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2006年9月17日 (日)

構造改革ってなあに?

「現存した社会主義」のコメントが長くなってきたこともあり、読者の皆さんの頭の整理もかねて、そもそも「構造改革」って何?という話をしておきます。といっても全然難しくない。大学で社会科学系の知識をかじったことがあればわかる程度の話です。私自身、学部卒という低学歴者ですけど、これくらいの議論はできるということで。

もちろん、中には、大学時代、一切社会科学系の勉強をしたことがなくって新聞社に入り、小泉政権で「構造改革」って言葉を初めて聞いて、構造改革とはそもそも「資源配分の効率化を通じて、経済の潜在GDPや潜在成長率の上昇に寄与することを目指す政策」であり、具体的には「特殊法人・公益法人改革、都市再生計画、公的金融機関の統廃合、財政支出の中身の見直し」が含まれるもの(『経済政策を歴史に学ぶ』第4章冒頭)だ、と思いこんでしまう迂闊な人もいるかも知れませんが、もちろんそんな定義はここ数年の改革狂躁下で作られ蔓延ったものであって、まともな先輩であれば、「構造改革ってのは、マルクス主義の一派で、革命ではなく、漸進的に社会主義化を進めるという考え方を指す言葉だったんだよ」と教えてくれるでしょう。

もちろん、社会科学系にもいろいろありますし、もっぱら現代経済社会を追っかけている研究であれば、そこまで知らなくても「罪」ではありません。しかし、およそ歴史を研究していると称するような人であれば、ここ数年間の特殊な小泉的「構造改革」論を別にすれば、構造論とか構造改革とかいった言葉が、資本主義の基本構造をどう改革するかという問題意識に裏打ちされた言葉であるということは常識に属します。それは、笠信太郎や三木清から、西部ススムや村上泰亮に至るまで、およそまともな社会科学研究者であれば当然の思考的構えです。

わかりやすくいうと、本来的「構造改革」とは、市場の失敗にどう対処するかという問題意識であり、国家や組織によって対処というのがその解答になります。これが20世紀を通じての「構造改革」の常識です。ところが、20世紀末あたりから、そうやって作られた福祉国家こそが諸悪の根源である、政府の失敗、組織の失敗こそが問題であるという考え方が有力になり、市場によって対処というのがその解答になるという全く別の、180度逆転した「構造改革」論が登場し、世に広まっていたというわけです。いや、新人記者なら別に知らなくてもいいんですよ、先輩が教えてくれますから。

そして、当たり前のことですが、こういう本来的「構造改革」にはリフレ政策との割り当て云々なぞという議論はありえません。むしろ、ケインジアン政策でインフレ基調にすることは、福祉国家の形成に向けて追い風になりますから、どっちにしようなどと悩む必要は全くない。まあ、だからこそ、ケインジアン福祉国家というわけです。ケインジアン政策と20世紀型構造改革とは相性がよかったのです。
ところが、小泉・竹中型構造改革はそうではありません。構造改革をするか、リフレをするかというのは、政策の方向として真っ向から対立するものになってしまいますから、悩むわけですね。

そこで、とにかく小泉流「構造改革」を最優先にするのか、景気が悪いからリフレを割り当てるか云々といった、まあ同じ派閥の中の仲間喧嘩みたいな対立が生じ得て、あたかもそれが天下の一大事であり、現代社会の最大の対立点であるかのごとく論ずる人間が出てくるのですが、まあそれは人それぞれにいろんな考え方があるところですから、別にそれを捉まえてけしからんとか何とかいう気はない。小泉一派にとっては、国家や組織が諸悪の根源で、市場が処方箋であるというのは前提で、それにリフレ粉を振りかけた方がいいか、振りかけずに頑張るかというだけの違いですから。

しかし、そういう近視眼的なものの見方を、もっと遙かに長期的視野から資本主義社会、近代社会の有り様を深く、本質に分け入って考察していた経済思想家、社会思想家を捕まえてきて、自分のちんけなプロクルステスの台に無理矢理縛り付けて、「おまえは構造改革主義だからいかん」「リフレって言え!」なぞと無理無体な文句をつけて、偉そうに凱歌を挙げて見せているに至っては、いささか調子に乗りすぎでないかい?といいたくなるのも当然ではないでしょうかね。

ま、それでお聞きしているんですが、田中さんのお出になられた大学院では、経済思想史というのは20世紀末から始まるんでしょうか。資本主義の矛盾などという言葉は聞いたこともないんでしょうか。低学歴者としては大変興味があります。

なんだか変な歴史家の末席の方もおいで頂いたようですが、文学史でしょうか、それとも美術史かな。いずれにしても、社会科学系の歴史家の方ではなさそうですね。

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コメント

トリアッティ流のイタリア共産党の戦略を正当な構造改革とすれば、まあ長くても1950年代から70年代一杯の30年の話ですな。でサッチャーが保守党党首に就任したのが75年だから、彼女のネオリベ路線が「世に言う構造改革」と呼ばれて31年ですな。

実際に国家権力を握ったことと、期間の長さと考えれば、良いか悪いかは別にして、構造改革といえばネオリベであり、「そーいえば、サヨクにもこーぞー改革と言ってた連中がいる」というのが妥当な評価では?

田中氏が叩いたつもりになっている思想家たちがネオリベ的構造改革を考えていたのでない限り(まさか)、現時点からどう価値判断するかということと関係ありません。

ちなみに、現時点でということでいえば、小泉的構造改革論を無批判に当然と考える時代がいつまで続くのかもよく考えておいた方がいいでしょう。

つまりは、田中ちゃんと僕の確執は
些細な近親憎悪の痴話喧嘩みたいな
もので、濱ちゃんと僕の争いこそが
重大ねw

田中氏の構造改革の定義=市場による資源配分の効率性実現のための改革を構造改革と呼ぶのが無知蒙昧な定義だというのは変だろうといってんですが、通じませんかね?

それと、彼が挙げた大家の思想、新旧の構造改革の共通性の有無は別の話じゃあないんですかね?

ふまさん、見直しました。たまには的を射た発言をなさるのね。

hamachanは資本主義のその先の社会システムを構想する大思想家でらっしゃるようですよ。神のお言葉を語るhamachanと我々のように資本主義システムの枠内でしかものを考えられない凡人とではコミュニケーション不全が生じるのも当然です。ここにいても時間の無駄もとい神に唾する不敬の罪で後々苦しめられちゃかまいませんから一緒に逃げ出しましょうよ、ふまさん。

P.S. hamachanへ
同じ言葉を語られる西部ススム氏のお名前についてですが、西部「邁進」とタイプして「進」を消せばよろしいかと思います。ススムだと何だか拍子抜けしてしまいますので。

べつに、田中氏が資本主義の枠内でものを考えていることを、なああーーんにも批難していません。それはそれで勝手にやればよろしい。
それでもって自分の枠にはまらない偉大な思想家を偉そうに罵倒していることを非難しているだけです。
自分の身の丈にあったことだけやっていればよいのです。

ちなみに、私は実務者としてですが労働問題をやっている関係上、資本主義システムの枠内だけでは話が完結しません。神の言葉も何も、社会政策ってのはそういうものです。ま、ポランニーぐらいは読んでからきてほしいところではあります。

ちなみに、私は大学時代に村上先生の教えを受けたものですので、ああいう何にも理解せんで表面づらだけなぞって知った風な口をきいてる文章を読むと怒りを禁じ得ないわけですが、たぶん同じような印象を持っている村上先生に私淑している人々は知識層に一杯いると思いますよ。田中氏はそういう人々を反リフレ派にするのに大きく貢献したわけです。

西部氏については、その後なんだか変な方向に進まれたので、いまは「同じ言葉を語られる」という感じはしませんが。

どうもご自分と見解が異なると冷静に対処いただけないご様子で残念です。

ただ浜口先生はカール・ポランニーについてご存知ということで今度は私の専門と近くなりましたのでお聞きしますが、いままでの文脈でいいますと、浜口先生はポランニーの専門的な論文をお書きになってのご発言ということになりますが、どこにパブリッシュされたかお教えいただけないでしょうか? 


私、専門が近いにもかかわらず存知あげませんのでぜひこの機会にお教えください。

まさか「自分の身の丈にあったことだけやっていればよいのです」とおっしゃる方がポランニーをただ素人として読んだだけで専門家気取りで自慢げに書かれて、なおかつそれをもって他人を非難しているとは考えにくいので、ぜひ論文をご教示ください。

私は何回も書いているように労働問題に関する実務家に過ぎません。入院したこともない学部卒の低学歴者です。そんな分際で、博士課程を修了したような偉い皆様をご批判申し上げたりするのは分際を弁えろということでしょうか。
あなたは、話を中身ではなくて、肩書きで判断される方のようですね。
私は、労働問題に関して誰かが何かを語っていれば、大学の労働法の教授でも馬鹿は馬鹿といいますし、高卒の一労働者でもいいことをいえばはいいといいます。
このブログはそういう趣旨でやっております。労働問題、社会問題に関心を持つ方々が主たる読者層です。
私がいままで書いた文章は、HPに載せておりますが、たぶんあなたのご関心と交わるところは少ないでしょう。

いやあ、それにしても「あかでみっく」な先生方の思考法というのは違う。
およそ実務家として労働問題、社会問題をまじめに考えるならば、ポランニーの社会に経済を埋め込むという考え方はもっとも本質的なものだろうと思うのですが、実務家ごときがそんなポランニーなどという名前を出してくるとびっくりされるんですね。専門家だけの秘宝のはずなのに、なんでこんな低学歴の連中が知っとるんや、てなもんですか。で、ポランニーについて論文書いとるか、とくる。いやはや。

他人のブログのサイトポリシーに関して口を挟むのは、差し出がましいとは思っていますが、このブログの本来の読者層(雇用・労働政策に興味を持っている人達)と私のブログの読者層がわりと被っていると思うのであえて言わせていただきます。
最近のコメントをブログに表示するのをしばらくストップした方が良いのではないでしょうか。
それから、アクセス解析はしていますか?コメントに書き込んでいる人達が、他のエントリーも読んでいるのかどうかを確認した方が良いと思います。

namiさん、ご心配いただいてありがとうございます。アクセス解析はしています。だいたい10%、1日150件くらいは田中秀臣氏のブログから飛び込んできたネットイナゴですね。もちろん、こいつらは労働問題にも社会問題にも何の関心もない連中ですから、過去の蓄積はおろか、すぐ前のエントリーも全然読んでいません。そんなことはわかっています。

わかった上で晒しているんですが、本人に晒されている自覚がないのが玉に瑕というところでしょう。

実をいいますとね、田中氏を攻撃したのには意図がある。これはいいリトマス試験紙なんです。労働・社会問題に関心のある人であれば、ケインジアン的な経済政策には好意的な構えを持つのが普通です。ところが、いわゆる「リフレ派」といわれる連中には、ケインジアン政策を除けば、小泉的ネオリベ路線丸出しというのが結構いる。今回の田中氏の第4章はそれが見事に出ていたので、彼のような隠れネオリベ派と本当に労働・社会問題を考えているケインジアンを洗い出すのに使えます。実際、いままでここにやってきて愚劣なコメントを書き込んでいるのはみんな隠れネオリベ派ばかりで、一見労働者や国民生活のことを考えているかのごとく騙る「リフレ派」の正体を見事に晒してくれたと思っています(本田先生は、本当はこういうやり方をすべきだったんですよ。リフレ政策そのものの妥当性などという彼女が論ずべきでない話ではなく)。今だんまりを決め込んでいる方々がどういうコメントをされるか、大変興味深いところです。迂闊なことを書けば、師匠に叱られるしね。

