先週木曜日のエントリー「最低賃金とワーキングプア」にたいして、平家さんから次のような批判がありました。
http://takamasa.at.webry.info/200607/article_30.html
エッフェル塔とかオベリスクとかいうメタファーが高度すぎて、わたしによく理解できなかったこともありますが、論点はそこにあるわけではありません。要点は、「最低賃金には最低賃金の、生活保護には生活保護の役割があります。財産もなく、年金の受給資格がないか、あっても金額が少なく、しかも働くこともできない高齢者には、生活保護を与えればいいでしょう(年金の額は差し引くにしても)。・・・また、働けて、働く場を見つけることができた人には、最低賃金を保証し、それによって得た収入が生活保護の水準に足りていればそれでいいし、満たなければ、そして貯金もなければ生活保護を与えればいいのです」というところにあります。
これにたいして、わたしは次のようなコメントを書き込みました。
日本の生活保護法は、「財産もなく、年金の受給資格がないか、あっても金額が少なく、しかも働くこともできない高齢者」だけを対象にした法律ではありません。第2条をご覧下さい。これがこの法律の趣旨です。それがおかしいという考え方は十分あり得ます。それなら法改正をすべきでしょう。それをせずに、この「無差別平等」規定を堂々と残したままで、実質的に対象者を絞り込むような(敢えていえば脱法的な)法の運用を厚生省がやってきていたことがおかしいと(少なくとも法制論としては)言わざるを得ません。
日本の六法全書に載っている条文は、生活保護法がエッフェル塔とは別次元のオベリスクだとは書いていないのですよ。
わたしの申し上げているのはそれに尽きます。立法論としては、今まで厚生省がやってきていたような、働ける成人男子は相手にしないというやり方も十分あり得ます。しかし、それは現行法の規定を前提にする限り違法なのです。2004年の運用改正以後の、入りやすく出やすい生活保護というやり方が現行法の趣旨であるとしか言いようがない。
そして、現実に厚生省の運用がそういう風に代わってきた以上、法のそもそもの趣旨とその現在の運用を前提にして最低賃金や雇用保険との比較の議論になるのは当然のことなのです。
ちなみに、以上で話は尽きていますが、ヨーロッパにおける議論も、まさに最低賃金も失業保険も生活保護もすべてエッフェル塔であってオベリスクではないという前提で議論がされています。恐らくそれが世界的に標準の議論なのではないかと思われます。
これに対して、平家さんからさらに次のような反論がありました。
http://takamasa.at.webry.info/200607/article_31.html
エッフェル塔とオベリスクの例えを誤解していたことは分かりましたが、論点そのものについては、まさに現在の雇用制政策と社会政策の連繋の最重要課題に関わる問題であると思いましたので、さらに次のようなコメントをつけました。
現在ヨーロッパで雇用政策の最大の論点になっているのは「メイクーワーク・ペイ」だということはご存じだと思います。その稼得賃金が生活保護以下である労働者にとって、精一杯働いても僅かしか稼げず、残りを生活保護で補填するという選択肢と、それならいっそ働かずに全額生活保護で面倒見て貰うという選択肢があれば、他の条件が同じであれば後者を選択するでしょう。これが福祉の罠とか不活動の罠といわれて、今日の雇用政策と社会政策の最重要課題であるのはご存じの通りです。
だから、メイク・ワーク・ペイが問題になるわけですが、この辺の感覚が日本人には、というか、もっとはっきり言うと、日本の雇用政策研究者にどこまできちんと認識されているかが大変心許ないのが現状なんですね。平家さんがそうだと申し上げるわけではないのですが、あまりにもあっさり、最賃で足りなければ生活保護で出せばいいじゃない、みたいな発想でおられるので、ちょっと心配になります。
実は、某研究機関の研究員が、この「メーク・ワーク・ペイ」を「労働を給与にする」とか訳しているのを見てひっくり返ってしまいました。をいをい、労働が給与にならなかったら賃金不払いでしょうが。働くことが「ペイ」する、つまり働かないよりも働く方が得になるように制度設計するというコンテクストが、日本の専門家にも理解できていないというわけなんですね。
ことほどさように、メイク・ワーク・ペイは雇用政策関係者に理解されていないのですが、それ以上に福祉関係者にも理解されていなくって、無慈悲な強制労働政策だと思われているみたいです。そういう無理解の中で、ワーキングプアが断層の中でもがいているというのが日本の姿なんでしょう。
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