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2006年8月

2006年8月31日 (木)

所感

今週に入ってからアクセス数が連日4桁を大幅に超えている。それはいいんだけど、今までなかったようなたぐいのコメントがごちゃごちゃつくのがうざい。「ブログを公開で運営していく精神的・時間的余裕がなくなってき」たわけじゃないけど、書いてる側のレベルでコメントしてくれないと、気持ちがよくないね。(「今さら何を言う」と稲葉先生には叱られそうだな。いやおっしゃるとおり自己責任です。)

厚生労働省の予算要求

その「フリーター25万人常用化」や「70歳まで働ける社会」も含めた厚生労働省の来年度予算要求の概要が載っています。

http://www.mhlw.go.jp/wp/yosan/yosan/07gaisan/syuyou.html

PDFファイルはこちらです。

http://www.mhlw.go.jp/wp/yosan/yosan/07gaisan/dl/syuyou.pdf

やたらに「再チャレンジ」という言葉がちらつくなあとお感じになるかと思いますが、そこは小役人ですからね。「新たなチャレンジを目指す若者等への支援」の中で目玉は「年長フリーターに対する常用就職支援」で、「再チャレンジ機会拡大プラン」とか、「年長フリーター自立能力開発システム」などが挙がっています。

製造業の請負労務対策としては、適正化及び雇用管理改善のためのガイドライン、チェックシート、さらに行動計画策定のためのモデル事業が挙がっています。また、派遣労働者・請負労働者の能力開発・キャリア形成のための仕組み作りも挙がっています。監督強化だけでなく、こういう地道な対策をきちんと積み上げていくことが重要です。ここには挙がっていませんが、安衛法改正を受けた安全確保対策も需要です。

谷垣禎一氏の政権構想

8月17日のエントリーで紹介した谷垣禎一氏の政権構想が、氏のホームページ上で公開されました(自民党総裁を目指す立場なので、「財務相」という肩書きはつけません)。

http://www.tanigaki-s.net/seisaku.html

http://www.tanigaki-s.net/seiken-kousou.html

まず、総論は「絆の社会の再構築」。小泉改革は「創造的破壊」だったと一応褒めた上で、「破壊のあとには創造が必要」と、ブレア流。「改革が目指す先は、決して効率性だけを追求する弱肉強食の一面的な冷たい社会であってはなら」ず、「「古いもの=悪、新しいもの=善」という単純な図式にとらわれるべきではない。私たち日本人が綿々と受け継いでいる価値観を大切に育みながら、新しい価値観を取り入れ、両者をうまく調和していく」というのです。

その鍵は「絆(きずな)」。いい言葉を見つけましたね。「皆が隣人の優しさや温もり、「絆」を感じながら、生きがいをもって活動する。改革の先には、こうした「絆」の社会を築いていくべきではないだろうか」。よほどの偏屈でない限り、これは賛成でしょう。

具体論として、「最も力を入れるべきことは、「人」をつくることである」と、これもブレア流。その中味は実にいいことが書いてあります。思わず全文引用しちゃいますね。

「我々はこれまで信頼できる社会システムを構築することで、こうした日本人の特質をうまく引き出すことによって社会や経済を発展させてきた。しかしながら、90年代の経済の低迷、それに伴うリストラなど働き方の変化、求められる人材像の変質、日本をとりまく状況の変化、国際競争の激化は、多くの日本人の自信を失わせ、これまでの働き方にも教育の在り方にも疑問が投げかけられるようになった。

 だからといって欧米流の教育や働き方をそのまま移植すればいいとは私は考えない。我々はここで一旦立ち止まり、本来存在する日本人の素晴らしい本質を最大限に引き出し、その魅力を最大限高めるべきではないか。

 例えば、技術や能力を磨き、人と人とがお互いに競争し、あわせて協調することを通じて、各々が持つ個性が伸び伸びと発揮され、元気な日本が実現する。資源のない日本にとって、勤勉でよく働き、チームワークが得意で応用力に優れた国民性は貴重な財産であり、これを今後とも育んでいかねばならない。」

そうなのよ、そうなのよ(「日本人の素晴らしい本質」とかの非科学的発言は目をつぶってね。正確には日本人が社会的に作り上げてきた性質なんであって、別にDNAに書いてあるわけじゃない)。

教育については、「漢字や九九の学習で行われているような徹底的な反復学習を義務教育全体にわたって行」う「読み書きソロバン世界一プロジェクト」や、「社会人を含む多様な教員を採用し(「絆学校」)、逆に教員も社会に出て実社会の経験を積む(「先生修行制度」)」ことを提唱しています。

ここからが労働社会政策に大いに関わる部分です。

まず、「社会の支え手を増やす」という観点から、女性と高齢者が働き続けられる社会を訴えています。これはまさにEUの雇用政策、社会政策がここ10年あまり提起してきたことであり、OECDも最近熱を入れている点です。その影響が強く表れていて、特に高齢者の雇用に重点が置かれています。具体的には、「定年制の廃止を見据えて70歳までの雇用確保措置を徹底し、企業の雇用インセンティブを高めるため、年功型賃金を改めて貢献度に応じた賃金体系を広めるべき」とか、「企業が退職間近の社員の能力開発費用を積極的に増加させた場合に法人税を軽減(教育訓練費の増加に関する法人税額の特別控除制度を拡充)」するとか、「高年齢者の能力開発のための各種助成制度も思い切って拡充する」といった政策によって、「60歳から64歳までの高齢者の労働力率(働いている方の割合)を、今後20年間で、男性で現在の70%から85%に、女性で40%から60%に引き上げていきたい」という数値目標を提示しています。

こういう労働力率の数値目標はいいのですが、定年制の廃止とか、年功型賃金を改めるとかというところについては、もう少し検討の要がありそうです。そもそも、60歳を超えて年功賃金を適用しているところなどほとんどないでしょう。何歳くらいまでは年功制が効果的かという人事労務問題についてはいろいろ蓄積もあるので、何でもかんでも成果主義がいいという風にいってるかのようにとられない方がいいように思います。

もちろん、一方で、「必ずしも雇用という形にとらわれる必要はない」とし、ボランティアやシルバー人材センターにも言及しているので、多様な参加の形を考えておられるんでしょうが。

また、「同時に、個性や能力、性別や年齢に応じた多様で柔軟な教育を受ける機会が提供されなければならない」と、リカレント教育訓練にも目配りしています、「大学は何も若者だけを対象にした教育機関ではない」という言葉は、このままでは少子化でどんどん潰れていく大学としてはよく聞いておく必要があるでしょう。

少子化対策については「若者が置かれている労働環境をみれば、安定した仕事に就いているが深夜まで働くことを余儀なくされるものがいる一方で、家族を養っていけるだけの経済力が得られない不安定な雇用にしか就けない者がいる。これでは結婚からは遠ざかるばかりである」と述べて、「長時間労働をいかに減らしていくか、安定した雇用機会をいかに提供するかという労働問題の解決が少子化への対応の第一歩である」とまあ穏当な発言です。

ホントのところ、前にもここで書いたように、長時間労働者の方が結婚してはいるんですけどね。結婚しちゃうと、長時間労働者の方が性頻度は低くなるけれど、結婚もセックスもできないのはビンボな若年非正規労働者なんですから。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_cade.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post_913c.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_c922.html

そういう若者を念頭に置いて、「格差意識への対応」を打ち出しています。小泉政権として、「格差の拡大はない」と内閣府の御用役人が分析しちゃってるので、「私は格差が現実に存在しているかどうかという議論に立ち入るつもりはない。問題は、「勝ち組」「負け組」といった言葉に象徴されるように、人々の意識に社会を二極分化、対立の構図でとらえる意識が見られ、そして、多くの人が自分の置かれた立場に自信をなくし、自らが社会的に不当な立場に置かれていると思っていることなのだ」と、見事な問題設定の切り返し。そして「バブル崩壊による雇用悪化のしわ寄せを最も受けたのは、「若年者」である」「フリーター、ニートといった問題にみられるように格差の固定化は人々の生きる意欲を低下させるものであり、それを防ぐことは重要な課題である」と述べ、「新卒者だけでなく、就職氷河期に希望する就職に恵まれなかった世代も含めて、「フリーター25万人常用化計画」を打ち出しています。これはまさに適切な政策です。「フリーターがフリーターのまま幸せになれる社会」なんて構想よりもね。

谷垣氏はさらに進んで、「パートや派遣といった非正規労働と正規労働の労働条件の均衡を図ること」や「労働市場の流動化を進めること」にも言及しています。もちろん、「個人単位で能力・キャリアが評価される社会の仕組み、年金のポータビリティを高めるといった制度的問題の手当」は必要ですが、うかつに流動化促進論をぶつと、大事な「絆」がどうなるかも考えないといけません。「人と人とがお互いに競争し、あわせて協調する」ようなチームワークには、一定の定着性が必要です。

地域の活性化は出馬する3氏が一番競っているところですが、ここではパス。

社会保障と財政について、「消費税を社会保障のための財源と位置づけ、2010年代半ばまでのできるだけ早い時期に、少なくとも10%の税率とする」点も、新聞等でさんざん報道されているのでこれだけにしておきます。

憲法やアジア外交、靖国問題も、特にコメントしません。まあ穏当なところでしょう。

2006年8月30日 (水)

無能者差別禁止法

平家さんの「2006年福祉宇宙の旅」に対しても、何かコメントを思いながらそのままになっているのですが、少し休んで補給をされるとのことなので、本格的なコメントはその上でということにしたいと思います。

http://takamasa.at.webry.info/200608/article_27.html

その代わりに、ある意味でここでの議論と通じるものがある面白い記事をあるところで山形さんが紹介していたので、ぷらぷらと考えてみます。

http://www.freakonomics.com/blog/2006/08/26/important-new-legislation/

(via) http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20060828#c1156741004

要は、アメリカの障害者差別禁止法のパロディで無能者差別禁止法なるものが制定されたぞうという世界を描いているんですが、こういう記事を読んで腹を抱えて笑っている経済学者の払った税金もまたフードスタンプなど福祉に回っているわけで、(もちろん経済学ネタとしてからかっている分にはいいのですが)マクロには本当はどっちが合理的なのか?という問いはなかなか難しいところもあるのですね。

エセ歴史家の視点からすると、戦時中の日本はまさにこれに似た政策をやったわけで、そのなごりがある意味で戦後もずっと続いてきたわけですが、無能な者を企業の中に抱えている社会と、企業の外に放り出して福祉で食わせている社会と、どっちを選ぶかというのは、経済学者の一時の慰みにしておくにはもったいない社会科学的含意があります。もとの記事ではこういうトンデモ法律を作ったのはクリントン大統領だということになっていて、それでまた保守派の皆さんは大受けするということなんでしょうけど、今までの福祉をやめてワークフェアにするんだと最初に言い出したのがクリントン政権であることを考えると、この記事は(恐らく書いた人の想定以上に)真に迫っている面がありますね。

一点だけ労働法学者としてつまらない指摘をしておくと、この問題がこういう記事になるのはアメリカが障害者についてクォータ制をとらず、差別禁止政策をとっているからなんですね。だから、最後にあるように、却って無能者の割合を下げる云々という話になる。そういう特殊アメリカ的要素を取り除いて、日本やヨーロッパ的な雇用政策、社会政策の枠組みでこの記事をモディファイすると、無能な奴らでも雇っといてくれよという政策(「無能者雇用促進法」ないし「無能者雇用確保助成金」!?)になって、ちょっと言葉はえぐいけど、一体どこが面白いの?ということになる。

(社会生物学者なら、蟻の生態を引いて、2-6-2の法則を持ち出されるかも知れませんが)

年齢差別に関する論文

おいおい、ここは「EU労働法政策雑記帳」という看板を掛けているんじゃないのか。どこにEUの話があるんだい?

いや、前の方にかなりあるんですけど、最近ネタが夏枯れで全然手に入らなかったもので・・・。

ということで、看板通りEU労働法の話をします。といっても、ヨーロッパの役人連中、夏休み中はみんないなくなっちゃうので、新しいネタはない。むかし、8月15日に訪欧するからしかるべくアポを取れと言う無茶な指令が来たこともあったなあ・・・。それはともかく、イギリスから新しいアカデミックなネタが入りました。オックスフォード大学のIndustrial Law Journalです。

http://ilj.oxfordjournals.org/content/vol35/issue3/index.dtl

EU指令を受けて今年イギリスで制定された年齢差別規則についての論文が2本、前にこのブログで紹介したマンゴルト事件ECJ判決の評釈が1本。年齢差別関係で3つも載ってて読み応えがあります。

中味はまあ関心ある人は読んでください、ということですが、ちょっと感想みたいなことを。年齢差別ってのは、性別や人種と違って、「みんな昔は若かった」、「みんないずれは年をとる」という一種の平等性があるわけで、一律に行かないことろがあるんですが、それにしても例えば90年代の失われた10年に就職できなくってフリーターになってしまった人が年齢制限で門前払いを食わされるという事態に対して、「お前も昔は若かった」で済ませられるかというとそうではなかろう、というのはみんな感じるところなんですね。

この辺をどういう風にうまく制度に組み込んでいけるのか、マンゴルト事件みたいなヘンチキリンな副作用がないように、守られるべき利益をきちんと守りながら考えていかなければいけないんですね。

ネオリベとリベサヨの神聖同盟

もじれ事件自体は、私が戦略的に方法論の次元に集中する形で進行したたため、内容の問題に関心のある方々に若干の不全感を残しているようです。あのナポレオンもどき自身はニセ者だったかも知れないけれど、世の中の大きな動きを象徴するものとしては意味があるんじゃないかというような感覚が、ここかしこにあって、たかが事実確認ごときで本田先生をいじめ抜くとはなんて悪い奴だ、という反発になっているんでしょうね。

本田先生からいえばそんなのは贔屓の引き倒しで、社会学者の道を踏み外してもイデオローグとしてもてはやされればいいというようなものですから、応援しているように見えて、実は彼女の(まともな学者としての)学者生命を絶とうとしているに過ぎない。ホントに危険なのは親切そうに手を差し伸べる奴だというのは、人生の教訓です。

ただ、せっかくですから、中味の話をしておきましょう。なんで、(本田先生が最近悪い連中に誘われて引っ張り込まれようとしていた)リベラルサヨクな連中は、一見ものの考え方が180度違うかのように見えるネオリベラルな世界観に(「抵抗しなくちゃいけないんだ」などと一見反対しているようにいいながら)いそいそとすり寄っていこうとするのか、という論点です。

実は、90年代以来の日本社会の動きの背景には、そのメカニズムが働いているんです。題して、「リベサヨとネオリベの神聖なる同盟」。

あんまり抽象的なレベルでやってもしょうがないから、労働政策を例にとります。今まさに審議が再開された労働契約法制がいい例です。この中で最大の論点は(ここで使えるように思い切って単純化しますよ)、過半数組合が賛成すれば労働条件の不利益変更は合理的だと推定して、反対する労働者も拘束するようにしようという提案です。実のところ、経営者側の主流も、労働側の主流も、この方向性を支持しています。というか、まさに自分たちがこれまでやってきたことなんですね。経営側の主流派からすれば、主流派組合を納得させられれば労務コストの引き下げができるのだからその方がいい。組合主流派からすれば、自分たちが事実上の拒否権を持った形で同意して経営者に恩を売れますからその方がいい。