ま、イナゴにやられるほどやわではありませんので、労働・社会問題に関心を持つ本来のこのブログの読者層の方々にはしばらく不愉快な書き込みが続いてご迷惑をおかけしますが、ご寛恕のほどをお願いします。

小泉・竹中構造改革路線もあと数日ですし(そのあと、どこまでソーシャルになるかは、自民党内の力関係でしょうが)。

>実際、いままでここにやってきて愚劣なコメントを書き込んでいるのはみんな隠れネオリベ派ばかりで、一見労働者や国民生活のことを考えているかのごとく騙る「リフレ派」の正体を見事に晒してくれたと思っています

いわゆる商業誌に書いたり、売れ筋の新書を出そうと思ったら、反体制の視点から書かないと売れないというのがあるんじゃないでしょうか。もともと売れないような専門誌や業界紙に書くのとは違うわけで。hamachanにとっては、社会正義かも知れませんが商売に利用されてるだけじゃないのかという気がしないでも。
あと、私自身はきわめて低学歴ですが、学者の世界というか大学教員の世界はけっこう身近なのです。

補足
>学者の世界というか大学教員の世界はけっこう身近なのです。
これは、仕事関係じゃなくて親戚筋にゴロゴロしているという意味です。フトコロ事情に詳しいという意味。

濱口先生の主張は「田中氏の村上泰亮解釈がダメ」ということでしょうから,その誤謬点を詳説されるべきではないかと思います.扇情的な表現を並べるコメントでは議論から逃げているように感じてしまいます(これは他の人についても同様です).

以上前置きで,今回も事実関係の指摘です.

まず,リフレ政策……というか拡張的金融政策の支持をケインジアン的な政策だと考えている経済学者はほとんどいないと思います.安定的なインフレの必要性はフリードマン(70年代のケインジアン批判の中心人物です)も主張しています.といいますか,現代の経済学において「ケインジアン」「新古典派」というのは学派と言うよりモデルの設定部分の違いで,どちらが妥当であるかは実証上の問題だというのが一般的見解と思われます.

次にリフレ派についてですが,世にリフレ派と呼ばれる人の共通点は「安定的なインフレによる景況の維持が必要だ」のみで,ミクロ的な経済政策については人それぞれです.

基本的に経済学者は政府の介入に批判的です.ネオリベというと政治思想や外交政策まで含まれるので何とも言えませんが,「経済に関して政府は可能な限り何もしない方がよい」という点はたいていの経済学者にとっての出発点です(なお,じゃあ金融政策だけは何で別なんだと思われるかもしれませんが……これは不換紙幣制度+変動相場制というシステムの特性によります.結論だけを言いますと,この二つの組み合わせの下では「何もしない」ことは不可能なのです).んで,それを出発点に政府が出来る補完的役割を考えていくというのが通常の経済学の作法です.したがって,政府のミクロ的介入を経済学者が主張するときには市場の失敗があり,その是正が政策的に可能であることが示されるという段階が要されます.

私は方々で「ミクロは規制緩和と競争政策」と発言してきました(私だけだと小者過ぎるので,例えば『ゼミナール経済政策』の第Ⅰ部あたりを参考にしていただければと).その意味で,リフレ派は隠れ市場主義者と言われるとちと文句も言いたくなってしまいます.


>反体制の視点から書かないと売れない
あ.これ経済書の世界ではわりと逆です.

namiさんは、「このサイトはリフレ厨お
断り」って書いてましたね。

>実をいいますとね、田中氏を攻撃した
>のには意図がある。
また、後出しジャンケンですか。如何に
も「僕読んでませんよぉ」ぽいコメント
しておいて。嫌らしいのね、濱ちゃんは

>こいつらは労働問題にも社会問題にも
>何の関心もない連中ですから
www

ま、本田先生のブログが潰れただけでは
胸糞悪いという訳ですな

おっと「YS」は僕です.友達のトコに書いたばかりなので変えるの忘れました.

まぁ,直上みたいなコメントがあるとホント腹立つんで,ぶち切れコメントをしたくなるのは分かりますが……まじめにコメントしている人もいますから.

>扇情的な表現を並べるコメントでは
>議論から逃げている
だーかーらー、本田先生のときと同じ
『あれ』ですよ

>拡張的金融政策の支持をケインジア
>ン的な政策だと考えている経済学者
>はほとんどいないと思います.安定
>的なインフレの必要性はフリードマ
>ン(70年代のケインジアン批判の中
>心人物です)も主張しています.
そこは微妙では?拡張的金融政策と安
定的インフレ策は、「もしもデフレで
あれば、その時点においては同床」で
しょうけどね

不換紙幣制度での長期的な物価水準を
支えるのは財政だと思うのですけど、
バーナンキの背理然り。ならば財出や
税金の水準は無視できない。しかも、
リフレ派(の一部?)は期待インフレ
率を問題にする以上は、将来の長期的
物価水準の動向を左右する要因を無視
する訳にはいかんでしょう

マクロな物価水準を規定する財出や課税は
ミクロ介入ですから、現実にはミクロ介入
を無視できない訳です

あと、「ソーシャル」の方ですけど、生活
保護を受給するにしても競争がある。手馴れたコワーイお兄さんと家族御一行サマが
受給して、ナイーブなひきこもりさん(←
障害者?)が受給競争に負けたり。歪んだ
競争を緩和するにはどうするかで「じゃ、
例えばBIはどうか?」とかになってくる
んでしょうね

ご自分のアイデンティティを示した上でコメントされている数少ないお一人である飯田先生は、もちろんここでいうネットイナゴのたぐいではありません。

ただ、このコメントからすると、いままでリフレ派は国民生活のことを考えてシバキを批判しているからと、あえて批判を抑制していたのは無意味であったということになりますね。それはそれでよくわかりました。経済学方面はあまり詳しくないもので、「リフレ政策……というか拡張的金融政策の支持をケインジアン的な政策だと考えている経済学者はほとんどいない」というご指摘は斬新でした。
飯田先生も「ミクロは規制緩和と競争政策」とのお考えだということですので、労働政策や社会政策は原理的に不要ということになり、まさに私の論敵ということになりますが、こういうことを(変に扇情的な言い方でなく、冷静に論理的に)はっきりしていただけるのは大変有り難いことです(これは本気です)。

村上先生の件については、先生の学恩を受けた者として感情的にいわせていただきます。田中氏は『反古典の政治経済学要綱』一冊の表面をなぞるだけで勝手なことを書き散らしています。こういう手合いに、いちいち村上先生の理論体系を説明してやる義理はありません。村上先生の全集も出ていますから、例えば『批判的歴史主義に向かって』くらいは嫁!そこで引用されているのも嫁!というだけです。マックス・ウェーバー一つ引用せずに(というか読んでないんでしょう、この経済思想史の専門家サマは。たぶん大塚久雄も。大学院で何をなさっておられたのやら)ウェーバリアン村上を論ずるんですから。この点に関しては、経済思想史の専門家でない飯田先生を非難する気は毛頭ありませんが、田中さんを許すつもりはありません。

>実際、いままでここにやってきて
>愚劣なコメントを書き込んでいる
>のはみんな隠れネオリベ派ばかり
ソフト・ネオリベを名乗ってるのも
いるよ♪

でも、Ex労働問題専門の方はどう
されてるんでしょうかね?これだけ
陰湿に煽られてるのにねw

現状だと、それなりの分量で文章を書いている田中氏に対して、学生時代に教えてもらったとかいう思い入れと最悪の権威主義で難癖をつけて、おそらく勘違いで発生していると思われる根本的な食い違いについて調整しないまま吠えまくっているキ○ガイという構図しか浮かび上がってこないので、もう少し整理していただけるとよいかな、と。
○○嫁、という台詞も、論点をある程度整理して、相手をある程度説き伏せるような努力をしてから言わないと、火病にしか見えないんですが。一応、ご自分からけんかをふっかけたのですから、もう少しkwsk主張の整理をお願いしたいところであります。

hamachanさんはどうやら「ネオリベ的構造改革」は悪で「アンチ・ネオリベ的構造改革」は善だと無前提に考えているようだけど、それこそが稲葉振一郎さんが強調していたヘタレ左翼的思考の罠なんじゃないの? hamachanさんが、中曽根ブレーンであり、日本におけるネオリベ的構造改革主義のまさに元祖であった村上泰亮を批判するのではなく擁護するという図式それ自体、構造改革主義は右翼も左翼も実は同根という稲葉理論を実証しているようで興味深いな。

馬鹿はほっといて、一観客さんのコメントは結構いいところを衝いています。実は、ここのところが日本における80年代型改革(中曽根改革)の実におもしろいところなんですね。レーガン、サッチャーと同じ時期に同じような構造改革をやったように単純に考える考えの足りない人もいますが、この改革の特殊性は、日本の民間労使が作り上げた組織としての企業の論理をむしろ全面的に打ち出すことによって成功したというところにあるのです。
80年代型改革における改革は「行政改革」と称されましたが、その本丸は、日本型労使関係システムへの統合を頑固に拒否していた官公労の最強硬派をたたきつぶして、残りをなびかせるところにあり、その意味においてまさに成功を収めたのです。
そのブレーンが村上先生や佐藤先生であったわけで、そのマニフェストが『文明としてのイエ社会』ということになります。そして、この民間労使連合の勝利に対する不平不満が、90年代初頭のリベサヨ路線になり、これがネオリベに乗っ取られていくという政治的ダイナミクスが進行していったわけです。
あのね、ここ20年くらいを考えるにしても、これくらいの目配りは必要ですよ、政治学者でなくたって。

「それなりの分量」ねえ。
田中さんもすばらしい応援をもらったな。

まあ、法律の素養のない人に労働法の本を嫁とは言わない。ちんぷんかんぷんだろうし。しかし、労働問題、社会問題を看板に掲げているところにやってきて、よくまあこのイナゴたち、好きなこというねえ。
せめて、経済学部でやっている社会政策や労務管理論くらいは囓ってほしいよね。大河内一男と隅谷三喜男くらいは読んでいてほしいし、できれば兵藤嫁、中西嫁、佐口嫁、森嫁、と嫁さん候補は一杯あるんだが。

>一観客さんのコメントは結構いい
>ところを衝いています
またまた、嫌らしいですぅ~~~。
わくわくw

>その意味においてまさに成功を
>収めたのです。
『その意味で』というとこがポイ
ントかと

なんか勘違いしている人がいるみたいだが、ここは「EU労働法政策雑記帳」という看板を掲げて、労働・社会問題に関心のある人々が主として読みに来て、コメントを書いたりするブログです。リフレ厨が土足で入ってくるところじゃない。

世の中には、労働法学会とか社会政策学会というのがあって、その分野に関心を持つ研究者が集う。そこで、ネオリベの悪口を言ったりすることもよくある話。自分たちの学問分野の存立に関わるのだから、まあ当然でしょう。そういうところに労働問題に関心のない奴が乱入して、ああだこうだと喚いたりしたら、白い目で見られるのも当然。

私は別に田中氏のブログに出かけていってなんのかんの喚いたわけではない。自分のブログで自分の気持ちを率直に書いたまで。それをどこぞにコピペされたのを読んで逆上して殴り込んできたのは田中氏の方だ。まあ、こういうこれまでの活字の世界では起こりえなかったようなことを起こるのがブログというものの特性なのだろうが、そのブログの本来の趣旨をまるで弁えない連中が大挙イナゴのごとく襲来して落書きしまくるということが続くと、仕様を少し考えないといけないですな。

えーと。
もともと隠れネオリベ晒しを狙ってのコメントではないの?

