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2006年4月

2006年4月28日 (金)

労働時間の規制と時間外手当のイグゼンプション

電機連合が出している『電機総研リポート』に、標題のような文章を寄せました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/denkiexemption.html

中味は、このブログに書いてきたことが中心です。そのうち電機連合のホームページにも掲載されると思いますが、連合の長谷川総合労働局長と電機連合の成瀬書記次長の文章も一緒に載っていますので、読み比べてみるのも一興かも知れません。

また、これと労務屋さんが以前書かれた「ホワイトカラー・エグゼンプション制を導入しよう」を読み比べてみても面白いでしょう。

http://www.roumuya.net/zakkan/zakkan17/we.html

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2006年4月27日 (木)

社会的公益サービス

昨日、欧州委員会は社会的公益サービスに関するコミュニケーションを発表しました。サービスの問題はここ数年のEUを揺るがす大問題であったわけですが、そのなかでも、医療や福祉といった社会的公益サービスは、それがキリスト教民主系の政治勢力にとっての支持基盤でもあるという政治的な背景もあり、中心的な論点になってきました。

http://www.europa.eu.int/comm/employment_social/emplweb/news/news_en.cfm?id=153

今回のCOMは、サービス指令案に一定の方向性が出たのを受けて書かれたようで、社会的公益サービスは、電気通信や運輸のような公益サービスとは性格が違い、パーソナルなもので、基本的社会権や社会的結束を達成するものだから、連帯に立脚し、市民や非営利組織の自発的な参加が必要だと述べています。

NGOの皆さんにとっては、結構な内容になっているようです。社会的NGOプラットフォームは、これに先立ってこの問題について意見を出していました。

http://www.socialplatform.org/module/FileLib/06-04SPContributionSSGICommunicationFINAL_EN.pdf

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2006年4月26日 (水)

専門高校のレリバンス

本田由紀先生のところで、また面白い議論になっています。

http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060424

本田先生自身がこれまで(朝日新聞的?)平等主義者ではないかと勘ぐられるような発言をしてきているのも確かではあるのですが、この問題についていえば、むしろ実務家的な中等教育の多様化論を主張していると解すれば済むことであって、文句をつけている人々の方が、一元的な普通教育至上主義に囚われているように思われます。

多様化論は必ずしも平等化論ではありません。むしろ、横に多様化した専門教育の進路の中に、その専門分野で大学やさらには大学院レベルにまで進学して専門を極めるエリート層から、そうでない人々まで縦に階層化することも十分含まれ得ます。現実に進んでいるのはそういう事態であって、普通教育至上主義者の方がそれに追いついていっていないだけのようにも思われます。

これを逆にいえば、へたな普通科底辺高校などに行くと、就職の場面で専門高校生よりもハンディがつき、かえってフリーターやニート(って言っちゃいけないんですね)になりやすいということになるわけで、本田先生の発言の意義は、そういう普通科のリスクにあまり気がついていないで、職業高校なんて行ったら成績悪い馬鹿と思われるんじゃないかというリスクにばかり気が行く親御さんにこそ聞かせる意味があるのでしょう(同じリスクは、いたずらに膨れあがった文科系大学底辺校にも言えるでしょう)。

日本の場合、様々な事情から、企業内教育訓練を中心とする雇用システムが形成され、そのために企業外部の公的人材養成システムが落ちこぼれ扱いされるというやや不幸な歴史をたどってきた経緯があります。学校教育は企業内人材養成に耐えうる優秀な素材さえ提供してくれればよいのであって、余計な教育などつけてくれるな(つまり「官能」主義)、というのが企業側のスタンスであったために、職業高校が落ちこぼれ扱いされ、その反射的利益として、(普通科教育自体にも、企業は別になんにも期待なんかしていないにもかかわらず)あたかも普通科で高邁なお勉強をすること自体に企業がプレミアムをつけてくれているかの如き幻想を抱いた、というのがこれまでの経緯ですから、普通科が膨れあがればその底辺校は職業科よりも始末に負えなくなるのは宜なるかなでもあります。

およそ具体的な職能については企業内訓練に優るものはないのですが、とは言え、企業行動自体が徐々にシフトしてきつつあることも確かであって、とりわけ初期教育訓練コストを今までのように全面的に企業が負担するというこれまでのやり方は、全面的に維持されるとは必ずしも言い難いでしょう。大学院が研究者及び研究者になれないフリーター・ニート製造所であるだけでなく、実務的職業人養成機能を積極的に持とうとし始めているのも、この企業行動の変化と対応していると言えましょう。

本田先生の言われていることは、詰まるところ、そういう世の中の流れをもっと進めましょう、と言うことに尽きるように思われます。専門高校で優秀な生徒が推薦枠で大学に入れてしまうという事態に対して、「成績悪い人が・・・」という反応をしてしまうというところに、この辺の意識のずれが顔を覗かせているように思われます。

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EU非公式理事会でサービス指令案合意にメド

去る22日にオーストリアのグラーツで開かれた非公式の競争力理事会で、例のサービス指令案については、欧州議会の修正案の線で合意するという方向になったようです。

http://www.eu2006.at/en/News/Press_Releases/April/2204bartenstein.html

なんでもええから、ごちゃごちゃいわんと、はやいとこ成立にこぎつけたいという気持ちがにじみ出ています。

http://epp-ed.europarl.eu.int/press/showPR.asp?PRControlDocTypeID=1&PRControlID=4781&PRContentID=8634&PRContentLg=en

こちらは欧州議会側。非公式の閣僚理事会に欧州議会の関係議員が出席して、見守っていたようですね。余計なことをしなければ、長々と調停手続をしなくても済むんだぜ、という感じで。

今のところ、5月末と6月末に公式の競争力理事会が予定されていますので、そこで共通の立場が採択されることになる見込みが高いと思われます。

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公明党の少子化対策

与党のジュニア・パートナーの公明党が少子化対策をまとめたという記事が出ています。

http://www.asahi.com/politics/update/0426/001.html

いまのところ、公明党のHPには載っていないようなので、記事をもとに論じますが、あくまでセコハン情報です。

「合計特殊出生率を2015年に1.50に」という数値目標を掲げるのが目玉のようですが、具体的な施策にはいささか疑問な点もあります。

もちろん、いままでの経済的支援一辺倒から働き方の見直しを前面に打ち出そうというのは適切な方向だとは思うのですが、その手段が「時間外労働に対する上乗せ賃金の割増率を現行の25%(休日は35%)から40%(同50%)に引き上げ、長時間労働に歯止めをかける」というのでは、ちょっと感覚がずれているように思われます。

労働時間という物理量の規制の問題と、賃金という社会関係の尺度をどうするかという問題を混同することの愚は、このブログでも繰り返し述べてきているところですが、公明党もその轍を踏んでいるなあと感じます。まあ、肝心の厚生労働省が、両者を混同する先頭を走っているのですから、与党の公明党がそうなるのも当然かも知れません。おそらく、取りまとめに当たっては、厚生労働省の事務当局とも相談しているでしょうから、問題はそっちにあるというべきでしょう。

割増率を40%や50%に上げたら、長時間労働に歯止めがかかるのでしょうか。現在の20代や30代の労働者たちは、割増率が低いから長時間労働を余儀なくされているのでしょうか。なんだか現実認識がずれているのではないかと思います。

その前に、使用者側が猛反発するでしょうし、特に中小企業にとってはこんな労務コストの増大は死活問題ですから、打ち上げただけで潰されることは目に見えています。

長時間労働という労働時間こそが問題である場面では、このようにゼニカネの問題ばかりに関心が集中する割に、ゼニカネこそが問題であるホワイトカラーエグゼンプションについては労働時間規制をいじろうとする、という風に、なんだか見事に問題意識が脱臼しているという印象を拭えません。

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2006年4月25日 (火)

なおも職業レリバンス

平家さんからさらにお返事を頂きました。

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_14.html

「あまり意見に差がないのです」と仰るとおり、既に対立する議論を戦わせるというよりは、お互いに面白いネタを転がしているという感じになっていますが、あえてネタを膨らませてみましょう。

私は公共政策大学院というところでここ3年「労働法政策」という授業をやってきているんですが、あるトピックで学生から大変興味深い反応が出てきたことがあります。

それは男女雇用均等法政策の中で、最近話題になっている間接差別を取り上げたときなんですが、2004年に出された男女雇用機会均等政策研究会報告の中で提示された間接差別に該当する可能性のあるとされた7つの事例を紹介して、あなた方はどう思いますか?と尋ねたときに、学生たちが一致して「そんなのは自分で選んだんじゃないか、何を言ってるんだ」と大変否定的な反応が返ってきたのが、「募集・採用に当たって一定の学歴・学部を要件とすること」だったんですね。

http://www.mhlw.go.jp/houdou/2004/06/h0622-1.html

ここに顕れているのは、、まさに平家さんの言われる「、「『経済、経営、商』などの学部」の学生が「文学部なんてつぶしの利かないところじゃなく、ちゃんと世間で役に立つ学問を勉強しろといわれてそういうところに来た人」であるとすると、そのような志向を持った人を選び出すために、どのような学部を卒業したかという情報を利用」するということでしょう。

歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。

一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、それをもう一度裏返せば、あえて法学部や経済学部を選んだ女子学生には、職業人生において有用な(はずの)勉強をすることで、そのような思考を持った人間であることを示すというシグナリング効果があったはずだと思います。で、そういう立場からすると、「なによ、自分で文学部なんかいっといて、いまさら間接差別だなんて馬鹿じゃないの」といいたくもなる。それが、学部なんて関係ない、官能で決めるんだなんていわれた日には・・・。

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2006年4月24日 (月)

水子供養は撤回

3月13日のエントリーで、最低賃金法の改正に水子供養をしてしまいましたが、まだ赤ちゃんは死んでいない、との指摘を受けましたので、謹んで撤回させていただきます。

明後日に労政審の最低賃金部会が再開され、再び今後の最低賃金制度の在り方について審議を始めるようです。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/04/s0426-2.html

ただ、1月の部会での議論の終わり方からすると、

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/01/txt/s0119-3.txt

このときの公益委員試案で話がまとまるようにはみえないですね。どういう見通しなんでしょうか。

まあ、そもそも産業別最低賃金の問題は、日本にはそれを支えるような労使関係システムが社会的基盤として存在していないという点に問題があるわけで、その点は1980年代から何ら問題状況は変わっていないように思います。そこに、職種別賃金なんて持ち込んでみたって、実態がないことには変わりはないわけで、説得力に欠けるのは否めません。

なんで地域最賃だけじゃダメで、産別最賃を求めるかというと、地域最賃があまりにも低すぎて、最低賃金の体をなしていないから、じゃないのかな、というのが素朴な疑問です。はっきり言って、亭主や親がしっかり稼いでくれていることを前提にしたパート主婦やアルバイト学生用の、本来の生活できる最低賃金以下の水準になってしまっているわけで、それゆえに母子家庭の母や自分で生活しているフリーターにとってはリヴィング・ウェイジにならない低賃金になってしまう。だったら、真っ正面から地域最賃の抜本的見直しを訴えるべきではないか、と思うのですが、それが難しいからこういうやり方になるんでしょうね。

ただ、昨日の選挙結果にしても、最近の世の中の流れにしても、格差問題が経済社会政策の大きな焦点になってきつつあるようなので、この問題を正面から議論する可能性は出てきているのではないかとも感じられます。

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2006年4月21日 (金)

OECD「世界の高齢化と雇用政策」

OECDがまとめた「世界の高齢化と雇用政策」の翻訳書が出ました。

http://www.akashi.co.jp/Asp/details.asp?isbnFLD=4-7503-2325-X

私が訳しております。高齢者雇用政策の国際比較には大変役立つ内容です。

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2006年4月20日 (木)

パート・フルと正規・非正規は別

4月6日のエントリーで叩いた内閣府の「今週の指標」ですが、あれはたまたまああいう変なのが載ったというだけで、いつも変なわけではありません。

17日付の「今週の指標」は「就業時間からみた正規・非正規雇用者の推移」。

http://www5.cao.go.jp/keizai3/shihyo/2006/0417/715.html

このグラフを見ればわかるように、平成16年から17年にかけて、フルは減少から横ばいに、パートは増加から横ばいに転じています。ところが、正規は減る一方、非正規は増える一方。

まあ、両者は概念が違うんだから当たり前と言えば当たり前ですが、何かフルタイムが増加に転じたことを正規労働者が増えだしたというようなイメージで捉えるのは間違いだよということをきちんと示しているというだけでも、今回の「今週の指標」は意味があります。フルタイムの派遣や契約社員が増えているんですね。

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「検討の視点」四論

そろそろこの辺で打ち止めにしますが、「検討の視点」についてもう少し考えてみます。

月曜日に書いたように、今回の「検討の視点」を見て一番想定外だったのが有期労働契約に関するところでした。研究会報告書は、いかにも労働法学者が頭をひねって作ったという感じで、使用者が契約期間を書面で明示しなかったら無期契約と見なすとか、更新可能性等の明示を雇い止めの有効性の判断要素とするとか、差別的な雇い止めや正当な権利行使を理由とする雇い止めは無効とするとか、更新可能性がない旨明示していながら更新したときには更新可能性を明示したものと見なして、あるいは5年以上引き続き雇用された場合にも、更新可能性がある旨明示されたものと見なして、差別的・正当な権利行使を理由とする雇い止めはできないこととする、といったアイディアが示されていました。現行判例法理の枠組みを前提としつつ、基本的には事後的な司法判断の基準を精緻に構築するという志向性が強く出ていたように思えます。

ところが、今回の「検討の視点」は、なんというか、そういう精緻な労働法学者的な議論というよりも、むしろ一般人の感覚に近い形で、「有期労働契約が更新されながら一定期間(又は一定回数)を超えて継続している場合において、労働者の請求があったときには、次の更新の際、期間の定めのない労働契約が締結されることとなるような方策が考えられないか」と、端的に有期契約の無期契約への移行という考え方を示しています。

これは一見粗雑な思考のように見えますが、実は私は賛成です。というのは、研究会報告に見られるようなあまりにも精緻きわまる論理構成は、裁判所のレベルまで行って初めて現実化するものであって、現実の労働関係の展開の中で実務的に物事を処理していくという観点からすると、理屈に理屈を積み重ねるようなもので却って使いづらいのではないかと感じていたからです。事後的な司法判断の論理を事前的な実務処理に持ち込むのは結構難しいのです(そのいい例が、更新された有期労働者の育児休業権の問題です)。

ただ、この選択肢を本気で進めるのであれば、解雇の金銭解決のオプションと一緒にしていかないと、使用者側が納得しないでしょう。逆に、有期契約が更新を繰り返して上記方策により無期契約に移行した場合については、使用者側からの申し出による当該解雇(雇い止め)の金銭解決を原則として認めるという風に仕組むことも考えられます。

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2006年4月19日 (水)

「検討の視点」三論

さらに「検討の視点」をめぐって考えてみます。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/roudou/seido/roudoukeiyaku/data/dai54/siryou.pdf

初めの方の「基本的事項」として、「労働契約は、労使が実質的に対等な立場で締結すべきもの」という旨の規定を設けるべきと書かれています。そんなの当たり前と、すっと見逃してしまいそうですし、ああこれ基準法第2条ね、というのが普通の反応でしょうが、この労使対等の意味をどう考えているのかな、というのが、実は労働契約法制問題の根っこにある大きな問題であるような気がします。

つまり、「契約法」の話である限り、そこにおける「労」と「使」というのは、個別労働契約を締結する個別労働者と彼/彼女を雇用する使用者を指すという以外には解釈できなくなってしまうんですが、それは労働基準法第2条の想定する「労使」とは違うものになってしまうということなんです。

労基法2条の「労使」は明確に集団的労使関係における「労使」です。制定担当者である寺本廣作の名著によれば「労働条件の決定を公正ならしめるためには・・・事実の上に於いて、力の関係に於いても平等なものとしなければならない。これが労働法の理念である。労働組合法が労働者に団結権と団体交渉権を保証しているのも、また労働基準法が時間外労働について団体意思による労働者の同意を必要とし、或いは就業規則の作成について労働者の団体意思に基づく参加を必要とすることと規定しているのも、皆この理念に基づく」のです。

従って、この労基法2条の理念を前提に考えていけば、就業規則の不利益変更に対して過半数組合(ないし労使委員会)の同意を合理性判断の基準とするというのは、まさに労使対等決定原則の(やや不完全な、あるいはかなり不完全な)現れということができるでしょう。

ところが、そういう労働法の理念と切り離した形で、近年流行の自己決定原理に即して労使対等原則を理解すると、集団の多数決で何を決めようが俺に関係あるか、俺は俺だ、俺と会社が対等に契約の中味を決めるんだ、という話になってくる。そういう強い労働者もいるのは確かだし、増えてきているのも確かかも知れませんが、やっぱり労働者の圧倒的多数派はそうではないだろうと思うんですね。

そこが、「労働契約法」という切り口でのみこういった領域の問題を扱っていいのか、という懸念につながってきます。昨日言ったように、旧労働省の諮問機関では、労働基準法研究会では「労働契約法制部会」といい、中央労働基準審議会では「就業規則部会」といっていました。実際は同じことをやっていたんですが、名称自体は、契約としての個別的性格に着目しているか、それとも集団的性格に着目しているかによって、ずれがあったわけです。

研究会報告にせよ、今回の「検討の視点」にせよ、実際には個別契約論に徹底しているわけではなく、就業規則という形で集団性を前提にした議論を展開しているわけで、その意味では新たに契約法に書かれるべき「労使対等決定原則」もまた、現行基準法と同様、集団的労使対等決定原則を相当程度意味しているはずだと思うのです。しかし、だとすると、この法律の名称は「労働契約法」でいいのかね、という気がしてきます

過半数組合(3分の2組合になるかも知れません)又は労使委員会という形で表された集団的意思を労働条件決定の(ある部分については)枢要のメカニズムとして組み込むことを要求する法制という意味からすれば、むしろヨーロッパの労働者代表法制に近い面があるわけで、そこのところをもう少し明確にするような名称の方がいいのではないでしょうか。自己決定論じゃないということを明らかにするためにも。

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2006年4月18日 (火)

ドイツの連立協定における解雇規制緩和

ドビルパン首相のCPEは見事に打ち破られてしまいましたが、昨年11月に、ドイツの連立政権がまさにこれに相当する法改正事項を含む連立協定を締結していたことは、あんまり報道されていません。