これに対して、一部の急進的なネオリベ派経営者にとっては、協調的な組合主流派も過激な反体制派も選ぶところはないのであって、文句言う奴はさっさと潰せばよいのに、余計なコストをかけて懐柔するなんて馬鹿馬鹿しい。てなことを思っても、労政審では「労務屋」さんみたいなのが主流なので浮いてしまいますから、規制改革会議で騒ぎ立てるということになります。

一方、反主流派というか、労働運動の少数派(昔は公共部門では威勢を誇っていたんですけどね)にとっても、「労務屋」さんと「労働貴族」どもが結託していたんでは自分たちの出番がない。ネオリベ派が権力を握って、協調的な組合幹部どもが「お前らも要らないんだ」と悉く踏みにじられる姿を全ての労働者諸君に目の当たりに見せつけることによってのみ、自分たちの存在意義がくっきりと浮かび上がってくるのです。

敵の敵は味方、というのは古典的な政治学の金言ですが、この労働契約法制をめぐって、ネオリベとリベサヨの神聖なる同盟が成立する基盤があるということがおわかりになると思います。別に同盟の協定書があるわけではありません。両者間には何のコミュニケーションもないかも知れない。しかし、かくも明確な利害の一致に裏打ちされた同盟関係は、なまじな協調関係よりも強い面もあります。これは、実は1990年代初め頃から進行していた事態です。

思い出していただけると有り難いのですが、90年代初め頃、それまで褒め称えられていた日本的雇用システムが批判されるようになりました。どういう批判が主流だったか覚えていますか?グローバル化に対応できないとか何とかいう、その後規制改革派が騒ぎ立てたネオリベ風の批判ではなかったんですよ。個人の自由を抑圧するシステムだとか、息が詰まるとか、人間を奴隷にするものだとか、「社畜」(@佐高信)なんていう素晴らしい言葉もありましたねえ。90年代の規制緩和路線は、そういうリベサヨ的な言説から始まっているのです。嘘だと思ったら、この15年くらいの新聞雑誌をひもといてみてください。

そういう流れの中で、それまで労使主流派連合の制圧下にあって息も絶え絶えだったサヨク労働運動のなれの果てたちが、細川政権だの、村山政権だので、最後っぺの如く大臣ポストを手に入れます。ま、しかしそれで旧社会党は力尽きて事実上潰れたわけです。しかし、そのもとで繁殖していた(何とかチルドレンといった)リベサヨ連中はしぶとく生き残って、いろいろとゲリラ戦をやってる。

所詮ゲリラ戦ですから、世の中の大勢に影響力などありはしないのですが、自分たちに存在意義を与えてくれる有り難ーーいネオリベさんたちには、「抵抗しなくちゃいけないんだ」と一応は言っておくけれども、本気で喧嘩を売る気はない。「社畜」を解放してくれる有り難い存在ですしね。

某人材派遣業のボスとブルセラ社会学者が「フリーターがフリーターのまま幸せになれる社会」で一致するのも、別に不思議ではありません。「幸せ」の中味が多分違うと思いますけど。

もっぱら喧嘩を売るのは、自分たちの存在意義を無にしてしまう商売敵です。ここでの文脈で言えば、「労働貴族」とそれに結託する「労務屋」どもということになりましょう。今さら「フリーターの正社員化」なんてやらかされては、飯の食い上げになってしまう。ね、実にわかりやすいでしょう。

(注)上記説明は、本筋以外は全てざっくり切り落としていますので、専門家からみたら単純化のしすぎです。その点、ご注意下さい。

2006年8月29日 (火)

改正男女均等法の「職種」概念

「日本の労務管理」に「異動・配転」をアップしましたが、その直後に厚生労働省のHPに改正男女均等法に基づく性差別禁止指針の案が載っていまして、これを見ていくと「職種の変更」ってのが出てきたんですね。

http://www.mhlw.go.jp/houdou/2006/08/dl/h0828-1b.pdf (11ページ)

これは改正法で新設された規定に基づくものなんですが、よく考えてみると、ここでいう「職種」ってのはいかなる意味でもジョブではないんですね。だってここで出てくるのはほとんど、「一般職」と「総合職」の話だけなんですもの。これは、実体は「社内身分」なわけで、「職種」じゃない。敢えていえば、総合職ってのは、どんな仕事でもやります、やらせますって職種かな。少なくとも、先にアップしたテキストに書いてある配置転換と職種の限定がどうたらこうたらというのとは違う話なんですね。

というようなことも考えながら読んでいくと、こういう政策文書も面白いですよ、というお話し。

異動・配転

8月22日のエントリーの続きです。「日本の労務管理」講義案の5回目、第1章「雇用管理」の第3節「異動・配転」です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/Transfers.html

労働条件分科会再開!

労使の委員が怒って席を立っちゃったままになっていた労政審の労働条件分科会ですが、めでたく8月31日に再開することになった模様です。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/08/s0831-1.html

これは新任審議官の努力によるものでしょうね。まあ、前任者が研究会報告の枠をはみ出して労使にきちんと根回しもしないまま勝手な案を繰り出して、労使からスカンを食らったわけですから、「ごめんなさい、これからは労使のご意見をよく聞いて運営に努めます」と謝れば、もともと法律を潰そうと考えているわけではないのですから、土俵に戻ってくるのも不思議ではありません。

厚生労働省の一斉人事異動は今週金曜日(9月1日)なのですが、それを待たずに労働基準担当審議官だけ1月以上前にすげ替えたのは、夏の間に労使を回って再開できるようにしておけというトップの判断だったのでしょう。その判断は正しかったわけです。

ま、労働契約法制はあまり対立点が残っているわけではないので、もともと問題がある上に事務局の論点で却ってこじれさせてしまった労働時間法制のもじれをほぐすのが当面の課題ということになるのでしょう。新たな事務局体制の手腕や如何に、というところです。

2006年8月28日 (月)

稲葉先生の冤罪

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060827/p1

一線を越えてるかどうかは別として、稲葉振一郎先生が「政治的な効果を狙った活動」をしているとか、「瑕疵をあげつらって、大げさに人格攻撃を繰り返」しているとか、「何かを狙ってやっている」とか、「ただ「あいつはきにくわない」で動いている」とか、「何らかの政治的(あるいはビジネス的)目標達成のために戦略的に動いている」とか、「将棋の差し手のようにネガティブ・イメージ作戦をやっている」とか、というのは事実に反しますよ。なぜなら、彼は単に私に「一票」と言っただけですから。少なくとも本田先生との関係においてはね。

もし、今回の経過の中で「あたかも本田さんがこの一例をもって証明をしているかのように本田さん像を極端なまでにゆがめて、さんざんネガティブ・キャンペーンを行った」人間がいるとすれば、それは私以外にはあり得ないはずです。横から「一票」投じただけの稲葉先生がすべての黒幕だというのは、まあ「どこか壊れた」稲葉先生は褒められて喜ぶかも知れないけれど、あまりにも陰謀説というものです。

なぜ、内藤さんは私を正面から攻撃しようとしないのでしょうか。最初からヤマハの人事方針を知った上で本田先生を問いつめていったのは私なんですよ。それに堪えかねてブログを閉鎖したのは明らかでしょう。下手人は私です。稲葉先生ではない。

おそらく、本田先生は、えせヘーゲルにはなりきれなかったのでしょう。「現実は無限に複雑で、事実に合っているかどうかとは別の使い方で、一定の文化意義にしたがって理念的な絵を一面的な価値関心から描くことによって、意義深い研究ができる、という観点から」ナポレオンもどきをナポレオンだと強弁して、「これからの世界を覆い尽くす「蓋然性のある」パタンを、馬上のナポレオンのように印象深く指し示している」などと平然と口走ることができなかったのでしょう。それを本田先生の学問的良心と見るか、知的怯懦の現れと見るかは、その人の思想によって評価の異なるところでしょうが。

物事を政治的立場のウヨクサヨクだの、何とか主義かかんとか主義かと言ったようなことで判断し、事実が存在するかどうかよりも、どちら側に有利か不利かというようなことで行動を決めるようなあり方は、そういう学者先生が世の中に結構いることは確かですが、私は知的不誠実の最たるものだと思っています。労働問題は、特にそういう傾向の強いところでしてね。そういうのは党のお覚えはめでたくなるかも知れないけれど、何にも役に立たない。これは本人の政治イデオロギーとは別です。事実を歪めず、知的に誠実な業績は、本人はもの凄い新左翼であっても、その論文は何十年後にもフルに使える。この業界にいるとそういうことがよく分かります。最後の瞬間に知的誠実さに踏みとどまったという点で、私は本田先生を評価しています。

ちなみに、本田先生と『ニートっていうな』を書かれた後藤和智さんのブログには、ナポレオンもどきを見たヘーゲルさんが山のように出てきますね。ヘーゲル正高は多分、電車の中で化粧する女子高生を見た瞬間に馬上のナポレオンを感じたのでしょう。そういう学問も世の中には存在しうるわけですから、別にいいんですけど。

請負略史

請負労務というのはどういうもので、どういう風に発展してきたのかということについて、あんまりきちんと書かれたものがないのですね。私なんぞがまとめるのは本来おこがましいところもあるんですが、最低限これくらいは弁えておきたいことを箇条書き風にまとめておきます。

まず、「日本の労務管理」の講義案でも繰り返しお話ししているように、明治期の日本では、親方職工が子分(一般職工や徒弟たち)を率いて「組」を作り、この親方が工場主から仕事を請け負って組のメンバーの割り振って作業を行い、賃金も親方が一括して受け取って子分たちに配分するという仕組みでした。採用も解雇も、怪我したり病気になったりしたときの手当も親方の責任。こういう請負的雇用が出発点なんですね。

日露戦争前後から、こういう間接管理から直接管理への転換が進み、それまで親方職工がやってきたことのある部分(雇用管理や賃金支払、福利厚生)は企業が引き取り、ある部分(具体的な指揮命令や昇給に当たっての査定)は企業の役職としての職長の仕事になります。

ところが、工場内にはいろんな仕事があるわけで、パカッと取り外しできるような部分は直轄ではなく、「組」請負制のままとした。というか、それまでの親方請負では、請負なんだけど親方もその下の子分も工場に雇われているという身分だったのだけど、一方でメインの仕事の直轄化が進むとともに、メインじゃない仕事をやる「組」の親方も子分も工場とは直接雇用関係がないという風になっていったわけ。

これで、雇用と請負は別のものという風になったんだけど、直轄職工の方にも「請負」という言葉は残ったんです。賃金決定方式というコンテクストでね。これは実は未だに実定法上に残っています。労働基準法第27条を見てください。「出来高払制その他の請負制で使用する労働者については、使用者は、労働時間に応じ定額の賃金の保障をしなければならない」とあります。この「請負制」とは、もちろん雇われている労働者の賃金をどういう基準で払うかという話で、民法や商法の請負とは違います。

さて、工場と直接雇用関係がなくなって労務を提供している「組」のことを、戦前期には「労務供給請負業」と呼んでいました。ほらまたここにも「請負」が出たよ。つまり、労働者供給事業というのは、請負事業の一種なんです。というか、普通に請負というと、そういうものが想定されていたんですね。で、戦前の工場法の適用においては、そういう直接雇用関係がない「組」の連中であっても、工場の中で働いている限り、工場主の職工と見なして適用するんだという風にしていたんです。ここは大事です。ほとんどの労働法学者が指摘していない点。

その後、戦時体制が進む中で労務供給事業の規制が始まり、戦時中には重要な製造業における労務供給業の使用が禁止されます。戦後、今度はGHQのコレットさんという人が、大変な熱情を燃やして労働ボスの撲滅を図るんですね。労働ボスが日本の封建制の元凶であり、日本民主化の為には彼らを一掃せねばならん、と。で、このときに作られたのが、有名な労働者供給事業と請負の4要件という奴。コレットの命令で作らされたのが中島寧剛さんというかたです。

で、その趣旨は、正しい請負はこういう要件を充たさなきゃいけないということなんですが、概念規定を妙な形でしてしまったために、この要件で請負になれば、一切関係がないということになってしまったんですね。戦前は請負でも工場主には責任があったのに、それが却って切れてしまった。

ところが、建設業では、重層請負であっても、元請が下請や孫請等々の労働者の労働災害に責任を負うという規定が残りました。建設業では元請は下請労働者を指揮命令するのが普通だからだと説明されているんですが、これは戦前の労働者災害扶助責任法のなごりなんですが、よく考えると、上の4要件と矛盾してるんじゃねえか、という感じですよね。いや、論理的には矛盾してんだけど、現実には合致しているわけです。

建前上は、製造業では工場内で請負と称して働いているというのはなくなった(直用の臨時工になった)ということになっていたけど、なあに、実際は社外工というのが結構いたわけですよ、戦後にもね。ただ、高度成長で人手不足になるにつれて、社外工も臨時工もどんどん減っていった。代わって出てきたのが主婦パートと学生アルバイト。そして、バブル期にフリーターなんてのが出てきて、その後の不況期にどんどん拡大してきたのはご承知の通り。そして、その中で製造業の請負企業というのが急拡大していったわけです。

ある意味で戦前の労働市場に近づいてきたということもできるかも知れません。ところが、法律制度が終戦直後の理想主義の時のままで、しかもそれを厳密に適用すると大変なことになるのでまあ適当にということで長年やってきたのが、ここにきてそろそろ耐用年数が切れかけてきたかなということなのです。もう一遍、正面から「請負」を考え直すべき時期なのではないか、というのが私の考え。

2006年8月27日 (日)

もじれの帰結

昨日、本田先生が「もじれの日々」を閉鎖すると書き込まれました。事態の経緯からして、彼女の決断にもっとも大きな影響を与えたのは私の批判であったことは明らかであろうと思いますので、私の見解を示しておきたいと思います。

http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060826

まずもって、本田先生がこれまで教育と労働に関わる社会学的実証分析にきちんとした成果を上げてこられたこと、そのことについて学界や実務家から高く評価されてきたことを(言わずもがなのことながら)明言しておく必要があります。(後でも書きますが)ブログという部外者がいくらでも入ってこれるメディアであるがゆえに、彼女の専門分野における業績をきちんと認識しないままにあれこれと勝手気ままな落書きのような書き込みがされていることについては、深い憤りを表明しておきたいと思います。私自身、行政にいたからでもありますが、彼女がJILの報告書等で多くの論文を執筆してこられたのを同時期的に見続けてきていましたので、「てめえら、素人の分際であれこれ偉そうなことを言うんじゃねえ」というところです。

ただ、それと同時に、ブログというメディア手段で、彼女が自分の内面をさらけ出すような形で書き込みを続けられていることについては、正直やや危ういものを感じてもおりました。できれば、もう少し知的成果や研究過程の発信といった形で対象を絞り込んだ方がいいのではないか、このままでは彼女の専門分野における業績をふまえての議論にならず、意図を持って近づいてくる人間にいいように振り回されてしまうのではないか、という危惧の念です。

これには二種類あります。単に面白がって寄ってくる夏の虫のような連中はまだいい。今回もそういうのがいっぱい寄ってきましたが、それはそういう奴らだということがわかります。もっと深刻なのは、ある政治的意図で寄ってくる連中です。やや手厳しい言い方になりますが、本田先生はこのブログを始められてから、社会学的実証分析の初心をおろそかにして、そういう連中とのおつきあいにのめり込みすぎたのではないか、と感じています。

もちろん、本田先生がどんな人たちとおつきあいしようが自由ですし、そこから何か学問的に得るものがあるならば大変結構ではあるのですが、それが本田先生の本来の学問的構えを歪めてしまうとすると、問題ありといわざるを得ません。私には、今回の件の最大の問題は、本田先生が(本来の先生のあるべき学問姿勢を離れて)政治的に正しい結論に役立つ「事実」に固執してしまったことであると考えています。

