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2006年8月30日 (水)

ネオリベとリベサヨの神聖同盟

もじれ事件自体は、私が戦略的に方法論の次元に集中する形で進行したたため、内容の問題に関心のある方々に若干の不全感を残しているようです。あのナポレオンもどき自身はニセ者だったかも知れないけれど、世の中の大きな動きを象徴するものとしては意味があるんじゃないかというような感覚が、ここかしこにあって、たかが事実確認ごときで本田先生をいじめ抜くとはなんて悪い奴だ、という反発になっているんでしょうね。

本田先生からいえばそんなのは贔屓の引き倒しで、社会学者の道を踏み外してもイデオローグとしてもてはやされればいいというようなものですから、応援しているように見えて、実は彼女の(まともな学者としての)学者生命を絶とうとしているに過ぎない。ホントに危険なのは親切そうに手を差し伸べる奴だというのは、人生の教訓です。

ただ、せっかくですから、中味の話をしておきましょう。なんで、(本田先生が最近悪い連中に誘われて引っ張り込まれようとしていた)リベラルサヨクな連中は、一見ものの考え方が180度違うかのように見えるネオリベラルな世界観に(「抵抗しなくちゃいけないんだ」などと一見反対しているようにいいながら)いそいそとすり寄っていこうとするのか、という論点です。

実は、90年代以来の日本社会の動きの背景には、そのメカニズムが働いているんです。題して、「リベサヨとネオリベの神聖なる同盟」。

あんまり抽象的なレベルでやってもしょうがないから、労働政策を例にとります。今まさに審議が再開された労働契約法制がいい例です。この中で最大の論点は(ここで使えるように思い切って単純化しますよ)、過半数組合が賛成すれば労働条件の不利益変更は合理的だと推定して、反対する労働者も拘束するようにしようという提案です。実のところ、経営者側の主流も、労働側の主流も、この方向性を支持しています。というか、まさに自分たちがこれまでやってきたことなんですね。経営側の主流派からすれば、主流派組合を納得させられれば労務コストの引き下げができるのだからその方がいい。組合主流派からすれば、自分たちが事実上の拒否権を持った形で同意して経営者に恩を売れますからその方がいい。

これに対して、一部の急進的なネオリベ派経営者にとっては、協調的な組合主流派も過激な反体制派も選ぶところはないのであって、文句言う奴はさっさと潰せばよいのに、余計なコストをかけて懐柔するなんて馬鹿馬鹿しい。てなことを思っても、労政審では「労務屋」さんみたいなのが主流なので浮いてしまいますから、規制改革会議で騒ぎ立てるということになります。

一方、反主流派というか、労働運動の少数派(昔は公共部門では威勢を誇っていたんですけどね)にとっても、「労務屋」さんと「労働貴族」どもが結託していたんでは自分たちの出番がない。ネオリベ派が権力を握って、協調的な組合幹部どもが「お前らも要らないんだ」と悉く踏みにじられる姿を全ての労働者諸君に目の当たりに見せつけることによってのみ、自分たちの存在意義がくっきりと浮かび上がってくるのです。

敵の敵は味方、というのは古典的な政治学の金言ですが、この労働契約法制をめぐって、ネオリベとリベサヨの神聖なる同盟が成立する基盤があるということがおわかりになると思います。別に同盟の協定書があるわけではありません。両者間には何のコミュニケーションもないかも知れない。しかし、かくも明確な利害の一致に裏打ちされた同盟関係は、なまじな協調関係よりも強い面もあります。これは、実は1990年代初め頃から進行していた事態です。

思い出していただけると有り難いのですが、90年代初め頃、それまで褒め称えられていた日本的雇用システムが批判されるようになりました。どういう批判が主流だったか覚えていますか?グローバル化に対応できないとか何とかいう、その後規制改革派が騒ぎ立てたネオリベ風の批判ではなかったんですよ。個人の自由を抑圧するシステムだとか、息が詰まるとか、人間を奴隷にするものだとか、「社畜」(@佐高信)なんていう素晴らしい言葉もありましたねえ。90年代の規制緩和路線は、そういうリベサヨ的な言説から始まっているのです。嘘だと思ったら、この15年くらいの新聞雑誌をひもといてみてください。

