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2006年5月26日 (金)

ウヨク、シミンのなれの果て

昨日も都内某所で某研究会。

ぼんやりと考えたりしたこと。

ドイツのどこが悪かったのか。社会的市場経済やら社会国家の硬直性とか言うけど、一つ一つの要素を見れば、北欧とかオランダとかそっちの方がより強くそういう要素を持っている。解雇保護にせよ、共同決定にせよ、あるいは福祉の手厚さにせよ、なんで北欧がほめられてドイツが責められるのか、よくわからん。少し前に流行ったオランダモデルなんか、解雇は当局の許可制だし、近ごろ流行っているデンマークモデルは流動性が高いとか言ってほめられてるが、失業保険はやたらにジェネラスで、ハルツ法で締め上げたのはナンなんだって感じ。

ヨーロッパで「リベラル」と言えば、ほとんど「ネオリベ」という意味であって、「ソーシャル」派からは悪口なんだが、なぜかアメリカではサヨクという意味になり、これが日本に入ってくると、「ソーシャル」という意味の党名を持ってた連中が「ボクもリベラル」「アタシもリベラル」となだれこんで、サヨクのつもりで、個人の自由が一番だとか、企業中心社会を破壊しろだとか、役人をたたきつぶせとか、余計な規制はなくせだとか、まあほとんどネオリベ99%一歩手前みたいなことを喚いていたのが90年代半ばまで。まじめに働く労働者を「社畜」とか罵っていた奴もいたっけ。これがあと1%進めば市場原理主義になる。今の学生には信じられないだろうが、今の小泉・竹中改革は政治思想的には90年代初めのサヨクが生み出したシミン主義のなれの果てなんだ。構造改革だの、規制緩和だの、自民党守旧派が権力から外れている間に、小沢だの武村だのといった自称改革派と「ソーシャル」を失った社会党のシミン派どもが結託して作った道。

それを批判していた自民党主流派が改革を乗っ取って、踊っていたシミンが追い出されて、もとの反対サヨクに戻ったのもいるけど、そいつらはどうでもいい。むしろ多くは結構なご託並べてた「リベラル」に裏切られてウヨク化してきた、というのが90年代末期以来の姿ではないか。「寝ずの番」ではないが、ウヨク、ウヨクと威張るなウヨク、ウヨク、シミンのなれの果て、というところか。

<追記>

ブログなんぞを読みに来ているような方々の次元で言うと、一昔前に「ネチズン(ネットシミン)」なんて言葉が流行ったでしょ(今もいるけど)。そのなれの果てが「ネットウヨク」ということ。

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コメント

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060527#c1148873200

労働者が勝ち取ってきた権利で「既得権益」でないものなんてあるんだろうか。

ていうかさ、個人的な経験だけど、ヨーロッパから帰って、連合に呼ばれて、企業譲渡指令の話をしたときに、向こうのごく普通の感覚で「既得権指令」って言ってたら、「『既得権』なんていう言葉を使うと、悪いものみたいに思われるから、違う言葉を使ってくれ」と言われて、ううむ、そこまできたか、と思ったもんですがな。まあ、俺の頭が欧州ぼけしていただけだけど。
いや、もちろん、企業にとっては既得権は好ましいもんじゃないから、そこは労使の力関係で決まる。また、ある程度既得権を潰した方が、経済への影響が好ましい面もあるから、労働側としてもあんまりしがみつかないという考え方もある。フレクシキュリティなんて、そういう発想でもあるわけで。
ただね、90年代のニホンみたいに、何でもかんでも個人の束縛だ、不自由だ、って、ひたすらリベラルサヨク全開だった国はあんまりないような。

結局、これがね、今にいたっても、エグゼンプションを個人の自律だ自由だと結構な御為ごかしをいうのにつながっているのよ。時間外手当の既得権は(少なくともある程度以上の高給取りは)なくしていいと思うけど、それを自由だ自律だと言うのは止めてほしいのだよ。その根っこにある発想を問題にしているんだ。

既得権でないものがあるとすれば

労働によって既に得た収入により
形成された資本(貯金、株、土地
等)

かと…

資本までを既得権、と言うことも
可能かと思いますが、その場合は
全ての所有が既得権となりますね

80~90年代の日本は、サヨク・リベラル・進歩主義花盛りだったと思います。

十代半ばのわたしは、田舎の保守とは別の可能性としてリベラルに関心を抱きました。同時に、伝統を壊すものへの警戒心があったのも事実です。自分自身、近代的な学校教育についていけない人で、中世的な雰囲気のフリースクールが性に合っていましたし。

そんなこともあって、ネオリベ批判ってしっくりくるんです。伝統的な立場からすると、あまりにも古いものを壊しすぎる。古き悪きものとともに古きよきものとか、いいか悪いかわからないものまで全部壊しまくる。そして、ネオリベと区別のつかない形で進展した進歩主義にも、80年代当時から懐疑的な感覚でした。
今ではもう、ついてゆけません。

このあいだ、研究会・職場の人権の定例会で、ゼネラルユニオンというところの人が報告していました。関西のR大学の教職員が、3年とか5年といった期間で自動的にクビを切られることに反対しているそうです。嘱託や派遣、非常勤など、雇用の多様化によって、雇用が切り崩されている。
面白いことに、それを「進歩的でいいことだ」と言って歓迎する教職員もいるとか。
日本のリベラル派は、ネオリベとは一線を画するべきだと思っています。

いや、一線を画しているつもりなんですよ。『世界』とか読めば、そこに集うリベラル派が一生懸命ネオリベを批判してるんです。批判しているんだけど、批判すればするほど自分たちの根っこが同じところにあるのが透けて見えてくるわけで。
そこで、「俺は保守だ」と言い切ろうとすると今度は西部ススム症候群になっちゃうわけで。なかなか難しいのですよ、この世界は。

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