供給を分析するには適当ではあるかもれないタームで、必要原則による家計への再分配を旨とする社会保障や教育政策を経済学者に論じさせている。
• 社会保障や教育は、古典的公共財とは似ても似つかぬものである。よって、多くの経済学者は、その論に、無意識のうちにある一定方向、すなわちその存在意義を認めぬ、再分配否定へのバイアスがかかることになる。・・・

• 平等消費の実現手段
政府は特定の対人サービスの階層消費を回避し、平等消費を保障する唯一の政策手段として存在する。
(医療、介護、保育、教育等の現物給付)
• 不確実性からの生活保障の実現手段
政府は不確実性から生活を保障する最後の砦として存在する。
(年金等の現金給付)

現代の国家というのは、社会保障や公的教育支出を通じて、所得の再分配を行っている。しかもその役割が、決定的に大きいという特徴をもっている。先日、ある学生が公務員を目指したいと言ってきたときに、どこに行きたいのかと訪ねると、内閣府とのこと。ついつい余計なお世話で、「現代の国家は厚労行政と文科行政でなりたっているんだよなぁ」と言ってしまったのは、上記のような認識をもっているからである。・・・・・・

ぎゃはは、確かに、実社会の経験も全くないまま、ただただ教科書嫁とばかり言われてケーザイ学を一生懸命勉強してきた純朴な学生さんは、それこそが社会の根本であり、つまり内閣府でマクロ経済論議をすることが国家の決定的役割だと思いこんでいるのでしょう。「事件は現場で起こっているんだ」よ。

>ここで言いたいことはひとつ。ようするに、ある財・サービスは平等消費されるほうが望ましいと判断した場合、その平等消費を実現するためには、政府を利用するしか手段がないのである。政府を利用せずに市場に任せるとなると、どうしても所得階層に応じて消費格差のある階層消費が生まれる。たとえば医療――はたして、医療に関して、平等消費が望ましいのか、階層消費が望ましいのか?この問題こそが、「民間でできることは民間に」というスローガンを掲げる政治家を前にして、われわれが考え抜かねばならないことになる。

それでは、教育に関してはどうか?・・・。「教育はすでに混合診療化している」とわたくしが口にするのを聞いたことがある人もいるだろうが、その意味は、ここで論じた文脈に沿って考えれば察してもらえるかと思う。

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コメント

>教育はすでに混合診療化している
ま、それは当然です(ニヤニヤ

笑ってる場合ですよ。教育こそは労働問題の根幹なんですから。
今はワーキング・プアといいますが、その昔レーバリング・プアが社会問題だった資本主義の勃興期、神の見えざる手を唱道したアダム・スミスが、唯一国家の介入が必要だと考えたのが義務的公教育制度ですからね。

で、本田先生の出番と…。ただ、公的にやるとしてもどの規模でやるのがいいんでしょう。国と地方の負担と権限の関係とか、気になるところではあります

前政権から続く文科行政がまずいのは裁量的な傾斜配分(文科のスローガンで言えば「選択と集中」とか言う)を露骨にやるようになったということではないでしょうかね。無作為分配か均等分配してるならまだましで、現状は民営化よりも悪化してると思われますが。

私は詳しくないのですが、文部科学省が言ってる「選択と集中」って、大学とか科学技術とかそういう類のものについてじゃないんでしょうか。
大学とかを考えれば、訳の分からない底辺大学まで同じように無作為分配や均等分配したらその方が大問題ではないかと思いますが。そこまで来ちゃったのに今さら投資しても上向移動の足しになるとは思えないし・・・。
問題は、足立区がやろうとしているような初等中等教育段階で妙な「選択と集中」をすることではないのでしょうか。やはり、家庭や地域の階級的配置が子どもの学業達成には影響を及ぼしますし、階級移動のせっかくの可能性を摘んでしまう危険性が高いように思いますね。

足立区内で地域間の階級格差があるのか、それとも
可能性のありそうなとこに集中投資して階級移動を
促そうということなのか…

「選択と集中」というのは大学のCOEや科学技術予算の分配に関する文部科学省のスローガンです。「底辺」の事例をあげるというのは、行政側が持ち出す論拠としてとても既知感があるんですが、「底辺」の底上げの必要性が行政が教育に関与する根拠と考えているということですよね。ならば「底辺」にだけ関与するような制度を提言されるようお願いします。