>実をいいますとね、田中氏を攻撃したのには意図がある。
>これはいいリトマス試験紙なんです。

>実際、いままでここにやってきて愚劣なコメントを書き
>込んでいるのはみんな隠れネオリベ派ばかで、一見労働
>者や国民生活のことを考えているかのごとく騙る「リフ
>レ派」の正体を見事に晒してくれた

ちょっと話が変わりますけど

本田先生だって別にネット・イナゴに
やられちゃったわけじゃないような…

hamachan必死だな。ワロスwwww

という冗談は置いておくとして、小泉流構造改革かリフレかという対立点が大したことないとはこれ如何に?小泉政権下でも解雇された人も居たんでしょうし、自殺者も増えてますよ。経済的停滞が社会的不安を引き起こしていると思うし、あなたのご専門?の労働法の世界でも現下の経済状況から生じている雇用の問題は重要な課題なのではないのですか??

ご自身の専門分野に即して発言されるということなら、狭い労働法の世界に篭っていれば良いのでは?別に田中さんが書いたものをこのブログでわざわざ批判することは無いでしょう。

あなたの言われた事をそのまま返す(私はそうは思わないが)と、経済問題に関心の無い奴が労働分野に関する場でああだこうだと喚いたりしたら白い眼で見られるのも当然でしょう。


濱口先生とソフト・ネオリベさんの指摘

>濱口先生
>まさに私の論敵ということになります

>ソフト・ネオリベさん
>もしもデフレであれば、その時点においては同床

は,リフレ云々を考える上でものすごく本質的だと思います.他のいろいろな点での主張が異なるのに安定的なインフレの必要性において共通の見解がもたれるのには理由があります.

安定的なインフレは市場を効率的な状況へと近づけます.ミクロ政策に最も冷淡なグループはそれで問題は終わり.そして,ミクロ政策を必要だと考えている人にとっては,市場が効率的な方が社会政策のコストが低下するので望ましい(つまり景況の改善によって大切なことがやりやすくなった)と考える.失業者対策のコストは失業者数の増加関数であることを想起ください.これが,社会政策について全然違う見解を持っているのになんか同じ主張をしている(=欺瞞・野合があるように感じる)メカニズムかと思います.

例えば,ここに多少関係あるところでいうと僕・田中先生・稲葉先生ではミクロ経済政策に関する温度にけっこうな差があると思います(たぶん).また,金融政策を巡る論争の中で,複数の大御所級から「○○さんと自分が同じ陣営で論争に参加するなんて夢にも思わなかった」という旨の感想を聞きました.なお(だれも聞いてないけど^^)僕は個別市場への介入はほとんどの場合で状況を悪化させる+所得再分配は産業保護ではなく金銭的にのみ行うべき+再分配水準は論理的問題ではなく選好の問題だから選挙を通じて決めてくれ……という点で一番市場主義的なとこよりちょこっと左に寄ったところにいる感じでしょうか(自由主義再右派よりは気持ち左だというのが下の段落で重要なポイントになります!).

で,もうひとつ大きな問題があります.これは本田先生か内藤先生にも同じことを言ったことがあると思いますが……現在は濱口先生(or本田先生or内藤先生)と僕が論敵に見えない場合があるという点ではっきりいって異常事態です.濱口先生ですら数日前までそう思っていたわけですし.現在は,経済情勢と世論のなかでの位置取り双方において非常に特殊な状況なのです.濱口先生と僕と似たような立場の諸先生が「だれからどーみても論敵」だといえるような景況と世論が回復されることを望みます.

浜口先生は「制度論者」だったはずなので(たぶん)、当然、(まっとうな議論においては、)飯田先生こそ論敵になるはずです。そういう話になったら面白いな、と思います。個人的は。

>>飯田先生
>濱口先生ですら数日前までそう思って
>いたわけですし
たぶん、慎重な濱ちゃん先生は、明確に
そう分かるまでは、そういう決め付けは
失礼になると思い、控えていただけかと。

>>rascal さん
>そういう話になったら面白いな、と
漏れも

今回の騒ぎで、変なイナゴがいっぱいやってきましたが、最大の収穫は、ホンモノの経済学者である飯田泰之先生から、制度派でケインジアンに同情的な私は、リフレ派を正面から批判してもいいというお墨付きを貰ったことです。本当に有り難うございました。

また、このお陰で、本田先生の事件で、一部の分かっていない連中によってささやかれたらしい、私が(この労働問題専門家の私がですよ)リフレ厨と一緒になって本田先生いじめに荷担したなどという濡れ衣を払拭できるとすれば、怪我の功名というべきかも知れません。それで本田先生のご機嫌がどの程度変わるかは分かりませんが、私としては変な荷物を下ろしてすっきりした気分です。この点もまた、私のブログにやってきて便所の落書きみたいなコメントを繰り返したリフレイナゴ諸子に心から感謝したいと思います。

この間の展開に非常に困惑しておりますよ。田中さんの厨房ぶりはいつものことですが、濱口先生も悪い意味で厨房化しておられませんか? もっとクールにお願いします。(そんな風に感じるのは、議論の内容自体においては田中さんの方に対して私がシンパシーを感じるからかもしれませんが。)
私としてはリスクマネージャーさん、暗黒面妖さんのご感想に同意しますし、一観客さんが私の疑問を先取りして下さっていてありがたく思います。
あと、飯田君はご自分の経済政策論と労働・社会政策論をそんなに無理矢理対立関係におかれる必要はないと思います。
ぼく自身は『教養』では連帯指向の社会運動・社会政策にもっぱら「後衛」、マクロ経済的に言えばビルトインスタビライザーとしてのみ肯定的な位置づけを与え、好況期にはむしろ市場にとっての死荷重と化す、としましたが(だからこそ「ケインズ主義最小国家」なんてアイディアも出てくる)、最近はちょっと違った風に考えています。

学校教育も労働組合も社会保険も、それどころか民間の保険でさえ、営利企業によってでもまた国家によってでもなく、民間レベルでの慈善や社会的連帯運動によってはじめられ、それがやがて、あるいは営利企業によって運営可能となり、あるいはまた国家によって制度化されるようになった。(ここにインターネットを加えてもよい。あるいは永瀬唯『疾走のメトロポリス』INAX出版、を参照。)このように、ある種の新ビジネス(セットアップコストがひどく高いとか、外部性が大きいとか)は、その立ち上げ時においては連帯の思想に支えられた協同主義的社会運動によってこそうまく運営できると思われる。いわゆる社会政策の少なからずはこれに当てはまると思われる。(ここではかつての慈善、そして国家におけるパターナリズム問題の検討は保留する。)

以上を踏まえれば社会運動・社会政策は市場経済の支配する社会においても、ただ単にセーフティーネットやスタビライザーを提供する「後衛」としてでなく、イノベーション・インキュベータとして「前衛」でもありうるのだ、と言えそうです。ただし「前衛」の宿命として、敗北を通じてしかその成功はあり得ないのでしょうが。

『疾走のメトロポリス』については以下をご覧下さい。
http://cruel.org/cut/cut199306.html

>安定的なインフレは市場を効率的な
>状況へと近づけます.ミクロ政策に
>最も冷淡なグループはそれで問題は
>終わり.
財出にしろ、課税にしろ、少なくとも
直接的にはミクロですから、実はその
立場は『ミクロの問題については積極
的に語るつもりはないよ』ということ
だと思う。つまり、あまり関心がない。
あるいは飯田先生の場合なら「それは
選挙で決めることだから」となるんで
しょう

そこで、正面切ってミクロを扱う労働
問題の人達に対して、ただ単に関心が
ないだけの人達が、『お前の考えてる
問題は大した問題じゃーない。マクロ
経済嫁!』なんて言っちゃうと

>私が(この労働問題専門家の私がです
>よ)リフレ厨と一緒になって本田先
>生いじめに荷担した
「いじめ」という表現は適切かどうかは
ともかく、彼らと意図は異なっていたん
だけれど、結果的に流れでそうなってし
まったということでしょう

ようやくご登場いただけましたね。この間、大変困惑されておられるだろうな、と推察しておりました。考えに考えたあげくのご登場なのですから、できればもう少し颯爽として登場いただければ嬉しかったのですが。
私の振る舞いの意味は疾うにご了解のことと存じますので、それは別にして内容に係る二点だけ申し上げます。

第1、田中さんのリフレ史観に、本当に「シンパシーを感じられる」のですか?政策の是非ではなく、「史観」として提示されているものについてです。今回の出来事の原因はご案内の通りだいぶ思想信条の深いところにありますが、直接のきっかけは、稲葉先生がこのブログへのコメントで「リフレ史観」を推奨されたところにあります。稲葉先生の経歴を承知しているだけに「まさか」だったのですが。

第2、今回新たに書かれた点についてはよく理解できないところが多いのですが(従って誤解に基づくものとなっているかも知れませんが)、わたしは、第4の原理として「あそしえーしょん」があるというたぐいの議論には、何重にも眉に唾をつけることにしております。人間という生き物は、協働と脅迫と交換という3つの原理の間をぐるぐる回ることしかできないものだという諦観から出発しないと、またぞろとんでもない失敗をしでかしかねないのではないでしょうか。

言わずもがなですが、柄谷さんの「世界共和国」といった本に示されている考え方です。私は「仲間」を超えた福祉なんてないと思っているものですから(もっとも本質的な意味における保守主義者なのかも知れません)。

>人間という生き物は、協働と脅迫と
>交換という3つの原理の間をぐるぐ
>る回ることしかできないものだ

>生活保護といえども憲法に保障された
>神聖不可侵の人権として一切の経済的
>要請をはねつけて良いものではなく、
>むしろ基本的には交換原則に則って
>運営されるべきではないのか、という
>論点ですhttp://inquiry.exblog.jp/3142176

私は交換的の領域で考える方がいい、と
思っているのですが、税金を払う(義務
を負う)ということとセットで交換だと
考えればいいように思います。そこで、
社会的仕事を負うことと交換してもいい
じゃないかという論点があると思います。
もちろん、実際にやっている人がいます。
公務員などです。彼らは社会的な仕事を
して税を引かれた残りを対価として得る
訳です。結局のところ、『この論点』は
誰に、どのような社会的仕事を割り振り、
いくら支払うのか?というミクロの問題
なのだと思います。