この連立協定そのものがこれです。

http://www.bundestag.de/aktuell/archiv/2005/koalition/vertrag.pdf

これの「2 労働市場」の「2.7 労働法の改革」の「2.7.1 解雇保護の発展」というところに書いてあります。

24ヶ月間までは客観的理由なく有期雇用を締結できるというのを廃止して、その代わりに新規採用者について(これまでの6ヶ月間ではなく)24ヶ月間の試用期間をおくことを認めるというものです。

問題意識はまったくドビルパン首相と同じですね。フランスと違って若年者の雇用状況はEU随一良い代わりに、中高年の雇用状況が悪いドイツなので、年齢などと言う筋の悪い要件は入っていません。

というか、実は前に(11月30日のエントリー)ここに書いたように、有期雇用の要件に年齢(52歳以上なら理由なく有期雇用可能)を入れた法律が、欧州司法裁判所から(施行前の)一般均等指令に違反すると言われてたんですね。

さらに、新たに起業する場合には、48ヶ月までの有期雇用を認めようというのも入っています。

これは、ドイツの国会の大半を占めるキリスト教民主・社会同盟と社会民主党の連立協定なのですから、こういう形で実現することになると思われます。

ところで、上に上げた資料は英訳も同じ連邦議会のHPに載っているんですが、これは大変な誤りがあります。

http://www.bundestag.de/aktuell/archiv/2005/koalition/vertrag_en.pdf

さきほどの、有期雇用というのが解雇権になっちゃっているんですね。ドイツ語原文は、

Wir werden daher auf der einen Seite die Möglichkeit streichen, Arbeitsverträge in den ersten 24 Monaten sachgrundlos zu befristen.

ですが、これが英訳では

We will therefore, on the one hand, abolish the possibility of terminating employment contracts without substantive reason in the first 24 months.

となってしまっています。をいをい、というところですね。世界に発信してるんだから、こういうのは何とかしてください。なんだか日本の国会の英文HPも心配になってきたな。

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「検討の視点」続き

昨日に続いて、労政審に提示された「検討の視点」を考えます。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/roudou/seido/roudoukeiyaku/data/dai54/siryou.pdf

ここでもぽつぽつと書いてきたことなのですが、基本的な問題として、「労働契約法制」という言葉で何を指し示そうとしているのかという問題があるような気がしています。

実は、あんまり知られていないかも知れませんが、かつて労働省では、この領域を扱う諮問的機関として、労働基準法研究会においては「労働契約法制部会」という名称を用い、中央労働基準審議会においては「就業規則部会」という名称を用いていました。役人には労働契約法制も就業規則法制も同じことだったわけです。

しかし、よく考えてみれば、労働契約法制というのは、原理的に言えば、労働者個人とその使用者の一対一の市民同士の取引関係のルールであるのに対して、就業規則法制というのは、一定の資本のもとに集められた労働の総体としての企業体における組織運営のルールですから、そもそも出発点が異なります。それが事実上同義語として使われてきたのは、よく言われるように、労働契約が事実上企業組織への編入を決めるためのいわば枠組み契約と化し、実体的内容は就業規則ないし労働協約に委ねるという仕組みが一般化したためでしょう。

日本の場合、特に複数組合平等主義の影響もあり、労働協約が企業内の全労働者の労働条件を斉一化する機能を必ずしも十全に果たせないという状況の下で、就業規則の役割が非常に強くなってきたというのが、今までの姿だと思います。

つまり、就業規則法制というのは、企業労働というものの持つ本質的集団性、組織性に立脚し、ある企業に雇用された労働者の労働条件を斉一化するためのものなのですから、集団的労使関係法制というべきものだと思うのです。この「集団的」という言葉は、今までの労働法学に慣れた目からするととんでもないように見えるかも知れませんが、企業労働そのもの有する「集団性」こそが、労働問題を考える上で常に必要になる「集団性」であって、この言葉を労働組合という(原理的に言えば)任意に結成されるべき一個の結社にのみ結びつけることは、かえって問題があるように思われます。

今回の労働契約法制の議論のモチーフとしては、この日本的な集団的労使関係法制たる就業規則法理を基本的にそのままあるいは若干モディファイしてリステートする、というのが一つあるわけです。それは、企業労働の集団性を前提とした議論ですね。それに対して、労働市場の変化などを前提に、これまで空洞化してきた労働者個人と使用者の間の市民間の契約たる労働契約をより実体化させ、いわば契約原理に基づいて雇用関係を再編成するという方向性もあります。この両者の議論がない交ぜになりながら、進んできたために、(ただでさえ複雑怪奇な)労働契約法制の議論はますます錯綜して論理の筋が見えにくくなってきたのではないかと思うのです。

どちらかというと、学者の議論には個別労働者の契約原理への志向を強く打ち出す傾向が見られるのに対し、労使など実務家の側には集団性を前提とする傾向が強いように感じられます。これはまあ、知識社会学的な要因から来るものかも知れません。

今回の「検討の視点」は、そういう意味では研究会報告よりもかなり集団性に傾いた感じのものになっています。昨日も言ったように、就業規則変更法制と並ぶ労働条件変更システムとして麗々しく打ち出された雇用継続型契約変更制度は、懲戒等のあとに、「労働条件の変更の申し入れに対し、労働者が異議をとどめたことを理由とした解雇はできないこととすることが考えられないか」「労働者が雇用を維持しつつ労働条件の変更について争うことを希望する場合は、労働審判制度等において解決を促すための必要な改善策が考えられないか」という文章として収まっています。

しかし、この書き方では、単に解雇事由を制限しているだけで、異議をとどめた労働者の解雇が「客観的に合理的な理由があり、社会通念上相当であると認められる」かの判断基準を定めるという以上の意味にはならないのではないでしょうか。少なくとも、就業規則という集団的労働条件変更システムとは別立てで、個別労働契約の変更システムを確立するんだといった上でこういう風に書かないと、これは全然「労働条件の変更に係るルール」になっていないように思われます。

一体、研究会報告で打ち出された変更解約告知型にせよ、契約変更権型にせよ、そういう集団的変更システムによらない個別労働契約変更システムをきちんと設けるつもりがあるのか、そうでないのかがよくわからない形になっています。今既に異議付承諾のない変更解約告知はあるという前提で書かれているようにも見えますが、そういえるんでしょうかね。

さて、もう一つ言及しておくべきは労使委員会です。ここでは、多分審議会における労働側の意見が若干入ったのでしょうか、過半数組合と労使委員会でその権限に微妙な差が書き分けられています。過半数組合の場合が原則であり、就業規則の「変更が合理的なものとして、個別労働者と使用者との間に従前の労働条件の変更に係る合意が成立したものと推定するという法的効果を与える」としているのに対し、労使委員会の場合、過半数組合がない事業場に限り、そ「の決議又は調査審議に一定の法的効果を与える」となっていて、過半数組合と同じ強い効果を与えるとは書かれていません。

これをどこまでの権限とするかは、今後の審議会での労使の議論によるのでしょうが、一方で過半数組合を3分の2組合に要件を上げるという案も示されており、いずれにせよ、上で述べた企業労働の持つ本質集団性を示す労働者代表制度と、労働組合という原理的には自発的結社である団体を、どう具体的な制度設計の中で溶かし込んでいくのかというのが、大きな課題であることは間違いないでしょう。

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2006年4月17日 (月)

労政審に「検討の視点」提示

先週11日の労働政策審議会労働条件分科会に、「労働契約法制及び労働時間法制に係る検討の視点」が提示されたようです。現在まだ厚生労働省のHPにはアップされていませんが、連合のHPに丸ごと載っているので、こちらにリンクを張っておきます。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/roudou/seido/roudoukeiyaku/data/dai54/siryou.pdf

内容的には、去年の労働契約法制研究会報告と今年の労働時間法制研究会報告の中味を若干変えつつ集約した形になっています。山のように論点があるんですが、ぱっと目についたのは、労働条件変更のところが就業規則の変更によるものだけになっており、研究会報告の目玉の一つでもあった「雇用継続型契約変更制度」が煙のように消えてしまっていることです。まあ、変更解約告知方式にせよ、一方的変更権制度にせよ、いろいろと問題点が指摘されてはいましたが、あっさり消しちゃうとはね、という感じです。

逆に、就業規則変更の際の合理性推定について、報告にあった過半数組合なら合理性を推定という案に加えて、労働者の3分の2以上の「特別多数労働組合」だったら合理性を推定という案も提示しています。一般的拘束力は4分の3ですけれどね。

解雇の金銭解決については、報告でかなり細かい制度設計を提示していましたが、ここでは一転して「これを円満解決できるような仕組みが必要ではないか」とか「その場合、どのような論点があり、それを解決するためにどのような手法があるのか整理する必要があるのではないか」と、もういっぺん元に戻って議論し直すような書き方になっています。

報告書の中の、使用者側からの申し立ての要件については、あらかじめ個別企業労使間で解決金の基準を定めたおいた場合に限るなどと、なかなか興味深い提案がされていたのですが、労使とも受け入れがたかったということでしょうか。