教育や研究のようなリスクが高いか長期的なスパンの投資では「選択と集中」などより無作為あるいは均等配分のほうがましなのは、確率論を少しかじれば数学好きなフマさんじゃなくてもわかりますよ。
「選択と集中」というスローガンは「大学とか科学技術とかそういう類のものについて」です。これは濱口さんの言う「文科行政」の範囲ですよね。「訳の分からない底辺大学」や足立区の例を上げるということは行政の教育への関与が「底辺」の底上げ、あるいは階級間移動機会の増大が目的と考えているということなんでしょうか。「底辺」の惨状をあげて行政の関与の根拠とするのはよくある典型的な議論ですが(このブログにはこのロジックが多いようですが)、それならそれだけをするような制度になっていないのが奇妙です。「民営化」論議の背景の公務員バッシングにしても理がない訳ではなく、「底辺」あるいは「弱者」救済を理由に省益や利潤追求をするような実態があったわけです。たぶん財●省の窓際で暇をもてあます某ブログあたりに対抗意識を燃やしてるんでしょうが、大学に所属してまで省益争いはやめてもらいたいものですね。かなり見苦しいです。
というか公務員改革なんて前政権は何もしてないじゃないですか。前政権下で行政サイドはむしろ改革に乗るかのようにして省益を追求していたわけですよ。むしろシバキ主義をミクロに実践する小役人たちの群れが独立行政法人や法人化された国立大学で暴威を振るってきているわけですし。

教育や研究のようなリスクが高いか長期的なスパンの投資では「選択と集中」などより無作為あるいは均等配分のほうがましなのは、確率論を少しかじれば数学好きなフマさんじゃなくてもわかりますよ。
「選択と集中」というスローガンは「大学とか科学技術とかそういう類のものについて」です。これは濱口さんの言う「文科行政」の範囲ですよね。「訳の分からない底辺大学」や足立区の例を上げるということは行政の教育への関与が「底辺」の底上げ、あるいは階級間移動機会の増大が目的と考えているということなんでしょうか。「底辺」の惨状をあげて行政の関与の根拠とするのはよくある典型的な議論ですが(このブログにはこのロジックが多いようですが)、それならそれだけをするような制度になっていないのが奇妙です。「民営化」論議の背景の公務員バッシングにしても理がない訳ではなく、「底辺」あるいは「弱者」救済を理由に省益や利潤追求をするような実態があったわけです。たぶん財●省の窓際で暇をもてあます某ブログあたりに対抗意識を燃やしてるんでしょうが、大学に所属してまで省益争いはやめてもらいたいものですね。かなり見苦しいです。
というか公務員改革なんて前政権は何もしてないじゃないですか。前政権下で行政サイドはむしろ改革に乗るかのようにして省益を追求していたわけですよ。むしろシバキ主義をミクロに実践する小役人たちの群れが独立行政法人や法人化された国立大学で暴威を振るってきているわけですし。濱口さんが信奉してやまないこの種の管理システムがはらむ病理は、このブログでは死角に入れられてるように見受けられます。

全体としてのご趣旨が今ひとつつかめておりませんので、もしかしたら見当外れのコメントになっているかも知れませんが、その場合はご容赦を。

そもそも私は文部科学行政に携わったこともないので、文科省がどういうつもりで何をやっているかはあまりつまびらかではありません。
あくまで、労働行政の物の見方からあれこれ口を挟んでいるだけですので、もしそれが日本国の文科行政の趣旨と違うというご指摘であれば、特に反論するつもりもありません。

ただ、この10年間ずっとヨーロッパの動きをフォローしている関係で、教育問題とは何よりもまず職業能力の問題であり、仕事を通じた社会的インクルージョンの問題として捉えられているという姿を、まあ当然のものと考える習慣が身に付いてしまっているために、そういう「匂い」が感じられるのかも知れませんね。
そういう「欧臭」は嫌いだと仰るのであれば、それはそれまでの話で、まあ趣味の問題ですから、やはり反論すべきものでもないでしょう。

それと、後半でいわれる公務員改革のお話しとの論理的関係が私の頭ではどうもよく分からないのですが、私の乏しい頭で理解した限りで申し上げると、財○省や経○省のエリート官僚さんが、底辺の底上げなどというどぶさらいみたいな仕事を嫌がるのは、経験上よく分かりますが、そういうことに熱意を燃やす役人も世の中にいないと回っていかないのではないか、と感じてきておりますのでね。まあ、昔から○産省は花火を打ち上げるのが仕事、労○省はその後のゴミ拾いが仕事と相場が決まっておりますので。

>「底辺」の惨状をあげて行政の関与の根拠と
>するのはよくある典型的な議論ですが(この
>ブログにはこのロジックが多いようですが)、
>それならそれだけをするような制度になって
>いないのが奇妙です
そうそう、そこは気になるのよね

ケーザイ派同士、ここは手を結べそうですねw

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