濱口先生がお望みのお答えになるかどうかはわかりませんが、田中さんがこの間こだわっておられる問題、田中さんの言葉によれば「土台」、ぼく自身の理解では「構造」なる概念――というよりbuzzwordによって罠にかけられた思考、の歴史として経済学説史(の中のある流れ)を見る、というアプローチは、非常に興味深いと思います。マルクス経済学の段階論は、唯物史観も、また資本主義の発展段階論も、いずれもこの好適な例をなしている、と思います。
で、このような段階論的史観そのものへの、ぼく自身の違和感の表明としては、http://hotwired.goo.ne.jp/altbiz/inaba/031202/textonly.html
をご覧下さい。

「第四原理としてのアソシエーションは信じない」「協同と脅迫と交換だけだ」というのはごもっともです。私は別に第四原理について、柄谷的アソシエーションについて論じたつもりはございません。濱口先生の仰る「協同」についてのみ念頭に置いております。それが『仲間』を超えられないんじゃないかという濱口先生の懐疑も十分に理解しておるつもりです。
この手の議論としてもっとも風呂敷が広かったのはかつての岩田昌征先生の三極図式、「自由-平等-友愛」に「市場-計画-協同」を対応させ、更に「資本主義-中央計画型社会主義-自主管理連合型社会主義」を重ね合わせて理解しようとしたあれですが、あの図式は歴史の審判に耐えられませんでした。
関連してぼくが興味深く読んだのはジェーン・ジェイコブズの『市場の倫理 統治の倫理』です。彼女によれば一貫した道徳理論には二種類、垂直的な統治の倫理と、水平的な契約・市場的取引の倫理しかない、ということになります。第三の倫理、協同組合主義者や共産主義者が夢見た水平的連帯の倫理というものはそもそも存在しない、というのです。それは(ぼくなりにパラフレーズすると即自的な自然発生的共同体のなかでしかありえず、文明社会の形成原理には成り得ない、というのでしょう。

ええと、だめ押ししておきますと、別にぼくは先ほどのエントリで何も難しいことは言っていなくて、労働組合も社会保険ももともとは非合法的な連帯による共済活動だったのがやがて日の目を見て法認されてそれどころか制度化されて国家の機関化した、というだけのことですよ。
この点パーソナル・コンピューティングもインターネットも大差ないですね。マニアの無償の情熱で育てられ、テイクオフし、普及し、やがてビジネス化して陳腐化する。

これからゼミ合宿ですので2日間ほどお返事できません。

以前は、本の紹介を、ありがとうございました。伊藤さんの本ですし是非とも、読んでみるつもりです。

ところで、本田さんの事件についてですが、濱口さんは冤罪だと思います。あの部分だけを見ていると、確かに濱口さんに責任があるように思われるかもしれない。しかし、それ以前にも本田さんはブログ内で感情的になる面があったでしょう。だから、本田さんが悪い、非がある、というのでなくて、それはネットで本田さんに失礼を働く人が多かったことにこそ問題があると思います。

それから、今ふたたび本田さんの事件を取り上げる事は、事件をふたたび持ち出す事で、本田さん自身に良い事では無いということは、誰の目にも明らかだと思います。それを承知で持ち出しているのであれば、僕はもう何も言いませんけれど、ただこの2点だけは、僕は外野に過ぎないのですが、確認しておきたい、とは思います。

ちなみに、濱口さんがふたたび持ち出しているとは思えない事も明記しておきます。それは時系列を追えば分かる話ですし。

>「リフレ政策……というか拡張的金融
>政策の支持をケインジアン的な政策だ
>と考えている経済学者はほとんどいな
>い」というご指摘は斬新でした。
ケインズには「金利生活者(家系?)の
安楽死」というソーシャルな政治信条が
入ってる訳ですが、実のところ、これを
金融政策で実現しようとすると、市場が
予想していたインフレ率以上のインフレ
率が実現する(もしくは、市場金利への
強い規制の)必要があります。これは、
政府が市場をあえて裏切る行為ですので、
現代の経済学では不評かと思われます。

ゼミ合宿中とのことなので、急いでお返事をする必要もないのかも知れませんが、とりあえず。

私の立ち位置をはじめに申し上げますと、極めてオーソドックスな発展段階論です。マルクスの唯物史観も政治目標が先に立った人為的なものに過ぎると考えています。つまり、狩猟採集社会→農耕牧畜社会→産業社会という、誰の目にも明らかな社会の基盤となる財生産方式でもってものごとを考えるしかない。それと、協同原理と脅迫原理が中心の社会から、ポランニーの指摘した自己調整的市場が社会を覆った市場社会への移行という二つの軸でものを考えるのが、経済史学なるものが始まって以来もっともオーソドックスなやりかたでしょう。私は、なになに史観などという自分の名前の入った代物を人様に平然とお出しできるだけの心臓は持ち合わせていないので、そこはできるだけオーソドックスに考えています(産業社会の中の区分は産業構造論に帰着します)。

こういうオーソドックスな歴史観に違和感を感じられるのは、それはそれとして理解可能です。そして、なになに史観という名前で後世に残るような異端の史観は、梅棹忠夫の生態史観にせよ、稲葉先生ご推薦のジェーン・ジェイコブズの(これはなんていうんでしょう、あえていえば)都市先にありき史観にせよ、その全人類文明史に対する飽くなき興味と該博な知識と、そしてなにより既存のパラダイムに囚われず、あらゆる学問分野を横断して総合的な観点に立とうとする、真の意味での自由奔放な発想とから産み出されてきたものだと思います。そういうものとして、それらの「作品」を味わうことは大変楽しいことでもあります(マルクス自身の(つまりマルクス主義者のではない)唯物史観にもその匂いはあります。「作品」としては観賞可能)。

問題は、田中氏の「リフレ史観」なるものを、どういう観点から、稲葉先生ともあろう者が評価されておられるのかなあ、という点なのですね。まさかジェイコブズ女史に匹敵する鮮烈な史観ここに誕生!と、どこやらの出版社の広告みたいに考えておられるのではあるまいが・・・、とご心配申し上げておるのですよ。
もとより、「史観」なるものを作り出すためには、一定の捨象が必要でしょう。しかし、戦時中の国家社会主義的な経済システムの形成に貢献した者と、民間労使連合による覇権をイデオロギー的に基礎づけた者(反古典の政治経済学)と、新古典派理論にかじりついて余計な制度を壊そうとする者とを、「構造改革主義者」「清算主義者」と一括して、小泉の源流にしてしまうような「史観」に、稲葉先生ともあろう者が、本当に心から逝かれてしまわれているのであろうか、と、これは多分多くの心ある方々が心配しているところだと推測するのですが。
まあ、稲葉先生、そこは実に慎重に、よく読めばどこにもリフレ史観を支持するなどととられるような書き方はしておられない。ジェイコブズなどを持ち出して、いかにも田中氏をなぞらえているように見えるけれども、じつは「非常に興味深いと思います」と仰っているだけなんですね。退路を保持しつつ、共闘相手にも思いやりを示す稲葉先生の人徳がよく現れていますが、下手をするとご自分を追いつめることにもなりかねません。まさか塩川先生の前でリフレ史観をご披露するなどという暴挙にはお出になっておられないと思いますが、政治的な配慮と、ご自分の学問的な名声とはどこかできちんと秤にかける必要があると思います。

とりあえず、第1の論点についてはここまでとします。

第2の論点については、どうも基本的な認識に違いはないようなので、私が稲葉先生の仰っているご趣旨を誤解したということにようですね。ただ、言い訳すると、わかりにくいですよ、あの文章は。しかも、私は柄谷さんを例に挙げましたが、ご承知のように、一番それに近い主張をされているのは松尾匡さんです。対談集を出されたばかりでもあり、ついその影響かな、と先回りして考えてしまいました。

http://www.std.mii.kurume-u.ac.jp/~tadasu/shucho7.html

我々の手持ちのカードは、国家と市場とムラなんですから、その原理をどう組み合わせるか、で考えていくしかない。労働組合も社会保険も、もとはムラの助け合いの原理でしょう。それをもっとマクロ社会的に作動可能にするために、国家権力や市場メカニズムをどう組み合わせていったか、というのが社会政策の歴史であり、福祉国家の発展史なのであって、どこぞ宇宙から「ねっとわーく」なるものが降って湧いたわけではない。

それから、本田先生の件については、誰がいい悪いという話ではなく、登場人物の立ち位置が誤解されていることが問題だという趣旨です。

私と本田先生とは、基本的に労働問題研究者として同じ土俵にいる同士ですので、それを前提に(見方によっては過度にパターナリスティックで押しつけがましいやり方であったかも知れませんが)変な方向に行くなよ、と叩いたつもりが、思想的に彼女に敵対する陣営の先鋒として殴りつけたみたいに一部でささやかれたことが、私にとってはしこりになっていたということです。

その点はこれですっきりしたので、もうこれ以上触れることはありません。

若干くつろいで感想を。

歴史を知らないし、知ろうとしない人相手に、歴史的センスを説明するのは大変難しい。センスがないところにはどうしようもないという面もあるのかも。未だに、村上泰亮は中曽根ブレーンだから小泉流構造改革派だとか、歴史音痴丸出しの奴もいるし(いや、もちろん稲葉先生ともあろう方がそんなやからの「ご感想に同意し」ていらっしゃるとは信じておりませんが)。

今回は、イナゴを大量発生させて、私を攻撃させるのが目的で,、イナゴを本気で説得しようなんて気はなかったから、面白く観賞させて貰ったけれど、本気だったら多分とても疲れたでしょうね。

リフレ史観とはいってみれば「景気が悪くて失業者が多いのはマクロの問題で別に“構造”が問題なんじゃないよ」という観点なんじゃないの。その観点から「マクロなんて“構造”が変わらなければ意味ないよ」といっている左右の構造派を斬るというスタンスなんじゃないの。だから、村上泰亮を小泉流構造改革派の先駆に位置付けるのは、構造派の中の立場の相違にこだわるhamachanさんにとっては問題ではあっても、リフレ派対構造派の図式で見ているリフレ派にとってはぜんぜん正しいということだと思う。

稲葉先生が復帰される前に、あまりイナゴが跳ねると、稲葉先生が困惑されてしまいますよ。まさに、そういう「リフレ史観」とやらに立たれるんですか?本気ですか?とお聞きしているわけですから。
稲葉先生は、現段階の政策論として「リフレ派」であることは明示しておられますが、人類の経済史をリフレか構造かでぶった切るような「リフレ史観」であるとは、現段階では断言しておられないようです。
もちろん、そう断言される可能性もありますが、その場合、いろいろと対談やらをされる各分野の先生方や教えを受けたお師匠さんの前でも滔々とぶってきていただかないと、こんな隅っこのブログで書かれるだけでは困ります。

>本気ですか?