それから、有期契約については、「有期労働契約が更新されながら一定期間(又は一定回数)を超えて継続している場合において、労働者からの請求があったときには、次の更新の際、期間の定めのない労働契約が締結されることとなるような方策が考えられないか」と、大変踏み込んだ提案がされています。正直言って、報告では現在の告示を若干進める程度の案になっていただけに、これは「想定外」でしたね。

ここまでが労働契約関係ですが、いずれももっと突っ込んで論じる必要のあるものばかりです。また、ここでは省略しましたが、労働契約の展開の所も重要な論点は多いはずです。

このあとは労働時間関係なのですが、もういろいろと書いてきたことなのですが、「自律的労働時間制度の創設」とか言ってますねえ。しかし、使用者側は本当にそんなものを求めているのかしら。どうも違うんじゃないかと言う気がして仕方がないんですけど。

同じ連合のHPに最近の労政審の議事概要がアップされていますが、使用者側は要するにこういうことを言っているわけです。

「労働時間を賃金に反映するのがふさわしくない働き方も、出てきていると思う。」

「同じ仕事でも、時間内で終わる労働者もいれば長時間の時間外労働の末ようやく仕上げる労働者もいる。しかし、現行の労働時間法制では、後者の労働者の方が手にする賃金が高くなってしまう。」

http://www.jtuc-rengo.or.jp/roudou/seido/roudoukeiyaku/data/20060315dai52kai.pdf

これに対して労働側は「労働者が生んだ成果は、昇給や昇進に反映されるべきであり、成果主義・能力主義だから時間外労働の割増賃金支払が不要だというのは、理解が間違っている。」と反論していますが、そうでもなかろうと言う気がしますが。

いずれにしても、ここで労使の間で問題になっているのは、賃金と労働時間のリンクをどうするかという問題であり、最後は労使の間でどういう妥協をするかということになるはずのものであって、事務局側の問題意識とはかなりずれが生じているように思われます。

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職業レリバンス再論

平家さんのブログでのやり取りに始まる11日のエントリーの続きです。

平家さんから再コメントを頂きました。

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_11.html

この中で、平家さんは「大学の先生方が学生を教えるとき、常に職業的レリバンスを意識する必要はないと思っています。勿論、医学、薬学、工学など職業に直結した教育というものは存在します。そこでは既にそういうものが意識されている、というよりは意識しなくても当然のごとくそういう教育がなされているのです。法学部の一部もそういう傾向を持っているようです。問題は、むしろ、柳井教授が指摘されているように経済、経営、商などの学部や人文科学系の学部にあるのです」と言われ、「特に人文科学系の学問(大学の歴史をたどればこれが本家本元に近いでしょう。)は、学者、ないしそれに近い知的な職業につくケースを除けば、それほど職業に直結していません。ですから、そういう学問を教えるときに職業的レリバンスを意識しても、やれることには限界があります」と述べておられます。

この点については、私は冒頭の理科系応用科学分野及び最後の(哲学や文学などの)人文系学問に関する限り、同じ意見なのです。後者については、まさにそういうことを言いたいたかったのですけどね。それが、採用の際の「官能」として役立つかとか、就職後の一般的な能力として役立つかどうかと言うことは、(それ自体としては重要な意義を有しているかも知れないけれども)少なくとも大学で教えられる中味の職業レリバンスとは関係のない話であると言うことも、また同意できる点でありましょう。

しかしながら、実は大学教育の職業レリバンスなるものが問題になるとすれば、それはその真ん中に書かれている「経済、経営、商などの学部」についての問題であるはずなんですね。この点について、上記平家さんのブログに、次のようなコメントを書き込みました。

きちんとした議論は改めてやりますが、要するに、問題は狭い意味での「人文系」学部にはないのです。なぜなら、ごく一部の研究者になろうとする人にとってはまさに職業レリバンスがある内容だし、そうでない多くの学生にとっては(はっきり言って)カルチャーセンターなんですから。
ところが、「経済、経営、商などの学部」は、本来単なる教養としてお勉強するものではないでしょう(まあ、中には「教養としての経済学」を勉強したくってきている人がいるかも知れないが、それはここでは対象外。)文学部なんてつぶしのきかない所じゃなく、ちゃんと世間で役に立つ学問を勉強しろといわれてそういうところにきた人が問題なんです。

現在の大学の「職業レリバンス」の問題ってのは、だいたいそこに集約されるわけで、そこに、実は本来問題などないはずの哲学や文学やってる人間の(研究職への就職以外の)職業レリバンスなどというおかしな問題提起に変な対応を(本田先生が)されたところから、多分話が狂ってきたんでしょうね。
実は、今燃え上がっている就職サイトの問題も、根っこは同じでしょう。職業レリバンスのある教育をきちんとしていて、世の中もそれを採用の基準にしているのであれば、その教育水準を足きりに使うのは当然の話。

もちっと刺激的な言い方をしますとね。哲学や文学なら、そういう学問が世の中に存在し続けることが大事だから、大学にそれを研究する職業をこしらえ、その養成用にしてははるかに多くの学生を集めて結果的に彼らを搾取するというのは、社会システムとしては一定の合理性があります。
しかし、哲学や文学というところを経済学とか経営学と置き換えて同じロジックが社会的に正当化できるかというと、私は大変疑問です。そこんところです。

哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。

なんちゅことをいうんや、わしらのやっとることが職業レリバンスがないやて、こんなに役にたっとるやないか、という風に反論がくることを、実は大いに期待したいのです。それが出発点のはず。

で、職業レリバンスのある教育をしているということになれば、それがどういうレベルのものであるかによって、採用側からスクリーニングされるのは当然のことでしょう。しっかりとした職業教育を施していると認められている学校と、いいかげんな職業教育しかしていない学校とで、差をつけないとしたら、その方がおかしい。

足切りがけしからん等という議論が出てくるということ自体が、職業レリバンスのないことをやってますという証拠みたいなものでしょう。いや、そもそも上記厳密な意味の人文系学問をやって普通に就職したいなんて場合、例えば勉強した哲学自体が仕事に役立つなんて誰も思わないんだから、もっぱら「官能」によるスクリーニングになったって、それは初めから当然のことなわけです。

経済学や経営学部も所詮職業レリバンスなんぞないんやから、「官能」でええやないか、と言うのなら、それはそれで一つの立場です。しかし、それなら初めからそういって学生を入れろよな、ということ。

(法学部については、一面で上記経済学部等と同じ面を持つと同時に、他面で(一部ですが)むしろ理科系応用科学系と似た側面もあり、ロースクールはどうなんだ、などという話もあるので、ここではパスしておきます)

<追記>

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060417

「念のために申しておきますとね、法律学や会計学と違って、政治学や経済学は実は(それほど)実学ではないですよ。「経済学を使う」機会って、政策担当者以外にはあんまりないですから。世の中を見る眼鏡としては、普通の人にとっても役に立つかもしれませんが、道具として「使う」ことは余りないかと……。」

おそらく、そうでしょうね。ほんとに役立つのは霞ヶ関かシンクタンクに就職した場合くらいか。しかし、世間の人々はそう思っていないですから。(「文学部に行きたいやて?あほか、そんなわけのわからんもんにカネ出せると思うか。将来どないするつもりや?人生捨てる気か?なに?そやったら経済学部行きたい?おお、それならええで、ちゃあんと世間で生きていけるように、よう勉強してこい。」・・・)

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2006年4月14日 (金)

CPEは何を目指したか

もうすっかり、打ち負かされた悪者という感じになってしまったCPEですが、その趣旨は「労働市場の分断化を避けるために、有期契約で雇用されている人々の常用契約への移行を促進する」ということにあったということは、ドビルパン首相の名誉のためにも記憶されてしかるべきでしょう。

これは2004年のEUのフランスに対する雇用勧告の中で示され、成果が上がっていないと批判されていた項目です。その中で、フランスの労働市場はインサイダーとアウトサイダーに分断され、有期雇用から常用雇用に移行するものが5分の1以下であると指摘されています。

http://europa.eu.int/eur-lex/pri/en/oj/dat/2004/l_326/l_32620041029en00470063.pdf

今年の国別改革計画に対するEUの査定でも、安定した雇用にある者とそうでない者との間の鋭い分裂を指摘し、その関係で20人以下の零細企業に導入された新規採用契約(CPEと同様初めの2年間は解雇可能)に注目しています。

http://www.europa.eu.int/growthandjobs/pdf/2006_annual_report_france_en.pdf

そういう政策の流れの中で、ドビルパン首相としては弱い立場にある不安定労働者や失業者のための政策というつもりで打ち出したのに、相対的には安定した立場の大学生や公務員やらのストやデモで撤回に追い込まれたのは、面白くない気分であろうと想像されます。

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教育基本法改正案における「職業」

教育基本法の改正案というのが出ていましたので、「職業」や「労働」といったものがどんな風に取り扱われているのかという関心から見てみました。これが現行法と対照表にしていて、わかりやすいです。

http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/education.html

第2条第2号に「職業および生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと」というのが新たに盛り込まれています。今さらながらと言えばそうですが、改めてこういう規定が明文で設けられることの意味はやはりそれなりにあるのだろうと思います。キャリア教育の根拠規定ということになるのでしょう。

一方で、現行第7条(社会教育)では、「家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない」となっていて、「勤労の場所」で行われる教育、すなわち企業内教育訓練というものが、教育の重要な柱の一つとして明確に位置づけられていたのですが、改正案(第12条)では「個人や社会の多様な学習に対する要望に応え、社会において青少年および成人などに対して行われる教育は・・・」となっていて、逆に生涯学習としての職業教育訓練という視点が薄れているようにも見えます。

