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2006年9月

2006年9月30日 (土)

安倍政権はリベラルか?

経済財政諮問会議の民間議員が内定したようです。

http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20060930AT3S2901W29092006.html

御手洗冨士夫日本経団連会長、

丹羽宇一郎伊藤忠商事会長、

伊藤隆敏東大大学院教授、

八代尚宏国際基督教大教授!

なんと、規制緩和で宮内会長とともに頑張ってこられた八代先生が民間議員の学者です。「改革をきちんと議論できるかが安倍首相の判断基準だった。改革のメーンエンジンにふさわしい人物との観点で選んだ」そうです。

安倍政権は小泉政権のネオリベ路線は維持するというメッセージでしょうか。太田弘子新大臣が今度もご自分で民間議員のペーパーを書かれるのかも含め、興味深いところです。

2006年9月29日 (金)

柳澤厚労相記者会見

柳澤新厚生労働大臣の共同記者会見の模様がアップされています。

http://www.mhlw.go.jp/kaiken/daijin/2006/09/k0927.html

(記者)  幹事からの代表質問最後ですが、この間厚生労働省の場合は社会保障関係の大きな話題が続いていまして、今度は労働の面で労働契約法制、労働時間法制についてですね、今審議会で議論が進んでいますが労使の中にも非常に対立点も多いわけですけども、労働法制の見直しについてどのような姿勢で取り組まれるお考えでしょうか。

(大臣) 今おっしゃったようにですね、3年がかりで最初年金、次介護、それから直前の川崎大臣が医療制度で、今高齢者医療制度の話もあったわけですが、そういったことの改革に取り組んで積み重ねて参りました。今度は労働行政の出番というか、そのようなことにサイクル的になっているということを私も承知をしております。頭にあるのはニート・フリーターとかというような人たちは一体なぜ生み出されたかということについて、私も改革・行革の事務局長あるいはいろいろな形で、規制緩和の中での労働法制の規制緩和というものに参画をするというの中で-まあ労働法制というものは保守的だったんですよ、率直に言って-これを改革しようということで改革をしたのであります。だからこのニート・フリーターあるいはそういうようなことによる格差が、労働法規の緩和から生まれてきたのではないかと言われるとですね、私なんかそれを推進してきた側からするとですね、そういうことが起こったことがそこのところに要因がありとされるのかというようなことで、正直言ってたじろぐような気分がなかった訳じゃありません。ただもうちょっと考えるとですね、やっぱり労働環境つまり今の雇用を欲しがっている雇用機会の質的な転換、こういったことの方が、より今言ったようなニート・フリーターといったもの、あるいは若者の雇用機会を得るのがなかなか難しくなっているということの背景には、実はそういうことの方がより大きくあるのではないかと-私はこういう批判を浴びたことから言ってですね、いろいろ考えてみましたけれども、役所に今確かめている訳ではないんですが-私はむしろそのように思っている。したがって、就任後ここに来た時もですね、労働については、私はそういう認識を基本にした表現をさせていただいたということでございます。さらにですね、これから労働契約、これについては、より就業規則との関係などについて安定的なものにしたいというようなことで、就業規則・労働契約で個別にいろいろ修正をしていくことのルール、このようなものが司法のいろいろなご批判を浴びる場合でも、より安定的にちゃんと受け止められるようにしたいというようなことで、これからいろいろ論議をしてもらうわけですけれども、ホワイトカラー・イグゼンプションなどについてもですね、基本は私は緩和がいいと思っていますけれども、みだりな緩和が労働法規というものが保護しようとする労働者の健康とか生活の保護といったようなことに支障にならないということを確かめながらこれに取り組んでいきたい、ご意見も拝聴していきたいと思っています。

(記者)  今のホワイトカラー・イグゼンプションの話ですけれども、基本は緩和がいいというふうにお考えでいらっしゃるとを承ったのですけれども、一方で例えば少子化対策として、家庭と仕事、ワークライフバランスという観点からするとホワイトカラー・イグゼンプションというのは結局残業も多くなってさらに少子化を進めるのではないかという議論もございます。その点についてはどうお考えでしょうか。

(大臣)  だから、そういうようなこともですね、私の頭の中には入っているんですよ。さっき生活という言葉を使いました。健康のみならず生活という言葉を使わせていただいたんですけれども、そういうようなことへの影響というのもよくよく考えて、結論を出したいと思っています。

というわけで、大臣も申しておりますように、来年の通常国会は4年に1度の労働の当たり年なんですよ。これをのがすと、また年金改革、介護保険改革、医療制度改革が目白押しで、労働契約法制は水子になってしまうのです。

大臣もなかなか言葉を選びながら発言されておられますが、労働法制の規制緩和のせいでニートやフリーターが出てきたのではなくって、もっと広い労働環境の変化が原因だというのは、それ自体はその通りでしょう。ただ、もっと広く考えれば、そういう社会環境の変化自体と規制緩和という形で現れてきた改革志向の政治とは同根であって、それが行き過ぎたのではないかという反省が今生じつつあるというのがむしろ現在の姿ではないのかと思われるわけです。

ホワイトカラーエグゼンプションについても、慎重な言葉遣いながら、「基本は緩和がいい」という言いつつ、「労働者の健康とか生活の保護」が大事だと、これからどういう論点が中心になっていくかをきちんと理解されておられるようで、失礼な言い方ですが、安心しました。

なお、この次のやり取りでは、

(記者)  日本を代表する企業の中でですね偽装請負問題が報道されているのですが、それについてどうお考えでしょうか。

(大臣)  これはですね、社保庁改革つまり年金などの問題も背景にあるのではないか、私はちょっとその話を聞いた時に、ちらっとそういうことも思い浮かべました。これは社保庁改革というものの、野党・与党のご論議の中に当然私も含まれていくだろうと思うんですね。いろいろなことをこれから考えさせてもらいたいと思っていますので、あんまり立ち入って言うことはしませんが、私にもいろいろ考えていることがありますというのは既に申し上げましたので、どういうことをその時考えていたかということを言うと、私は皆さんご承知の通り財務畑の出身で若い頃税務署の署長もしたことがある。その後いろいろと税の執行面について取り組んだこともあるという中で、そういう税務の執行の経験からいろいろと感じていたこともあるんですね。もちろん年金の問題、厚生年金でいくべきか国民年金にいくべきかというようなことが、正しく適正に行われるということがもう一番大事なことなんですね。国民年金の未納率が高いということの他にも、その問題を私は非常に重要視しております。そういうことを考えるにつけ、税務の執行の経験というものに重ね合わせたときにどういう事をこれから考えるべきかというようなことについていろいろ考えを巡らせているということが、さっき言った私も感じているところがあるんですよということの意味合いです。今の問題提起に直接お答えしている訳じゃないんですが、そういう角度から今言ったようなことについて見ていると言うことでお答えにしたいと思います。

これは、なんだか煙に巻いたように見えて、実はなかなか深刻な話をさらりと喋っておられますね。

2006年9月28日 (木)

植草一秀氏の解雇

あらかじめ念のため申し上げておきますが、私は植草氏が実際のところ何をやったかというようなことは一切論じるつもりはありません。そういうコメントはご遠慮申し上げます。

名古屋商科大学大学院の植草一秀教授が解雇されたと報じられています(朝日)。

http://www.asahi.com/national/update/0927/NGY200609270008.html

この記事では「女子高生の尻を触ったとして、東京都迷惑防止条例違反容疑で13日に現行犯逮捕された」ことが解雇理由のように見えますが、まずそもそも、企業外非行を理由とする懲戒解雇がどこまで許されるのかという議論が必要でしょうし、それはクリアしても、確定判決が下ったわけでもなく、逮捕されたという段階で解雇処分に踏み切ることが妥当か大変疑問です。

一方、読売の報道では、

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060927i211.htm

「逮捕後の拘置で講義が出来なくなったため、26日の理事会で免職を決めたという」と報道されています。日経でも、

http://www.nikkei.co.jp/news/past/honbun.cfm?i=AT1G2701P%2027092006&g=K1&d=20060927

「解雇の理由を「後期の講義を始められない状態になったため」としている」と報じています。

これが本当だとすると、(植草氏の件がそうだというのではありませんよ)政府の考え方に逆らって政治活動を行った大学の先生を警察が逮捕拘置して講義ができなくなれば解雇していいということになってしまいかねませんが、そういうことでいいんでしょうかね。このあたりは、労働契約法だけの問題でなく、学問の自由とも絡む憲法上の議論が必要なところではないかと思うのですが、皆さん音なしの構えのようですね

まあ、手鏡事件に続く2回目ということもあり、せっかく拾ってやったのにという大学当局の気持ちもわからないではないですけれど。

労政審の動向

連合のHPに、再開後の労政審労働条件分科会の議事概要が掲載されています。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/roudou/seido/roudoukeiyaku/b_repo/index.html

9月19日の議論で興味深いのは、労働側が「過半数労働組合の合意があるだけで「合理性」があると本当に判断できるのか。労働組合はどのようにすれば非組合員の意見まで集約できるのか分からない」と発言しているところです。これは組合法理からすれば確かにそうとも言えますが、それでは組合員以外については一切関知しないのか、労働組合とはただの私的利益を追求する結社であって、非組合員の利益を代表するということはあり得ないのか、日本の企業別組合とはそういうものなのかという大きな問題を引き起こします。

実際、このあとの方で、「就業規則の変更の合理性を推定するために過半数労働組合を利用するのは安直すぎる。労働者代表制は労働契約法と切り離して時間をかけて議論するべきである。また集団的労使関係法との整合性も考えなければならない」と言っていますが、まさに労働組合法の原則自体から再検討しなければならない大テーマなんですね。しかし、だからといってゆっくりのんびり「時間をかけて」いたら来年の通常国会に法案を出せませんし、そうすると、でっかい「厚生」とちっぽけな「労働」が一緒になった「省」では、次に大きな労働関係法案を出せるのは何年後になるか分かりません。その間に熱気が冷めてしまえば、労働契約法が日の目を見ることはもうなくなってしまうかも知れません。それが嫌なら、あと数ヶ月でこの問題に正面から取り組んで一定の結論を出さなければならないのです。

フリーターになった竹中氏またはソーシャルな本たち

竹中前総務大臣曰く、

「改革して左遷されることはあっても、命を落とすことはない。私はフリーターになるが、民間の人間として社会をよくしたい」

http://www.nikkei.co.jp/news/past/honbun.cfm?i=AT3S2700F%2027092006&g=P3&d=20060927

ふううーーん、どこのハンバーガーショップでお会いできるか楽しみですね、それとも人里離れた部品工場かな。なにしろ、かつてご自分のブログで、「フリーターこそ終身雇用!!雇用概念の消滅!!」「フリーターは、『夢』以外に失うものを持たない。彼らが獲得するものは『成功』である。全国のフリーターよ、自由民主党のもとに結集しよう!」とまで若者をけしかけたんですからね。是非革命運動に挺身していただきたいもので。ワタリさん、お仲間が増えましたよ。

http://takenakaheizo.cocolog-nifty.com/mania/2005/10/post_c9e1.html

竹中氏もその隊列の末端に加わったらしいこの格差社会については、小泉政権の終了に合わせてか続々と本が出ていますね。大御所の橘木先生も岩波からまた『格差社会』というのを出しているし、、中堅どころの山田昌弘氏も『新平等社会-希望格差を超えて』だそうな。時代はソーシャルということか。

世の中の潮目が変わったなというのを、出版界が敏感に感じているんでしょうね。そうすると、そういう需要に合わせて機を見るに敏な受験評論家の和田秀樹氏までが『新中流の誕生-ポスト階層分化社会を探る』なんてのを出す。公立学校に任せていたのでは子どもがアホになると受験を煽っていたのが、今度はアメリカはダメだ、トヨタを見習え、フィンランドやスイスを見習えときた。しかも、最後の第6章の章題が「リベラルからソシアルへ」だもんね、いやいや。ようやく、言葉遣いがヨーロッパ化してきたぞ。

90年代以来の日本社会の動きを見てくると、結局時代時代の空気がそれに嵌る政治家を連れてきてその方向への舵を取らせているに過ぎないということがよく分かります。このブログで「安倍政権はソーシャルか」を考えたのは、安倍さん個人の政治信条とか何かよりも、彼に何ごとかを求める社会の空気がどういう方向を向いているか、そして彼や彼の側近たちが、その空気をどこまで敏感に感じて政権運営をしていくか、という問題関心からでした。

和田氏の本が面白いのは、あとがきでとってつけたように「私は愛国者だ」と言い出し、自虐史観を脱却しても、韓国がヨーロッパ型社民政権になったら格差社会の日本より強くなるぞ、日本が負けるぞ、これは国力を強くするためだぞ、と、安倍氏や彼を取り巻く人々が受け入れやすいようなイデオロギー的デコレーションをさりげなく振り付けているところです。おそらくそのセンスはいいところを衝いている。

欧州社会党の「新たなソーシャルヨーロッパ」

パリで開かれていた欧州社会党の会議「新たなソーシャルヨーロッパ」の記事が、近年の社会民主主義のものの考え方を端的によく示しているので、紹介しておきます。

http://www.pes.org/content/view/678/138

これは欧州福祉国家の再構築のための青写真をつくるための会議だと位置づけられています。

欧州福祉国家はネオリベラル政策の攻撃を受けており、もはや維持できないと言われているが、真実は、人々への投資こそが欧州の成功の鍵なのである。しかし、新たなソーシャルヨーロッパの提案に含まれる重要な考え方は:

仕事を守ることから人々を守ることへのシフト、訓練や所得保障によって古い仕事から新しい仕事へ移動することができるようにすること、人々が職場には入れるようなアクティブな労働市場政策、

福祉国家と個人の関係についての、明確な権利と義務のセットへの大転換、個人は社会保護を受益するとともに、社会に参加し、貢献する義務を負う。

女性が労働市場に参入し、家族を養育しながら仕事が続けられるよう、職場の男女平等を推進する。

欧州社会党は、アクティブな社会、インクルーシブな社会、欧州次元という3つの柱で議論を進めて、今年12月の大会でまとめるということのようです。

「緑」的なものとは一線を画し、仕事を通じた社会参加を中心に置く思想が前面に出ています。

2006年9月26日 (火)

5号館ネタ

朝日新聞

http://www.asahi.com/politics/update/0926/005.html

>このほかの閣僚人事では、・・・・・長勢甚遠官房副長官(森派)の起用も濃厚。

毎日新聞

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060926k0000m010161000c.html

>このほか、長勢甚遠官房副長官(62)=森派=の入閣が新たに有力となった。

日経新聞

http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20060926AT3S2600H26092006.html

>長勢甚遠官房副長官(森派)の入閣も取りざたされている。

もしかして厚生労働大臣だったりして・・・。

(追加)じゃなくって、法務大臣だったようですね。

ちなみに同じフロアにいる太田弘子さんが経済財政担当大臣。4年間で参事官→審議官→政策統括官→大臣という絵に描いたような出世コース。

2006年9月25日 (月)

日本経団連の政策評価

日本経団連が、自民党と民主党を対象にして政策評価2006というのをやっています。

http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2006/067.html

「個人の多様な力を活かす雇用・就労の促進」という項目を見ると、自民党は「若年者や女性の雇用・就労環境改善に向け、06 年通常国会で職業訓練制度、幼保一体化、男女雇用機会均等に関する法案を成立させた。勤務形態の柔軟化や労働生産性の向上の観点から、ホワイトカラー・エグゼンプションの検討を開始したが具体的な進展無し。」ということで合致度、取り組みはB評価、実績はC評価。

対する民主党は、「06 年通常国会において、幼保一体化実現の観点から、政府提出の関連法案に賛成した。ただし、ホワイトカラーエグゼンプションの導入には、労働者保護を過度に重視し、消極的。パート労働者については、正社員との均等待遇を求める法案を提出した」ということで、合致度C,取り組みDと大変低い評価になっています。

経営者団体なんだからそんなところだろう、と言ってしまっては、かえって失礼になるんじゃないかと思いますがね。これでは、単純に規制緩和に積極的であればまる、消極的であればぺけといってるだけのように受け取られます。これで、民主党がますます労働市場の流動化を進めなくっちゃ、とか言い出したら、嬉しいんですかね。

ホワイトカラーエグゼンプションが混迷しているのは、そもそも業績主義的な賃金制度と時間比例的な時間外手当制度との矛盾に対処するための時間外手当の適用除外として正々堂々と提示すべきであった問題を、もっともらしくするために自律的だのなんのとわけのわからない理屈をもてあそんだつけであって、こんなところで政党に鬱憤をぶつけてみても始まらないと思いますよ。