あ、これって・・・。まずいかな。

なんかDeja vu が・・・。

稲葉さんの偉さは、一左翼であることがリフレ派であることと矛盾しないことを左翼として始めて示した点だと思う。それまでの左翼は、ある意味ネオリベ以上の構造派で、つまりはアンチ・リフレであったわけだから。それに対して、稲葉さんはそれが「ヘタレ」にすぎないことを左翼として始めて断言したわけで、これは実はとても勇気のあるすごいことだと思う。

まともっぽい書き込みなので、まともにコメントしますが、その場合の「左翼」って、ケインジアン福祉国家を擁護する社会民主主義は入らない定義ですね。日本の知的世界の特殊事情を踏まえれば、そういう用語法は理解できますが、ヨーロッパで普通に「レフト」というと、こんなに失業があるのに欧州中銀はなぜ利率を引き上げるんだと文句をつける側です。
なんつうか、あたりまえのことを当たり前だと喝破したことが偉大だと言えばその通りかも知れませんが。

そのことを「あたりまえ」といえるのなら、別にhamachanさんがリフレ派を敵視する必要はないな。リフレ派がいっているのは、構造は構造でゆっくり考えればいいから、とりあえず中銀はちゃんと仕事をしろ、それをしないで失業云々いってもしょうがないよといことだから。こういう「あたりまえ」のことを言っている左翼って、日本で稲葉さん以外にいたっけ?

>こんなに失業があるのに欧州中銀は
>なぜ利率を引き上げるんだと文句を
>つける側です。
馬車馬さんによると、もともとそうやって
期待インフレ率以上のインフレ率を実現し
ようとするインセンティブが中銀にはあり、その結果としてのインフレ・バイアス
防止策として導入されるのが、もともとの
インタゲだということらしいです。

http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/2_fe00.html
> サプライズ・インフレによって確実に失業率を
> 下げられる。それなら、インフレ率については
> ちょっと妥協して失業率を下げた方が良いはず
> だ!」と。つまり、日銀には人々の期待を裏切る
> インセンティブがあるのだ。人々が合理的である
> なら、こんな日銀にみすみす騙されてやる必要は
> 無い。一手先を読んで、「日銀は最終的にイン
> フレ率を2.5%にしようとするはずだから、
> 先回りして期待インフレ率を2.5%にセットし
> よう」ということになる。最終的には、「いくら
> 失業率を下げるためとは言ってもこれ以上は
> インフレ率を上げられないよ」と日銀が音を
> 上げる水準に達したところで、期待インフレ
> 率の上昇は止まることになる。

>>本気ですか?
>あ、これって・・・。まずいかな。
>なんかDeja vu が・・・。
狙ってやってるくせにぃー。w

>ちょいとはじっこを囓っただけのイン
>チキ議論が通用するものだなあ、と感心
>する(本田さんの殷鑑は遠くないぜ)。

>退路を保持しつつ、共闘相手にも思い
>やりを示す稲葉先生の人徳
本田先生もブログの上では『ネット稲葉』
先生を見習うべきだったんですよw


>社会民主主義政党はあったんですよ、
>「自由民主党」という名前の。
自民党をぶっ壊すの意味ですね。

一イナゴって、謙遜してるけど、
お前、イナゴの親分じゃないか?
いや、イナバの親分だったねえ。

へタレ左翼で思い出したよ
>一部の良心的な運動家のあいだでは、
>同和奨学金がコミュニティからの
>流出を促進してるんだ、っていう
>冗談が言われてたほどなのだ
http://sociologbook.net/sb.cgi?eid=22#comments

生粋のネオリベを気取るんなら、この
感傷的な連中になんか言ってやれって

そしたら、また、イナバちゃんが君に
しびれて、カッコイー付いて来ますっ
てなるよ。ま、いつものことだがなw

帰ってまいりました。

一イナゴさんが「ほめ殺しですか?」と気味悪くなるほど私の考えを代弁して下さっているので、ちょっといま何を言ったらよいのか思いつきません。
「リフレ史観」って言葉はところで誰が最初に使いました? ぼくは使ってないと思いますが。

一イナゴさん>一応松尾さんはそうじゃないですか? アソシエーショニスト松尾にはぼくは懐疑的ですが、この点ではもちろん同意してます。

ついでに申し上げますと「リフレ史観宣言」ではないが「マクロバカ成長主義宣言」であれば一応立岩対談本の最後の補論として公表しておりまして、立岩さんも塩川先生もご承知ですよ。

稲葉先生ご自身の表現は「リフレ派の人たちの歴史論」ですね。ただ、現在の政策論として「構造は構造でゆっくり考えればいいから」という立場はあり得ても(私は「冗談ではない」と思いますが)、人類がこれまでたどってきた過去の歴史を論ずるのに、一切の構造論は「構造」という箱に押し込んで、それとリフレを対立させるという図式は、私には信じられないのですが(もちろん、私が旧来の社会科学的思考法になじみすぎているからだという批判はあり得るでしょうが)、まあ、稲葉先生がその立場に立たれるというのであれば、それ以上何も申し上げることはないとしか言いようがありません。私自身の歴史の見方についてもかなり突っ込んでいろいろと書いてみたのですが、すべて論評の外のようですし。

人類の歴史は膨らんだり縮んだりの永遠の繰り返しであって、質的・構造的な分析は大して意味がないという考え方も(ある種の業界の人達にとっては)十分あり得るのだろうなあ、とは思いますが(それがジェーン・ジェイコブズとどういう関係になるのかが今度はよく分からないのですが)、私には想定外のものでしたし、稲葉先生がそのお立場であるということにもびっくりいたしました。

ま、いずれにせよ、飯田先生の的確なまとめのお陰で、私自身の目的(リフレ政策に賛成しているからといって一切の構造論を否定する「リフレ派」ではないことを明らかにすること)は一応達したことになりますので、稲葉先生のお立場が明らかになったところで(これ以上どちらが正しいという議論は無意味でしょうから)、この辺で打ち止めにした方がよろしいようですね。

本来ここはEU労働法政策についてのブログでもありますし、本田先生のキャラクターのゆえにいわゆるリフレ派の人々と労働問題の議論とが変な形でもじれてしまったことが、こんな隅っこのブログを巻き込む騒動の遠因となっているわけで、私もそろそろ本来の議論に戻った方がよろしいようです。

>ふうーん、イナゴが怖くてコメント欄を閉じたんだ、ブルセラさんは。
>便所の落書きは、それ自体が晒しなんだけどね、まともな読者には。

フマさんが閉鎖or崩壊に関与したものにはNAMML、宮台掲示板、黒木掲示板、リフレ派ブログ、本田ブログがあります。

なんで、単なる「優先順位」の話でそんなにエキサイトするのか不明。

田中某がリフレ派の代表なわけないしw
読むなら本尊の岩田規久男でも読んでからにすれば?>ハマチャン

もちろん、飯田さん同様に、規制緩和を主軸にした構造改革派だから、あなたには敵だろうが、リフレ派本尊が「構造問題は枝葉末節」だなんて言ってないのはわかる。

ともかく、田中某を代表だと思うのだけはやめれw

>規制緩和を主軸にした構造改革派だ
>から、あなたには敵だろうが、リフ
>レ派本尊が「構造問題は枝葉末節」
>だなんて言ってない

「リフレ厨」ってのは本田ブログに
来襲して、『マクロ経済嫁!』って
喚きまくってた連中のことだから。

夫馬で~す。

稲葉も山形の犠牲者。山形みたいな専門無しの奴の真似を
自分の専門、及びその周辺でやっちゃいかんよ

下手なこと言うのは、専門と関係ない『マクロ経済!w』
だけに限定しときゃ、よかったんだよ。自分の専門に近い
本田に手を出したのが間違いなのwww

山形浩生氏は翻訳家としてはいい仕事をしていると思いますよ。
「富岡日記」を持ち出して「女工哀史」に反論したつもりになっているのはご愛敬ですが、まあ労働問題を語っているつもりもないのでしょうから(労働問題研究者はみんなサヨクだと思いこんでいるらしい)、農商務省の「職工事情」を読んでから来いなどというつもりはない。
中西洋先生のゼミでそんなことやったら市中引き回しの上打ち首獄門ですが、ね。

ちなみに、最近はやりの「史観」は「フランクフルト学派だ」「そうです」「共産主義ですね」「そうです」だそうですね。

http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20061018/p2#seemore

リベサヨ系のジェンダーフリー論には些か賛成しかねる立場ではありますが、こういうすさまじい「史観」で整理されてしまうのを見るとさすがに可哀想になります。

てか、考えてみると、これを喋っている人の地位を考えれば、これもあかでみっくな発言ということになるのでしょうか。「リフレ史観」などおとなしいものでした。


(追記)

「リフレ史観」は褒めすぎだったな。「株屋史観」の方がよかったな。資本主義「の」矛盾を構造改革して社会原理を導入しようというのと、資本主義「への」矛盾をなくしてより純粋な市場原理に構造改革しようというのをごちゃまぜにして構造改革主義だからなあ。大陸進出政策の政友会が小日本主義だとか、歴史勉強しようねが満載だし。

政治家の言い訳としては十分合格点ですな。

http://cruel.org/other/rumors.html

「女工哀史がなかったなどと言っているわけでは毛頭ない。さらに、この下りは単なる伝聞として書かれており、さらに「本当かね」とつけることでその妥当性に関する判断は明確に保留してある」

まったくそのとおり、ご自分の文章が読者に与える修辞上の効果はしっかりと計算しつつ、「聞いたことがある」といってるんだから、何も断定してないよ、とちゃんと逃げられるように予め用意してある。「留保もさんざんついている」とか、「みんな」とは言ってない、「多い」と言ってるとか、修辞学のテキストとして、松下政経塾の国語の教科書に採用したいくらいですな。

本田先生、見てますか?ものをいうときはこういう風にするんですよ、といういい見本です。

いや、政治家じゃねえしw

おーい、社会政策の中の人、出番ですよ。

http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20061104

ていうか、いわば現代の底辺下流私大の悲惨な実情を暴いたルポに対して戦前の東京帝国大学学生の日記を持ち出してどうこう言ったのはそちらさんなんだけど。

まあ、何回も言ってるように、山形さんは有能な翻訳家でエッセイストだから、自分のよく知らない分野でサヨク批判の文脈でそういう言い方をするのもありなんだが、それに対して「いやあ、確かに世の中は女工哀史の通りでしたが、ごく初期の一部では富岡日記みたいなこともあったんですよ」と言えばよかったんだよと、せっかく言ってあげているのに、どこぞで誉めあげられて舞い上がったか、「これじゃあ、読んでるほうは『富岡日記』と『女工哀史』をまったく同じ次元で考えてしまうでしょう・・・ところで『富岡日記』に書かれている時代は明治6年から数年のもの、他方で『女工哀史』は大正時代後半のルポである」などと、労働問題に少しでも通じている人間ならわかっていることを、今改めて発見しましたぞみたいな調子でやるものだから、そうか、このおじさん、今までそんなことも知らなかったんだろうか、という疑念を招いたりしてしまいます。

ついでに、山形さんには何の恨みもないけれど、変な人が変な形で持ち出してしまったので、念のためにもとの文章を引用しときますね。現代の底辺下流私大の悲惨ルポと東京帝大生の日記を同列に持ち出したのがどっちかを確認するために。

