今後の労働法政策について
本日都内某所で某団体の某某と意見交換。
エグゼンプションはどこまで割増を払わなくちゃいけないのかという問題として議論するべきなのに、「自律的」とか言うから変になる。多くのホワイトカラーは自律的じゃない、休みが必要。1日ごとの休息期間、1週ごとの休日、1年単位の年次休暇、この3つの休みで健康を確保すれば、あとは給料をどう決めるかの話。3休が大事。
就業規則を個別労働関係法だというからおかしくなる。あれは集団的労働条件決定システムのできそこないとみるべき。労働条件は労働者と使用者が対等の立場で決定すべきもの(労基2条)だが、就業規則に労働者代表の同意を要するとすると「労働協約の締結を法律で強制することになる」から意見聴取(90条)となった。つまり、就業規則とは労働側のアグリーメントなきアグリーメント。それを不利益変更するというのも、本来ならアグリーメントでやるべきところ。就業規則を約款みたいに考えて、一方的に変更してもいいけどその合理性は裁判所が判断するというのは、使用者対個別労働者という対等じゃない当事者間の法理でパターナリズム。労働者代表が同意すれば不利益変更の合理性を推定するというのは、理屈の建て方はねじ曲がっているけれども、結論としては集団的労使対等決定の原則に合致。ねじけにねじけた就業規則法理を使って、最終結論だけは妥当。
但しここで問題は公正代表義務。特に過半数組合が組合費を払っていない非組合員の利益を代表すべきなのか否か。代表しないというなら、過半数組合が労働者代表になる資格に疑問が生ずるし、代表するというのなら、組合費を払っている組合員に対する説明責任をどう考えるか。これは既に、高齢法に基づく継続雇用にかかる労使協定で現実化。結論、過半数組合とは単なる結社ではなく公共的機関である。組合員だけのことを考えてはいけない。パートやフリーターや管理職の利益も代表すべき。ではそのコストは組合員が負担せよと言うのか。フリーライドを認めるのか。
西欧の労使協議会では、そのコストは使用者が負担。法律に基づく公共的機関なのだから当然。日本では企業別労働組合が労使協議会の機能を担っているのだから、その部分は使用者が負担してもいいのではないか。ここで問題は労組法7条3項。経費援助は不当労働行為。このワグナー法のなごりをどうするか。世界的には労働者代表制を会社組合として忌避するアメリカシステムが異常。
ただ、これを本当に打ち出すと少数組合が激怒。集団的労使関係システムとは集団的労働条件決定システムのことのはずだが、その機能をになわ/えない団結権至上主義の組合にとっては存亡の問題。とりあえず、団結権と労働協約締結権を峻別するというところか。17条も同種の労働者とか4分の3とかじゃなく、過半数組合法制の一環に。
労組法を本当にわかって担当している人がいない。どこにもいない。過半数組合論は本当は組合法の抜本的リシャッフル、だけど現実は契約法のおまけ。
その後某機関の某と意見交換。
大上段に振りかぶると、すぐに同一労働同一賃金にせよという左翼原理主義か、解雇規制を撤廃せよという右翼原理主義になりがち。地味で現実的な政策に我慢できるかが問題。話をマクロにしたいんだったらやらない方がいい。
まず言葉が乱れている。年功制から成果主義へ?これまでのは何なのか。能力主義管理とは何なのか。賃金の上がり方が年功的だというのと賃金の決め方が年功的だというのは別。能力が年の功に伴って上がっているから賃金が上がっているのか、能力は上がっていないのに賃金が上がっているというのか。能力を何で見るのか、高さなのか、幅広さなのか。
ニコン事件のUさんの働き方を見ると、下手な正社員は裸足で逃げ出す。これだけの仕事をしていても、ニコンの人事部の記録には彼の名前はない。キャリアからの疎外。そこをどうしていくかという問題。確かに偽装請負はワル。しかし、それを若者のキャリア形成につなげていく道筋はないだろうか。公的な介入の余地はないだろうか。
まずは準B級市民としてでも、やがて正A級市民につながるルート、キャリアがつながっていく道筋をつくるのが、みみっちくつまんないようで実は現実を変える。真の理想主義者は現実主義者。
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