学者にも色んなタイプがあります。思想だのイデオロギーだのを軽々と手品のように操り、知的アクロバットを演じてみせるタイプの学者もいます。そういうのが得意な方はそういう技を披露してやんややんやの喝采を浴びればよい。そういうタイプの人にとっては、ブログというのはうまく使えば実に有益なメディアになるでしょう。

しかし、おそらく本田先生にとってはそうではなかったのです。少なくとも、この「もじれの日々」でよそから多くの人々が寄ってきて書き込みが爆発する話題は、本田先生が本来エクスパタイズを有している分野とは常になにがしかのずれが存在していたように感じられます。そこでの先生の「演技」(とは主観的には感じられていなかったのでしょうが)の繰り返しは、自分が本当に自信を持って発言できることではないことに対しても心持ち緊張を欠いた形で発言してしまうというあまり望ましくない帰結を導いてしまったのではないでしょうか。

このブログを閉鎖すること自体は、冷却期間という意味で賛成です。ただ、実証的社会学者としての本田先生の道はこれからも続いていきます。その研究成果はできれば電子媒体で一般に公開する手段があった方がいいですし、知的なネットワークの中で研究過程をお互いにやりとりする回路もあった方がいい。労働問題というのは学際的な領域ですから、他のディシプリンの人々と交流するための自分の研究の発信の仕組みとしてどんな形がいいのか、じっくりと考えてみましょうよ。

(おまえのブログはどうなんだ?というありうべき質問に対しては、これはあくまでも「EU労働法政策」を皆様に紹介するための手段です。おまけに時たま冗談交じりに自分の意見を書いているだけと答えておきます。あんまり真っ正面からやると疲れますよ。)

2006年8月26日 (土)

厚労省の予算要求

再チャレンジで、年長フリーターの正社員化というのが目玉になっていますが、ここで話題になっていた請負対策もかなり盛り込まれています。一つは業種ごとの能力開発モデル計画、もう一つは請負の適正化指針。まずは法的強制力のない指針作りから、というのは今までもパートとか有期とかやってきたやり方ではあります。偽装の問題だけではなく、安全衛生や福利厚生、それに能力開発なども含まれることになるでしょう。

冥王星の身分がどうなるかよりもたくさんの人に関わる問題ですからね。

2006年8月25日 (金)

業務請負求人が急減

労働新聞(注)によると、業務請負求人が急減しているらしい。

http://www.rodo.co.jp/news/

「厚生労働省の業務統計によると、生産工程の職業における業務請負の新規求人数が急速に縮小し、派遣労働者への求人に入れ替わりつつある実態が明らかになった。今年6月の業務請負求人は、前年同月比15%以上減少したが、派遣労働者に対する求人は同51%も増加した。厚労省が全国で実施している業務請負に対する派遣労働への移行指導が効を奏しているほか、来年から製造派遣の期間制限が延長されることなどが影響している模様だ」とのこと。

(注)

ちなみに、これは朝鮮労働党の機関紙「ロドン・シンムン」のことでもなければ、新左翼の日本労働党の機関紙「労働新聞」でもありません。悪しからず。

http://www.jlp.net/shinbunindex.html

最低賃金と生活保護(審議会)

平家さんとのやり取りを思い出す議事録を見つけました。

http://takamasa.at.webry.info/200608/article_19.html

労政審の最低賃金部会における使用者側委員の発言です。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/04/txt/s0426-2.txt

「・・・次に、「地域別最低賃金」の(1)「生活保護との関係の考慮」です。私どもは、そもそも最低賃金制度と社会福祉政策との間の整合性を図ることについては疑問を禁じ得ません。さらに言えば、労働の対価である最低賃金と社会福祉としての生活保護では、根本が全く異なり、その両者の間で整合性を考慮することについても疑問を禁じ得ません。
 もし仮にということで申し上げると、最低賃金と生活保護との関係は、最低賃金を生活保護の水準に引き上げるのではなく、生活保護の水準が適正なのかどうかも考慮すべきだと考えております。先ほど生活保護についての見直しも議論されているという発言もありましたが、そういうことを十分踏まえた議論が不可欠ではないかと考えています。・・・」

使用者側として「疑問を禁じ得ない」のはよくわかります。しかし、その社会福祉のコストもめぐりめぐって企業の経済活動が支えなければならないのですからね。結局同じ土俵の上にいるんです、我々はみんな。

とはいえ、生活保護の見直しの議論に俺たちは入れて貰ってねえぞ!という気持ちも当然あるでしょうね。生活保護ってのは、国と地方公共団体が面倒見ているんだ、企業は関係ねえぞ、ってな気持ちで政策形成しているとすると、それもまた困ったことでもあります。社会政策ってのは本来すべて労使が関わるんですよ、一見関係なさそうであってもね。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2003/08/s0806-6.html

大学の先生と地方自治体と福祉施設の代表です。この辺の政策決定システムのねじれが、労働政策過程における使用者側の不満のもとになっているとすると、その辺から考えていかないとなかなか難しいでしょうね。ミクロな縦割りなんだなあ。

そこで、EUでは雇用戦略、社会的排除戦略という形で、そういうのをひっくるめて議論する枠組みを作ってきている、という話になると、私の持ちネタになるわけですが。

発達障害者の就労支援施策

読売の売らんかな的見出しにざわついている方々が多いようですが、この記事をよく読むと、(世間で広く「ニート」と言われている人も含む)発達障害者に対して、適切な就労支援をするという話のようでもあります。引用されている厚生労働省の発言が職業安定局の障害者雇用対策課であることを考えると、職業能力開発局キャリア形成支援室所管のニート対策の本流の話として理解するのが適切であるのかどうか、即断しない方がいいでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060824#p1

http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20060824

発達障害については、昨年発達障害者支援法が施行され、その中で「発達障害者の就労の支援」も規定されています。これまで制度の谷間に放置され、十分な対応がされていなかった対象であるだけに、キャリア形成施策の観点から既に行われているニート対策の施設を利用する形で、発達障害者雇用対策を進めていこうと考えることは、行政の効率的推進という観点からすると必ずしもおかしなことではありません。

http://www.mhlw.go.jp/topics/2005/04/tp0412-1a.html

http://www.mhlw.go.jp/topics/2005/04/tp0412-1e.html

この記事に登場しておられる小川浩さんの書かれた『発達障害のある人の雇用管理マニュアル』が、以下のサイトに全文掲載されています。まあ、この中味くらい読んでからあれこれコメントしてもいいのではないでしょうか。

http://www.koyoerc.or.jp/dd.html

私自身、既存の障害者雇用対策についてはある程度の知識はありますが、この分野については少し勉強しないとよく分からないところもあり、これ以上発言するのは控えておきます。ただ、何にせよ、皆さん、あまり思いこみだけであれこれ喋るとまずいかも知れませんよ(まあ、何があっても曲解して政府の悪口を吹くのが仕事という人もいますから、別に邪魔しませんけど)。

2006年8月24日 (木)

ニートは発達障害だってさ

読売新聞がデカデカと、

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060824i101.htm?from=main1

「ニートに「発達障害」の疑い」だそうな。

いや、そりゃ、確かに、「口頭の作業指示では理解できず、実演が必要」(16歳男性)なんていうのは一種の障害者でしょう。障害者対策として対応すべきでしょうね。

しかし、「その場の空気が読めず、じっとしている」(20歳女性)なんてのまで障害者扱いされたんではたまらんですね。

いずれにしても、医療的ケアが必要な障害者対策と、就労から排除されているための職業上の技能の欠如を一緒くたにされては困ります。

こういうときにこそ言うんですよ、

ニートって言うな!」ってね。

労働条件分科会の議事録

6月末に労使の反発で中断してしまっている労働政策審議会労働条件分科会の4月頃の議事録が厚生労働省のHPに載っています。なかなか面白いです。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/04/txt/s0425-2.txt

就業規則の不利益変更について、労使が本当に対立しているのはどういう点なのかということが、次のやり取りによく出ています。

○新田委員 おっしゃるように日本の企業は冠たるものになっていったと。いろいろな条件の中で、ときにはいい話もあるけれども、悪い話も、悪い条件も示しながらやってきたと。それに働く側がかんでいたら、きちんと話をして納得していたら会社はうまくいっています。労働者もきちんと向き合っているではないですか。こんなに状況が悪い、だからこういう条件に辛抱してくれよと。一方的に賃金を下げると言ったら誰でも怒ります。だけど、こういう状況だからと言って、集団的に団体交渉やって、すったもんだの議論をして、その上で納得して、そして立ち向かおうということがあったから納得できるのではないですか。それが労使関係、労使の信頼でしょう。そんなことは何も否定していません。話し合いをして、話し合いの経過が大事ですということを言っているのです。その経過をどのように、労働契約を結ぶというところに盛り込めるのかと言っているのです。それを基本に、どのような具合でいこうかという話がないといけないのではないですか。
○紀陸委員 就業規則は認められるわけでしょう。
○新田委員 就業規則と呼ぶのかどうかはまた決めればいいですよ。ここに提示されているのはいまの就業規則を、そのまま就業規則法理だとか、いろいろなことを全部、いまある実態そのままを法律にしようとするから違うのではないですかと私は思っているのです。
○紀陸委員 中身のおかしいのを認めるという話ではないわけでしょう。内容的に合理性があれば、従業員は納得するはずですよ。
○新田委員 合理性とは何ですか。合理性をきちんと証明できるのは、お互いの話し合いでこういう結果ですというときです。だから過半数組合が決めたら合理性を認めようといっているわけでしょう。
○紀陸委員 会社の過半数の組合、あるいは会社の過半数の従業員、そういう人たちと内容について話し合って、こういうように変えましょうと、そういう就業規則でもノーだと言われるのですか。
○新田委員 そんなことは言っていない。
○紀陸委員 就業規則の機能をどう評価するかとつながってくるわけですよ。それが就業規則の機能でしょう。その結果、個別の契約がどうのというつながり、論理としてはなるのではないですか。
○新田委員 労働組合のない所の問題でしょう、重要な問題は。
○紀陸委員 同じですよ。従業員の過半数とかね。組合のある無しにかかわりなく、従業員の声がどういう形で就業規則変更に係っていくかを担保すればいいわけです。・・・

19世紀の市民法的な感覚で労働者個人の権利として労使対等決定原則を論じているわけではないのです。労使いずれも、集団的労使関係の問題として、就業規則の不利益変更問題を捉えているのです。その上で、過半数組合ならいいけど、わけのわからん過半数代表者は困ると言っているわけで。このあたり、労働法学者の感覚が労使実務家と一番乖離しているところではないのかな、と感じます。

では、19世紀の市民法的感覚の人はいないのかというと、いるんですね、ちゃんと、これが。経営側に。

○奥谷委員 話を聞いて思ったのですが、組合の方は終身雇用とか、そういったことを前提に話していませんか。
○長谷川委員 そう言っていません。別の人たちのほうがそう思っているのだそうです。私たち全然思っていません。
○奥谷委員 そういう前提に立っていまの議論がなされているような気がします。こういう考え方で一つの会社に何十年もいるというように考えるより、むしろ3年、5年でころころ変わっていくというか、そういう方向にどんどんいくわけで、むしろ労働契約といいますか、契約のほうが重要視というか、そちらに重点を置いて。就業規則ももちろんあるかもしれませんが、皆さんの意見が、何かそこの会社に一生勤めるために就業規則と労働契約法が合致しないと、何か無理があるみたいな考えが根底に流れているのではないか。これからどんどん変わっていくという考えはないのでしょうか。
○長谷川委員 労側は全然思っていません。
○渡辺章委員 どのような点からそういう推測論が出てくるのかわかりませんが、客観的に合理的でない、社会的に相当でない理由では、労働者は解雇されない。それだけのことでありまして、終身とか、そういうことは一言も私どものタームから出ていないわけです。しかし、裏を返せば、雇用の継続性は尊重すべきであるという、一般社会通念は守っていくべきではないかと。それが18条の2に出ているような形になっている。その限りで御理解いただきたいと思います。一生涯そこに勤めるということで議論が前提になっているわけではないのです。
○奥谷委員 雇用の継続性を尊重するというのはそちらの考え方であって、別に雇用の継続を尊重してほしくないという労働者もいるわけで、そこのところはどうお考えでしょうか。
○渡辺章委員 権利は侵害されたときは守るべきですが、自分で捨てるものは自由ですから、辞めていったらいいわけです。そこまで制限するようなルールはないわけですから。
○奥谷委員 そういったところまで議論しているような気がするのです。個人の自由は個人の自由で放っておけばいいことであって、それまでを先へ先へ、こうなれば、こうなればみたいなところを議論しているような、余計なお世話ということがあると思うのですけれども。・・・

あなたの会社が3年、5年でころころ変わっていってるだけなんじゃないの?という気もしますが、「雇用の継続を尊重してほしくない労働者」を前提に労働契約法を議論されたんじゃ堪りませんな。日本経団連も迷惑でしょう。ま、彼女はこの分科会では使用者側の中でも見事に浮いているので、その分、規制改革会議に萌えるんでしょうけど。

ちなみに、そこまで労働者個人のクビになる自由を守りたいと使命感を燃やすこの派遣会社社長様は、本当に「雇用の継続を尊重してほしくない労働者」に対しては、こういうことも言っておられるんですね。

○奥谷委員 労働契約法制の件に関して、この中の2頁に、「使用者は、労働者が安心して働くことができるように配慮するとともに、労働契約において」と書いてありますが、今、使用者が安心して労働者を雇えないという状況があるのです。例えば、雇っても1か月以内に一方的に破棄して辞めて、他の会社に移ってしまうというようなことが頻繁に行われている。特に中小企業の場合はそれが多いということを周りで聞いております。特に高額で雇われた人に関して、そういったことが多いという場合もありますが、そうなった場合に、労働者には罰則も何もないわけです。一方的に使用者側が不利益を被ることになってしまうわけで、労使対等という意味合いが全くない今の現状で、そういったところはどうお考えになっていらっしゃるのかお答えいただきたいのです。・・・

○奥谷委員 そうすると、今までの範囲を越えないというと、要するに使用者側がいつも泣き寝入りしないといけない、という状況のまま行くということですか。・・

○奥谷委員 労働者に対して使用者側が訴える、そういうこともできるということも含まれるということですか。
 前に言いましたように、労働基準法の基本的な概念が、労働者保護の立場に立って貫き通しているわけですが、今は時代が変わってきているわけです。要するに、労使対等と言うのであれば、いつも「労働者保護」ではなくて「使用者保護」もあっていいのではないか、そういう概念も入れ込んでほしい、ということを我々は言いたいわけです。

いやはや何とも。

教訓

本田先生にこんなことを申し上げるのは大変心苦しいのですが、

社会科学は経験科学です。確実な根拠と的確な論理展開によって正しい結論に至るものであって、その逆ではありません。

政治的に正しい結論が不確実な根拠や不適切な論理展開を治癒するものではありません。

(スターリン治下のソ連では違ったかも知れませんが)

この間の本田先生とのやり取りにおいて、「非正社員でも生計をたて家族をもてる程度の均衡処遇」や「非正社員であってもキャリア展望をもてるくらいの職業に向けての準備を初期教育訓練および継続教育訓練」が政策論として適切かどうかという議論は一切行っていません。