>ところでなんでも、労働研究者はサヨクな方たちが多くて、資本家は常に労働者を搾取したことにしたいから、女工哀史みたいなのをなるべく称揚して、こういうやる気のある労働者が国や資本と協力して喜んではたらく富岡日記は自分の説に都合が悪いから「特殊例だ」「こんなのばかりではない」「一面的だ」と貶めるのが作法だと聞いたことがあるが、本当かね。まったくどうしようもないね。

ついでに、何のトラウマか知らないが専門家専門家というので言っておくと、労働問題の専門家が普通使うのは同時代の官製資料である農商務省の『職工事情』でしょう。私の大先輩が、工場法制定のために調査した苦心の報告書です(農商務省工務局→内務省社会局→厚生省労働局→労働省→厚生労働省)。
『女工哀史』は文学的というか、物事を悲惨に描こうとしすぎるところはあります。同じ文学でも、『ああ野麦峠』の方が明るい印象はありますね。
ま、こういうことについては、大学院でみっちりと社会政策を学ばれた方に語っていただく方が望ましいんですけど、ね。

自分で噛み付いておいて・・・。ま、いいけど。これも一つの晒し方。

(追記)
親分が(はじめの自分のちょいと軽々しい文章をいつまでも晒されるから)深追いしたくないと言ってるのに、ちんぴらの恩返しよろしくいつまでもぐだぐだやるねえ。迷惑だといわれてるのがわからないのかね。ま、ご自分のレベルを晒すのは自由ですが。
「中の人」も、以前山形さんが組合はみんなサヨクみたいな発言をしたときはさりげなくたしなめておられましたが、こういう風に厨さんがしゃしゃり出てしまうと出にくいしねえ。

しかし、ポランニー流に言えばごちごちの実体(サブスタンティブ)派なんですね。考えてみれば当たり前だけれども。

http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20061104/p1

価値は取引から生まれるのか、生産から生まれるのか、というのは、産業資本主義の2つの魂が200年来対立してきた大テーマですが、山形氏は労働価値説の流れをくむ実体的付加価値論者なんですね。労働関係者を含む非金融系実務者は概ねその傾向はありますけど。
これに対し、大塚久雄の言う前期的資本こそが資本の本源的形態とするのが(宇野弘蔵を隠れた始祖とする)岩井さんや柄谷さんで、歴史的には多分そっちが正しい。「経済表」以前の経済学からすれば、国民経済の成長という概念は意味をなさないでしょう。
しかし、産業革命後の産業資本主義は変わったのだ、というのがまあ普通の常識。それが、そろそろ期限切れで、ポストモダンとやらいう新しい時代がきとるんじゃ、というのがここ数年来一部知識人の間で流行ってきた議論。価値は実体に非ず、表層の揺らぎに過ぎないとかなんとかいうての議論。
どっちの資本主義を主敵に据えるかで、社会主義ビジョンもがらりと変わってくる。重商主義者の「成長」とは権力者やその周りの金持ちのもとに金銀財宝が集まってくるということですから、そんな成長糞食らえというのは首尾一貫する。ポストモダン派ほどそうなるわけで。

ここんところは、夫馬さんが向こう側で、私と山形氏の方が同じ側のようですね。

私は数学科生で、あえて言うなら数理ファイナンスですからね。そういえば、私が山形さんと初めて対立したのも、知の欺瞞論争でしたから

私は今の若い人に普通にありがちな一般的志向って
ことで済んじゃうと思うんですが、稲葉先生はよく
分からないですね。イメージとしてはポストモダン
的なものを沢山受容してる方だと思ってるんですが、
一方で労働政策のご出身ですから

いやそこは錯綜するのですよ。

簡単に言うと、まず体制を維持するないし修正を加えて擁護するという古典的立場からは、現代資本主義社会というのは、大塚久雄の言うハゲタカ的前期的資本の論理ではなく、国民経済を成長させるという「生産の論理」で動いているのだ、という認識に立って、それをより促進するというロジックになりやすい。労働政策でも、保守オヤジになればなるほど、そういう生産主義的傾向を示します。山形氏も(自分ではどこまで気付いているかどうか分かりませんが)こちら側ですね、あの言い方からすると。

これに対して、古典的反体制的立場の人間は、資本は資本の論理で動いている、前期的資本と本質は変わらん、国民経済の成長などは目指しておらぬ、我々が権力を握って国民のための経済成長をせねばならぬ、という風になります。生産主義サヨクは、したがって、社会のあるべき姿のイメージでは意外にモダン系保守オヤジと共通するんですね。

ところが、これに反生産主義の軸が加わると話がやや複雑になる。いわゆるポストモダーーン派というのは大体こっちじゃないかと思いますが、国民経済の成長などということ自体が望ましいどころか糞食らえになるようです。私はこの辺あんまり詳しくないのですが(それこそ稲葉先生の方が詳しそう)、サヨ系ポスモダだと、資本の論理(ってのはすなわちハゲタカ的前期的資本)も糞食らえなら、生産主義的社会主義(スターリン主義とも言えるけれど、日本的経営とも読める)も糞食らえになるようですし、非サヨ系ポスモダになると、むしろ国民経済を掲げる生産主義が主敵で、異なる価値体系の差違から利潤をエクスプロイットする前期的資本に親和的になるという傾向があるようです。
前にテレビでやっていた、引きこもりの兄ちゃんが、古本を安く買ってちょい高く売ってさやを稼いでいる、なんてのも、まさに前期的資本なわけで。

>キーワードは「権威」で、「権威」をもたない(と思われる)相手への「権威」を傘に着た攻撃っぷり。
「権威」への奇妙な思い入れ

この上の方で死屍累々のイナゴさんたちのことかな?

ご自分たちは、ちょいとケーザイ学をからかっただけの素人さんを、権威主義丸出しで、よってたかっていじめまくってるくせにね。ま、ご自分の振り回しているのは「権威」じゃなくて「権威もどき」だからかもしれない。

(追記)

ところで、親分が最初に

「労働研究者はサヨクな方たちが多くて、資本家は常に労働者を搾取したことにしたいから、女工哀史みたいなのをなるべく称揚して、こういうやる気のある労働者が国や資本と協力して喜んではたらく富岡日記は自分の説に都合が悪いから「特殊例だ」「こんなのばかりではない」「一面的だ」と貶めるのが作法だと聞いたことがあるが、本当かね。まったくどうしようもないね」

と、両者を同列に置くようなうかつな発言をしておいて、それをちょいとからかわれたからといって、忠誠心だけが自慢のちんぴら子分がしゃしゃり出て、その皮肉った相手に対して、両者を同列に置いているからどうのこうのと言いまくる姿というのは、人間の尊厳を失った精神的売春の末路を示していて悲しいものがある。

山形さんはそんな見え透いた言い訳をして貰いたくはないのだよ。「断定なんかしてないよ、伝聞だよ、留保も付けているよ」と、ちゃんと逃げていらっしゃる。そう、それが唯一の正しいやり方。所詮ただの軽口、いつまでもこの長いコメント欄を見に来る人が絶えないという状況で、実のところ一番傷ついているのは山形さんの名誉ではないかね。


(追記)

多分、違うのは、ほかの専門家は、自分の専門分野にアホが押し入ってきたら叩くけれども、そうでない限り文句は言わないという点ではないかと思う。

法律家はガチガチだと思われているけれども、世の中法律でぶった切れる話だけではないとちゃんと分かっていて、よそがあれこれ言ってる分には「六法全書嫁」なんて言わない。

ところが、なぜかケーザイさんはケーザイ学以外のものの見方があるというつつましい発言にすらやたら噛み付きたがるんだね。そんなの当たり前じゃないか、と思うんだが。

まあ、本当の経済学者はやはりほかの専門家と同様なんだろうと思うんだが、なまじそうじゃない奴ほど、ちんぴら犬が吠えつくみたいにやっちゃうんだろうなあ。

しかし、一件明白にダメな議論と、一見したところではよく分からないがよく考えるとおかしな議論を対比させて、明らかにダメな議論を叩くことによって、ダメかも知れない議論を弁証するという論法は、そういうやり方をすれば勝てるよというレトリックの教科書としてはいいかもしれないけれども、何がダメな議論かを論ずべき場所でそういう手口を使うのは、それこそいかがわしい議論といわなければならない。

エンゲルスの自然の弁証法だったか、反デューリング論だったか、心霊術の話が出てきて、それがいかにダメかを論じつつ、だから唯物弁証法だという論法があったように記憶しているが、それで観念論を全否定されたのでは哲学者は堪らないだろう。
「水からの伝言」をもてはやすことと、ケーザイ学の概念に疑義を呈することとは、よく考えれば(いやよく考えなくたって)全然別のことなんだが、衆を頼んでワイワイ騒げば、そういうインチキレトリックも通じるというわけだ、いやもちろん狭いネット界だけの話だが。

某書にも、「格差是正には最賃引上げだぁ」という単純素朴な議論と、「リフレで解決じゃ」というフィージビリティに大変疑問のある議論「だけ」を対比させて、読者を一定方向に誘導しようというレトリックが使われていたが、もちろん、そういう単純な議論をやっている「も」いるけれども、まともな人はもっと制度の構造を深く考えた上で、憲法に基づく福祉給付との関係をどう整理すべきか等々連立多元方程式を解くべく考えているわけで、そういうのを全部捨象していかにもある特定の議論だけがダメじゃない議論であるかのように誘導するというのは、ダメを超えてかなり悪質な議論ではないかと感じる。

この手の悪質な議論は、制度構造を深く考えようとすると、「おぅ、構造だ、構造だ、構造改革主義だ、生産主義だ、小泉だ、なんだかんだ」と一次元的反応で拒否するものだから、全然話が深まらない。構造は大事なのだよ、明智君。それを維持しようとするにせよ、改革しようとするにせよ、あるいは基本的に維持しつつ微調整で対応しようとするにせよ。のっぺり平べったい議論だけでものごとは解決しやしないのだ。

何だかお取り込み中だったようですが、

># 山形
>内戦だの近視眼的政府の悪しき価格統制や
>商人いじめなんかでその国内の流通が機能
>していないせいで起きるのだ、
http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20061116#c1163670425

これを見ると「(開発ケーザイの実務家の?)山形
さんは流通を重視している」ようなんですけど…。
やっぱポモなのかな?