そういう流れの中で、それまで労使主流派連合の制圧下にあって息も絶え絶えだったサヨク労働運動のなれの果てたちが、細川政権だの、村山政権だので、最後っぺの如く大臣ポストを手に入れます。ま、しかしそれで旧社会党は力尽きて事実上潰れたわけです。しかし、そのもとで繁殖していた(何とかチルドレンといった)リベサヨ連中はしぶとく生き残って、いろいろとゲリラ戦をやってる。

所詮ゲリラ戦ですから、世の中の大勢に影響力などありはしないのですが、自分たちに存在意義を与えてくれる有り難ーーいネオリベさんたちには、「抵抗しなくちゃいけないんだ」と一応は言っておくけれども、本気で喧嘩を売る気はない。「社畜」を解放してくれる有り難い存在ですしね。

某人材派遣業のボスとブルセラ社会学者が「フリーターがフリーターのまま幸せになれる社会」で一致するのも、別に不思議ではありません。「幸せ」の中味が多分違うと思いますけど。

もっぱら喧嘩を売るのは、自分たちの存在意義を無にしてしまう商売敵です。ここでの文脈で言えば、「労働貴族」とそれに結託する「労務屋」どもということになりましょう。今さら「フリーターの正社員化」なんてやらかされては、飯の食い上げになってしまう。ね、実にわかりやすいでしょう。

(注)上記説明は、本筋以外は全てざっくり切り落としていますので、専門家からみたら単純化のしすぎです。その点、ご注意下さい。

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コメント

それを受け入れる読者側の構造というか、
現実というか、インタレストというか、
本当の問題はそういったところにあるん
ですけど、その読者側の構造が自分には
どうもよく見えない感じがしています。

商売に対応するのは、読者ではなくて
「消費者」と言うほうがより適切です。
読者だと狭すぎますね。

「リベサヨとネオリベの神聖なる同盟」的な路線は一時期押さえ込まれていただけで,意外と日本の”伝統”的な姿なのかもしれませんよ(苦笑).社会党主流派や総評は長い間マルクス主義的な階級イデオロギーに依拠して,企業の労務担当者と企業別労働組合の現実主義/生産性路線をつるし上げていたわけですが,ある意味で彼らの階級主義路線は労使協調を否定するものとして,財界内部の強硬派とUnholy Alliance状態にあったわけで.ただ今日よりも前者がずっと政治的に強力だったりとかいろいろな違いはあるとは思いますが.

そうなんですが、その頃は「リベサヨ」じゃなくてただの「サヨク」なんです。彼らは別に個人の自由とか何とか言ってたわけではない。まことに古典的なコテコテの社会主義サヨクであったわけで。その彼らが、タカ派経営者と一見華やかな空中戦を繰り広げているように見えて実は神聖同盟を結んでいたというのはその通りなんですが(個人的には、そういうコテコテサヨクなおじさんたちというのは(莫迦だったとは思うけど)人間的には軽蔑する気にはなれない。一つの生き方として、尊重はしたいなと思っています。少なくとも、「お前たち間違っただろう、このバーカ」などという言い方をする奴は許せない)。

本文で述べたのは、何とかチルドレンみたいな大変リベリベなサヨクの皆様のことなんです。管理教育と社畜がこの夜の諸悪の根源だと思いこんでるような、ね。そういう連中と規制緩和派の90年代型の神聖同盟の話です。何が何でも社畜を檻から出したくってしょうがない奴と、そうやって出されてきた安い餌をむさぼり食いたい連中の神聖な同盟ね。