「可能な限り法によって企業があまりにもあまりなことをすることを抑制していかなければならない。企業の温情に期待するのではなく、企業以外の主体がある種強い姿勢で向かっていく必要がある」というご意見がどの程度適切であるかという議論も一切行っていません。

それらはそれとして大いに議論したい論点ではあります。しかし、今回のやり取りの論点は、そういうサブスタンスではありません。もっと大事なことです。およそ社会科学(以外でもそうでしょうが)の研究者であるならば、当然持っているべき「根拠への問題意識」を欠いておられた点にあるのです。

ちょっとくだけた説明を。どんな名探偵だからといって、「こいつが犯人だと分かっている」んだからと、いい加減な証拠と穴だらけの推理で犯人を挙げるわけにはいかないでしょう。少なくとも先進国の推理小説ならば。

<追記>

稲葉先生から、もとのエントリーの表現につきご指摘があり、修正いたしました。ご不快の念を抱かれた皆様には心からお詫びいたします。

2006年8月23日 (水)

朝鮮日報の記事

韓国でも、ちゃんと見てる人は見ている、分かっている人は分かっている、感情が先に立って論理がどこかに飛んでいっちゃってる人ばかりいるわけではない(日本と同じく)、というのはもちろん分かり切ったことですが、とかく、そういう声は日本に紹介されない嫌いがあるので、ここに引用しておきます。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/08/14/20060814000038.html

標題は「トヨタから学ぶべきこと」。朝鮮日報のチェ・ホンソプ記者の記事です。

「なぜトヨタがGMを追い抜き今年、世界のトップに立てたのか、これを見る限り説明の必要はない。
 一方、工場でサンダルを引きずって歩き回る社員が目立つ韓国メーカーとは比較にならない。2004年基準で現代自動車とトヨタの賃金水準はほぼ同じだったが、1人当たりの生産台数で見てみると、現代車(31.5台)はトヨタ(58.4台)の2分の1程度、1人当たりの営業利益では、現代車はトヨタの3分の1にも及ばない。」

「現代の労働は、「自分でなければできない」というオリジナリティーあって初めて自分の価値が上がる。他人が代わりにできることなら、自分の価値は下がる。中国でも作れるのに、どうしてあえて韓国で作るのか、というのと同じだ。」

「最近、日本経済が再び好況に転じている背景には、こうした断固たるトヨタ精神がある。「日本人が作ったものは、やはり違う」という「メイド・イン・ジャパン」が復活している。スズキのスクーターのように、工程を改善し無駄なコストをカットすることで、人件費が20倍も高い日本で、中国よりも安い製品を作るという奇跡さえ起きている。」

「韓国が日本に勝つ道は、何も映画『韓半島』を見て敵がい心を燃やし、進めるものではない。「日本人にはできません。韓国人だけができるのです」という何かが出現したときにこそはじめて、真の克日(日本に勝つこと)になる。」

今の大統領にこういう話が通じるかどうかは分かりませんが、こういう考えの韓国人が社会の基盤をしっかりと支えていくならば、その将来は決して暗くないと思います。

むしろ心配なのは・・・(以下省略)。

格差社会の結末

ソフトバンク新書というところから『格差社会の結末ー富裕層の傲慢・貧困層の怠慢』という本が出ています。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/479733648X/503-4285177-4135125?v=glance&n=465392

著者は中野雅至氏。1964年生まれ、同志社大学卒業して大和郡山市役所から労働省に勤務、ILO担当補佐を最後に退職して現在は兵庫県立大学助教授。

hamachanの後輩ですか?といわれると、そういうことになりますね。ただ、一緒に仕事をしたことはありません。省内でときに顔を合わせていた程度で。

実務家出身の研究者、ということになるんでしょうが、肌合いはむしろジャーナリストに近い感じがします。私だったら、こういう週刊誌的な書き方はしないな、というところも多々ありますが、まあ、だからこそソフトバンク新書から出るんでしょうけど。

後半の方ではややアカデミックな議論も出てきますが、例によって軽口風の文章に載せて繰り出されるので、大変読みやすくなっています。ケインズ主義福祉国家からシュンペーター型ワークフェア国家というような話も、「あなたならどっち?使い放題生活保護vs試験のない公務員」といった調子で。

最後の章は、彼なりの政策提言で、ワークフェアを志向する基本ラインは共感するところが多いのですが、「企業は自分たちの求めるスキルを明確にせよ」というあたりは、いかにも本田由紀先生のラインで、現実にどうかなあ、という感じは否めません。(ちなみに、この一節の標題は「TOYOTAに入社するには何が必要なのか?・・・それは誰にも分かりません」ですからね。いやはや、このセンス。)又、公務員に職階制を復活せよ、というのも、どこまでフィージビリティを考えているのかな、というところです。

最後に近づくにつれて、ますますテンションが上がっていってるようで、「企業の労務管理に手を突っ込め!-非正社員の待遇改善vs派遣労働全面禁止」と、おもわず「をいをい」ですが、その処方箋には賛成できませんけど、ワークフェア国家を目指すのであれば、企業の労務管理をある程度社会的にコントロールしていく方向性は当然だろうとは思います。社会全体のサステナビリティと企業のサステナビリティの両方を睨んでバランスをとってやっていく必要がありますが。

もじれた議論

本田由紀先生のブログ「もじれの日々」で、ちょっとしたやり取りがありましたので、若干のコメントをつけて記録にとどめておきます。

http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060821#p3

本田先生が、「ある会議の場で」「某大手製造業企業の方がおっしゃっていたこと」として、次のような内容を引用されたところから始まります。

曰く、「この企業はグローバルに経営を展開する企業であり、人材獲得についてもグローバルなベースで考えざるを得ない。景気が向上する中でもこの企業は新規学卒正社員採用数を増やしてはいない。採用対象は超エリート技術者と経営幹部候補に限定されている。前者は院卒に限定されており、後者についてもできればMBA取得者の採用を期待している。いずれについても、世界の大学ランキングの中で東大よりも上の大学からの採用をねらっている。多くの職場にはインド人IT技術者が複数採用されて活躍している。この企業の社員の間では「われわれの子供たちはとてもこの企業には入れない」という会話が交わされている。生半可な国内大学を出た人間が正社員として採用されることはほぼ考えられなくなっているからである。 この企業においてこれまで長期雇用の対象となっていたのは高度経済成長期に集団就職で就職してきた層であり、彼らは今大量に退職しつつあるが、そのあとを正社員で補充する考えはない。 大企業に正社員として安定的に長期雇用されるというチャンスは、日本の若者にとってこれからますます限定されてゆくのであり、企業の採用や雇用のあり方が過去の状況に逆戻りする可能性はゼロである。」

で、本田先生は「こうした現実を直視する必要がある。その上で、これからの日本の若者にとっていかなる施策が必要なのかを考えていかなければならないのだ」とコメントされていたのですが、一体この発言をどう認識されているのか判然としなかったので、次のようなコメントを書き込みました。

本気ですか?
これは二重の意味でお聞きしています。
この方のご意見にそこまで賛成されるのであれば、12日付の「あたりまえのこと」はどう当たり前なのだろうか、というのが一点目。
この方の社会観、歴史観、将来像に本当にご賛成なのですか、というのが2点目。
も一つ言うと、この方の社会観、歴史観、将来像は、どこまでこの方の属する製造業大企業のそれらを反映しているのか、それとも反映していないのか、読んでる側としては大変気になります。この方の会社の人事部の方のご意見を是非伺いたいところです。

やや舌ったらずの感はありますが、人様のブログのコメント欄でもありますし、ごちゃごちゃと書かずにさらりと、という気持ちであったのですが、どうもよく理解していただけなかったようで、

賛成というよりも、これが企業、すくなくともグローバル大規模製造業企業のむき出しの現実だとして直視する必要があるということです。それに対して企業の経営効率とは別の論理、すなわち労働者や生活者としての論理から多くの人々が声を挙げ、可能な限り法によって企業があまりにもあまりなことをすることを抑制していかなければならない。企業の温情に期待するのではなく、企業以外の主体がある種強い姿勢で向かっていく必要があるということです。」というお返事が返ってきました。

ここで、事実認識の次元の賛成と価値判断の次元の賛成とに議論を峻別して、どのレベルのどの議論についてどう賛成なんだと問いつめるという道もあったんですが(今から考えれば、そこのところを彼女自身が曖昧にしたまま議論が進んだことにも混迷の原因があるように感じられますが)、話がやや形式論理学になってしまうおそれもあったので、「可能な限り法によって・・・抑制」云々という一節に反応する形で、次のようなコメントをつけました。

企業にとって不可能なことを法律で義務づければやれるようになるんですか?法律で書けば、何でもできるとでも?

法律でやれるのは、法律で書かなくてもやれるはずなのにやらないことをやらせることだけです。

温情に期待するか強制するかってのは、やれるという前提があって始めて言えることですよ。

グローバル大規模製造業のある方が「これがむき出しの現実だ、直視しろ」といっているということと、それが本当にむき出しの現実であることとは別のことです。もし後者であるならば、キャリア教育も職業レリバンスも糞もない、諦めておこぼれに期待するしかないでしょう。企業以外の主体とやらがある種強い姿勢で向かっていくと、むき出しの現実が変わるんですか?

もしそれで変わるんなら、そんなものはむき出しの現実でも何でもなかったんですよ

読めばおわかりになるように、これは「あなたのいうことを前提にするとこういうことになってしまうけれどもそれでいいんですか?」という条件法的問いかけであって、この大手製造業氏の発言を「事実認識のレベルにおいて」正当なものと受け取っているのか、そうでないのかを聞いている訳であって、何らかの価値判断なり一定の政治的立場を鮮明にした言説ではないのですが、本田先生はここで自らの価値判断を攻撃されたかのごとき反応をされてしまいます。

曰く「それはすべての運動や法、制度を否定し人々を無力化する言葉です。企業の押してくる力を押し返すことが一切不可能だという考え方の方が理解できません。

いやはや、という感じですが、ここで諦めては何のためにコメントしたか分かりません。

もう一度お聞きしますが、本気ですか?
私のお聞きしているのは、法律にせよ、社会運動にせよ、企業が客観的にはやれるのに主体的にはやりたがらないことをやらせることはできても、そもそも客観的に不可能なことはやらせられないでしょうということなんですけど。
太陽が地球の周りを回るべしと法律で書けば回りますか?天動説運動を起こせば地球が止まりますか?それが「それはすべての運動や法、制度を否定し人々を無力化する言葉」ですか?
もし法律や運動で「企業の押してくる力を押し返すことが可能」だったのであれば(私もそう思いますが)、そもそも最初にその「むき出しの現実」とやらを不可避の運命と語った言葉が嘘だったんですよ。だって、押されたら引っ込んだんでしょう。引っ込むことが可能だったんです、最初から。むき出しの現実でも何でもなかったんですよ。
私が最初からお聞きしているのはそういうことです。押せば引っ込むと思っているのに、どうして押しても引いても無駄な現実だという言葉を信じちゃうんですか?

どうも、本田先生のコメントを見ると、理解されていないようなのですが、私は、本田先生が何でまた(本来の先生のお考えとは180度違うとしか思われない)この大規模製造業の方のお言葉に入れ込んでしまったいるんだろうか?という素朴な疑問から書いています。
この人の言葉こそ、「すべての運動や法、制度を否定し人々を無力化する言葉」じゃないんですかね。私は制度論者ですからね、かなりの程度まで制度で物事を動かせると思っている方です。限界はありますけど。

これに対する本田先生の回答は「たぶん「むき出しの現実」という言葉の理解に濱口先生と私の間で違いがあるというだけのことのようです。私は別に「不可避の運命」という意味で使っているわけではありません。押せば引っ込むかもしれないが、とにかく今のところ企業はそういう行動をとっている、というだけです。」

読み返してみると、どうも本田先生は微妙に姿勢をずらしているようにも感じられます。最初のこの大手製造業氏の発言に対する何やら妙に入れあげたような熱っぽい姿勢と、企業の力を押し返す云々という言葉とのずれに無意識のうちにお気がつかれたためかも知れません。しかし、それならそれで、この大手製造業氏の発言に対して「事実認識のレベルで」どういう認識をされているのかを明確にしていただく必要がありましょう。

この発言された大手製造業の方はどういう趣旨で仰っているんですか?というか、どういう趣旨で仰っていると本田先生は理解されておられるんですか?
押せば引っ込む程度のこけおどしの発言と思っておられるわけですか。
それが問題の本質なんですけど。

「東大より上」だの何だのというこけおどしの発言を、どういう風に理解されて、このブログ上に引用されたのだろうか、というのが私の疑問なんです。

ちなみに、私だったら、そう仰る貴社の今年の採用はどうされたんですか?と聴くところですが(だから、「この方の会社の人事部の方のご意見を是非伺いたい」わけです。

ご自分で書かれた引用文を読み返してお答えいただけると有り難いんですが、この方が仰っていることがもし事実だとしたら(私には到底そうは思えませんが)、そういう大手製造企業に、どうやって、東大以上の才能を持たない凡人たちを採用させるんですか。無理矢理に押しつけて、それで彼らが幸せになりますか?キャリア教育で何とかなるような問題ですか?そういうことをきちんと考えてこの方の発言を引用しておられますか?