(追記)
経済談義と水伝を比較なさった47thさんは、その後
osakaecoさんのエントリに触れて構造問題(?)へ
興味を持たれたようです。
http://www.ny47th.com/fallin_attorney/archives/2006/11/14-014821.php

弾さんもポストモダーーーン?当然かなあ…

>まず最初になされるべきは、輸送と通信。
>80億人分の食料があっても飢餓がなくなら
>ないのは、これが一番の原因だ。先進国の
>余剰は届かないというより届けようがない
>のである。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50691151.html

>のっぺり平べったい議論だけでものごとは
>解決しやしないのだ

敵さん「ケーザイ学」も、のっぺりした議論
ばかりではないようです。よく知りませんが

>前回、ミクロの復習のようなことをやった
>のですが、弾さんやみなさんのコメントで、
>技術、産業構造をちゃんとやんないと机上
>の空論にしかならないと実感しています。
http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20061121/p1

ま、しかし一般論をやろうとするとノッペリ
せざるを得ないですけど。別にケーザイ学に
限らずに

しかし、毎度毎度やり口は同じですね。
自分は正面から向き合わずに知らんぷりしといて、忠実一途のちんぴら子分に見当外れの攻撃をやらせる。
薄っぺらな知識がひん剥かれたときのちんぴらの下劣な反応も一緒。

大坂先生から大変勉強になるトラックバックを頂きました。経済学にはとんと不案内なわたしには、ご教示いただいたことのかなりの部分がまだよく理解できていないのですが、ただ、そもそもわたしが上の方でぽろりとこぼした話は、生産に携わらない前期的資本にとっては、国民経済なんて関係ないでしょう、というだけのことなので、既に生産活動を行っている企業やましてや国民経済を前提にした話とはどうつながるのかよくわからないところがあります。
典型的には、機械も労働も使わない転売商人や高利貸しを念頭に置いているので、生産活動はたぶん誰か他の人(おそらくどこかの共同体内部)がやってくれてるでしょう、それがどういう仕組みで動いているかは知らないが、とにかくはじめのお金を増やしていくのが目的だというのが、大塚久雄の前期的資本なる代物なんじゃなかったかな、とうろ覚えに覚えているものですから。
現代でも、少なくともある種の途上国の政府やその取り巻きたちは、国民経済とか生産活動とかいう概念をどこまで持っているのかよくわからない感じがします。単に略奪する対象と思っているのであれば、前期的資本と大して変わらないでしょう。
機械と労働によって生産活動をすることが社会全体の基本構造になった社会では、商業も金融もその一環として機能しているのでしょうから、生産と流通のどっちが価値の源泉だなんてあんまり意味がある議論ではなくなるのでしょう(それにしても、生産活動に資金を融通する事業者金融は価値の増加に貢献しているのでしょうが、もっぱら消費のみを行う人に金を貸して、その生命保険金で賄っているサラ金がどこまで価値の増加に役立っているかはよくわからないところはあります)。

(追記)
付け加えると、そういう生産主義的なモダン系保守オヤジ(私を含む)の考え方に対して、ポストモダーーンな人々はむしろ前期的資本の在り方こそ(歴史的に本来の資本主義であるというに留まらず)これからの社会の在り方なんであるぞよと唱えているように思えるのですが、この辺は詳しくないのでよく分からないところがあります。現代思想の中の人を呼んできた方がいいかもしれませんね。

丁寧な返答ありがとうございます。

濱口さん(お互いに先生と呼びあわないようにしたいのですがよろしいでしょうか。)と私と理論的な部分では齟齬はないと理解しております。現在でも、ハゲタカ資本主義的な側面が多くの場所でみられるとの指摘も興味深くよませていただきました。

いまだによくわからないのが、
>これに対し、大塚久雄の言う前期的資本こそが資本の
>本源的形態とするのが(宇野弘蔵を隠れた始祖とする)
>岩井さんや柄谷さんで、歴史的には多分そっちが正し
>い。「経済表」以前の経済学からすれば、国民経済の成
>長という概念は意味をなさないでしょう。
という部分でして、歴史認識として、前期資本主義的なものが本源的形態であるというのは、わかるのですが、それが、現代の資本主義の分析とどのような関係にあるかなのです。

資本主義の発生と現状分析(宇野派だから原理論にかかわるのでしょうか)は相対的に独立したもので、発生の根拠がどうであれ、国民経済が成立してしまえば、本源的形態がいかなるものであっても、流通主義や実体主義というのは、少なくとも理論面では無意味になるように思います。濱口さんも「どうつながっているかわからない」とおっしゃっていますが、もしよろしかったら、思い出したときにでも何か参考になることを御聞きできればうれしいです。

最近社会学者の書いたウォーラーステイン関係のもの(教養がないので新書本みたいなやつです)をのぞいていて、そこにも流通主義やら、実体主義やら書いていたのですが、モデルのようなものがまったくなくて、なんのことやらわかりませんでした。もしかしたら、ウォーラーステインあたりでしたら、発展途上国もあつかっていますので、濱口さんのいわれたことも関係しているのかなと思いました。読み直してみます。

ここでも話題になっている某氏に対してああいう下品なことをいうような品性のないやつですが、今後ともよろしくお願いいたします。

大坂さんのお求めに応じて、私が「ポストモダーーーン派」の思考法かなと思っている典型的な例を岩井克人さん(ちなみに、私は法学部の「近代経済学」という授業で彼の話を聞いた記憶があります)の『ヴェニスの商人の資本論』から引用してみますね。

「蓄積せよ、蓄積せよ!これがモーゼで、予言者なのだ」。資本の絶えざる自己増殖、それが資本主義の絶対的な目的に外ならない。蓄積のためにはもちろん利潤が必要だ。だが、この利潤は一体どこから生まれてくるのか。利潤のキャベツ畑とは一体どこにあるのか。
遠隔地、と重商主義者は答えたであろうし、労働者階級と、古典派経済学者やマルクスは答えたであろう。・・・二つの地域の間の価格体系の差異を搾取し、一方で安いものを他方で高く売ること、それが重商主義者が明らかにした商業資本にとっての利潤送出の秘密である。また、労働力の価値と労働の生産物の価値の差異を搾取すること・・・、それがリカードやマルクスが明らかにした産業資本にとっての利潤創出の秘密である。いずれの場合も、利潤は資本が二つの価値体系の間の差異を仲介することから創り出される。利潤はすなわち差異から生まれる。
しかしながら、遠隔地貿易の拡大発展は地域間の価格体系の差異を縮め、商業資本そのものの存立基盤を切り崩す。産業資本の規模拡大と、それに伴う過剰労働人口の相対的な減少は、労働力の価値と労働生産物の価値との差異を縮め、産業資本そのものの存立基盤を切り崩す。差異を搾取するとは、すなわち差異そのものを解消することなのである。・・・・・(p69~70)

機械と労働による生産過程の中に、前期的資本に由来する差異の搾取という本質を見るこの思考法が、(彼はそうは言いませんが)ポストモダーーーン派の特徴ではないかと睨んでいるわけです。

私のような労働関係実務者からすると、この歴史認識は、エンゲルスの『イングランドにおける労働者階級の状態』や『女工哀史』の時代を産業資本主義の典型と見る考え方で、それは違うんじゃねえか、といいたくなるんですがね。そういう19世紀的資本主義の時代は、まさに外部に豊富にある労働力を食い散らかしながら発展していったわけで、たとえば女工の募集人がごっそりと少女たちをかっさらっていった農村は、結核にかかって戻った娘たちが死んでいって、もはや二度と労働力供給地にはならないので、次々に新たな供給地を開拓していかなくてはならなかったわけですが、そんな持続可能性の欠如したやり方がいつまでも続くわけはないわけで、労使の利益が均衡するような方向に進んでいったわけです。細かいことは省略しますが。

岩井さんやあるいはウォーラーステインもそうかもしれませんが、その手のポストモダーーーーンな人の議論を聞いて感じるのは、19世紀システムから20世紀システムへの「大転換」をあんまり高く評価していないっていうか、純粋な資本主義が堕落して不純になったみたいな感覚をお持ちのように見えることなんですが、私みたいなモダン派保守オヤジからすると、19世紀の食い散らかし資本主義はまだまだ不完全な社会的均衡に達しない未完成品であって、労働者の地位をきちんと確立した20世紀システムこそが完成品だろうと思うわけで。(ちなみに、大坂さんがよく引用される松尾匡さんの議論は、この意味では典型的なポストモダーーーーーーーンではないかな、と)


余計なことですが、「某氏」が山形さんのことであれば、私は彼の書くものは結構好きなんですけどね。文筆家としては大した才能だと思いますよ。たまに筆が滑るのが玉に瑕というだけで(筆が滑ったときに、ちんぴらにうんこ撒き散らさせるのはNGですが)。

>>差異を搾取するとは、すなわち差異そのものを
>>解消することなのである

>持続可能性の欠如したやり方がいつまでも続く
>わけはないわけで、労使の利益が均衡するよう
>な方向に進んでいった

上二つは同じようなことを言ってるような感じが
します。

不均衡から均衡へ近づける『過程』に関しては、
通常の経済モデルでの取り扱いについての記述で

>ワルラス過程では価格が調整される間、いっさ
>いの取り引きは行われません。その間、売り手
>と買い手は市場価格に対して、需要量と供給量
>をオファーし、すべての売り手とすべての買い
>手の需要量と供給量が一致して初めて取り引き
>をおこないます。このように調整がおわるまで
>取り引きを行わないわないという仮定、あるい
>は暗黙の仮定はほとんどの経済モデルに共通し
>ます

>このような仮定は、モデルの説明のなかで必ず
>しも明示的に書かれないかもしれませんが、簡
>単にその暗黙の仮定を見抜く方法があります。
>それは、そのモデルが異なる主体のあいだで、
>同時点で成立する連立方程式を使っていること
>です。実際、その連立方程式を神さまや全能な
>中央計画者が解くのではなければ、大抵の場合、
>異なる主体の間でその方程式の成立させるなん
>らかの調整プロセスが必要なはずです
http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20061128/p1

問題は、この調整プロセス(もどき?)の実現と
して『真綿で首を絞めるようなプロセス』なのか
あるいは『全能な中央計画者もどきの実現』かと
いう問題があるのだと思うのですけれど。但し、
これは二者択一問題というよりも実際は連続体の
スペクトルだとは思いますけど。しかし私自身は
(ケーザイ派は?)、『真綿で首を絞めるような
プロセス』が有効に機能して、調整が上手くいく
ような社会構造を好む傾向があるように思います。
一方では、『中央計画者もどきの変更・改変』は
良くも悪くも「より革命的なもの」になるのでは
ないでしょうか…。

ちょっと気になったのですが、「政治学者の卵」
さんのコメントです。
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20061129#c1164847880

いや、そのですね。内容面のフォローよりも、
多くの読者が手を取るように文章をあれこれと
工夫を施すことを重視するというのは翻訳家と
しては正しいのではないでしょうか。
それに対してどう対処するのか?、というのは
結局は読者側の注意の問題だ、と思う訳ですよ。
専門家を名乗る読者がそのような注意が足らん
ようでは…、とは思いますけど。

またまた、ご丁寧な返答ありがとうございました。

明日から、新潟大学経済学部であるインナーゼミの引率の関係で(日曜日にあります。新潟近辺の方はお立ちよりください)、体を休めないとくたばりそうなので、ポイントだけ書きます。時間ができたときにまた、続きを多分自分のブログで書きますのでよろしくお願いします。

要点は岩井さんは特別剰余価値と通常の剰余価値を意図的にか、理解不足ゆえにか混同しているということです。濱口さんの岩井さんからの引用で遠隔地貿易で利潤が増え、それが消失というかゼロ利潤状態にゆきつくプロセスは特別剰余価値、あるいはシュンペーターのイノベーションのプロセスそっくりです。