厚生労働省当局は、規制改革会議からのご命令で閣議決定されてしまっているものだから、今更労働時間制度自体の適用除外という路線を修正できないのですから、根っこの利益当事者である日本経団連自身が、積極的に「いやあ、我々が求めているのは時間外手当の適用除外なんだから、管理職の一歩手前なんていうんじゃなくて、もっと広く考えてくれよ」と訴えることをそろそろ考えてみた方がいいのではないでしょうかね。

2006年9月24日 (日)

安倍政権はソーシャルか?その2

今日のNHKの討論会は、右側にこれまで小泉・竹中政権で経済財政諮問会議の委員を務めてきた本間正明阪大教授、左側に樋口美雄先生と伊藤忠商事の丹羽会長が座るというなかなかおもしろい配置でした。

もちろん、皆さん紳士中の紳士ですから、(どこぞの野蛮なブログと違い)お互いの意見を尊重し合いながら和やかに論じていらっしゃったわけですが、それにしてもそこはかとなく小泉政権から安倍政権への政策シフトのさまを醸し出していたように感じられました。

樋口先生の、正社員は働き過ぎで疲れ非正社員は貧しくて結婚できない、ワークライフバランス基本法が必要だ云々という主張はいつものものですが、興味深かったのは丹羽会長が教育訓練の重要性(番組では研修といっていましたが)を強調していた点です。安倍さんの関心は国内政策ではもっぱら教育改革にあるようですが、現在のところその中身は昔ながらの文教族風の感じで、ブレアが「大事なのは教育!教育!教育!」といったのとはかなり意識に開きがあるようですが、その辺のギャップをどううまく埋めていくか、というあたりが、公募されているらしい官邸要員の皆さんの重要な任務ということになりましょう。

こういう時期ですから、是非本田先生にも元気を取り戻していただいて、ほんとうの再チャレンジに向けた教育訓練政策の提起に取り組んでいただきたいところです。あんまり昔ながらの文教族対日教組の不毛な対立には足を踏み入れないで。

2006年9月23日 (土)

新司法試験と労働法

新司法試験の結果がアップされています。

http://www.moj.go.jp/SHIKEN/SHINSHIHOU/h18kekka.html

世間的にはどのロースクールが買った負けたという話が関心の的なんでしょうが、それはあまりにも生臭いので、合格者の選択科目別割合を見ると、

http://www.moj.go.jp/SHIKEN/SHINSHIHOU/h18-02kekka.pdf

倒産法237人(23.5%)
租税法55人( 5.4%)
経済法109人(10.8%)
知的財産法159人(15.8%)
労働法331人(32.8%)
環境法46人( 4.6%)
国際関係法(公法系) 18人( 1.8%)
国際関係法(私法系) 54人( 5.3%)

と、労働法選択者が3分の1を占めていますね。

これからの法曹の基礎知識として労働法がどれくらいの位置を占めるか、という観点からすれば、まあまあの結果でしょうか。

2006年9月22日 (金)

事前とは何か

本日、もう一つ都内某所で某研究会。

事後から事前ねえ。

人生前半ねえ。

ふうむ。

日本の公的教育支出が他の先進国よりも、(アメリカよりもすら)低いというのは、もちろん文字通りの意味もあるだろうけど、例えば公的な再分配が低くても、事前の生産を通じた再配分がされていた、というのと似たような面はないのだろうか。

つまり、公的教育機関は社会的な役割が低い分資源配分が低かったのであって、その分企業内教育訓練という見えない形で行われていたとすると、トータルの教育訓練費用は必ずしも低くなかったのではないか。

だとすると、公共投資の削減が実質的には日本的社会保障費の削減であったように、企業内教育訓練の削減は実質的には日本の教育水準を引き下げたとも言える。

もうちょっと考えよう。

宮内議長辞任

政府の規制改革・民間開放推進会議の宮内義彦議長(オリックス会長)は21日夕、首相官邸で小泉首相に会い、議長を辞任する意向を伝え、了承された。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060921i413.htm

わたしは、「宮内氏が会長を務めるオリックスをめぐっては、証券取引法違反の罪で起訴された村上世彰被告が率いる「村上ファンド」への出資が発覚したが、宮内氏は「(辞任とは)何の関係もない」と述べた」というのは本当だと思います。

まさに「(これまで)小泉首相のバックアップでやってきた。首相が勇退されるので私も辞任したい」というのが本音でしょう。

ナショナル&ソーシャルな安倍政権のもとでは今までみたいに天馬空を逝くが如く、片っ端から木っ端役人をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、というわけにはいかなさそうだ、ということなんでしょうね。

その辺の政治的勘は的確だと思います。さて、ほかの方々は・・・。

仕事志向の福祉国家へ

講演メモです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/zenrosai.html

9月6日のものとほとんど同じですが、「政治学者の卵」さんから「労働サービスの商品化」と「労働者の商品化」がわかりにくいとのご批判を頂いたので、その辺を少し手直ししてみました。

(追記)

同じ研究会で講演されたお話しから、枝葉末節のことだけメモ。

スウェーデンで社民党が負けて穏健党が勝ったのを、莫迦なマスゴミがまたぞろグローバル化で市場原理が勝ったのなんのとアホなことを。穏健党はこれまでのネオリベ路線をすっぱりやめ、「俺たちはニューレーバーだ」と宗旨替えしたから、国民は安心して投票した。社民党の政策方向は正しいが、やり方がうまくいかないと判断されたから負けた。今まで社民党と一緒に政権与党だった環境党と左翼党はベーシックインカムを主張するので、社民党の中には穏健党と大連立を組みたいという声もあった。

スウェーデン(に限らず北欧社会)は小さなコミュニティ社会なので、仕事もせずにぶらぶらしていることが社会的に困難。その意味で日本と同じく仕事志向の社会であった。失業給付や福祉は大変ジェネラスだが、「働かざる者食うべからず」という強い勤労倫理があって、就業率は高かった。

とにかく働く方が得になるようにというふうにできていて、働いている女性の方が子供を産むときに高い給付を受けられるので、専業主婦なんかより働く女性の方が子供を産む。それも賃金が上がって育児給付が高くなってからまとめて産む。

とっさの質問に対する答え方で頭の良さの差が出た。

中味とあんまり関係なくいきなり「日本は階級社会じゃないけどヨーロッパは階級社会じゃないのか」

私「いや日本も戦前は階級社会で、戦時中に一体化が進んで、戦後労働運動が強まって、一方でパージで経営者が追い出されて組合運動やってたような課長部長クラスがいきなり経営者になって、そういう経緯がありまして・・・フランスもカードルとかありますけど、労働時間が問題になったりしているようで・・・」お前は労務管理史と労働法しか知らんのか。

M先生「階級といっても「文化としての階級」と「経済としての階級」に分けて考える必要があります。ヨーロッパでは「文化としての階級」は依然として大変強い。それが労働組合の組織率の高さにつながっています。しかし、その運動などによって社会的モビリティは高くなってきています。そのため「経済としての階級」はある意味で日本化してきています。これがまた逆に組合の組織率の低下の原因となっているのです」やっぱり政治学者の人って頭いいわ。

2006年9月21日 (木)

勤労の義務

およそ、憲法も含めて、法律について何事かを論じようとする際に、立法者意思を確認するというのは不可欠の基礎作業なんですよ。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060921/p2

現行憲法第27条第1項は、衆議院で修正されています。修正前の政府原案は「すべて国民は、勤労の権利を有する」であったのですが、それが「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」と修正されているのです。つまり、勤労の義務は当時の国民の代表である衆議院の意思によって敢えて挿入された規定なのです。

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○黒田委員 勞働關係に付きまして午前中に多少御尋ね致しましたが、尚ほ申し殘して居りました點に付て、今少しく質問を致して見たいと思ひます、第二十五條で、國民は勤勞の權利を有すと規定されて居りますが、我々總て健康な國民は勤勞の義務を有する、働かない者は食ふべからずと云ふ原則を打立つべきであると考へます、殊に敗戰後の我が國に於きましては、一人と雖も無爲徒食する者があつてはならないのでありまして、單に權利を有すると云ふばかりでなく、義務を有すると云ふことを私ははつきりと規定すべきであると考へます、政府原案に於きましては、唯勤勞の權利を有すと云ふだけになつて居りますが、積極的に義務を有することまでも規定する、政府に其のやうな御意思はございませぬでせうか

○金森國務大臣 御尋ねの點は他の機會に於て申述べたことがあると記憶して居りますが、憲法の建前は一切の所謂自由權、基本權の其の裏には、義務があると云ふことを前提と致して居りまして、權利は一つ一つにありますけれども、之に對應する義務は一括して第十一條に包括的なる内容として、之に對應する義務を規定して居るのであります、そして憲法の中に特に義務と云うて擧げて居りますのは、前の義務教育の規定の如き特殊な意義を持つて居るものに限定して居ります、大體此の憲法の案文の立て方に付きましては、色々の基本方針と云ふものが立て得ると思ひまして、其の總ての原理を採用する譯には行きませぬ、此の憲法は或る考へ方に基いて條文を整理して居るのであります、其の一つの原理を的確に適用し得るものを原則とし、理論の主張として將來強く發展し得べき可能性がありまするにしても、實行的に直ちに現實の制度となし得ざる程度のものに付きましては、比較的抽象的なる言葉を用ひて解決し、又各種の權利に付きましては、權利の方面より規定することを主として、之に伴うて義務の存在する部分は、包括的に一つの條文で解決して居ると云ふ建前になつて居りまする爲に、御尋ねになりまする點に付て、十分の御滿足を與ふるやうな御答へが出來ませぬことは、洵に遺憾でありまするけれども、建物の趣旨がさう云ふ風になつて居ることを御承知を願ひたいと思ひます

○棚橋委員 色々御説明がありましたが、依然として私の不滿は解消されないのであります、併し此の問題に付て尚ほ論議することは是で止めて置きます其の次には勤勞の義務と云ふことでありますが世の中には勤勞の能力もあり勤勞の意思もあつて、而も勤勞の機會を與へられない爲に、生活の保障を得ることが出來ない、さう云ふものが存在して居るが、又反對に完全に勤勞の能力を持つて居る、併し勤勞の意思を有しない、又は勞働せずにも生活することの出來る資力を持つて居れが爲に、敢て勤勞することをしないと云ふ人々も存在して居るのであります「ドイツ」の民法等を見ますと、總ての「ドイツ」人は其の精神的及び肉體的の力を社會公共の利益の爲に提供活用すべき義務がある、斯う云ふことを申して居りますが、私は是は今日の日本の國情にあつては殊に大切なことではないかと考へるのであります、我が國の現状から申しますと、國民の生活に必要な食糧すらも、今日ことを缺いて居るのでありまして、お互ひに其乏しきを分ち合つて、さうして生活をして行かなければならぬ状態にあるのであります、然るに自分は完全な勞働能力を有しながら其の少い食糧を分ちあつて食べる生活資料を消費して居りながら自分の勞力を國家、社會に提供して此の社會に寄與することをしないで漫然と暮して居ると云ふことは、社會正義の上から申しましても許すことが出來ない、又國民經濟の上から申しましても許すことの出來ないことであると考へるのであります、又我が國は敗戰の結果、今日非常な打撃を被つて居るのでありますが、此の状態から起ち上つて國家を再建する爲には、國民の大きな努力、獻身を要求しなければならぬのでありますけれども、其の國民は今日道義的には非常に低下して居る責任觀念は地を拂つて居る、利己的な考へが社會全般に横行して居る、此の國民の精神を振作、作興して行かなければ、我が國の再建は難かしいのであります、此の秋に方りまして國民皆勞の原則を憲法に明かに掲げまして、國民精神の緊張を圖ると云ふことは、此の點から考へましても、國民に勤勞の義務を課すると云ふことは大切なことであると考へるのであります、此の點に關する國務大臣の御考へを承りたいのであります

○金森國務大臣 御説のある所は能く了承致しました、私もものの原理に於きまして左樣な考へが十分尊重さるべきものと思つて居ります、併しながら此の憲法の建前は、第二十五條に於きまして、我が國民は勤勞の權利を有すると云ふ根本の原理をはつきり認めますと同時に、憲法の第十一條に於きまして、斯樣な權利は一面に於て濫用してはならぬと云ふことと同時に、之を利用する責任を持つて居る、即ち權利を持つと同時に、其の國民の權利を公共の福祉の爲に之を利用する責任を持つて居ると云ふ風に書いてあります、隨て權利に對する規定と、第十一條の規定と相承けまして、國民全般が公共の爲にする奉仕の責任を負ふと云ふことは明かになつて居ると信じて居ります

○芦田均君 本日いとも嚴肅なる本會議の議場に於て、憲法改正案委員會の議事の經過竝に結果を御報告し得ることは深く私の光榮とする所であります
 本委員會は六月二十九日より改正案の審議に入りまして、前後二十一囘の會合を開きました、七月二十三日質疑を終了して懇談會に入り、小委員會を開くこと十三囘、案文の條正案を得て、八月二十一日之を委員會に報告し、委員會は多數を以て之を可決致しました、其の間に於ける質疑應答の概要竝に修正案文に付て説明致します・・・・・次に憲法改正案委員會に於て原案に修正を加へた諸點に付き報告致します、・・・・・・更に個人の生活權を認めた修正案第二十五條に付ては、多少の説明を必要とするかと考へます、改正案第二十五條に於ては、總て國民は勤勞の權利を持つと規定して、勤勞意欲ある民衆には勤勞の機會を與へられることを示唆致して居ります、此の勤勞權は民衆に一定の生活水準を保障し、延いて國民の文化生活の水準を高めようとするものであり、國は此の點に付き社會保障制度、社會福祉に付て十分の努力をなすべき旨を第二十三條に規定して居ります、併しながら第二十三條の字句には、多少意を盡さない憾みがある如く考へられまするので、委員會に於ては、一層明白に個人の生活權を認める趣旨を以て、原案第二十三條に、「すべて國民は、健康で文化的な最低限度の生活を營む權利を有する。」との條項を挿入し、原案を第二項として、「國は、すべての生活部面について、社會福祉、社會保障及び公衆衞生の向上及び増進に努めなければならない。」と修正した次第であります、斯樣に生活權の保障を規定する以上、他方に勞働の義務も規定することが至當であるとの意見に從つて、原案第二十五條に修正を加へて、「すべて國民は、勤勞の權利を有し、義務を負ふ。」としたのであります(拍手)

ちなみに、黒田寿男、棚橋小虎ともに社会党の議員です。

この修正に対して、貴族院では、

○小山完吾君 私は衆議院修正案の二十七條、原案の二十五條の規定を、極めて簡單なことを伺ひたいと思ふのであります、或は私は遲參致しました爲に、牧野委員と金森國務相との間に、既に御解説になつて居るかと思ひます、私は此の二十七條、衆議院で修正の二十七條を讀みまして、勤勞の權利迄は理解出來るのであります、是はこんなことは書いてなくても宜いことと思ひますけれども、近世の是は傾向で、勞働は權利だと云ふことで、一種の人格、生活權の要求と思ひますから、是は有つても宜いと思ひますが、併し義務を負ふと云ふことは、一體どう云ふことになるのでありませうか、どう云ふ積りで、此の權利を有すると云ふ上に、義務を負ふと云ふことを附加へたのか、一體其の義務と云ふものの内容はどう云ふことになるのでありませうか、と云ふのは、是は甚だどうも法律を知らない素人の質問と御笑ひになるかも知れませぬが、義務を負ふと云ふことは、國民に取つてそれだけの詰り國家の方なり、或は社會全般の方から要請する權利があると云ふことになる譯でありますが、勤勞と云ふ文字の中には、精神勤勞もありませうし、勞働勤勞もありませう、必ずしも勤勞と云ふ文字は有形の力を以て働く所の其の勤勞のみを意味して居ないことと思ひますが、此の義務を負ふと云ふことは、餘程用心しないと云ふと、我々の基本權を國家にも害せられ、又心なき民衆にも害せられる、我々の基本權と云ふものが害を受けると云ふことが生ずるのであります、現に實例を以てしましても、先達て總論の時にもちよつと觸れて居つたのですけれども、此の個人の基本權を理解しない所の民衆と云ふものは、隨分我々の「プライベーシー」に對して無用な干渉をする、強制をすると云ふことが、文明の程度の低い社會に於て、往々有り勝ちであります、殊に戰爭中の如き、例へば町會と云ふやうなものは、我々の意見を代表して、さうして國家の爲に協力すると云ふ機關でなければならないのでありますけれども、日本の民衆の教育の程度と云ふものが低いものですから、町會と云ふものを作れば、直ぐ區役所の知識なき小役人の言ふことを其の儘押し附けると云ふことが起る、例へば義務を負ふと、勤勞の義務を負ふと云ふことは、どう云ふ事柄になつて現れて來るかと云ふことは、私共は自分の爲に勤勞を毎日して居つても、其の勤勞は、必ずしも山に行つて松の根を掘ると云ふ勤勞ではない、又開拓の爲に山に行つて木を伐ると云ふ勤勞でもありませぬ、併しながら國家の爲、又自分の爲に勤勞は一日も休むべきことでない、然るにも拘らず、今開墾が必要だと云ふことになれば、村中で、町中で行つて、さうして山の開墾をせなければならぬ、あなた出て呉れと、斯う云ふことになる、又松の根を掘つて松根油を作つて、是で戰爭するなんてのは恐るべき無智な話でありますけれども、併し其の當時の指導者の方針としては、之をやらせると云ふことで、さうすると私共に向つてちやんと自己の勤勞をして居る者に向つて、山に一緒に行つて松の根を掘れ、或は女だけの世帶に對して、女に對しても一世帶持つて居れば、それを強制すると、斯う云ふやうなことを言つて來るのですが、私は少數の專制と云ふことがあるし、多數の專制と云ふこともある、民主政治の世の中に於て、多數の理解なき專制と云ふものは、最も警戒しなくちやならぬ、さう云ふことを考へ及びますると云ふと、此の義務を負ふと云ふことは、一體其の内容は、どう云ふことを御考になつて、之に同意なさつたのですか、それを私教へて戴きたいと思ふのです