私の申し上げたい趣旨は理解しておられますよね。
この方が大手製造企業の従業員であることは確かなんでしょう。しかし、その方の仰ることが、その方の属する企業の方針であるという保証は、本田先生はどこかで確保しておられるんでしょうか。
どんな会社にも色んな人がいます。色んな意見もあるでしょう。しかし、それがその企業の行動原理そのものであるというのは、いかなる根拠に基づいているのでしょうか。

このあと、稲葉振一郎先生や飯田泰之先生なども参加してやや乱戦気味になり、どれがどのコメントに対する回答やらよく分からないところもありますが、本田先生からは次のようなお返事があったと理解しています。

この方の発言は、公的性格の強い会議の場で肩書きを背負ってなされたものですから、こけおどしでも虚偽でもないと判断します。また、「押し返す」やり方としては、こうした企業に無理矢理国内の若者を正社員採用させるというようなことではなく、たとえば長期安定雇用の正社員になれることを前提とするのではなく非正社員でも生計をたて家族をもてる程度の均衡処遇や、あるいは無理矢理でなくとも正社員として採用されえたり非正社員であってもキャリア展望をもてるくらいの職業に向けての準備を初期教育訓練および継続教育訓練において個人に提供することなどが必要だと考えます。」

後半はいつもの本田先生のご意見ですし、それ自体の政策的議論はここで論ずるべきものでもありません。改めて別の場できちんと議論できるといいと思っています。問題は、「公的性格の強い会議の場で肩書きを背負ってなされたものですから、こけおどしでも虚偽でもない」という言葉を、どういう意味内容で語っておられるのか、そしてそれを意識されておられるのか、という点にあります。やや厳しい言い方をすれば、学問の内容以前の、方法論の次元の問題です。三流メディアではないのです。

まずもって、ある組織に所属する人間がその肩書きを明らかにして発言すれば、本田先生は信用されるのでしょうか。厚生労働省にもいろんな人間がいます。共産党のビラを自衛官の宿舎に撒いて逮捕された本省課長補佐というのもいました。ある事項に関してある組織の考え方を示すものと判断するためには、最低限当該事項について相当程度の責任を持ち、現実的に担当し、遂行している人であることが必要でしょう(十分ではありません)。私は繰り返し「人事部の方の意見が聞きたい」と申し上げたのですが、この点については返事はありませんでした。メセナ担当の方らしいので、少なくとも当該会社の人事政策について責任をもって語る立場にない方であることだけは確かなようです。

次に、「虚偽ではない」とはどういう意味かという論理学的な論点です。本田先生、こういうところが弱いんだよなあ。当該製造業のメセナ氏の主観において虚偽ではない(つまり本人としては嘘を言ってるつもりはない)という意味で言っているのか、客観的な事態の認識として虚偽ではない(つまり現実に大企業の正社員として採用されるチャンスはますますなくなっていく)という意味で言っているのか、ということですね。

恐らく、本田先生としては、自分の議論を補強する材料であるというわりと素朴な認識で(つまり客観的現実として)この方の発言に飛びついたんだと思いますが、この方の議論をそのまま展開すると、ご自分の議論と齟齬が生じるということを指摘されて、企業の共同主観たる客観としては事実であるが、法律や運動によって押し返すことが可能なものという意味では全体社会的客観ではないという風に微妙にずらされたのでしょう。

しかし、そのずらし自体が無意識的に行われているために、こういった論理的仕分けが頭の中で遂行されないままに、自分の政策論の結論的正しさでもって論理形式を弁証するという顛倒が起こってしまっているわけです。

ちなみに、私自身は、この人のいってることは、全体社会的に客観的事実でないことはもちろん、企業の共同主観たる客観としても事実ではなかろうと判断しています。

<追記>

本田先生のブログがプライベートモードになったため、上記やり取りの後に私が書き込んだコメントを転記しておきます。内容はあんまりレリバントでない、というか、変な経済学者みたいなのがごちゃごちゃ騒いでいたので、

あのね、ケーザイ学者とかそういうたぐいの人は、余計なことを言わないでください。ケーザイ学を嫁!とか何とか、そういうたぐいのことを言えば言うほど、「どうせ、あたしは教育社会学者ですよっ!」で済ませてしまうことになります。それでは何にも反省したことになりません。
教育社会学であろうが、いじめの社会学であろうが、社会科学であるならば、白日夢ではなく、社会の現実に立脚しなければなりません。彼女の罪は、ケーザイ学をおベンキョーしようとしないことなぞではありません。自分の専門分野に関する事実と称することについて、事実かどうか疑わしいという疑問に対してきちんと確認しようとせず、確認したらどうですかというサジェスチョンに対しても、公的な会議だからとか、従業員数を言ってたからとか、愚にもつかない言い訳で逃げ回ったことにあるのです。
その行動が(経験科学としての)教育社会学者としてどう評価されるのかという点が最大の問題なのであって、ケーザイ学者が自分の土俵の宣伝のために余計なことを言えば言うだけ、彼女は自分を正当化するだけです。やめていただきたい。

・・・・・・

いえ、飯田先生は楽屋話に乗りすぎただけで、私が言いたいのはむしろ「ある経済学者」さん。「Normativeな議論とPositiveな議論の線引」をあたかもケーザイ学の専売特許みたいな言い方をすると、まともな社会学者はカチンと来ますよ。事実認識と価値判断の峻別は、マックス・ウェーバー以来社会学徒のイロハのイです。行為の意図とその結果の乖離というのも、そうです。
ケーザイ学者がくっちゃべると、ついつい学問分野としての優位性を誇りたがる。それで社会学者が拗ねて、どうせアタシは教育社会学者よ・・・、で、何か生産的なものがありますか。
本田先生には、きちんとした社会学の方法論に基づいてこの分野にアプローチして、しっかりした成果を出して貰わなければならないのです。そういう方向に向けて彼女をエンカレッジするようなコメントをしましょうよ、というつもりなんですが。

私が何を言っていたかという資料として。

2006年8月22日 (火)

これぞ民間の活力!

架空の求人にご注意を--。東京労働局管轄のハローワークで、派遣や請負事業者から実際の求人がないにもかかわらず、仕事があるように書いた“偽装求人”が相次いでいる。

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060822k0000e040066000c.html

いやあ、素晴らしい民間の活力ですねえ。ハロワに求人出して、そこからヒトをもってきて、いかにもウチの集めた立派な人材でございと差し出すんだから、堪えられない商売ですな。

こういうのは規制緩和利権とは多分言わないんでしょうけど。

いや、もちろん、自分ところできちんと募集して、きっちり教育訓練して適切に派遣している立派な派遣会社はたくさんあります。本当の民間の活力はちゃんと伸ばしていかないといけないんですよ。

退職・解雇

8月10日ののエントリーの続きです。「日本の労務管理」講義案の4回目、第1章「雇用管理」の第2節「退職・解雇」です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/RetirementDismissal.html

正社員信仰こそ問題だって?

高原基彰さんが、「”正社員信仰”こそ問題--就職の構造変動 認識を」という短いエッセイを書いておられます。

http://www.aurora-net.or.jp/doshin/dnet/news/200608.html

「読み直すとちょっと言い過ぎの部分もある」とはいいながら、「言い切らないと伝わらないし……本人は大変気に入って」いるとのことなので、高原さんのお考えと考えてよいようです。

http://takahara.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_cafe.html

その基本的な現状認識は、「現在の産業が生み出す仕事のかなりの部分は、・・・長期間の訓練が必要なほどの技能を要請しない」ので、「他に抜きん出た技能を持つごく一部の人々を別にすれば、ほとんどの仕事は「実は誰でも構わない」というものであり、「高コストでかつ需給調整の難しい正社員が、ほとんどの職種で必要とされていない」ということのようです。

そして、「一つの組織に終身的に所属する「組織人」という働き方は、どの先進国でも、追憶のなか以外にもう存在しない」とおっしゃるのですが、その先進国というのは、記事で見る限り、「アメ リカでも韓国でも中国でも」と、この3カ国のことのようで、ヨーロッパは先進国ではないらしく、後進国日本は先進的な韓国や中国を見習わなければならないようです。

もちろん、日本を除けば「雇い主が自動的に昇給を行うものだと思っている人間など、公務員などの一部を除けば、どこにもいな い」のは確かですが、日本の賃金制度の特殊性とアメリカのエンプロイメント・アット・ウィルの特殊性をごっちゃにしてしまうと、およそ労働問題が訳が分からなくなります(訳が分からんことをのたくっている連中が薄っぺらなメディア界やコンサル業界に多いのは確かですが)。

理論社会学というのはマクロな視点で社会を見るものですし、私も結構好きですけど、ミクロを見ずに上っ調子に議論を展開しすぎてしまうと大変危ないんじゃないかと思っていまして、このエッセイはそれがくっきりと現れているように感じられます。本当に、現代社会の仕事の大部分は技能なんかいらない、誰でもつとまる仕事だとお考えなのか。一体、そこで念頭に置かれている「技能」とはどういう水準のものなのか、どこまで深く考えておられるのか。

「正社員/アルバイト」という区分は、「「実は誰でも良い」ものになってしまっ」ているのだから「経済的合理性では説明のできない」ものであり、それ故に「「失われた世代を正規雇用に復帰させる」というような提言は・・・意味がない」と断言されるわけですが、それは本当に職場の現実なのでしょうか。ごく一部の人間以外には職業能力などというものは何の意味もないものにすぎない、というのが本当に現代世界の現実なのでしょうか、将来の社会の姿なのでしょうか。それを何で確かめられたのでしょうか。

昔から誰でもかまわない仕事というのは社会の中にけっこうあります。人夫供給請負業とか、社外工とか臨時工とか、労務管理史をちょっとかじれば、その手の類が世の中にうようよといっぱいいたことは誰でも分かることです。そういうのを誰に割り振るか、というのが社会システムの構成原理の一つであったわけです。一方で、技術革新が進む中で次々に新たな技能が産み出され、それを身につけた技能者が養成されてきたというのが歴史の語るところです。そういう分野の学習をどれだけされた上でこういう発言をされているのか、大変心許ない感じがします。

2006年8月21日 (月)

厚生年金パートに拡大?

6月29日のエントリーで、最初に日経新聞の記事を引用して、厚生年金のパート拡大をやるらしいと書き、その後さる筋からの情報で訂正し、7月5日のエントリーで大臣記者会見を引用して確認した・・・はずの本件ですが、20日の読売がまたも記事にしています。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060820it01.htm

今度は「政府が検討しているパート労働者への厚生年金の適用拡大に関する厚生労働省の試算が19日、明らかになった」とのこと。

この記事の興味深いのは、主語が使い分けられていることです。「パート労働者への厚生年金の適用拡大」を「検討」していたり、「早ければ2009年にも実施したい考え」であったり、「「週20時間以上」程度まで対象を拡大し、大半のパートを厚生年金に加入させる方向で検討している」のは「政府」であって、厚生労働省ではない。逆に、厚生労働省を主語とする動詞は「試算」だけなんですね。いや、そりゃ命じられたから試算はしましたよ、試算しただけですよ、やるとは言っていませんよ、かつてやろうとして痛い目に遭っているのはこっちですからね。ええ。あと、「経済界の反発も予想される」という主語のない文もありますが、予想しているのは多分、気楽な「政府」さんではなくて「厚生労働省」さん、というか、より正確に言えば「年金局」さんなんでしょうね。

まあ、だいたい構図が見える書き方になっています。

ここには出てきませんが、パートの均衡処遇の立法化をやる雇用均等児童家庭局としては、やってくれと正面切っていうことはできないけれど、やってくれたら援護射撃になってうれしいな、「政府」さん頑張って、というところでしょうかね。

2006年8月17日 (木)

谷垣氏の高齢雇用数値目標

自民党総裁選に出馬を表明している谷垣財務相が、「少子高齢化への対応として、60―64歳の年齢層で働く人の割合を引き上げるため、数値目標を政権公約に盛り込む方針を決めた」そうです。

http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20060817AT3S1601116082006.html

この記事の元になった谷垣さんのホームページの記述は以下の通りです。

http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20060817AT3S1601116082006.html

>高齢者が、支えられる側から支える側にまわれば、持続可能な社会保障制度を築く上で大きな力となる。したがって、働く意欲と仕事をする能力がある高齢者の方々には、できる限り長く働いていただく、「生涯現役」が可能な社会を目指していくべきである。そのためには、労働政策の面で、「年齢に基づく処遇」の改革と、高齢者自身の能力開発の支援が必要である。具体的には、定年制の廃止を見据えて70歳までの雇用確保措置を徹底し、企業の雇用インセンティブを高めるため、年功型賃金を改めて貢献度に応じた賃金体系を広めるべきである。また、社会保障政策の面では、高齢者が実際に働き続けられるよう、生活習慣病対策等により健康寿命を延ばしていく。こうした施策を通じて、60歳から64歳までの高齢者の労働力率(働いている方の割合)を、今後20年間で、男性で現在の70%から85%に、女性で40%から60%に引き上げていきたい。・・・

社会保障制度の持続可能性という観点から高齢者の就業率を高めていくというのは、近年のEUやOECDの雇用戦略の最重点課題の一つであり、その意味でマクロ社会政策としてこういう目標を設定するというのは適切な政策だろうと思います。

参照:OECD「世界の高齢化と雇用政策」(濱口訳)

http://www.akashi.co.jp/Asp/details.asp?isbnFLD=4-7503-2325-X

ただ、ちょっと気になるのは、「年齢に基づく処遇の改革」云々とか、「定年制の廃止を見据えて」とか、「年功型賃金を改めて」云々というところです。一般論としてこれが進められるという話になると、ミクロの労務管理政策としていろいろと考慮しなければならないことがあるのですが、おそらく(これのドラフトを書いたであろう財務省のベスト・アンド・ブライテストな官僚の方には)天下国家のマクロが大事であって、片々たる企業の労務なぞというミクロは取るに足らんと思われているのでしょうか(注)。しかし、神は細部にも宿るのですよ。

労働者の定着と技能養成を促進し、結果的に国民の能力水準を向上することへの長期雇用や年功制のメリットとその高齢者雇用へのデメリットを注意深く考量して、どこをどの程度改革すれば、望ましい結果が得られるだろうかということを考えるのが、真の政策というものだと、私は思っております。

(注)

厚労省や文科省みたいなミクロ官庁のみを並べたのならともかく(むろんこの場合、そんな二次的な当事者能力しかない連中ばかり集めても意味がない・・・

http://bewaad.com/20050527.html

いや、おっしゃるとおり、三流官庁であることは否定いたしません。どこぞと違ってベストでもブライテストでもないですな頭の中味は。

自己啓発はそんなにいいのか

読売新聞が、教育訓練給付の不正受給が6億円以上に上るという記事を一面トップにしていました。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060816i201.htm

厚生労働省の公式見解とは違いますが、私は「制度のあり方そのものが問われることになりそうだ」という考え方に近いものがあります。もともと、この制度自体、「これまでの企業におんぶにだっこの能力開発ではダメだ、自己啓発こそが大事だ」という90年代の流行思想に乗って、やや拙速に作られてしまったのではないかという印象を持っています。

あのころ、竹中さんとか規制緩和一派から、教育訓練は労働者に好きにやらせてカネだけ面倒みろという議論が盛んでしたよね。元をたどれば、フリードマン流の教育バウチャー論なんでしょうが。そういうことをすれば、実際にはモラルハザードがたくさん生じるだろうということは、職業訓練というものの現実を知っている人なら分かっていたはずですが、観念的に経済理論だけで突っ走るこういう議論に押されて(とともに、それを利用して新たな制度作りをしようという意図もあったのでしょうが)ある種の人々には大変おいしい制度を作ってしまい、2001年改正でかなり渋くなって甘みは薄くなったはずなんですが、まだまだこういう不正受給が横行するという事態になっているようです。

企業は教育訓練の責任を負わないで労働者に任せます、おカネは国で(つまり国民で)面倒見てねってやり方が、企業の教育訓練を受けられない人々にとって何の助けにもなっていないという事態は、現在の若年非正規労働者の状況が雄弁に物語っているわけで、これもまた改革狂騒曲の一つの副産物ということなのではなかろうか、と思われるのです。

個人の自由ってのは美しい言葉です。自己啓発ってなんて素晴らしい言葉。企業のお仕着せの訓練をあてがわれる「社畜」なんかより、はるかに上等。ついついなびくのはよくわかる。でも、そこには恐ろしい落とし穴が待っていたということではないでしょうか。

2006年8月15日 (火)

いい学校、いい会社

ベネッセ教育情報サイトというところに、玄田有史先生がこんなことを書かれています。

http://benesse.jp/general/12shinro/relay03.html

「いい学校って、あるんだろうか。
私は、ない気がする。少なくとも誰にとってもいい学校というのは、小学校から大学を通じてないと思う。いい学校かどうかは、個人によって違うだろう。」

「私は労働経済学を勉強してきたが、どのような会社が、働くうえでいい会社なのか、今でもよくわからない。それでも誰にとってもいい会社など、どこにもないことだけはわかる。」

そうでしょうか。

誰にとってもいい学校も、誰にとってもいい会社というのもないかもしれません。でも、誰にとっても悪い学校とか、誰にとっても悪い会社というのはありそうな気がします。

あるいは、学校とか、会社とかで見るんじゃなくって、そこでの学びや仕事ということで見れば、誰にとってもいい学びや、誰にとってもいい仕事というのはあるような気がするし、誰にとっても悪い学びや、誰にとっても悪い仕事というのは、多分間違いなくあると思います。そういう学びばっかりやってる学校やそういう仕事ばっかりやってる会社というのは、やっぱり誰にとっても悪い学校であり、誰にとっても悪い会社なのではないでしょうか。

「仕事の質」ってのは、間違いなくあります。それは賃金とか労働条件とかというよりも、その仕事がどれだけ未来につながっているかというところにあるのでしょう。デッドエンドの仕事、先行きのない仕事、青空の見えない仕事、そういう仕事が増えていくことは、個人による、んじゃなくて、やっぱり良くないことではないでしょうか。

続メイク・ワーク・ペイ

平家さんと私とのやり取りがちょっと小休止している間に、平家さんともじれの日々の本田先生との間で同じ問題について議論が始まったようです。

http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060812#p1

http://takamasa.at.webry.info/200608/article_8.html

http://takamasa.at.webry.info/200608/article_9.html

http://takamasa.at.webry.info/200608/article_10.html

本田先生の文章は、この問題を取り扱うには若干感情が入りすぎ、細心の注意に欠けるところがあるようにも見受けられますが、趣旨はここで論じていた生活保護と最低賃金の関係についての問題意識であって、その点に関する限り概ね妥当という感じがします。

ところが、平家さんがご自分のブログで書かれたことについて、私の目から見てちょっと一言あった方がいいかな、という点がありましたので、コメントをしておきました。以下の通りです。

>この金額以下で労働者を雇用することは、刑罰を課して禁止しなければならないほどの「悪」なのだろうか

倫理学的な意味における「悪」かどうかは別にして、政策論的には避けるべきことであろうという話だと思いますが。同じことの繰り返しになりますが、経済学者の作った経済の世界と福祉屋の作った福祉の世界が異次元空間のように別々に存在しているのでなく、同じこの一つの世界に共存している以上、それは困ったことであり、何らかの対応をすべきことなんです。それを「悪」と呼ぶかどうかは個人の趣味です

>刑罰というのは国の財政状態によって左右されていいものでしょうか?

