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2006年4月19日 (水)

「検討の視点」三論

さらに「検討の視点」をめぐって考えてみます。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/roudou/seido/roudoukeiyaku/data/dai54/siryou.pdf

初めの方の「基本的事項」として、「労働契約は、労使が実質的に対等な立場で締結すべきもの」という旨の規定を設けるべきと書かれています。そんなの当たり前と、すっと見逃してしまいそうですし、ああこれ基準法第2条ね、というのが普通の反応でしょうが、この労使対等の意味をどう考えているのかな、というのが、実は労働契約法制問題の根っこにある大きな問題であるような気がします。

つまり、「契約法」の話である限り、そこにおける「労」と「使」というのは、個別労働契約を締結する個別労働者と彼/彼女を雇用する使用者を指すという以外には解釈できなくなってしまうんですが、それは労働基準法第2条の想定する「労使」とは違うものになってしまうということなんです。

労基法2条の「労使」は明確に集団的労使関係における「労使」です。制定担当者である寺本廣作の名著によれば「労働条件の決定を公正ならしめるためには・・・事実の上に於いて、力の関係に於いても平等なものとしなければならない。これが労働法の理念である。労働組合法が労働者に団結権と団体交渉権を保証しているのも、また労働基準法が時間外労働について団体意思による労働者の同意を必要とし、或いは就業規則の作成について労働者の団体意思に基づく参加を必要とすることと規定しているのも、皆この理念に基づく」のです。

従って、この労基法2条の理念を前提に考えていけば、就業規則の不利益変更に対して過半数組合(ないし労使委員会)の同意を合理性判断の基準とするというのは、まさに労使対等決定原則の(やや不完全な、あるいはかなり不完全な)現れということができるでしょう。

ところが、そういう労働法の理念と切り離した形で、近年流行の自己決定原理に即して労使対等原則を理解すると、集団の多数決で何を決めようが俺に関係あるか、俺は俺だ、俺と会社が対等に契約の中味を決めるんだ、という話になってくる。そういう強い労働者もいるのは確かだし、増えてきているのも確かかも知れませんが、やっぱり労働者の圧倒的多数派はそうではないだろうと思うんですね。

そこが、「労働契約法」という切り口でのみこういった領域の問題を扱っていいのか、という懸念につながってきます。昨日言ったように、旧労働省の諮問機関では、労働基準法研究会では「労働契約法制部会」といい、中央労働基準審議会では「就業規則部会」といっていました。実際は同じことをやっていたんですが、名称自体は、契約としての個別的性格に着目しているか、それとも集団的性格に着目しているかによって、ずれがあったわけです。

研究会報告にせよ、今回の「検討の視点」にせよ、実際には個別契約論に徹底しているわけではなく、就業規則という形で集団性を前提にした議論を展開しているわけで、その意味では新たに契約法に書かれるべき「労使対等決定原則」もまた、現行基準法と同様、集団的労使対等決定原則を相当程度意味しているはずだと思うのです。しかし、だとすると、この法律の名称は「労働契約法」でいいのかね、という気がしてきます

過半数組合(3分の2組合になるかも知れません)又は労使委員会という形で表された集団的意思を労働条件決定の(ある部分については)枢要のメカニズムとして組み込むことを要求する法制という意味からすれば、むしろヨーロッパの労働者代表法制に近い面があるわけで、そこのところをもう少し明確にするような名称の方がいいのではないでしょうか。自己決定論じゃないということを明らかにするためにも。

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