多分こっちの方が構造がわかりやすい。「性の自己決定」とか言ってブルセラ女子高生をもてはやす奴と、それをAVに送り込んでぼろ儲けする奴の協定書なき神聖同盟とか、似たようなのはいろいろあります(そういえば、7年ほど前にも同じようなことを喋った記憶があります)。
http://homepage3.nifty.com/hamachan/21seiki.html


もっと卑俗に言うと、

石原慎太郎(売春×)vs宮台真司(売春○)

の政治闘争ですかね。どっちの商売にも需要は
あるようですけれど。本田先生は最近、後者に
近づいていたようで。

ユキたんがブルセラ野郎にとられそうになったので逆上したと。

hamachanさん、おっしゃる意味、分かります。

わたしも市民運動・労働運動の人たちと話し合っていて、よくそういう話題になります。必ず何割かの人、それもキーパーソンになる人のなかで、社畜批判が出てきます。だけど、一日二日でクビになる日雇いワールドの住人は、社畜になる権利さえ奪われているのが現状です。いや、元から中小企業とか、大企業の季節工・臨時工などはそういう立場だった。
フリースクール関係者の一部は、新しい生き方・新しい文化という発想に視野狭窄を起こしています。フリーターは新しい生き方なのでOKということだそうです。けれど、それはある面伝統回帰でもあり、進歩の後退でもあるという点については盲点になっており、きちんと話せません。

>なるほど さん

うるわしのユキさまはみんなのもの。誰かが独り占めしてはいけないのだと思いますが、どうですか?

<以下のセンテンスは本人の申し出により削除しました>


>(ワタリさん)
>一日二日でクビになる日雇いワールドの
>住人は、社畜になる権利さえ奪われて
>いるのが現状です。いや、元から中小
>企業とか、大企業の季節工・臨時工などは
>そういう立場だった。

上で売春の話を出しましたが、むしろ
売春を禁止すると、それが檻(法)の
外に出しまい却って悪いことになると
いうのが、宮台氏の主張のようです。

風俗譲もキャリアパスが描けるような
そういう社会が良いとは、個人的には
思うのですが、スポーツ選手のように
年齢的な問題もあると思いますし、J
リーガーは、現役時代から専門学校に
通っている人も多いというような噂も
聞きます。ここら辺に問題が先鋭的に
現れているように思います。

すみません、2つ前のわたしのカキコは下品な表現が含まれていますので、管理人さんによる削除を願います。失礼しました
m(_ _)m。

ワタリさん、お久しぶりです。

そういう市民運動の感覚をクタクタに批判しているのが、薬師院仁志さんという方の『日本とフランス 二つの民主主義』という本です。
政治学者の方によれば、社会科学論文としては碌でもない出来のようなんですが、日本のサヨクが自由ばっかり求めて平等をほったらかしにしていることをこれでもかこれでもかと批判していて、フランス仕込みの「ソーシャル」な感覚が横溢した本です。
私自身、8年前にヨーロッパから日本に帰国して似たような感覚に陥った経験があるので、感覚的には大変共感するところがありました。

この際ですから、リベラルという考え方のもとを探ってみましょう。本来なら、社会思想に詳しい稲葉先生あたりがされるべきなんでしょうが、小役人なりに子供向きのチャート式よろしく説明してみますね。

学校のクラスに腕っぷしの強い不良と腕力のない弱虫がいると、前者が後者をいじめます。強いものが弱いものをいじめる学校は、弱虫だけでなく、いつ自分より強い奴にやられるかと不安な番長も安心して生きていけないつらいいやな社会です。いじめをなくすにはどうしたらいいでしょう。担任の先生に全権を与えて、どんな番長でも先生のいうことを聞かなくちゃいけないことにするのが一番です。世の中全体についてそう考えたのがホッブスという人です。ホッブスさんにとって、人間って奴は、ほっとくと強い奴が弱い奴をいじめるいやな生き物なんですね。だから、そういういやな生き物があまり苦しみを味わわずに生きていけるようにするには、一人一人が持っている他の人をいじめる力(権力)を王様一人に譲り渡して、王様以外はお互いにいじめることができないようにしようと考えたわけです。

