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離脱と発言再び

21日のエントリー「フリードマンとハーシュマンと離脱と発言」に、トラックバックが着きました。

http://ameblo.jp/nornsaffectio/entry-10020312276.html

たまたまフリードマンとハーシュマンが取り上げているのが教育問題だったからそれをそのまま使いましたが、私の基本的問題意識が労働問題、つまり、気に入らない会社をさっさと「離脱」していく方がいいのか、それとも組織への「忠誠」を持ちつつその運営に対して「発言」していく方がいいのか、にあることは、このブログの全体傾向からしてご了解いただけるところだと思います。それを超える話は、わたし的には基本的に越境分野なんですが。

ただ、ではたった3年間なりたった6年間に過ぎないから、「反映される前に子どもが学校を卒業してしまうので間に合わない」「子どもが卒業した後になってから何かが変わっても、その親子からすれば完全に手遅れ」という話になるのか、というと、まあこれは主観的な感覚の問題になりますが、そういう風にものごとを完全に私的利益のレベルだけで考えること自体が、言ってみればフリードマンの土俵に乗っていることになるのだろうと思うわけです。

同じハーシュマンが書いている『失望と参画の現象学』(法政大学出版局)では、『離脱・発言・忠誠』での枠組みを壮大な思想史の中に位置づけながら、私的利益と公的行為をめぐるイデオロギー的構図を見事に描き出しています。普通、公的行為というと、大文字の政治に関わることという風になるわけですね。しかし、ハーシュマンの議論の大事なところは、通常「離脱」モデルが当たり前と思われている企業活動に対しても、「発言」メカニズムの意義を強調するところにあります。これはちょうど、フリードマンら経済学帝国主義者が、国家に対してすら「発言」ではなく「離脱」モデルを慫慂するのと好対照になっています。

自由市場原理主義に対する保守主義からの批判としていわゆる公民的共和主義(シビック・リパブリカニズム)というのがありますが、そこで論じられているのは基本的に大文字の政治なんですね。まあ、古典古代のギリシャの民主政治がモデルだからそうなるんでしょうが、この「シビック」という概念をもう少し掘り下げてみたいな、とは思っています。

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コメント

>国家に対してすら「発言」ではなく
>「離脱」モデルを慫慂する
これ、私ですね。いつものことかな?

投稿: フマ | 2006年11月24日 (金) 19時08分

はじめまして。件のトラックバック主の夜半(よはん)と申します。挨拶が前後してしまいましたが、僕の不躾なトラックバックに対し丁寧なエントリーを起こして下さり、ありがとうございます。

一応確認しておきますと、僕自身はフリードマンの立場には懐疑的です。そして、発言メカニズムの重要性を強調したい気持ちには僕自身非常に共感できるわけです。なにしろ、ヴェイユのParage(けだかさ)に関する一文をエピグラフにしているくらいですから。しかし、かといって現状フリードマンの方が「受け」がいいという現実を直視しないわけにはいかないだろうというのがかのエントリーの趣旨でした。つまり、現在はそういった公民的徳性を問う段階とはほど遠い状態にあるわけで、いま例の親子のような人に公民的徳性の重要性を説いても間違いなく空回りに終わるでしょう。だから、公民的共和主義者はその現実を直視し説得的な論理を構築していかなければ、公民的徳性の復権という大目的には近づけないだろうというわけです。

投稿: よはん | 2006年11月24日 (金) 22時51分

いえ、こちらこそ、わざわざおいで頂きありがとうぞざいます。
若干誤解を解いておきたいのですが、わたしが「公民的共和主義」とかいう言葉を持ち出したのは、大きな政治への参加という意味合いではなく、小さな政治、つまり今自分が属している組織集団の運営への発言も(この言葉を使っている人々の意図とは異なって)シビックといってもいいじゃないか、というつもりです。
そういう泥臭い話を泥臭いと莫迦にして、離脱を推奨するのはいかがなものか、という話でして、「公民的徳性」とかいうと、なんだかキョーイクのあるべき姿は云々とでかい話ばかり関与したがるプロ市民を推奨しているみたいで、わたしとしてはあんまり気が進まない話になってしまいます。