ええ、場合によっては。

改めて言うまでもありませんが、刑罰法規にはそもそも道徳的倫理的に許されない刑事罰と、どっちもありうるんだけど、社会を円滑に動かすためにはこっちにしておいて、そっちをやったら罰を与えましょう、という行政罰があります(もちろん、厳密に言うとなかなか区別は難しいところはありますが)。

交通法規だの労働法規だのといったものは、原則として行政罰ですから、別に「お前は悪の枢軸だ!」と糾弾しているわけではありません。世の中全体の立場から都合が悪いからやめといてんか、という程度のものです。国の財政状態にも大いに影響されるでしょう(実際問題、最賃違反でホントに刑罰法規適用なんてことは(よほど悪質でない限り)ほとんどありませんよ。労働基準監督署が送検するのは大体安全衛生関係が主です)。

平家さんのご意見を読んでいて感じるのは、労働経済は自分の領域だから、自分の考える判断基準で例えば最低賃金について論じるけれども、生活保護などという得体の知れない化け物はそもそもどうあるべきなどと論じられないので、所与として考えようという発想のように感じられます。

でもですね。世の中そういう風に分けられないのですよ。どっちの側もね。生活保護の水準だって、何が健康で文化的な最低生活なんて純客観的に決められるなんて虚構ですよ。かつて最低賃金のない頃は、日雇い人夫の日給に合わせて生活保護の水準を決めていたこともありますし。もちろん、福祉原理主義からすればそれもけしからん話でしょう。しかし、それを前提にしなければならない理由もありません。世の中は一つです。経済学者の宇宙と福祉屋の宇宙が交わることなく併存しているわけではありません。

2006年8月14日 (月)

喫煙者差別はやっぱりダメ

9日のエントリーで、欧州委員会が「喫煙者は差別してヨシ!」と言ったと書きましたが、そんなこと言うとらんぞ、と否定しています。

http://ec.europa.eu/employment_social/emplweb/news/news_en.cfm?id=171

EUの差別禁止立法が喫煙者をカバーしていないというだけであって、喫煙者に対する差別が正しいと言ってるわけではない、一部のマスコミ報道はミスリーディングである、採用は技能と資格に基づいてなされるべきである云々。

もちろん、職場のスモーク・フリーな環境の促進は喫煙者、非喫煙者双方の健康保護のために推進するが、だからというて、喫煙者を差別すべきだなどというのが政治的に受け入れられるわけではない、ということです。

あまりの反響に慌てたのかな?

社労士も労働者派遣で

日経新聞に、政府の構造改革特区推進本部(座長・八代尚宏国際基督教大教授)が9月に、税理士、司法書士(登記・供託業務)、社会保険労務士の3業種について、労働者派遣を認める方針を決めた、という記事が載っています。

http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20060812AT3S1101P11082006.html

これは、六法全書を見ているだけではよく分からないと思います。法令上は、これらの職種が労働者派遣事業ができないとはどこにも書いていないからです。

ではどこに書いてあるかといいますと、厚生労働省職業安定局が通達している「労働者派遣事業関係業務取扱要領」の中に、「適用除外業務以外の業務にかかる制限」として挙げられているんですね。

http://www.mhlw.go.jp/general/seido/anteikyoku/jukyu/haken/youryou/dl/2.pdf

このPDFファイルの12ページに、「弁護士法(昭和24年法律第205号)、外国弁護士による法律事務の取扱いに関する特別措置法(昭和61年法律第66号)、司法書士法(昭和25年法律第197号)、土地家屋調査士法(昭和25年法律第228号)、税理士法(昭和26年法律第237号)、社会保険労務士法(昭和43年法律第89号)及び行政書士法(昭和26年法律第4号)に基づく弁護士、外国法事務弁護士、司法書士、土地家屋調査士、税理士、社会保険労務士及び行政書士の業務については、資格者個人がそれぞれ業務の委託を受けて当該業務を行う(当該業務については指揮命令を受けることがない)こととされていることから、労働者派遣の対象とはならないものであること」と書いてあります。

えっ?なぜ「対象とはならない」の?指揮命令を受けないって、雇用されてやったら当然指揮命令を受けるんじゃないの?と疑問百出の通達ですが、まあ、要はこれら専門職種を所管する各省庁がヤダ!といってるからダメということなんでしょうね。かつて適用除外でもなく認められていた医療関係業務が、1999年改正でなぜか政令による適用除外になってしまったのと似たような話ですかね。

この問題、本格的に突っ込むと、「指揮命令とは何か」という雇用契約、委託契約、請負契約その他の労務契約の本質論として論じてみても大変面白い論点ではあります。現実に、医師や弁護士を会社で雇って労務を提供させるということはあるわけですが、専門職種ですから個別具体的な指揮命令というのはありえない。つまり、どう治療するかとか、どう事件を解決するかという中味は指揮命令しえないわけです。しかし、そういうのも含めて広い意味での雇用契約だと考えれば、観念的抽象的な指揮命令関係はあるわけですね。派遣の場合、雇用関係と指揮命令が分離する。雇用関係と分離した観念的指揮命令関係というのが独立した関係として存在しうるか、という論点ですね。夏の夜の頭の体操としては大変面白い素材ですが、法令の根拠もないのに行政内部の文書に過ぎないはずの通達で勝手に民間の事業の対象業務を制限できるのかという、行政法上の問題でもあります。

なお、私もかつて(3年前)、派遣法の改正時の解説論文の中で、この問題にちょっと触れたことがあります。ご関心があればご参照下さい。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hakenhou.html

請負労務が必ずしも悪いわけじゃない

請負労務の問題については、自分なりにも、また某研究会でもいろいろと勉強してきたこともあり、最近の朝日新聞の記事をきっかけとしたブログ界の時ならぬ萌え萌えぶりには、いやあ話題になるのはいいことじゃと思いながら、一方でちょっと気になることもあります。

話が妙にリーガリスティック(法制主義的)になりすぎると、またぞろ例によって、「下らん時代遅れの法規制なんぞをいつまでも後生大事に祭り上げているからこういうおかしな事態になるんじゃわい。職安法なんて莫迦な法律は廃止して、誰でも自由に請負だろうが派遣だろうが好きにやれるようにすればええやんけ」という規制緩和論につながりかねないな、と、私は危惧しているんですがね。

法律に違反しているからけしからんばい、という議論は、そういう法律をやめればよかでっしょ、という議論と、レベルとしては同水準なんですね(神が定めたもうた神聖にして犯すべからざる法でない限り)。

あるブログで、早速そういう議論が展開されていました。

http://d.hatena.ne.jp/dennouprion/20060801

これは、その部分のみを取り出して議論すればそういう展開も可能なんですね。ただ、今公共政策としてこの問題を取り上げる意義は、もう少し社会全体を見渡して考える必要もあるのです。

労働経済白書でも分析されているように、90年代以来の製造業における請負労務の問題は、それが本来であれば職場の教育訓練を受けつつ技能を高めながら職業キャリアを積んでいくべき若年労働力を、技能の蓄積のないまま低賃金労働力として使い捨てにしてしまう構造になっている点にあるわけで、そのことが長期的な社会的コストを極めて大きなものにしていく危険性が高いから心配しているわけです。

企業にとっての労務コストの低減の要請を、社会的コストを極小化するようなやり方でどう工夫していくべきか、というのが社会工学的な問題設定であって、そういう意味からすると、以前にも書いたように、社会的排除を伴わないデッドエンド型ノンキャリア就業を割り当てるとしたら、年金を受給している高齢者の小遣い稼ぎ就労というのが一番問題が少ないのではないか、と思うわけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/post_ec1b.html

この点を若干敷衍しておきます。実をいうと、そういう高齢者をペリフェラルな就労にあてがうメカニズムというのは存在しています。しかも請負という法形式を用いて、面倒な雇用関係の責任を負わなくて済むように仕組んであります。シルバー人材センターという組織で、もともと大河内一男先生のアイディアから東京都が事業化し、国レベルに拡大したものですが、事業開始の当初から、これは請負といってるけどインチキじゃないか、実は労務供給事業じゃないかという批判はあったんですね。あったんですけど、あんまり誰も相手にしないというか、余計なこと言わんといてくれ、誰も損しとらんやないかという感じであったのですね。

近年、シルバー人材センターの請負労務で工場で労災に遭うというような事件もいくつか起こり、法制上派遣もできるという風になったりもしたんですが、いずれにしても、そういう実質論が大事なんであって、過度なリーガリズムは必ずしも有用とは限らないという面にも注意を払っておく必要があろうと思います。

2006年8月11日 (金)

電機連合 on 偽装請負

請負労務という就労形態が最も多く普及している電機産業の労働組合である電機連合が、「「製造業における偽装請負」に関するマスコミ報道についての見解」を発表しています。

http://www.jeiu.or.jp/news/discourse/others/kenkai10.html

偽装請負問題に関しては、「一部新聞において「製造業における偽装請負」に関する報道がなされましたが、「違法行為はなかった」ことが確認されています」と反論しつつ、そもそも派遣・請負の活用についてどう考えているのかを示しています。

まず、基本的な考え方としては、「オープンアーキテクチャの下でのモジュール化や、装置化・自動化の高度化など、“ものづくり”の大きな変化」の中で、「ものづくり技能も二極化が進み、90年代末以降、製造分野での業務請負の拡大や、法改正を受けた製造分野への派遣労働が広がっている」という認識を示しています。

ただし、「請負・派遣の活用は無原則でなし崩し的なものであっていいはずはな」いとして、「長期にわたる雇用関係の中で技能熟練が期待される正社員が担当すべき領域と、請負・派遣を活用する領域の区分けを検討する中で、請負・派遣の活用が図られるべきである」というのが原則ということになります。

電機連合としては、「請負活用が広がり始めた早い段階から世の中に先駆けてその実態調査に取り組むと共に、その調査結果を踏まえ、産別として請負活用の適正化に向けた取り組みを展開してきている」と述べていますが、実際、電機連合の調査研究報告には、中尾和彦さんの名著ともいうべき「製造業務請負業の生成発展過程と事業の概要」を始め、この問題を考える上で有用な多くの資料が掲載されています。ここは、東大社会科学研究所と並んで、この問題の研究のメッカと言えます。

http://www.jeiu.or.jp/soken/research/index.html

それを踏まえて、「各加盟組合・労連」に対し、「会社に対し「法令遵守」について一層の徹底を申し入れるとともに、請負・派遣の実態把握も含めた職場点検活動、請負・派遣の受け入れに関する労使協議の実施など、「請負・派遣についての適正な運用」に向けた活動を、より強化」するよう求めています。そこが一番難しいんだよねえ、というところでしょうか。

ホワイトカラー・ノンエグゼンプションの原点

今までこのブログで繰り返し述べてきたように(後述のリンク参照)、ホワイトカラー・エグゼンプションの議論は出発点が脱臼しているためにやればやるほど骨と筋肉がねじ曲がってしまうのですが、その出発点はどこにあるのか?については、『季刊労働法』211号に掲載した「時間外手当と月給制」で戦前、戦中期に遡って腑分けしてみたことがあります。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/jikangaiteate.html

ところが、実はこの論文には致命的な欠落があることが分かりました。いや、論旨に間違いがあるというのではありません。戦前には当然のように残業手当はエグゼンプトだったホワイトカラーのサラリーマンが、戦後どうしてブルーカラーと同じくノンエグゼンプトになってしまったかというところです。同論文では、労働政策を担当していた厚生省サイドの政策文献から、戦時中ブルーカラー労働者にも月給制が適用され、しかもそれは残業手当のあるノーワーク・ノーペイかつノーペイ・ノーワークのノンエグゼンプト月給制だったため、それが戦後労働組合運動の中でホワイトカラーにも広まったんじゃないか、という風な記述をしていたんですね。

ところが、これが大穴。ブルーカラー労働者の「賃金」は労働政策として厚生省の担当だったんですが、ホワイトカラー労働者の「給与」は大蔵省の所管だったんですね。いや、実はそのことは知っていました。厚生省サイドの賃金統制令と同じように、大蔵省サイドから会社経理統制令が出され、「社員」(注1)の給与について事細かに定めていたというのは知っていたんです。ところが、この会社経理統制令、制定後何回も改正されていて、その最後の昭和18年の改正の中味まできちんと確認していなかったんです。

この昭和18年改正で、会社経理統制令施行規則に第20条の2という枝番の規定が設けられていたんですね。そこに曰く、「居残手当又は早出手当にして1日9時間を超え勤務したる者に対し9時間を超え勤務したる時間1時間に付き50銭の割合に依り計算したる金額」「休日出勤手当にして休日出勤1回に付き3円の割合に依り計算したる金額」と書いてあったのです。むむむ、ホワイトカラー職員にも残業手当や休日出勤手当を払えというのは、大蔵省の命令だったんですね。

私は、上の論文を書くとき、昭和18年に出された会社経理統制令の解説書までは見ていたんですが、そこには昭和17年までの改正しか載っていなかったんです。ちょっと気になることがあって、今日東大経済学部の図書館に行って、吉田晴二「会社経理統制令の改正に就て」という薄っぺらな小冊子を閲覧させて貰ったら、なんとこの通り。しかし、これは学術論文としては致命的な欠落ですので、このブログで明記しておきます。もし将来加筆訂正の機会があれば、是非修正しておきたいと思います。

ホワイトカラーにも残業手当や休日手当を払うという仕組みがいつ誰によって作られたかということが、こうしてようやく明らかになってきました。日本経団連の皆さん、これは使えますよ。組合側が「ホワイトカラーに残業手当を払わないなんてけしからん」といってきたら、「お前は軍国主義者か、ファシストか、大蔵省の手先か」と罵ってください。すっごくリベラルな気分が味わえますよ。

(参照エントリー)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_90a2.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_20af.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_39a1.html

