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パートって言うな

都内某所で意見交換、

思うに、パートとかフリーターという言葉を用いて論ずること自体が既に社会問題として重要な問題でないというコノテーションを有してしまっているのではないか。そんなことを眉を逆立てて叫んでいること自体がどうかしているんじゃないかという意味空間に陥っているんじゃないか。低賃金非正規労働者の問題としてきちんと論ずる枠組みが、まずは言葉のレベルで必要なのではないか。

確かに、パートという言葉で脳裏に浮かぶのは、亭主が会社の正社員として働いていて、それに上乗せ的に若干の収入を得ようという「主に家事」型の主婦パートだ。で、この類型の労働者は確かにキャリアから排除されている。労働世界の主流から排除されている。それがけしからん、男女性別役割分業だ、家父長制だと、いろいろ理屈は立つ。近ごろ都に流行る女性学とかジェンダー論とか、そういう社会構造自体を根本的に改造すべきだという立場からすれば、これは革命の導火線である。しかしこの導火線は全然革命に関心がない。それもそのはず、彼女らは社会的に排除されていないからだ。むしろ、主観的には社会の主流に位置している。そして、そのことはみんなが知っている。そういう中で同一労働同一賃金とかを声高に叫ぶことは、またなんやフェミがきいきいわめいとるで、という以上の反応を起こすことはない。ポリティカリーにはコレクトでなくても、ソシオロジカリーには何ら問題はなかったわけだ。

実は同じ構造はアルバイトという名で呼ばれる低賃金非正規労働者にもいえる。こっちはひどいことに、誰もそういう観点で論じてくれなかった。「主に通学」の学生が小遣い稼ぎにやってるというコノテーションが強固で、そもそも労働者であるという認識を持って貰うのに一苦労という有様。しかし、それも社会学的には同様になんら問題はなかったわけだ。彼らが卒業したらちゃんと正社員と就職していけるのならば。これは社会の主流に入る前の一エピソードにすぎない。

ある時期までの日本の雇用システムは、どうしても必要になる外部的柔軟性の受け皿となる労働者として、キャリアからの排除が社会的排除にならないような性格を有する特定のグループを選択した。パートとかアルバイトとか言う言葉は、それ自体の中に「どんなに職場で差別的な扱いをされても、そのことが彼らの社会的ポジションを下げるものではない」というコノテーションを含んでいる。そういう言葉を使って論じている限り、その磁力線から自由にはなれないだろう。

パートやアルバイトの基幹化という言葉には労働力需要側と供給側の二つの意味がありうるのではないか。供給側からすれば、それが家事や通学の片手間の仕事ではなく、それによって生計を立てざるを得ない生活における基幹化が進んできたというのが大きいのではないか。アルバイトの場合、学生アルバイトと区別してフリーターという(これ自体、勝手にふわふわしてやがる連中という強烈なコノテーションを持った言葉だが)言葉がそれを指すために用いられるようになってきたわけだが、パートの場合、130万円を超えないように仕事をセーブしている人も、時給800円で必死で働いても年収200万円までいかない人もどっちもパートはパートだ。そして、いつまでも「主に家事」のコノテーションから自由になれない。

まあ、まず名をたださんか、ってだけではあんまり意味はない。具体的にどういうはなしにつながるかというと、雇用均等児童家庭局はパート問題から手を引いた方がいいってことだな。あそこがやってると、ああまた男女平等か、共同参画か、ジェンダーか、わかったわかった、と、何がわかったのか全然わからんが、問題の深刻さが聞く人にとって全然深刻でない次元でしか受け止めて貰えない。

これは深刻な問題なのだ、なぜなら、今まであんたが考えていたような職場でキャリアから排除されていても社会の中にちゃんとポジションがあって社会的に排除されていないという風な労働者層ではなく、職場でキャリアから排除されることがすなわち社会の中で下層階級に位置づけられてしまう、社会のメインストリームから排除されるということだからだということを、もっときちんと説明する必要がある。多分、経済財政諮問会議とかはここんところがよくわかっていない。今の日本には、(これをうかつに言うとポリティカリーにコレクトじゃないといってぶん殴られるけれども)ジェンダーコンシャスネスよりもクラスコンシャスネスが必要なんだ。

クラスコンシャスといえば、日本の観念左翼のクラスコンシャスのなさが今の事態を招いたとまで言えば贔屓の引き倒しだが、それは教育界だけではない。今頃になって格差格差と鬼の首を取ったように言うんじゃないや。管理教育や社畜が悪いんじゃなかったのか。

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コメント

こんばんわ。

この記事は、興味深い指摘です。

確かに、日本では一般的には「パート」といえば、専業主婦のちょっとしたこづかいかせぎ、会社にとってはお手伝いという言外の意味がつきまとう。「フリーター」には、遊び人とか、モラトリアムの半仕事人といったニュアンスがこびりついている。

じっさいにはそれは常態化し、それゆえに自立が必要なのにできないで困っている人たちもいます。さらに道徳的にたるんでいるという目で見られて二重苦を背負うという構図があります。おかしなことに、ゆとりがあるので休んだりマイペースで働き暮らせば引きこもりかニート扱いされる。また、一生懸命働いても自立どころか半分の自立さえ難しい状態だと、働いていない、人と会っていないなどと責められる。すべての問題を女性や若者や外国人のせいにしたい人たちにとって、いい言語環境です。

ご提案のとおり、もしもパートとかフリーターとか言った言葉を使わないで話をするとなると、何と言えばいいのでしょう?