投稿: hamachan | 2006年11月25日 (土) 23時07分

同じことの繰り返しですが、離脱・非離脱の選択肢が
あることで発言を受け止める動機が強まる、そして、
そのことによって発言する動機も強まる、のでは?と
思うのですけど。離脱の推奨でなくて、その選択権の
推奨でなければならない。一般に離脱がいいことでも
なく離脱しないのがいいことでもない。実際は、多分
離脱する十分な選択権を持ちつつも結果的に離脱して
いないという状況になってるのがいいんでは

大政治と小政治の間に地方分権とかもあるような気も
するんですけど。大政治が小政治を歪めないでよね、
みたいな感じが私は強いです

投稿: フマ | 2006年11月26日 (日) 00時34分

うーん、やはり、「公民的徳性」という字面は仰々しく見えるんでしょうか。僕としてもそんなに大きな話をしているつもりはないのですけれども。つまり、公民的徳性といったらシビックの内実そのものみたいなものなので、「シビック」を求めると仰る以上、事の大小は関係ないのではないでしょうか。

つまり、結局課題となるのは、組織に属する行為者にいかにして効用(「離脱」によって得られる)以外のものに目を向けさせるかということで、当事者が効用を求めることに切実なものがある以上、現状においてそれは厳しいだろうという話なのです。一体、こういう事を求めるのに、空回りせずに済まされるものなのでしょうか。いままでの話からは、そういう現実的なところが見えてこない気がします。

投稿: よはん | 2006年11月26日 (日) 04時50分

うーーん、いや「効用」ということでいえば、離脱する方が効用が高いとは必ずしもいえないでしょう。あちこち渡り歩いた方がいい目にあうとは限らない。むしろ長期的には腰を落ち着けて改善を図った方が遙かに高い効用を得られることだってあるわけで、それを一方的に離脱する方が得だよ、と宣伝するのはいかがなものか、というのがたぶんハーシュマンの言いたいことなんだと思いますし、わたしも同感するところなんですがね。
ややマクロに言えば、離脱だけが選択肢となると、その選択肢を取り得る人間がどんどん離脱していき、それができない人間が取り残されて、結局発言によって改善できたはずのものすら改善されないで悪いままになってしまうという点も、彼が強調する点ですね。ハーシュマンはもともと開発経済学の人なので、途上国の実態なんかからそういう発想が出てくるのでしょうが、日本でも例えば、(ここで具体名を挙げるのも何ですが)足立区の学校で離脱を奨励すれば、どうしようもない学校がますますどうしようもないままに取り残されていくだろうな、と言う感じがします。

投稿: hamachan | 2006年11月26日 (日) 13時19分

夫馬さんの仰ることは全くその通りで、離脱の余地が全くない社会(例えばかつての共産主義社会)では、発言の余地もほとんど奪われてしまうわけで、最後の切り札として離脱の選択肢があるからこそ発言が可能になるわけです。
ただ、これは離脱があくまでも発言を聞かないならば行使するぞという脅しの道具として使われるから意味があるわけで、はじめから離脱するつもりの人間の言うことなんか逆に誰も聞かなくなってしまう、というパラドックスがあるわけですね。
まあ、なかなか難しいところです。

投稿: hamachan | 2006年11月26日 (日) 13時23分

> 離脱だけが選択肢となると、その選択肢を
> 取り得る人間がどんどん離脱していき、そ
> れができない人間が取り残されて、結局発
> 言によって改善できたはずのものすら改善
> されないで悪いままになってしまう。
ブルセラも、少子化の一番の問題だみたいな
言い方で似たようなことを言っていました。

週刊ミヤダイ
労働力人口が減ると何が問題なのか?
TBS RADIO 954kHz 2006/11/24
http://www.tbsradio.jp/pod/

投稿: フマ | 2006年11月26日 (日) 14時59分

なるほど、漸く僕の問いについて得心のいく解答を頂けたようです。たしかに学説の宣伝効果という点からいうならば、長期的効用に目を向けさせなければという問題意識には十分正当なものがありますね。