○國務大臣(金森徳次郎君) 仰せになりましたやうに、此處に勤勞の義務と云ふ言葉を書きますることは、若し之を錯覺して濫用を致しまするならば、社會に相當の影響がある虞があらうと考ふるのでありまして、そこで原案を作りまする時には、左樣なことをも顧念を致しまして、其の規定を設けないで置きました、さうして憲法の草案の修正第十二條に於きまして、既に勤勞の權利ありとすれば、之を公益の爲に使はなければならない、濫用してはならないと、斯う云ふ風に働かせようと云ふ趣旨であつた譯であります、處が衆議院に於きましては、多分は勤勞の權利を先に考ふるのは、必ずしも正しくない、勤勞の義務をも同時に考ふべきものではなからうかと云ふ御説であらうと思ひます、そこで本文の中には矢張り勤勞の義務と云ふものを書き入れるのが正當であると云ふ御考の下に修正せられたものと思つて居ります、で、政府と致しましては、初めは斯樣な規定を入れることに付きまして、若干の誤り用ひらるる虞を心配して居つたのでありまするけれども、物の道理に於きましては、之を入れますることに何の間違ひはない、斯う云ふやうな考を以ちまして、御同感を申上げた譯であります、そこで此の勤勞の義務を此處に入れると云ふことは、如何なる趣旨を持つて居るのであらうかと云ふことになりまするが、豫豫私から申上げましたやうに、此の憲法は、積極的に經濟的な「イデオロギー」の孰れを採用すると云ふ態度は執つて居りませぬ、大體民主政治と云ふものに必要なる原理を取り、又現在に於てはつきりして居る所に根據を取りまするけれども、それ以上に進みまして、甲の集團に於ては此の考が正當でありとなし、乙の集團に於ては此の考が正當でありとなし、又學説の範圍に於きましても、甲の側の學説と、乙の側の學説があつて、論議、今將に盛であると云ふやうなものに付きましては、絶對必要がない限りは、是には關與しないと云ふ態度を執つて居るのであります、斯樣に致しますると、中味が雜駁であるとか、或ははつきりした筋が通らぬと云ふ御非難は起り得るかも知れませぬけれども、國家の運命を擔つて將來の發展を豐かに、それは將來の問題として、殘して、此の際の根本方策たる此の組織法を決めまする上に於きましては、私の申しましたやうな態度が賢明であると信じたからであります、此の委員會に於きまして物足らぬとか、何とか云ふ御非難は、或程度迄私は心の中に個人的な主義からして御贊同申上げることはありまするけれども、併し全體の道筋としては、今申上げましたやうな趣旨に立つて居るのであります、そこで此の第二十七條に、此の勤勞の義務を負ふと云ふ規定を御入れになりました趣旨は、私共特殊なる經濟的の「イデオロギー」、特殊なる學問上の「イデオロギー」と云ふものに關係なく、此處に入れられました文字其のものとして受け容れて、御贊同を申上げた譯です、何故に之を、文字其のものとして受け容れるかと申しますると、是は常識的でありまするが、我々個人の尊重と云ふことを旗印にして、此の憲法の原則を樹てて居りまするけれども、自由、平等、是だけでは我々の社會的生活を完うすることが出來ませぬので、少くとも、更にそれを一歩はみ出した所の協同生活相互に亙る所の考へ方がなければならぬのであります、唯此の憲法は、露骨にはそれを言つて居りませぬが、其の精神はそれを取込んで居ります、さうすれば協同生活をお互にして居りますれば、お互に働く權利があると同時に、又お互に働く義務を持つのではなからうか、其の義務は何であるかかにであるかと云ふことではなくて、兎に角協同生活と云ふ今日の常識に於て、お互に何か物を、詰り勤勞を、自由にしないで、權利義務の形に於て、受け容れるだけの心持になつて居るのであらう、然らば此處に義務と云ふ言葉を入れることには、何等の過ちはないと考へたのであります、從つて此處に義務と書きましたのは、是は午前中にも申上げましたが、具體的に一定時間の勤勞を仲間の間に、部落の間にするとか、國家に對して何か一年に何日の勤務の義務を捧げるとか何とか、さう云ふ具體的な内容を一つも考へて居りませぬ、大體さう云ふことは、斯う云ふ義務がありと考へることが人間の本義である、そこで國家は之に對して、此の憲法に於て明かな規定を設けると云ふ非常に廣い意味であります、そこで今度は此の義務を現實の世界に具體的に致しまするには、積極的に法律を設けなければならぬと思ひます、現在でも賦役などと云ふ場合に、其の賦役と云ふことは、勤勞の義務を含んで居ります、既に法律世界には左樣なものが誌められて居ります、今後の場合に於きましても、斯樣な一般的原則を基礎と致しまして、之に正當な判斷を加へて、一つ一つの法律が出來て、それで現實の義務は出來て行くものと存ずるのであります、斯樣に考へますると、是は物の考へ方に於て尠くとも現代の常識に照らして間違ひはない、而かも實行上懸念はない、斯う考へて居るのであります

○小山完吾君 大變に、金森國務相としては心を入れた御説明であつたのですが、私は根本から思想を異にして居りますから、是以上御聽きすることもないのですが、私の考を申上げれば、一體此の二十五條の「すべて國民は、勤勞の權利を有する」此の言葉はあつてもなくても宜しいことですけれども、併し社會主義者とか、さう云ふ方面の人は勤勞と云ふことを一つの生活權と認めて居るのでありますから、それは入れても惡いことはない、殊に第二項、第三項と云ふやうな問題が常に起つて來るので、先刻の御説明に依りますれば、二項三項は補強的の規定だと言はれますが、私の見る所では補強的の規定でない、之を言ひたいから、「すべての國民は、勤勞の權利を有する」、斯う書かねばならぬことになつて居るものと私は考へて居る、それでそれに義務を負ふと云ふ字を附加へたと云ふことは、政府も、初めは私と恐らくは御考が同じであつたから、其の時は加つて居なかつた、只今の御説明を伺ひますと、權利の裏には常に義務があると云ふやうな極めて通俗的な考で、少しも學問上、法律上の根據はないものと言はねばならぬやうな御説明でありまして、甚だ私は此の衆議院の修正を遺憾とすると云ふだけの意見を述べまして、私の質問は是で打切ります

○子爵大河内輝耕君 私は二十七條の勤勞の義務に付て伺ひたいのですが、是は衆議院で入つたので、政府がどう云ふ意味で是等に御贊成になりましたのですか、一體勤勞の義務などと云ふことをどう云ふ風に解して居られますか、其の具體的な範圍と云ふものはどう云ふものでせうか、是は政治的なこと、其の他のことに隨分濫用すると云ふ傾もありますし、又十八條の「何人も、いかなる奴隸的拘束も受けない。又犯罪に因る處罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」と云ふやうなことと是がどうして調和しますか、刑務所でやるのさへ就役は修養だと云ふのに、何も惡いことをしない國民が無暗に勞働をさせられても困りますし、さう云ふ點は如何なものでございませうか、出來得る限り勤勞の義務に對する具體的のことを伺ひたい

○國務大臣(金森徳次郎君) 只今御質疑を受けました勤勞の義務の所は、是も度々申上げまするやうに、斯く入れられたことに依りまして、衆議院がどう云ふ氣持を以て入れられたかと云ふことは、實は推測だけでありまして、殘る問題は、政府は斯樣な文字が入つたことに付てどう了解して居るか、從つてそれをどう感じたかと云ふ點から御答を申上げます、原案に於きまして度々申上げまするやうに、我々は個人生活と云ふものに相當重きを置いて居ると云ふこと、即ち人間自身の尊重と云ふことから、此の憲法が出發して居ることは申す迄もない譯であります、併しながらそれは決して純粹の個人主義を讃へるものではありませぬ、個人を尊重しつつ全體の福祉と云ふことを考へて行かなければならぬ、斯う云ふ範圍に於きまして、當然各人は御互に協力し合つて、此の共同生活を導いて行かなければならぬと云ふことになりますると、人間は働くべき權利を持つと同時に、又それは働くのみに止まらずして御互に働くことに依つて、共同の利益を高めて行くべきものであると云ふことは當然である、斯う云ふ風な結論に到達すると存じます、併し是は謂はば道徳上、或は社會上の問題でありまして、それを憲法に採り入れるのはどうかと云ふことになりますると、其の法的價値を考へつつ若し法的價値を附與することに意義があるならば、憲法上それを採り入れる、それがなければ、憲法上は必ずしも採り入れる必要はないと云ふことにならうと思ひます、そこで原案に於きましては、國民が其の本來存して居る勤勞の權利とも謂ふべき社會的な働きに付きまして、國家が之を國法を以て妨げる、例へばお前は働いてはいかぬ、職業選擇の自由などとも關係を致しまして、故なく其の活動を止めると云ふことは宜しくない、從つて斯樣な意味に於きまして勤勞の權利を認むることが正當である、斯う云ふ風に考へまして、第二十七條の中に「すべて國民は、勤勞の權利を有する。」と斯う書きました、義務の方面は其處迄行かなくても、大體十一條のやうに、勤勞の權利があれば、當然之を行使する義務のあることは、總括的な規定から來るからして宜からうと、斯う云ふ考で草案を固めて議會の御審議を仰いだ譯であります、處が衆議院に於ては、左樣な考へ方を恐らく認められないのであります、勤勞の權利があるから、之に伴つて義務がある、斯う云ふ考へ方でなくて、初めから人間が共同生活をする限りは權利もあり、同時に義務もある、權利の方から言ふよりも、先とか後とか言ふのではありませぬが、同時に勤勞の義務があつて、協同生活を健全に發達せしめて行かなければならぬ、斯う云ふ趣旨に於て勤勞の義務の規定を入れられたものと察して居ります、從つて法律的に申しますると、勤勞の義務を妨げると云ふやうなことは、國家の方からは想像は出來ませぬ、國民の側から申しますれば、さう云ふ大原則を茲に確立せられたと云ふことを、はつきりした姿で認める、斯う云ふ權利義務の宣言と云ふやうな意味にならうと思ひます、從つて是から直接に何の具體的な義務が出て來る譯でもないと考へて居ります、尚當時の經緯からと申しまするか、衆議院の此の論議のありました經緯から想像して見まして、勤勞の義務と申しまするのは、例へば能く戰時中にありました徴用せられまして働くとか、何か「ドイツ」にありましたが、若い者は學校を出てから或期間勤勞の義務を果すことに依つて、初めて國民的な一人前の仕事が出來ると云ふやうな思想があつたやうでありますが、此處の勤勞の義務と云ふものは、さう云ふ箇々の具體的のことを言ふのでなくて、人間と云ふものは協同生活に對して貢獻すべき勤勞の義務を持つて居るのだと云ふので、原則を表明したと、さう云ふ趣旨に了解して、それならば極めて正道な規定であるとして、御同感を申上げたのであります

○子爵大河内輝耕君 私はもうありませぬ

○子爵大河内輝耕君 私は仕方ないから始めますが、全く是は困ります、斯う云ふ手違ひは……、私のは前文、第四條、第五條、第六條、第七條を削除して、第三條を削除して別に左の一文を加ふ「天皇は國政に關する權能を有しない」、是は度々説明して居りますから理由は省略致します、それから第二十七條第一項の「義務を負ふ」を削る、是は實は金森國務大臣に此處に來て戴いて私も質問しまして、さうして其の工合に依つては撤囘しようと思ひましたが、御出でがありませぬから甚だ兩大臣御迷惑でございませうが、私の伺ひたいことは斯う云ふことなんです、第二十七條の、勤勞の義務を負ふ、と云ふことになればどんなことでもやらされはしないか、「アルバイト・ディーンスト」のやうなことでもやらされはしないか、お前ちよつと此所へ來い、此所へ來て此の土擔ぎをやれ、或はさう云ふやうな種類のことを此の結果やらせはしないかと云ふことを憂へて質問しました處、それに對する金森國務大臣の答辯は、それは決してさうでない、是は唯勤勞と云ふものは權利ばかり見てはいけない、勤勞者と云ふものは兎角、勤勞者と言つてはいけないが、世間には勤勞した以上は權利ばかりを主張すれば宜いと思つて義務と云ふものを兎角怠り勝ちであるから、自分は義務として之をやると云ふ觀念を強める爲に此の規定を置いたと云ふ御話、それなら甚だ危險な書き方であります、私としては別に何も削除する必要はない、それで伺ひたいのは此の二十七條には、法律で之を定める、と云ふことが書いてある、色々な條件は法律で定めると書いてありますから、其の法律はどう云ふ風に御規定になるか、十分私の言つたやうな意味が其の法律で現れますものなら是があつても差支ない、其の點で實は政府に伺ひたいのでありますが、御差支なければ兩大臣の中から御答を願ひたいと思ひます

○國務大臣(植原悦二郎君) 大河内子爵に御答へ致します、此の規定の趣旨は先程御述になりました大河内子爵に對する金森國務大臣の御答になつた通りだと思ひます、さうして直ぐに賃銀、就職時間等の勤勞條件に關する規準は法律で定める、勞働者に對して最低最高の賃銀を定めると云ふやうなことは軈て法律ですることが起ると思ひます、それから就職時間は八時間にするとか、十時間にするとか、其の八時間は實働時間八時間にすると云ふやうなことも軈て法律で定まることと思ひます、それから休息、一週間に一度休息するとか云ふやうなことも勤勞條件に關する勞働の基準としてのことを法律で定めると云ふことに考へて居るのであります、それから未成年の年齡も軈て定まるでせうが、何歳以上の男女兒童は勞働に從事させてはならない、或は兒童を使ふ場合に於ては其の勞働時間をどうしてはならないと云ふやうなことで、何れ斯う云ふことは法律で定まることと思ひます、左樣御承知を願ひます

○子爵大河内輝耕君 金森大臣が御出席になりましたから、今一應此の二十七條の質問を御許し願ひたい、只今植原大臣から伺ひまして、大變御丁寧な御答で大體分つて居りますが、尚金森大臣御出席のことでありますから一應伺ひます、第二十七條第一項の「義務を負ふ。」を削ると云ふ私は修正案を出し掛けて居るのです、此の二十七條の一項と云ふのは、[すべて國民は、勤勞の權利を有し、義務を負ふ。」此の「義務を負ふ。」を廢めよう、「有す」とする、なぜさうしたかと申せば、此の間も申した通り、是が「ドイツ」の「アルバイト・ディーンスト」のやうに人を何でもかんでも連れて行つてやらせると云ふやうなことがあつては困ると云ふ心配からやつたのでありますが、只今植原大臣の御説明ではさう云ふことは心配ないと云ふ御話でありますが、どうも私は心配なんです、植原大臣のやうに心配はないと思ひますけれども、萬一の場合を考へて是は削つたら宜い、幸にして此の第二項に「基準は、法律でこれを定める。」とありますから、此の法律の中へでも織込んで、こんなことは決してさせないのだと云ふやうなことでもあれば強いて私は提案することもない、さう云ふことは禁ずると云ふことを法律に書いて貰へば、法律だから輕くなるが、そんなことはお負けしても宜いと思ひます、で金森大臣の御説を一應承りたいと思ひます