私が勉強になったのは、私自身、前回のブログのエントリで、剰余あるいは利潤の源泉と成長の源泉の区別に無頓着でしたが、利潤の源泉と成長の源泉ははっきり区別する必要があることです。利潤の源泉は定常状態の調整がない状態に関する議論であり、成長の源泉はイノベーションが定常状態に達するプロセスに関する議論だと思います。ただ、私も同じ間違いをしていたのですが、マルクス関連の多くの議論でこれを混同する傾向は多いように思います。(大昔の記憶からの類推ですが)

まだ、頭のなかで未整理ですが、成長の源泉については流通か実体かという議論は意味があると思います。特にウォーラーステインのように低開発国の経済発展を問題にする場合、先進国の経済発展が実体的要因か流通的要因かという議論は本質的に思います。

多分、近代経済学のほうで、これが問題になりにくいのは、経済を調整の終わっている状態でとらえる傾向が強いからかもしれません。ソローモデルでも実質的にシュンペーター的なイノベーションのプロセスは瞬時に終わると仮定しています。

ちょっと思ったのですが、吉川洋さんのマクロモデルはこのようなシュンペーター的移行過程として経済発展をとらえようとしている試みに思えます。(というか、普通に読めば多分、そう読めるはずなのですが、バカな私は濱口さんのおかげでやっと意味がわかるようになりました。)

それと、ついでで申し訳ありませんが、フマさんのいわれている調整プロセスの内実ですが、計画経済がらみの話がそれらと関連が深いように思います。奥野鈴村のミクロのIIとか、鈴村さんの「経済計画論」(すいません題名正確でないかも)、青木昌彦の初期の業績あたり。(古い本ばっかりですみません)このあたりは最近はどうなんでしょうか。これも新しい本じゃないんですが、盛田常夫「体制転換の経済学」も上にあげた本、同様ちゃんと読んでないいんですけど、実際のソ連でどんなことしてたかきちんと書いてておもしろかったです。

ソ連とか東欧とかは社会主義の失敗といわれてますけど、社会主義計算論争とか、ランゲとかコルナイあたりの話を全然無視して経済計画が行われてたわけで(ランゲ先生はどうおもっていたんでしょうね)、ソ連の上層部がバリバリの新古典派で、なおかつ計画経済やろうとしてたら、どうなってたんでしょうか。

あと、フマさんの教えてくださったコメント面白いですね。北欧で所得の再分配が労働のインセンティブへの影響はどうだったんでしょう。興味がわきます。

ポイントだけ書くといいながら、長くなってしまいました。これから学生の相手してから、明日にそなえて、日帰り温泉でもいってきますので、数日返事はかけないと思いますが、よろしくお願いします。

そろそろ新潟からお戻りになられた頃かと思いますので、簡単にお返事を。といっても、基礎教養の欠如した私にはなかなか本格的に対応しきれないのですが。
私の印象では、岩井さんの議論は、通常の剰余価値と特別剰余価値を敢えて区別していない、というか、産業資本のやっている労働者の搾取だって本質的には前期的資本の遠隔地交易や今日のイノヴェーションの搾取と変わらないじゃないか、というところに力点があるように感じられました。つまり、利潤の安定した定常状態なんてないんだという感じでしょうか。いつも、絶えず何か新たなものをエクスプロイットし続けている資本主義というイメージですね。
多分、現在の感覚では、そっちの方が近しいものに感じられるのだろうなあ、とは思います。

いわれていることはよくわかります。ただ、岩井さんの議論が私の理解しているとおりなら、定常状態でのゼロ利潤ないし、正常利潤と定常化プロセスで発生する特別剰余価値というか特別利潤を区別したほうが、議論がすっきりするように思います。「差異そのものを解消」した状態というのはおそらく、マルクスのいう意味の利潤の消失ではなく、正常利潤ないし、マーシャルのゼロ利潤の状態なのですから。

あと、濱口さんの引用された箇所がシュンペーター的に見えたので、「現代の経済理論」(東大出版)の岩井さんの執筆した「経済成長」をのぞいてみたのですが、濱口さんの引用とつながる論点がないようだったのが、意外でした。

私の印象なのですが、ポストモダンの人達のモデルって、シュンペーター(マルクスの特別剰余価値論)+リカード的停滞論っていう感じなんでしょうか。岩井さんにしても停滞を主張したいために、議論ぐちゃぐちゃというふうに感じてしまうのですが。

あと、以前、不均衡動学を覗いて感動して、「貨幣論」読もうとしたのですが、あの岩波文化人を日本人の平均とおもって書く文体はどうにかならんですかね。資本論の出だしが周知のことだったり。(さっきの経済成長論も「周知」とか「有名な」という表現が多い気がします。)そういうの省いたら、あの本、原稿用紙10枚におさまりそうです。(私は要約しませんが)学生があんなレポート書いたら、「要点だけ書け」と説教すると思います。

話は脱線しましたが、濱口さんのおかげで、あいまいにしていた部分に気がつき自分なりに整理ができてきたと思います。多分、自分のブログで続きを書くつもりです。いろいろとありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

大坂さん、ちんぴらイナゴに激怒の巻・・・。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20061203/p1
http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20061206/p4

知的誠実さとお友達との大事な友情の板挟みになった稲葉先生のご心労が一番心配。

オレ様の「現実」以外は、現実に非ず・・・。

http://d.hatena.ne.jp/dojin/20061207

百万言を費やすよりも、「リフレ史観」なるものの本質を自ら語るちんぴらイナゴさん。
三木清の「構想力の論理」でも読んでみたら・・・。

わざわざ、お越しいただいてありがとうございます。松尾匡さんが私のリクエストを聞いてくださって、濱口さんの参考になる情報を書き込んでいます。そちらのほうも見ていただければと思います。また、はげましていただいてありがとうございます。あのような状況での濱口さんからのコメントもうれしかったです。

私のほうのコメント欄に以前、濱口さんが人的資本投資と市場の効率性に関連した議論を本田さんとされていたとの情報がありました。上記のトラックバックしてあるエントリでシュンペーター、マルクス的な技術革新では市場の効率性とイノベーションのインセンティブはトレードオフの関係にあることを論じました。(多分、車輪の発明です)コメント欄でそれは労働市場における人的資本投資でも同じではないかという旨のコメントがありました。上記のコメントはこのコメントに続くものです。

私の関心は現実の労働市場というか、企業において、その問題がどのように認識されているかです。理論的には市場の効率性と人的資本投資のインセンティブのバランスする最適な市場の効率性の度合があるわけですが、それがもし、ほとんどの現にある市場の効率性の度合より高いとすれば、私の議論は単に理論的可能性をしめしただけで、現実には意味がなくなります。しかし、もし最適な市場の効率性の度合がなんらかの政策によって現実市場で実現されうる範囲にあれば、人的資本投資をすすめるために労働移動を制限したり、逆に市場の効率性をあげるために労働市場を流動化したりする政策を選択する必要性が生まれると思います。(実際の政策にうといので、具体的イメージに欠けるのをお許しください。)そのあたりについて、参考になる情報をお持ちでしたら、教えていただければ幸いです。

これは書くべきかどうか悩むのですが、本田さんの件はなにかとゴシップ扱いされていて、名前が出ることは濱口さんももしかしたらあまりいい気分でないのかもしれません。もし、そうであったら申し訳ありません。もとのコメントの意図はどうかわかりませんが、私はそのあたりについては部外者ですし、こういう人間ですので信用してはもらえないでしょうが、この件で濱口さんが気を悪くなるようなことは極力さけたいと思います。

労務屋さん:
http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20080402
>それはそれとして、どうでもいいことではありますが、いつも思うので久しぶりに書きますが、「構造改革」ってのはもともと江田三郎とかが主張していた社会党右派の理念で、「構造改革派」ってのもその理念を共有する日本共産党の一派ではなかったでしょうか?こういうところで「構造改革派」とか出てくると、なーんか違和感あるんですが、まあ気にするほうがバカなんでしょうが…。

いえ、労務屋さんのような企業実務家の立場からすれば「どうでもいいこと」ではありますが、一人前に学者を名乗っている人間にとっては、気にするのが当然で、気にしないようなのはただの莫迦です。ましてや、経済思想史が専門とか称する御仁であればね。

最近、BUNTENさんがはてぶで繰り返し「hamachanは反リフレ」と書かれ、私がそうではなくて反「(特殊)リフレ派」だと述べているのは、最近来られた方にとってはいささか意味不明でしょうが、上にあるようないきさつが之有るわけでして。

ちょうど2年前の今頃、こんな「論戦(もどき)」があったのだなあ、と懐かしさがこみ上げてくる今日この頃です。

>国家や組織が諸悪の根源で、市場が処方箋であるというのは前提で、それにリフレ粉を振りかけた方がいいか、振りかけずに頑張るかというだけの違い

がこの世の最大の対立点であるかのごとく大騒ぎをしていた人々(構造改革いのちの私のいう「特殊日本的リフレ派」)からすると、最近の政界における政策対立の構造は誠に頭が痛いでしょうなあ、と思うだけですが。

最新エントリ「社会保障重視派こそが一番の成長重視派に決まってるだろう」とも関わりますが、要するに、フリードマンを教祖とあがめ、竹中平蔵氏を父と敬い、高橋洋一氏を兄と慕う「特殊日本的リフレ派」とは、
リフレを詐称する構造改革まんせーの「揚げ塩風味シバキ派」であったという落ちですね。
実は、本田由紀先生の「もじれ」ブログでかつて行われた伝説の「中年しゃべり場」の論点の本質もそこにあったはずなのに、(太田光の時にもそうでしたが)相手のでっち上げた土俵にすぐ乗ってしまう本田先生は、リフレ是か非かなどという虚構の対立点に迷い込んでしまったわけです。
そんなの、民主主義人民共和国を自称する国が「おまえは民主主義に反対なのか」「人民の利益を無視していいのか」と嘯くのに対してまじめに相手するようなものだったんですが。

本田由紀さんの4年ぶりの述懐:

http://twitter.com/hahaguma/status/19257770872">http://twitter.com/hahaguma/status/19257770872


>グロそうだと思ってた人がはっきりグロいことが明らかになっても、ただむなしい。意味ない。

そして、ネオリベラリズムとニューリベラリズムの区別もつかない思想オンチが、ご大層に経済思想史家を名乗るこの国の不幸・・・

別の「りふれは」をめぐって、ぐちゃぐちゃの様相

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100816/p1">
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100816/p1


要するに、松尾匡さんのように、きわめてまともな社会認識の上に立って経済政策としての「リフレーション」政策を唱える方もいれば、歴史感覚も思想の感覚も欠如したままひたすら属性批判のみを追求する田中秀臣氏のような非徒もいるということで、それを「リフレ派」と一括するのはあまりにも失礼だということの、別分野における応用編というところでしょうか。

「リフレーション政策」を唱える点以外がトンデモである人間に対して「りふれは」と称することが慣用化すれば、こういうぐちゃぐちゃも少しは整理されるのではないかと愚考いたしますが。

構造改革ってなあに?: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

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