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2006年10月17日 (火)

歴史的センスが欠如するいかにも経済学者らしき発言

またまた権丈善一先生の言葉です。あんまりこれやってると、人のふんどしでブログ書くなと言われそうですが、そのまま引用したくなる文章なので仕方がないんです。

http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/law/iryounenkin/jyobun.pdf

権丈先生の新著『医療年金問題の考え方-再分配政策の政治経済学Ⅲ』の序章です。この本自体、大変分厚いですが、特に分量的に後ろ7割以上を占める「勿凝学問」シリーズが絶妙で、是非ご一読をお薦めします。

それで、この序章なんですが、まず「浅はかな静学的社会保障論と動学」というタイトルで、こういうことを言われます:

前著につづき,本書に収めた医療,年金をはじめとした社会保障論も,多くの普通の社会保障論よりも,われわれがみているのは歴史時間における一瞬のスナップショットにすぎないことを強く意識した視点,すなわち動学的視点が強く織り込まれていると思う。
一例をあげよう。基礎年金の財源を社会保険方式とするか租税方式とするかという議論は,長く決着もつかず,その状況は,神学論争とまで評されてきた。けれども,この議論をわたくしがながめてみれば,「動学的な視点で論じているのだけれども,その重要なポイントにあまり気付いておらず,よって説明の仕方に若干の難をもつ社会保険方式支持者」と,「動学的な視点が欠ける租税方式論者」とが向き合って論争しているだけであるようにみえてしまう。動学的な視点が皆無の基礎年金の租税方式論者が経済学者に偏りをもつのも,もっともなことで,今日の経済学教育は,動学的センス,つまり「歴史センス」を養成するための「歴史」の学習を軽視,否,無視しているのだから,制度を生き物としてながめ,その動きを予測して,将来の結果に対する責任を自覚しながら発言するという習慣が欠如するのも無理はない。若い学生たちへの<教育の力> というものはみかけよりも大きいようで,それは,良かれ悪しかれ,人の生涯の考え方に大層な影響を与えてしまうのである。
さらに言おう。「歴史センス」が欠如する,いかにも「経済学者らしき発言」は,早くからマルクス経済学〔マル経〕を支持する人・批判する人のいずれであれ,マル経を理解する人がいなくなり,近代経済学〔近経〕に特化したことを看板に掲げた大学〔院〕で過ごしたことのある研究者において顕著に現れる傾向があると,わたくしは診断している。わたくしの先生の先生は,慶應義塾大学の藤林敬三先生であり,マル経に浸っていた人である。そこから伝わってくる遺伝子が,「制度をみろ,歴史をみろ」と,すでにマル経に距離をおき,近経に軸足を移しはじめていたわたくしの先生を介して,マル経とは無縁のわたくしたち世代にまで影響を与えていることは間違いない。ところが,日本のなかで早くに近経,特に米国で主流の経済学教育法に特化した大学〔院〕では,研究者の訓練時において,制度・歴史という,彼らからみれば生産性をあげるうえで非効率な夾雑物が,とうの昔に捨て去られているように見受けられて仕方がない。そして医療ならば米国の代表的サプライサイダーであるフェルドシュタイン,年金ならばフェルドシュタインや彼を指導教授とする大学院の学生であったコトリコフの信念を翻訳しただけの,此の国の国民のみならず,実は彼の国の国民をも,幸せにするというよりも混乱させることにつながりかねない浅はかな議論は,まさにこうした大学の関係者から発せられているようなのである。
ここで,「浅はか」という言葉を用いたが,これはわたくし側から彼らの言動を評した言葉にすぎない。彼らが浅はかなのか,それともわたくしのほうが浅はかなのか,この点については,ここ10年ほどの年金や医療の論議を振り返ってみたり,本書を読んで,考えてもらえればと思う。・・・

私自身は、マルクス系の学問は横目で睨みながらつまみ食いする程度でしかなく、むしろ政治的色分けからすればその反対側に自己定位していた学生生活でしたしが、それにしても、何よりも大事なのは「歴史センス」であるという感覚だけは今に至るまで変わりなく持ち続けています。ま、保守反動のパターナリストが歴史を大事にするのは当然ではありますがね。

ほんとに、薄っぺらなケーザイ学を振り回すやからを見るにつけ、「制度を見ろ、歴史を見ろ」と言いたくなるのは、社会保障論も労働論も同じです。

序章の最後で、権丈先生は繰り返します:

この「序論」は,社会保障研究という窓から世間をながめながら,ものを考えるうえでは歴史センスが重要であり,最近の経済学教育のなかではこの点が軽視されすぎているという感想,逆に言えば,そうした経済学教育を経て成長した歴史センスに欠ける者,ようするに「物に触れ事に当たりて常に極言」〔福澤諭吉『学問に凝る勿れ』〕する,無責任であまり人間を知らない人たちがエコノミストや経済学者の職業に就きすぎ,浅はかなことを論じては世の中を混乱させすぎているとの感想をいだく者が書いた文章である。・・・

そういう浅はかなイナゴ諸君には、しかしながら、こういう言葉は届かないんでしょうねえ。

(註)権丈先生の文中、藤林敬三先生について「マル経に浸っていた人」とのみ書かれているため、ホントに歴史を知らない厨さんはそういう風にだけ理解してしまう恐れがあるので、念のため言っておくと、戦前からの社会政策学の大家で、終戦直後の労働法制の制定時に、末弘厳太郎、大河内一男、山中篤太郎といったビッグネームとともに関わった人で、慶応の産業研究所の初代所長でもあります。こんな注釈をつけないといけないこと自体が情けないことではありますが

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お邪魔します。今日のエントリーは、その構図のもつ展望性、人間味性、知性広域性など、どの角度からも賞賛さるべき「感触」が味わえるものです。こういう観点で「公務」に就く知性人が日本の中に増えてくることを祈念しているものです。権丈先生といい、その師の師の藤林先生といい、器を感じさせますね。ご紹介のあった書籍は、理解できるか否かはおいて、ぜひ味読したいと思っています。

恐縮です。ま、私の書いたところはほとんどなく、ほとんど権丈先生の引用ですが。

リンク先に、権丈先生の書かれたエッセイが掲載されていますので、まずはそれらからお読みになることをお薦めします。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/

なんだか知らないが、近ごろ、とても権丈先生の志を理解しているとは思えないような人々までが、猫も杓子もという感じでやたらめったら権丈先生の本や文章を褒め称え、擦り寄ってきているなあ。まずは序章を拳々服膺して欲しいもんだわ。
ついでにその師の師の藤林敬三先生の本にも手を伸ばしてくれると、社会政策というものの理解が深まって一石二鳥。

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