○國務大臣(金森徳次郎君) 御答を申上げますが、此の憲法の規定は民法や其の他の個々の法律とは趣を異に致しまして、結局大原則を表明すると云ふことが重點でありまして、現實の場合の權利や義務其のものを規定して居る趣旨ではございませぬ、此處で「國民は勤勞の權利を有し、義務を負ふ。」とすると云ふことは衆議院で入れられました趣旨を考へて見ましても、一體人間が共同生活を致して居りますれば、お互に盡すべきことを盡し、盡さるべきことを盡さるべきであると云ふ基本の考へ方がありまして、人間共同生活に於きましての各人の勤勞に關する基本の考を此處にまあ表明したと云ふだけでありまして、之に依りまして現實の義務を負ふと、斯う云ふ趣旨ではなかつたと衆議院の解釋を考へて居ります、と申しまするのは、當時衆議院で此の言葉を入れられまする時に、或人人は或年齡に達すれば勤勞をするとかと云ふやうな具體的なことを豫想せられて居つたが如き語氣があつたのでありますけれども、大局に於きましてさう云ふ細かいことを毛頭考へて居るのぢやないと云ふ風に道義的方針と云ふものを明かにすると斯う云ふことに落著いたやうに存じて居りまするから、今仰せになりましたやうな點は何等御懸念になる必要はない、之に基きまして各種の具體な法律があの勤勞の義務を強制するならば、現實の問題はそこから發生すると考へて居る次第であります

○子爵大河内輝耕君 植原大臣から政治的の御答があり、金森大臣からは今迄の經過を其體的に御述べ下すつて能く分りましたので、兩大臣の言明に信頼致しまして二十七條第一項の修正案を撤囘政します

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こういう経緯があるわけです。つまり、原案にはなかった現行第25条、生活保護の根拠規定を挿入する以上、労働の義務も規定すべきという考え方に基づいて修正されたものなのです。

自由法曹団の契約・時間法制への意見書

自由法曹団が、労政審中断前に厚労省事務局が提示した「案」に対する批判を(今頃とはいいませんが)昨日公表しています。

http://www.jlaf.jp/html/menu1/2006/20060920171422.html

自由法曹団とは、「1921年(大正10年)神戸における労働争議弾圧に対する調査団が契機となって結成された弁護士の団体」で、「大衆運動と結びつき、労働者・農民・勤労市民の権利伸張を旗印とする」(広辞苑)団体だということです。

http://www.jlaf.jp/intro/intro.html

まあ、労働者側の立場に立って批判しているのは確かです。主として顧客になっている少数派組合や合同労組の立場からか、過半数組合が合意した場合に就業規則変更による労働条件切り下げを認めることを強く批判していますが、集団的決定を認めず、個別労働者との労使対等決定原則を強調するということは、逆にいうと言うこと聞かないなら変更解約告知という話になってしまいそうな気がするのですが、そういうバランス感覚はあまりないようです。

問題の「自律的」制度については、「高付加価値の仕事を通じたより一層の自己実現や能力発揮を望み,緩やかな管理の下で自律的な働き方をすることがふさわしい仕事」云々というけれど、「過労死やメンタルヘルスの悪化などの健康破壊などが深刻化しているのが実情」で、「労働者の意識の問題であるかのように描こうとしているのは,実態を覆い隠した欺瞞」だと、ここはなかなかまともな分析をしていますが、「違法な「サービス残業」,「管理職への残業代不払」を合法化し,割増賃金の支払義務と刑事罰を免除し,さらには,長時間労働によって「過労死」しても,法的根拠と立証の両面で責任追及を困難にする労働時間法制づくり」というのはいささかではないでしょうか。労働時間と賃金をどこまでリンクすべきなのか、逆にいえばどこからはリンクしなくてもいいと考えるのか、という問題は、使用者の貪欲さというだけの話ではなく、労働者内部の公平感、公正感の問題でもあると思うのですがね。

ちなみに、自由法曹団さんも、「アメリカ政府も,アメリカ財界の意を受けて,2006年6月29日,「規制改革及び競争政策イニシアチブ協議」報告書において,日本政府に対し,ホワイトカラー・エグゼンプションの導入を要求した」云々と、見事に引っかかっています。最近、サラ金の上限金利でも似たような話があったようですが、アメリカ経由で横からの圧力に「変圧」するというやり口は、やっぱり有効なんですね。

ETUCの公益サービス指令案

昨日、欧州労連(ETUC)が、いくら待っても欧州委員会が出してくれないから、といって、自分で公益サービス指令案を作って提示しました。

http://www.etuc.org/a/2829

指令案の本文はこちらです(昨日の段階では仏語版しか乗っていませんでしたが、本日英語版がアップされているので、リンクを差し替えておきました)。

http://www.etuc.org/IMG/pdf/04-EN-SGI-ETUC_framework_directive__annex_8aEC_-2.pdf

これは、ここでも何回か触れたサービス指令案と対をなすソーシャルな政策目標を掲げる立法構想ですね。サービス指令案では原則に対する例外として規定されざるを得ない公益性の問題を、正面から規定する試みです。

第7条の原則というところで、サービス提供者と責任機関が考慮すべきリストは、

- accessability ;
- availability ;
- continuity;
- solidarity;
- affordability;
- universality ;
- sustainability;
- transparency;
- accountability;
- democratic control,
- non-discrimination and equality of treatment.

と11項目に及びます。

EU、各国、地方自治体は公益サービスに規制機関を設け、利用者、労組、消費者団体、環境団体などのステークホールダーが予め協議を受けるようにせよとか、グッド・ガバナンスとソーシャル・ダイアローグとか、CSRと被用者参加とか、いろいろと書いています。公益サービスへの補償は、条約の競争ルールに反するものじゃないとという規定もあります。

欧州委員会は指令案の提案を拒否したようで、だからこの提案を出すんだとあります。

改正案審議中の苦情処理

標題では何のことかよく分からないかも知れませんが、これは大変興味深い話題です。欧州オンブズマンというEUの機関が、EU市民からの苦情をきちんと取り扱えと勧告したという話なんですが、そのテーマがなんと医師の待機時間の問題、そう、欧州司法裁判所が夜間の待機時間も労働時間だという凄い判決を下して大騒ぎになり、欧州委員会がそれは(実際に活動した時間でない限り)労働時間じゃないよという改正案を提出して、しかしイギリスのオプトアウトの関係で指令改正案が糞詰まり状態を続けているというあの問題なんですね。

http://www.ombudsman.europa.eu/recommen/en/053453.htm

昨日(9月20日)、欧州オンブズマンが、欧州委員会はこの苦情をできる限り速やかにかつ精力的に取り扱うべしという勧告を採択しました。

この苦情は、ドイツのお医者さんから出されたものですが、要するに、欧州司法裁判所の累次の判決によって、医師の夜間の待機時間は労働時間だということが現行法上確定しているのに、わが国の法律はまだそうなっていない、けしからんじゃないか、なんとかしろ、というものです。

もちろん筋からいえばそういうことになるんですが、その通りやっちゃうとEU各国の医療機関はやっていけないわけで、そういう状況が分かっている欧州委員会は、2004年に提出した労働時間指令の改正案の中に、待機時間のうち不活動時間は労働時間じゃないという規定を盛り込ませたのですね。この点については、実は加盟各国はみんな賛成で、反対している国はない。

ところが、この改正案の最重要論点は、ご承知の通りイギリスに認められている個別オプトアウトをどうするかという点で、雇用契約を結ぶときに、週48時間以上働くよな、働かないなんて莫迦なことまさか言わないよな、だって仕事に就きたいんだものな、そうだよな、といってみんな適用除外にしてしまうというのはひどいじゃないか、いやいやこれが柔軟性だということで、この問題が解決しないんですね。

で、そのあおりを食らって、みんな賛成している待機時間のところの改正も進まない。2年間、閣僚理事会の議論は行われるんだけれども合意に達しない。で、依然として確かに仰るとおり、現行の指令に反してますねえ、といわざるを得ない状態が続いているわけです。

欧州委員会は、2001年11月に受けたドイツのお医者さんからの苦情を、今までちゃんと処理してこなかった、とこのお医者さんは欧州オンブズマンの方に訴えたわけです。欧州委員会側の言い訳:ただいま当該指令の改正案が閣僚理事会で審議中でございますので、その審議の方向も踏まえつつ慎重に検討して参りたい、なんてそんな日本の木っ端役人みたいな口調ではないけれど、要はそういうことを言ってたみたいです。

それは違うやろ、と。何かね、欧州委員会は、ある立法が将来改正されるかも知れない問題についてはその適用を確保しなくてもいいと、条約が認めているとでも仰るのかね、とまことにごもっともなご意見をオンブズマン氏は言われるわけです。それはもう仰るとおり、立法府が改正しないからずるずると先延ばしにしていいなどという論理を認めるわけにはいかないのは法治国家として当然。しかし、中味の話でいえば、みんな改正に賛成していて、そうじゃない方向はあり得ないんですね。

じゃあ、解決のむずかしいオプトアウトは先に延ばして、とりあえず合意できる待機時間の改正だけやろうぜということにならないのか、というと、ならないんですね、これが。なぜかというと、それが人質になっているから。この人質を早く解放してあげたいと思って相手が妥協することを狙っているから、自分から妥協できない。まさにチキンゲーム状況なわけでありますな。

安倍政権はソーシャルか?

というわけで、昨日安倍晋三氏が自由民主党総裁に選出されました。ちょっと前にここで話題になりかけた標題の件について、少し考えたいと思います。

といっても、これは必ずしも「安倍晋三氏はソーシャルか?」という問いと同じではありません。まあ、父方の七光りと母方の七光りを掛け合わせてしちしち四十九光りの安倍さんが本質的な意味でソーシャルだということはあんまり考えられないし、「美しい国」を読んでもそもそもそういう方面にあまり関心はなさそうです。

しかし、小泉・竹中路線にブレーキをかける、ないし方向転換をすること自体が、いわばエンジンブレーキ的な意味で「ソーシャル」な意味を持つことはあり得ますし、その可能性は高いのではないかと個人的には思っています。

マスコミはもっぱら安倍さんのナショナリズム志向なところに注目していますが、半世紀前の経験からしても、ナショナルとソーシャルが一定の連携関係を持つこともあり得ますので、その可能性も考えておく必要があるでしょう。純情きらり史観じゃないんだから、平和でありさえすればいいというものではないのでね。五十嵐仁さんという政治学者がご自分のHPで「「破壊の政治」から「繕いの政治」へ」と表現されていますが(彼の意見自体は典型的左翼言説ですが)、この「繕いの政治」という言い方は当たっている面があるように思います。

まず、注目したいのは、規制改革サイドの人事がどうなるかです。もともと規制緩和というのは、中曽根行政改革路線の一環として、官公労叩きを主たる目的として政治的アジェンダに載ってきたもので、民間労使連合の支持の下に行われてきました。ある時期までは、連合の代表が規制緩和委員会の正規委員として参加していたのですね。ところが、90年代末、特に小泉政権になってから、規制緩和の論理が自己展開的に突っ走りはじめ、労働界の代表は追い出され、代わってノンバンク代表の会長の下、口入れ屋の女主人たちが委員に、と、それまでの財界の主流とは必ずしも同じ考え方ではない意見が力を振るうようになりました。それでもまともな考え方をする労働経済学者が一人参加していたんですが、労災保険を民営化するとかいう馬鹿げた考えを批判したために追い出されてしまったわけです。

こういう路線が力を振るい得たのは、やはり小泉・竹中のネオリベ路線の庇護があったからでしょうが、恐らく安倍さんは(自分自身が社会経済政策への特定の意見を必ずしももっておられないことから)財界主流派の見解に近いところにシフトするのではないかと思われます。つまり、長期雇用なんかなくなっていい、労使協調なんて要らない、口入れ屋が全部手配するから問題ないよ、という発想から、いやいややっぱりコアの人材はしっかり会社で賄わなくちゃ、という方向にシフトする可能性が高いと見るわけです。もともと経団連はそういう発想が強いですし、御手洗会長の考え方もそちらに近いですから、規制改革サイドに陣取る過激派の勢いは弱まらざるを得ないのではなかろうか、そして、今年度末には現在の規制改革・民間開放推進会議の期限が切れ、新たな機関を設置することになりますが、その際の人事には一定の影響が出るのではなかろうか、特に、ここ数年来の過激な言動で大向こう受けを狙っていた一部のキセカン学者はどういう運命をたどるであろうか、という風に考えるわけです。

これを「ソーシャル」と呼ぶかどうかは好みの問題で、リベサヨ諸子にとってはむしろ悪夢の再来かもしれませんが、多くの普通の労働者にとっては、一息つける方向であるように思います。

もう一つ、これは正直言って私ごときが判断できる話しではないのですが、経済財政諮問会議の人事です。特に学者人事。ここがどういう風になるかが、政府全体の風向きをある程度方向付けますので、注目したいと思います。個人的には、小野善康先生あたりが入って、「失業給付払ってる暇があれば、公共事業で人を雇え」と一喝してくれるといいなとは思いますが、まあその辺はなかなか難しいんでしょうね。

もっと手の届かない話になると、官房長官は誰かとか、政調会長は誰かとかいろいろありますが、そういうハイレベルなお話しは各紙の論説委員の皆さんがたっぷりと書いていただけるでしょうから、私もそっちを読みます。

ハイレベルではあるけれど、直接関わるのは厚生労働大臣人事ですが、これも見守らせていただくということで。

2006年9月20日 (水)

イギリスの労使協議制

昨日はもう一件、都内某所で某研究会。

イギリスが一昨年、EUの一般労使協議指令に基づいて被用者情報協議規則を制定したあとの動向について話を聞く。

結論。大したことになっていない。大山鳴動してネズミ一匹。

この指令は、ほとんどもっぱらイギリスに労使協議制度を導入することを目的として、いわば狙い撃ち的に作られた指令なんだが、ボランタリズムの伝統は強かった、ということか。

請負労務の実態と方向

昨日も都内某所で某研究会。

やっぱり、ものづくりの技術、技能が、今のような請負を拡大するままで維持できるのかというのがポイント。それを労働者の側からみれば、若者のキャリア形成という話になる。

ここ10年間は、コストダウン、固定費の圧縮が最大の課題で、それが正社員の雇用の維持につながるという面からは、ある程度請負労務を活用することを容認してきたことは、それなりに合理的な面もあったわけだが、やはり問題はそれが本来正社員が行うべき基幹的工程に及んできたことなのだろう。どこまでが技能技術をしっかり継承しなければならない部分で、どこからがフロー労働力に委ねても全然問題のない部分なのかが、正直言って感覚的によく分からないところがある。業種によってかなり差があるようにも感じるし、それほどでもないという説もあるし。

コンプライアンスはそれ自体としてはもちろん重要であるが、もともとつぎはぎで矛盾のある派遣・請負法制の中で、法律遵守を掲げるだけでいいわけでもないし、その辺を誰がどう提起していくか、ってのも大きな問題。実際、派遣業は厚生労働省の所管だけど、請負業は多分経済産業省の所管なんだろう。それに文句を言えるのは「偽装請負」だからではあるんだが、ちゃんとした請負にしろというと、向こうの役所の所管に追いやってしまうことになるのがつらいところなんだなあ。派遣・請負まとめて一本の規制にしてしまうということができれば一番いいんだろうけど、霞ヶ関村に暗雲が・・・。

ま、ここはやっぱり現実を見に行くのが一番、ということで。

2006年9月19日 (火)

教育委員会の障害者雇用率

読売新聞に、「障害者雇用を教委に指導、数値目標設置して…厚労省」という記事が出ています。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060919i201.htm

するっと読み流した方が多いと思いますが、「あれっ、何で教育委員会だけ特別にやるの?」と疑問を感じた方、いい線してます。

教育委員会だって都道府県や市町村の機関の一部です。別法人ではありません。そうすると、全部込み込みで雇用率を判断すればいいんじゃないの?民間企業だって、障害者を使いやすい部署もあれば使いにくい部署もある、ノーマライゼーションとはいうものの、義務を果たすんだったらやりやすいところからやればいいじゃん、とまあ、普通は考えますよね。

ところが、そうはいかないんですね。なぜかというと、同じ地方公共団体でありながら、教育委員会以外の雇用率は2.1%、教育委員会だけは2.0%。差があるんです。これは1997年改正で、公共部門を2.0%から2.1%に引き上げたときに、多分文部省が強硬にごねて、教育委員会だけ据え置きになったという経緯があるんですね。いやまあ、文部省としては、自分の可愛い子分のところが、労働省ごときにぐちゃぐちゃ文句をつけられるのをできるだけ低い水準にしておこうと、まあそういう風に考えたんだと思うんですよ。記事にもあるように、教員免許を持つ障害者が少ないので、どうしても雇用率の達成なんかは難しいじゃないか、とね。

ところが、他の部署と同じ雇用率であれば、当該地方公共団体全体で雇用率を判断しますから、教育委員会だけで見ればどんなに低い水準であろうが表に出ないし、あれこれ批判を受けることもないのに、なまじ0.1%だけ低い特別の雇用率にしてしまったために、目立っちゃうことになってしまったわけです。教育委員会以外の部署は全部込み込みでクリアしてまーす、といって涼しい顔をしていられるのに、教育委員会だけはそれができなくなってしまった。文部省の深情けが仇になってしまったわけですね。

この事例からどういう教訓をくみ出すかは、読まれる方々にお任せいたします。

2006年9月18日 (月)

事実上の広域移動政策

平家さんの「労働・社会問題」の「若者の就職 平成19年3月卒 その1」に書き込まれたnamiさんのコメントに、更コメントをつける形でこういうことを書きました。

http://takamasa.at.webry.info/200609/article_15.html

namiさん曰く、

このデータは、私も見ていたのですが、求人倍率1.14倍というのは、数の上ではいちおう足りているのです。しかし、都道府県別に細かく見ていくと、愛知や東京圏内等、改善度の良い地域はますます良く、北海道や東北等、悪い地域は相変わらず悪いままなのです。国民の間に格差が拡大しているという意識の根底にはこういう事情があると思います。つまり、景気回復の恩恵が偏っているということです。
で、そういう地域に公共事業をさせるというのは、とても国民のコンセンサスは得られないから、国と地方自治体が協力して、企業誘致するとか、起業させるとか政策として何かやっていかないと市場にまかせておいたのでは改善はしないと思います
。」

私曰く、

企業誘致も、今まで数十年やってきて、やってきた企業がどんどんいなくなるという事態になっていったわけです。そもそも、地域間格差は公共事業だけじゃなく、企業誘致格差であり、起業格差でもあるわけで。
どこまで本気で「国土の均衡ある発展」という戦略を確立できるかですが、今のままでは、高度成長期前期のような、人が余っている地方から人の足りない都会への広域移動政策をやれということになるのではないかと思っています。
というか、現実には、期間工の募集とか、請負労務という形で、「民間活力」でもって労働力の広域移動が進んでいるわけですから、それを「いい仕事」に結びつけていくという当面の政策課題があります。それは既にして広域移動政策の一環なんですね。」

実は、国土政策は私にとっては専門外ではありますが、今年の労働経済白書を書いた石水善夫氏が、この問題に取り組んだ好著「市場中心主義への挑戦」(新評論)を書いていまして、私もどうアプローチするべきかを考えているところです。

2006年9月17日 (日)

構造改革ってなあに?