>低賃金非正規労働者のほかに、

半失業者、不安定雇用者、イタリアの活動家が使っているという「プレカリアート(不安定階級)」、ハードワーカー、低賃金細切れ労働力、商品化される労働者、貧困階級、経済的非自立グループ・・・・などなど。

>日本の観念左翼
にはクラスコンシャスが乏しいとのご指摘、理解できます。あの人たちは、階級とか階層といったものが見えていません。かなり裕福な層同士のなかだけでつきあい、タテマエ的な平等論によって実際の不平等を押し隠しています。それを社会改良か何かだと思い込んでいるのです。
パートとかフリーターに過剰にロマンティシズムを抱いた情報に接すると、「ああ、話にならないなあ」と絶望的な気分になります。

投稿: ワタリ | 2006年3月 1日 (水) 22時33分

ワタリさん、コメント有り難うございます。以前から「渡り奉公人事情」興味深く拝見しておりました。

ことばの問題は難しくて、「低賃金非正規労働者」ではマスコミが使ってくれないでしょうし、ワタリさんが挙げられたものもなかなか難しい。「ニート」とか「下流社会」とかはすぐに流行るんですけどね。

私は個人的には昔の「臨時工」「社外工」でいいじゃないかと思っているんですが、産業構造が変わってきて必ずしも「工」じゃないんで古めかしい感じがします。

「観念左翼」については、私自身ヨーロッパに行って、向こうの社民勢力や労働界が結構クラスコンシャスなのに改めて感心したということもあります。日本の左翼って、なんだか市民とか人権とか、いや人権はとても大事なんだけど、ぬくぬく育った坊ちゃんが僕には自由がない、拘束されて息苦しいんだとかわめいているのが人権だみたいなところがあって、なんだろうなって思いました。

このあたりを見事に摘出したのが、苅谷剛彦さんだったのだと思います。

投稿: hamachan | 2006年3月 2日 (木) 10時25分

縁辺労働力、不安定就労者などでもいいかもしれません。でも、直視したくない人は、使わないでしょうね。

投稿: 平家 | 2006年3月 4日 (土) 18時43分

まあ、主婦パートも学生アルバイトも、縁辺といえば縁辺だし、仕事それだけで見れば不安定就労には違いなかったわけで、しかし、かつて臨時工や社外工が多かった頃には研究対象としても盛んだった「縁辺」とか「不安定」という対象規定が消えていったのは、それが社会的には縁辺に位置する訳でもなければ、社会的地位の不安定を意味するわけでもなくなっていったからでしょう。
この辺が、日常言語をテクニカルタームとして使用する社会科学系の研究につきまとう問題なのかなあという感じです。

言葉のイメージということでいうと、「フリーター」という言葉は単に「フリー」な「アルバイター」というだけではなく、「フローター」(漂流する者)とか「プータロー」とか「風来坊」とかという音韻的共通性による暗喩的コノテーションがあるように感ぜられます。

このあたりが、ワタリさんがご自分のブログで書いておられる「不安定雇用者は自由なのか」という問いかけにもつながってくるのでしょう。ここでは、自由とはなんぞやというような哲学的な問いに取り組むだけの準備も素養もないのですが、本田先生が持ち上げておられる熊沢誠先生の御本なんかに対する、何ともいえない違和感の根源とつながってくるようにも思われるのです。

もちろん、熊沢先生は立派な労働問題研究者であり、その研究成果は何回読んでも得るところは大きいのですが、にもかかわらず、例えば、フリーターとして「使い捨てられる」ことと、正社員として「燃え尽きる」こととを同じくらい悪いこととして、同程度に避けるべきこととして描き出しておられるその点において、それはちょっと違うんじゃないのだろうかという疑念を抑えることができないのです。

あえて偽悪的に言わせて貰えれば、人はよりよいやり方で搾取「される」権利があるのではないだろうか、絶望の淵に落とされながら搾取されるのではなく、未来への希望に充ち満ちて搾取される権利があるのではないか、お前なんぞいくらでも取り替えのきく一山いくらの労務者に過ぎないと言われて搾取されるのではなく、君はかけがえのない人材だ、君がいなければ会社は動かないんだとおだてられて搾取される権利があるのではないか、その違いに鈍感であることは、労働というものの人間存在にとっての本質を取り逃しているのではないかという思いがあります。

