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2006年7月19日 (水)

定年制の存在理由

野村正實先生のHPに、定年制についての文章がアップされています。

http://www.econ.tohoku.ac.jp/~nomura/LazearCritics.pdf

野村先生の問題意識は、「サラリーマンから見た定年制の不合理性を批判しなければならない」「それは同時に、定年制の存在を合理化する経済学を批判することでもある」というところにあるようで、それゆえに労働経済学(というか人事経済学)で有名なラジアーのモデルを批判しておられます。

ただ、わたしにはどうも理解しかねるところがあります。野村先生のラジアー批判は、要約すると、そのモデルが「期待を下回るレベルで仕事をすること」が解雇理由になるというアメリカでだけ成立する条件を前提にしているが、日本は解雇権濫用法理があるからそれは成り立たない、よってラジアーモデルは日本に適用できない、ということのようなのですが、そこに飛躍があるように思われるのです。

解雇が自由という点でアメリカは文明国では特異な国です。ヨーロッパ諸国はみんな解雇を規制しています。そのヨーロッパ諸国にも、強制退職年齢は存在し、それ故に現在、一般均等指令の国内法化をめぐって、いろいろと議論が続いているわけです。こっちの方が一般的であり、普通であって、そういう普通の国の定年制の存在を人事経済学のモデルで説明できないかというと、そんなことはないだろうと思うのです。何もラジアーのモデルを一言一句厳格にその通り押し戴く必要などないのであって、モディファイすべきところはモディファイすればよい。

日本の場合、むしろ解雇権が制約されていることが定年制の存在理由を高めているわけです。これは日本の労務管理史を振り返ってみれば、定年、退職、解雇というのが戦前から大きな労使間の課題であり続けたこと、そして、使用者側は解雇権の制約に係らずに労働者を退職させられるという点に定年のメリットを見いだし、労働者側は定年の存在によって定年に達するまでは解雇がより一層制約されるという効果を求めて、いわば同床異夢的に定年制が広がってきたということが分かりますが、これもラジアー流の人事経済学的な分析(あるいはむしろゲームセオリー的かも知れませんが)によって説明できることであって、「ラジアー・モデルを日本風に解釈したモデルもまた日本には適用できない」ということにはならないように思います。

ある意味でやや皮肉だなと思うのは、ここで野村先生が批判しているラジアーの紹介者の清家篤先生は「定年制の存在を合理化する」イデオローグどころか、『定年破壊』などで定年制廃止の論陣を張っておられる方なのですが、野村先生も又「定年制の不合理性を批判」する立場に立っておられるわけで、一体誰を攻撃していらっしゃるのだろうか、と不思議な感を持ってしまうのです。

わたしはむしろ逆に、定年制の存在が定年到達以外の解雇を制約する効果をなお否定しがたいものだと考えていますので、年金支給開始年齢未満の定年制は別として、その不合理のみをあげつらうことはかえって労働者にとって不利益な結果となるように思います。この問題と、募集・採用における年齢差別の禁止の問題をどのように調和させるかが政策というものでしょう。

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