「現存した社会主義」のコメントが長くなってきたこともあり、読者の皆さんの頭の整理もかねて、そもそも「構造改革」って何?という話をしておきます。といっても全然難しくない。大学で社会科学系の知識をかじったことがあればわかる程度の話です。私自身、学部卒という低学歴者ですけど、これくらいの議論はできるということで。

もちろん、中には、大学時代、一切社会科学系の勉強をしたことがなくって新聞社に入り、小泉政権で「構造改革」って言葉を初めて聞いて、構造改革とはそもそも「資源配分の効率化を通じて、経済の潜在GDPや潜在成長率の上昇に寄与することを目指す政策」であり、具体的には「特殊法人・公益法人改革、都市再生計画、公的金融機関の統廃合、財政支出の中身の見直し」が含まれるもの(『経済政策を歴史に学ぶ』第4章冒頭)だ、と思いこんでしまう迂闊な人もいるかも知れませんが、もちろんそんな定義はここ数年の改革狂躁下で作られ蔓延ったものであって、まともな先輩であれば、「構造改革ってのは、マルクス主義の一派で、革命ではなく、漸進的に社会主義化を進めるという考え方を指す言葉だったんだよ」と教えてくれるでしょう。

もちろん、社会科学系にもいろいろありますし、もっぱら現代経済社会を追っかけている研究であれば、そこまで知らなくても「罪」ではありません。しかし、およそ歴史を研究していると称するような人であれば、ここ数年間の特殊な小泉的「構造改革」論を別にすれば、構造論とか構造改革とかいった言葉が、資本主義の基本構造をどう改革するかという問題意識に裏打ちされた言葉であるということは常識に属します。それは、笠信太郎や三木清から、西部ススムや村上泰亮に至るまで、およそまともな社会科学研究者であれば当然の思考的構えです。

わかりやすくいうと、本来的「構造改革」とは、市場の失敗にどう対処するかという問題意識であり、国家や組織によって対処というのがその解答になります。これが20世紀を通じての「構造改革」の常識です。ところが、20世紀末あたりから、そうやって作られた福祉国家こそが諸悪の根源である、政府の失敗、組織の失敗こそが問題であるという考え方が有力になり、市場によって対処というのがその解答になるという全く別の、180度逆転した「構造改革」論が登場し、世に広まっていたというわけです。いや、新人記者なら別に知らなくてもいいんですよ、先輩が教えてくれますから。

そして、当たり前のことですが、こういう本来的「構造改革」にはリフレ政策との割り当て云々なぞという議論はありえません。むしろ、ケインジアン政策でインフレ基調にすることは、福祉国家の形成に向けて追い風になりますから、どっちにしようなどと悩む必要は全くない。まあ、だからこそ、ケインジアン福祉国家というわけです。ケインジアン政策と20世紀型構造改革とは相性がよかったのです。
ところが、小泉・竹中型構造改革はそうではありません。構造改革をするか、リフレをするかというのは、政策の方向として真っ向から対立するものになってしまいますから、悩むわけですね。

そこで、とにかく小泉流「構造改革」を最優先にするのか、景気が悪いからリフレを割り当てるか云々といった、まあ同じ派閥の中の仲間喧嘩みたいな対立が生じ得て、あたかもそれが天下の一大事であり、現代社会の最大の対立点であるかのごとく論ずる人間が出てくるのですが、まあそれは人それぞれにいろんな考え方があるところですから、別にそれを捉まえてけしからんとか何とかいう気はない。小泉一派にとっては、国家や組織が諸悪の根源で、市場が処方箋であるというのは前提で、それにリフレ粉を振りかけた方がいいか、振りかけずに頑張るかというだけの違いですから。

しかし、そういう近視眼的なものの見方を、もっと遙かに長期的視野から資本主義社会、近代社会の有り様を深く、本質に分け入って考察していた経済思想家、社会思想家を捕まえてきて、自分のちんけなプロクルステスの台に無理矢理縛り付けて、「おまえは構造改革主義だからいかん」「リフレって言え!」なぞと無理無体な文句をつけて、偉そうに凱歌を挙げて見せているに至っては、いささか調子に乗りすぎでないかい?といいたくなるのも当然ではないでしょうかね。

ま、それでお聞きしているんですが、田中さんのお出になられた大学院では、経済思想史というのは20世紀末から始まるんでしょうか。資本主義の矛盾などという言葉は聞いたこともないんでしょうか。低学歴者としては大変興味があります。

なんだか変な歴史家の末席の方もおいで頂いたようですが、文学史でしょうか、それとも美術史かな。いずれにしても、社会科学系の歴史家の方ではなさそうですね。

2006年9月16日 (土)

「請負労務」に関するメモ

現段階での私の考えを箇条書き的にまとめてみました。最後のところはまだまだ熟成不十分ですが、いろいろとご批判をいただければと思います。

1 法的認識

・請負は古来から存在する労務提供契約の一類型。民法上は雇用、委任と並列。雇用との違いは、指揮命令の有無については裁量労働など不明確化している面もあり、究極的には危険負担の有無。

・商法上の商行為としての請負は、「作業または労務の請負」。後者は請負人自身の労務ではなく、その支配下にある者の労務の提供であり、労務供給請負と呼ばれた。

・作業請負には、請負人個人で作業を遂行するもの(個人請負)、請負人が下請負人にさらに作業を分割して請け負わせるもの(重層請負)、請負人がその雇用する労働者を指揮命令して作業を行わせるもの(ここでいう「請負労務」)に分かれる。

・この広い請負の中から、労務供給請負を労働者供給事業として括りだし、禁止したのが職業安定法。

・いわゆる請負4要件は、労務供給請負と請負労務の区別をしようとしたものだが、それを請負と労供・派遣の区別と呼んでしまった。本来いずれも請負人が危険負担するという意味で請負であり、その区別は現実には微妙。

・この4要件のため、請負といえば労供・派遣ではないという認識が広がる。「偽装請負」という表現もその現れ。概念が混乱している。正確には、確かに請負ではあるが労務請負的性格が強いものというべき。

・戦前の労働法制は、請負(請負労務も労務供給請負も含めて)による就労者に対しても、工場法を適用し、工場主と直接雇用関係のない請負就労者に対する工場主の責任を認めていた。

・戦前の労働者災害扶助責任法は、元請負人に扶助責任を負わせた。これを労基法は受け継ぐが、建設業のみ。

・安衛法は建設業、造船業について元方責任を規定。これらは請負の現実の姿に対応した法制。2005年改正も同様。

・ 請負4要件によって作られた「請負であれば労働法と関係がない」という発想からの脱却が必要。広い請負の中のどこにどういう問題があり、どういう対応をすべきかというアプローチへの転換が必要。

2 歴史的認識

・工業化の初期は親方職工が仕事を請け負い、子分に分担させる「内部請負制」が一般的。ここでは、工場と個々の職工の間に雇用関係が存在するが、雇用管理、賃金管理は親方が担う。いわば雇用と請負の混在形態。

・20世紀初頭から生産工程の直接管理化が進み、親方に代わる職長は雇用管理、賃金管理を直接になわず、査定に関わるのみ。雇用としての純粋化。

・一方独立性の高い工程や補助的工程は親方が独立業者として請け負う形になり、請負としての純粋化。これが空間的にも独立すると立派な下請中小企業となる。

・とはいえ、実際には労務供給請負も多く、これが多くの弊害をもたらしたため戦後職安法による禁止となった。請負4要件で厳しく締め上げ、それまでの請負人夫が直用の臨時工となった。

・しかし禁止が行きすぎて事業活動が困難になったため、占領後に緩和。これで社外工が増加し始める。

・造船業、鉄鋼業などでは、社外工を供給する請負業者を協力会社として系列化。構内下請中小企業として、それなりに安定した形になる(中小企業としての格落ちの雇用の安定、能力開発等々)。

・60年代から事務職場に事務処理請負業という名目で労供が展開。80年代に労働者派遣法として法認される。

・かつてはパートタイマーを主たる非正規労働者としていた電機産業にその代替として業務請負業が本格的に参入するのは90年代。独立性の高い工程を請け負う系列業者ではなく、労務供給的性格の強い全国的独立業者。

・ 2003年改正で製造業への労働者派遣が解禁。

・作業請負としての業務独立性が高く、企業としての組織従属性が高い協力会社化の方向と、労務請負としての業務従属性が高く、企業としての組織独立性が高い派遣会社化の方向の2つの道がある。

3 雇用政策としての課題

・雇用政策としての問題点は何か?

・企業側では、技能の蓄積・伝承が困難になることが、製造業の競争力維持の観点から問題。

・労働者側では、若者のキャリア形成が困難(勤続を重ねても賃金が上昇せず、技能が評価されない)であり、将来の見通しが立たないことが問題。

・従って、解決の方向は何らかの形での「請負労務のキャリア化」に求めるべきである。

・第1の選択肢は、請負労務による就労者を就労先の正規労働者として採用し、そのキャリアパスに乗せる道。しかし、外部的柔軟性が全く失われるので、それに値する選別された優秀な一部しか可能でない。

・第2の選択肢は、請負事業者を協力会社として系列化し、企業グループ内でのキャリアパスを用意する道。会社別人事管理としての格差を維持し、一定の外部的柔軟性を維持しつつ、それなりのキャリアを提供する。今後の景気動向にもよるが、相当部分はこれで対応可能ではないか。

・第3の選択肢は、企業組織としての独立性を維持し、派遣専業会社として、その中でのキャリアパスを用意する道。この場合、派遣会社内でのキャリア形成が可能なように、常用派遣型である必要がある。また、派遣料金が技能水準に応じた形で設定されるような業界としてのルール形成が必要となろう。

・これらに乗らないカジュアル労働力需要は、できるだけ(今さらキャリア化の必要性の薄い)定年退職後の高齢者で賄うようにするか。

2006年9月15日 (金)

マックパスポート

デーリーテレグラフ紙によると、ハンバーガーのマクドナルド社が、そこで働いた労働者に「マックパスポート」という証明書を発行し、ヨーロッパ中のどのマックの店でもそれを見せれば経験者として働ける仕組みを作ると発表したそうです。

http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2006/09/13/weumac13.xml

これに対して、労働党の議員が「マックジョブを広げて若者を搾取する気か」と反発。マック社とのやり取りも面白い。

しかし、これはなかなか考えさせる話題です。確かに低賃金、低地位のマックジョブとはいえ、こういう形でヨーロッパ全域でのキャリアを積んでいける仕組みというのは、職業資格の乏しい若者にはそれなりに意味がある仕組みかも知れません。

この話、日本の非正規労働者の正規労働者化をどう進めるかという問題ともつながってくるんですね。まあ、商売としてやってることですから、あんまりうかつに感激してやらない方がいいですが、一つの参考にはなりそうな予感がします。

ベーシックインカムと失業

Kluwerから出ている「Basic Income, Unemployment and Compensatory Justice」(by L.F.M..Groot)(2004,Dordorecht)を読む。

もろ福祉原理主義的な、あるいはネオリベ的なBI論には違和感を禁じ得ないので、労働屋としては「失業」という文字の入っている本を読んでみて考えてみたいと思ったわけですが。

大変ぶっちゃけていってしまうとですね。もし完全雇用が実現するのであればベーシックインカムなんていらんのや、と。

しかし、世の中そうやない。構造的失業が牢固としてあって、なんちゅうか雇用というのは稀少財みたいな感じなんですね。そこで、たまたま雇用といういい目を見ている奴が税金ちゅうか保険料を払って、そこから排除されてる奴に補助金を出すという感じ。「補償的正義」ということなんですね。うまいこと仕事にありついている奴には雇用レントが発生しているんで、それを移転するんやという話らしい。

これだと、理屈としてはよく分かる。分かるけど納得でけへんな。カネより仕事で分配せえや、とどうしていかないんだろう。ないなら仕事作れや、それをするのが福祉国家やあらへんのか、という話になる。そんなん経済的合理性に反するやろが、有能な少数だけで仕事しとればええのや、という風に行くのか。何を前提条件として考えるかやな。

2006年9月14日 (木)

季刊労働法214号

明日発売の『季刊労働法』214号に私の「労使協議制の法政策」が掲載されています。

http://www.roudou-kk.co.jp/quarterly/archives/002321.html

工場委員会体制、産業報国会体制、経営協議会体制、労使協議会体制について法制度構想を中心に説明するとともに、労働契約法制で論議の的となっている過半数組合と労働者代表制について論じています。

なお、これは一般書店で販売されている雑誌なので、販売期間中は原稿を掲載しません。

労働に関する規制緩和の展開と将来課題

研修メモです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/korocho.html

派遣、ホワエグ、解雇と3つの論点を歴史的に解説しています。

不確実性を弁えない連中

権丈先生の「勿凝学問」シリーズ、ますます素晴らしくて、全文引用したいくらいですが、それはできないので是非リンク先を読んで下さい。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare48.pdf

今回のテーマは「なぜ医師不足問題が生じたのか?」。一言でいうと、「医療事故報道に端を発し、患者は、医師への不信感を高めて攻撃的となる。医師は、医療の正当性を保証するための仕事が増えるのみならず、患者からの攻撃が受けやすい診療科を忌諱するようになる。そこに2004 年からの臨床研修制度の導入が重なって医師不足を加速する。」という筋道ですが、これが「医療経済学のなかでも混合診療全面解禁を主張する新古典派医療経済学的な考え方をする人たちの姿勢、さらには年金論議における人口推計や経済予測・医療論議における医療費予測が外れたときに激しく予測者たちを非難するメディア・研究者たちの姿勢」と同じで、「医療行為には「不確実性」が伴うことを理解しないままに「医療事故」を報道し今日の「医療崩壊」を引き起こす原因を作ったメディアの姿勢と同じなのである。彼らは、本質的に「不確実」であり「リスク」のともなう出来事に対して、不思議と、あたかもそこには「不確実」や「リスク」など存在しないかのような論を展開する傾向がある。そして芳しくない結果が生じた場合には、医師、病院や厚労省年金局、厚労省保険局の無能や無責任ゆえにそうした結果が生じたと決め込み、彼らを一方的に責め立てる」というわけです。

その根っこは、「不確実なものを不確実なものとして受け入れない人びとの思考方法」にあるというのが権丈先生の見立て。確かに。

小沢イズムの雇用政策

民主党の代表に再選された小沢一郎氏の「私の基本政策-公正な社会、共に生きる国へ」が公開されています。

http://www.dpj.or.jp/news/files/060912rinen(2).pdf

いろいろと言いたいことはある。まず何よりも、「あんたが言うか、あんたが!」

この十年あまりの改革狂騒曲に最初に火をつけて重油をぶっかけたのはあんただろうが。「日本改造計画」のアメリカのグランドキャニオンには柵がないのに日本はどうたらこうたら、ってのがその後の何でもかんでも自己決定、自己責任論でいつも出てきた。近ごろ湧いてきた小泉チルドレンとか竹中チルドレンなんかよりずっと前から脳細胞だけ単細胞のチルドレンたちを増殖させていたのは誰だよ。

ってなことを言いつのってみてもしょうがない。この8ページほどの文章は、改革を一枚看板にしてきた政治家が、その看板を与党にとられて少しはまともになろうとしつつも(「常識の政治で普通の国へ」)、やっぱり改革のマグニチュードで勝負したいという改革真理教から解脱し得ていない姿をあらわにしていますね。

この矛盾がよく現れているのが「雇用のセーフティネット」のところ。「野放図な非正規雇用の増加が社会の二極化、不安定化を招いていることから、希望者については非正規雇用から正規雇用への転換を推進するとともに、常勤者の同一労働=同一賃金の原則を確立する。」

前半の正しい認識からどうして同一労働同一賃金になるんだよ。こう言っておいて、そのすぐあとに「終身雇用を中心とする日本的雇用制度は、わが国にふさわしい雇用のセーフティネットとして再評価し、雇用法制はあくまでも長期安定雇用を中心とする」と続く。統合失調?