でも、これだけだと、番長にいじめられることはなくなるかも知れないけれど、先生にいじめられるかも知れません。この学校では先生が全権力を握っているのですから、先生にいじめられたら逃げ場がありませんね。そこで、ホッブスさんの考え方をもう少し先に延ばして、生徒たちから取り上げた先生の権力を、今度は生徒たちのコントロールのもとに置くべきじゃないかという考え方がでてきます。生徒たちで生徒会の代表を選んで、先生が勝手に生徒をいじめられないようにすれば、生徒同士のいじめもなくなるし、先生によるいじめもなくなるから、これが一番いい、というのが、ホッブスさんのような発想の延長線上に考えられる民主主義というものです。これをホッブス的民主主義といっておきましょう。もともと一人一人が持っている権力をいったん国家に集めたうえで、それを国民の意思でコントロールするという考え方。ヨーロッパの民主主義は基本的にこういう考え方だと思います。これは「リベラル」じゃない考え方です。

これに対して、リベラルな人々は、一人一人が持っている権力をどうしていったん国家に集めなくちゃいけないんだ、と考えます。いったん全て先生のいうことを聞かなくちゃいけないということにした上で、その先生が今度は生徒たちみんなの意見を聞かなくちゃいけないなんて、持って回った面倒くさい仕組みにする必要なんかないじゃないか、最初から生徒がみんな集まって生徒会を作って、みんなそこで決まったとおりに行動するということにすればいいじゃないか、という発想です。いったん国家権力に集約することなく、下からの民主主義で世の中はうまく回るはずだと考えるんですね。え?それこそ正しいじゃないかって?

はじめのところに戻ってくださいよ。学校の中ではいじめが横行してたんですよ。弱虫はおびえて小さくなっていたんですよ。忘れたんですか?いや、そんなことなかった、最初にいじめなんかなかったんだ、最初はみんな仲良く楽しく学園生活を送っていたのに、先生が権力を振り回し始めたからいじめが横行するようになったんだ、というのがロックさんです。ロックさんの発想は、ヨーロッパではあんまり現実的ではありませんでした。だって、現実に目の前に、狭いヨーロッパの中で土地やら食料やらを取り合って殺し合う人々がいっぱいいたんですから、何を脳天気なこといってるの?というところでしょう。ところが、アメリカという新天地では、(ホントはインディアンという先住民がむちゃくちゃいじめられてたんですが)ヨーロッパからやってきた移民たちにはいくらでもフロンティアが広がっていたので、国家に全ての権力を集中しなくちゃお互いがいじめあってひどいことになるという感覚が少なかったのでしょう。

でも、いったん先生に権力を集めた上で生徒の意見を聞いてもらうのでなく、はじめから生徒同士で生徒会を選んで意見をまとめようとしたらどうなるでしょう。弱虫は同じように堂々と自分の意見を出せるでしょうか。強い奴は先生が見ていないから弱い奴を好きなようにいじめて、強い奴の思い通りにするに違いありません。ホッブス的な世界でロック的な民主主義をへたにやってしまうと。民主主義どころか最初のいじめが横行する世界が増幅するばかりです。

会社の中でいじめやセクハラが横行していたら安心して仕事ができません。安心して仕事をするためには、社長や幹部がきちんとそういう悪い行為を抑圧して、悪い社員が好き放題できないようにしなくちゃいけません。悪い社長が社員をいじめたりひどい目に遭わせたりしないようにするには、国の役人がきちんと監督しなくちゃいけません。そういうことが一番大事なことだと感じられるか、感じられないかというあたりに、リベラルになるかならないかの分かれ目があるように思います。リベラルな人にとっては、いじめやセクハラが起きないようにという理由で、会社が社員のやることにあれこれと干渉してくるのが一番悪いことです。会社が社員をひどい目に遭わしていないかといって国家権力がサーベルを振りかざしてくるのが一番の悪事です。