まあ、最近のはやりで、企業内教育なんて古めかしいものじゃなく、労働者個人の自己啓発でいくんだから、という発想なのかも知れませんが、そういう単純なものでもないだろうという気もします。それに、最近注目されているデュアルシステムも、特に教育政策の観点から見れば、企業内教育と学校の職業教育の結合ということになるはずですから、この扱いはちょっと気になるところです。

それから、まあこれは労働問題というよりジェンダー問題ですが、第5条(男女共学)が削除されています。

あれ?と思ったのは、第5条(義務教育)です。現行(第4条)では「国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う」となっているのですが、これが「国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負うこと」と、9年という年限が外されています。9年に限ることなく、例えば高校レベルまで義務教育にすることも(別に法律で定めれば)可能ということなのですが、しかし、この文言からすると、それは普通教育でなければならないと言うことになるのでしょうか。

実は、この規定は憲法第26条第2項第1文そのものなんですね。今までは9年という限定をはめていましたが、それをとると。だから、これは憲法論にもなるんですが、一体、普通教育じゃない職業教育も含めて義務教育とすることは、憲法違反なんでしょうか。

これは、実はかつて現実にあった議論のようです。終戦直後、ドイツのように、18歳までデュアルシステムによるものも含めて義務教育とするという意見もあったのですが、憲法の義務教育は普通教育という規定を理由に否定されたという話があります。しかし、それはなんだか本末転倒のような感じがします。

高校の義務化を考えなくても、たとえば義務教育である中学校に職業教育を導入するのは憲法違反、教育基本法違反なのか、と言う問題は、今でも発生しうるわけですよね。

最近、中学高校一貫教育というのが増えてきていますが、たとえば、中学校と職業高校の中高一貫教育で、高校レベルの職業教育を中学レベルに前倒しするというのも憲法違反なんでしょうかね。まあ、実際には中高一貫というのは受験勉強の前倒しのために使われていて、職業高校との一環という例はないようですが、それは逆に差別じゃないかという感じもするし、それこそ「職業および生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養う」というのであれば、その辺も考えてもいいんじゃないかという気がしないでもありません。

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2006年4月12日 (水)

日経元部長が「ドイツの企業統治に学べ」

大変面白い文章を見つけました。

http://www.jcer.or.jp/research/kenrep/kenrep051213.pdf

日本経済研究センターという、日経新聞系列のシンクタンクのホームページに、ここの主任研究員の方が、「従業員の監査役起用、制度化を-ドイツの企業統治に学ぶ-」という短い文章を書いておられるのです。

日経新聞系、というだけで、日本の企業統治は従業員重視だからダメだ、もっとアングロサクソン流になれ、というのばかりかという偏見を持っていましたが、いやいや、とんでもない。

しかも、目の付け所が素晴らしくって、感動してしまいました。曰く、「経営者の暴走を防止するというコーポレート・ガバナンス(企業統治)の視点から」、「英米型も企業統治を担保するため、取締役会のメンバーの過半数を経営陣と利害関係のない「独立取締役」(英国では「非業務執行取締役」)にすることなどを義務付け、取締役会の役割は監督に相当重きを置くようになっている。つまり、役割がドイツの監査役会に近づいてきているのだ」と指摘しておられるのです。

そして、ドイツについて「共同決定法は元々利害の対立しやすい従業員と経営者の利益調整を目的としたもので、労働者の権利を守るという色彩が濃かった。現在はこうした視点よりも、米国の独立取締役のように経営陣を監視する役割が重要になっている」と述べ、「監査役に経営者の暴走を阻止するという企業統治の目的を十分に果たさせるにはどうすればいいか。ドイツに習い、監査役の一部を従業員各階層の代表にし、総会ではなく従業員が選出するようにするのが一案」だと提起しているわけです。

こんなことを書かれるのはどんな方だろうと興味を持って、研究スタッフのコーナーを覗いてみると、大塚将司氏、

http://www.jcer.or.jp/center/staff/ohtsuka.html

この方って、あれですよね、確か日経新聞の鶴田元会長が不正経理を行ったと内部告発して、懲戒解雇処分を受け、裁判を起こし、結局和解して会社に復帰されたと記憶しています。この方が「経営者の暴走阻止には従業員参加が一番」と言われると、説得力がありますね。

こういう労働者参加の議論は、日本では1970年代に流行って以来、その後全く人気が出ませんが、観点を変えて攻め直せば、まだまだいろいろと議論の切り口はあるのだということがわかります。

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欧州社民党のCPEへの見解

既にドビルパン首相がCPEの撤回を表明してしまったので、なんだか古新聞みたいな話ですが、去る3月30日に、欧州社会民主党の代表で、前デンマーク首相のラスムッセン氏がこんなことを言っていたんですね。

http://www.pes.org/content/view/428/90

CPE、デンマークモデルとは何の関係もない、って。

なにしろ、ドビルパン首相、今はやりのフレクシキュリティをやるつもりで、しかも繰り返し言うところ、「デンマークモデルにインスパイアされて」、このCPEを提案したというのですから、そのデンマークモデルの責任者(?)でありかつ、フランス国内でCPE反対を掲げているフランス社会党の加盟する欧州社民党の代表としては、きちんと批判しておかなければならなかったと言うことでしょう。

曰く、デンマークでは、若年失業者は6ヶ月間就職できなければ訓練を受けられる。フレクシキュリティとは権利を保証するとともに、人々に一定の責任を受け入れるよう期待することだ。デンマークモデルとは、労働者の権利を掘り崩すことではなく、労働組合や使用者との協議で公平な妥協に到達することだ。労使団体と何の協議もなく提案されたこの新たな契約の導入は、市民とのつながりを欠いている、と。

ううむ、中味の話なのか、手続論なのか。手続論として言えば、組合組織率が90%近いスカンジナビアモデルと、5つ合わせても10%にいかないフランスとではやや違うのではないかという気もしないではないですが、確かに、ソーシャル・パートナーシップを看板にするヨーロッパの真ん中で、エリート主義丸出しの今回の提案は、それだけで批判を浴びる値打ちはあったと言えます。

しかし、中味の話として言えば、どこがデンマークモデルの趣旨に反するのか、ラスムッセン氏の発言だけからではよくわかりかねるところがあります。デンマークモデルでは解雇は一般に極めて容易で、そのかわり、税金をたっぷり使って労働者の生活や再就職の面倒を見てくれるわけで、ドビルパン首相の認識がまるで間違っていたというわけでもないでしょう。

もちろん、欧州社民党代表として喋っているんだから目くじらたてることもないのかもしれませんが。

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2006年4月11日 (火)

フランス政府CPE撤回

さて、既に新聞、テレビ等でさんざん報道されていることですが、フランス政府が遂にCPE(26歳以下の若者は採用後2年間は解雇自由という契約)の案を撤回しました。この間の学生や労組のデモやストについては山のような報道がありますから特に付け加えることはありませんが、やはり、フレクシキュリティのフレックスのところの設計というのはなかなか難しいということですかね。それにしても、CPE潰して若者の失業対策どうする気かしら。労働市場そのものが横断型で即戦力志向では、相当価格破壊するか長期間返品OKにするかしないとなかなか若者労働力というノーブランド商品をお買い上げ頂けないというのが、話の出発点だったわけですが、どっちも嫌だということになると、やっぱり買い手がつかないまま賞味期限切れの若者がどんどん増えていくわけで。

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哲学・文学の職業レリバンス

平家さんの「労働・社会問題」ブログで、大学教育の職業レリバンスをめぐって平家さんと私との間にやりとりがありました。これのもともとは、本田由紀先生のブログのコメント欄におけるやりとりです。

http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060327

この日のエントリーで、本田先生は例によって「大学の学習でどんな能力・スキルを身につければ、社会でどのように役に立つのかを、きっちりと学生に示せるか」云々という文章を引いて、大学教育の職業レリバンスの重要性というご自分のテーマを強調されていたわけですが、これに対するコメント欄において、「通りすがり」氏が「私は大学で哲学を専攻しました。その場合、「教育のレリバンス」はどのようなものになるんでしょうか?あと国文とか。」という皮肉に満ちた発言をされたのです。

私だったら、「ああそう、職業レリバンスのないお勉強をされたのねえ」といってすますところですが、まじめな本田先生はまじめすぎる反応をされてしまいます。曰く、「哲学や国文でも、たとえばその学部・学科を出られた方がどんな仕事や活動に従事しており、学んだ内容がそれらの将来にいかなる形で直接・間接に関連しうるのかを強く意識した教育を提供することはできると思うのです。それと同時に、ある分野に関するメタレベルの認識を与えることが教育において常に意識される必要があると思います。たとえば国文ならば、文学や「言葉」とは人間にとっていかなる意味をもっているのか、それを紡ぎ出す出版や編集、マスメディアの世界にはどのような意義と陥穽があるのか、といったようなことです。いずれにしても、今を生きる人間の生身の生にかかわらせることなく、ただ特定の知識を飲み込め、というスタンスで教育がなされることには問題があると思います」と。