さらにこれがねじれて「官・民とも管理職については徹底した自由競争の仕組みを導入する一方で、非管理職の勤労者は終身雇用を原則とする」となる。こういう対比をするということは、ここでいう自由競争というのは長期雇用ではないということらしい。また、非管理職は競争しないのだろうか。それが、どこが日本的雇用制度なんだか。

とは言い丈、こんなものの方がまだまともというのが悲しいところではあるのだが。

2006年9月12日 (火)

教育訓練

8月29日のエントリーの続きです。「日本の労務管理」講義案の6回目、第1章「雇用管理」の第4節「教育訓練」です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/Training.html

職業安定分科会

労働条件分科会ばかりに焦点を当てているように見えるかも知れませんが、いやいやほかの局でも新たな立法に向けての動きが始まっています。

8月24日に開かれた職業安定分科会に提示された資料がアップされていますが、

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/08/s0824-6.html

このうち注目すべきは「人口減少下における雇用対策の検討について(検討依頼)」です。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/08/dl/s0824-6k.pdf

ここでは基本的視点として「人口減少下において、より多くの者が社会を支えるという観点から、若者、女性、高齢者、障害者などすべての人の就業参加を実現し、その意欲と能力が最大限発揮できるようにすることが必要」と、EUの雇用戦略に極めて近い発想を打ち出しています。

そして、「特に、若者については将来のわが国の社会経済活動を担う者であることから、ニート・フリーター等若者の雇用問題の解決が喫緊の課題」「若者を中心に増えている非正規雇用についても、労働者の意欲と能力が最大限発揮されるようにする観点からの対応が必要」と、この小さなブログで私が述べてきた認識が示されています。

あと地域格差の問題と、政治的にセンシティブな外国人労働者問題を指摘した上で、具体的な検討課題として、雇用対策法や地域雇用開発促進法の改正を視野に入れて、

(1)若者の応募機会の拡大に向けた取り組みの推進等

(2) 地域の雇用創造の促進及び国と地方公共団体の連携強化、

(3) 外国人労働者の適正な雇用管理の推進

(4) その他(女性の再就職促進、非正規労働者の正社員化 等)

を挙げています。

(1)や(4)は「再チャレンジ」案件ですね。

労働条件分科会の動向

昨日、労働政策審議会労働条件分科会の再開2回目の会合が開かれました。

http://www.asahi.com/life/update/0911/011.html

朝日は「素案を修正する案を労働政策審議会の専門分科会に示した」と書いていますが、厳密に言うと、いちいち「検討を深めてはどうか」という「今後の検討について(案)」というものであって、素案の修正案ではないんでしょう。そうでないと労使が収まらない。

今回も弁護士の水口洋介さんのブログに、その案がアップされているので、リンクを張っておきます。

http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/files/rouseishin06911.pdf

総じて遠慮気味になったというか、中断前の素案や案の細かいところがかなり落ちていて、ほわほわした感じのものになっています。

注目のホワエグですが、標題から「自律的」という言葉が落ちていますね。こういう言い方です。「就業形態の多様化に対応し、仕事と生活のバランスを確保しつつ、新しい働き方ができるようにするための方策」。ちょっとずれてるような気がしないでもないですが、まあこれからのお手並み拝見というところですね。

労使委員会は全く消えています。その代わりに、一番後ろのところに、「労働基準法第26条等の「過半数代表者」について、選出要件を民主的な手続にすることを明確にすることについて検討を深めてはどうか」という記述があって、基準法上に労働者代表制を規定するという方向で考えているみたいですね。これをきちんと固めておかないと、不利益変更も金銭解決も議論に入れないということでしょう。

ちなみに、興味深い点として、「安心して働くことができるよう配慮」の具体的な中身として、「安全配慮のほか、いじめ、嫌がらせ、パワー・ハラスメント等」が示されています。私がEUの動向に引きつけて論じてきたことがようやくアジェンダに上ってきたようです。

ニートって言え!

東大社研のディスカッションペーパーとして、玄田有史先生の「若年無業の再検討」という論文がアップされています。

http://jww.iss.u-tokyo.ac.jp/publishments/dp/dpj/pdf/j-153.pdf

就業構造基本調査の個票データを用いて、若年無業の決定要因をさぐったものです。

結論を要約すると、「年長、女性、低学歴、長期失業といった、就業に伴う期待収益率が低いグループほど、就業を断念する傾向は強いことが確認された。さらに単身世帯と母子世帯を除く無業者に限定すると、高所得世帯に属する若年無業ほど非希望型になりやすいことも発見された。ただし、非求職型ならびに非希望型に占める低所得世帯の割合は増加えつつあり、高所得世帯ほど非希望型になりやすいという所得効果が弱まる傾向も観察された」ということになります。

経済理論から予測される結論と合致したということなのですが、「低所得世帯にあって経済的に余裕がないにもかかわらず就業を希望しない無業者が増えつつある理由は未だ明らかにされていない」というのが残された課題だとされています。

玄田先生の推理は、病気や怪我の影響がかなりあるのではないかということですが、就職活動に対する挫折とか自らの就業能力に対する自信喪失というのも、メンタルな問題としてこれに類する面があるのかも知れませんね。

いずれにせよ、若者批判だからけしからんだとか、憎悪のネガティブキャンペーンだとか(どっちの話だ)といった非本質的な批判ではなく、なにゆえに就業希望が高いはずの低所得層においても非希望型の若年無業者が増加してきているのかという問題に、きちんと取り組んでいく必要があるように思われます。

JAMの請負労務対策

金属機械産業の労組であるJAMの大会で、会長が請負労務対策について語っています。

http://www.jam-union.or.jp/katudo/taikai/8-taikai/kaichyou-aisatu.html

組織拡大についてもう一つの視点は、派遣・請負労働者の組織化問題です。ここ数年議論してきましたが、派遣・請負労働者の組織化は、簡単にできるものではないことが、はっきりとしてきました。
 一般的に、従来からものづくり産業においては、非正規労働者は、繁忙期と閑散期の生産調整要員として、一方では軽易な作業を行う要員として、非正規労働者の中でもパートを中心に20%~25%程度の要員が確保されていました。従って、非正規労働者の組織化という概念が薄く殆どの組合で非正規社員の組織化がされていませんでした。

今年度の活動の中で、産業政策の一環として派遣・請負労働者のものづくり職場に与える影響について調査してきました。8月に中間報告書が出ましたが、この調査結果から判断すると、ものづくり職場(生産部門)では従来のパートに代わって請負労働者が圧倒的に多く使われていることが判明しました。大手・中堅企業を中心として40%(組合員比率)以上の派遣・請負労働者が職場に配置され、その数は拡大の方向にあることもわかりました。生産現場の組合員数との比率では、過半数を超えていると推測されます。実際に組合員比率で、過半数を超える派遣・請負労働者を抱える企業も数多く、労働者を代表する組合とは言い難い単組も存在することも判明しました。特に、ものづくりの現場では、派遣・請負労働者の内、請負労働者が圧倒的に多く、法的に見ればグレーゾーンの請負労働者を使っているところも多く存在することがわかりました。技能・技術の継承という点から見れば、技能・技術の継承が必要な職場に請負労働者が多く存在することも明らかになっております。

一方において、ものづくりに理解のある経営者の中には、技能・技術を継承するために、派遣・請負労働者の数を制限している企業も多々あります。ただ残念なことに、労働組合側に派遣・請負に対して関心の薄い単組も多く見受けられます。また、本部への問い合わせでは、どのようにすれば法を逃れることができるかいうものもあると聞いております。

最近、派遣・請負労働者の実態について違法性があるという指摘をしたマスコミ報道がありました。加えて、厚生労働省でも社員化に向けて厳しいチェックが強化され始めました。

このような状況を踏まえて、労働組合として、今一度、改正労働者派遣法の主旨に沿って、経営側との協議を行っていくべきだと思います。特に、技能・技術の継承を重視してきたJAMとしては、技能・技術の継承が必要な職場には、確実に正社員を配置させる等の協議を重視したいと思います。

また、外部から指摘を受けるということではなく労働組合自らが、企業のコンプライアンスやCSRという視点からチェックをするという事も重要な役割だと思います。社員化に向けた話し合いが必要であろうと思います。
 是非、労使協議の遡上に載せて可能な限り社員化、即ち、組合員の拡大に向けた議論を強めて頂きたいと思います。

これまでの組合としての関心や取り組みの手薄さを率直に反省しつつ、ものづくり技能・技術の伝承というJAMの看板的問題意識から、正社員化に向けた労使協議を進めていきたいという方針を打ち出していて、概ね頷けます。とはいえ、すべてを正社員化するのは無理ですから、できれば、派遣や請負労働者という身分のままで、派遣先、就労先の職場の組合員として加盟できるような枠組みも考えていくべきでしょう。

2006年9月10日 (日)

日本の現存した社会主義

社会主義を論ずるときに、日本の現存した社会主義が出てこないのはおかしい。

日本社会は国家社会主義と自主管理社会主義という2種類の社会主義を経験している珍しい先進国なのに。

そして、その社会主義経験が、その崩壊後に形成されたケインジアン福祉国家風の体制のうちに明確に刻印されているのに。

まあ、国家社会主義の経験をファシズムと呼び、自主管理社会主義の経験を共産主義労働運動の暴走と呼んでいるうちは無理なのだが、

(追記)

そして、それなるが故に、安倍官房長官の周りの雰囲気というのは、ある意味で(もちろんある意味でのみですが)細川非自民、村山社会党首班、橋本6大改革、小泉・竹中構造改革内閣と繰り広げられてきた、日本社会の社会主義的要素への攻撃=資本主義反革命に対する国家社会主義文化大革命で「も」あるわけで(それをこの10年間明示的に示してきたのが西部ススム氏であるわけですが)。それを改革の張本人への忠誠心にくるみながら提示しようとすれば、ああいう本丸には手をつけない「下放」政策になるわけで。

2006年9月 8日 (金)

協同主義の問題

戦友共同体の話の続きというか、別バージョンなんですが、ちょっと詳しく突っ込んで調べてみたいと思っているのが「協同主義」って奴です。

実は、自由民主党に流れ込んだ「保守」と言われる政党には、自由党と民主党のほかに、三木武夫とかの国民協同党ってのがあったんですね。この党が掲げる「協同主義」ってのが、実に臭い。匂うんですよ。戦前、戦中、戦後を貫くイデオロギーとしてね。同じ「三木」でも三木清が協同主義ってのを掲げて、これが近衛文麿の昭和研究会のイデオロギーとして、総動員体制に大きな影響を与えている。この系譜は追ってみる値打ちはあるはず。

ヨーロッパもそうですが、日本でもずっと「第3の道」の模索というのはあったんです。

パターナリストなECJ

同じく昨日出された欧州司法裁判所の判決はイギリス対欧州委員会事件、イギリスはEU労働時間指令をちゃんと実行してないじゃないか、という奴です。

http://curia.europa.eu/jurisp/cgi-bin/form.pl?lang=en&Submit=Submit&alldocs=alldocs&docj=docj&docop=docop&docor=docor&docjo=docjo&numaff=&datefs=&datefe=&nomusuel=&domaine=PSOC&mots=&resmax=100

えっ?それって、イギリス政府が秘かに規則を改正して解決したんじゃなかったっけ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/post_886b.html

いや、そっちの、部分的に自己決定している場合の適用除外は、負けると思って改正しちゃったんですが、も一つ問題が残っていたんですね。それは、休息期間の扱い。いや、労働時間規則ではちゃんと、1日最低11時間、1週最低1日の休息期間の権利があると規定しているんですよ。ところが、使用者向けのガイドラインの中で、休息期間は欲しい労働者にやればいいんだよ、と書いてある。いやまあ、そりゃ権利ですから、欲しいと言えばやらなきゃいけないけど、欲しいと言わない労働者にも無理矢理に押しつけることはないだろうと、いかにもアングロサクソン的なリベラルな発想ですね。

それではあかんのや、と大変パターナリスティックなのが欧州司法裁判所です。

なぜなら、これは労働者の安全衛生を守るための規定なんだ。だから、使用者の休息期間を付与しなければならない義務を制限することは、たとえ労働者によるその取得を妨げないとしても、事実上その権利を意味のないものにしてしまう。大変厳しいのです。

公的部門の有期雇用

EUもようやく長い夏休みから戻ってきたようで、昨日、欧州司法裁判所は一気に多くの判決を下しました。

まず、公的部門における有期雇用の反復継続という、日本でも大変アクチュアルな問題です。

http://curia.europa.eu/jurisp/cgi-bin/form.pl?lang=en&Submit=Submit&alldocs=alldocs&docj=docj&docop=docop&docor=docor&docjo=docjo&numaff=&datefs=&datefe=&nomusuel=&domaine=PSOC&mots=&resmax=100

http://curia.europa.eu/jurisp/cgi-bin/form.pl?lang=en&Submit=Submit&alldocs=alldocs&docj=docj&docop=docop&docor=docor&docjo=docjo&numaff=&datefs=&datefe=&nomusuel=&domaine=PSOC&mots=&resmax=100

同時に二つ出ています。どちらもイタリアから上がってきた事案で、同じジェノバの大学病院に有期契約で勤めていた料理人と厨房スタッフです(ホントの「厨房」ですよ)。

7月6日のエントリーで紹介したアデレナー事件判決と似た事案なんですが、結果は反対になっています。イタリアでは、EUの有期労働指令に基づく政令とともに、公的部門に適用されるこういう政令があるんですね。「公的部門における労働者の採用・雇用における拘束力ある規則の違反は、賠償責任は妨げないが、いかなる場合も当局による期間の定めなき雇用関係の成立を正当化しない。当該労働者は当該規則違反によって生じた損害の賠償を受ける権利がある。」云々。つまり、公共部門では反復継続しても無期にはならんぞ、その代わり金を払うからな、というわけです。

欧州司法裁判所の言い方では、公的部門の使用者による有期契約の反復継続による濫用を防ぎまたは罰する有効な措置を含んでいる限り、反復継続された有期契約が無期契約にならないという国内法は指令に違反しない。まあ、事実審ではないので、この政令が「濫用を防ぎまたは罰する有効な措置」になっているかどうかは国内裁判所が判断せよ、と言う言い方になっていますが、まあ原告敗訴ですね。

公共部門の有期契約の雇い止めは金銭補償でよいとお墨付きを出したような感じもあります。

2006年9月 7日 (木)

フェミ嫌いのサヨク

「私の周囲に少なからずいる意識的にせよ無意識にせよフェミニズム嫌いのサヨクの男たち」

http://www7.vis.ne.jp/~t-job/bbs4/light.cgi

そう見えましたか。まあ、修行が足りないんでしょうね。

「「ジェンダーコンシャス」か「クラスコンシャス」か、の二者択一」にしているつもりはないんですが。ただ、ある種のフェミニズムが、(ネオリベラリズムとの隠微な同盟関係の下に)クラスコンシャスを抑圧する形でジェンダーコンシャスを押し出してきたのは確かだと思うんですよ。実際多いのはリベサヨフェミでしょうけど。いずれにせよ、世の中土井チルドレン型フェミニストと小泉チルドレン型フェミニストばっかりだとちょっと如何なものか、と。

あと、私はたぶんサヨクじゃないと思いますよ。ソーシャル派ではあるけれど。

(追記)

「「労働」「階級」「階級意識」では「昔の名前で出ています」ってことになりかねないような」

はあ、先日も、某団体関係者から「hamachanの頭の中は生物年齢より10年か20年は古い」と言われてしまいましたがな。

多分、日本があたらし(がり)過ぎてるんですけどね。こうなったら、「古くさいぞ私は」路線でいくかな。

戦友の共同体

稲葉先生がかみついた「戦友の共同体」の話は、なんだかやり取りの中でケインジアン話になってしまいましたが、ほんとはもっとアブナい話につながるんですね。

あの講演メモの中では意識的に外したんですが、福祉国家を作り出したモメントとしての社会主義運動の重要な柱が右翼社会主義というか、国家社会主義なんですよ。

これは、日本の場合非常にはっきり跡づけることができます。私の労使関係の講義メモにも簡単に書いてありますが、戦時中の社会主義をそっくりそのまま労働運動が居抜きで受け継いだのが戦後社会主義体制なんですね。解雇を許さぬ終身雇用制、生活費に基づく年功賃金制、企業単位の労働組織等々、すべてそう。産業戦士の「戦友共同体」が原型です。

これに相当するものを比較的明確に跡づけられるのは、第一次大戦中のドイツ(国家奉仕法や労働共同体)とそれを受け継いだワイマール体制です。これはみんな分かってるんですが、問題は第二次大戦時の位置づけ。ナチスは理屈抜きに極悪ですから、これは一時の気の迷いということにしなければいけないし、ドイツの場合、それでちゃんと説明はつく。

ところが、フランスのヴィシー政権やイタリアのファシスト政権はむずかしい。多分、日本とドイツの間というか、戦間期の左翼運動がかなり強かったのは確かですが、それが全土に広まるにはこれら右翼的国民革命が大きな役割を果たした面があるに違いないと、私は睨んでいるんですが、これは「政治的に正しくない」から正面切って言えないのではないかなあ、と。

このあたり、是非政治学者や歴史学者の方のご意見を伺いたいところなのですが、どうもこのあたりに、いわゆる保守主義レジームといわれる大陸ヨーロッパ型システムの原型があるような気がしてならないのです。ただ、これは実証が必要です。現時点では、日本の経験から立てた仮説に過ぎません。

パターナリズムは悪か?