ところで、こうして見ると、フリードマンとハーシュマンそれぞれの立場は、見た目ほど正面衝突していないようにも思えてきます。つまり、フリードマンはかなり大づかみな政策主体としての視点からモデルを構築しており、離脱の自由なき社会では発言を通じた漸進的改善も効果を失ってしまうということも込みでバウチャー制を構想している。他方で、ハーシュマンは(中範囲というか)もう少し具体的な組織と組織人の関係に視点が向いており、離脱前提では組織の質的向上は図れないことを指摘する。そうすると、両者は補完する関係にこそなれ、正面から対立する関係になるわけではないと読むことができそうです。すると、いかにして「離脱」をあくまで「切り札」に留めてゆくのかということが両者からの宿題として残されるわけで、読む側としてはこうした視点で議論を発展させてゆく必要があるのではないでしょうか。

投稿: よはん | 2006年11月26日 (日) 16時00分

実際に政策を作る立場からすれば、両方の効果を勘案してやっていくべきだという穏健な考え方になるのですが、フリードマン的なものの言い方を(ハーシュマンの著書の表題を引いて言えば)『反動のレトリック』として糾弾するというのがハーシュマンの問題意識なんでしょう。

同書でも、フリードマンの「ある措置の結果が良き意図にあったものとは反対になるわかりやすい現象を探すのであれば、最低賃金法にまさるものはない」という「いつもの有無を言わさない断言口調」に対して、報酬引き上げが生産性向上に好ましく作用し、雇用に対しても積極的な効果を及ぼしうるといった反論をする以上に、そういう「逆効果テーゼ」そのものを反動のレトリックとして批難しています。

まあ、地獄への道が善意で敷き詰められていることがあるのは確かですが、善意で敷き詰められた道が常に地獄に通じているわけではありませんし、まして天国への道がいつも悪意で敷き詰められているわけでもありません。ところが、フリードマンらマンデヴィル教団の宣教師たちは、「汝愚かな者どもよ、天国へ行きたいと思うならば、すべからく道を悪意で敷き詰めるべし、ゆめゆめ善意など敷くではないぞよ」と、お説教されるわけです。

投稿: hamachan | 2006年11月26日 (日) 18時13分

夫馬さんが言われる「離脱が発言を促進する」というメカニズムについては、ハーシュマン自身が『方法としての自己破壊』に収録され「『退出、告発、ドイツ民主共和国の運命」の中で論じていますね。
戦後長らく、離脱を封じられたポーランド、ハンガリー、チェコでは共産主義支配に対する抵抗が行われたけれども、個別の離脱が(細々とではあれ)可能であった東ドイツでは抵抗は見られなかった、というところは、前著での議論の例証なのですが、1989年にハンガリー経由で怒濤のごとく離脱が可能になったとき、それがむしろ国内における発言を呼び起こす働きをしたというところは、夫馬さんの言う離脱の発言促進効果ですね。
ここのところについて、ハーシュマンの説明は、離脱が大量に目に見える形で行われたことが、それを単なる個人的な行動ではなく、集団的な行動としたのだというのですが、そうするとわたしのような労働関係者は、これはまさにストライキの構造そのものではないか、と思えるのですね。
もともとストライキとは、労働者が一斉に「離脱」することであるわけです。個人個人がばらばらに離脱していたのでは発言効果がないものが、みんなが一斉に離脱することで、単なる発言を超えたパワーを持ちうるというところが面白いところです。
いや、このストライキ論はハーシュマンの言ってることではないのですが、こういう連想を引きずり出してくるところも、彼の議論の奥深いところです。

投稿: hamachan | 2006年11月27日 (月) 23時43分

「離脱」をあくまで「切り札」として、発言の促進に寄与する限りで使用されるものとしてゆく可能性に関して、先生なりの展望としてこのストライキ論を読むことができそうです。たしかにストライキ等の争議行為は「離脱」を戦略的に使用する強力なツールですね。