これは「通りすがり」氏の皮肉な口調に対する対応としては、あまりにも正面から受け答えされ過ぎたとも言えますし、逆に、通りすがり氏の無遠慮なものの言い方に変に遠慮して、本来のご自分の職業レリバンス論の意義を失わせるような後退をされたのではないかという印象も受けます。

このやり取りに対して、平家さんがご自分のブログで、やや違った観点からコメントをされました。

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_6.html

ここで平家さんが言われているのは、「大学のどのような学部であっても、学生に社会人として意味のあるスキル、能力を身につける機会を提供することは可能」であり、「それは「その主張の根拠を明示して、自分の主張を明確に述べるスキル」である、「哲学など人文科学系の学部は、むしろこういう教育に向いているのではないでしょうか」ということです。

これに対して、私は話がおかしくなっているのではないかと感じました。その旨を当該エントリーへのコメント欄に次のように書き込みました。

あえて、手厳しい言い方をさせていただければ、それは問題の建て方が間違っているのではないでしょうか。ここで言われているのはあくまで「職業的レリバンス」であって、そういう「人間力」的な話ではないはずです。いや、もちろん、そういう自己主張能力的なスキルは大事ですよ、でも、そのために哲学や文学をやると言うことにはならない。それは哲学や文学のそれ自体としての意義(即自的レリバンスとでもいいますか)に対してかえって失礼な物言いでしょう。それに、おそらく、ロースクールあたりで現実の素材を使ってやった方が、もっと有効でしょう。

問題は、大学教育というものの位置づけそれ自体にあるのではないでしょうか。学校教育法を読めばわかりますが、高校も高専も、短大も、大学院ですら、「職業」という言葉が出てきますが、大学には出てこないんです。職業教育機関などではないとふんぞり返っているわけですよ、大学は。実態は圧倒的に職業人養成になっているにもかかわらず。
冷ややかに言えば、哲学や文学をやった人のごく一部に大学における雇用機会を提供するために、他の多くの人々がつきあわされているわけです、趣味としてね。いや、男女性別役割分業のもとでは、それはそれなりに有効に機能してきたとは言えます。しかし、もはやサステナブルではなくなってきた、そういうことでしょう。

特に後半はかなり舌っ足らずなので、大変誤解を招きかねない表現になっていますが、前半でいってることは明確だと思います。ただ、話が本田先生のブログから始まっただけに、私が本田先生の立場に立ってものを言っているという風に誤解されてしまった嫌いがあるようです。

平家さんは翌々日のエントリーで、

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_8.html

「私としては、問題を発展させたという意識です」と言われています。それはそうなんですよ。もとの本田先生のコメント自体が、哲学や国文にも職業レリバンスを見つけようという(どこまで本気かはわかりませんが)姿勢で書かれていますから。私としては、そういう回答の仕方自体が、「問題の建て方が間違っている」と言いたかったわけです。本田先生自身が自分の主張を裏切っているのではないか、と言っているのです。

いや、もちろん、これは「職業レリバンス」なる言葉の定義をどうするかということに最後は至りつくのです。しかし、こういう本田先生のコメントや、それを発展させた平家さんのコメントの方向性というのは、結局、職業レリバンスというものを、現実の労働市場から引き離し、何やら抽象的な「メタレベルの認識」だの、「人間にとっていかなる意味」だの、いやもちろん大いに結構ですよ、大いにおやりになればよい、私も大好きだ、趣味としてね、しかしそういう観念的な世界に持ち出すだけではないかと言いたかったわけです。

実際、本田先生のコメントや平家さんのコメントに見られるのは、まさに本田先生が「言うな!」と叫んでおられる「人間力」そのものではありませんかね。私は、実は人間力なるものはそれなりに大事だと思うし、「言うな!」とまで叫ぶ気はありませんが、少なくとも「職業レリバンス」が問題になっているまさにその場面で、そういう得体の知れない人間力まがいを提示するというのはいかがなものか、と言わざるを得ません。ご自分の主張を裏切っているというのはそういうことです。

上で申し上げたように、私は「人間力」を養うことにはそれなりの意義があるとは考えていますが、そのためにあえて大学で哲学や文学を専攻しようとしている人がいれば、そんな馬鹿なことは止めろと言いますよ。好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。

職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。

(追記)

あり得べき誤解を避けるため、平家さんのブログのコメント欄に以下のようなコメントを追加しておきました。

私は、個人的には哲学や文学は好きです。特に、哲学は大好きといってもいい。「哲学者や文学者も生かして置いた方が豊かな生活が送れる」と思っています。そして、そういう人々を生かしておくためには、「哲学や文学を教える」役割の人間を一定数社会の中に確保しておくことが重要であろうと考えています。問題は、それを”制度的に”「教えられる」側の人間の職業生涯との関係で、それをどう社会的に調整すべきかということです。
「性別役割分業の下での有効性のお話」は、そういう意味合いで申し上げたことです。

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2006年4月10日 (月)

非常勤職員雇止め判決が最高裁HPに

先月29,30日のエントリーで紹介した、非常勤職員の雇い止めに関する判決が、早速最高裁のHPにアップされていました。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20060404132201.pdf

やはり、大変注目されているようですね。

まあ、そもそもから言えば、戦前であれば民間の雇用契約だった下級公的部門労働者が、アメリカの影響で一番下まで全部公的任用による公務員になってしまったことが、もし民間雇用契約の有期契約であれば与えられたであろうはずの解雇権濫用法理の準用という保護手段を、公的任用による非常勤職員から奪ってしまう結果になっていたわけですから、まあ皮肉なものだといえば言えないことはありません。

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2006年4月 7日 (金)

ドイツの『福祉から雇用へ』の担い手

4日のエントリーで『積極的な最低生活保障の確立』(第一法規)を紹介しましたが、個人的にいうと、一番関心を持って読んだのは布川日佐史先生のドイツ編です。というのは、ドイツでは例のハルツ改革で、ワークフェアへの改革を実行し、その関係で、社会扶助(生活保護)を担当する自治体と、職業紹介を担当する連邦雇用庁の連携の仕組みをいろいろと模索してきているからです。

布川先生のパートを読むと、この仕組みをどうするかは、政治的なものも絡んでジグザグしたようですね。社会民主党は連邦雇用庁主導を方針とするのに対して、キリスト教民主・社会同盟は自治体主導が方針で、政治的な対立があったようです。

もともと、社会民主党政権のもとで、連邦雇用庁がジョブセンターを設け、そこに自治体の専門職員を受け入れて、就労可能な要扶助者に対して、労働市場への参入支援と生活支援を一手に行うという、労働行政主導型で構想されたのですが、連邦参議院で与野党逆転したため、野党の意見を入れて、連邦雇用庁と自治体(郡及び市)の双方を実施主体とし、それを「一つの手による援助」とするため、連邦雇用庁と自治体が契約によりジョブセンター内に「労働共同体」を設立し、これが生活保障と就労支援を一手に担うこととされたんですね。

また、併せて、キリスト教民主・社会同盟の強い要求で、全国に69のオプション自治体を認可し、自治体が連邦雇用庁の権限と義務を担うという実験も行われているそうです。労働共同体とどっちが効率的かを判断するんだとか。もっとも、自治体の方も、積極的な郡と消極的な市で温度差があるようです。

昨年の総選挙と、それに伴う政権交代により、近く69だけでなく全国の自治体がオプションを選択できるように法改正するらしいので、方向性としては、就労支援も含めて自治体主導という方向に行くみたいですね。

ちなみに、日本でも、2004年12月の社会保障審議会福祉部会生活保護の在り方専門調査会(ちなみに、布川先生もこのメンバーです)の報告に基づき、2005年度から生活保護受給者等就労支援事業が開始されています。実施要綱(通達)は、

http://wwwhourei.mhlw.go.jp/cgi-bin/t_docframe.cgi?MODE=tsuchi&DMODE=CONTENTS&SMODE=NORMAL&KEYWORD=&EFSNO=7430

で、事務連絡は、

http://wwwhourei.mhlw.go.jp/cgi-bin/t_docframe.cgi?MODE=tsuchi&DMODE=CONTENTS&SMODE=NORMAL&KEYWORD=&EFSNO=7426

ですが、基本的には福祉事務所主導で、職安に就労支援の要請をして、両方のコーディネーターからなるチームを設けて、ナビゲーターとか、トライアル雇用とか、訓練講座とかの支援をするということのようです。

日本では、職安を民営化せよとなどいう声の方がかまびすしいのですが、公的に必要な機能ということからすると、この福祉行政との関係こそが重要な機能でしょうね。

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2006年4月 6日 (木)

未取得年休の代わりに手当支給はダメよ

欧州司法裁判所の本日(4月6日)の判決

http://curia.eu.int/jurisp/cgi-bin/form.pl?lang=en&Submit=Submit&alldocs=alldocs&docj=docj&docop=docop&docor=docor&docjo=docjo&numaff=&datefs=&datefe=&nomusuel=&domaine=PSOC&mots=&resmax=100

オランダのFNVという労働組合とオランダ政府の争いです。要は、未取得年休を翌年手当として支給することの是非。欧州司法裁は、年休も安全衛生である、健康のための制度である、カネですまそうなんてけしからぬ、と、一刀両断。

ふむ、オランダでも年休未取得ってあるんだ。

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失業構造の変容だって?