ある方から、「パターナリズムもほどほどに」とのご忠告。ごもっともではあるんだが、そういうリベリベな感覚に抵抗してみたい気持ちもありましてね。

というのも、今世間をにぎわす貸金業法の話。ケーザイ学的には皆様の仰るとおりなのではあろうし、実際普通の金融機関が貸さないようなマイクロ企業が高利であっても借り入れできることで社会の厚生が高められうることもよくわかる。でもさあ、人間ってそんなに立派かね、朝三暮四のサルどもがうようよしているのがこの人間世界のサル山なんじゃないのかね、とリベラルじゃない奴は思うのですよ。

「余計はお世話」はどこまで「余計」なのか、ってのは、じっくり考えていくと大変難しい。ぎりぎりいえば、シカゴ派がいうように労働社会政策なぞみんな余計なお世話でしょう。でも、朝三暮四のサルはアホやから見捨ててもいい、と言えますか?

2006年9月 6日 (水)

派遣請負狂想曲

BUNTENさんの転落日記の件、労働問題の専門家としてブログを開いている以上、やっぱり言っとかないと無責任だろうと。

http://air.ap.teacup.com/bunten/14.html#comment

これ、派遣なのか請負なのかよく分かりませんが、どちらにしても、派遣先、請負の送出先が「このBUNTENって奴は前に落とした奴だからダメ」ってなことを言うことは、そもそもあり得ない、法律上は。

まず労働者派遣法第26条第7項「労働者派遣(紹介予定派遣を除く。)の役務の提供を受けようとする者は、労働者派遣契約の締結に際し、当該労働者派遣契約に基づく労働者派遣に係る派遣労働者を特定することを目的とする行為をしないように努めなければならない。」

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S60/S60HO088.html#1000000000000000000000000000000000000000000000002600000000000000000000000000000

業務取扱要領では「派遣先は、紹介予定派遣の場合を除き、派遣元事業主が当該派遣先の指揮命令の下に就業させようとする労働者について、労働者派遣に先立って面接すること、派遣先に対して当該労働者に係る履歴書を送付させることのほか、若年者に限ることとすること等の派遣労働者を特定することを目的とする行為を行わないこと」とあり、「例えば、派遣労働者を35歳未満の者と限定することや男性(女性)と限定することも、当該規定に抵触するものである」と書かれています。ましてや「BUNTENさんはダメ」などということは許されないのです。

http://www.mhlw.go.jp/general/seido/anteikyoku/jukyu/haken/youryou/dl/9.pdf

これは考え方としては、派遣というのはあくまでも派遣会社が雇っているんであって、派遣先は派遣会社の販売する種類債権としての労働サービスを購入するカスタマーに過ぎない。派遣会社が「こいつは使える奴だからこの会社に派遣してやろう」と考えて派遣する以上、この人はいいけどこの人はダメというのは派遣という仕組みの根幹に関わるという考え方です。つまりもしそれを認めてしまうと、派遣会社は自分で雇ってるんじゃなくって、斡旋しているだけということになる。

ちなみに、法律論を超越している規制改革・民間開放推進会議サマは、「事前面接を解禁すべし」と主張し、これは閣議決定されていますが、法改正の検討は現在進行形であって、現時点では(紹介予定派遣を除き)事前面接は不可です。

さらに請負であれば、派遣と異なり送出先の指揮命令を受けない(はず)なので、送出先があれこれいうこと自体が言語道断ということになります。

この記事にある××工業というのは、BUNTENさんを雇うわけではなく、たまたまBUNTENさんの就労場所であるに過ぎないのですから、前に受けて落ちた会社であるかどうかなんて関係ないのですよ。関係あったら違法派遣か偽装請負になってしまいます。

というようなことを、ハロワの職員だったらちゃんと理解して説明しなくちゃいけないんですけどね。

(追記)

せっかくだから、前の生活保護の方にもコメントしておきます。

ぶ:では質問させてください。住所がなければ生活保護は受けられないと聞きましたが、間違いありませんか

福:そうです

うそです。

「第二 実施責任
保護の実施責任は、要保護者の居住地又は現在地により定められるが、この場合、居住地とは、要保護者の居住事実がある場所をいうものであること。
なお、現にその場所に居住していなくても、他の場所に居住していることが一時的な便宜のためであって、一定期限の到来とともにその場所に復帰して起居を継続していくことが期待される場合等には、世帯の認定をも勘案のうえ、その場所を居住地として認定すること。」
(生活保護法による保護の実施要領について(昭和三六年四月一日)(発社第一二三号)(各都道府県知事・各指定都市市長あて厚生事務次官通知))

なお、参考までに(立岩真也さんのHPです)

リベラルに世界を読む

別に中味に文句をつけようというわけではないんだけれども、

「格差正当化社会と闘う」

とか

「誰が格差を肯定しているのか」

とか叫んでる雑誌の標題の横にデカデカと

「リベラルに世界を読む」

ってのは、どうしても耐え難いものがある。

http://www.rock-net.jp/sight/next.html

おもわず、「そりゃ、お前だろ、お前」と口走ってしまいそうになる。

労働を中心とする福祉国家の構想

講演メモです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/researchcenter.html

題名だけ見るとなんだか連合さんの御用達みたいですが、中味はだいぶ違います。

技能検定のこれから

厚生労働省の「技能検定職種等のあり方に関する検討会」が「「人財立国・日本」の基盤整備-技能・ものづくりが尊重される社会の実現に向けて-」と題する報告書を取りまとめました。

http://www.mhlw.go.jp/houdou/2006/09/h0905-1.html

技能検定制度は、ドイツやスイスの仕組みを見習って、1958年の職業訓練法で導入された制度です。ヨーロッパでは中世ギルドの徒弟制で職人試験があり、これの伝統を受け継いで熟練工の検定制度が確立していますが、日本の徒弟制は雑用やらせて仕事は見よう見まねで、技は教えられるものじゃない、盗むものだ、てなもので、技能検定という考えはありませんでした。

当時の労働官僚たちは、ヨーロッパ諸国のように、技能士の資格を有することで労働協約上の高賃金を受けられるような、企業横断的な職種別労働市場の形成を目指していたんですね。私のいう「近代主義の時代」です。ところが、実際には企業内で技能検定はかなり普及しましたが、年功制の下ではそれが賃金や昇進などの処遇に結びつくという形にはなりませんでした。日本的な形で落ち着いてしまったわけです。

この報告書は、「技能の高度化・複合化等の変化や、産業・人材の動向等に的確に対応するため、企業、業界団体等のニーズを踏まえつつ、検定職種、内容等の見直しを図る」こと、「そうした変化に一層柔軟かつ迅速に対応する等の観点から、検定職種整備等における民間活力の一層の活用を図る」ことなどを提唱していますが、このブログでの関心事項からすると、次の「若年者のキャリア形成を巡る問題や、パート、派遣労働者、フリーター等の増加等を踏まえ、多様な労働者の適切なキャリア形成を図る観点からの取組」が興味深いところです。

いくつか面白い提言がありますが、まず、「学校教育段階からキャリア形成を睨んだキャリア教育の充実を図り、その中で技能検定等の職業能力評価制度を活用していくことが重要」と述べ、「検定取得を含むキャリア教育を単位として認定する」ことも提示しています。

パート、派遣、フリーターのキャリア形成支援については、パート向け社内検定とか期間従業員の正社員登用試験といった例を挙げて、そういう取り組みを促進すべきとしています。「年長フリーター等については、職業能力評価基準の知見も活用しつつ、経験能力を適切に評価できるような手法の開発・普及に努める」というのも重要な点です。

このブログでも何回も取り上げている製造業の派遣・請負労働者の増加について、「今後とも技能継承上の問題や品質管理上の問題を生じさせないためにも、サプライ側(ベンダー側)とユーザー側とが、長期的視点に立って、職業能力評価制度の活用を含めた能力向上に取り組むことが重要」と的確な指摘をしており、「このため、業界団体等に、業界横断的な職業能力評価制度の構築に向けた自主的取り組みを促す」べきとしています。ここで例としてあげられているものは、下請協力会社のケースですが、協力会社向けの社内検定制度を設けているというもので、これをサプライ側とユーザー側に応用できるのではないかといっています。また、ある派遣・請負業者では、募集した労働者の養成訓練のために企業内訓練校を設けると共に機会保全等の技能検定取得を奨励しているということです。

もともと企業横断的なシステムとして考えられ、実際には企業内システムとして用いられてきた技能検定というしくみを、非正規労働者の能力開発という政策課題に対応する形でモデファイしながら展開させていければ望ましいですね。

請負労務の現状と今後

昨日も都内某所で某研究会。

いわゆる雇用ポートフォリオという点から、興味深い傾向が出てきているようだ。コアとなる部分は社員が行い、中くらいの部分(コアフローというそうだ)は現在の請負会社を協力会社化していく、つまり従来型の長期的な取引関係のもとで下請企業が構内で製造している「構内下請」という形にもっていく。一番下の部分(フローフローというらしい)はこれまで通り請負会社に委ねるということだが、偽装請負問題がこれだけ大きくなると製造派遣に移行していくように思われる。

このコアフローの部分というのは、厚生労働省が今後進めていく請負適正化のガイドラインの一つの方向性ではなかろうか。その意味では、萌え萌え朝日が脱法行為として糾弾していた顧客企業の労働者が請負会社に出向して請負企業労働者に指揮命令したり教育訓練したりするというやり方は、(このケースが脱法行為であったか否かは別として)今後の請負事業の一つのモデルかも知れない。というか、今までも下請中小企業に親会社の労働者が出向するというのはよくあったわけで。

仮にこういう方向に進んでいくとすれば、クリスタルみたいないかがわしい企業ではなく、まともな請負事業のモデルが確立していくことになる。

2006年9月 5日 (火)

本田先生を陵辱する奴ら

これには怒り心頭に発する。

http://tsunehito.exblog.jp/4233644/

いかにも本田先生に同情するかのようなふりをして、この下劣な野郎はこんなことを書いてやがる。

セリーヌなる者の書き込み。特に「二人とも上野千鶴子におべんちゃら使って出生したやつらだから、他の人から見ればまともな業績をあげてないから余計に癪に障るところがある」という所に着目されたい。私みたいに門外漢からすれば、この二人が上野千鶴子と関係があることを知らなかったのだが、社会学の内部では常識なのかも知れない。しかし「おべんちゃら」を使っていたかどうかは、外部の人間にはまず分からないことである。内部の人間で、なおかつ両者をよく思っていない人間の蓋然性が高い。

てめえの知らないことをいかにも知ったかのような口をきくんじゃない。本田先生の学問的経歴など、その気になれば誰でも知ることができる。

http://jww.iss.u-tokyo.ac.jp/mystaff/yuki.html

ここに挙がっている論文の1本でも読もうともせず、いい加減なデマを吹聴しやがって。内藤アサオの莫迦が騒ぐと、こういう手合いが虚に吠えるんだよ。誰が「上野千鶴子におべんちゃら」だって?自分の知ってるマスコミ芸者だけが学者だと思うな、この莫迦。

http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20060907

公共サービス改革基本方針

本日、公共サービス改革法(いわゆる市場化テスト法)にもとづき、公共サービス改革基本方針が閣議決定されました。

http://www5.cao.go.jp/koukyo/kihon/kihon.html

厚生労働省関係がおおいんですね。社会保険庁の「国民年金保険料収納事業」、ハローワークの「人材銀行事業」「キャリア交流プラザ事業」「求人開拓事業」、さらに雇用・能力開発機構の設置・運営するアビリティガーデンにおける職業訓練事業、「私のしごと館」における体験事業が対象とされています。

「公務員の処遇」という項目があって、「官民競争入札又は民間競争入札の結果、民間事業者が落札した場合の国家公務員の処遇については、配置転換と新規採用の抑制により対応することを基本とする。各任命権者は、職員の不安やこれによる士気の低下を来さないよう、責任を持って円滑な配置転換に取り組むものとする」とあります。とはいえ、一方で、「任命権者の要請に応じて国家公務員を退職し、落札事業者の下で業務に従事した者が、再び職員に採用されることを希望する場合には、任命権者は、その者の退職前の職員としての勤務経験と落札事業者における勤務経験とを勘案し、本人の希望について十分配慮する」ともあります。

EUでは既得権指令によってコントラクトアウトされた業務に従事していた労働者の雇用と労働条件は維持されることが規定されていますが、そういう考え方はここにはないようです。

リクルートとグローコムと本田由紀

朝日の雑誌『論座』で、リクルートワークス研究所の大久保幸夫さん、国際大学グローコムの鈴木健介さんと、本田先生が若年労働をめぐって対談しています。

http://opendoors.asahi.com/data/detail/7583.shtml

この対談のおもしろさは、鈴木健介クンの乱暴な議論を本田先生がたしなめ、大久保さんがたしなめている、その大久保さんが実はリクルートでフリーターを煽り立ててきた張本人であるという、何とも言えない三角関係ですね。

鈴木「地元でまったりフリーターとして働くことも合理的な選択の一つなのかも知れない。新卒で正社員にならないことがどの程度問題なのか、再検討が必要かも知れません。」

本田「いや、フリーターの満足度の高さを額面通り受け取るべきではないでしょう。・・・彼ら自身がどう思っていようと、社会政策に携わるものがフリーター的存在を手放しで容認する立場をとるべきではない。」

・・・

鈴木「私は、規制緩和というならまず、被雇用者の流動性を高めるべく、正社員一括採用を撤廃すべきだったのではないか、とさえ感じています。」

大久保「いや、むしろ新卒一括採用は絶対にやめてはいけないと思います。未経験の新卒者の定期採用は、雇用市場にとってもプラス効果が大きいし、OJTの効率もいい。新卒採用をやめれば、失業率は短期的に大幅上昇するでしょう。」

・・・

リクルートの人間が今さら言うかよ、という気持ちはとりあえず横に置いて、この対談でもっとも現実可能性のある処方箋を提示しているのは大久保さんですね。当面、景気回復による新卒採用の売り手市場を利用して、フリーターから正社員への移行を進めていくなり、非正規雇用の領域のキャリア化(正社員型でない長期雇用)をすすめていくということなんでしょう。

(追記)