(注1)

この会社経理統制令は、エンプロイーのことを「社員」と呼んだ空前絶後というか、わが国法制史上唯一の法令であります。をいをい、会社法との整合性はどうなっとるんだい、法制局参事官は誰じゃ、連れてこい、てなもんですが、戦時中の「気分」というものは窺えますねえ。

2006年8月10日 (木)

募集・採用

7月25日のエントリーの続きです。「日本の労務管理」講義案の3回目、第1章「雇用管理」の第1節「募集・採用」です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/RecruitmentHiring.html

日本の雇用システムについての講義(再掲)

5月19日のエントリーで、日本型雇用システムについての文献ということで、森口千晶さんと小野浩さんの英文の文献を挙げておきましたが、日本語でしかも素人が簡単に読めるようなものはなかなかないのが実情です。

たまたま、勤務先大学の日本言語文化研究プログラムの一環として行われている「現代日本の社会システム」というオムニバス講義のうちの3回分を私が担当することになり、長期雇用システム、年功賃金制度、企業別組合といった日本の雇用システムの特徴を歴史的に説明することになりましたので、せっかくですからその講義メモを公開することにします。いうまでもなく、わたしはこの分野(労務管理史)は素人なのですが、法政策の観点からその近辺はフォローしてきているということと、玄人向けの大部のモノグラフはあっても、素人向けのわかりやすいテキストブックがないというこの分野の実情からして、何らかの意味はあるかも知れないと思っております。まあ、「筋金入りの素人」の講義案ということで、玄人筋からのご批判など頂ければ幸いです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/japanlec01.html

(第1回「学校から仕事へ:労働市場から見た現代日本」 )

http://homepage3.nifty.com/hamachan/japanlec02.html

(第2回「会社の中の生活:労働条件から見た現代日本」 )

http://homepage3.nifty.com/hamachan/japanlec03.html

(第3回「対決から協調へ:労使関係から見た現代日本」 )

<おことわり>

元のエントリーには最近迷惑コメントがいっぱいつくようになったので、いったん削除し、改めて再掲します。

連合 on 偽装請負

3日付で、連合が偽装請負問題について談話を出していました。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/news/danwa/2006/20060803_1154586342.html

ここでは、連合としてはいろいろと取り組んできたんだけれども、「こうした取り組みにかかわらず、多くの職場で偽装請負・違法派遣が蔓延する状況が是正されていないことは、働き方についての不法・脱法行為をチェックし質すという、労働組合の責任を十全に果たせていないとの批判を免れず、大変残念」だと述べて、「経営に対してコンプライアンス遵守を強く要請するとともに、各構成組織における職場点検と実態把握、派遣・請負労働者受け入れにおける労使協議の実施、職業安定法、労働者派遣法、労働基準法、労働安全衛生法等の法令遵守の徹底など、各職場において偽装請負・違法派遣の一掃をはかるべく取り組みを強化する」と、まあやや建前的な言い方になっています。

それに対して、朝日新聞の高木会長インタビューでは、より率直に、

http://www.asahi.com/business/update/0809/082.html

「責任を十分に果たせたとは言えない」、「(労組は)目をつぶっていた。言葉が過ぎるかもしれないが、消極的な幇助(ほうじょ)。働くルールがゆがむことへの感度が弱かったと言われてもしょうがない」、「例えばボーナスで配分を受ける正社員が、配分にあずかれない偽装請負の人をほったらかしたということだ。経営者から『余計なこと言うな』と言われ、『しょうがない』とする弱さを労組が持っていた」 等々と、自己批判の弁を語っています。

まあ、工場内請負が広がってたのは電機や機械をはじめとするメタル系で、高木会長の出身のUIゼンセンはパートの組織化に力を入れていたところなので、若干温度差があったのかも知れません。「お盆明けにも経団連に『企業に直すよう促して欲しい』と申入書を持って行く」のだそうです。

いずれにしても、高木会長も単なる法令コンプライアンスの問題だけではなく、「請負の拡大が、正社員になれない不安定な「置き去り世代」を生み出してしまった」と、雇用管理の問題として捉える視点を明確に打ち出していますし、「今のルールが不十分なら、新しいものが必要という議論も出てくるだろう。(今は法規制がない)請負が可能な業種を絞ったり、請負法をつくったりするとか」と、労働法の枠を超えた立法政策論も構想しているようです。何でも口を挟みたがる家父長的行政国家だとか言わないでね、リベラルちゃん。

2006年8月 9日 (水)

喫煙者は差別してヨシ!

しばらくEUネタが切れていましたが、ちょいと面白いのがありました。

http://www.eubusiness.com/Health/060805101502.vn9iycuv

http://www.eupolitix.com/EN/News/200608/b0a28055-f0b5-4353-908a-cd0dd58c757d.htm

2000年にEUでは一般雇用均等指令ができて、性別、人種、民族、思想、信条、障害、年齢、性的志向による差別や嫌がらせは禁止されているんですが、さて煙草のみを差別するのは是か非か。

という質問趣意書を欧州議会のキャサリン・スティーラーさんというスコットランド出身の議員さんが提出したんですね。それに対して雇用社会問題担当委員(厚生労働大臣に相当)のシュピドラさん曰く、「喫煙者は応募しなくてよろしいという求人広告は禁止されていない」。

記事では、アイルランド企業の発言として「煙草のみは反社会的で病休をとりすぎる」とか、「コービーブレークに煙草を吸ってくると臭えんだ」「知性を疑う」「莫迦」とさんざんな言われよう。なるほど、あれだけ人権感覚の高いヨーロッパにおいても、煙草のみには人権はないということのようです。

妥協の哲学と美学

 旧労働省の役人はときどき自嘲気味に「足して二で割る労働省」なんてなことを申しておりましたが、足して二で割れば妥協が成り立つのであれば、こんな簡単なことはないわけで、技能も熟練もありはしない。本当はそんな単純なものではないのですよ、ということです。

 大体、何事でも、対立する両者間には複数の論点があるものです。この論点ではこう、その論点ではそうという風に、いくつもの妥協案を組み合わせることになるわけですが、さて、そこで単純にこっちでなんぼ、そっちでなんぼと単純な算術で計算すればいいというものではありません。実は、世の中では論点ごとに各プレイヤーの主観的重み付けが異なることが多いのです。使用者側にとってはこの論点が重要で、その論点はそれほどではないが、労働側にとってはその論点の方が大事で、この論点はそれほどでもないという風な、主観のずれが常に発生します。そこをうまくイクスプロイットするのが妥協屋の腕の見せ所ということになります。

 Aが主観的により重要と考える論点ではAにやや有利な妥協案とし、Bが主観的により重要と考える論点ではBにやや有利な妥協案として、両者を結合すると、客観的にはA,Bいずれにとっても五分五分の妥協案でありながら、主観的にはA,Bいずれも自分の方にやや有利な妥協案であると認識するという事態が発生しうるのですね。これはとりわけ、後ろに応援団というか「やれやれ、いてまえ」と叫んでいる連中を控えた交渉においては極めて重要なことです。こういう妥協案をうまく調合するのが、妥協の哲学であり、美学である、と、私は教えられてきたと思っています。

 で、話が飛ぶように見えるかも知れませんが、最近麻生外相が提案した靖国神社を非宗教法人にして国立追悼施設とする案ですが、このブログで前に書いたように、この問題の経緯からしても適切な提案だと思いますが、それだけでなく上の妥協の哲学から見ても実にうまくできているんですね。

http://www.asahi.com/politics/update/0805/006.html

 日本は民主主義国家です。靖国社設置法(?)を審議立法する国会は国権の最高機関であり、主権の存する国民の意思にのみ基づいて、その慰霊対象を決定するのであって、ここのところがきちんと守られていることがもっとも重要なことです。国民の意思が結果的に中国が騒いでいたことと一定程度対応することがあったとしても、それは結果論に過ぎず、民主的立法過程が重要です。一方、中国はパワーを信奉する一党独裁国家ですから、民主的立法過程などはあまり関心がなく、そのいうところのA級戦犯が排除されるかどうかが主たる関心事です。つまり各論点に対する日中両国の主観的重み付けが異なることから、いずれの側も自分の主張が通ったと認識し、説明することが可能なような構成になっているんですね。ここが麻生提案の絶妙なところです。

労働経済白書

8日、労働経済白書が発表されました。7月18日のエントリーで読売のリーク記事をちょっと引用しましたが、実物を見ると、今時ならぬ流行中の偽装請負の問題から始まって、若年非正規労働者の職業能力や所得格差の問題を中心に分析し、最後の節では日本型雇用システムの展望にも説き及ぶという大変な意欲作です。

http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/06/index.html

 労働経済白書の執筆責任者は政策統括官付きの労働経済調査官なのですが、今年の白書の担当者は石水善夫氏。もちろん旧労働省出身の官庁エコノミストですが、1999年に『現代雇用政策の論理』でデビューし、2002年には『市場中心主義への挑戦』を出した労働問題の論客でもあります。経済産業研究所のコンサルティングフェローもしています。

 『論理』のオビには「日本型雇用慣行は今や世界で通用しないとする規制緩和論と結びつく雇用流動化論は、雇用の現実から遊離した政策論であり、その問題点を歴史的・実証的に究明した問題作」とあります。彼の思想がよく出ているものとして、連合総研での講演の記録を挙げておきます。

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no163/hokoku.htm

 職場内請負の実態や、若年非正規労働者に職業能力開発機会が少なく、キャリア形成から排除されていること、世帯内にとどまり年齢とともに格差が拡大していくため、年金にも加入せず将来の生活保護受給者を拡大し、また家族形成力を低下させて少子化に寄与している、等々といった分析は、既に新聞等でも詳しく紹介されているので、あとは上のリンクから実物を読んでくださいということにしておきます。

 私にとって興味深かったのは、こういう格差論に対しては、往々にして過激なリベラリズムといいますか、みんな正規労働者の既得権が悪いんや、こいつ等全部たたきのめして平べったくしてまえ、みたいな威勢のいい議論が受け狙いで流行りがちになるんですね、そして気がついたらネオリベの別働隊になっていたというのが今までのリベラル坊やの軌跡であるわけですが、そこはきちんと、長期雇用で人材育成を図る日本型雇用システムの長所を維持しながら、能力評価システムを改善していくことによって、勤続の価値が適切に賃金制度に評価されるとともに、中途採用者の賃金も適切に格付けされうるだろうという展望を示しています。このブログでも何回も繰り返して書いてきた論点ですが、職業能力という観点の抜け落ちた議論はアカンのです。本白書の最後のところが実に見事に要約しているので、ちょっと引用しておきます。

「職業能力開発の機会が十分でない非正規雇用については、非正規雇用の労働者が意欲をもって活躍することができ、企業としてもより戦略的に人材を活用していくことができるよう、職業能力開発機会の提供に積極的に取組むことが重要である。その際、企業の中での非正規雇用の人材活用がかなり進展してきていることを踏まえ、長期雇用システムのもとで培われた人材育成機能を、非正規雇用にまで拡張していくことが望まれる。また、派遣労働者や請負労働者が増加しているが、今後、人材確保が難しくなる中で、労働者派遣事業者や請負事業者においては、そこで就労することによる能力向上やその能力の他分野への活用可能性など、労働者にとっての魅力づくりがより一層重要となろう。さらに、このような望ましい方向性を目指していくため、公正な市場の競争条件の整備を通じて、賃金コストの削減のみを目的とするような企業行動を是正していくとともに、職業能力開発に取り組む事業者を積極的に支援していくことも求められよう。」(241頁)

2006年8月 7日 (月)

杉本信行元上海総領事死去

3日、杉本信行元上海総領事がお亡くなりになりました。

http://www.sankei.co.jp/news/060803/sei045.htm

私にとっては、彼が欧州連合日本政府代表部公使だった時代におつきあいさせていただいたという関係ですが、直接業務上のつながりはなかったこともあり、彼の専門である中国関係のお話をする機会はほとんどありませんでした。交流協会に出向時、朝日新聞の船橋記者に李登輝総統へのインタビュー記事を書かせるべくどう動いたか、という話を、連合の方が来たときに一緒に聞いたぐらいでしょうか。

中国公安当局が絡んだ領事の自殺事件の報道で総領事としてお名前がよく出てきて、大変な心労だろうな、と思っていたのですが、先月出版された「大地の咆哮」を読んで、末期ガンに冒されておられたことを知り、その中でこういう本を書かれていたことに鬼気迫る思いがしたものです。この本の目次に加え、前書きと後書きが下記HPに掲載されています。

http://duan.exblog.jp/3312137/

外務省チャイナスクールというと、特に最近はウヨク系メディアからまるで売国奴みたいな言われようですが、こういう難しい立場の中で相手との関係をなんとか維持しつつ、きちんと日本の国益を見据えながら頑張っている外交官こそ、真の愛国者でしょう。少なくとも・・・(以下自粛)

雇用保険部会中間報告

4日、労政審の雇用保険部会が中間報告を発表しました。

http://www.mhlw.go.jp/houdou/2006/08/dl/h0804-1a.pdf

「検討」じゃなくって明確に方向として示されているのは、パートと通常の被保険者資格区分をなくして、一本化するということくらいですが、記事に載っていた65歳以上も被保険者にすることとか、雇用福祉事業の廃止などいろんな論点が出ています。

雇用政策財源がどうなるかという観点から注目されてきた雇用保険3事業については、宿舎や福祉施設で批判を浴びた雇用福祉事業を廃止し、それ以外も全面的に洗い直すという見直し案が添付されています。

その中で、当面重点を置くべき雇用対策として「フリーターの常用雇用化等若年者雇用対策の強化」や「非正規労働者の安定した雇用の促進」が上げられているのが注目されます。

また、国庫負担の在り方については、この段階では主な議論を紹介するという形にとどめています。まあ、当然でしょうが、気分のにじみ出た文章になっていますね。

メイク・ワーク・ペイその3

平家さんのブログ「労働社会問題」でさらにやり取りが続いていましたので、転載するとともに、若干のコメントをしておきます。

http://takamasa.at.webry.info/200608/article_1.html

平家さんから「働かず、求職活動などをしない人にはいっさい給付をしないということですか?」と問われ、

端的に言うとそういうことです。あとのご質問ともつながりますが、老齢や障害のためそもそも全く就労を要求できない人、つまりいかなる意味でも交換の領域にいない人は、そういう社会的贈与の仕組みで面倒を見るべきでしょう。年金の不備を生活保護で補い、本来生活保護で面倒見るべき就労可能な人を追い出してきたのがおかしいという考えです。

とお答えしました。さらに、平家さんから「「隙間」は、働く能力を持っている人に対する給付の差ですね?働けない人に対する給付ではなく」と問われ、

賃金との隙間ですから当然就労可能な人を想定しています。
恐らく平家さんは、年金が少なすぎて生きていけない隙間を生活保護で埋めるという発想があるのだと思いますが、それは年金を(賃金と同様)全て交換の領域で考えるかどうかという問題でしょう。
年金とはかけた保険料が戻ってくるものなりと考えれば、同様の隙間が原理的にあり得ます。年金とは世代間の連帯であり、最低保証のあるものと考えれば、年金制度自体に隙間はあり得ないことになります。これは年金観の違いから来るものです。