普通、強い奴がリベラルになります。そりゃそうです。弱虫がリベラルなんていってた日にゃ、いじめられるばっかりで何にもいいことがありません。弱虫にとっては、いったん国家に権力を集中して、強い奴が力をふるえないようにした上で、自分の意見を反映してもらうようにするのが一番です。

ところが、日本のサヨク知識人というのは不思議な存在なんですね。弱虫のくせにリベラル、リベラルっていいたがる。なぜなんでしょうか。

クールな濱ちゃん先生がちょっと熱く
なってるような?

確かに、「銃の自由化」とかって主に
共和党ですよね、たぶん…

おっしゃるところの「リベサヨ」の源流は「反戦平和」「ノンセクトラジカル」ということになりましょうな。
旧左翼(含む新左翼セクト?)のだらしなさが悪いのか? 

日本の場合、いわゆる「戦後民主主義」が、超強権的な「社会国家」的秩序の解除という問題からスタートしなければいけなかったから、「国家からの自由」を言い続ける必要があった、という文脈もあるのでしょうか?
あ、でも、もしそうだとすると、ドイツでも、同様のネジレが生じたりしてるんでしょうか。それともそれは「特殊日本的」?

>ところが、日本のサヨク知識人というのは
>不思議な存在なんですね。
>弱虫のくせにリベラル、リベラルっていいたがる。
>なぜなんでしょうか。

そりゃそうです

校内暴力を抑える為にやってきた管理教育は教師や学校の施設、備品は守ったけど弱い生徒は守ってくれずに、逆にいじめは激増しましたから。

hamachenさん、適当な処置をしていただきありがとうございます。

思想史的な整理、上手だと思います。

ただ、わたしのほうから言うと、日本の各種社会運動の場合、古きよき60年代・70年代で頭が固まってしまっていると思うのです。
で、その後の世界の変動についていっていないんです。もちろん、60年代以前に対する歴史的視野もありません。
60年代から、同じ時代感覚・同じ思想のものばかり集まって、コミュニティを作る。その界隈でばかりつきあい、議論する。すると、どんどん他の世界がわからなくなってくる。
ですから、世界や日本の格差がすさまじいとか言っても、通じません。この世に差別・抑圧・貧困・社会的排除といったものがあること自体をその人たちは信じられないのです。
で、自由・自立・責任を何の疑問も違和感もなく唱える、と。それが若い世代や旧第三世界や不利な立場の人々への社会的排除となり圧政となることを指摘されても、60年代原理主義者は、めげません。「そんなことを言うヤシはこのコミュニティから出てゆけ!」といわんばかりに冷たく排除します。
あるいは、「そんなことを言っているのは、親をはじめすべてのものへの感謝の念が足りないから」と説教するばかりです。(これは、わたしがあるフリースクール主催者に労働・失業問題を訴えようとしたときに言われたセリフです。)

hamachen流に言えば日本式リベサヨ、わたしのほうから言うと60年代原理主義者といったところです。

この間もある組合関係者から、「昔はみんな正社員で幸せに働いていた。なのに80年代半ば、労働者派遣法ができてから、派遣やパートなどが異様に増えた。これは、若者が会社に定着しなくなったからだ。組合に入れば問題解決なんだ。それ以外の道はないんだ」といった内容の、熊沢誠さんの議論をより若者嫌悪流に焼きなおした話を聞かされたところです。当然、その話の歴史的視野のせまさや、若者に責任をなすりつける論法にはうんざりです。


たんに、気持ち悪いハゲオヤジがいるなぁwってだけの話じゃん。

ネットヲタ以外だったら、
「うわっキモw」
っていってお終いですよ。こんなの。

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