これじゃなんだかリクルートに恨みがあるような書き方ですけど、ワークス研究所はいい成果を出しています。最近出たものでは、

http://www.works-i.com/publish/works_review_2006.html

という論文集が面白い。上の対談に関係するものとしては、岩脇千裕さんの「大学新卒者に求める「能力」の構造と変容-企業は「即戦力」を求めているのか」があります。

https://www.works-i.com/pdf/works_review_2006_13.pdf?PHPSESSID=bf3e76898555de34ca2135c0aa7944e6

ちなみに、岩脇さんも教育社会学と若者の雇用を専攻するJILPTの研究者です。

冷たい福祉国家

いや、もちろん、原理的に考えるのが好き(あるいは得意)な人と、現実のごちゃごちゃしたのから考えをめぐらすのが好き(あるいは得意)な人とでは、ものの考え方の筋道が違うんだなあ、ということに尽きるんですが・・・。

そもそも「冷たい福祉国家」ってなんやねん、そんな訳の分からんもん、あるかいな、と最初に感じてしまうともうなかなか話についてけない。年金のもとが軍人恩給であり、障害者対策のもとが傷痍軍人対策であるように、福祉国家とは熱い戦友の共同体、戦場で共に死線をくぐった「仲間」が、冷酷な資本主義の「悪魔の挽き臼」に放り込まれ、貧困と屈辱にあえぐ姿が、戦友たちの怒りを呼び起こし、国家という「想像の共同体」の名の下に、悪逆非道な資本家から資源を取り上げて、彼らに再分配せよ、と発展していったわけで。それがやがて、「銃後」の戦場で戦う戦友たちにも広がり、ひいてはネーション共同体全てが戦友化することによって普遍化していったのが福祉国家なるものであって。まあ、広がっていくと共に、「熱い」福祉国家はだんだん「生暖かい」ものになり、「生ぬるい」ものになってはきたけれども。

そういう福祉国家の「熱い」原点を抜きにして、小役人が眠たい目をこすりながら書類をいじるような手つきで、「再分配する最小国家」だの何だの言ったって、そもそもそんなものを追い求めなきゃいけないモチベーションがありゃせんわな。「冷た」くなったら福祉国家じゃないのよ。私的自由がそんなに大事なら、再分配する理由なんかありゃしない。勝手にさらせ、だけでしょ。

すっごくベジョラティブな言い方をすると、テツガク者とケーザイ学者だけで福祉国家を論じてると、その一番大事な根っこが消えてしまうように感じられる。資源を一方的に奪われる側にとっては何のアピールもない話にしか思えない。みみっちいベーシックインカムといえども、そんな得体の知れない金を出す義理はない、ってことになるだけ。結局、福祉国家なるものが可能だとしたら、それは、いかに仮想的であったとしても、何らかの戦友共同体を構築するところにしかないのですよ。どんなに就労困難な重度障害者であっても、社会に参加し、貢献している「戦友」なんだといったようなね。

2006年9月 4日 (月)

発達障害?

>ついでですが、大学の先生の場合、きちんとした論文さえ書いておれば、周囲の空気が全然読めなくても、学会の発表でのやりとりが多少おかしくても、授業が一方通行でも、学生の質問に答えるのが下手でも、何とか首にならずにやっていけるのではないでしょうか?もしそうなら、そういう人が大学に集まってきても不思議ではありません。

http://takamasa.at.webry.info/200609/article_1.html

ある面ではイエスでしょうが、ある面ではノーでしょう。小役人と学者渡世を両方経験した立場(といっても、後者はまだまだ未熟者ですが)から言うと、一般社会的「空気嫁」能力とはちょっと違うかも知れませんが、アカデミックなコミュニティの文脈を読む能力というのは必要なんじゃないでしょうか。「学会の発表でのやり取りがおかしい」というのがどういうのを想定されているかよく分からないですが、質問している人間の意図とはとてつもなく飛び離れた反応をしたりしたら、「あいつもトだな」とか、「終わってるよ」ということになると思うんですが。

ま、これは私ごときではなく、アカデミックなキャリアを積んでこられた方が答えるべき筋合いかも知れません。

偽装請負対策

本日、厚生労働省から「偽装請負の解消に向けた当面の取り組みについて」が発出されました。

http://www.mhlw.go.jp/houdou/2006/09/dl/h0904-2a.pdf

来年度予算要求の中でガイドラインの策定など適正化、雇用管理改善施策が打ち出されていますが、こちらはいますぐやること(というか既にかなりやっていること)として、職安行政と基準行政が連携して監督を強化するという話です。

この中で興味深いのは、「安全衛生法違反が原因で死亡災害など重篤災害を発生させた事業主や違反を繰り返す事業主に対しては、司法処分など厳正に対応する」というあたりでしょうか。

権丈先生絶好調

社会保障の権丈善一先生の「勿凝学問」シリーズの最新作。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare46.pdf

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare47.pdf

名文句が満載。

「この国には、新自由主義とか市場原理主義の政治家などいない」「彼らは、ただ単に、増税した場合の結果を恐れているだけのことなのである」。

「政治家は、歳出削減を言う方が、いまは票になる。だから歳出をどんどんと削減しつづけている。しかしながら、歳出削減は、国民の生活を豊かにするためでもなんでもなく、選挙に勝つための手段に過ぎない。歳出削減をつづけていくと、いずれ国民が悲鳴をあげる――「増税してもいいですから、施策をやってください(お代官様)」と。それを潮目とみて、彼らは政策を変え、取り巻き陣を入れ替える」。

「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!」

「わたしには医療は分からない。だから財政論しか話さない」というのは、経済財政諮問会議議員の言葉である。これが、政府の「会議室」でなされていることである」。

EU諸国の労使協議制の現在

連合総研の「日本における労働者参加の現状と展望に関する研究委員会」で報告した標記原稿が、同研究所の機関誌DIO208号に掲載されましたので、リンクを張っておきます。

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no208/houkoku_2.pdf

義務的社会奉仕

いや、それは確かに、学者の議論としては、英和辞典を引いておけというのは正しい。ボランティアの義務化という言葉は、このカタカナ語をvolunteerと英訳するのであれば自己矛盾です。しかし、それだけなら、それはインテリのいちゃもんに過ぎない。

日仏時をほぼ同じくして、保守系の次期政権担当者最有力候補がほとんど同じような構想を提示しているという事実こそ真に興味を惹いて然るべき話題でしょう。

サルコジ氏のブログに掲載された3日の出馬表明演説です。

http://www.u-m-p.org/site/GrandDiscoursAffiche.php?IdGrandDiscours=229

若者論がメインなんですね。

関係箇所は以下の通り。

Je vous propose de réinventer la République en créant un service civique par lequel chaque jeune Français entre 18 et 30 ans donnera aux autres 6 mois de son temps. Ce service pourra être effectué en une fois ou fractionné, à temps plein ou à temps partiel, réalisé en France ou à l’étranger, dans toute activité revêtant un caractère d’intérêt général. Faut-il qu’il soit obligatoire ? Ce mot ne me fait pas peur. Je crois qu'après une expérimentation à grande échelle, car l'entreprise est ambitieuse et complexe, il faut qu'il le soit. Il n’y a pas de République sans obligations de chacun envers tous. Il y a dans l’obligation une pédagogie du devoir et une exigence morale qui permettront à la jeunesse de donner le meilleur d’elle-même et qui imposeront à toute la société de faire une place à la jeunesse. Mais dans sa mise en oeuvre cette obligation ne doit pas être un obstacle de plus pour les études ou pour l’entrée dans la vie active. Elle doit être adaptée aux situations, aux parcours, aux aspirations de chacun. Elle doit pour certains être l'occasion d'engager une formation qui a manqué. Elle doit offrir à chacun un enrichissement, une expérience, un moyen de se réaliser, une occasion de s’engager pour une cause qui lui tient à cœur.

ちなみに下記英紙も、30歳以下の若者に義務づけられる6ヶ月間の社会奉仕活動 「service civique 」 のことを「voluntary activities 」と書いていますね。イギリス人記者も英語の辞書が必要かな?

http://news.independent.co.uk/europe/article1359809.ece

(追記)

サルコジ氏の演説の後ろの方を見ると、この義務的社会奉仕活動が、ドビルパン氏の2年間首切り自由の無期雇用契約案に代わるべき若者の雇用能力開発政策として位置づけられていることが分かります。

Le quatrième droit nouveau que je vous propose, c’est le droit à la première expérience professionnelle.

Je propose que chaque jeune puisse utiliser son droit à formation pendant les six premiers mois de sa première expérience professionnelle. Je propose que le service civique obligatoire contribue à rendre effectif ce droit à la première expérience pour tous. Ce droit aura pour contrepartie le devoir pour la société en particulier pour l’Etat, les collectivités locales, les associations qui reçoivent de l’argent public et les entreprises qui bénéficient de la commande publique d’offrir une place à tous les jeunes qui veulent se confronter au monde du travail.

これは、だから職業能力の欠如した若者の職業経験への「権利」なんですね。そして、それに対応する企業の受入「義務」がある、という大変ソーシャルな提案なのです。

(再追記)

むかし中教審で配布された資料で、「社会奉仕活動の指導・実施方法に関する調査研究」というのがあったので、リンクしておきます。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo2/siryou/001/011002/001.htm

インテリさんたち、これくらい読んでからいろいろ言えよな、という感じもありますね。

フランスは1997年に徴兵制を廃止し、それに伴って兵役以外の国民役務も義務的ではなくなっていたんですが、サルコジ提案はある意味でこれを戻そうという発想でしょう。ドイツは現在でも徴兵制があり、兵役が嫌であれば社会奉仕活動が義務づけられています。こういうのが、ヨーロッパ社会の基本的発想なんですね。

政治学者さんから評判の悪い薬師院仁志さんの「日本とフランス 二つの民主主義」でも、徴兵制賛成こそ左派的主張であり、ブッシュみたいに絶対に徴兵制は導入しないと公約するような奴こそけしからんのだとぶん殴っています。

中間総括

稲葉先生は主に内藤氏との関係で「失敗の弁」を語っておられる。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060903/p1

私はもともと内藤氏を説得の対象とは考えてはいないので(そもそも実証的な社会学研究者というよりは、理論的社会哲学者でしょう。その点では稲葉先生と共通性があるので、稲葉先生が説得したくなる気持ちは分かるが)、彼が(稲葉先生の人間的卑劣さを証明するという自らの主観的目的のために)(本田先生自身がもう人にさらしたくないと思っている)本田先生のミスを(しかもその内容の正当性はもはや弁証することもなく-なぜならそれは自分自身を傷つけますから)いつまでもほじくり返して書き立てるという行動に出ていることの方に怒りを感じます。

その結果発生していることは、本田先生の実証的社会学者としての業績をなーーんにも知らない厨房どもがもそもそ湧いてきて、あーだこーだと下らぬコメントを吹きまくるという現象です。実証的社会科学に携わっている立派な研究者が、その実証性に疑いをかけられて問いつめられるというようなことは、現実には結構あり得ることです。研究者だって人間ですし、いろんな思想やイデオロギーがあって見たくないものが見えず、見たいものを見てしまうこともある。これは原理的には誰にでもあることです。問題は、それが考え方のレベルではなく、方法論のレベルで批判されたときに、ルールに従って対応できるかどうかなんですね。

こういう問題を、外野席の素人さんたちが「いじめ」としか認知できないのは、一面やむを得ない面もありますが、それに社会学研究者を称する人が「殺傷事件」などと称して火に油を注ぐというのは看過しがたいものがあります。本田先生の実証的社会学者としてのキャリアを本当の意味で危険に曝しているのは、こういう人達です。本田先生はご自分の思想信条を変える必要などないし、ご自分の構想を自分のやり方で展開して行かれればよいのです。ただ、実証的社会学者としての本分を忘れずに。

いずれ、本田先生が天の岩戸から顔を出されて、かねてからの予告通り、企業の採用基準の問題について私に論戦を挑んでいただけるものと思っています。

2006年9月 2日 (土)

ただの粗忽者

あれだけ一生懸命言葉を尽くしていたはずなんですが、「ただ乱暴なものの言い方をしているだけ」で「ほめられたものではない」といった程度」の「「ただの粗忽者」としか見られていないというのは、悲しむべきなのか、喜ぶべきなのか・・・。

ただ、「胸ぐらをつかんで揺さぶるように」というのは、ある意味私のあのときの気持ちを言い当てている面はあるかも知れません。そんな方向に行っちゃだめだよ、こっちのまともな方向に戻ってきてくれよ、という思いがあったのは事実です。私は本田先生をずっと評価してきましたし、これからも評価していたいと思っているので。

http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/20060901

(追記)

それにしても、ヤマハのこけおどしナポレオンに感激した粗忽なヘーゲルさんに言われるかねという気もしますが。

さすがに、上記長々しい批判文の中でも、もうナポレオンを発見したヘーゲル気取りはやめられたようです。ま、社会学者としていつまでも固執していると不利だと思われたのでしょうし、その判断は正しいと思います。もっぱら、稲葉先生の言説の攻撃性を非難するという戦略に転じておられて、これも(事態の推移をよく知らない方向けの言説としては)なかなか的確なやり方だと評せましょう。

(再追記)

ちなみに私は「啓一郎」でもなければ「東大教授」でもないんだが。まあ、あれだけ長大な糾弾文の中に、ナポレオンさんもヘーゲルさんも出てこないところを見ると、いったい何の話をしていたかという中味の議論をする気はとうからないということのようで。

2006年9月 1日 (金)

生活保護水際作戦

朝日の記事で、日弁連が、生活保護を受けさせない水際作戦を批判しています。

http://www.asahi.com/life/update/0901/002.html

ここでも書いてあるように、「生活保護法では、自治体は申請を必ず受理し、保護に該当するかどうかを審査しなければならず、申請自体を拒むことは違法」です。しかし、うかつに生活保護に入ってこられてしまったら、ほとんど二度と足抜けしなくなっちゃいますから、第一線の福祉事務所としてはあの手この手で水際作戦に走るということになるわけです。

この問題は、憲法第25条と生活保護法の本旨を振り立てるだけでは解決しがたいのです。いったん生活保護を受給しだしたら、下手に働くよりも遙かにいい暮らしが未来永劫続けられるというおいしい仕組みをしつらえておいて、そんなとこに入り込まれては困るから、そもそも(怖ーいやくざ屋さんであるとかの)よほどのことがない限り中に入れさせないという対応を何十年もやってきたことに原因があるわけで。

ヨーロッパは、こういう水際作戦なんて姑息なことをやらずに、ええよええよとどんどん入って来ちゃったから、福祉コストが大変なことになってきた。「働かざる者も大いに食うべし」の気前のいい福祉国家ですね。そこで、彼らに働いて貰おうとあの手この手のメイク・ワーク・ペイ政策が行われだしたというわけです。日本は順番が逆なんだけど、結局同じ方向に行くしかないと思いますね。

(追記)

ネット上でBUNTENさんが書かれている福祉事務所の対応も法律上かなり問題がありそうです。

http://air.ap.teacup.com/bunten/

労働条件分科会再開

昨日、労政審労働条件分科会が再開されました。日経は「厚労省が作った改革素案を白紙に戻し、原点から議論を仕切り直す。同日は労使の代表らが実現可能な改革を積み上げる「現実路線」を訴えたものの、新ルールの行方はなお不透明だ」と報じています。

http://bizplus.nikkei.co.jp/genre/top/index.cfm?i=2006083108652b1

今のところ、厚生労働省のHPにも連合のHPにもアップされていませんが、傍聴されていた弁護士の水口洋介さんのブログに、資料として出された「労使の主な意見」と、分科会での各側の発言のあらましが載っています。

http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/2006/08/post_1566.html#more

http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/files/roudoukeiyaku060831.pdf

詳しい議事録はいずれ厚労省のHPに載るでしょうから、ここでは、注目すべきポイントだけ。水口さんも気にされておられる点ですが、労働側の意見には「労使委員会などの労働組合以外の労働者集団を就業規則の変更の合理性判断に活用することには反対」と書かれていて、反対解釈すれば「労働組合であれば,就業規則の変更の合理性判断に活用することは良い」ということです。実際、過去の議事録にもその趣旨の発言があります。では、労働組合以外の労働者代表制を否定するのかといえばそうではなくて、「労働基準法の過半数代表者には問題があるので、労働者代表制度とすべき」という考え方です。ここを今後きちんとした制度にどう落とし込んでいくかが焦点になるでしょう。

使用者側からの解雇の金銭解決も実はここが鍵なんですね。素案では落ちてしまっていますが、もとの労働契約法研究会報告では、過半数組合や労使委員会で予め解決金額の基準が合意されている場合に限るという限定がついていて、これが過半数組合だけになれば労働側としてはぎりぎり呑める案になるわけです。

労働時間については、直接今回の中断の引き金を引いた残業割増アップは撤回することになるでしょうが、こんがらがったホワエグをどう料理するかが事務局の腕の見せ所でしょうね。

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