とお答えしました。

これに対して、平家さんは、「高齢期はエッフェル塔で」というエントリーで、「高齢期は家族構成、健康状態どが様々で高齢者といっても大きな差があ」るのに、「公的年金は画一的なもので」、「社会保険によるものであれ、税によるものであれ、一定の算式に基づいた給付しかでき」ないのだから、「高齢期は年金で対応するべきで、それができないような現在の年金制度は不備なものであるというhamachanさんのご主張には賛成でき」ないと言われます。「年金というオベリスクでは高齢期に対応できません。様々な政策を組み合わせて適切な高さのエッフェル塔を建てるべき」だと仰るわけです。

http://takamasa.at.webry.info/200608/article_2.html

これは、上で私が申し上げた年金というものをどういうものであるべきものと考えるかという年金観の違いから来るところが大きいように思われます。つまり、年金というものが「画一的なもの」でなければならず、「一定の算式に基づいた給付しかできない」ものでなければならない理由はないように思われるのです。これは、老齢年金を中心に考えるとそういう風に(つまり交換の領域のものとして)考えがちになりますが、障害年金を例にとれば、要は障害者が生活できるように金銭給付をするのが目的なのですから、「年金というオベリスクでは障害に対応できません」としらっと言われてしまったら、お前何者?といいたくなるでしょう。明らかに、障害年金は障害というリスクに集団的に対応するための連帯のメカニズムなのです。ところが、老齢年金が老齢というリスクに集団的に対処するための連帯のメカニズムなのか、それとも老後に備えるための強制貯蓄を集団的に行っているのかというのは、実は根っこのところで社会的合意が得られているわけではないんですね。だから、いろいろとねじけた議論が発生するわけですよ。強制貯蓄であるならば、それをしなかった奴への無拠出給付はそれ自体モラルハザードです。

ここで、どちらが正しいという議論を展開してみてもそれほど意味があるわけではありません。老齢年金の性質論については改めて議論を起こす必要があります。ただ、とりあえず「働けない人」として老齢者ではなく障害者を念頭に置いて考えれば、これまでの議論の筋道からして、こういうことはご理解いただけるでしょう。

世の中には「働ける人」と「働けない人」がいる。もちろん、これも細かく言っていくといくらでも細かい議論はできますが、それは全部ネグって、そういう2種類の人がいる、と。で、働ける人については、私の言うような就労促進的メカニズムを組み込んだ所得補助システムと、低生産性就労者への在職給付メカニズムが必要。一方、働けない人については、就労促進の意味がないので、それに代わる何らかの社会参加促進的な所得補助システムが必要であろう。それは、なにも画一的な年金と柔軟な生活保護の組み合わせという形をとらなければならない必然性はない。柔軟な年金制度があればよい、と。

2006年8月 3日 (木)

偽装請負その3

ということで、萌え萌え朝日新聞の執念が実り、遂に松下プラズマディスプレイは、請負労働者の一部の直用化に踏み切るようです。

http://www.asahi.com/business/update/0803/050.html

製造業の偽装請負はかなり前から目立つようになってきていましたが、2003年改正まで製造業への派遣が禁止されていたこともあり、事実上お目こぼしをされていたのが、ここに来て派遣に変えられるじゃないかということで監督が厳しくなってきたというのが一般的な状況のようですが、本件の場合、いったん請負から派遣に変えておきながら、その後また請負に戻すというようなことをやっていて、大変心証が悪かったというのがあるでしょう。

「大阪労働局は、昔は松下とはケンカしない事で有名だった」んだそうですが、

http://d.hatena.ne.jp/nami-a/20060801/p2

今回の件はいささか目に余ったということでしょうか。

2割を直用化ということですが、残りも請負のままではまずいはずですから、また派遣に変えるんでしょうか。法律的にはそれで問題は一応なくなりますが。

2006年8月 2日 (水)

厚労相 on 偽装請負

萌え萌え朝日新聞は、今日も偽装請負征伐のため、1面トップで松下プラズマティスプレイが派遣と称して補助金受けとっといて密かに請負に変えていたという記事をぶちかましています。

http://www.asahi.com/national/update/0802/TKY200608010591.html

昨日の厚生労働大臣の閣議後記者会見でも、この問題が出ています。

http://www.mhlw.go.jp/kaiken/daijin/2006/08/k0801.html

(記者)  大手の製造業者を中心にして広がっている偽装請負の問題についてなんですけれども、現状のご認識と、それからまた新たにさらに対応を考えていかれるお考えがあるかということについてお伺いできますでしょうか。

(大臣) 一つは、国会で随分この問題について、メーカーの名前は違いますけれども、ご質問をいただきました。そういった意味では、偽装請負というのは好ましくない。したがって、注意喚起をし、是正を求めていかなければならないというのが、うちの一貫した姿勢でございます。そういった意味では、全体の数字を見ると請負が派遣に変わってきているということは事実、数字としては。だから、少しずつ方向性としては出てきているだろうと思います。私どもが、もう一つ言ってきたのは、出来るだけ非正規雇用という形ではなくて、正規雇用という雇用をしてもらえないだろうかという議論をずっと経済界としてきております。そういった中で、継続的に仕事をしてもらう、派遣にしましてもですね、そういうことならば、もう少し正規雇用という形で考えてくれないだろうか。その考え方が一部、新聞報道によれば出ていた、メーカー側もそういうことも考えていかなければならないということを具体的に打ち出されていたように思います。ただ、個々の案件、すなわち、厚生労働省としての基本姿勢、先ほど申し上げたように、偽装請負というものは、いけない、是正を求めていくという姿勢は一貫しておりますので、各地で私自身の方針に基づいて出先において様々なことが行われるということは事実であります。しかし、個々の案件を開示するということは基本的にはしていない。これは、ある意味では、監督署というのは、それだけの能力を持っているところですから、刑事事件のように。同じように、実際に問題が出てくれば発表することになりますけれども、是正を求めている中において、個々の事案を公表するということはしない。私どもの方から、しっかり話し合って、そして労働者の待遇というのが上がっていく。場合によっては、正規雇用につなげていくということが、私どもの狙いですので、そこは良く一つ一つの事案を見ながらやっていく。そういう意味では、今年になって、こういうものをやはり強く是正を求めたいという省の姿勢は強く出したいと思っています。

過不足なく、極めて適切な発言だと思います。法違反はきちんと是正させる。しかし、包皮じゃない、放屁でもない、なんだっけ、法匪じゃないんだから、請負を派遣にして万歳というのではなく、こういう製造業のものつくり現場の若年労働者の正規労働化という政策的コンテクストの中で考えていくべきだろうということですね。

メイク・ワーク・ペイその2

月曜日のエントリー「メイク・ワーク・ペイ」の続きです。

引き続き平家さんから次のようなエントリーがありました。

http://takamasa.at.webry.info/200607/article_32.html

「働いていて賃金を受け取っている(15万円とします)が、生活保護水準(20万円とします)に達しないケース」を想定し、「単純に差額の5万円支給すると、働かなくても20万円、働いても20万円の収入で、働かないことを選ぶ人が増えていく。すると、生活保護費はどんどん増えていってしま」うことから、「ワークをペイするようにしなければならない。答えは単純で、15万円給料をえた場合には、例えば、その3分の2の収入があったと見なすことにする。この場合では10万円です。従って給付額は20万円-10万円=10万円。これと実際の給料15万円を合わせると25万円。働くことはペイするわけです」という処方箋を示されています。

これに対して、「働いて22万円しか収入がないひとからは、不満がでるでしょう」と認めつつも、「これを抑えるか、我慢してもらえるかどうかが、「メイク・ワーク・ペイ」の成否の鍵です」と簡単に処理しておられます。

これに対して、私は次のようなコメントをつけました。途中で平家さんの質問も入って、やや長文ですが、

お示しの設例では、生活保護から働く方に異動する人のインセンティブにはなっていますが、その人よりの低い最低賃金で初めから働いていた人に対しては大変な就労へのディスインセンティブになります。それを「これを抑えるか、我慢してもらえるかどうかが、「メイク・ワーク・ペイ」の成否の鍵です」などといっていられるかが問題です。メイク・ワーク・ペイは、いまドツボな状況で働いている人にも等しく適用されなければなりません。
平家さんは、いろんな制度を適当に重ね着してやればいい、そのことにはhamachanも異議なかろうという風に仰っておられるんですが、全体を一つの制度であるかのように構築しないと、このモグラたたきのようなインセンティブ・ディスインセンティブ問題は取り扱えないのです。「どれか一つの単独の制度で」云々というのではなく、最低賃金、失業保険、生活保護を、一括して単一の制度であるかのように設計運用しなければ解決にならないというのが、メイク・ワーク・ペイの最大のメッセージであると私は考えています。

これに対して平家さんから、「働いて22万円の収入を得ていた人が、一旦、働くのを抑えて15万円まで収入を落とし、生活保護を受けて25万円まで収入を増やそうとすると。そういう、モラルハザードを懸念していらっしゃるのですか?」というご質問があり、

それも含みますが、平家さんの設例でいえば、今まで15万円の最低賃金から24万円までのレーンで働いていた人は、いったん生活保護を受けてから働き出せば、より高い賃金が得られることになり、いったん就労を停止するインセンティブが働きます。広範な低賃金就労層(ワーキングプア)に対して、いったん働くのを止めろという強いメッセージが出されることになりますね。
ういうモグラたたきは、最低賃金と生活保護を別々の制度として運用している限りクリアできないでしょう、ということです。

前にも書いたことですが、最低賃金は労働の対価たる賃金なんだから経済の論理、生活保護は憲法に基づく崇高な福祉なんだから連帯の論理というのは、それ自体は正しいんですよ。正しいんですが、そのお互いに絶対的に正しいものが、このたった一つの社会の中で共存しちゃっているんです。共存している限り、その接触点では、モラルハザードが山のように起こりえます。それぞれの正しさに固執している限り、これは解決不可能なんです。

お互いに絶対的に正しいものをただ組み合わせれば、シナジー効果が働いてうまくいくどころか、かえって逆効果が相乗作用を起こしてむちゃくちゃになってしまいます。
ご理解いただいていると思いますが、私は最低賃金だけ、生活保護だけでやれなどということは申しておりません。しかし、哲学の全く相反する複数の制度をただ並列することは破壊的な効果を持ちます。組み合わせるというのであれば、それぞれを抜本的にモディファイしなければならないのです。生活保護を組み合わせようとする限り、最低賃金は経済の論理だけではダメなのですし、最低賃金と組み合わせようとする限り、生活保護は福祉の論理だけではダメなのです。

とコメントしました。

これに対する平家さんの4つめのエントリーが、

http://takamasa.at.webry.info/200608/article_1.html

です。メイク・ワーク・ペイとなるようにしたとき、「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されていると考えているのかという質問と、年金も考慮すべきではないかという論点です。こちらにつけた私のコメントが、

実をいうと、私は「健康で文化的な生活」なんてのは決めの問題だと思っています。世界各国を見れば、様々な生活水準があるわけで、絶対的な基準なんてのがあるわけではない。むしろ、自分の稼ぎで暮らしていながら、これが健康で文化的な最低限度なんだよと国家がお墨付きを出した水準以下の生活をさせられているという相対的剥奪感の方が重要だというのが出発点です。
その意味で、私は働いている人の方が働いていない人よりも「いい目」を見られるような制度設計が最重要だろうと思います。とはいえ、生産性を遙かに上回るような賃金の支払いを使用者に強制することはできません。社会的に正しくても経済的に正しくない。そこで、その隙間を在職給付という形で埋めることになります。あくまで低賃金就労者に対する就労奨励のための手当であって、生活保護ではない。働かなければ切られる。その財源は、他の制度を一切いじらないのであれば、現行生活保護から持ってくるしかないでしょう。

一方で、生活保護自体を単なる贈与の領域から交換の領域に持ってきて、何らかの行為に対する対価として支給するんだという性格を明確にする必要があります。生活保護をいわば国民失業保険という風に考えるわけです。一般的には求職活動ないし教育訓練受講の対価という風に位置づけられるでしょう。もっともこの辺は受給者の状況が様々でしょうから、もう少し検討する必要はあるでしょう。
ここで問題になるのが、もはや働けないような高齢者はどうするのか、ということでしょう。平家さんが年金との関係を持ち出されたのもそこを念頭に置かれているのだと思います。私は、年金制度の不備を生活保護が補っているという状況自体が不合理なのだと思いますが、そっちが当面動かしようがないのであれば、そこは対価性を求めるのは無理かな、とは思っています。

です。

2006年8月 1日 (火)

医師の需給

医師の需給なんて医政局マターは労働法政策に関係ないんじゃないの?と思われるかも知れませんが、いやいやいろいろと興味深いところがあります。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/07/s0728-9.html

私が興味を持ったのは、医師の需要見通しの推計に当たって、「医師の勤務時間の現状と、勤務時間のあるべき姿とのギャップを現状の医師数に上乗せした人員を現在の医師必要数と置いた。必要医師数の算定に当たっては、医師の勤務時間を週48 時間とおいた」というところです。いや、これは当然なんですが、「上記の推計は、医師が医療機関において過ごす時間のうち、診療、教育、他のスタッフ等への教育、その他会議等の時間を勤務時間と考え、これを週48 時間までに短縮するのに必要な医師数から求めたもの」なんですね。「仮に、休憩時間や自己研修、研究といった時間も含む医療施設に滞在する時間を全て勤務時間と考え」ると必要医師数はもっと多くなるけれども、「休憩時間や自己研修は、通常は勤務時間とは見なされない時間であり、これらを含んだ時間を全て勤務時間と考えることは適切ではない」。これもその通り。

ところが、後ろの参考資料の実際の推計のところでは、「医師の労働時間には病院にいる時間である「滞在時間」は診療に加えて待機か休憩の時間を含み、その中でも待機時間は通常労働時間とは認められていない」とあって、これは待機時間を労働時間外として除外した数字なんですね。本文には休憩時間とか研究とかしか出てこないのはやや姑息な感じがします。待機時間ということになれば、これは色々と議論を呼び起こすわけですよ。そこを悟られないようにうまくネグってしまった感じですね。

ここでいう待機時間が宿日直の許可によるものだとすると、救急医療でそれが労働時間でないといえるかどうかはなかなか難しいところがあるんですね。その辺をどう処理しているのか、関心をそそられます。去年7月の中間報告書の段階では、

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2005/07/s0727-7b.html

「最終報告書に向けた検討課題 」として、「夜間の当直の後も通常どおり勤務しなければならないなど、医師の重労働の実態については多くの指摘があった。このような医師の献身的労働によって現場の医療が支えられていたことは事実であるが、医師も労働者である以上、このような労働形態は改められなければならない。一方で、労働法規を遵守することが医療提供の在り方にどのような影響を及ぼすのか、検証していく必要がある」という記述もあったんですね。この検討課題はどこに行っちゃったんでしょうか。

偽装請負その2

朝日新聞が偽装請負問題に萌えちゃってます。

昨日紹介した昨日朝刊の記事に続いて、昨日夕刊では

http://www.asahi.com/business/update/0731/119.html

経団連会長企業のキャノンが、偽装請負を一掃し、数百人を正社員にするというホメホメ記事。

一転、今朝の朝刊では、

http://www.asahi.com/business/update/0801/047.html

松下が請負会社に社員を大量に出向させて指揮命令を脱法してるという糾弾記事。

ただ、この問題は法律論としては偽装請負をちゃんとした請負にしろとか、指揮命令するなら派遣にしろという話なのですが、労働経済論とすると、こういうものつくりの現場の若者労働力を使い捨てのままにしておいていいのか、という問題でもあります。かつて書いた、社会の中でデッドエンド仕事を誰が担う形にするべきなのか、という問題にもつながります。

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