スウェーデンの雇用システム
スウェーデンというと、まあすばらしき福祉国家というイメージが中心で、雇用システムについてはあまり紹介もされないし、研究も乏しいように思われます。旧厚生からはアタッシェが行ってるけれども、旧労働のアタッシェはいないし。
ところが、最近、オックスフォード大学の労働法雑誌(Industrial Law Journal)の最新号をなにげに眺めていたら、ミア・レンマーさんという方の「経営権と被用者の就労義務:機能的柔軟性の比較考察」という論文が載っていまして、これがすごく刺激的でした。
http://ilj.oxfordjournals.org/cgi/reprint/35/1/56
これは、同じEU加盟国であるイギリス、ドイツ、スウェーデンの雇用システムを、機能的柔軟性という観点から比較分析したものです。と、いうと、すぐに、アメリカとドイツと日本について分析された荒木尚志先生の論文が想起されるでしょう。そう、まさにそういう問題意識で書かれているのです。そして、もちろん、アメリカとイギリスは、数量的柔軟性に依拠するアングロサクソンモデルを共有しているわけですから、じゃあ何?もしかして日本とスウェーデンを同じ次元に置こうと、こういう訳?と思われるでしょう。まさにその通り、スウェーデンモデルというのは日本的なんです。
まずは、スウェーデンでは使用者が被用者に対して、あれをしろ、これをしろと命じることのできる権利が極めて広範だというのです。イギリスやドイツではこれが狭い。もっとも、イギリスではクビが切りやすいので結果的に広くなるけれども、同じように労働者保護が手厚いドイツと比べると、使用者の一方的な指揮命令権、職務配分権が広く認められている。ここは確かに日本と似ていますね。
なぜそうなっているかというと、1906年の労使の合意(12月協約)で、経営権を認めたからだそうです。スウェーデンは組合組織率が大変高い国です。しかも、ここが重要ですが、労働組合自体が労使協議会機能を持っています。ドイツみたいに、労働組合とは別にベトリープスラートを設置しているんじゃなくて、使用者は組合に対して情報提供し、協議し、さらに共同決定しなければいけない。ここんところも、(組織率がもしずっと高ければ)日本モデルに近いと言えないことはないですね。というか、労基法をはじめとする過半数組合法制というのは、実はそういうモデルを念頭に置いていたんじゃないかと思います。実際は組織率が激落して、組合なき広範な労務指揮権という姿が広がってしまいましたけど。
イギリスやドイツでは、個別雇用契約が規制されるが、スウェーデンでは集団的労使関係が優先するので、個別契約の解釈じゃなくって、労働協約の問題になってしまうようなのですね。で、その結果、この労働者がこの職務を行う義務があるかどうかを個別契約の問題として議論するなんてことはなくって、要は、その労働協約が適用される限り、およそその企業の事業である限り、労働者の就労義務は広がっていく。ホワイトカラー職務であろうがブルーカラー職務であろうが、ということは、これって、ほとんど、日本の就業規則法理じゃありませんか?どこが違う?一方は組合とのアグリーメントだけど、他方はそうじゃないというところだけ。
こういう経営者の広範な労務指揮権が、そしてこれに対応する被用者の広範な就労義務が、雇用を維持しつつ変化に対応できる機能的柔軟性をスウェーデンに提供しているんだというのが彼女の結論なのですが、うううーっ、スウェーデン語が読めないので、これ以上彼女が言ってることをもとをたどって確認することもできないのですが、これはなかなかすごいメッセージではないんでしょうか。我々日本の労働関係者にとっては。
とりあえず、二つほど。一つは、スウェーデンといえば福祉屋さんの一手販売というのは問題だぞ、そうするとすぐに、スウェーデンはこんなにすばらしいのに日本はダメだ、イタリア並みだという話になってしまうんだけど。労働の話になっても、いやあ日本なんか話にならんくらい組合が強いんだぞ、と、まあそういう次元の話にとどまっていて、こういう深く突っ込んだ話になってこなかった。これは日本のスウェーデン研究への課題という面ですね。
もう一つ、こっちの方が私にとっては重要なのですが、日本の労働契約法制論議における就業規則法理の位置づけが、個別労使関係に引きずられすぎていて、集団的労使関係法理としての就業規則法理という側面が見失われがちなのではないか、というか、就業規則というのはアグリーメントなきアグリーメントと捉えるべきではないのか、過半数組合が不利益変更に同意したら云々というのは、そういうコンテクストで、つまり過半数組合との間の労働協約になったから当然拘束するんだという風に、逆向きから考えるべきではないのか、という話につながってきます。個別契約法理から考えたら矛盾だらけの就業規則法理を、集団法理から再構成していくと、実はスウェーデン的な世界が目の前に開けてくるかも知れないのです。
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