内閣府の「今週の指標」というコラムで、失業理由から見た失業構造の変容というたいそうなタイトルの分析が載っています。

http://www5.cao.go.jp/keizai3/shihyo/2006/0403/711.html

ごく短いものですから、どこまで真剣に書かれたものなのかよくわからないところもあるのですが、要するに、若年層の「仕事に就けない理由」が最近、条件にこだわらないが仕事がないんだというマクロ経済な要因から、希望する種類・内容の仕事がないという構造的なものにかわってきたんだと、そして、ここがすごいんですが、若年失業者の探している雇用形態で、正規の職員・従業員が、平成11年から平成17年の間に、62.8%から60.4%に下がっていることから、

「若年層は雇用形態よりも、むしろ仕事の内容への「こだわり」といった要因により「希望する仕事がない」と回答する者が増加しているのではないかといった可能性も考えられる」とか、さらには、

「このように失業構造の変容の背景には、若年層を中心として、雇用形態のミスマッチというよりも、仕事の内容のミスマッチが拡大した可能性が考えられる。・・・若年層が仕事の「魅力」を感じられなくなったために拡大したのか、といった観点から、よりミクロなレベルで的確に把握することが必要となっている」

というすさまじい結論を導いています。

極めてマクロ歴史的に趨勢を見れば、若者が仕事の中味にこだわってきたから云々という社会学的分析にも一定の正しさがあるだろうなとは思いますが、この6年の「構造改革」の中で、景気が悪いからでも、正社員になりにくいからでもなく、若者の意識が変わってきたから失業構造が変わったんだなんてよく言えるなあ、というのが正直な感じです。

特にすごいのが、平成11年から平成17年の間に、正社員志向が1.4%下がり、非正社員志向が0.7%上がったことをもって、雇用形態のミスマッチじゃないんだという結論に持っていこうというところ。これって、そこまで言える数字なんでしょうかね。この間の非正規比率の上昇を考えたら、むしろ実態よりも意識において正規志向が強く残っているという印象があるのですが。

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欧州議会も労働市場開放に賛成

4月5日、欧州議会は、中東欧の新規加盟国からの労働異動への障壁を撤廃するよう求める報告を採択したようです。

http://www.europarl.eu.int/news/expert/infopress_page/048-6963-094-04-14-908-20060330IPR06869-04-04-2006-2006-false/default_en.htm

はじめから制約をしていなかったイギリス、アイルランド、スウェーデンに加え、最近、フィンランド、スペイン、ポルトガルも今回で制限廃止を決定しており、最後まで頑張るぞといっているのはドイツとオーストリアだけという状況の中で、これも一つのプレッシャーになるでしょう。

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欧州委員会がサービス指令案の修正案を提出

ここ数年来EU政治の台風の目となってきた域内市場サービス指令案ですが、去る4月4日、欧州委員会は2月の欧州議会の修正意見にほぼ沿った形で修正案を提出しました。これにより、このあとは迅速に採択に向けて審議が進んでいくことになると思われます。

http://europa.eu.int/comm/internal_market/services/services-dir/proposal_en.htm

これはまだ最終版じゃなくて暫定版だと書いてありますが、中味は変わらないでしょう。原産国原則はなくなって、サービス提供の自由になっていますし、公益サービス、特に医療・社会サービス、たとえば社会的住宅、保育、家族サービスなどが適用除外となっていますし、労働者派遣事業も対象外です。また、労働法には影響しないよということが縷々規定されています。海外派遣指令の適用の特例に関する第25条も削除されました。

なお、これと併せて、雇用社会総局サイドから、労働者海外派遣指令に関するガイダンスなる文書が公表されました。

http://www.europa.eu.int/comm/employment_social/emplweb/news/news_en.cfm?id=149

これは本指令に関する欧州司法裁判所の判例を要約したものですが、これに対してETUCは過度な単純化であると反発しているようです。

http://www.etuc.org/a/2275

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2006年4月 5日 (水)

非正規労働者の行方

本日も都内某所で某研究会、

いろいろと感じたこと、

非正規労働者が増えることで、職場の自主管理活動がどのように変容していったのか。職場レベルで仕事をどう分担し、割り振っていくかとか、どういう風に改善していくかといった、末端の労働者一人一人が何らかマネージャー的心性を分かち持って進めていく活動が。

正社員だけで活動していくということだと、非正規労働者がどんどん増えていくと、しまいには管理監督者しかいなくなってしまいかねない。それでは末端の労働者を企業にインボルブするという目的は達し得ない。しかし、非正規労働者をそういう生産性への貢献面においてフルメンバーとして扱いながら、その生産性向上の成果の分配面においてはアウトカーストとして扱うというようなことは難しいだろう。

労務の提供がすなわち顧客へのサービスの提供そのものである流通・サービス業では、おそらく何らかの形で彼らをマネジメントサイドにインクルードすることにより、提供するサービスの質の維持確保を図るという方向性を模索せざるを得まい。一方、製品というクッション越しでしか顧客と接しない製造業では、むしろそこは割り切って、作業内容をマニュアル化し、できる限り入れ替え可能にした上で、職場の正社員が品質の維持に責任を持たされるという方向か。

しかしそれでも、現場の組長クラスが、請負で働く労働者の不平不満を吸い上げ、経営側を通じて請負業者に働きかけるといったメカニズムも自成的に生じているようだ。そうでなきゃ、正社員が大変で参ってしまうということらしい。

長期的に考えれば、20世紀初頭には日本でもアメリカでもボス労働者が工場内で仕事を請け負って、自分の子分に割り振っていたわけで、それが直接雇用、直接管理の方向に進んできたのが、ここ十数年間逆転しだしたということだろう。労務コスト面では確かにメリットはあるんだろうが、間接管理であることのデメリットが今後どこまでどういう形で吹き出してくるかというのが一つのポイントかな。

少なくとも、今のクリスタルみたいなビジネスモデルが未来永劫サステイナブルとは到底思えないが、むしろアメリカのPEOみたいに、工場丸ごと請負という方向だろうか。

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海外情勢報告2004-2005

先週末の3月30日、厚生労働省が「2004~2005年 海外情勢報告」を発表したのですが、報道したマスコミはほとんどなかったようです。

http://www.mhlw.go.jp/houdou/2006/03/h0330-1.html

今回のテーマは「諸外国における若年者雇用・能力開発対策」、日本でフリーターやニートの問題として騒がれているのと共通の問題を取り扱っており、もうすこし関心を持ってみてもいいんじゃないと、嫌みの一つぐらい言いたくなるような無反応ですね。

まあ、「ニートは労働問題ではない」んだそうですから、細木数子に好き勝手言わせるのはいくらでもやるけれど、こういう地味なものには見向きもしないのかも知れない。

本体は300頁近い大冊ですが、上の新聞発表資料だけでもいくつか面白いデータがあります。この色つきグラフを見るだけで、フランスの若者の失業率がいかに高いか、ドビルパン首相がなぜ初回雇用契約を提案するに至ったかがよくわかります。逆に、日本とドイツがずっと低い方だったのは、それぞれ学校紹介システムとデュアルシステムという仕事への移行の仕組みがあったからで、それがここ数年機能が弱まってきているというのもわかります。

その下の無業者の動向は、近年ニートとして話題の人々ですが、どこの国でも20代前半で15%前後、20代後半でそれ以上が無業者(失業者を含む)であることがわかります。

一方、これは本体のグラフですが、若年就業率の1970年以来の推移を見ると、フランスが50%から20%近くまで一気に落ちてきていて、韓国がそれに近いってのが面白いですね。この韓国の若年就業率の低下は高学歴化(大学進学率の急増)のせいで、後ろの方を見ると、2004年には大学進学率が81.3%だということです。ちょっとこれはいくら何でも、という感じで、このために大学の構造改革ということで、いろんな就業支援サービスをやりはじめているとか。まあ、韓国は日本の後を追いかけてきて(いいことも悪いことも)一気に追い越していくというパターンがけっこうありますが、これも(いいか悪いかは別として)その口ですかね。

具体的な施策は本体を開くと山のように出ているのでここではパス。ただ、アプレンティスシップ(養成訓練制度と訳してありますが、言葉としては昔と同じ徒弟制です)がどこの国でも重視されているということは強調しておく必要があるでしょう。

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2006年4月 4日 (火)

再チャレンジ推進会議

ところで、少し前の記事ですが、

http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20060330AT3S3000A30032006.html

去る3月30日に官邸で「多様な機会のある社会推進会議」」(略称・再チャレンジ推進会議)の第1回会合が開かれたそうです。構造改革に伴う格差拡大の是正が目的で、リストラによる失業や事業の失敗などを経験した人向けに再就職や起業を支援する仕組みを検討するんだとか。議長を務める安倍晋三官房長官は私案を提示し、正社員と非正社員の格差是正や中途採用を後押しする方策などの検討を打ち出したとのことです。

財務、経済産業、厚生労働など関係省庁の局長級で構成。5月に中間報告をまとめ、6月に閣議決定する骨太方針2006に反映させるということですから、かなり急な話になりますね。

安倍長官の私案は正社員とパートや派遣社員などの非正社員の「均衡処遇」を明記。給与格差の縮小や、非正社員から正社員への登用などを経済界に要請することを検討する。中途採用者を雇用する企業に助成金を交付するなど再就職の機会を増やす仕組みづくりも議論するということです。