このあたりは、例えば二村一夫先生が「人格」というキーワードで論じられていたことともつながってくるように思います。ここではこれ以上はなしを広げると収拾がつかなくなってくるので、この程度にとどめておきますが、とにかく「労働」という人間活動に真正面から取り組むということは、薄っぺらな経済理論や法理論を振り回すことを超えた人間学的な「向き合い」が必要なはずだと、私は考えています。(お前にそれができているかと言われれば、もちろん否定的に答えざるを得ませんが)

投稿: hamachan | 2006年3月 5日 (日) 15時19分

>平家さん

同意します。。
ただ、それを逆手にとって、問題を議論する議論の敷居を低くすることもできます。

>hamachan
上のコメントを書いてから、考えなおすことがありました。今はともかく、世代交代がすすむと、アルバイトやパートなどが社会的排除される状態になるかもしれない。あるいは、日本では社会的排除が隠微な形で進行しており、認知しにくいのかな? とも。

苅谷さんの議論については、当初マスコミに登場したときには、面白いと思いました。だけど、彼もまあ学者さんですから、一度フリースクーラーをやっていた自分からすれば、>観念左翼みたいなイメージなのですよ(苦笑)。それに、hanachanさんのほうからすれば、わたしも>観念左翼かも。
なお、相手が観念左翼だったとしても、人権侵害は困ると思います。
>社蓄 に人間あつかいされない家畜としての女はどうなるの? って思ってしまいます。(観念左翼は、クラスもジェンダーも分かっていません。)それに、すぐにクビにされて社蓄になる権利? さえ奪われたタイプの不安定層はどうなのか? とも。それは「ぜいたく病」に見えるんです。もちろん、過労死も過労自殺もいいわけじゃないけれど。
ある観念左翼の人が、大阪地裁でアルバイトに過労死判決が出たあとも、正社員は社畜といいはるのを見て、あきれたこともありました。その人はそういうことを言わないと、商売にならないからかもしれません。

投稿: ワタリ | 2006年3月 7日 (火) 22時16分

まあ、「観念左翼」という言葉をあんまり振り回すのはやめときましょう。「観念的」というところに力点があるのでね。実は、今日のエントリーにも書きましたが、緑系の議論って、「左翼」かどうかもよくわからない。まあ緑なんだからアカじゃないんでしょう。

社会的排除の議論も、一番外側にはホームレスみたいなのがあって、何層構造にもなっていて、内側にはちゃんと働いていてお金も稼いでいるんだけれども、その仕事にキャリア展望がなくて、賽の河原の石積みのようなデッドエンド仕事で、自分一人は何とか暮らしていけるけれども子供を作って育てていくのは無理というようなものもある。そういうある部分排除されつつある部分はなお包摂されているようなさまざまな有り様を、きちんと捉えていく必要があるんだろうなと。

投稿: hamachan | 2006年3月 8日 (水) 09時30分

ワタリさん
>>日本の観念左翼
>にはクラスコンシャスが乏しいとの
>ご指摘、理解できます。あの人たち
>は、階級とか階層といったものが見
>えていません。

70年代ぐらいまでの左翼にはまだあったんじゃないかな。

これは、観念左翼だけではなく、他の人々も同じでしょう。当の労働界自身が。一億層中流って言ってたぐらいですし。日本はもともと西欧に比べて身分差がはっきりしていなかった、という指摘もあります(「肉食の思想」より)。また、マルクス主義への反発から階級という言葉を何とかして抹殺しようとする力学も強かった。

hamachanさん
>日本の左翼って、なんだか市民とか人権とか、

高度成長-バブルで労働者が豊かになったうえ、さらにソ連崩壊、総評消滅で旧来の労働運動に基盤をおいた左翼が弱体-消滅したことが大きいのではないでしょうかね。その上に80年代後半以降の「市民運動」ブームの延長で、特に90年代以降女性問題が中心?になり、おっしゃられるような内容になったのでは。

投稿: アフターバーナー | 2006年9月15日 (金) 01時44分

トラックバックを読みつつ本田先生は、
惜しいことをしたと。話は変わりますが
雇用よりも職に拘るのは、選ばれた者に
のみに許される贅沢なんでしょうかね。
語るべき根拠はないのですが、職に拘る
こととソーシャルは繋がってる希ガス。

投稿: アフター2 | 2006年9月15日 (金) 14時57分

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上記書き込みを行なった「ワタリ」氏は、みずからのblogに「フリーターが語る」と冠しているが、「名付け」ということにこだわるなら、これも再検討の余地があるかもしれない。【そもそも「フリーター」という言葉も、「ひきこもり」と同じく蔑称として機能し得る。】 ▼以下、『EU労働法政策雑記帳』(濱口桂一郎氏)の「パートって言うな」((via 本田由紀氏))より。  思うに、パートとかフリーターという言葉を用いて論ずること自体が既に社会問題として重要な問題でないというコノテーションを有してしまっているのでは... [続きを読む]

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