そうなると、「離脱」の戦略的使用に関する現今の課題も見えてきそうです。ハーシュマンが同著で挙げている東欧の例は、僕などはサルトルの溶融的集団性などを思い起こすところですが、ともあれこれは解放の熱狂という種類のもので、きわめて限られたタイミングでしか発露しない可能性がある。他方で、(僕が自分のところで言及した)学校や、近年の非正規雇用など、組織への在籍期間の短い事例においては、在籍者の横のつながり自体が弱いので、なかなか「離脱」の戦略的使用といったカードを切りうる状況になりにくいわけです。そうなると、在籍者はみずからの短期的効用ばかりを選好する傾向が強くなって散発的な離脱ばかりが起こり、その結果として発言が空洞化、組織の改善という契機が失われてしまう。こうした状況をいかにしてクリアしてゆくのか、それが当面問われることになりそうですね。

投稿: よはん | 2006年11月28日 (火) 16時39分

いや、単発的離脱でも「真綿で首を絞める」ような
効果があると私は思いますが。革命的な効果はあり
ませんが、それでいけないとは思わないのですね。
もちろん、スト権に反対なのでも全くありません。
ただし、個人的な選択権だと、それをうまく使える
駆け引き的能力のある人が、そうでない人に比べて
『良くも悪くも』有利になるということがあります。
ここら辺り、「変動相場制」と「固定相場制」との
類似を感じますね。

投稿: フマ | 2006年11月28日 (火) 18時53分

ハーシュマンの同論文では、離脱カードの用意がない抵抗運動(争議)は功を奏しないということが、ハンガリー動乱やプラハの春の例を通じて確認されました。他方、離脱カードが「切り札」であることを離れ、乱発されるようになった流動性過剰の状態は再三の指摘の通り問題がある。いまの日本は後者に近い状態であり、そこにどのような処方箋を与えてゆくべきなのかということで、初期の問いに回帰したようです。

投稿: よはん | 2006年11月28日 (火) 20時53分

かくして、このテーマは15日のエントリーで言及した稲葉先生の憲法学お勉強ノートに帰還するわけです。
「発言」というプロセス的権利による民主主義と、「切り札」としての「離脱」オプションによる立憲主義がいずれも不可欠であり、密接不可分であるというかたちで。
そして、それをミニチュア的に示すのが労働関係における団体交渉権というプロセス的発言権とストライキ権という切り札的離脱権の密接不可分性である、と。

投稿: hamachan | 2006年11月29日 (水) 10時25分

期待する論点から外れてゆくばかりなので、もうコメントするのは止しておこうとも思ったのですが、一応書いておきます。ハーシュマンの元々の意図に含まれていた如く、プロセス的権利としての発言および切り札としての離脱カードは密接不可分であると、まさにその通り。しかし、そんなことはわかりきったことなのであって、そんな今(特にリアリズム法学の視点をプロセス学派が批判的に継承して以後)まさに問題とされるべくは、バランスが一方に傾きがちな目前の現実に対してどのような処方箋を与えるべきなのかという実践的な視点のはずで、僕が問題にしていたのは最初からそのことだけでした。ハーシュマンがexitとvoice双方に目配せの効く政治経済学を構想すべしと訴えたのも元々はそうした動機から出たものだったはずです。しかし、議論がループしてしまった以上、お互いの関心および読解の視点は平行線を辿っていたと考えるのが適切なようです。

別に超越論的ナンセンスと機能的アプローチのあいだにある違いと片付けるわけではありませんが、僕としては具体的な行動主体の意思決定過程を意識した議論以外に興味はありません。もう少しリアリスティックな話を期待していたのですが、それは最初から僕の過分な期待だったようですね。そのこと自体はお互い仕方のないことなので何も言いませんが、話を振った側の責任として自らの立場を確認しておこうと思い書き込みました。悪しからずご了承下さい。

投稿: よはん | 2006年12月 5日 (火) 22時46分

ご期待に添えなかったようで申し訳ありません。もともと私は労働関係の実務家ですので、そういう方面にばかり話が流れていくのは職業性疾病とお考え下さい。その立場からは超越論的ナンセンスを語っているわけではなく、具体的な行動主体の意思決定過程を意識したリアリスティックな話のつもりなのですが、そうはお取りいただけなかったようです。
私にはどぶ板議論の方がお似合いということかも知れませんね(その後のエントリーを続けてみていただければ、このテーマをどぶ板に即した形で語っているつもりではあります)。

投稿: hamachan | 2006年12月 6日 (水) 09時38分

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