なんだか自民党も微妙にスタンスをずらし始めたような感じです。こういう感覚の良さがやっぱり長年政権を持っている理由なんでしょうね。構造改革主義の最高値を掴むのに失敗して大損こいて、じりじりと下がってきているのにますます改革の高値買いに走る某野党とはセンスが違うなというのが正直な感じ。ま、これは余談です。

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『積極的な最低生活保障の確立』

第一法規から『積極的な最低生活保障の確立-国際比較と展望-』という本が出版されました。オビの文句は「日本の最低生活保障は格差の底から抜け出すための支えとなっているか」。ここのところ、格差問題が急速に政策のアジェンダとして大きく持ち上がってきている状況に、まあある意味でピタッとはまるように出されることになりますね。

第Ⅰ部が総論で、栃本先生が書かれています。第Ⅱ部は先進各国の状況で、武川先生がイギリスを、布川先生がドイツを、大森先生がオランダを、宮寺先生がスウェーデンを、後藤先生がアメリカを担当されています。その後ろの第Ⅲ部で、私が「EUにおける貧困と社会的排除に対する対策」を書き、最後に岩名さんが比較を試みておられます。

私の担当した部分は、おそらく現在までの所、EUの社会的排除政策に関するもっとも詳しい紹介になっているのではないかと思います。仕事をする方が得になるようにするという「メイク・ワーク・ペイ」の考え方や、この2月に行われた労働市場排除者の統合に関する協議まで、わりとごく最近の動向を豊富に盛り込んでいますので、それなりにお役に立つのではないかなあ、と。

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ミュンテフェリンク副首相(労相)は産業別最低賃金がお好き?

2月20,28日、3月7日に書いたドイツの最低賃金をめぐる話題の最近の動きです。

4月2日付のフィナンシャルタイムズに「最低賃金は『多くのサービス業の雇用を破壊するだろう』」というタイトルの記事が載っていますが、これはドイツのミュンテフェリンク副首相(労相)のインタビュー記事です。前の記事では前向きとか書いてあったんですが、今度は後ろ向きで、しかもその理由がちょっと変わってきてます。

http://news.ft.com/cms/s/f7ebab0c-c293-11da-ac03-0000779e2340.html

「最低賃金を高く設定しすぎると雇用を破壊するし、低く設定しすぎると何にもならない。なお検討しなくちゃいけないが、私としては各業種ごとにそれぞれの最低賃金を設定する方がいいと思う」

要するに、製造業の賃金水準は結構高いけれども、サービス業の賃金は低いので、一律の最低賃金を(高めに)設定してしまうと、サービス業にとってまずいという話なんですが、そもそもはEUのサービス指令案からわき起こった話なんですから、難しい話ですね。

一方で、極東の某高労働コスト国では、産業別最低賃金を廃止して職種別賃金にするという案に対して、使用者側が反対してポシャってしまっていますし、なかなかどこも難しいようで。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/01/txt/s0119-3.txt

ところで、このFTの記事は、最低賃金は話のイントロだけで、彼が年金支給開始年齢を117年の歴史で初めて引き上げたとか、ドイツでは(ほかのヨーロッパ諸国と違って)若年者よりも50歳以上の高齢者の失業の方が2倍以上も深刻なんですが、それは高齢者の方がコストがかかるからだと明言し、誰も言わないけれども、そういう公務員みたいな年功制は見直さないといけないと言ったとか、失業保険の受給期間を12ヶ月から32ヶ月に延ばしたのがいけなかったんだとか、なかなか非社民的であるとほめているんですが(そういうほめられ方は彼にはうれしくないでしょうが)、一方で、先週解雇規制の緩和を差し止めたことにはこの記者は不満そうです。

全体としてやや焦点のぼけた記事ですが、なかなか面白いですよ。

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労働組合法施行60周年

日本労働研究所というところから出ている『日労研資料』という雑誌の最新号(2006年4月号)に、歌田徳一さんという方の標記のエッセイが載っています。この方は「労働問題研究者」と名乗っていらっしゃいますが、かつて長く労働省に在職され、労政畑で活躍された方です。といっても、私が入省する頃に退官されているので、全然接点はありません。

旧労組法は1945年12月に制定され、翌1946年3月に施行されていますので、確かに今年3月が施行60周年だったわけですが、歌田さんは「労組法60周年を記念しようとする動き全く見られないのは如何のものか」と不満を漏らしていますが、まあこれは本筋の話ではありません。

彼が強調するのは、「・・・こうした退潮の中で、昨年来の労働契約法制検討において、労使協議会の設置について議論されてきている。筆者は労使協議会の設置を法定するとした場合、労働組合法との間にどうバランスをとるのか、かねがね問題あり、と思っている」という点です。ここはまさに、私も大きな問題だぞと喚いてきている点であり、旧労政局が廃止されて以来、こういう労政的感覚で労働契約法制にアプローチできる人材が払底してきているんじゃないかとかねがね感じているところでもあったので、思わず我が意を得たりと思ってしまいました。

あまり世間に出回っていない雑誌ですので、もう少し引用すると、「さて、労使協議会を法定するとなるならば、その労働者代表の定義規定はどう定められるのだろうか。もし名前だけの管理職も労働者代表と認め、労使協議会の委員とするならば、あるいは労働者委員が仲間の意見を聴取したり、協議会に臨むための準備のために労働時間内活動を行ったりする場合の賃金等経費支払いをどうするかなど、労働組合法との調整を要する問題があるはずである。」といくつかの問題点を指摘しています。

私は、それとともに、労働契約法制研究会報告書では、過半数組合と労使委員会を併記する書き方になっていることからも、労使委員会に管理職の参加を認めたり、使用者からの経費援助を認めたりするのであれば(当然そうあるべきだと思いますが)、過半数組合にも同様の権利を認めないと不公平になり、組合結成に対する負のインセンティブを与えることになります(同じ機能を果たすのに、組合でなければ会社のカネで運営できるのに、組合になってしまうと自分たちの組合費だけで賄わなければならない)から、これは喫緊の問題だと思っているわけです。

そこまでは「我が意を得たり」だったのですが、その先読んでいくと思わぬ形で歴史の裏面(というほどのものでもありませんが)を覗き込むことになりました。かつて、労使関係法研究会というのがあって、1966年に報告書を提出しているんですね。これは4冊にわたる大部の報告書で、私は入省当時、国会待機時間中を利用して繰り返し読んだ記憶がありますが、その中で、管理職の参加や使用者の経費援助を受ける組合を定義から否定し、不当労働行為として禁止する法制について、憲法28条から疑問を呈し、再検討を求めていたのですね。

で、歌田さん曰く「筆者は膨大な時間と労力を費やしてまとめられた上記研究会報告に基づく労使関係法の改正を主張してきたが、全く問題とされなかった」。へえ、そういうことがあったんだ、という感じです。実は、私は昨年、国会図書館で政策形成過程についてお話しした際に、この労使関係法研究会にも触れたんですが、「労働省における研究会としては、実は1959年に設置され、60年代、70年代に膨大な報告書を出した労使関係研究会が嚆矢であるが、この時期には法改正に向けた政策文書という性格は有さなかった」と言ったんですが、それは外から見た結果論であって、行政内部では立法化論がちゃんとあったんですね。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/ndl.html

で、歌田さんはそういう話を「ある著名な労働法学者に話してみた。大いに発言してくれとは言っていたが、腰は引けていた」んだそうです。

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2006年4月 2日 (日)

就業規則変更法理の無理と道理

前に(2月16日)ここにちらと書き付けた話ですが、就業規則変更法理に関する労働契約法制研究会報告の見解について、いろいろと批判が出されています。

労働契約法制としての筋を通そうという姿勢は大変大事なものだとは思うし、契約法理から筋道たてて考えれば、就業規則変更が合理的ならいいじゃんというのはなんちゅう歪んだ考え方だ、というのも全くその通りだと思うのですが、契約法理としての筋を徹底的に貫こうとすると結局最後は変更解約告知にいっちゃうんじゃないかな、と。

就業規則という使用者が一方的にでっち上げられるような代物で集団的労働条件の変更をやるというのがおかしいというのは全くその通りだとは思うのですが、ではなぜそげなことになってしまったかというと、本来その役割を果たすべく設けられたはずの労働協約が、そういう役割を果たせないような扱いを受けてきたからではないのかと思うのです。集団的労働条件というのは、俺たちは反対しているからといって適用されないというのでは役に立ちません。大部分の労働者を組織する労働組合と労働協約を結んでも、ごく一部の労働者を組織する労働組合の組合員には適用することができないというのでは、企業側としては結局もう一度その労働協約に沿って(一方的に)就業規則を制定して労働者全員に適用しなくてはいけません。

ねじれにねじれた就業規則法理を正道に戻すというのであれば、戻す先は本来あるべき民主主義原理に基づいた集団的労働条件決定法理ではなかろうか、というのが私の考えで、その意味からすると、実は、労働契約法制研究会報告で言う過半数組合の同意があれば合理性を推定するというのは、ねじけにねじけた論理展開ではあるけれども、結果的に逆にまともなところに戻ってこようとしているんではなかろうか、と。

この辺は、本来ならもっときちんと腑分けして論じなければいけないところなのですが、とりあえず、今現在考えている大筋はそんなところです。

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